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長谷川 漣の何処吹く風 〜(その2)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その2)

言葉・ロジック・共感

先日ホリエモンこと堀江貴文さんの本を読んだ。本全体に関する感想はともかく、興味深い点があったので採り上げたい。堀江さんは東大駒場寮で大学生活を送ったのだが、ほかの寮生と些細なことで喧嘩になった。その際、堀江さんが寮生から言われた言葉が

「お前には人の気持ちってものが解らないのか!?」

これに対する堀江さんの答えは

「人の気持ちなんか解るわけないでしょ!」

だった。さて、私は堀江貴文的価値観や生き方を、肯定するわけでも否定するわけでもないが、この会話に対しては一言いいたいことがある。結論から言うと、この寮生の

「お前には人の気持ちが解らないのか?」

と言う発言は論理的に破たんしている。どう破たんしているかと言うと

「お前には人の気持ちが解らないのか。」

と言うからには、彼自身は自分が「人の気持ちが解る」

という前提のもとに話していることになる。同時に堀江さんの事を

「人の気持ちの解らないやつ」

と、決めつけている。というからには彼は

「人の気持ちの解るやつ」

であるのだから

「人の気持ちが解らないやつ」の気持ちも解るという事になる。

 これは矛盾している。何故なら、

「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは

「人の気持ちの解るやつ」には解らない。

 若しくは

「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは、「人の気持ちの解らないやつ」にしか解らないからだ。

 したがって、彼の前提「人の気持ちが解る」は成り立たない。故に

「お前には人の気持ちが解らないのか。」

という発言は論理的に破たんしている。

もしも、この寮生が「俺も昔は解らなかったけどな」と言うのならば、そこには「時間」と言う概念が加わり、話は別だが・・・。

 このロジックに私は中学生の頃気づいたが、

「あまり言わない方がいいな。」

と思いつつ現在に至っている。でも、いい大人になった今だからこそ言いたい。

「人の気持ちはそう簡単には解らない。だからこそ言葉を大切に扱うべきだ。」

 堀江さんの肩を持つわけではない。ただ、我々は安易に「人の気持ちが解る。」という表現を多用するべきではない。とは思う。他人の心を理解したつもりになって、安易に同情したり共感したりしたつもりになるのは、ある意味、失礼で傲慢なだけでなく、時には危険でさえある。

 十年ほど前にベトナムに旅行したことがある。ベトナム戦争の銃弾の跡が残った激戦地を訪れた際「他人事とは言え、ひどいな。」とつぶやいたら、現地の若い日本語ガイドさんが、そっと「ありがとうございます。」と言ったのを思い出した。何に対しての「ありがとう。」なのかはあえて述べる必要はないと思う。無意識に口から出た言葉だったが、おそらく間違った言葉選びではなかったようだ。語彙を増やすとか、語源を知るとかいうのとは違う。言葉を丁寧に用いるというのは、難しいようで簡単な、簡単なようで難しい事なのかもしれない。ただバックグラウンドの異なる他者と「よりましな関係」を築いていく上で、言葉を丁寧に適切に用いるのは必要なことであり、ひいてはそれが「よりましな社会」を築いていくことにつながるのではないだろうか?

 この文章を書いていてわかったのだが、他人の気持ちを理解しようと努める事、その気持ちに寄り添おうと努める事と、無責任に他人の感情に便乗する事とは天と地ほど違う。この点に思いをいたせば、いじめとか炎上とかヘイトスピーチとかが今より少なくなるのではないか。

 話は戻るが、今はなきSMAPの楽曲に「話をしようよ」と言う内容の曲がある。リアルタイムで聞いたときは何とも思わなかったが、今聞いてみると意味あるメッセージが込められている。この文章をお読みの皆さんは大切な誰かと「話」していますか?是非「話」をしようよ。

超えて行け

「先生は何で教師になったの?」

「来たね!その質問。一休さん知ってる?」

「知ってる!トンチの一休さんの事でしょ!」

「そう、その一休さんと将軍 足利義満の話」

将軍「一休、この屏風に描かれた虎を捕まえてみよ」

一休「わかりました。ではまず、なわを用意してください」

将軍「ほれ用意したぞ、約束通り屏風の虎を捕えてみよ」

一休「わかりました。では次に屏風の虎を外に出してください!」

将軍「屏風の虎を外に出せるか!」

一休「屏風の虎を捕えられるか!喝!」

「みんなにはこの一休さんのようになってほしくて私は教師になったんだ!」

「はぁ?意味わかんないし」

「確かにわかんないよね。この話で一休さんは『そんなことできるわけないだろう。バカヤロー!』と将軍さまを怒鳴りつけているんだけど、私も生徒ってのは最後には教師を超えていくものだと思っているんだ。だからこの話を紹介したんだ。」

「生徒に超えられたいの?」

「超えられたいっていうか、最後には、つまり卒業するころには生徒は教師を相対化するべきだって思ってる。難しくいうとね。」

「相対化って何?」

「まあハセガワも人の子だし、しょうがないか!って大目に見る事(笑)。」

「ふーん。っていうかそんなの今でもしてるし。」

「そうかな、そうは思えないな。だってみんなトイレすらひとりで行けないじゃん。全然自立できてない。」

「トイレではいろいろあるんだよ。女子には。」

「ふーん。まあいいや。じゃあ、一つありがたい話をしてあげよう!『鋼の錬金術師』ってマンガを知ってる?最初のエピソードが面白い。ある若い女性が恋人を亡くした悲しみから宗教にはまっちゃうんだ。熱心に信仰すればその恋人が生き返るってそそのかされて。ところが主人公の鋼の錬金術師(自分の母親を蘇らせようと、禁忌とされていた人体錬成を行い、その代償として右手・左足を失い義手義足になった)がその宗教のインチキを暴く。結果その若い女性は何と言ったか?「これから私は何にすがって生きていけばいいの?教えてよ」それに対して主人公は「そんなことは自分で考えろ。立って歩け!前へ進め、あんたには立派な足がついているじゃないか。」(10年以上昔のマンガだから表現的に少しどうかなという面もあるけど)言わんとしていることは今でも十分通じるよね。まずは一人一人が自分の足で立って歩いて、その上で支えたり支えられたりするんだ。そのためにも、まずはトイレに一人で行こう!」

「だからトイレ関係ないって。でも先生が何にこだわるかが解った。っていうか先生が何で先生になったかちょっと解った。っていうか、ある意味ウチらもう超えた!?ハセガワ超え(笑)!?」

「おいおい勘弁してよ。(笑)そんなことより今度の中間テスト、平均点越えてね!頼むよ。」

(『鋼の錬金術師①』荒川弘・著/2002)より