始まりは一枚の紙切れだった。
冷蔵庫の横に、青色のマグネットで留められたチラシの切れはし。裏には父の字でこう走り書きされていた。
〈しばらく家を留守にする、後のことはよろしく頼む〉
あまりに素っ気ない文面に、意味をつかむのに時間がかかった。整った筆跡は父の字に違いないのだが、この紙切れが野木の家にどんな影を落とすことになるのか、これを読んだ時雄介はまだ何も気づいていなかったのだ。
風が強まり出した。二階の部屋から空を見上げていた雄介の耳に飛行機のエンジン音が響いてくる。厚い雲に隠れて機影は見えないのに、その音は遠い地鳴りのように空一面にこだましている。
部屋の隅のテレビに、気象衛星がとらえた台風のLIVE映像が映っている。白い渦巻きがとぐろを巻いて、その中心に黒い目がはっきり見える。こんな目に睨まれれば地上のどこにも逃げ場はない、そう思わせる力で迫って来る。こいつがさらにエネルギーを蓄え、今夜未明には九州から関西方面を直撃するという。
「何もこんな時に」とテレビ画面に目を向けながら雄介は呟いた。
「雄介、階下に降りてこないか」
階段口から、耕一郎伯父さんが呼んでいる。父の兄に当たる人で、昨夜遅くに掛けた雄介からの電話で、今朝さっそく新幹線で横浜から駆けつけてくれた。新神戸の駅から雄介の家までタクシーを奮発したという。
父が簡単な書き置きを残して家から姿を消して今日で丁度四日目になる。強い風に体ごとどこかに持っていかれたみたいに、それは唐突な出来事だった。
リビングのソファに腰掛けながら伯父は、向かいの席に座るよう目で促した。
「何遍も同じことを訊くようで悪いけど」と伯父は続けた。「チラシを見つけたその朝、父親にいつもと変わった様子はなかったのか、特別父親の素振りに何か感じたことは?」
何度訊かれても答えは同じなのだ。あの日の朝も父と二人きりの食事をした。その間中父は新聞から目を離さなかった。雄介はテレビ画面に映るナイター結果を眼で追いながら箸を動かしていた。伝えたいことがあるならその場で父親の方から何か話し掛けたはずなのに、食事を終えると父はさっさと席を立ってしまった。いつもと同じ何の変りもない朝の一コマだった。
「すると手掛かりといえば、この書き置きと昨日届いた手紙以外には何もないというんだな」
伯父は言いながら、チラシの切れ端と昨日届いた封筒を指で示した。短く刈り込んだゴマ塩の頭髪を撫でつけながら万事休すの表情を浮かべた。雄介は首をうなずけるしかなかった。
茶色の封筒に入った手紙は昨日夕方、雄介が勤め先の信用金庫から帰ってきて、郵便受けに入っているのを見つけたものだ。宛名人として雄介の住所と名前は記されているが、なぜか裏の差出人欄に父の名前はなく、そこにはただ一字〈父〉とだけ記されていた。消印によって投函されたのは東京の大田区のどこかのポストだと考えられるが、開封する前から雄介には嫌な予感がしてならなかった。
その場に立ったまま封を開け、さっそく目を通し始めた。その筆跡は父の字に違いないが読み進めていくうち、この家で何かが起き始めている、そんな不吉な気分が雄介の身を包んでいく。家の中へ駆け込むなりすぐさま、横浜の伯父と大阪の姉の冴子に電話を入れた。そして明日にもこちらに来て至急目を通してほしいものがある、と切迫した声で事のあらましを伝えた。
〈突然のことで心配かけていると思う。父さんの勝手を許してほしい〉
父からの手紙は、こんな書き出しで始まっていた。
〈雄介も冴子も仕事や子育てに忙しい中、それでも母さんを最後までよく支えてくれた。母さんが亡くなり、四十九日も済ませ、今頃になってようやく張りつめた気持ちも和らいできた。
そんな私に近頃妙なことが起こり始めたんだ。昼間一人家にいると、耳のそばで誰かがささやく声がする。気のせいかと放っておいてもその声は日増しに高まるばかり。両手で耳を塞いでも、枕に顔をうずめても一向止む気配はないんだ。耳を澄ますとその声はこう呟いてたんだ。
(…リクエスト・ポジション…)
その声が一日中私を追いかけてくる。いろんな医者に診てもらっても、その声を止める薬はないそうなのだ。ねじを巻き忘れた時計が耳の奥で勝手に動き出したみたいで途方に暮れるばかりだ。
声の聞こえない場所を探して歩いているうち、気づいたら東京のはずれまで来てしまった。ようやく腰を下ろした古い旅館でこの手紙を書いている。東京とは思えないのどかな風景が窓の外に広がっている。運河の向こう岸には大きなクレーンが並び、その先に朱色に塗られた鳥居が眺められる。その向こうを跳ぶ飛行機がふとした拍子に、鳥居の股の間で止まって見える時がある。そこだけ時間が停止して、飛んでいた飛行機がしばらく空中に貼り付いて見えるんだ。やがては元のように飛び去って行くんだが、見ている私には、瞬間移動の大掛かりなマジックを目の前で見せられているような不思議な気持ちにさせられた。時間が止まった瞬間を目撃しているようなのだ。種を明かせばそれはマジックでも何でもなく、真っすぐ見る人に近づいてくる物体は、その人の目には静止して見えるという初歩的な物理法則、時間と空間のはざまで起こる目の錯覚だというわけだが。
こちらに来ても、やらねばならないことが片付かず、もう少し時間がかかりそうだ。当分帰れないかもしれないので、取り急ぎ知らせておきます。
父〉
「この手紙が、昨日夕方家に届いた。それで慌ててワシの所へ電話してきた。なんと冷蔵庫の横に貼られた書き置きを見つけて、四日も経ってからだ」
伯父は眉間の皺を一層濃くしながら言った。事実は確かにその通りなのだが、チラシを見た時には、父の不在がこんなに長引くとは予想もできなかった。気分転換にふらっとどこかの山の中へ渓流釣りにでも出かけたんだろう、そう軽く考えてしまった。そして昨日、東京から届いた父からの手紙を読んでーそれも要領の得ない抽象的な文面なのだがー野木の家で今起きている状況が、思う以上に深刻な事態であることに雄介は初めて気づかされたのだ。
手紙を何度読み返しても、一家の主が気分転換に渓流釣りに出かけた、そんな暢気な話ではなさそうだった。見慣れた父の字一つ一つが秘密の暗号めいて、東京大田区の消印がなければ、どこか外の世界から迷い込んだ、意味不明の通信文とさえ感じられた。
「会社から帰ってきて、冷蔵庫の横にこの書き置きを見つけた。そこまではなんとか理解できる。要はそれから昨日までの四日間、お前は横になったままずっと眠っていたわけではないんだろう? その辺をもう一度、順を追って説明してくれんか。こんな手紙の内容では、読んでいるこちらが霧の向こうへ吸い込まれていきそうになる」
伯父も手紙の内容に困惑を隠せない。何度も読み返しては首をひねっている。意味の良く通らない文章なのだが、父が自分の手で書いた手紙である以上、書いた本人が無事でいることは間違いない。大げさに言えばこの手紙は、父の生存証明を証しする書類と見なしてもよさそうだった。
この四日間雄介は、次から次と湧いて出る妄想に悩まされた。どこかの病院のベッドに横たわって、酸素マスクで顔を覆われている父の姿が浮かんだことも、〈行旅死亡人〉として知らぬ土地の火葬場へと運ばれていく父の棺が、目の前を通り過ぎていく場面にも出くわした。
普段は自分の部屋で過ごすことが多く、どちらかと言えば家では存在感の薄い父親だったのに、家から姿を消した途端その影を濃くして、雄介の胸の内に空虚な重みを増していく。
横浜からはるばる駆けつけてくれた伯父のためにも、父に何が起こったのか、雄介はできるだけ正確に記憶を掘り起こしてみることにした。
書き置きを見つけた四日前のあの夜、雄介は信用金庫の仕事を六時過ぎには切り上げ、白色のワゴン車を運転して通い慣れた道をまっすぐ我が家へと帰ってきた。ふと見るとあの夜に限って、門扉の郵便受けに夕刊が取り残され玄関灯の明かりも消えたままになっていた。何事にもまめな父には珍しい手抜かりだと思えた。
缶ビールを取りにキッチンの冷蔵庫に近づいた。見ると、四つ折りにカットされたチラシの切れ端が一枚、冷蔵庫の横に青色のマグネットで留められている。それには父の字で、こう記されていたのだ。
〈しばらく家を留守にする、あとのことはよろしく頼む〉
電報みたいに素っ気ない走り書き。簡潔過ぎて、事務連絡くらいにしか受け取れなかった。タバコを切らしたんで近くのコンビニまで買いに行ってくるよ、そう言っているみたいだった。もう少しで丸めてくず籠に捨ててしまうところだった。
ところが十二時を過ぎて日が変わっても、父は帰ってこなかった。待ちくたびれた雄介は、リビングのソファでいつしか寝入ってしまった。目を覚ましてあたりを見回わすと、回りは当初の楽観論をあざ笑うかのような気配が立ち込めていた。家のどこにも人の気配がない。在るのは大きなガラス窓に映る、自分自身の虚ろな姿だけだった。ソファから跳ね起きて、家中に父の姿を捜した。父の書斎兼寝室だけでなくトイレも風呂場もドアを開けて中まで確かめた。明け方の光が家の中に差し込む頃まで、雄介は捜索を続けた。庭へ出て植え込みの隅まで手掛かりを求めて動き回った。それでも突然の強風にさらわれたように父の姿は、一夜にして足跡一つ残さずきれいに吹き消えてしまった。まるで全面削除キーの一叩きで画面上から一瞬で消された文字のように。
マジジャンの使う技の一つに〈物体の瞬間移動〉というのがあるらしいが、その技を目の前で見せられた気分だった。大学時代父が入っていたマジック同好会で覚えた技を、父は暇に飽かせて今頃息子相手に披露したくなったのでは、そんな思いさえ抱いてしまった。これがマジックの技なら、消えた物体は最後には観客の前に元通り姿を現わすことになっている。右手から姿を消した千円札は、左手から元の姿で再び現われる。それがマジックの定石、決まり事のはずだった。ところが父は一枚のチラシの向こうに姿を消したまま、一晩経ってもその姿を再びこの家に顕わすことはなかった。まるで父自らが自らの意思で、〈無〉の世界へとひそかに旅立ってしまったような消え方だった…。
その日の朝も父の様子に、普段と変わった様子は見えなかった。いつも通りの朝食を終えると雄介は、二階の自分の部屋へと引き上げた。着替えを終えて、庭の隅に止めたワゴン車に乗り込んだのが八時少し前。この車も当初はマイカーローンで新車を購入するはずだったのに、父に保証人になってもらう手筈で進めた融資話が、いざという段になって肝心の父から保証人にはなれないと断られた。勤めて一年にもならない若造が、他人の金を当てにして大きな買い物をすべきではない、それが父の反対する理由だった。他人という言葉に雄介はカチンときた。たかが車一台のローンのことで目くじらを立てる父の態度にも腹が立ち、このまま家を出て職場近くで自活することまで考えた。しかし母の仲裁もあって、中古の車を現金一括払いで購入することに落ち着いた。息子が小規模とはいえ金融関係に就職できたのを喜びながら、一方でローンを組むことを嫌がる、そんな父の矛盾した性格を、雄介はいまだによく理解できないでいる。
いつものように出発前のアイドリングをしながら雄介は、フロントガラス越しに秋の終わりの空を振り仰いだ。深みを増した青い空に、刷毛でひと塗りしたしたような白いすじ雲が山の端へと架かっていた。
ルームミラーに目をやると、犬のアンサーを連れた父の姿が映った。鏡の中の父と一瞬目が合った。ミラーに映った父の視線からは、こちらに話しかけてくる気配はなかった。川原へ犬を連れて散歩に行くんだろう、そう思っただけだ。しかし今となっては、その時見たミラーに映った父の姿が最後になってしまった。 土手沿いの坂道を、着古した黒いコートに身を包んだ父が歩いていく。寒そうに背中を少し丸め、片手には犬を放した鎖をぶら下げている。時折り足を止めて犬の名を呼んでいる。戻らない犬の姿を捜しているのだ。いなくなった犬を捜すうち父自らが、朝もや煙る橋向こうの薄闇にふっと足音を消してしまった…。
消えた足音 【全13回】 | 公開日 |
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