この注文でお急ぎ便、お届け日時指定便を無料体験
Amazonプライム無料体験について
新品:
¥1,100 税込
ポイント: 33pt  (3%)
無料配送4月14日 月曜日にお届け
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥1,100 税込
ポイント: 33pt  (3%)  詳細はこちら
無料配送4月14日 月曜日にお届け
詳細を見る
または 最も早い配送 明日 4月13日にお届け(4 時間 19 分以内にご注文の場合)
詳細を見る
残り2点(入荷予定あり) 在庫状況について
¥1,100 () 選択したオプションを含めます。 最初の月の支払いと選択されたオプションが含まれています。 詳細
価格
小計
¥1,100
小計
初期支払いの内訳
レジで表示される配送料、配送日、注文合計 (税込)。
出荷元
Amazon.co.jp
Amazon.co.jp
出荷元
Amazon.co.jp
支払い方法
お客様情報を保護しています
お客様情報を保護しています
Amazonはお客様のセキュリティとプライバシーの保護に全力で取り組んでいます。Amazonの支払いセキュリティシステムは、送信中にお客様の情報を暗号化します。お客様のクレジットカード情報を出品者と共有することはありません。また、お客様の情報を他者に販売することはありません。 詳細はこちら
¥200 税込
中古品の為、擦れ傷、薄汚れ、ヨレ、使用感(ヤケ・シミ・折れ)等がございますが、本文内は概ね良好です。▲付録やディスクなどの付属は原則記載がない場合はございません▲版違い等により商品画像と装丁が異なる場合がございます。▲ご不明な点は注文前にお問い合わせ下さいませ。万が一品切れの場合はキャンセル手続きをさせていただきます。▲通常2営業日以内の発送となります。到着は発送日より2日から5日程度となります。▲ 中古品の為、擦れ傷、薄汚れ、ヨレ、使用感(ヤケ・シミ・折れ)等がございますが、本文内は概ね良好です。▲付録やディスクなどの付属は原則記載がない場合はございません▲版違い等により商品画像と装丁が異なる場合がございます。▲ご不明な点は注文前にお問い合わせ下さいませ。万が一品切れの場合はキャンセル手続きをさせていただきます。▲通常2営業日以内の発送となります。到着は発送日より2日から5日程度となります。▲ 一部を表示
配送料 ¥257 4月16日-17日にお届け(9 時間 19 分以内にご注文の場合)
詳細を見る
通常2~3日以内に発送します。 在庫状況について
¥1,100 () 選択したオプションを含めます。 最初の月の支払いと選択されたオプションが含まれています。 詳細
価格
小計
¥1,100
小計
初期支払いの内訳
レジで表示される配送料、配送日、注文合計 (税込)。
この商品は、ハードオフ関東ECセンター が販売、発送します。
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

破壊から再生へ 単行本(ソフトカバー) – 2020/12/4

5つ星のうち4.2 20個の評価

{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,100","priceAmount":1100.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,100","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"d5YkmxEfCDIBeEkyNjXVrkTEnG2AJtgw3sky8lw9YCeL59LvC2BE5dzqragKfccZq2BN%2BgP%2FVUBKsQQH%2F2Ztr%2F7S7xwxBD6puk3S6rOVVkKzAcihzB9TFR%2BiStdgHEupQ%2FBCruGCGCA%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥200","priceAmount":200.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"200","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"d5YkmxEfCDIBeEkyNjXVrkTEnG2AJtgwnwxED80EeYE%2Bptd1pXUPWx4PY9TwM0sMDJNeYGwZrBaqZ25Nsp6DyCkaAU%2BRA7MHT2hJrA%2B%2BCPITBzUJEm%2BXGWh9dG1MKpUDiHhpDtbfKenm1HxjwQAZ0cLg%2BO7VbEcdImMkdAp9OhfHysMPevPQzw%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}

購入オプションとあわせ買い

過去の闇の深さゆえ、今この世界は輝いている。
静謐の内に脈打つ魂の鼓動を映す自叙伝的エッセイ。

過去に囚われたまま、彷徨い続けた日々。
私はあらゆるものを捨ててきた。故郷を捨てた。家族を捨てた。
そうして手にいれたのは自由。それは圧倒的に孤独な世界。
それでも好きなもの達に囲まれた、ここは私の楽園なのだ。
私は書き続ける。私を受け入れてくれる、誰かに届くように。
破壊から再生へ。溢れる思いを書き綴った人生の記録。

商品の説明

著者について

■ 橋岡 蓮/ハシオカ レン
1979年(昭和54年)生まれ。北海道出身。
24歳の時単身で北海道を出て富山県へ行き、自動車部品工場で5年間肉体労働をする。
30代に入り競艇場やゴミ処理場で働きながら執筆活動を始める。
現在埼玉県在住。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 幻冬舎 (2020/12/4)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2020/12/4
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本(ソフトカバー) ‏ : ‎ 196ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4344931831
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4344931831
  • カスタマーレビュー:
    5つ星のうち4.2 20個の評価

カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
20グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう
著者の生き様を自己の「学び」へと「転化する」ことこそ肝要
星5つ中5つ
著者の生き様を自己の「学び」へと「転化する」ことこそ肝要
 冒頭に、Amazonさんへ誤解を恐れず敢えて苦言を呈する。真摯に受け止めて下され。 以前、肖像権の問題で、私がカスタマサポートセンターの責任者を論破し、挙句の果て、エグゼクティブディレクターと中国人の社長様まで引っ張り出した件について、まだ遺恨をお持ちですか? 私がレビューを書いてもそれが反映されないのは、私に対する当て付けですかな? 「お客様を最も大切にする企業」を掲げるのであれば、もう少し懐の広いところをみせなされ。 まあ、よかろう。これもまた人生。 さて、それではレビューを書くとしよう。 大学院で心理学を学んだ者として、「カウンセリング」の視座から考えてみたい。 視座とは視点ではない。視座は視点の上位概念になる。視点のフレームにこの本は収まらない。 ①他者と著者への敬意とは  私は公的な機関で5年間、カウンセリングに携わってきた。不登校や自傷行為、家庭内暴力などの子どもたちのみならず、鑑別所から家庭裁判所を経由してくる子供たちのカウンセリングにも携わってきた。勿論、様々な保護者たちにも。  計数百時間にも及ぶカウンセリングの中で大切なことをたくさん学んだ。その一つが、他者への敬意である。 何十時間もかけてカウンセリングを行ったとしても、クライアントのことを理解することができたという感覚は、単なる思い上がりに過ぎないということだ。何十時間かけてクライアントと対話をしても、「この人にはまだ、言葉に表すことのできない苦しみや悲しみ、深い心の傷を抱えているに違いない。」そう推し量ることこそが「他者への敬意」であると確信する。その推し量る心情があってこそ、クライアントに対して、より適切に対応することができるのだ。  この本の著者である「橋岡蓮先生」に対しても同じ思いを抱く。確かに筆者の「物語」は、決して順風満帆なものとは程遠く、苦悩の海を溺れながら泳いでいるような人生を経験している。苦悩の海を泳いでいる最中は、著者でさえ苦悩の海の広さなど分かるはずがない。  著書の文脈について、ある種の「違和感を感じる」と書かれているレビューも読んだが、当たり前の話だ。あのような苛烈な経験をしてきた著者が、いつまでも目の前にあの苛烈な経験とその中で味わった苦悩の深淵を常に想起するようなら既に人格に異常をきたしている。私から言わせればあの筆致は正常な反応だ。あのような苛烈な経験を常に目の前にぶらさげて生きてゆけるはずがない。時折、著者の脳裏をかすめるものが深層心理の中に潜む「闇」なのだ。著者の橋岡蓮先生の人格特性の中には、「健気さ」がある。「不健全な世界」から「健全な世界」へ歩みたいという想いがある。著書の文脈のみで推し量ってはいけない。ちゃんと行間を読まねばそういったことは理解できないだろう。  加えて、他者に対して敬意を抱くことを肝心であるとする私にとって、著者の橋岡蓮先生に対する敬意もまた然りである。何度も何度も繰り返してこの本を読んでいるが、だからといって橋岡先生の味わわれてきたことや思いや考えを理解できたと捉えるのは、単なる思い上がりに過ぎない。  まだ、筆者には、言葉に表出することのできない悲しみや苦悩、心の叫び、深い心の傷があるにちがいないと推し量ることが筆者に対する敬意というものだ。私は、そのような経緯を抱かぬ者が容易く著者の書いた内容を批判するのは早計だと言いたい。批判するのであれば、それ以上のものを自分で本として出版すればいい。私は思い上がった人間にだけはなろうと思わない。他者であれ著者であれ、「人」である。「人」に対する敬意を知らぬ者が筆致や文体ごときで偉そうなことをいってはならぬ。これから必ず筆者は、第二弾、第三弾の自叙伝を執筆するであろう。私は、その自叙伝に最大の期待を寄せている。筆者はまだパンドラの箱を開けれはおらぬ。それでいいではないか。パンドラの箱を開けるには、それ相応の必然性を伴う。このことを弁えず、批評してはならない。 ②共感的理解の本質からみえるもの  著者が執筆した文章と自分の感覚は違って当たり前の話である。自分本位で文章を読んではならない。あくまでも共感的に読むのが基本である。共感的理解とは、著者の心情や筆致や文体や文脈全てについて十全に理解することでないのだ。自分のことも十全に分からない自分が、ましてや他者の心情を十全に理解することなどできようはずもない。  共感的理解の本質は、著者の心情を十全に理解することに非ず。著者が経験したことと自分が経験したことには、必ず共通項がある。弁図で言う共通項である。例えば、いじめられた子どもが苦しくて食事が摂れなかったとする。そういう経験は自分にもあるはずである。何かしらの悩みを抱え、食事が喉を通らなかった経験が必ずある。その経験の窓から、子どもの苦悩の景色をみつめることが共感的理解なのだ。また、両親の離婚の問題で一週間も眠れないという主訴をもった子供がいた。そういう不眠の経験は自分にも必ずあるはずである。一週間という縛りに囚われてはいけない。何かしらの悩みを抱え2,3日眠れなかったという自分の経験の窓を通して、その子どもの苦しみを推し量るのである。それが共感的理解の本質というものだ。  つまり、私が言いたいのは、著者である橋岡蓮先生の「破壊から再生へ」を読む際に、念頭に据えなければならないものは、「共感的理解にどこまで迫れるか」という意識をもつことである。そのためには、自分が経験したり、味わわされたりした心の窓を通して、著者の心情を推し量ることに努めることである。これに極まる。 ③「学び」への「転化」こそが読書の醍醐味である。  ふた昔ほど前、盲目の少女のバイオリンのコンサートを聴きに行ったことがある。懸命に奏でるバイオリンの音色。瞳を閉じると、瞳に熱いものが込み上げてきた。そこまではいい。その後が問題なのだ。  コンサートが終わった瞬間に拍手喝采。そして、周囲の大人たちから出される言葉に愕然とさせられた。 「目も見えないのに偉いわね。私も頑張らなくっちゃ。」 「盲目なのに凄いよな。お前も見習って勉強を頑張れよ。」等々。 「アホか!」私は大声で叫びたくなった。彼女は、聴衆の発奮材料ではない。彼女の奏でるバイオリンの音色の美しさをさておいて、彼女の存在を、自分の発奮材料に仕立て上げる無知な大人たち。  そうではない、彼女はただ純粋に自分の奏でるバイオリンの音色を聴いて欲しかっただけなのだ。彼女が奏でる音色に酔いしれてほしかっただけなのだ。決して彼女の演奏を発奮材料にしてはならない。彼女の演奏を「学び」へと「転化する」とは、彼女の生き様そのものを、自分の今後の人生に生かす学びへと転化しなければ意味がないのだ。  ゆえに、橋岡蓮先生の著書「破壊から再生へ」を読み、「じゃあ自分は、今後の自分の人生においてどのようなことを著書から学び、それをどのような状況で取り入れ、活かしていこうか」という転化の発想を持たなければ、この貴重な本を読む意味がないではないか。私自身、最も琴線に触れたのは、筆者の人格特性なのか分からないが、筆者の「健気さ」である。私は、これまでの人生がありまりにもネガティブ過ぎちまったから。 でも私は願う。私も橋岡蓮先生の、その「健気さ」をもつ人間になりたいと・・・。                                            木工職人 拝
フィードバックをお寄せいただきありがとうございます
申し訳ありませんが、エラーが発生しました
申し訳ありませんが、レビューを読み込めませんでした

上位レビュー、対象国: 日本

  • 2021年5月19日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
     冒頭に、Amazonさんへ誤解を恐れず敢えて苦言を呈する。真摯に受け止めて下され。
    以前、肖像権の問題で、私がカスタマサポートセンターの責任者を論破し、挙句の果て、エグゼクティブディレクターと中国人の社長様まで引っ張り出した件について、まだ遺恨をお持ちですか?
    私がレビューを書いてもそれが反映されないのは、私に対する当て付けですかな?
    「お客様を最も大切にする企業」を掲げるのであれば、もう少し懐の広いところをみせなされ。
    まあ、よかろう。これもまた人生。

    さて、それではレビューを書くとしよう。
    大学院で心理学を学んだ者として、「カウンセリング」の視座から考えてみたい。
    視座とは視点ではない。視座は視点の上位概念になる。視点のフレームにこの本は収まらない。

    ①他者と著者への敬意とは
     私は公的な機関で5年間、カウンセリングに携わってきた。不登校や自傷行為、家庭内暴力などの子どもたちのみならず、鑑別所から家庭裁判所を経由してくる子供たちのカウンセリングにも携わってきた。勿論、様々な保護者たちにも。
     計数百時間にも及ぶカウンセリングの中で大切なことをたくさん学んだ。その一つが、他者への敬意である。
    何十時間もかけてカウンセリングを行ったとしても、クライアントのことを理解することができたという感覚は、単なる思い上がりに過ぎないということだ。何十時間かけてクライアントと対話をしても、「この人にはまだ、言葉に表すことのできない苦しみや悲しみ、深い心の傷を抱えているに違いない。」そう推し量ることこそが「他者への敬意」であると確信する。その推し量る心情があってこそ、クライアントに対して、より適切に対応することができるのだ。

     この本の著者である「橋岡蓮先生」に対しても同じ思いを抱く。確かに筆者の「物語」は、決して順風満帆なものとは程遠く、苦悩の海を溺れながら泳いでいるような人生を経験している。苦悩の海を泳いでいる最中は、著者でさえ苦悩の海の広さなど分かるはずがない。
     著書の文脈について、ある種の「違和感を感じる」と書かれているレビューも読んだが、当たり前の話だ。あのような苛烈な経験をしてきた著者が、いつまでも目の前にあの苛烈な経験とその中で味わった苦悩の深淵を常に想起するようなら既に人格に異常をきたしている。私から言わせればあの筆致は正常な反応だ。あのような苛烈な経験を常に目の前にぶらさげて生きてゆけるはずがない。時折、著者の脳裏をかすめるものが深層心理の中に潜む「闇」なのだ。著者の橋岡蓮先生の人格特性の中には、「健気さ」がある。「不健全な世界」から「健全な世界」へ歩みたいという想いがある。著書の文脈のみで推し量ってはいけない。ちゃんと行間を読まねばそういったことは理解できないだろう。

     加えて、他者に対して敬意を抱くことを肝心であるとする私にとって、著者の橋岡蓮先生に対する敬意もまた然りである。何度も何度も繰り返してこの本を読んでいるが、だからといって橋岡先生の味わわれてきたことや思いや考えを理解できたと捉えるのは、単なる思い上がりに過ぎない。
     まだ、筆者には、言葉に表出することのできない悲しみや苦悩、心の叫び、深い心の傷があるにちがいないと推し量ることが筆者に対する敬意というものだ。私は、そのような経緯を抱かぬ者が容易く著者の書いた内容を批判するのは早計だと言いたい。批判するのであれば、それ以上のものを自分で本として出版すればいい。私は思い上がった人間にだけはなろうと思わない。他者であれ著者であれ、「人」である。「人」に対する敬意を知らぬ者が筆致や文体ごときで偉そうなことをいってはならぬ。これから必ず筆者は、第二弾、第三弾の自叙伝を執筆するであろう。私は、その自叙伝に最大の期待を寄せている。筆者はまだパンドラの箱を開けれはおらぬ。それでいいではないか。パンドラの箱を開けるには、それ相応の必然性を伴う。このことを弁えず、批評してはならない。

    ②共感的理解の本質からみえるもの
     著者が執筆した文章と自分の感覚は違って当たり前の話である。自分本位で文章を読んではならない。あくまでも共感的に読むのが基本である。共感的理解とは、著者の心情や筆致や文体や文脈全てについて十全に理解することでないのだ。自分のことも十全に分からない自分が、ましてや他者の心情を十全に理解することなどできようはずもない。

     共感的理解の本質は、著者の心情を十全に理解することに非ず。著者が経験したことと自分が経験したことには、必ず共通項がある。弁図で言う共通項である。例えば、いじめられた子どもが苦しくて食事が摂れなかったとする。そういう経験は自分にもあるはずである。何かしらの悩みを抱え、食事が喉を通らなかった経験が必ずある。その経験の窓から、子どもの苦悩の景色をみつめることが共感的理解なのだ。また、両親の離婚の問題で一週間も眠れないという主訴をもった子供がいた。そういう不眠の経験は自分にも必ずあるはずである。一週間という縛りに囚われてはいけない。何かしらの悩みを抱え2,3日眠れなかったという自分の経験の窓を通して、その子どもの苦しみを推し量るのである。それが共感的理解の本質というものだ。

     つまり、私が言いたいのは、著者である橋岡蓮先生の「破壊から再生へ」を読む際に、念頭に据えなければならないものは、「共感的理解にどこまで迫れるか」という意識をもつことである。そのためには、自分が経験したり、味わわされたりした心の窓を通して、著者の心情を推し量ることに努めることである。これに極まる。

    ③「学び」への「転化」こそが読書の醍醐味である。
     ふた昔ほど前、盲目の少女のバイオリンのコンサートを聴きに行ったことがある。懸命に奏でるバイオリンの音色。瞳を閉じると、瞳に熱いものが込み上げてきた。そこまではいい。その後が問題なのだ。
     コンサートが終わった瞬間に拍手喝采。そして、周囲の大人たちから出される言葉に愕然とさせられた。

    「目も見えないのに偉いわね。私も頑張らなくっちゃ。」
    「盲目なのに凄いよな。お前も見習って勉強を頑張れよ。」等々。

    「アホか!」私は大声で叫びたくなった。彼女は、聴衆の発奮材料ではない。彼女の奏でるバイオリンの音色の美しさをさておいて、彼女の存在を、自分の発奮材料に仕立て上げる無知な大人たち。
     そうではない、彼女はただ純粋に自分の奏でるバイオリンの音色を聴いて欲しかっただけなのだ。彼女が奏でる音色に酔いしれてほしかっただけなのだ。決して彼女の演奏を発奮材料にしてはならない。彼女の演奏を「学び」へと「転化する」とは、彼女の生き様そのものを、自分の今後の人生に生かす学びへと転化しなければ意味がないのだ。
     ゆえに、橋岡蓮先生の著書「破壊から再生へ」を読み、「じゃあ自分は、今後の自分の人生においてどのようなことを著書から学び、それをどのような状況で取り入れ、活かしていこうか」という転化の発想を持たなければ、この貴重な本を読む意味がないではないか。私自身、最も琴線に触れたのは、筆者の人格特性なのか分からないが、筆者の「健気さ」である。私は、これまでの人生がありまりにもネガティブ過ぎちまったから。
    でも私は願う。私も橋岡蓮先生の、その「健気さ」をもつ人間になりたいと・・・。

                                               木工職人 拝
    カスタマー画像
    5つ星のうち5.0
    著者の生き様を自己の「学び」へと「転化する」ことこそ肝要

    2021年5月19日に日本でレビュー済み
     冒頭に、Amazonさんへ誤解を恐れず敢えて苦言を呈する。真摯に受け止めて下され。
    以前、肖像権の問題で、私がカスタマサポートセンターの責任者を論破し、挙句の果て、エグゼクティブディレクターと中国人の社長様まで引っ張り出した件について、まだ遺恨をお持ちですか?
    私がレビューを書いてもそれが反映されないのは、私に対する当て付けですかな?
    「お客様を最も大切にする企業」を掲げるのであれば、もう少し懐の広いところをみせなされ。
    まあ、よかろう。これもまた人生。

    さて、それではレビューを書くとしよう。
    大学院で心理学を学んだ者として、「カウンセリング」の視座から考えてみたい。
    視座とは視点ではない。視座は視点の上位概念になる。視点のフレームにこの本は収まらない。

    ①他者と著者への敬意とは
     私は公的な機関で5年間、カウンセリングに携わってきた。不登校や自傷行為、家庭内暴力などの子どもたちのみならず、鑑別所から家庭裁判所を経由してくる子供たちのカウンセリングにも携わってきた。勿論、様々な保護者たちにも。
     計数百時間にも及ぶカウンセリングの中で大切なことをたくさん学んだ。その一つが、他者への敬意である。
    何十時間もかけてカウンセリングを行ったとしても、クライアントのことを理解することができたという感覚は、単なる思い上がりに過ぎないということだ。何十時間かけてクライアントと対話をしても、「この人にはまだ、言葉に表すことのできない苦しみや悲しみ、深い心の傷を抱えているに違いない。」そう推し量ることこそが「他者への敬意」であると確信する。その推し量る心情があってこそ、クライアントに対して、より適切に対応することができるのだ。

     この本の著者である「橋岡蓮先生」に対しても同じ思いを抱く。確かに筆者の「物語」は、決して順風満帆なものとは程遠く、苦悩の海を溺れながら泳いでいるような人生を経験している。苦悩の海を泳いでいる最中は、著者でさえ苦悩の海の広さなど分かるはずがない。
     著書の文脈について、ある種の「違和感を感じる」と書かれているレビューも読んだが、当たり前の話だ。あのような苛烈な経験をしてきた著者が、いつまでも目の前にあの苛烈な経験とその中で味わった苦悩の深淵を常に想起するようなら既に人格に異常をきたしている。私から言わせればあの筆致は正常な反応だ。あのような苛烈な経験を常に目の前にぶらさげて生きてゆけるはずがない。時折、著者の脳裏をかすめるものが深層心理の中に潜む「闇」なのだ。著者の橋岡蓮先生の人格特性の中には、「健気さ」がある。「不健全な世界」から「健全な世界」へ歩みたいという想いがある。著書の文脈のみで推し量ってはいけない。ちゃんと行間を読まねばそういったことは理解できないだろう。

     加えて、他者に対して敬意を抱くことを肝心であるとする私にとって、著者の橋岡蓮先生に対する敬意もまた然りである。何度も何度も繰り返してこの本を読んでいるが、だからといって橋岡先生の味わわれてきたことや思いや考えを理解できたと捉えるのは、単なる思い上がりに過ぎない。
     まだ、筆者には、言葉に表出することのできない悲しみや苦悩、心の叫び、深い心の傷があるにちがいないと推し量ることが筆者に対する敬意というものだ。私は、そのような経緯を抱かぬ者が容易く著者の書いた内容を批判するのは早計だと言いたい。批判するのであれば、それ以上のものを自分で本として出版すればいい。私は思い上がった人間にだけはなろうと思わない。他者であれ著者であれ、「人」である。「人」に対する敬意を知らぬ者が筆致や文体ごときで偉そうなことをいってはならぬ。これから必ず筆者は、第二弾、第三弾の自叙伝を執筆するであろう。私は、その自叙伝に最大の期待を寄せている。筆者はまだパンドラの箱を開けれはおらぬ。それでいいではないか。パンドラの箱を開けるには、それ相応の必然性を伴う。このことを弁えず、批評してはならない。

    ②共感的理解の本質からみえるもの
     著者が執筆した文章と自分の感覚は違って当たり前の話である。自分本位で文章を読んではならない。あくまでも共感的に読むのが基本である。共感的理解とは、著者の心情や筆致や文体や文脈全てについて十全に理解することでないのだ。自分のことも十全に分からない自分が、ましてや他者の心情を十全に理解することなどできようはずもない。

     共感的理解の本質は、著者の心情を十全に理解することに非ず。著者が経験したことと自分が経験したことには、必ず共通項がある。弁図で言う共通項である。例えば、いじめられた子どもが苦しくて食事が摂れなかったとする。そういう経験は自分にもあるはずである。何かしらの悩みを抱え、食事が喉を通らなかった経験が必ずある。その経験の窓から、子どもの苦悩の景色をみつめることが共感的理解なのだ。また、両親の離婚の問題で一週間も眠れないという主訴をもった子供がいた。そういう不眠の経験は自分にも必ずあるはずである。一週間という縛りに囚われてはいけない。何かしらの悩みを抱え2,3日眠れなかったという自分の経験の窓を通して、その子どもの苦しみを推し量るのである。それが共感的理解の本質というものだ。

     つまり、私が言いたいのは、著者である橋岡蓮先生の「破壊から再生へ」を読む際に、念頭に据えなければならないものは、「共感的理解にどこまで迫れるか」という意識をもつことである。そのためには、自分が経験したり、味わわされたりした心の窓を通して、著者の心情を推し量ることに努めることである。これに極まる。

    ③「学び」への「転化」こそが読書の醍醐味である。
     ふた昔ほど前、盲目の少女のバイオリンのコンサートを聴きに行ったことがある。懸命に奏でるバイオリンの音色。瞳を閉じると、瞳に熱いものが込み上げてきた。そこまではいい。その後が問題なのだ。
     コンサートが終わった瞬間に拍手喝采。そして、周囲の大人たちから出される言葉に愕然とさせられた。

    「目も見えないのに偉いわね。私も頑張らなくっちゃ。」
    「盲目なのに凄いよな。お前も見習って勉強を頑張れよ。」等々。

    「アホか!」私は大声で叫びたくなった。彼女は、聴衆の発奮材料ではない。彼女の奏でるバイオリンの音色の美しさをさておいて、彼女の存在を、自分の発奮材料に仕立て上げる無知な大人たち。
     そうではない、彼女はただ純粋に自分の奏でるバイオリンの音色を聴いて欲しかっただけなのだ。彼女が奏でる音色に酔いしれてほしかっただけなのだ。決して彼女の演奏を発奮材料にしてはならない。彼女の演奏を「学び」へと「転化する」とは、彼女の生き様そのものを、自分の今後の人生に生かす学びへと転化しなければ意味がないのだ。
     ゆえに、橋岡蓮先生の著書「破壊から再生へ」を読み、「じゃあ自分は、今後の自分の人生においてどのようなことを著書から学び、それをどのような状況で取り入れ、活かしていこうか」という転化の発想を持たなければ、この貴重な本を読む意味がないではないか。私自身、最も琴線に触れたのは、筆者の人格特性なのか分からないが、筆者の「健気さ」である。私は、これまでの人生がありまりにもネガティブ過ぎちまったから。
    でも私は願う。私も橋岡蓮先生の、その「健気さ」をもつ人間になりたいと・・・。

                                               木工職人 拝
    このレビューの画像
    カスタマー画像カスタマー画像カスタマー画像カスタマー画像
    15人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年4月28日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    初見で、とても読みやすい文章だなと思った。
    そして頁を進める毎に、奇妙な読後感が蓄積されていく。
     壮絶と言って差し支えないだろう過去の回想はまず目が行く処だけれど、これに対置される現在形の描きぶりの方に寧ろ引っ掛かりを感じた。確かに大事件と思しき事実も記されていたりするが、それらが文中の「私」に、殊更淡々と捉えられている様に読めたのだ。ある種の諦観や悟りめいた気付きで、辺り(読者である僕も含めて)に過剰な波紋を立てることなく解消されているような。
    「私」は悟り切った人物なのか?そんな筈はない。「輝く草原」を求めて今も迷う存在だ、旨自分で書いている。
    一見するだけでは、怒りや憤り、悲しみがもたらす激しいバイブレーション、みたいなものが感じられない。例えば、筆者が好きだという「ロックンロール」幾つかのアイコンも提示されているのに、この作品からは具体的な音として、殆ど聴こえてこない。
    といって、面白くない訳ではない。何とも言えない、あまり味わったことのない感覚は確かにある。

    一つの手がかりになるのが「東京」「富山」という二つの大きな章立てだろう。同じような筆致だけれど、波風の少ない文章の奥底から、前者にはひりつく微細動が感知され、後者には受け入れがたいものさえ受け入れた―自分が空虚な存在と認識したとしても―受け入れたが故の、まろみというか安寧の手触りが、これも微かだけどある。

    「私」にとっては書くことが一つの終着点、目的なのだろう。だからその時点では既に思考や表現は整えられている。しかしその、日常生活から書き起こすまでの、恐らく莫大な熱量を、この作品の表皮から最奥への手触りで感じることができる。
    そして、「私」の様々な感情、過去と現在の交錯、そして出来事は、その表皮に細かなひび割れを紡ぎ出す。ひび割れの軌跡と漏れ出す熱や響きが、この作品唯一無二のオリジナリティなのだ、と今は思う。

    面白い読書体験でした。

    個人的には「もったいない精神」の節、それよ!と膝を打ちました。
    4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年2月10日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    生きる勇気を与える自叙伝
    4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年6月12日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    この書物を読むことは、彼女の涙を読むことに他ならない。「破壊から再生へ」を真に読むことは、彼女の高貴な魂と触れ合うことに尽きる。その高貴な魂の交友だけを信じて僕はこの書物を読み込んだ。そして彼女の「魂の雄叫び」に、私は心を震わせられたのだ。

    たったひとりの女性は全てを捨てた。故郷を捨て、家族を捨てた。愛を求めつつも、愛を捨てた。だが、なにもかも捨て切った彼女だからこそ、唯一手にした絶対価値があった。

    それが「書く」ことだった。

    それは空白となった魂に、恩寵が吹き込まれる瞬間だった。書くことは孤独と苦悩から彼女を救った。その孤独は「高貴」に昇華され、ひとつの存在が「芸術」となって現れた。不幸にも「美しい」不幸があるものだ。

    そして彼女は捨て切ったはずの愛を、実は「書く」ことで求めていた。彼女にとって「書く」ことは、愛を完成させるための手段に過ぎないのだ。いつしか憧れた愛の世界へ到達するために、今日も彼女は書き続けているのかもしれない。
    4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年10月19日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    著者の自伝誌的なストーリーであるが、決して波瀾万丈ではなかった。過去のトラウマや人生経験を客観的に見事に描写している。
    自分とは全く異なるストーリーを歩んできたが、今までの放浪生活を赤裸々に描いた作品であり、様々な出会いと別れがあり、その日暮らしを経験した著者にしか知り得ない風景が読み取れる。
    カスタマー画像
    5つ星のうち5.0
    著者の体験したことが詳細に描かれている

    2021年10月19日に日本でレビュー済み
    著者の自伝誌的なストーリーであるが、決して波瀾万丈ではなかった。過去のトラウマや人生経験を客観的に見事に描写している。
    自分とは全く異なるストーリーを歩んできたが、今までの放浪生活を赤裸々に描いた作品であり、様々な出会いと別れがあり、その日暮らしを経験した著者にしか知り得ない風景が読み取れる。
    このレビューの画像
    カスタマー画像
    3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年1月11日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    今、何かに悩んでいる方に、オススメの1冊だと思います。
    一歩前に…背中を押してもらえる様な、生きる勇気をもらえる本だと思います。
    是非、一読を!
    4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2021年10月10日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    息をつめるように、一気に読ませていただきました。著者の中にある孤独は、凡人の私たちには余りにも痛く、火傷のように熱い。だから風を受けて生身を晒し続けて生きるのだ。共感したと簡単には口にできない著者の中に有る風景はとても尊い。それは彼女が何としてでも体を張って守ろうとした風景だ。私たちは生きるためにそれを味わわなくてはならない。人とはなんと残酷で、優しいのであろう。
    1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート
  • 2022年6月28日に日本でレビュー済み
    この本は著者のありのままの姿が書かれているように感じます。世の中のほとんどの書物が、いかにウケるか、商業的に寄っている中で貴重な存在です。

    多くの人が打ちのめされる様な経験が、びっくりするくらい冷静に綴られています。
    淡々と書かれているように見えますが、文章の端々から熱いものが伝わってきます。

    私は何度と胸が締め付けられるような気持ちになりました。

    「自由、つまり圧倒的に孤独な世界を手に入れるまでどれだけ苦労したことか。それを忘れなければ、今あるこの世界を価値ある素晴らしいものだと思うことができるはずだ。」

    どんな過去であっても徹底的に、痛みも忘れずに見つめる。

    そうすることで、本当の意味で自分の今見ている世界が輝くのだと、教えてくれる一冊です。
    1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
    レポート