書類を前に雄介はひどく混乱していた。現実に起こっていることだとは信じられなかった。昼日中、悪い夢の中に突然押し込められた気分だった。テーブルの陰で片手をズボンのポケットに差し入れ、内股の一番敏感な部分をそっとつねってみた。鋭い痛みが下半身を走った。間違いない、これはやはり現実に起こっていることなのだ。
「さっきからあなたがしきりに口にする、オーナーというのはどんな人なんです? その人に頼めば、原本の全部を見せてもらえるんですか?」雄介はなおも食い下がった。
「心配しなくてもあんたの意向は、私が責任を持ってオーナーに伝える」
「その人を、父もよく知ってるんですね? あなたみたいに、リアルで会ったことはない、書類の中で会ったまでだ、そんなことはないですよね」
「私がオーナーから聞いてる範囲では、二人は若い頃の、遊び仲間だったということだ」
「遊び仲間?」雄介は目を丸くした。
「その言葉に抵抗があるなら言い直してもいい。齢はだいぶ違うが、一緒に人生勉強した気の合う仲間だったと聞いている」
その時デスクの電話が鳴った。電話の音を潮に、雄介はソファから腰を浮かせかけた。所長は受話器の向こうの相手に話し始めた。相手は客の一人なのだろう、その横柄な物言いに、雄介の気持ちは不愉快さを増していく。受話器の向こうで父が口汚く罵られているように響いた。所長は電話口を手で押さえ、隣の部屋に向かってイライラと声を荒げた。
「休憩してる暇があったら、さっさと出かけて仕事してこいや!」
所長の怒声に隣室からたちまち人の気配が消えた。雄介もその後ろを追うようにソファから立ち上がり、ドアのそばまで近づいた。そして大事なこと思い出したように所長の方を振り向いた。
「最後に一つだけ聞かせてください。見せてもらった借用書の借入額はいくらなんです?」
所長は一瞬ためらったが、やがて指を二本立てた。
「二百万も!」雄介は信じられないというふうに訊き返した。
「ケタが一つ違う」
所長の張りのある低い声が、即座にそう言い放った。「そんなに驚かなくても、借主のイゾクが今でも少しずつ利息も含めて返してくれている」
雄介はしばらく足が完全に止まり、口もきけなかった。先ほど見せられたあの紙切れは、二千万もの金を借り入れた証だというのだ。そんな書類に、三十歳になってそれほど経たない当時の父が、連帯保証人として名前を連ねた。所長はほかにも、〈借主のイゾク〉などとわけの分からない言葉を漏らした。それが何を意味するのか、雄介の頭は空転するばかりだった。頭の中が真っ白になって、これ以上借用書に関わる気力は失せていた。一時も早くこの忌まわしい場所から脱け出したかった。最後の力を振り絞るように雄介は、階段を駆け下りていった。
消えた足音 【全13回】 | 公開日 |
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(その4)第4章 | 2020年10月30日 |
(その5)第5章 | 2020年11月30日 |
(その6)第6章 | 2020年12月28日 |
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(その8)第8章 | 2021年2月26日 |
(その9)第9章 | 2021年3月31日 |
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