目が覚めた。
朝だった。
ベッドに寝ている。
また、今日という日が始まった。
「早く起きなさい。学校に遅れるわよ」同じ声が聞こえてきた。
自分の部屋は、畳六畳間なのだが、部屋の隅に机と椅子があり、部屋の真ん中にベッドが置いてある。畳の上に机とベッドが置いてある光景には少し違和感があるが、多分自分が望んでそうしてもらっているのだろう。センスをまったく感じられない。
とにかく起きて、顔を洗い、食卓につく。ご飯をどんぶりで二杯食べた。相変わらずの大食漢だ。
「夜は寝ているだけなのに、朝からどんぶり二杯だなんて、良く食えるな」と我ながら感心した。着替えて学校に向かう。
今日も五月晴れで、気持ちの良い天気だった。「天気などどうでもいい。自分は天使なので翼を出して飛んで行こう」と思って、努力してみたが、やはり翼は出なかった。仕方なく、昨日と同じように自転車で学校へ向かうことにした。
自転車で最寄り駅に向かっていると、途中のバス停に、女子高生がたたずんでいた。中学の時の同級生で、速水由香だ。中学の時も「かわいい」と思っていたのだが、高校の制服を着てたたずんでいると、なおさらかわいい。
片手を挙げて挨拶すると、笑顔でちょこんと頭を下げてきた。
「少し大人っぽくなったかな。由香と付き合えたらいいな」と思ったが、この先、二、三度見かけただけで、何も起こらなかった。
自転車をこぎながら、速水由香を見ていたら目に虫が入った。「痛い」目を大きく開けなければよかった。もともと目が大きいのに、由香を見た時に大きく目を開いたので、虫が飛び込んできたのだ。かわいい由香を見ていただけなのに、こんな災難が身に降りかかってくるなんて「人間の人生とは、なかなか厳しいことばかりだな」と思いながら、自転車から降りて歩道に寄せ、虫を目から出す努力をし、努力が実ったところで、また、自転車に乗り、駅へと向かった。今度は、薄目でまぶしいときに睨んでいるような目つきで自転車をこいでいく。二度と虫が目に飛び込んでくることはなかったが、前方がうっすらとして、まるで霧の中を進んでいるようだった。
駅に着くと、いつもの場所に自転車を預け、改札を通り抜けて、いつもの時間の電車に乗ることができた。
「今日の一日の始まりは、良かったのか悪かったのか。由香に会えたのはうれしかったけれど、虫には参った」などと、くだらないことを考えていると、途中の駅から、田中と青山が乗り込んできた。この二人と談笑しながら電車に乗っていると、あっという間に学校のある駅に着いた。
駅から学校まで歩くのだが、三人が道路に横並びでは歩いて行けないので、一人後ろに下がって行くことにした。二人の後ろでひとり歩いていると、また、今朝、由香に会えたことを思い出し、にやにやしていたのだが、よく考えてみたら、「会えた」のではなくて「見かけただけ」だったことに気づいてしまい、心が一気にへし折れた。
「なんだ、結局、今日一日の始まりはあまり良くないということじゃないか」と、虫の方が俺にとっては影響が大きかったのか。などと、おかしな理解をしていると学校にたどり着いた。
そんな、あまり良くない一日の始まりだった。
この日の一時限目の授業は、地学だった。地学の先生は、四十歳前後の女性の先生で、細身なのだが、決して弱そうでもなく、気丈な感じの先生だ。
地学とは、地球科学のことで、自然科学の一分野で、地球の構造や環境、地球史など学ぶことが多岐にわたっているので、高校の授業としては、難しい分野だ。おそらく、内容を細かく説明されても、高校生には理解できないだろう。
俺自身は、こういう分野は好きで、できるだけ細かく説明してほしかったが、決められた時間の中で授業を行うので、さわりだけ説明して終わりということもあった。
授業が始まって先生が「地球の環境の中で、人間は、自然に影響を受けながら生きているのか、それとも自然を利用して生きているのか」という質問をしてきた。
それに反応したのが、野田達也だった。野田は「人間は、自然に影響を受けながら生きているに決まっているじゃないですか」と答えた。
それに対して先生が反論した。「いや、人間は地球の環境をうまく利用して生きているのよ」
「なぜ先生はそう思うのですか」
「たとえば、アラスカに住むエスキモーたちは、氷で家を造っています。アラスカは寒さで木が育たない代わりに氷はたくさん周りにあるので、それを利用して家を造っているのです。氷の家は、中で火を炊いても全体がとけることもなく、外を吹き荒れる雪あらしからも守ってくれる。だから氷を利用して家を造り、その中で暖かく過ごしていられるのです」
「俺だったら、氷の家に住むのはいやだな。木やレンガや、コンクリートなどで広くて丈夫な家を造ってその中を暖かくして、のびのびと暮らしたいよ。エスキモーたちだってそう思っていると思うよ。ただ、そこに氷しかないので仕方なく氷の家を造って住んでいるんだと思うけどな」
「いや、人間は、木があればそれを利用するし、石があれば石を利用するし、レンガに向いている土があればレンガを作って家を造るなど、それぞれの環境の中で、周りにあるものをうまく利用して生きているのよ」
「それは人間のおごりだ」
このやり取りは一時間では終わらないような勢いで続いた。「鶏が先か、それとも卵が先か」といった感じだ。この問答にはおそらく答えがないのではないかと思ったが、なぜか野田を応援していた。
結局、一時限目の地学の授業は、先生と野田の対決だけで終わってしまった。うれしいような、何となくさびしいような授業だった。
二時限目の授業は国語現代文だった。国語現代文は、文章の読解力や、漢字の書き取りや読み取りなどを学ぶ授業で、文章の読解力は、ある小説などの文章から「それ」とは何を指しているのかなどといった質問を、先生がしてくるのだが、この「それ」を探すのは結構楽しい。
名探偵にでもなった気分で「それ」を文章の中から探しているのは、俺には合っているのかもしれない。「それ」が見つかった時の気分は最高だ。
しかし、漢字の書き取りや読み取りは、俺には向いていない。「漢字なんか読んでどうするんだ」と思ったらまったく頭に入ってこなかった。なぜか俺は、英語の単語とか国語現代文の漢字とか、ただ覚えるだけというのは苦手らしい。
三時限目の授業は生物の授業だった。鉄筋コンクリートの建物の三階にある理科室で授業が行われる。
一年生の教室は、北側の古い木造一階建てなので、ここから移動するのは結構楽しい。教室の中にいると、明るくて楽しいものを探すのには、大変苦労する。だから、別の建物に行くのは楽しい。
理科室に入って決められた席に座っていると、先生が現れた。頭は禿げ上がり、メガネをかけている。口調は、はっきりとしていて、テンポが良く、適度なスピードで話すので、「なかなか頭が良い人だ」といった感じだ。多分、本当に頭は良いのだろうが、どういう風に頭が良いのかは、わからない。
先生は、いきなり「ミトコンド~リア」の説明を始めた。
「ミトコンド~リアは、ヒトの肝臓や腎臓、筋肉、脳などの活発な細胞に存在している」
何を言っているのか良くわからない。
「細胞の中には、数百から数千のミトコンド~リアが存在し、細胞質の約四○パーセントを占めているんだ。体重の一○パーセントを占めているんだぞ」
人間の体の中には、こんな変な虫がうじゃうじゃいるのか。気持ちが悪い。俺は天使でよかった。俺にはこんな変な虫はいないよな。
「ミトコンド~リアの形状は、置かれている条件によって異なり、円形や円筒形、紐状や網目状など様々だ。ミトコンド~リアの構造は、外膜と内膜の二枚の脂質膜に囲まれていて、内膜の内側をマトリックスと呼び、内膜と外膜に挟まれた部分を膜間膣(まくかんこう)と呼んでいる」
「マトリックス」だけが耳に残った。それにしても授業の内容が、頭の中には入ってこなかった。マトリックスだけがどこかで聞いたような気がしただけだった。
結局、この日の生物の授業は、「ミトコンド~リア」で始まり「ミトコンド~リア」で終わってしまった。何回「ミトコンド~リア」を聞いただろう。しかも、「ミトコンド~リア」ではなくて、「ミトコンドリア」だ。なぜ「ミトコンド~リア」という発音になるのだろう。それとも、生物学上は、「ミトコンド~リア」が正しいとでもいうのか。これ以上踏み込んで考えることはやめよう。大体、「ミトコンド~リア」そのものに興味がわかない。先生だけは、熱く語っているのだが、クラス全体が一時間白けていた。「ミトコンド~リア」に興味を持った人間は、残念ながら、このクラスにはいなかった。本当に残念だ。
人間の社会では、「頭が良い」とはどういうことなのか。専門的な知識が豊富で、この分野ではちょっとうるさいということなのか、それとも広くて浅い知識を有していて、どんな話題にでも対応できるということなのか、それとも頭の回転が速く、様々な質問をしても、すぐに答えを出して返答が返ってくるということなのか。
自分が思うには、簡単なことは簡単に考え、難しいことは難しく考えるのは普通の人で、難しいことでも簡単に噛み砕いて自分の中で理解して、理解したことを他人にわかりやすく説明できる人が「頭が良い」人だと思うのだが、俺にはこの「ミトコンド~リア」は難解で解けない。ここでも俺はあまり頭が良くはないことが判明した。情けない天使だ。
著者プロフィール
由木 輪
1956年、東京都出身
ごく普通の家庭に生まれ育ち、大学を卒業後、東京に本社がある会社に就職しました。自分の意に添わず、幾つかの会社に転職することになりましたが、60歳になり会社員で定年を迎えました。定年しても年金がもらえるわけではなく、生活のために別の会社で働くことになりました。定年後の職場では、時間的にも精神的にも余裕が出来て、以前から書きたかった小説を書き始めました。みなさんに面白いと思っていただけるとうれしいです。