作品紹介
三菱重工爆破事件
宗像 善樹
「おいよっか、若っかしを助けんか」
「オイのことより、若っかもんば先に助けてやんしゃい」
昭和四十九年(一九七四年)八月三十日、金曜日、午後零時四十五分。
「東アジア反日武装戦線『狼』」と名乗る赤軍派が
東京・丸の内の三菱重工ビルを爆破。
日本最大の無差別爆弾テロ。
死者八名、重軽傷者三八五名。
現場に遭遇した元三菱重工社員の著者が、
事件を克明に描き出したノンフィクション小説であり、
事件で命を落とした同僚におくるレクイエム。
プロフィール
宗像 善樹
昭和18(1943)年1月 埼玉県さいたま市(旧浦和市)生まれ
昭和43(1968)年3月 早稲田大学大学院修士課程修了
昭和45(1970)年4月 三菱重工株式会社入社
平成17(2005)年6月 関東三菱重興産株式会社退社
所属団体
咸臨丸子孫の会会員
心美人開運村『日本文芸学院』会員
幕末史研究委員会会員
NPO法人江戸連会員
長崎楽会会員
書籍に込めた想い
かつて、株主総会後の7月に入ると、会社の先輩の役員OB氏から電話がくることがよくありました。飲み会の誘いです。会の目的は分かっていました。その年新しく選任された後輩役員や目出度く昇格した役員の品定めにありました。OB氏曰く。「あいつは役員になる能力はない」「あいつは常務になれる実績をあげていない」。こういう話は、酒がまずくなります。
私は、そういう飲み会が苦手で、いつも他の用事を理由に欠席を決め込んできました。そこで、私は、62歳で役員を退任すると同時に、会社やOB氏と距離を置き、第二の人生に入りました。まず、友人の裁判官の薦めで家庭裁判所の調停委員になり、併せて、少年時代からの夢であった小説家になる修行を始めました。プロの作家について足掛け3年、物書きを習いました。本を出版したいと考えた理由は次の通りです。
今から45年前、昭和49年(1974年)8月30日、金曜日、午後零時45分、東京都千代田区丸の内仲通りで、『東アジア反日武装戦線・狼』と名乗る赤軍派によって「三菱重工本社ビル」が時限装置付の爆弾で爆破されました。私は、爆破されたビルの中にいて実際に事件に遭遇し、爆風で右耳の聴力を失い、全身にガラスの破片が突き刺さるという重傷を負いました。それは、日本国内で起きた、日本人による、日本人に向けられた、戦後初の無差別爆弾テロでした。被害者は、死者8名、重軽傷者385名に上りました。
しかし、この事件に関するメディアの取り上げ方は、爆破した犯人の行動を追跡したレポートばかりで、ビルの中にいた被害者側からの記録がまったくありませんでした。さらに、時間の経過とともに事件の風化も進みました。そこで私は、爆破直後の現場の生の情況と、ビルの中に踏みとどまって重傷の同僚を救出した仲間の姿をドキュメントドラマにして、後世に残そう考えました。それが『三菱重工爆破事件』(幻冬舎ルネッサンス新社)です。立派な本が出来上がりました。大満足です。
出版後の世間の反応は非常に良かったです。数社の新聞会社の取材と週刊誌の掲載もありました。私は、出版社の重要な社会的役割を知り、出版することの貴重な意義と本を読むことの大切さを、身を持って体験することができました。
インタビュー
貴著が刊行されました、今のお気持ちはいかがでしょうか。
事件から既に45年が過ぎ、あのとき、ビルの中で一緒にテロに立ち向かった同僚たちも、一人逝き、二人逝く年齢になりました。寂しい限りです。果敢に、怯むことなく、わが身を顧みず、仲間の命を救おうと死力を尽くした社員たち。彼らの必死の形相が今も脳裏に浮かんできます。みんな、人間愛に満ち溢れた人たちでした。
まさに、昭和の日本人がいたのだ、と想います。
今回出版しようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
45年前の昭和49年8月30日、三菱重工業ビルが爆弾テロに襲われ、多くの死傷者が出ました。
時は移り、今は令和。昭和の時代と違って、次第に社会が閉塞し、私たちは、昭和のあの時代にあった何か大切なものを失ってしまいました。今まで、いくつもの大きな地震があり、噴火があり、豪雨災害があり、更には、凶悪な犯罪事件も頻繁に起きました。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など日本各地での地震。大型台風や集中豪雨などの自然災害。精神的・肉体的に障害を持つ人へのいわれのない殺傷事件。原発事故による避難の小学、中学、高校生から大学生まで、すべての学生に対するいじめと差別発言と金品のたかり。親が幼児を、兄弟や友人間の殺人事件。 更には、目に余る無謀な「あおり運転」の続発。両親からの執拗な虐待を受けて命を落とした僅か5才の船戸結愛ちゃんの悲劇。
本来、まっとうな人間なら「見過ごさない」「助けよう」となるべき気持ちを持ち続ける国民であり、社会であるべきです。
このような想いから、私がかつて経験、体験したことのある45年前のテロ事件を素材にした小説を綴ってみました。
どんな方に読んでほしいですか?
学生から老齢の方々、老若男女、すべての方々の糧にしていただけたら、と願い、希望します。
作品紹介
爆風
沖島信一郎
死者八名、重軽傷者三八五名。昭和四十九年(一九七四年)八月三十日、金曜日、午後零時四十五分、東京都千代田区丸の内仲通りで起きた、「東アジア反日武装戦線『狼』」と名乗る赤軍派による三菱重工ビル爆破事件。日本国内で起きた、日本人による、日本人に向けられた、戦後最大の無差別爆弾テロだった。事件に遭遇した著者のドキュメントドラマ。
死生、転機あり 一期一会は深い絆になる
宗像 善樹
『爆風』に続き、三菱重工爆破事件に遭遇した著者が、
実際に家庭裁判所の調停委員でもあった経験から書き上げた小説。
普段は見られない家庭裁判所の調停室内外や、登場人物たちの心理を描き、フィクションでありながらも、現代社会が抱える深い問題に迫る一作。
愛犬・マリちゃんの思い出 マリちゃん雲にのる
宗像 善樹
我が家の家族四人と突然亡くなった愛犬マリちゃんとの思い出を中心に、東北大震災や事故などで命を落とした動物たちへの鎮魂をこめて、雲の上に行ったマリちゃんが示した傷ついた仲間の動物たちへの優しい思いやりと救援活動を通して、現代の日本人が失ってしまった、まっとうな人間なら「助けよう」となるべき気持ちを呼び戻そうとする犬のマリちゃんの、雲の上での懸命な努力と、これを見たお天道さまや星たちに深い感銘を与えるファンタジーです。
座右の一冊
福翁自伝
著:福沢諭吉
内容が非常に瑞々しく、大変おもしろい本です。
ここが魅力
福沢諭吉(1834-1901)は幕末から明治にかけて活躍した洋学者、啓蒙家です。
緒方洪庵の私塾である適々斎塾でオランダ語を習得、英語を独学し生涯で3回渡米しています。明治維新にあたって自身の蘭学塾を芝新銭座(しばしんせんざ)に移しますが、この時に塾名を慶應義塾とします。現在の慶應義塾大学です。
著作は多く『福翁自伝』の他にも、「人は人の上に人を作らず」で有名な『学問のすすめ』、自身の経験を踏まえ海外の事情を述べた『西洋事情』、日本を文明国にするため海外の文明を解説する『文明論之概略』などがあります。
啓蒙家と言われるように日本に自由主義や資本主義などの西洋文明を積極的に紹介・奨励した人物です。
『福翁自伝』は、比較的わかりやすい文章で、ところどころにユーモアが混じる文体が特徴です。
1889年に刊行された自伝で、少年時代、長崎修業時代、適々斎塾時代、3回の洋行、維新時代などが詳しく語られています。
福沢諭吉という人物を知るにはもちろん、当時の時代の風景や雰囲気などを存分に楽しめる作品になっています。
まずは、これらの本を手に取って、ご自分で目を通してみることをお奨めします。
因みに、福沢諭吉がアメリカへ渡るために乗船した幕府海軍の軍艦「咸臨丸」は、アメリカから帰国した翌年の文久元年(1861年)に、小笠原諸島の領有権確保のため、小笠原に派遣され、父島・母島で詳しい調査・測量を行い、日本(徳川幕府)はその調査に基づいて諸外国に日本の領有権を通告するなど、数々の任務を果たしたのち、老船となり、ボイラーを外されて輸送船とされてしまいました。
そして、輸送船として就役中、明治四年(1871年)九月十九日に、北海道木古内町泉沢で暴風雨に遭遇、岬沖で破船、沈没。その生涯を閉じました。
現在、咸臨丸に強い愛着を持つ人たちが、激動の幕末維新に栄光と悲劇の軌跡を残した咸臨丸が今も眠る更木沖の海底で、咸臨丸の船体の海中捜査を実施して存在を見つけ、船の存在が確認できた暁には、咸臨丸の引き上げを行うことを計画しています。
ヒストリー
- HISTORY 01 「愛犬マリちゃん」の思い出
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「愛犬マリちゃん」の思い出
マルチーズの女の子「マリちゃん」は、1994年1月21日に近くのペットショップから宗像家に来て、2008年8月31日に、14才7カ月で天に召されるまで、我が家の家族4人を癒し続けてくれました。マリちゃんが天国へ逝ってしまったときは、家族全員、大泣きに泣きました。 今でも、「マリちゃん」のお骨を神棚に祀り、毎朝、水をお供えして、手を合わせ、元気だった頃の「マリちゃん」を偲んでいます。
可愛かったマリちゃん……
・赤ちゃんだった頃。テレビのホームドラマの場面で、「ピンポーン」と玄関チャイムが鳴る場面があると、我が家に来客があったと勘違いして、ワンと、ひと鳴きして、慌てて玄関へ一目散で走って行ったマリちゃん。そして、しばらくして、すごすごとママの膝元に帰ってきたマリちゃん…
・パパが残業で会社からなかなか帰ってこないと、ひとり、玄関マットの上で、外のタクシーのブレーキの音がするのを待っていてくれたマリちゃん。 夜中の午前2時、3時、家族は皆、グー、グーグーです…
・マリちゃん星
私たち夫婦は、ハワイ大好き人間です。
ホノルル空港を出たときに味わう、あの開放感とカラッとした爽快な空気は、何ともいえないハワイ旅行の醍醐味です。
毎年、五泊七日のハワイツアーに参加しました。
出発の一週間前になるとスーツケースを引っぱり出して、旅の支度を始めます。
この光景になると、マリちゃんはタンスの陰から不安な目で私たちの様子をうかがいます。
そして、すぐに、ピーのウンチになります。
私たちに七日間置いてきぼりにされるのが分かるのです。
マリちゃんは不安を感じるとよく下痢になりました。
ある年のお正月、ハワイ旅行へ出かける私は、タンスの陰で見送るマリちゃんに声をかけました。
「マリちゃん、行ってくるね。いつものお留守番、頼んだね」
「…」
マリちゃんは、たんすの陰で心細げに私を見上げ、しっぽをチョロッと振りました。
南の島を満喫した私たちは、当初の予定を変更して、オアフ島からハワイ島へ回るため、三日間の延泊を決めました。
真冬の日本へ、「帰国を延ばすから」との連絡を入れました。
電話に出た娘のハナコが言い返しました。
「三日も延ばすなんて。そんなことをしたら、マリちゃんがかわいそうだよ」
私は、「もう決めたことだから」といって、電話を切りました。
ハワイから日本の自宅に帰り着いたとき、玄関先で、マリちゃんをしっかり胸に抱きしめたハナコから言われました。
犬のマリちゃんにかわっての、当時中学三年生からの厳しい抗議でした。
「マリちゃんは、パパたちが出発してから六回お日さまが空に昇れば、今まで通り、二人は家に帰って来るものと信じていたのだよ。マリちゃんにだって、そのくらいのことは分かっているのよ。それなのに、三日も遅く帰ってくるなんて」 「マリちゃんは、七日目までは、ママのベッドの布団の上で寝ていたけれど、八日目からは、冷たい玄関マットの上に昼も夜も一日中うずくまって、じっと二人の帰りを待っていたのだよ。部屋の中の暖かいところへつれていっても、すぐに寒い玄関へいってしまったよ」
「パパとママは、暖かいハワイで楽しい思いをしたかも知れないけれど、マリちゃんは三日も、真冬の寒い玄関にずっといたのだよ。ご飯をあげても、ほとんど食べなかった。水だけを飲んでいたよ」
「マリちゃんとの約束をやぶるなんて、マリちゃんがとてもかわいそうだよ」 「お姉ちゃんは今朝、大学へ出かけて行ったけど、お姉ちゃんもとても怒っていたよ」
マリちゃんは、20年前の夏、家族みんなが揃って夕食をしていたとき、突然、心臓発作を起こし、十五分くらい苦しんで、遠い虹の彼方へいってしまいました。十四歳七ヶ月でした。
私たちを残して。 最期に、ひとつ、「きゅーん」と悲しげに泣きました。
私たち四人への、別れでした。
みんな、涙が流れて、流れて、とまりませんでした。 マリちゃんは、いつも家族の側にいて、私たちに安らぎと癒しをくれました。
マリちゃんが逝って、もう、20年です。
真冬の冷たい玄関マットの上で、私たちの帰りを待ち続けたマリちゃんの小さな姿を想うと、今でも胸がしめつけられます。
「ごめんね、マリちゃん」
ピチャ、ピチャ、音を立てて、かわいいしっぽをくるくる回しながら、おいしそうに水を飲むマリちゃんの姿が浮かんできます。
夜、ベランダに出て満天の空を見上げると、いちばん明るく輝く「マリちゃん星」が、私たちに向かって、しきりに光を放ちます。 私たちを癒すかのように。
「いつか、でも、マリちゃんに必ず逢えるときがくるのだから。それまで、がんばろう」
これが、近頃、健康に不安を覚えるようになった喜寿を迎える私と、古希を過ぎた妻が、マリちゃん星の下でよく交わす夫婦の会話です。
マリちゃんにまた逢えると想うと、老い先の不安が少しずつ軽くなり、不思議と、毎日の生活に張りがでてきます。
「マリちゃん、待っていてね」
- HISTORY 02 祖母の思い出
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祖母の思い出
1.私が3~4才の子供だった頃、私はよく祖母につれられて散歩に行きました。祖母は、散歩しながら、遠い富士山を眺め、いろいろな歌を歌ってくれました。そのなかで今でも私の記憶に残っている歌がふたつあります。ひとつは「七つの子」です。かーらあすなぜ泣くの、からすはやーまぁーにー、と祖母が歌ってくれたのをすぐ昨日のように思い出します。祖母におぶわれて、祖母の背中で聞いたことを思い出します。祖母の背中の温もりが、まだ私のからだに残っています。もうひとつは大楠公の歌です。あーおばしげれるさくらいのー、という祖母の哀調をおびた歌声がいまでも私の耳に流れてきます。それから祖母はきまって乃木大将の話をしてくれました。そして話の最後に乃木さんは偉かった、乃木さんは偉かったと繰り返し言いました。今にして思うと、祖母もやはり開国後の近代日本が懸命に外国に対抗して頑張った明治・大正の時代を、ひとりの日本女性として生き抜いたのだと思います。とくにわたしはおばあちゃん子だったので、祖母のこと、そして祖母が生き抜いた時代を懐かしく思い出します。
ある日、祖母が近所の会合に出て留守をしたとき、小さく、幼い私が昼寝から覚めて祖母がいないことに気がつき、おとなの大きな草履を履いて、泣きながら祖母を近所中探し回ったそうです。大学生のわたしに祖母がこの話をするときは本当に楽しそうに話したものです。私はそうした祖母の表情から、祖母の私に対する愛情の大きさをずいぶんと感じ取りました。
2.私が大学生だったころ、新宿のデパートで濃いグリーン色の素敵なオーバーコートをみつけ、すぐに欲しくなりました。欲しいと思うとなにがなんでも手に入れたくなるのが私の悪いところで、私はそのコートをみてから毎日もんもんと時を過ごすはめになりました。さりとてお金がありません。思い余って祖母にこのことを話すと、すぐに何万円かのお金を貸してくれました。これで私の欲望は満足されたのですが、祖母に金を返さずに、祖母の好意に甘えておりました。ただなんとなくこのままではよくないという気がありましたので、アルバイトをして祖母に金を返すのだということを母に話したところ、おばあちゃんは、お金は善樹にやったつもりだから、返してもらおうなんて考えていない、と言っていたというような返事が帰ってきて、その時私はなんとなくほっとしました。
結局私は金を返すこともなく、祖母は床に伏し、亡くなりました。私は、この何万円かを祖母に返さなかったことを後々悔やみ続け、本当にすまなかったという思いでいっぱいです。祖母には可愛がられ、大事にされ、迷惑のかけどおしでした。ましてやお金まで借りたのに、私は祖母の存命中に恩返しをしなかったのです。私は、私が向こうの世界に逝くときは、柩の中に祖母に返すお金と祖母や母が大好きだった「お饅頭」をおみやげに入れてもらうことを、妻に頼んでおこうと、今から思っています。
- HISTORY 03 平成29年(2017年)夏に『神宿る島 宗像沖ノ島と関連遺産
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平成29年(2017年)夏に『神宿る島 宗像沖ノ島と関連遺産群』が、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
私は関東地方に住んでいますが、「宗像大社」に関する本のお蔭で、九州・福岡にある宗像大社と沖ノ島のことを知ることができました。
私のルーツに当たる神社です。
神道(しんとう)という宗教がよく理解でき、宗像三女神と宗像沖ノ島の尊い信仰の歴史と文化が具体的に分かりました。
日本全国の人に、「宗像大社と宗像沖ノ島」に関する関心を持って欲しいです。 それ以来、私は、今まで何気なく通り過ぎていた日本各地にある鎮守の森の「御社」の前で立ち止まり、両手を合わせ、神さまとご先祖さまにお礼を述べるようにしています。
- HISTORY 04 恩師の思い出
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恩師の思い出
昭和30年(1955年)、私が地元の市立中学校に通っていた頃、まだまだ戦禍が残る貧しい時代でした。
食べ物も今のように十分になく、いつも腹を空かしている子供もいました。
中学校の隣に養鶏場がありました。
ある日、父親が戦死して、病弱の母一人、子一人の家庭の同級生が養鶏場に入り込み、産み立ての卵をいくつか食べました。その場に、卵の殻を残しました。
養鶏場のおやじさんが遠慮がちに学校に知らせました。
後々考えてみると、担任の先生には、誰が盗んだのか見当がついていたのだと思います。
しかし先生は、「これは、物を盗むことと同じだ。君たち全員のことだ」と言って、クラスの男子生徒十数人を廊下に横一列に並ばせました。
先生は、女子生徒に向かって、「あなたたちも、見ておきなさい」と言って、廊下の反対側に立たせました。
そして、男子生徒に「歯を食いしばれ」と言うや、涙を流しながら、往復ビンタを皆に公平に加えました。私も食らいました。先生の手加減を加えた往復ビンタでしたが、それでも、身体がぐらつくほどのビンタでした。
先生が、泣き顔で言いました。 「ひもじいのは、よくわかる。わるいのは君たちではない。悪いのは、私たち大人だ。だが、これからの日本は、君たちの双肩にかかっている。苦しいだろうが、絶対に間違わないで欲しい。正しく、立派な人間に育って欲しい。そして、男子も女子も、これからの日本の復興ために一生懸命頑張ってくれ。日本を豊かで、幸せな国にして欲しい。悔しいが、先生たちには、それができなかった」
女子生徒は、全員、口をきつく結び、手を固く握りしめてこの光景を見ていました。
自分たちも、ビンタを食らった気持ちになっていたのでしょう。
次の時間は校庭での体育の時間でした。卵を食べた級友が、靴を脱いで裸足になり、頭を地面に擦りつけて、泣きながらクラスの全員に謝りました。
「僕がやった。僕がやった」
でも、クラスの誰ひとり、彼を非難することはしませんでした。
誰かが、赤くなった頬をさすりながら、言いました。
「気にするなよ。仲間だろう」
女子生徒が、声を合わせて慰めました。
「そうよ、そうよ。私たちはお友だちでしょう。だから、泣かないで」
翌朝早々、クラスの母親が申し合わせたように教員室に集まり、先生を囲んで、事を穏便に済ませるための相談をしました。
どの親も、自分の子供が先生にビンタを食らったことを理不尽だとは言いませんでした。
むしろ、生徒を名指ししなかった先生の配慮に感謝しました。 戦後の昭和中期の教師と生徒、生徒同士、そして父兄同士の関係は、そういうものでした。あの時代の人たちには、凛とした、強い連帯感がありました。
いつもはやさしく、時には厳しく生徒を導いてくださった特攻隊帰りの若い先生でした。
授業の合間に、鹿児島の知覧空港で帽子を振って見送った戦友への想いをしんみり語ってくれた先生でした。
「日本はこの戦争で、多くの優秀な同胞を失ってしまった。戦争は、二度としてはいけない」
先生の、深い悲しみと、強い教えでした。
ある年の桜が終わる頃、先生はこの言葉を遺して、戦友が待つところへ、空高く旅立たれました。
今は、私の家の周りの風景もまったく様変わりしました。
夜、ベランダに出て、蒼い夜空を見上げると、あのとき先生が流された涙を懐かしく思い出します。
人生を変えた出会い
老いのあとさき:一期一会は深い絆になる。
後先を考えずに、若さにまかせてがむしゃらに生きてきた私の時代は、とうに過ぎました。
最近、喜寿を迎える私に、がむしゃらだった時代に触れ合った人たちが夢の中に現れ、懐かしい顔を見せてくれます。この世ではもう会えない、遠い虹の彼方に逝ってしまった人たちです。ですが、不思議にと言うべきか、面白いと言うべきか、その人たちの表情は年相応に老けています。その分、私も夢の中で老いを実感します。
夢に出てくる人たちは、だいたい同じ顔ぶれで、子供の頃の近所の友だち、中学時代の恩師、サラリーマン時代の同僚、客筋だった親しい人、壮年の頃に知り合った人です。皆、人生という荒れる海を泳ぎ、大きな流木にぶつかって傷ついた人たちです。
私は夢の中で、その人たちの苦痛を、鳥瞰的に、一段高い所から上から見おろす形で、息を殺してじっと眺めています。そして、息苦しくなって目を覚まし、暗い天井に点いている豆電球のぼんやりした明るさを見て、やっと救われた気分になります。
なぜなら、夢に現れる人たちは皆、何らかの理不尽な出来事や挫折に遭って、心にトラウマ(心的外傷後のストレス障害)を持って生き、そして亡くなった人たちだからです。
言うまでもなく、私を始め人間みな、そういう人たちとの絆の中で生きてきているのだと思います。
トルコ旅行の思い出
来年2020年の第32回夏季オリンピック大会とパラリンピック大会が東京で開催されることは、非常に嬉しいことです。
しかし、その半面、8年前に私たちがトルコを訪問した際に、トルコの人たちが示してくれた親日的で、優しい心遣いと親切心を想うと、トルコの人たちの失望感が胸に迫ってきて、とても悲しく、胸が締めつけられる思いがします。なぜなら、第32回オリンピックとパラリンピックの開催地にトルコも立候補していたからです。
平成23年(2011年)1月、私たち夫婦はトルコ周遊旅行へ出かけました。
私たちは海外旅行が趣味で今まで多くの国を訪問しましたが、その中でも、トルコは一番印象のよい、すばらしい国でした。
特に、トルコ最大の都市、イスタンブールに魅入られました。
イスタンブールは、アジアとヨーロッパにまたがって東西文明の接点に位置し、様々な人種と文明がみごとに融合した独特の雰囲気がある大都会でした。
イスタンブールには見るところがたくさんありましたが、それにもまして魅力的なことは、トルコの人びとの人間的な素晴らしさでした。私たちが会った人びとは温かさに溢れ、極めて親日的でした。
彼らは、街中で日本人を見かけると非常に親切な態度で接してくれました。タクシーもメーター制で、非常に安く、ぼられることもありません。チップも取られませんでした。
私たちがイスタンブール市内を見て回った主なところは次のような所です。
いささか観光案内書のような紹介になりますが、まだトルコを訪れたことのない日本の人たちにも、是非見学して欲しいところです。
まず、トプカプ宮殿。
この宮殿は、十五世紀に建設され、オスマン・トルコの歴代の君主(スルタン)が居城とした宮殿です。現在は、オスマン時代の遺物の宝物館となっており、宝物館には柄に三つの大きなエメラルドをはめ込んだ黄金の短剣や八十六カラットのダイヤモンドなどの宝石が陳列されており、その豪華さには目を見張るものがありました。
次に、考古学博物館です。
トプカプ宮殿に隣接しており、小アジア各地からの出土品やギリシャ、ローマなどのビザンチン芸術の遺品が収集されていました。私は、「アレキサンダー大王の石棺」と「嘆く女たちの石棺」を見て、その迫力に圧倒されました。エフェソスやフェニキアの遺品や彫刻もたくさんありました。
そして、トルコを代表するイスラム教寺院の「ブルーモスク」です。高さ四十三メートル、直径二十三.・五メートルの巨大ドームの周囲に六本の尖塔(ミナレット)がある寺院です。十七世紀初頭にスルタン・アフメットによって建てられた寺院で、オスマン・トルコ建築の極みだと思いました。
この建物の正式名称は「スルタン・アフメット・ジャミイ」ですが、建物内部の装飾に使われているブルーのタイルがあまりにも美しく、誰もが目を見張るような色彩であることから、いつしかヨーロッパ人が「ブルーモスク」と呼ぶようになったということです。
最期に、ローマ帝国時代にキリスト教の教会として建てられた「アヤ・ソフィア」です。高さ五十四メートル、直径三十メートルの巨大ドームを中央に有するビザンチン建築の大聖堂です。
この大聖堂は、第四次十字軍やオスマン・トルコ軍によって略奪された歴史を持ち、ビザンチン美術の傑作である多くのモザイク画が五百年もの間、漆喰で塗りつぶされていたという歴史も持っています。現在は、モザイク画も修復され「キリストを抱いた聖母マリア」など世界的な傑作を収納する博物館になっています。
以上書き記したように、私は、トルコという国が持つ文明的、美術史的な迫力の根源は、イスラム教文明とキリスト教文明が共存し、ものの見事に融和しているところにあると考えます。
トルコには、他にも一見の価値がある建物、遺産がたくさんあります。アンカラのアナトリア文明博物館、サフランボルの世界遺産、カッパドキアの大規模な洞窟民家、イスラム教徒の迫害から逃れるために約一万五千人のキリスト教徒が隠れ住んだという、カイマルクにある地下八階の地下都市、世界遺産のギョレメ野外博物館、古都コンヤ、メブラール博物館、バムッカレのヒエラポリス遺跡と石灰棚、エフェソスの考古学博物館、トロイの遺跡、ここはホメロスの叙事詩イーリアスに書かれた「トロイ戦争」の舞台として有名で、大きな木馬が伝説さながらに私たち観光客を見おろしていました。
以上、私は、トルコ周遊旅行を通じて、見たまま、感じたままの感想を書きましたが、一番書き記しておきたいことは、イスタンブールの街で行き会った子供や学生さんとの交流についてのことです。
それは、私たちにとってまったく予想外のことであり、また、非常に感動的で、心温まる出来事でした。
まず、私たちがとても新鮮に感じたことは、観光地で観光バスから下りたとき、観光客にまとわりつく地元の子供たちの姿がまったくなく、非常に清々しい気持ちになれたことです。他の国で、バスを下りた観光客が往々にして味わう、子供たちにまとわりつかれ、物乞いや土産品の押し売りめいたことが全然なかったのです。
現地ガイドさんの説明によると、「トルコの初等教育は、六歳から十四歳の児童生徒に対して八年間行われており、学校は基本的に国立で、授業料や教科書などの教育費は無償で行われている」ということでした。私たちは、「なるほど。このような手厚い教育システムであれば、観光客に物乞いをするようなことはしないだろう」と思いました。
日本を出発する前、トルコの人びとは親日家が多いと聞きました。
そうなった契機は、今から124年前の1889年(明治22年)に、トルコから607名の使節団が来日し、明治天皇に拝謁して帰国するときに起きた海難事故にあるということでした。
帰国する使節団が乗った軍艦エルトゥルル号(2400トン)が、和歌山県串本町大島沖で大型の台風に遭遇して沈没、多くの乗組員が亡くなりました。そのとき、串本町民が激しい暴風雨の中わが身の危険をかえりみず懸命の救助活動を行い、奇跡的に69名の乗組員の命を救い、親身に世話をし、明治政府が速やかに二隻の軍艦に乗せてイスタンブールへ送りとどけたのです。
トルコ国民は、日本人がトルコ人のために命を懸けて尽くしてくれた行いに国を挙げて感謝、感激したということです。この歴史的出来事がトルコ人の心情に強い影響を与え、人びとの間で語り継がれ、今でも義理堅く日本人へ感謝し、親日的な思いが強いのです。
実際、私たちは旅行中に小学生のグループに何度も囲まれて写真を撮られたり、手をつないで歩いたりしました。
あるときは、イスタンブール中央のゲジ公園で、高校生数人のグループから、「一緒に肩を組んで写真を撮らせて欲しい」と声をかけられました。即座にOKすると、彼らは一人ずつ交替で、私たち夫婦の間に立ち、私たちの肩を両手で力強く抱いて、嬉しそうな顔で、交互に写真に収まっていました。私は、彼らが手に込める強い力から、トルコの人たちが日本人に抱いている信頼と友情を肌で感じました。彼らは皆で、私たちの重い荷物を持ってくれました。彼らに荷物を託すとき、私たちに全く不安な気持ちは生じませんでした。
現地に長く住む友人にこの話をしたところ、「トルコの人たちにとって、日本人と一緒に写っている写真は大切なものであり、友だちの間で自慢できる一級品なのだ。荷物を託されることは、日本人に信頼されている証で、嬉しいことなのだ」という説明でした。
以前、そのゲジ公園の存続をめぐって、転用を計画する政府側と公園の存続を願う市民との間で激しい対立が生じました。
一時は沈静化したようですが、多くの心優しい人たちが住んでいるトルコの国が政情不安になり、国民の心が病むことになるのではないか、とても心配でした。
私は、出来ることなら、2020年の五輪開催がイスタンブールに実現し、五輪の成功に向かって、トルコの人たちの気持ちがひとつにまとまることを願っておりました。
それは、私たち日本人が、1963年の第18回東京オリンピック大会の成功や、1970年の大阪万国博覧会の成功に向けて、国民が一致団結し、心をひとつにしたときのように。
残念ながら、イスタンブールは五輪を招致できませんでした。
私たち日本人は、今後も、トルコとの未来志向の友好関係をめざして、トルコの人たちに深く敬意を払い、親しい交流が続けられるよう最大限の努力を重ねるべきだと思います。
未来へのメッセージ
すべての人へ、優しさと心の安らぎをとどけよう。
古希を越え、少々体調を崩しても一晩寝れば元に戻るという、体力に自信があった私の旬の時は過ぎました。
一日が終わり、夜、ベランダに出て夜空を見上げると、昔、『疲れがとれなくなった』とよくこぼしていた老境の母を思い出します。母が逝ってから、もう二十五年です。享年七十七歳でした。
思い出は、私に、懐かしさと共に、老いの実感をもたらします。
そこで私は、未来へのメッセージとして、母が入っているお墓にまつわる話を書き残しておこうと思います。
母は自分が入るお墓のことを知らずに亡くなりました。
病院のベッドの上で、『私の入るお墓がない』と心配していました。
ついには、『あの世へいっても、私の居場所がない』とまで、言いだしました。
母は、自分の両親が入っている浦和の実家のお墓に入りたかったようでした。
母が元気だった頃、実家の墓を承継した都内に住む弟(私の叔父)に、『私のお骨も、両親と一緒に入れて欲しい』と頼んだようですが、『断られた』と寂しそうに言っていました。
母の夫は戦地で爆死し、お骨も帰ってきませんでした。御霊は、夫の生家がある福島の山奥にある代々の墓所に祀られました。
夫の死後、母は埼玉の実家に戻り、両親と一緒に暮らし、生活の面倒をみて、両親の死に水をとり、お骨を実家のお墓に収めました。
母は死後も、実家のお墓の中で両親の面倒をみたかったのでしょう。
寿命を悟って病院へ行く母が、入院する直前に、再度、叔父に頼んだようですが、つれなく断わられたそうです。肩を落としていました。
私は、母の願い通りにならなくても、せめて母の息があるうちは、『一緒に入ればいいさ』のひとことぐらい言ってくれればよいものと思いました。
母の死後、私は郊外の別の場所に新しいお墓を建て、母のお骨を収めました。南向きの、明るく、日当たりのよい、静かな霊園です。
母に可愛がられた孫のハナコが、夢のなかで母に会ったそうです。
『おばあちゃんは、たくさんの人に囲まれて、楽しそうだったよ』
私はこの話を聞いて、天気のよい日にお墓から出て、霊園のベンチに腰をかけて、のんびり日向ぼっこをしている母の安心しきった姿が目に浮かびました。居場所ができ、ご近所のお墓の人たちとも親しくなっているのでしょう。少し、気が楽になりました。
でも、現実に、実家のお墓にせっせと通って手入れをしていた亡き母の姿を想うと、臨終のときの母の寂しい気持ちが思われて、可哀そうで後悔でいっぱいです。生前に建ててあげれば良かった。『されど、墓に布団は着せられぬ』 です。