青春18切符が使えるシーズンには積極的にそれを使っている。今回はそれほどの遠隔地ではないが未だに役場訪問の空白地帯であり、かつ大型合併があった新潟県上越市方面に行った。
自宅から徒歩15分の南武線宿河原駅から4時54分発の一番電車に乗る。もう何度か乗ったことのある立川行きで、立川で中央線高尾行に、そして松本行きの各停電車に岡谷まで乗った。岡谷では飯田線からの快速「みすず」が1分の接続で待っていて、これに乗り長野には10時45分に着いた。長野新幹線でこの時間に長野に着くには自宅を7時頃には出なければならないので、頑張って2時間早起きすればいいのだから青春18切符はお得である。さらに松本までだと特急「あずさ」の一番列車よりも早く着く。
二つ巴のような妙高市と上越市
長野から信越線の電車で妙高山を左手に見ながら信越国境を越え関山で降りた。信越線のこの区間はほぼ1時間に1本走っているが、その中には「妙高号」という名前のついた特急型の車両による電車も何本か走っている。新幹線からの接続客をねらったのだろうが、以前は快速だったのにすべてが各停になっていた。直江津方面への速達という意味からは上越線・ほくほく線に一歩を譲っているのだろう。新潟県に入って最初の町妙高高原町は93年に行っているのでパスした。
関山駅近くの旧妙高村役場へ行く。今年(2006年)4月に新井市、妙高高原町と合併し妙高市となり、妙高市妙高支所という看板が掲げてあった。次の列車が次駅二本木を発車するまで1時間30分あったので歩いた。地図上ではそれほどの距離とは思えず、全体に下り勾配だから楽だろうと思っていたが、駅間距離で8.3キロもあったことを後で知った。暑かったので最初はいつもよりゆっくりのペースで歩き、かつてスイッチバクックだった関山の旧駅跡の写真を撮るなどのんびりしていたが、途中からこんなペースではだめだと気がつきいつもの時速6キロペースとなった。とたんに滝のような汗になり、旧中郷村役場の写真を撮り二本木駅に着いたのは、発車2分前だった。
旧中郷村は北隣の新井市とではなく、さらにその北の上越市と合併したので、ここでは新井を中心とする新しい妙高市に上越市が食い込む形で、すなわち妙高市と上越市とが自動連結器でがっちり結びついたように、お互いに組み込む形で結びついた。だから信越本線で長野の方から来て新潟県に入ると、妙高高原、関山と妙高市内を走り、二本木でいったん上越市に入り、新井で再び妙高市となり、最後に高田から上越市となる。合併が一筋縄で行かない例だ。どちらも飛地でないだけ良いとも言えるかも知れないが、平成の合併でできた数多い複雑な自治体境界のひとつであることには違いない。旧中郷村庁舎には「中郷区総合事務所」と書かれた看板が掲げられており、上越市という文字は「ごみ減量市民運動」の旗の下のほうに小さく書かれていたもの以外に見つけられなかった。
二本木はいまだにスイッチバック駅だ。日本曹達の工場へのタンク車の入出場があり、今の駅の場所を簡単に変えられないのかもしれないし、駅周辺も市街地が結構立て込んでいるのでスイッチバックを解消して通常の駅に変えるのは難しいのかも知れない。
次の新井までの1駅は特急型車両の「妙高号」に乗った。冷房がよく効いていたが、流れる汗が止まらないうちに下車しなければならなかった。旧新井市役所がそのまま妙高市役所となっていたのは順当なところで、他の2町村が妙高高原町、妙高村だったので妙高という名を残し、市役所という実をとったというところか。
市役所は駅から2~3分ほどの近さにあり、その中間にあるバス・センターから旧板倉町役場へのバスに乗った。この先は鉄道から大きく離れたところに町や村が多くあり、それらすべてに行くにはバスと徒歩をうまく組み合わせるしかない。バスは青々とした稲田の中を走ると、平野の中を数キロにわたって延びる建設中の北陸新幹線の橋脚が見えてきた。その高架橋をくぐりさらに進むと板倉区総合事務所前に着く。ここの看板も「板倉区総合事務所」とあるだけで上越市という表記はなかった。この後まわった同市のすべての総合事務所は同じように、どこにも上越市と書かれていないので知らないで訪れた人はここがどの自治体に属するのか迷うことだろう。なんだか合併が不本意で、抵抗しているように思えてならない。
役場前で40分ほど待ってその隣の旧清里村役場前までバスに乗った。10分ほど走って役場の構内のバス停に停まった。もちろんここにも上越市の表記はなかった。ここから隣の牧村へ直接行けるバスはない。高田平野と呼ばれているこの一帯にはいくつかの村や町があるが、それらへはいずれも高田や直江津、或いは新井からの放射状に出ているバスで行くことになる。だから全部を路線バスで回ろうとするとその都度高田などに戻らなければならず効率が悪い。といってすべて歩くには距離がありすぎる。
そこでまず旧清里役場から、2キロくらいのところにある高津というところまで歩き、高田から来るバスで旧牧役場まで行った。ここも庁舎の表記は変わっていたが、バス停は村役場前のままだ。その先は戻るバスがすぐにないので8キロくらいだったがその北隣の旧三和村役場まで歩いた。途中に小さな古墳が群集しているところがあり、古墳公園になっていた。三和からはバスで高田に向かった。この間のバスは頚城交通グループのもので、インターネットで時刻表を見ることができたので事前に調べて行程を組むことができた。
軍都の賑わいと国分寺、国府、総社の三点セット
高田に泊まった。駅から徒歩15分くらいの旅館で、1泊2食ビールがついて6730円と安かった。スポーツ遠征か何かの学生達も泊まっていた。宿の亭主は愛想がよく、絵葉書セットまでくれた。高田は城下町から軍都を経て、今も自衛隊が駐屯する。いまだに伝統的な木造雁木が多く残っているほか、メインストリートの本町通りなどは金属製のアーケードのような堂々とした雁木が続いていて地方都市にしては思いの外賑やかさを感じた。自衛隊の駐屯というのは地域経済への貢献が大きいのかも知れない。高田城は江戸時代になってからの慶長19年(1614年)に築城された平地の城で、横をバスで通っただけだがかなり広いように思えた。だから明治になって陸軍の師団が入城することができたのだろう。
旅館のすぐ近くに師団長官舎というのがあり観光名所になっていた。翌朝オープン前の時間だったので外から見ただけだったが、普通の洋館ではあるものの屋内はアールヌーボー調で一見の価値があるらしい。門横には特徴ある髭をもった初代師団長長岡外史の銅像があった。JR高田駅は最近新しく改装された和洋折衷の、遠くから見ると外国の駅かと思わせるような姿で、駅前も再開発事業により城下町をイメージした雁木型アーケードで歩道が覆われていた。本町通りといい、この駅前といい、地方都市としてはめずらしいほどの活気を感じた。
平成の合併前の旧上越市は1971年に高田市と直江津市とが合併してできたものである。市役所は高田と直江津の中間の春日山駅前にある。ふたつの市の中間をとったとも、越後の守護上杉氏の要害として南北朝の頃に築かれた全国的に知られている春日山城の近くにもってきたとも考えられるが、多分前者だろう。春日山駅は単線上に片側ホーム1本だけのローカル風な駅だが有人で緑の窓口もあった。駅舎は市役所とは反対側にあるので、地下道を通って反対側に行かねばならない。何十年か前にこのあたりに来たことがあり、市役所はもっと駅から離れていたような記憶があり、調べてみたら2002年に直江津市街から移転し新築されていたことがわかった。周囲は官庁街の様相を呈しているが、もともとは両市境の田園地帯だったところがニュータウン風になったので、もしも両市の合併がなかったなら、この辺りは昔のままの田園風景のままだっただろう。
平成の合併後も市役所もここで、当然ながら上越市役所と書かれた看板が掲げてあった。新上越市は1市6町7村の14自治体により今年(2005年)1月1日に合併した。総人口21万人、1992年の同14市町村の人口合計は22万1千人だったから5%くらいの減少になっている。そのなかで旧上越市だけの範囲では92年の12万9千人から13万3千人とわずかだが増えている。この地域でも全体では人口流出しながら周辺部から中核となる都市に人口移動のあることがわかる。
この近くに国分寺がある。先日の備中国分寺での体験からここにも行ってみたくなった。適当な交通手段がなく、春日山駅前からタクシーに乗った。春日山城への上り口の前を通り本願寺国府別院というところで降りた。鎌倉時代に念仏禁止の弾圧によって越後国府に流罪となった親鸞がここに住んでいたと言われている。このあたりの地名が国府なのでかつての国府のあったあたりなのだろうか。そこから10分くらい歩いたところに五智国分寺がある。ここは上杉謙信が古式にのっとり再興した寺であるが越後国分寺の跡だという説があるがまだ解明されていないという。三重の塔がしっとりとしていていいムードだった。慶応元年(1865年)に建立されたものだが高欄などが未完成のままだそうだ。
さらに直江津駅の方に向かって20分ほど歩き越後総社(府中八幡宮)へも行ってみたが、うらびれた感じの神社で由来を示すようなものは何も見つけられなかった。古代国分寺友の会のサイトによると、越後国府は所在不明だし、古代の国分寺は海の底らしい。府中八幡宮も総社にしては淋しく、とりあえず真偽のほどは別にして越後の国府、国分寺、総社の3点セットを訪問したということにした。ここから直江津駅は近く、歩いて5分ほどだった。
どんどん削られる日本海側の陸地
古代の国分寺が海中ということは、日本海側がどんどん海に侵食されて来てそれは今に続いているようだ。直江津から糸魚川までの北陸本線は、1969年の複線電化時に内陸側に長大トンネルを掘り線路を切り替えた。私が初めてこの区間を乗ったのは1965年ころのことで、当時は海岸沿いの急峻な崖上を走り、景色が良かったように覚えている。今は内陸から河川が流れ出す部分だけがトンネル外で、名立も能生のどちらもそのような高架上に駅があり、谷間に街がある。またその中間にある筒石駅はトンネルの中の駅である。
名立、能生とも駅から500メートルくらい海岸の方に進んだところに町役場があり、その近くに旧駅があったようだ。特に能生町役場前には駅跡を示す石碑が建っていた。なお名立は上越市となったが、能生は糸魚川市となった。糸魚川市、青海町とともにこの3月に合併し新しい糸魚川市となった。妙高市も含めるといわゆる上越地区の自治体数は今年の1月から4月の間に20市町村が3市町村へと激減した。 北陸本線の電車はかつての寝台用特急電車を近郊区間用に改造した419系、中間車の先頭車化改造による食パンのような切妻前面が北陸に来たことを感じさせる。3両1組で、この区間を走っているローカル電車はほとんどこの系統だった。しかし内部の座席配置や狭い乗降扉などから通勤ラッシュにはどうみても向かないことから、今では北陸本線のなかでも閑散区間であるこの地域と福井敦賀間の限定使用だそうだ。かなり経年が進んでいるようだし清掃が行き届いていないのかガラスなどよごれたままだった。
能生駅前で昼食、冷やしうどんにサービスのコーヒーがついて680円だった。糸魚川で下車して市役所に、さらに新潟県最西端の青海に行った。電気化学工業の城下町といった感じで、駅は工場と直結した広い貨物ヤードにたくさんの専用貨車が並び、最近ではめずらしい貨物主体だった。駅業務もJR貨物に委託しているそうだ。ここの庁舎は半分が解体中だった。合併で議会スペースなどの不要部分が生じたからだろうか。いや合併とは関係ない庁舎の増改築の一環なのかもしれない。長期に練った計画を合併などの急激な環境変化に柔軟に対処することができない、というわが国の行政機構の悪しき弊害事例でなければいいがと思った。
頚城鉄道廃線跡に向かって
高田平野は頚城(くびき)平野とも言われているが、越後国ではもっとも早くから開発が行われた平野だそうだ。古くは平野全体が頚城郡であり、今回の合併前の各町村は、東頚城、西頚城、中頚城のいずれかの郡に属していた。だから頚城村というのがこの地方のかつての中心だったのだろう。直江津駅に戻り駅前から旧頚城村役場へ行くバスに乗った。高田平野の東に広がる稲作の盛んな農村で1971年までは黒井・浦川原間の15キロを頚城鉄道というナローの鉄道が走っていた。廃止直前の3年間は中間の百間町・飯室間という国鉄とも連絡しない部分5.9キロだけが営業されていたそうで、それは冬期の道路事情によるものだったそうだ。
鉄道会社はその後バス会社となり、さらに細かく地域ごとに分社化された。頚城村まで乗ったのは頚城自動車(株)のバスだったから本家筋、それもそのはずほぼ廃止された鉄道路線跡に沿って走るものだった。旧役場である区総合事務所にもつとも近い海洋センター前で下車、この近くに鉄道の主要駅だった百間町もあったらしい。旧村内を循環しているコミュニティバスのようなものがあった。車両には頚北観光バスとあったが、1回の乗車が100円で黒井駅まで行くものもある。直江津からのバスは430円だったからJRと組み合わせて上手く使えば安上がりだ。
ここから隣の旧大潟町へ行くにはいったん直江津に戻りJRを使うのがもっとも順当なところだが、地図を見ると直線距離で5キロ少々なので歩いて行こうと思った。ところがこの循環バスが途中半分くらいのところにある下柳というところまで、それも数分後にあることがわかり100円で乗り、残り3キロ程を歩いた。途中一面の稲田の中を高架が一直線で続くほくほく線の下をくぐった。特急電車でも走っていれば良い写真が撮れそうなところだった。旧大潟町の庁舎は2002年4月に建ったばかりの豪華なもの、円形の議会場跡など会議室ばかりが目に付く庁舎案内図があった。さらにJRで柿崎に行き海水浴客向けと思われる民宿に泊まった。
柿崎区総合事務所は西洋の美術館か学校のようなレンガ建風の庁舎だが、前面の広場を挟んで建っている教会と釣り合っていて、ここだけが少々日本離れしているような感じがした。と思ってよく見ると教会というのはキリスト教のそれではなく、なんと仏教の寺だった。しかしどうみてもキリスト教風である。寺院の方が庁舎よりも古そうだから、町役場を建てる際にこれを意識したのだろうか。
ほくほく線
柿崎駅前すぐ近くのバス・ターミナルは、昨日旧頚城村内を走っていた頚北観光バスの本社があり、ここから内陸部にある吉川区総合事務所へはバスで往復した。戻りのバスを待つ間、まだ新しい大きな庁舎のロビーのソファーに座っていたら、就業時間前なのに男性職員が自動給茶機からお茶をもってきてくれた。柿崎に戻り信越本線を犀潟まで乗り、北越急行ほくほく線の各停電車に乗り換えた。今日JRに乗る予定はこの柿崎・犀潟間だけなので「青春18切符」は使わずに普通の切符で乗車した。230円だった。なお「青春18切符」を一日あたりに換算すると2300円である。
やって来たのは「ゆめぞら号」というイベント用の車両で、トンネル内で自動的に車内が暗くなりDVD映像が天井に投影されるというもので、魚が泳いでいる海中の映像だったが別に面白くもない。それよりも音楽の音がやたらに大きくて耳障りだった。うらがわら駅で降り、これも新しく豪華な浦川原区総合事務所に行った後バス・ターミナルで安塚町へ行くバスを1時間近く待った。後で知ったのだが、このターミナルがかつての頸城鉄道の終点浦川原駅跡だった。残念なことに写真は撮っておらず、今思い出すと確かに鉄道駅舎の面影が残っていた。
これは分社化された東頸バスの本社でもあり、ここからそのバスで次の旧安塚町役場へ向かった。ほくほく線の次駅虫川大杉を通り線路から直角に進んだ。安塚第四銀行前で降り旧役場に行った後、帰りのバスを待つ間昭和30年代にタイムスリップしたような食堂をみつけ冷中華の昼食を摂った。盛付けも味も昭和30年代という感じだった。
虫川大杉駅から1駅、ほくほく大島で下車、旧大島役場は手持ちの地図では駅から南に1キロとあったが、駅前の標識では反対方向の北に1キロと表示されていた。新しい標識で大島区総合事務所と書いてあったので、こちらの方が正しいはずと思って歩くと、昔の旧家を復元したような真新しい事務所があった。見ると平成17年、つまり今年の7月にオープンしたとある。合併後に移転、新装開業したものだ。そう言えばこじんまりしていて、余計な会議室などないようだったので合併が決まってから急遽場所換えなどの変更をしたのかも知れない。そうだとすれば役所にしては珍しくフレキシブルな対応であり拍手を送りたい。
ほくほく大島駅の駅舎は3階建てで、高架部にある1面1線のホームと3階の待合室が同一面となっている。1階には喫茶店、2階にはギター教室が入居しており、エレベーターも設置されている。乗客からの要望とそれへの回答が駅に貼ってあり、他の駅もほくほく大島駅のように設備を充実してほしいと出ていた。それに対し会社は、当駅は上越市の補助でそうなっている、今後他の駅でも行政とタイアップしながら快適なものにして行きたい、というようなことが書かれていた。役場の設備を最小限にして駅を便利で快適なものにしている、ということであればこれにも拍手を送りたい。
ほくほく線もトンネルの連続で景色を楽しむことはできない。駅間は殆どトンネルだといっても過言ではなく、昨日の北陸本線も含め今回の列車の旅は地下鉄の乗り歩きのようなものだ。松代もそのようなトンネルとトンネルの間にある駅だが、道の駅も兼ねていてみやげ物店やレストラン、イベントホールなどのある大きなものだった。今年の4月に松之山町、川西町、中里村とともに十日町市と合併し新しい十日町市となった。高台の市街地にある旧町役場の看板には十日町市松代支所と書かれていた。
たまには温泉もいいだろうと当初は松之山温泉に泊まることも考えていたが時間が早すぎて勿体無いので松之山では温泉街のはるか手前にある役場前で降り、古い木造の松之山支所の写真を撮りバスで松代に戻りほくほく線で十日町に出た。長いトンネルを出たときは電車の窓ガラスは水蒸気ですっかり曇り、信濃川を渡ったときは暗雲の中なのかと一瞬錯覚を起こすほどだった。
飯山線と代行バス
十日町と信濃川対岸の川西町には以前来たことがあるので、飯山線に沿って長野方面に中里村、津南町と回ることにした。飯山線は数日前の豪雨で十日町・戸狩野沢温泉間が不通で代行バスが走っている。しかしこの方面には越後交通グループの南越後観光バスというのが河岸段丘上の国道117号線路を1時間に2~3本と頻繁に走っているし、市街地を結んでいるので役場にも近い。中里、津南といずれも役場前というバス停があり効率よくまわることができた。
長野県と接する津南町は今回の合併には参加せず単独で残った。信濃川の支流中津川を遡った秋山郷などの奥行きの深い観光資源を持ち単独でも生きて行けると判断したのだろうか。昼過ぎに電話で予約した旅館はJRの津南駅前にある。河岸段丘上の市街地の町役場からは信濃川河畔まで2キロくらいの緩い下り、川を渡った対岸に温泉と一緒になった津南駅があり、旅館は駅舎のすぐ横だった。ビール代も入って2食つき6800円と格安で、風呂はぬるかったが温泉だった。この季節は大汗をかいた後はこの方がいい。旅館の茶の間のようなところで1人で夕食を取っていると外は大音響の雷とともに豪雨となった。テレビではこの地方に大雨警報が出たことを伝えている。もうちょっと宿に入る時間が遅かったらズブ濡れになっていたことを思うと実にラッキーだった。
代行バスは駅前まで来るし、青春18切符でも乗れるのだが、通常でも少ない列車よりも更に減便しているのであまり役に立たない。今回目標としていた新潟県内の市町村については昨日で一応クリアしたので今日は各停でゆっくりと帰るだけであり、その途中で長野県内の未訪問役場へ行くことにした。その中で以前から気になっていたのが新潟県境の栄村で、面積が広いのでここの塗りつぶしは効果があること、しかしもともと飯山線の本数が少ないのでどうやれば効率がいいかを考えていたのである。
ところが段丘上を走る南越後観光バスのなかに、県境を越え栄村の森宮野原駅まで行くバスのあることが分かったので、翌朝は昨日の道を、今度はずっと上りだったが津南町役場前まで歩いた。しかし昨日バス停に貼られた時刻表で見た8時8分というバスがいくら待ってもこない。営業所に電話をしたらそのようなバスはなく、明らかにバス停の時刻表の誤りであると詫びられた。会社でも今まで気が付かなかったということは時刻表を見る客などほとんどいなかったのだろう。バスはその1時間後にもあり、どうせ森宮野原駅で代行バスを待つ時間が1時間減るだけで、今回はその先の行程に支障がないので、こちらも呑気に構えていられた。しかしこのように時刻表が間違っていて旅程が狂ったことは一度ならずあり、怒りがこみあげて来ることがあったが、このようなことも想定して行程には余裕をもたなければならないという教訓が、今回は生かせた。
栄村の役場は昨年(2004)3月竣工の新しいものだった。ここには1993年12月、JTBの主催する旅塾という企画に参加し鉄道ライターの種村直樹氏らとマイクロ・バスで来ている。当時役場は駅の前にあったが、公共交通での来訪でなかったのでカウントに入れていなかった。今の役場は駅から徒歩5分くらいのところにあるので移転し新築したのだろう。長野県は知事の個性によるのかどうか、市町村数は多い方なのに他県に比べ合併が少ない。栄村も人口が93年当時よりも500人も減り2600人となり、過疎がますます進むのではないかと思われるが合併の計画はないようだ。日本の鉄道沿線で過去最大の降雪記録が出たのはこの駅で昭和20年2月、私が生まれた1カ月後に7m85㎝を記録したというポールが建っていた。
45分ほどの待で戸狩野沢温泉行きの代行バスがやってきた。駅の窓口で青春18切符に日付印を押してもらい乗車する。宮森観光と書かれた観光タイプの中型バスで運転手の他JRの車掌のような人が乗っており、停まる毎に降りては周囲に客がいないか見回りをしていた。飯山線の駅毎に臨時のバス停があるのだが、必ずしも駅前にあるとは限らず直近の道路上にあるところもあった。とは言えこの区間、信濃川と鉄道と国道とが狭い谷の間を束になっているという感じなので、駅からはそうは離れていない。それよりもかなり余裕のあるダイヤで、速度制限を守りながらゆっくり走り、それでも各バス停で時間調整のために数分停まっているという状態だった。
そのようなのんびりとした走りで戸狩野沢温泉駅に着いたが、そこでも長野行きの列車まで30分以上待たされた。こんな状態の代行バスだから、客も少なく数人しか乗っていなかった。その後に乗った列車はスマートな軽快気動車のキハ100系で電車並みの加速性能を持っているものだが、カーブの多い貧弱な線路ではスピードが出せず、並行する国道を走る車にどんどん抜かれて行く。
谷間の狭いところに集まった集落群、そこを走る国道の空き具合、代行バスの利用状況などを見ていると線路改良のための莫大な投資をする意味もない。バス化した方がずっと効率がいいように思われる。なおバス化といってもあくまでも鉄道の代替としてのバス化であり、JRの鉄道路線と一元的な運賃のもと、もちろん青春18切符も利用できるものにしてほしい。運行そのものは地元の企業にアウトソースしてもいい。仕組みだけのことなのだから簡単にできそうだが、今の日本では鉄道を廃止しバス化するということは、全く違う世界に入ることになる。役所の管轄の違い、すなわち国土交通省の鉄道部門から自動車部門の管轄に移る。縦割行政の弊害である。このあたりを直して行く必要があると思う。
長野からは篠ノ井線で松本へ出て、下諏訪と富士見で途中下車しながら、未訪問の町に寄った。大月までは中距離型の電車だったが、その先は中央線の東京行き200系電車だった。青春18きっぷの利用者と思われるリュックを背負った中高年の客が大勢乗っていた。
今回は新潟県23、長野県3の市町村を訪問したが、平成の合併により新潟県の23はわずかに4になってしまっていた。