全国各地の市町村合併はますます拍車がかかってきた。なかでも鳥取県などは、私が行かないうちにかなり進んでしまっている。平成の合併が動き出す前の平成13年には39あった市町村が今年(2005年)末には19になりそうである。鳥取県には米子市と境港市を除いて行ったことがなく、4日間で残りのすべての市町村をまわることにチャレンジしてみたくなった。県内の路線バスに3日間乗り放題でわずか1500円という「乗り放題手形」というフリー切符があり、有効利用させてもらった。定年退職しフリーの身になったとはいえ、日程的な制約があり日曜日出発で水曜日中にはどうしても戻らなければならない事情があった。
大鳥取市誕生 32万石の城下かな
日曜日早朝、羽田から鳥取への便は166席のエアバスA320だったが乗客はたった15人だった。
空港連絡バスで15分ほどの県庁日赤前で下車する。この辺りには県庁、市役所の他県文化の会館、市民会館、日赤病院が立ち並ぶ鳥取市の行政及び文化の中心だが、日曜日の朝9時には歩いている人などなく閑散としている。ここから駅までの1キロくらいがアーケードの続く市内随一のメインストリートということになのだろうが、殆どの店はまだ開いておらず駅までの間たまに人にすれ違う程度だった。時間帯にもよるが、始めて来た県庁所在地のあまりの寂しさに驚いたものである。
この鳥取市、昨年11月に周辺の9町村を編入するという形の合併を行い大きくなった。合併前の単独の人口が150千人、合併後が201千人で33%増、面積は237平方kmから766平方kmと約3倍になっている。ちなみに県庁所在地で同じくらいの面積のものを探すと前者では合併前の長崎市、後者では仙台市と福島市の中間くらいである。また鳥取県の人口は全都道府県中最小の62万人弱だが、合併後は人口の三分の一を占めることになる。ちなみに面積では22%で弱である。
合併の対象となったのは西隣の気高郡の3町、これで気高郡は消滅、東隣の若美郡からは1町1村で最東端の岩美町だけはなぜか不参加、南隣の八頭郡からは8市町村のうち4町村が参加し、残り4町中3町は後述の八頭町となる。合併後も旧町村役場が鳥取市役所の支所となって従来通りの住民サービスを続けるのは他の合併ケースと同じだ。住所表示は今まで何々郡何々町としていたものを鳥取市何々町とすることになったが、面白いのは岩美郡の福部村が鳥取市福部町に、八頭郡佐治村が同佐治町という具合に合併を機に村から町に昇格?したことである。
しかし合併したからといって鳥取市街地の賑わいが変わるものではない。1日目は鳥取駅前のビジネスホテルに泊まったが、夜8時を過ぎる頃に駅からメインストリートを見ると、目に付く看板は消費者金融のものだけという、地方の人口10万人前後の2~3番手都市の駅前光景と変わらない。鳥取市は32万石の池田氏の城下町だったそうだが、つい2週間前に行った伊予の松山の方が15万石だったのに市街地の規模や賑わいは比較にならないくらい大きい。正岡子規の有名な句に「春や昔 15万石の城下かな」という明治の松山を詠んだものがある。この句の最後の「かな」は感動の意を表す「・・・だなあ」とか「・・・なものだなあ」という意味で使われていると思うのだが、鳥取について「冬の朝 32万石の城下かな」と詠む人がもしもいたとすれば、その最後の「かな」は「本当かな?」という疑問の「かな」なのだろうかなどと余計なことを考えてしまった。
神話のひびき、新八頭町
鳥取県の路線バスは日の丸交通と日本交通の2社体制である。地域的な棲み分けはなくほぼ全県でこの2社が路線を張り巡らせている。お互いに競合しているのかと思ったらどうもそうではなく上手く補完しあっているように見えた。バス同士がすれちがう時、同じ会社同士だと運転手は手をあげて相互に挨拶する。挨拶というよりも、登山者同士が確認の声を掛け合うように運行状況の確認をしているのかもしれない。他社バスの運転手とこれをやっているのを普通は見ないが、ここではいつでもやっている。行政の指導が良いのかも知れないが、バス会社の間でも共通のフリー切符を発行する土壌のようなものができているのだろう。 せっかくそういう切符があるならばなるべく有効利用しようと今回はバス主鉄従とすることにした。鳥取県というのは面積が狭いこともあるが今回対象とする合併前の39市町村のうち鉄道駅がなくバスでしか行けないというのは実は4つしかない。佐治村、鹿野町、三朝町、関金町で倉吉市の市役所は駅からかなり遠いのでバスが必要ではあるが一応駅名は倉吉になっているので除いている。従っていくら時間をかけてもいいというならば鉄道主体でもいいが、現実的にはバスとの併用が望ましく、とくに今回はまずバスを考え、鉄道で補完するという形をとったのである。
まず鳥取駅前から日本交通のバスで八東町へ行った。因美線で郡家へ行き若桜鉄道に乗換えて行くこともできる。千代川の支流八東川の流域に入るとバスは谷底平野の山裾にあたる一段と高くなった部分にある若桜街道(国道29号線)を走るので、鉄道に比べて周囲の風景全体が見渡せる。ここにある3町の智頭、船岡、八東がこの3月31日に合併し八頭(やず)町となる。八頭八尾の巨大蛇ヤマタノオロチの神話などからくる地名だと思うが、この辺りのバスから眺める風景は数日前の大雪が残る冬の寂しさと相まって何か民話の里を思わすものだった。
若桜鉄道の終点で兵庫県に隣接する旧若桜藩の城下町、若桜街道の宿場町でもあった若桜町だけはこの合併に加わっていない。歴史の町をさかんにPRしていた。
温泉、二十世紀梨、海水浴 湯梨浜町
2日目もほとんどバスを利用した。早朝東部をまわった後西に向かって1町ずつ進んだ。鉄道駅を持たない、海に面していない鹿奴藩3万石の城下町旧鹿野町の役場前のバス停は除雪した雪が高く積まれ舗道に行くには横断舗道までの数十メートル車道上を歩かなければならなかった。数日前の大雪以来、このバス停を利用した人はいなかったのだろうか。
バスを乗継ながら羽合町に来た。ハワイと読む。随分昔の話だが営業成績が未達で会社のハワイ旅行の選に洩れたことがあった。未達仲間と憂さ晴らしにここへ行こうかと冗談を言い合ったのを思い出したが、そのような客をねらったのかハワイ温泉だとかハワイ夢広場といったものがあり、椰子の並木まであった。しかしその椰子、他で見るものに比べて背が低いし葉の茂りも哀れだ。冬の日本海に面したところで、本場に行けずにやけくそ?で来るかも知れない客を待つ南国育ちの椰子こそいい迷惑だろう。
その羽合町も東郷町、泊村と昨年(2004年)10月に合併し湯梨浜町となった。温泉、二十世紀梨、日本海に広がる砂浜とからの造語のようで、何々中央市などよりは安易な感じではないがなんとなくハワイ温泉の乗りの続きであるような気がする。鳥取市内の湖山池に次いで大きい東郷湖はかつての日本海の内湾がふさがってできた海跡湖で汽水湖だが、湖畔にある旧東郷町役場付近には東郷温泉があり、日本最大の広さと称する有料の中国庭園もあった。観光施設という感があったし時間もなかったので寄らなかったが、周囲の光景はなんとなく中国長江デルタに点在する湖の光景に似ていなくもなかった。それだけにもう一方の対岸にあるハワイ温泉とのアンバランスがますますおかしく感じられた。
廃線と廃業旅館 倉吉から関金へ
国鉄倉吉線というのがかつてあり、昭和60年(1985年)4月に倉吉・山守間20.0キロが廃止となった。私はその2~3年前に乗っており、手許に関金駅で押したスタンプも残っているのだがどんな車両に乗りどんな光景だったかどうしても思い出せない。またそれ以前今の倉吉駅は上井(あげい)駅と称し、市役所近くの打吹(うつぶき)駅がかつての倉吉駅だった。そのような歴史にみるように市の中心は山陰線の倉吉駅から3~4キロ離れているが、この間は日の丸と日交両社のバスが頻繁に走っている。日本海に注ぐ天神川が市の中心部近くで支流の小鴨川と合流するが、往時の倉吉線はこの小鴨川に沿って走っていた。
本流の天神川を遡ると三朝温泉のある三朝町がある。まずここへ寄ってから倉吉の中心街、堺町に出て関金温泉までバスに乗った。予め電話で予約をしておいた国民宿舎は温泉バス停から歩いて15分くらいの丘の中腹にあった。いわゆる温泉街というような狭い込み入った道を想像していたが、畑の中の広々とした道の所々に旅館や施設がある寂しい道だった。着いたときはもう暗くて良くわからなかったが、翌朝部屋の窓からは低い山並みの向こうに真っ白な大山が見えたし、下を見ると小鴨川の対岸の随分遠いところに町役場があることがわかった。丘を下る途中に「当分の間休業します」と書かれた札の下がった荒れ果てた旅館があり、景気の厳しさを感じずにはいられなかった。後でわかったことだが、関金町役場のあった辺りが倉吉線の関金駅があったところらしい。
バスで倉吉市内に戻り市役所に寄ったりしながら少しの時間市内観光をした。市役所の裏手にある打吹山に南北朝時代城が築かれ城下町として発展したそうで、白壁土蔵群や商家の町並みが残っており、それらを見て歩いた。また倉吉ではトイレの街を名乗っており市推奨の「見学にたえうるトイレ」が20ヶ所もあるそうだが、こちらのほうはたまたま用がなかったのでどこにも寄らなかった。3月にはこの倉吉市に関金町が編入される形の合併が行われる。
幕末の戦略的防衛
倉吉市外から小さな峠を越えると由良川の流れに出る。この由良川の河口には幕末に鳥取藩が作った要塞が今でも残っているということをバス内のアナウンスで知り行ってみた。山陰線の駅名は由良だが町名は大栄で、東隣の北条町と今年10月に合併が予定されている。新町名は足して2で割ったような北栄町となる。要塞は駅から1キロくらいの日本海に面した浜にあったが、国道9号線バイパスがさらにその先を走っていた。付近はお台場公園となっており、テニス・コートなどのスポーツ施設や児童公園のほか広い駐車場をもつ道の駅まであった。最初道の駅の方から入ったがいろいろな施設がわざわざお台場に似せて土盛でできているのでどれが本物の要塞かがわかりにくかった。ようやく一番奥の由良川河口のものがそれとわかった。
この要塞は幕末の文久3年(1863年)鳥取藩により築造されたもので、四角形の二つの角を切り取った六角形のもので東西125メートル、南北90メートルのものだ。鳥取藩では当時海防に備え砲台を県内に他7ヶ所作ったそうだがここのものが規模が大きく、また原型を完全にとどめているとのこと、全国的にも貴重な文化財として国指定の史跡にもなっている。要塞の中に入ると周囲が土手に囲まれた広場に過ぎないがここだけはその後何の手も施されていないようで、雑草が生えたままなのが往時をしのばせるようでいい。土手の上に上がってみると大変景色がよく、真っ白な大山もよく見えた。
またここに設置された大砲は倉吉から来る途中の六尾というところに安政4年(1857)建造された2基の反射炉から作られたという。復元された大砲が一台展示されていたが、それは当時配置されていた最大級のもので、砲身3メートル、口径35センチ、重量2トンで台車がついていた。実戦に向け備えられたが一度も使われることなく明治維新を迎えたとのことである。
この要塞や大砲を見ていると、当時としては相当な費用や人手を要しただろうし随分無駄なことをしたように思われる。しかし鳥取藩がこのような設備を作ったということを当時の西洋列強は当然調べて知っていただろうから、もし日本を攻撃するとしてもここは避けるか、あるいは攻撃するという考えを捨て外交交渉に向かうということになる。だから鳥取藩としては十分効果があったのであり、これがいわゆる戦略的防衛ということなのだろう。鳥取市が松山市に比べてずっと寂しいのも案外こんなところに大金を使ったことによるのかも知れないし、外海に面した旧藩のハンデというものもあったかも知れない。 歩いて15分ほどの山陰線由良駅からひとつ鳥取寄りの下北条に戻り、北条町役場に行き、今度は米子方面に2駅目の浦安駅で下車、半年前に西隣の赤碕町と合併し琴浦町となった旧東伯町役場に行った。そしてもうひとつの旧赤碕町役場まで日の丸バスで行き、その後はバスを主に、ときに列車に乗り役場めぐりをしながら米子に向かった。この日だけで11役場も行けたという首都圏並みの高効率だったが、それはこのあたりは山陰線のほぼ一駅ごとに役場があり、バス路線も並行していたからである。
たたらの道 出雲街道を歩く
「乗り放題手形」の有効期間は3日間なので最終日は普通に切符を買いながら伯備線の沿線、日野川流域の町を訪ねた。伯備線はいわゆるローカル線であるJR地方交通線ではなく幹線という位置づけで陰陽を結ぶ特急「スーパーやくも」や「やくも」がほぼ1時間ごとに走っている。幹線と地方交通線とでは営業キロの表示方法や単価に違いがあるが、要するに幹線の方が運賃は安い。しかし幹線だといっても、この沿
線上の5つの町を順にまわるには不便である。特急にくらべ各停電車は2~3時間に1本しかない。こういうときは稲妻方式かバスとの併用があり、どちらも条件が良く実現可能なのだがそれでも時間があまってしまう。そういう時はなるべく歩くようにしている。次の電車を待つ間時刻表の営業キロで岸本・伯耆溝口間5.0キロ、江尾・根雨間6.7キロを歩いた。岸本町と溝口町は今年の1月1日に合併して伯耆町となった。江尾駅近くの高台にある江府町の町役場は今時めずらしい木造の古いものだったがその正面から見る大山は印象的だった。またそこから根雨まで歩く途中ふと横を見た時も、びっくりするほどはっきりと真っ白な大山の姿があった。
たまたま買った当地の「日本海新聞」に、奥出雲のたたら製鉄は有名なのに、奥日野はなぜ知られていないのか、という記事があった。良質の砂鉄と土、豊富な森林を備える中国山脈を抱え江戸時代には国内の製鉄を寡占するほどの産地だったそうだ。記事によると出雲の場合は松江藩が製鉄に対し強力な保護政策を展開し、小領主が経営する形態で産業として藩財政を豊かにし文化財が蓄積される基盤になったので今でも松江や出雲などを含めたトータルな観光資源の一部になっている、これに対して鳥取藩は県西部については関心が低く文化の爛熟がなかったからで、もっとそれをPRするべきであると書いてあったが、駅などに置かれたパンフレット類でたたら製鉄に関するものを目にすることはなかった。
最上流の日南町は岡山県と接している山奥の町だが町役場は最寄りの生山駅からは2キロくらい更に上流にあり、町営バスもあったが時間があるので歩いて行った。庁舎は最近立てたと思われる立派なもので中に入ると吹き抜けの天井のもと一流ホテルのロビーのようだった。隣接する総合文化センターには美術館や図書館の他さつきホールという500人収容のコンサートホールがありピアノはスタインウェイだそうだ。利用予定はほとんど無いようで、首都圏で私もかつて何度かそのようなホール探しをしたがいつも数倍から数十倍の抽選に当たらないと利用できなかったという経験があり何とも釈然としなかった。
米子に戻りバスで昨年10月に合併して南部町天萬庁舎となった旧会見町役場へ行き残りはひとつとなった。海を除く3方が米子市に囲まれた米子市の一部のような位置にある人口3千人強の日吉津村(ひえづそん)だが米子市と淀江町との合併計画にも加わっていない。バスで行ったが日が落ちてきて、またバス停が道路工事で移転していたようで庁舎をすぐには見つけられなかった。やっとわかったときにはフラッシュの光で庁舎の看板を撮るだけがやっとで、米子空港へ行くために伯耆大山駅までの1.5キロを全力疾走に近い速さで走らなければならなかった。これでやっと鳥取県の全市町村39に行けたので、全県制覇の第1号となった。