現地を訪れ思い出に浸る
数年前の話になるが、平成二二年六月二三日の午後に、現地に行けば何か思い出すこともあるだろうと考え、細君とともにこの思い出ある場所に行ってみた。その時の思いを書き残しておいたものを記しておく。
町並みは当時のままで本当に懐かしい光景が眼前に広がった。堺市から浪速区方面へ北上すると左に神社の鳥居が見え、右には小学校の校門が見えた。
神社の鳥居は真っ白でひき立って見えた。車窓から境内を覗くと木がうっそうと茂っていた。
「そうそう、小学校の頃この道路には市電が通っていたな」。
出島行・住吉車庫行だったか曖昧な記憶だが、その時は、出島という場所には一体何があるのだろうといつも気になっていた。
買い物に行くときもたまにこの市電を利用した。
南海電車の交わるところは高架となっており、市電が一所懸命昇ろうと必死になって進んでいるのをよく肌で感じたものだ。
昇り切って見おろした景色が大変よく、また春になるとそよ風が窓から吹き込み心地の良い瞬間を味わうことができた。
あの頃の風情が懐かしく思い出された。
昔はこの神社前にも市電の停留所があった。神社の案内板には、このあたりは江戸時代に新田開発のため建てられたとされているが、この時初めて神社の成り立ちや祭神の説明を読んだのであった。
小学校以来、半世紀という時間の経過を感じさせない昔のままの神社であった。通り過ぎてしまったのでUターンし、小学校の横を東に入ろうとしたが、一方通行で入れず、次の交差点から入ると小学校の裏門の前に出た。
裏門は開いており、そこからは、当時のシンボルであったあのイチョウの木が元気よく生き生きとそびえているのが見えた。
「思い出の木が元気でいる」と心から懐かしく思えた。
目の前に浮かぶのは、かつてここで走り回った少年時代の思い出であった。校舎の配置が変わったせいか、当時真ん中にあった木は北側の校舎に沿うように立っていた。学校近くに車を停め歩いてみた。
学校から一分もかからないところに当時住んでいた長屋があったのだが、実際行ってみて驚いた。現在は一面が更地となって立入禁止の囲いがしてあった。都市銀行の売り土地となっており、当時の面影は全くなく、大家の屋敷も取り壊されたのか、なくなっていた。
囲われた土地を、当時をしのびながらグルッとまわってみた。すると、四五年前にあった長屋の前の階段は少し崩れてはいるものの、一部そのままの状態で残っていた。
また六軒長屋の真ん中にあった、一本の簡易水道も蛇口は取り外されていたが、そのままの状態で放置されていた。僅かに残る石段と簡易水道が私との共有する歴史的な接点であり、私は「懐かしいな、久しぶり僕だよ」と心の中で呼びかけた。階段と水道の前に佇たたずみ少しの時間思いにふけった。
一面更地であったが、当時の残像が脳裏を横切った。昔の思い出が更地を包み、ここで、鬼ごっこ、缶蹴り、ドッジボール、野球、べったん、べーゴマ、ビー玉等々、色々と楽しかった光景が浮かんできたのだ。
現状は昔の面影は全く無く、さびしい限りであったが、四五年以上の時の経過がしみじみと心に去来した。暮らした長屋はもちろん、あの汚い馬小屋のようだったトイレも、憧れであった「いすゞベレット一六〇〇GT」が停まっていた家も道路も全てが消え去って、更地の向こうには小学校が見通せる寂しい空間となっていたのだった。
また、長屋の前を流れていた川は昭和四五年頃に埋め立てられ、阪神高速道路が走っていた。現在、簡易水道の前にはバス停があった。
「ここからバスに乗る人がいるのかな」と思うぐらい、人の気配が希薄であった。そこには下町の賑わいはなく、感じたのは都会の中の過疎地帯のようなエポックだけであった。
この周辺をゆっくりとうろついてみた。何か道も家も町並みも全てが箱庭のように小さく思えた。
小学校当時の友達が住んでいた文化住宅はそのままの状態で建っていた。三年生の時に通った学校前のそろばん教室の家も当時と同じ名前で存在していた。
声をかけようかと思ったができなかった。その家を見たときは一瞬時が止まったように感じた。
その時の時間軸と今の自分同化したからに他ならない。小学校の庭も外から眺めたが小さく見えた。小学生時代をすごしたエリア一帯がこんなに小さい世界だったのかと改めて感じた。
一言で表現するなら、「浪速の下町、寂さびれたゴースト街」のようだった。この地区だけが現在という次元から取り残されているような感じがした。裏通りから西へ行くと表の大通りに出た。
そういえばこのあたりにお風呂やさんがあったことを思い出した。風呂はいつも当時ここにあった「宮の湯」という銭湯に来ていた。この風呂屋は今はなくなったものの、自宅の更地から風呂屋まで行く路地裏はそのままで、古びた文化住宅も以前のまま残っていた。
風呂には週に三~四回以上は通っていた。夏は家の土間でタライに水を入れよく行水をした。「宮の湯」は結構大きな風呂屋で、ピーク時は芋の子を洗うように湯船も人で溢れていた。
ある時三歳ぐらいの子が間違って電気風呂に入り大きな声を上げたので助けたが、その子はショックが大きかったのか大きな湯船に大便を漏らしてしまい、大便まみれの湯船になったことを思い出した。番台の親父に知らせると、すっ飛んできて、バケツで便をすくい、お湯を溢れさせて、何事もなかったかのように憮然とした表情で戻っていった。
私はそのとき、便は浮くものなんだと思ったが、店主のあまりにも簡単な作業で呆気にとられた。「えっ~、あれでおしまい……この湯船には当分入れないな」と思った。私は当然その湯船には気持ち悪くて入らなかったが、不良の高校生数人が騒がしく入ってきて湯船につかり、鼻のところまで湯につかったりしていた。知らぬが仏というが、いい気味だという気持ちと、「入りよった」「可哀想」という気持ちが交錯して複雑な思いであった。
しかしその光景が可笑しく、笑いをこらえるのが大変だった。小学校の高学年になると風呂屋の番台を通る時たまたま女湯に目が行ってしまったということがあった。
その視線の先には学校でも人気者でロングヘアの女の子が裸体で向こうを向いて立っていた。その子が振り向いた瞬間視線が合ってしまったのだ。
「しまった」と思い目をそらしてしまった。わざと見ようと思って覗いたのではないが、とっさの出来事だったので、体の反応としかいいようがない。
しかし気まずかった。案の定、次ぎの日学校の廊下で会った時、彼女は耳元で「いつも覗いているの?」といい、笑いながら立ち去っていった。
自分の心のなかで「たまたま目がいっただけだ」と思いながら「しかし彼女は可愛く綺麗だった」という印象が強く残った。
小学校四年生の時には何と同じクラスの女の子が平然とお父さんに連れられ一緒に男湯に入っててきたこともある。
その時は本当にびっくりした。背が低かったこともあり、低学年に見えるが、それでも裸体で歩かれると、眼のやりどころがなかった。
彼女は全くといっていいほど恥ずかしさもなく自然に男湯に溶け込んでいた。しかし、これ以降女の子が男湯に入ることはなかった。
番台のおばさんが居合わせた他の父兄から注意を受けたようで、翌日からは「女湯に入りなさい」と促されたと聞いた。
この銭湯には男湯と女湯の壁があるが、時には小学校低学年の男子がその壁をよじ登って女湯を覗き込み「おかあさん、もう出るで」と大きな声で話しかける光景や、石鹸やスポンジが女湯から飛んでくることもあった。
さらに出入り口にある最終の洗い場の甕かめには水が張ってあるが、この甕が女湯と共用で繋がっていたこともあり、低学年の男の子等はそこから潜り女湯と男湯を行ったり来たりしていたのだ。
湯船では洗面器を逆さにして空気を入れた状態で潜り、潜る時間を競い合ったこともあった。
負けた場合は罰としてその子を水場まで連れて行き頭にバケツをかぶらせ冷たい水を三杯ほど頭からではなく下から浴びせかけるのである。
目をつぶって息を止めているが結構鼻に入り痛かった。湯船は常にお湯が溢れる状態で気持ちのいい循環がなされていたと記憶している。子ども等の遊び場と化した銭湯が突然、一瞬にしておとなしくなるときがある。それは背中一面に龍の刺青をした強面こわもての「中年のおじさん」が入ってきたときだ。
嵐が去ったように一瞬にして何もなかったかのように静かになる。子供たちは公共の場の銭湯で、駆け引きの社会を学ぶよい機会を得ていたともいえる。子供たちにとってまさにこの風呂屋は自由な空間であった。
やはり現場に行くと少年時代のこんなくだらないことまで思い出してしまうから面白い。懐かしさのあまり現場に長居をしたが、その日のうちに家に戻り、この小学校のホームページを検索し調べてみた。
なんと全校生徒数(平成二二年)は九四人、全学年とも二〇人前後であった。一年生は一一人しかいない。大きな町の小学校と思っていたが実際は過疎の村のような状況となっていることを知った。
当時は校庭に溢れんばかりの児童がいたのに、寂しい限りだ。大都市大阪市内であるにも拘わらず、都市の過疎化が一段と進行している。
活気に溢れていた街がこれほど寂れ、子供がいないという何とも深刻な現実に直面する中で、何とも哀れな悲壮感を禁じ得なかったのである。
以上のように記してあった。その後、平成三〇年に改めて調べてみると、この小学校は平成二七年三月に廃校となっていた(生徒数六七人)。また私が住んだ長屋跡には老人介護施設が建っていた。この懐かしい空間と私とが断絶していた間、時の流れは容赦なく、時代は着実に進んでいたのである。
私の良き時代・昭和! 【全31回】 | 公開日 |
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(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 | 2019年6月28日 |
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ | 2019年7月17日 |
(その3)死への恐怖 | 2019年8月2日 |
(その4)長屋の生活 | 2019年9月6日 |
(その5)私の両親 | 2019年10月4日 |
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 | 2019年11月1日 |
(その7)小学校時代 | 2019年12月6日 |
(その8)兄との思い出 | 2020年1月10日 |
(その9)小学校高学年 | 2020年2月7日 |
(その10)東京オリンピックと高校野球 | 2020年3月6日 |
(その11)苦慮した夏休みの課題 | 2020年4月3日 |
(その12)六年生への憧れと児童会 | 2020年5月1日 |
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 | 2020年5月29日 |
(その14)少年時代の淡い憧れ | 2020年6月30日 |
(その15)父が父兄参観に出席 | 2020年7月31日 |
(その16)スポーツ大会と学芸会 | 2020年8月31日 |
(その17)現地を訪れ思い出に浸る | 2020年9月30日 |
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(その21)大阪へ引っ越し | 2021年1月29日 |
(その22)新しい中学での学校生活 | 2021年2月26日 |
(その23)流行った「ばび語会話」 | 2021年3月31日 |
(その24)万国博覧会 | 2021年4月30日 |
(その25)新校舎での生活 | 2021年5月28日 |
(その26)日本列島改造論と高校進学 | 2021年6月30日 |
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 | 2021年7月30日 |
(その28)社会見学や文化祭など | 2021年8月31日 |
(その29)昭和四〇年代の世相 | 2021年9月30日 |
(その30)日本の文化について | 2021年10月29日 |
(その31)おわりに | 2021年11月30日 |