著者プロフィール                

       
長谷川 漣の何処吹く風 〜(その11)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その11)

理由

 私が文章を書く理由がわかった。初めは「某芸人超え」などとふざけていたがそんなことはどうでもよい。もし何かの賞でも貰えるものなら、それはそれでうれしいが、別にそこまでして他人に認められたくもない。では金か?確かにお金はたくさんあるに越したことはない。だが、そんな贅沢するわけでもないので、今のままでも十分だ。印税で生活できるというのは確かに魅力的だが・・・。では何のために書くのか?
 以前NHKでナチスのホロコーストについての特番をやっていた。

ナチスがユダヤ人を大量虐殺したのは周知の事実であるが、それ以前に実は国内の障がい者を大量に虐殺していた。いわゆるT4計画である。「社会に必要ない劣勢な遺伝子を排除する」のがその目的だった。無論その事実を当時のドイツ国民も感づいていた。T4計画の存在を知りながら同意(沈黙)していたのである。恐ろしいことだ。ジョージ・オーウェルという作家が言っている。「個人の狂気はまれだが、集団の狂気はままあることだ」と。その実例がこれだ。皆が無言のうちにそれを受けいれてしまう中、ただ一人ある教会の神父は違った。彼は当局からの監視のリスクを承知の上でそれに異を唱えた。ある日の説教で彼は言った。

「考えてもごらんなさい。今行われていること(障がい者への虐殺)を我々が認めるとすれば、我々が年老いて働けなくなったとき、今度は我々が『お荷物として、用済みとして』排除されてしまう。それを認めることになるのですよ。本当にそれが正しいことなのですか?それでいいのですか?」

 彼の言葉には力があった。この説教は人々の心を打った。コピー機もない時代だが、手書きなりガリ版なりで拡散した。この神父の言葉は瞬く間にドイツ国内に広がり、ナチス当局をも動かした。T4計画は中止を余儀なくされ、障がい者への虐殺は完全にではないが終わりを告げた。完全にでないというのはその後も専門の医師によって障がい者の殺戮がすすめられたからである。その当時医師たちにとってそれが国から与えられた任務だった。そうすることが国家に貢献する道だと考えたのだろう。自分の意志を持つということは簡単なようでいて実に難しいことだ。故にこの神父に私は最大限の敬意を払うのだ。

  つまり私はこの神父のような文章を書きたい。こういう文章だったら私にも書けると思う。出過ぎた事かもしれないが私が書かずにだれが書くのだという気もする。もう一度念を押しておこうと思う「個人が発狂することはまれである、しかし集団が発狂することはままあることだ。」ナチス然り、戦前の日本然り。その時は私が正気を取り戻してやる。この神父のように。それが私の文章を書く理由だ。今実感した。我ながら大それたことを言っていると思うが、私は本気だ。とにかく、そのような状況にならないことを願って今後も文章を書き続けてゆきたい。

5歳のモネ

 NHKの『クローズアップ現代+』で相模原の障がい者施設での事件を扱っていた。殺害犯の「障がい者は必要ない」という意思表示に対し、ジャーナリストの池上彰氏が「人権の大切さを学ばねばならない」という意味合いのことを述べておられた。私も高校の授業で「誰もが生まれながらにして持つ人権」という文言を暗記した覚えがある。「人権」という考え方の成り立ちをもっとよく学んでおけばよかった。今からでも遅くはないので、ロック?ルソー?をちゃんと読んでみようと思う。さしあたって今わかる範囲で「人権」について考えてみた。と言ってもなかなかピンと来ないのが現実だ。本気でルソーを読んでみようかと考えていたそんな折、考えるヒントは意外なところにあった。

 暇にかまけてPCで「モネ」の絵を画像検索していたところ、ひときわ心惹かれた絵があったので調べてみた。すると、それはモネ本人の絵ではなく「5歳のモネ」と評された当時5歳の女の子の絵だった。この女の子は自閉症で人と目を合わせようとせず、言葉を発しなかった。だが、親が絵具を与えると、とても5歳の子供とは思えない絵を描いた。描くという表現手段を獲得してからこの子は徐々に心を開き、言葉も話すようになっていった。

 この女の子には才能がある。それは本当に素晴らしいことだ。両親もそれを発見できてうれしかったと思う。ただ、もし絵が描けなかったとして、もしくは下手だったとして、そのことでこの女の子に対する両親の思いは変わっただろうか? 

 そんなことはないと思う。世間の評判とか、損得勘定とは別のところで、この女の子は両親にとって大切な存在だと思う。おそらくそれが愛情というものだろう。愛情に実体はない。愛情とは関係だ。それは血縁とは限らない。血のつながりがなくても強く深く結びついた関係はあるからだ。どれだけ深く、かつ多くかかわってきたか、つまりコミュニケーションの密度と量が問題なのだ。コミュニケーションの密度と量に比例して愛情も深まるのかもしれない。何が言いたいかというと、障害があろうがなかろうが、血縁関係があろうがなかろうが、コミュニケイトする誰かがいる、つまり愛情を注ぐ誰かがいる以上、すべての人に価値があるということだ。その意味であらためて「障がい者は必要ない」という発言は間違っている。健常者であれ、障がい者であれ、誰にでも「人権」があるからそのような考えは許されない。と言えばそのとおりだ。ただ、この「5歳のモネ」から考えるに、「人権」という考え方を実質的に成り立たせているのは、やはり「その人と関わりをもつ誰か」の存在なのではないか。たった一人で誰ともかかわることなく生きている人がいたとする。この人に「人権」はあるだろうか。もちろんある、生まれながらに持つのだから。だがその場合、「人権」は非常にあやふやなものになってしまうのではないか?たとえ憲法なりなんなり(自然権)が保証していてもだ。だからこそ孤独な人を作るべきではない。人は何らかの形で誰かとつながるべきなのだ。誰でも趣味や共通の話題を分かち合えるように、孤独な人は孤独という状況を分かち合える誰かが必ずいるはずだ。と思いたい。私自身この文章を書いているのは誰かとつながりたいからかもしれない。