著者プロフィール                

       
日本列島改造論と高校進学 〜 私の良き時代・昭和!(その26)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

日本列島改造論と高校進学 〜 私の良き時代・昭和!(その26)

 三年生になるとほぼ全員が受験モードとなった。

 数学の先生は私立大学を出たばかりの新米先生で、説明がとてつもなく下手でわかりにくかった。少し難しい私立の入試問題を持っていくとわからないので明日まで待って欲しいとよくいわれた。この先生はいつも泣きそうな顔で、必死に解説するのだが、誰も理解できない。成績トップの生徒はそれを承知の上で先生をいじめるのである。いや、からかっているといっていい。先生も聞かれるとアップアップ状態で気の毒としかいいようがない。でも中学の数学でこれだけできない先生も珍しいのではないか。

 日本史の授業なんか最悪である。授業中なのに騒いでいる生徒や雑談している生徒などで先生の話なんて全く聞こえない。ここまでくれば学級崩壊もはなはだしい限りだ。先生は注意をしないし、怒りもしない。話を聞いていると面白い授業なのに、なんで、騒ぐのだろう。「静かにしろ」と私が叫んでもほんの一瞬だけで、またすぐ騒ぎ出す。紙飛行機を飛ばすやつもいるし、寝ているやつもいた。

 その態度は恐い英語の時間とは対照的だった。英語は蛸入道のあだ名をつけられた顔の黒い先生で、終始シーンとしている。やればできるのにどうしてこうも一八〇度変われるのか、しかし、実は単に静かにしているだけで真剣に取り組んでいるとはいいがたかった。 

 大人になりきっていない中学生たちが大人をなめきっている。大人たちもそれを承知で臭い物には蓋をし好き勝手にさせている。

 元来教育とは教えるものではなく押し付けるものだ。子供の視点に大人が合わせるのではなく、大人の流儀を堂々と子供に強要し押し付けるべきものである。

 この学校では大人も子供もそれぞれの醜い面を感じずにはいられなかった。英語の先生に徳があるから授業が静かであるとも思えなかった。生徒はカメレオンのように、環境に応じて色を変える仮面をかぶって、真剣に見せていただけではなかったか、と思う。


 国語の先生は我々の担任のNA先生であった。女性でしっかりした自分の主張を持っておられた。小柄な先生だが声は非常に大きくて通った。声に熱意のある先生の授業は相対的に静かであった。NA先生は後に小学校の校長になられたと聞いた。

 一学期の終わりには高校受験の統一学力テストが行われ、進学希望者全員が受けた。単元が決められた定期考査とは違いテストは予想以上に難しかった。

 試験の結果成績が担任より配布された。五教科で三二〇点だったのでこれは親に見せられないと、落ち込んでいると、先生の説明では、五教科の満点は三六〇点とのことであり、少し安堵した。また、実力テストということもあって、平均点も低かった。偏差値は六五~七〇の間であったと思う。しかし、偏差値とはいかなるものなのかについては、さっぱりわからなかった。

 進学に当たっては親子と教師との三者面談が数回あった。父の考え方は「義務教育までが親の義務である。しかし勉強したいのであれば応援はする。ただし高校を出たときに自分で食えるようにしておけ。そのための学費は出す」というものだった。私は普通課志望であったが、当時田中角栄総理の日本列島改造論で日本全体が沸きに沸いていた時代である。「日本にはまだまだ土地がたくさんある」という彼の演説に人々は群がった。

 結局私は普通課をあきらめ、大阪市立都島工高土木課(現都市工学科)に進学することになった。田中角栄の土建屋改造論のレールに乗り遅れまいと慌てて入学してしまった。また、体育の先生がこの学校の先輩ということもあり、色々と母校の事情を聞いた。

 歴史のある学校で戦前は昭和天皇もご臨幸されたといっていた。昭和二六年には高校野球の大阪代表として甲子園に初出場し、ベスト一六か八まで勝ち進んだとも聞いた。そのときは京都平安高校に接戦(延長で平安のサヨナラ勝ち)のすえ涙をのんだとのこと。母校はそれ以来、甲子園には出場していないらしい。

 この高校に胸を膨らませ入学したが、生徒は男子ばかりで女生徒がいない。学年生徒数は四〇〇人でその内二〇人前後しか女生徒はいないのだ。

 またこの高校は四~九月が夏時間で始業時間が八時一五分、一〇~翌年三月までが冬時間となり始業時間が九時であった。学校までは一時間以上かかるので夏期は六時半には家を出て毎朝六時五〇分の電車に乗って通学していた。この時間帯は学生は少なくサラリーマンが多く混んでいた。クラブを午後六時ごろまですると帰宅は午後七時半ごろとなる。

 夏期は五時五〇分には起きるので結構つらかった。冬期は九時ということで午前七時半に家を出て七時四五分の電車で通学した。この時は近辺の普通科に通う友達が沢山駅に溢れていたのでよく話をした。昭和四七年六月だったか『日本列島改造論』という著書が出たので買って読んでいたが、友達に「今どんな本を読んでるの」と聞かれ、カバンから『改造論』を取り出すと、「えっ~、さすが土木科」といわれ「日本を良くしてください」とからかわれた。

 この本は一九七二年六月に発刊され、田中は七月には福田赳夫を破って自民党総裁に就任し田中内閣が発足。九月には日中国交正常化を実現する。田中は日本の交通網を高速化するため、高速道路や新幹線の整備を推進し、高度経済成長を実現すると同時に地方の発展に邁進していくのである。

 簡単にいえば、日本列島を交通、経済、生活において短期間(一日)で結ぶことを目標としていた。そうすることでライフスタイルの多様化に合わせた需要の促進につながり、また物流や商流、金融などの面が拡大し、大きな経済への波及効果は計り知れないものがあるとされた。

 そのために高速道路網の整備、津軽海峡トンネルの整備、三本の本州四国連絡橋建設計画、地方空港の整備、更には中央リニア新幹線の建設計画が打ち出された。これが実現すれば東京―大阪間は一時間で結ばれるという壮大な計画であった。

 しかし実際はこの影響から地価や物価が高騰しインフレとなった。またこの時期(一九七三年一〇月)には第四次中東戦争が勃発し、オイルショックとなると戦後最大の狂乱物価を招くこととなり、消費者の過剰反応による買い占めが起こりスーパーからトイレットペーパーが無くなる事態となった。

 一九七四年一〇月にはマスコミが田中総理の金脈問題の調査報道を掲載したことから連日テレビで金権政治への批判が放送され、発足当初は七〇%あった内閣支持率も急降下、政権維持が難しくなり一二月には総辞職(二年五ヶ月の政権となり、この時、田中は五六歳であった)し、改造論はもはや幻想となってしまう。

 田中角栄氏というと一九七六年(昭和五一)二月に発覚したロッキード事件が思い出される。本当に奇妙な事件としかいいようがない。この事件に関しても、日本独自に資源外交を展開しようとしていた田中を抹殺するための陰謀説や、偶々運悪く多国籍企業の活動調査の中で明るみに出たなど様々な憶測が流れた。結局丸紅、全日空の経営陣トップ、元運輸大臣など一六名が起訴された。

 一九八三年一〇月、一審で懲役四年、追徴金五億円の有罪判決を受けたが即日控訴、一九八七年七月控訴棄却、即日上告していたが一九九三年一二月、最終結審をみないまま享年七五歳で死去する。この事件では関係者(田中の運転士、児玉の通訳、日経新聞記者)も謎の死を遂げており未解決事件といってもよい。


 田中退陣後は福田赳夫が総理大臣を継ぎ緊縮財政となり、以後、三木武夫、大平正芳、鈴木善幸と短命の総理がころころと変わっていくこととなる、そして中曽根康弘の長期政権へと移行する。中曽根総理は国鉄、電電公社など土光敏夫氏とともに民営化に尽力し、冷え切った日米関係も「ロン・ヤス」関係で修復していくのである。

 話を戻そう。


 すれっからしの学生等はダボダボの大きい黒ズボン、女子は茶髪にくるぶしまでのこれもだぼだぼのロングひだスカートをはいていた。カバンはぺったんこで薄いので聞いてみると、「カバンには何も入ってない」とのことだった。「教科書がないと授業受けられへんやろ」と聞くと、「忘れたらあかんから学校に常に置いてるんや」という返事。「宿題でけへんやろ」というと「そんなんしたことあれへん」、「高校卒業でけへんぞ」、「大丈夫、何とかなるよ」と楽観的な答えが返ってきた。カバンを持つ意味がないだろうと思ったが、彼らにとってカバンとは重要なファッションのアイテムということらしい。

 私のカバンは連日満杯の状態で重かった。体育や武道の道具などもあり両手で精一杯の荷物を抱えて通学しているのに、彼らは気楽なものだなと思ったが、自分は自分と思って進んでいった。

 彼らの姿は美という視点の対極にあり、見るからに自分否定以外の何ものでもなかった。親のすねをかじってこれはないだろうと思った。

 進学したこの学校で三年間過ごすのかと思うと気鬱になった。クラブの新人勧誘は連日凄く、私は熟慮の結果、音楽が好きだったこともあり吹奏楽部に入部した。

 入部して驚いた。女生徒が六~七人人位いたのだ。

 機械科三年生の部長はいつも機械科の作業着で参加してトランペットを吹いていた。部長のトランペットは音色が美しくレベルが違うなと驚かされた。まじめで勉強もトップクラスと聞いた。彼は三菱重工に就職が決まった。

 母校は結構就職先もいい企業ばかりであった。公務員関係は勿論、本田技研、トヨタ自動車、関電、大阪ガス、三菱電機、JR東海・JR西日本(当時はJRではなかったと思いますが)、私鉄大手の近鉄、京阪、阪神、阪急、家電大手のパナソニック(当時は「松下電工」とか「松下電器」とかではなかったでしょうか? また「パナソニック」というより「ナショナル」が一般的だったように思います)、シャープ、日立、コマツ、クボタ、三井建設や住友建設などに就職していた。

 実は私も三年生のときに担任の先生から大手電力会社を勧められた。二部の大学への奨学金も出るので行かないかと連日勧められた。大学の推薦枠もあり、成績はA評価ということもあり色々な大学への進学も勧められた。しかし、そのころはまだ、夢を持った高校生である。自分としてはもう少し勉強をして、将来について選択したいという気持ちが強く、辞退した。 今思えば惜しいことをしたと少しは後悔しているが、でもそれが人生というものである。今の人生を悔いてはいない。しかし、もしあの時先生のいう通りにしていたらどういう人生を歩んでいたであろう。もう一人の違った自分を創造するが結局今の実像に落ち着いてしまうのではないかと感ずる。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日