ひつじが大嫌いになり、ラム肉も食べたこともないにもかかわらず嫌いなり、真っ青な空に浮かぶ白い雲も見たくないから北海道にもいくもんかと金もないのに考えている。
絶対にあたしで試してる、あの先生は。webデザイナーの仕事は基本的に座り仕事なのでトイレと昼ご飯以外は動かない。動いているのは指と脳ミソと心臓と目と皮膚だけだ。いったい一日に何歩くらいあるいているのかしら?くだらないことを急に思いついて、いつの日か遠い昔に買っただろう、いやもらったのかもしれない歩数計を腰につけ一日だけ普通に過ごしてみた。
「え?」
お風呂に入るときに確認した数字につい声をあげた。【2828】にやにやだって。その数字が少ないのか多いのかはよく分からない。
「あのさ、なおちゃんはさ、仕事中はたっているほうが多いの?」珍しく一緒に夕食とゆうか夜食を食べている。午後の九時半。なおちゃんすきだよぅ〜と抱きつくのは最近はやめた。
うっとおしいとあからさまに眉根をひそめたので。「えっ?」顔を上げるなおちゃん。なんだかとても驚いている。
「勃つ?」たつ、といいながら股間の間に腕を持ってゆきクイっと腕を上げる。いやいや、あたしはクスクスと笑いながら首をよこにふって、「立ち仕事の方が多いのってことだよ」あたしはさらに肩を震わせながらはらを抱え笑った。
「あー、そっちかぁ、てっきりねー、あっちかと思ったし」はははと苦笑する。そして続ける。「半々かなぁ。立ったり、座って事務仕事したりね。でもほとんどが立ってる。
そしてたまにさ、冗談でもなく勃つときがあるよ。うん。急になの。なんの予兆もないのにさ、でね……」缶ビールは既にいつものキャパをすっかりこえている。
疲れもあってアルコールのまわりも早いらしい。顔が紅潮し多弁になる。そう思っていたら途端に死んだようにおとなしくなり眠ってしまう。酒で眠れるなんて今のあたしには憎たらしいほどに羨ましい。「そっかぁ」
最後のあたりはあまり聞いてなかったけれど、相づちだけはうっておく。明日も仕事だ。なおちゃんは下ネタを連呼したあと、風呂に一緒に入りあたしをぽぽちゃん人形のようぞんざいに扱い、裸のままお布団に倒れ込んだ。
毎日毎日おもしろいほど飽くこともなくこの繰り返しだ。けれどぽぽちゃんも悪くないなぁって思うのは自然体でふれあうことができるから。
しかし、なおちゃんの規則正しい寝息と眠りながらのおならの部屋に取り残されたあたし。最近ほとんどいやまったくもって眠れないのだ。以前から常用している睡眠薬が効かなくなってきて、合う薬に出会うまで今まさに試験的に薬を処方されているのだった。
「じゃあ、今回はこれいってみるかね!」万年筆のお尻を額にあてがい、軽い口調でいう。あたしはとにかく先生を見つめる。
とにかく寝たいの。仕事もままならないのとゆうことは何度も呪文のよう唱えてある。「んー、これならいいと思うけれど、比較的に新薬でね、合うか合わないかは本当に個人差があるんだよ」そんなうんちくなどどうでもよかった。
「大丈夫です。合わなければまた来ます」
「あ、そう?」
そう?の語尾が右あがりなのに少しだけイラつく。ここのところこの会話のやり取りを何度も繰り返しているのだから。
『ハルシオン』は睡眠薬のオーソドックスな薬だけれど、なぜか先生は『ハルシオン』とゆう単語を口にしない。
窓から入ってくるおもての日差しが妙に目にきつい。あまり寝てないからだろう。目の下には巨大なクマ(熊)まで飼っている。
「でね」
先生は万年筆をカルテに滑らせ、くちゃくちゃの文字をさらさらと書きなぐる。えっ?それさ、適当に書いてるでしょ?といつかいってみたい。で、先生がバレたぁ〜と舌をぺろんと出すしぐさを想像してみる。想像して勝手にイラついた。しかし先生は続ける。
「舌下錠なんだよ。これは」
「ぜっかじょう」
「そう、舌下錠」
初めて聞く言葉だった。ぜっかじょう?
「ぜっかは舌下、舌ベラの下に置く水で飲まない薬なの。舌で自然に溶かすやつでね……、」
はぁ、目を窓の外に向けぼんやりと先生のお話を聞いていた。こうゆうときになぜだかうとうとするのはどうしてだろう。そうしてクシャミが出そうになるのはどうしてなのだろう。
なおちゃんはものの数分で奥深く眠りに落ちていった。
「さてと」
声と腰を上げる。あたしは素肌の上に毛玉だらけのカーディガンを羽織って今日処方された舌下錠をカバンの中から取り出す。今夜はいったい何匹のひつじを数えたあたりで眠ることができるのだろう。最高で数えたひつじは千五百匹以上にも及ぶ。
だからひつじが嫌いなのだけれど、別にひつじとゆう生き物でなくても数えるものはなんでもいいのではないか。なおちゃんがひとりだとか、ラーメンがいっぱいだとか。
しかし、ひつじは眠りにつく絶好のアイテムなのだろうか。あたしはまだ半乾きの髪の毛をワシャワシャとかき乱した。舌下錠を取り出す。白くてラムネのようなかわいらしい薬。シクレスト。ラムネの本当の名前。舌の下に置く。
舌の粘膜から吸収されていくと取説には書いてある。そのまま保安灯に切り替えてカーディガンを脱いでからなおちゃんの隣に滑り込む。暖房の音となおちゃんの寝息以外なにも聞こえない。
口の中がじょじょにしびれてくる。薬のせいだろうとは思うけれどそのしびれに顔を歪ます。どれくらい時間がたったのだろう。すごく眠たい。脳内の意識はこんとんとしているのに体はが覚醒をしている感じ。
どうしてどうして眠れないの!
あたしの体からはヒア汗が滝のようにダーダーと流れている。
な、なおちゃん、た、助けてぇ、訴えてはいるけれど、その声は出ていなく出ているのは空気だけで体がうまいこと動かせない。
動悸と息切れが激しくなり頭がおかしくなりそうで、あ、あたしもう死ぬんだ、そう悟りつつ芋虫のように一晩中うなされて苦しみ生きた心地がしないまま朝日を見ることになる。
「ハッ」
部屋の乾燥を感じて目をさますと朝の九時だった。
異様に喉がカラカラだった。なおちゃんが仕事に行ったのだけ気がつかなかった。その短い時間だけ眠ったみたいだ。
頭がガンガンする。ハンマーで殴られたみたいに。
今からだともう遅刻になるため、会社に遅れますとだけ電話をした。
事務員の佐藤さんは遅れる理由をきかない。
「だって大人でしょ?きかないわよ」
佐藤さんは以前そういっていた。
病院に行こうと決めて仕事に行ける服装でうちを出る。
なおちゃんは朝いつも『オェー、オェー』
と二日酔いいや三日酔い特有のせりふを大きな声で叫ぶのだけれどそれにも全くもって気がつかなかった。
まさか、意識がぶっ飛んだのかも。あたしはなんとうなくはははと笑う。
「やっぱりねぇ」
先生に昨夜の苦しみを散々と文句を垂れ流したら少しだけ口角をあげて、やっぱりねぇ、とこたえた。なんですと?あたしは首をかしげてみせる。先生はしかし続ける。
「あの薬はそうゆう症状になる方が多いんです。てゆうか合う人にはとても合うんですよ。なのであなたとの相性が悪かった、とだけしかいいようがありません、」
今日も窓から容赦なく入り込む日差しが無駄に目にうるさい。空気清浄機の風が観葉植物の葉をゆらゆらと揺らす。
「一睡もしていません」
はい、「寝たいんです……」はい、はい。
先生はカルテから決して顔を上げない。またなにか適当に文字を書いている。なんだよ、それはあたしの悪口でも書いてるのか?
「んー」
また先生がうーんとうなっている。額に万年筆を押しあてて。ふと、見ると額が陥没をしている。
「じゃあ、今日はこれでいってみるかな」
えっ?その言葉さ、昨日も聞いたけれど、先生、あのね、だからハルシオンをください。
「今度の薬は絶対に合うと思うよ。うん。おすすめ」
だからもう仕事遅刻できないから。
「じゃあ、合わないようならまた来て」
「……」
観葉植物にあたる風があたしの足元をすーっと通り過ぎる。
「ははははっ」
もはや笑うしか手立てがなかった。あたしは先生の目の前で大いに笑った。先生はあたしを見てもなにも動じない。もっと重病の患者さんを診ているのだから。
「笑うってことはいいことです」
ドアを背にして閉めたとき背後から声がして先生もクククと笑っていた。先生の額は相変わらず陥没をしていた。処方箋が隣の薬局なので薬を受け取る。
『あら?また来たの?nanacoカードってある?』とでもいいたげな薬剤師の説明を聞きいや聞くふりをしながら、そこにあるウォーターサーバーでお水を飲んだ。乾燥していた口内を冷たい水が潤す。
冷たいまま食道を通過し胃にたどり着く。スマホを見たらなおちゃんからメールが届いていた。《怖い夢でも見た?》あらまあ。今日はもう仕事を休むことにした。有給を使って。ハンバーグでも作っておこう。ちょっとだけ遠方のスーパーまで歩くことにした。自分の足で歩道を歩く。
たまになにもないところでつまずく。
「あちゃ、足腰がかなり弱ってんなぁー」
宙に顔を向けると真っ青な空には薄く月がはりついている。
Barren love 不毛な恋たち 【全12回】 | 公開日 |
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(その1)あめのなかのたにん | 2020年4月29日 |
(その2)とししたのおとこ | 2020年5月29日 |
(その3)おかだくん | 2020年6月19日 |
(その4)つよいおんな | 2020年7月31日 |
(その5)舌下錠 | 2020年8月31日 |
(その6)サーモン | 2020年9月30日 |
(その7)シャンプー | 2020年10月30日 |
(その8)春の雨 | 2020年11月30日 |
(その10)ワニのマフラー | 2021年1月29日 |
(その11)ヘルスとこい | 2021年2月26日 |
(その12)オトコなんてみんなばか | 2021年3月31日 |