著者プロフィール                

       
天使の復活|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 〜(その22)

由木 輪

1956年、東京都出身
ごく普通の家庭に生まれ育ち、大学を卒業後、東京に本社がある会社に就職しました。自分の意に添わず、幾つかの会社に転職することになりましたが、60歳になり会社員で定年を迎えました。定年しても年金がもらえるわけではなく、生活のために別の会社で働くことになりました。定年後の職場では、時間的にも精神的にも余裕が出来て、以前から書きたかった小説を書き始めました。みなさんに面白いと思っていただけるとうれしいです。

天使の復活|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 〜(その22)

 目が覚めた。

 朝だった。

 ベッドには寝ていなかった。

 ふわふわと飛んでいる。

 今までいたはずの自分の部屋の空中をさまよっていた。

 部屋を見渡すと、机もベッドもない。

 翼が生えていた。天使に戻ったのだ。

 部屋の扉が開いて、母親が掃除機を手に持って中に入ってきた。さっきまでいたはずの俺はいないし、机もベッドもないのに、母親は不思議がることもなく、掃除機をかけ始めた。

「そうか、俺を天使に戻す時に、俺にかかわった人間の記憶は、神様がすべて消したんだ」

 とりあえず、ほんとうに天使に戻っていることを確かめたくて、家の天井を突き破り真っ直ぐ上空に飛び出してみようと思い、勢いよく飛び出した。家の天井は壊れることもなく、俺の身体だけが通り抜けて上空へ飛び出した。

 ぐんぐんと上昇して行くと、天上の世界まで行きそうだったが、途中で飛ぶのを止め、下を見下ろすと、そこには、さっきまで自分が住んでいた世界が広がっていた。

 天上の世界の近くまで上昇していたので神様の声が聞こえた。自分が下界に下ろされていた一四日間で、天上の世界では大変なことが起こっていたみたいで、すぐに戻ってこいということだった。

「あれ、一四日間。俺は確かに三年間の時を下界で過ごしていたはずだ」

 ところが、天上の世界と下界とでは、時空が違うので、下界では三年経っていても、天上の世界では一四日しか経っていなかったのだ。

「そうか、神様は俺のことをすっかり忘れていたわけではなくて、神様の予定通りの一四日間で天上の世界に戻したのか」

 それがわかっただけでも安心した。

 そうなると下界で三年間も一緒に過ごしてきた人たちがどうしているのか気になった。すぐに天上の世界には行かずに、一度下界に戻ることにした。

 一気に急降下して、自分がさっきまで住んでいた家の上まで戻ってきた。上空から家の中を透視すると、母親は別の場所に移動して掃除機をかけているのが見えた。楽しそうな表情ではなく、無表情にただ作業をしている。初めから子供などがいない夫婦二人だけの生活に戻ったのだ。

 父親は仕事に出かけているようで、家の中には見当たらなかった。

「父親が仕事から帰ったころに、また、家を見に来よう。高校のみんなはどうしているんだろう。高校のみんなの記憶からも俺は存在しなくなってしまったのかな」気になった。

 高校まで飛んで行って、確認してみることにした。「下界の一日は、天上の世界では十八分でしかないので、下界に一週間いても、天上の世界に戻る時間が二時間ほど遅れるだけだ。二時間ならたいしたことはない」と思った。素晴らしい考えだった。

 高校までは一気に飛んでいったので、すぐに着いた。やっぱり天使の翼は便利だった。翼を奪われていた時は、家から高校まで一時間ほどの時間が掛かっていたのに、天使の翼が戻った今は、高校までひとっ飛びだった。

 高校に着いて、昨日までいたはずの三年二組を覗いてみた。俺が座っていたはずの場所がない。机と椅子がないというより、場所そのものがない。緑川翔太の存在そのものが消されていた。

「この様子では、誰も俺のことを覚えているわけがないな」と悟り、高校から離れることにした。俺にとっては、三年間もいた思い出深い場所なのだが、何の痕跡もなくなっていた。

 真元和尚も、西田伸一も保科彩加も渡辺篤も長田一郎も山田武志も倉田一夫も、みんな俺のことを覚えていないのだ。男たちが俺のことを覚えていないのは、我慢するとしても、俺のマドンナである保科彩加や、桜井京子や速水由香や山口茜が、俺のことなどまったく覚えてないなんて、最低の気分だ。

 もう少し、高校の中を覗いていたかったが、いくら様子を見ても、記憶から消されてしまった事実は変わらないので、保科彩加の背中に天使の矢を撃ち込んでも、彩加の記憶の中に緑川翔太はいないので、誰か他の人を好きになってしまう。そんなことが、許されるわけがない。あっ俺は「恋のキューピット」ではなかった。天使の矢など持っていなかった。しかたがないので、高校を離れることにした。

 高校からは離れることにしたのだが、父親が家に帰ってくる時間まで、まだ時間があるので下界を少し探索することにした。

 天使に戻って翼が生えたのだから、どこへでも自由に飛んで行ける。高校生の時は、行動範囲も狭く、普段は自宅と高校の往復だけだったし、たまに行く旅行の時に、少しだけ下界を見て回っただけだった。

 緑川翔太だった時は、移動は電車やバス、自転車、徒歩なので、ちょっとした距離でも時間が掛かってしまった。でも、今は、天使の翼がある。どんな距離でもあっという間に行けるのだ。そう思うと少し気持ちが楽しくなってきた。さっきまで、「みんなが俺のことを覚えていない」とナーバスになっていたのに、ゲンキンなものだ。この変わり身の早さが俺の良いところなのだ。

 せっかくだから、大都会に行ってみたかった。少し上空に上がって、周りを見渡してみると、ビルが建ち並んでいる場所があった。その方向に向かって飛んで行くと、近づくにつれ、そのビル群の凄さに驚いた。見渡す限りビルだらけだった。

「こんな凄いところがあったんだな。下界の田舎で人間をやっていると気づかないよな。高校の友人たちは、この凄いビル群を知っているのかな」天使に戻った俺には、俺の記憶をなくした友人たちのことなど、どうでも良いことだった。

 大都会は、人も車も恐ろしく多かった。車道も歩道も幅広く作られているのだが、車道は車であふれかえり、走り出したと思ったら、すぐに信号に捕まり、ほとんど前に進んでいなかった。歩道も幅広くなっているにもかかわらず、人が多過ぎて、ゆっくりした歩調で、他の人の後ろを付いて行くしかない状況だった。

「俺は、あの田舎の高校で幸せだったんだな。いや、神様が、こんなひどい所に、俺を送り込むことだけは避けてくれたんだな」と改めて、神様に感謝した。

 大都会を散策していると、ビルの角から、そっと通りを覗きこむ天使がいるのを発見した。天使は弓矢を持って、通りから近づいてくる誰かを狙っている。近づいて声をかけてみた。「そんなところで何をしているんだ」しかし、返事はなかった。

 天使は、通りを見つめて、じっと動かなかった。集中しているのだ。おそらく「恋のキューピッド」なのだろう。俺は「神様の小間使い」なので、同じ天使でも、「だいぶ役割が違うものだな」と思った。

 明らかに天使がビルの角にいるのだが、歩道を歩いている人たちは、誰も気がつかない。天使が見えていないようだった。俺には、本物の天使に見えたのだが、実は、天使はブロンズでできていて、初めから動かないのだ。この界隈では有名な像で、歩道を歩いている人たちは、良く見知っているので、わざわざ見たり、触ったりしなかったのだ。

 動かない天使に別れを告げて、また上空に上がって周りを見渡し、山の方に行ってみたり、海の方に行ってみたりした。

 天使の翼があるので、どこへでもあっという間に飛んで行けるから、面白がって下界を飛び回っていたら、夕方になってしまった。

「そろそろ父親が仕事から帰ってきたころだな。家に行ってみるか」家の様子だけ確認したら、天上の世界へ帰ることにした。

 飛んで行くと、家には、すぐに着いた。家の中を見渡すと、ちょうど父親が仕事から帰ってきたところで、今まさに風呂に入ろうとしていた。母親は、台所で夕飯の支度をしている。二人とも、俺がいないのに、いつものことのようにふるまっている。

 俺がいない夫婦二人だけの生活が「いつものこと」なのだった。父は、風呂から上がると、食卓についた。そして、母親と二人だけで、今日あったことなどの会話をしながら、夕ご飯を食べ始めた。

 二人が、俺のいない生活を当たり前のように過ごしているので、寂しい気持ちになって眺めていると、天上の世界から、神様の「早く、戻ってこい」という声が聞こえてきた。

 もう俺の居場所は、天上の世界しかないことを悟って、戻ることにした。

 そして改めて、下界の生活は不便なところもあったけれども、楽しく、幸せな時間のほうが多かったと思った。

 また、こんな機会があったら、今度は思いっきり楽しもうと思いながら、天上の世界へ戻った。

翼がないのにふわふわ浮いて 【全22回】 公開日
(その1)舞い降りた天使|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年8月7日
(その2)タラチネ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月2日
(その3)天使も筆の誤り|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月31日
(その4)ミトコンド~リア|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年11月29日
(その5)爆発だ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年12月26日
(その6)お昼の散策|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年1月31日
(その7)バスの中にぽつんと一人|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年2月28日
(その8)マドンナ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年3月27日
(その9)水上の天使|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年4月29日
(その10)旅に出る|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年5月29日
(その11)取り上げられた楽しみ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年6月30日
(その12)マラソン大会|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年7月31日
(その13)修学旅行|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年8月31日
(その14)まさかの運動部|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年9月30日
(その15)厚みのある水彩画|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年10月30日
(その16)真剣で斬られる|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年11月30日
(その17)逃がした人魚は美しかった|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年12月28日
(その18)燃え上がる学園祭|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年1月29日
(その19)組み立てられた椅子|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年2月26日
(その20)粉々に飛び散った砲丸|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年3月1日
(その21)打ち抜かれた額|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年4月30日
(その22)天使の復活|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年5月28日