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第13章 〜 消えた足音(その13)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第13章 〜 消えた足音(その13)

 多摩川の河口近くまでやって来た。対岸に空港のターミナルビルがかすかに望める。滑走路を離着陸する飛行機も遠目にはっきり見える。足元を流れる運河には古びた木製の桟橋が何本も張り出し、レジャーボートや釣り船が係留されている。

 弁天橋のたもとを急ぐ雄介の首筋を、冷たい川風が撫でて通った。空港の外縁部は頑丈なフェンスで囲われ、周囲を高速道路が走っている。目を凝らすと道路の一部に小さな三角州の堤が張り出し、真ん中に赤い鳥居らしきものが立っている。肉眼でも手に取るようにはっきり見える。夏美を促しながら橋を渡った。間違いない、あれが父の手紙に書かれた赤い鳥居なのだ。年数もそれほど経っていないのだろう、傾き始めた日射しに鳥居は朱色と黒の鮮やかな光沢を放っている。

 運河沿いのブロックに、釣り人が腰を下ろして糸を垂れている。遠く河口を跨ぐようにモノレールが走り、空港敷地のはずれには緑と白の吹き流しが風の中を泳いでいる。

 気持ちを落ち着け、鳥居を見渡せる堤防の土手を上がった。そこから鳥居の方に視線を向けてみる。鳥居近くを飛行機が飛ぶたびに、二人は少しずつ立つ位置をずらせた。この堤のどこかに飛行機が空中に止まって見える地点があるはずなのだ。大掛かりなマジックが演じられているように見えるその現象は、見る人の目の錯覚なのだと手紙ではっきり断っている。それでもあえてそう記したのだ。
書かざるを得ない何かが父の心の中に渦巻いていたとしか思えない。重力の戒いましめを解かれた飛行機が、たとえわずかな時間でも、空中の一点にとどまって見える、そんな光景を、父は自分の目に焼き付けたかったのかもしれない、その理由まではわからないにしても。

(リクエスト・ポジション)

 耳の奥に響くささやき声に悩まされ、父はそれから逃げるようにここまでやって来たのだ。学生時代、マジック同好会に入っていた父のことだ。この風景のどこかに時間の割れ目を作り出す、そんな大掛かりなイリュージョンを演じたかったのかもしれない。

 西の空に日が落ち始めた。時間を気にしながら二人は、飛行機が飛ぶたびに堤防の斜面を上り下りした。しかし飛行時間が違うのか、航路がわずかにずれているのか、飛行機が鳥居の間に止まって見える瞬間など、いつまで経っても再現されることはなかった。

「見たいと念じたものが疑似体験みたいに、お父さんの頭の中にだけ顕あらわれたのかもしれないね」

 夏美は雄介を慰めるように呟いた。

 朝からかなりの距離を歩いたせいか、斜面に座り込んだ夏美の背中には色濃く疲れが滲んでいる。あたりが薄暗くなる中、これ以上長居はできそうになかった。

 運河の水面に映った半月が頼りなげに揺れた。それを潮に雄介は腰を上げた。その時夏美が何を思ったのか、雄介の肩に掛かったカメラのストラップを外し自分の手に握った。そして両手でカメラを構えると鳥居とは反対方向、堤防の向こうに連なる人家の並びにレンズを向けた。葉を落とした桜の樹々のあわいから、釣り客相手の民宿や木造アパートが見え隠れしている。彼女はそれらの窓を狙ってシャッターの連続音を響かせる。微かにカーテンの揺れる窓もあれば、明かりが消えて閉じられたままの窓もある。夕もやが一層濃くなり、どこからか近所の子供たちの歌う〈かごめかごめ〉の歌声が流れてくる。後ろの正面だーれ?と歌う古い童謡が不思議に雄介の気持ちにしっくりなじんだ。考えれば雄介も後ろの正面にひそむ影を追いかけて、ここまでやって来たのかもしれない。シャッターを押し続ける夏美の足元を冷たい風が吹きすぎる。土手の枯草が風にあおられ、ひと際大きく波打った。波打つ枯草の中を、一匹の痩せた黒犬が何かを追うように走り抜けていく。走り去る犬の姿が雄介の目に映った。

 堤を上がると雄介は、道路端のガードレールに腰を預け携帯電話を取り出した。そして横浜の伯父に、この足でそちらへ出向きたい旨を伝えた。

 横浜まで一緒に行くと言い張る夏美を説き伏せ、品川駅の構内で彼女を見送った。横浜で京急線に乗り変え、日之出町駅に着いたのは七時を少し回っていた。伯父夫婦の家へは駅から歩いて十五分ほどで着く。大学の下宿時代通い慣れた道だ。黄金町もパフィー通りも当時とはだいぶ様変わりして、猥雑な街の雰囲気はきれいに拭い去られている。母と子のための明るい街並みに変わって、横須賀から出稼ぎに来る外人女性のダンスが見れると評判だったミュージックホールも、どこかに姿を消していた。

 脇道から、緩やかなアスファルトの坂を上った。上り切ったところに大きな楠くすのきの大樹が見えてくる。そこは石塀で囲まれた神社の境内で、下宿時代こっそりこの樹に登って、高層ビルのはざまから横浜港に浮かぶ大小の船舶を眺めたこともある。神社の石塀の角を曲がると、父が結婚を機に神戸へ移るまで暮らした〈吉川〉の実家が見えてくる。

 雄介にとっては大学卒業以来十年ぶりの訪問だった。くすんだ木造の二階建て、門柱に貼り付いた日に焼けた表札も昔のまま。インターホーンを押すと、来客を知らせる電子音が台所の方で響いた。雄介は応対を待つこともなく門扉を抜け、すりガラスのはまった玄関の引き戸を開けた。上がり框に立って待つ間、玄関脇にある二階への階段に目を向けた。薄暗い階上のどこかで床を踏む人の足音がする。誰かが聞き耳を立てていそうな気配に、二階の闇の方へ顔を上げた。暗い階段の上から、「遅かったな、どこで道草してたんだ」そんな父の声が降ってきそうな気がした。

「そこに突っ立って上を覗いても、二階から何も落ちて来やしないわよ」

 初音伯母さんの声に、雄介は振り向いて笑みを浮かべた。

 髪を染めているせいか初音さんは、去年母の葬儀に来てくれた時より幾分若返った印象を受けた。通されたリビングは雄介が下宿していた頃は二間続きの和室で、そこを今では一つにして絨毯を敷き、ワンフロアのリビングとして使っている。「年々家族が減っていくから」と初音さんは寂しそうな表情を滲ませた。リビングの真ん中に漆塗りの座卓が据えてある。これは雄介の下宿時代にも使われていたし、たぶん父がこの家でもの心ついた頃からずっとこの場所に置かれたままなのだろう。

「台風の日はごめんね。二人ともこの家、空けるわけにいかなかったし」初音さんは済まなさそうに嵐の日の不義理を詫びた。

「こっちこそ急に伯父さん呼び出して迷惑かけました。伯父さんの顔を見れただけで、ずいぶん安心もしたし、元気をもらえました」雄介は応えた。

 台風の近づいている日だったのに伯父は、前夜の雄介からの電話でさっそく翌朝一番の新幹線で神戸まで駆けつけてくれたのだ。

「ほんとに大変ね、あなたの家も。千賀さんが亡くなって一年も経ってないのに、今度はお父さんでしょう」

 ポットのお湯を急須に注ぎながら、初音さんはため息まじりの言葉を掛けた。そして「晩御飯用意してるから、遠慮なく食べていってね」と付け加えた。この旅ではコンビニ弁当で済ませることの多かった雄介に、手料理は何よりのごちそうだった。
「メニューは昔と同じ、甘めの肉じゃがとケチャップたっぷりのオムレツ、それでいいわね」初音さんは無邪気な笑みを浮かべ台所へ立って行った。入れ代わりに耕一郎伯父さんが階段を下りてリビングに入ってきた。さっき二階から聞こえた足音は、どうやら伯父さんのものらしかった。立てる足音が兄弟であれほど似るものなのか、と雄介は妙な所で妙な感心をしてしまった。

「新宿の公園は無駄足だったみたいだが、新しい手掛かりは何か掴めそうか? 大学の交友関係を調べてみると言ってたが」伯父は口を開いた。
 新宿の事務所で見せられた借用書の件が口に出かかったが、夏美の時と同じに今はまだあの書類のことは口外すべきではないと思い直した。書類が本物からのコピーだとはっきり分かった時点で改めて話せばいい。合成され継ぎはぎされたニセモノかもしれない書類のことを早とちりで話してしまうと、かえって周りを混乱させる。結局雄介は、新宿中央公園で聞き込んだ様子や、大学の同窓会事務局へ行って名簿の閲覧を申し込んだが断られたことを話すにとどめた。ただ手紙に書かれた羽田空港近くの赤い鳥居はたしかに現地で特定できたことを伝えた。

 初音伯母さんは手料理をトレーに乗せて運んできて、そのまま伯父の横に腰を下ろした。なかなか箸の進まない雄介に、

「ここで暮らしてた頃は、この倍はぺろりと食べてたのにね」と伯母は不満げな表情を見せた。

「あれから十年以上経つんです。それだけ僕も歳をとったということです」

「手料理の得意な女性ひとを、あなたも早く見つけないと。うかうかしてたら、いい女性ひとはほかの男に取られてしまうわよ」

「ちょっとした手料理くらいは僕でも作れます。伯母さんほどの味付けにはならないですけど」

「結婚の話なんて、あなたは当分縁がなさそうね」

 初音さんのおしゃべりは続いた。そんな中へ伯父が割って入った。

「大阪の冴ちゃんが帰り際、金の懐中時計が家からなくなってる、そう言ったのを覚えてるか?」

 雄介は思わず箸を置いた。そして小さく頷いた。あの日、家に寄ってくれた姉は整理ダンスを調べているうち、白い絹のハンカチにくるんだ懐中時計がなくなっているのに気づいたのだ。その時計は母の葬儀が終わって、姉が形見分けに譲ってもらおうとした時計だった。父は姉のその申し出に、突然怒り出してしまった。ひったくるように姉から懐中時計を取り上げると元のハンカチにくるんで、引き出し深くしまい込んでしまった。いくら竜頭を巻いても動こうとしない壊れかけの時計に、父がなぜあんな激しい反応を示したのか、その場にいた全員がわからないまま凍り付いてしまった。その時計が父とともに、我が家から消えてなくなっていたのだ。

「冴ちゃんの言葉が、こっちへ帰ってからも妙に引っかかってな。それで家内にも訊いてみたんだ」

 初音さんが夫の言葉を引き継いで話し出した。

「神戸から帰ってくるなりこの人、金の懐中時計のことで何か思い出すことはないか、なんて怖い顔で訊くのよ。それでわたしも枯れかけた頭をフル回転させたわけ」

 二人で消えかけた記憶をたどってくれたらしい。

「おぼろげに浮かんだ記憶では…」と伯父は一つ息を飲んで続けた。「あの時計は当時神戸に住んでいた弟の耕市に、スイスから小荷物で送られてきた祝いの品だったんだ」

「スイスから、父の結婚祝いに?」雄介は訊いた。

 伯父の話では、金の懐中時計は父が結婚式を挙げる直前、その祝いの品として航空便で送られてきたものらしい。

「耕市も詳しく話したがらなかったのでよくは覚えてないが、学生時代仲の良かった友人からだということらしかった」伯父がつかえながら応えた。

「その人は、式には出席しなかったんですか?」

 伯父夫婦のたどたどしい話を要約すると、その人は時計の組み立て技術を学びにスイスへ渡ったという。そのため式に出席することができず、やむなく航空小荷物で自分の手で作った初めての作品を送ってきたという。

「その人は父と学生時代、どんな付き合いをされてたんです?」

 伯母がうろ覚えの夫の言葉を補うように続きを話し出した。

「あなたの生まれるずっと昔の話でしょう、わたしらの記憶も今ではだいぶ薄れてしまって。覚えている限りで言うと、お父さんと懐中時計を贈って来たその男性、それにあなたのお母さんの千賀さんの三人は、同じ大学で同じサークルに入っていた仲の良い友達同士だったということ。この家にも千賀さんを連れて何度か遊びに来たこともあった。でも誤解のないように言っとくけど、それは三人ともまだ独身時代の結婚前の話だからね。そばで見てると男二人女一人のそれは仲の良い三人兄妹みたいに見えたものよ」  

 伯母はその頃を懐かしむように淡々と話した。雄介はこれまで、両親のどちらからも結婚前のそんな経緯を聞かされたことはない。そう言えば新宿の所長も懐中時計についてはかなり強い関心を示していた。渋谷駅前の公衆電話から掛けた藤波浩平氏の奥さんも、父が結婚後しばらくして、結婚の報告に懐中時計を持って家を訪ねたことがあると話していた。両親の出会いの頃の話など、息子にとっては首筋がこそばゆくなるだけだが、ここは我慢して

話の続きを聞く必要があるように思えた。

「そんな三人が、野毛の商店街で大道芸のマジックを()ることになったの」

「今ほど盛り上がっていたわけではないんだが、それでも通りの片隅でダンスをしたり、描いた絵を売ったり、そんな若者もかなりいたんだ。それで三人は得意のマジックを通りの片隅で演じることにしたというわけだ。それを何と言うんだっけ?」伯父が横にいる伯母に訊ねた。

「ストリート・パフォーマンス」伯母はこともなげに言った。

「三人ともそれの練習のためにこの家に泊まり込んで、まるで三人が一人になったみたいに稽古に打ち込んでいた」

初音さんは夫の言葉を受けて、秘密の打ち明け話でもするみたいに続けた。

「千賀さんはいずれ、この男性のどちらかと一緒になるんだろうな、わたしは当時から女の感でそう思ってたの」

 伯母の直感はずばり当たったことになる。父と母はそれからしばらくして結婚し、その結果として、雄介がこの世に生まれたのだから。

「その話には、後日談があってな」と、今度は伯父が言葉を継いだ。
「雄介さえかまわなければこの際だ、その続きを話しておきたいんだが…」

 伯父は雄介の反応を見るように真っすぐ顔を向けた。踏み込んだ話をするつもりなのがその気配に現れている。

「話すべきどうかさっきまで迷ってたんだが、やっぱりお前の父親のことだ。変に隠し立てするのもまずい。ここはその当時感じたままを正直に話したほうがいい、そう思ってな」

 伯父夫婦はお互い頷き合ってから、父と母の結婚前後のことを話し出した。

「三人は大学を卒業してそれぞれの場所で社会人として成長していった。お前の父親はしばらくこの街で中学の英語教師をしていた」

 話を聞きながらも雄介は少しイラだって来た。父の昔話より、懐中時計を贈って来たその人のことをもっと知りたかった。父や母と一緒にマジックの練習をしたというその友人のことを知れば父に近づけるように思えた。

 そんな雄介の気配を察したのか、伯父は一呼吸置いて覚悟を決めたように続きを話し出した。

「その人は浦田、という苗字だったと記憶している。下の名まではもう憶えてないが、弟は彼を呼ぶときはいつも、ウラ と愛称で呼んでいた」

 初めて聞く名前だった。家の年賀状綴りにも電話帳にもそんな名前を見た記憶はなかった。伯父はさらに続けた。

「浦田君と千賀さんは大学を卒業してから、同じ神戸へ戻って行った。二人とも実家は神戸市内らしかった。お前の父親も卒業と同時に、この横浜で一人暮らしの自活をしながら教職に就いた。それから十年近く何事もなく過ぎた。そんなある日弟から電話があってな。横浜の中学から神戸の高校に職場が変わると伝えてきた。神戸へ転居後、向こうで結婚する予定だとも。何の予告もなしにだ。詳しい経緯は何も語らず、あいつはさっさと神戸へ引っ越し向こうで一人暮らしを始めた。神戸へ移ってから半年ほど経った頃だ。弟から再び電話があった。神戸で結婚式を挙げることになったんで兄貴にも出席してほしいと。日取りが急に決まって、相当慌てた様子だった。正式の招待状はなしで、電話連絡で出席を確認しているというんだ」

 伯父の話を聞いている限り、何事にも筋道を立てて動くはずの父のやり方とはだいぶ勝手が違う印象があった。なにより挙式を急ぎたい、そう焦っている父の姿が見て取れるようだった。

「わしらももう(とし)だ。お前の母親の千賀さんもすでにこの世にはいない。この際弟のことで思い出せることは、全部息子のお前に話しておきたい。しかし念を押しとくが、今話してることは、あくまでわしらの主観的な印象だと思ってほしい。夫婦の記憶が、事実から外れていることもある」伯父は神妙な面持ちでそう付け加えた。

 雄介も胡坐の足を組みなおして、伯父の顔に真っすぐ目を向けた。座った三人ともが、それぞれの胸の内を整理するように押し黙り、茶碗に残ったお茶を飲み干した。

「弟からの突然の電話で、結婚式に出てほしいと言われたところまでは話した」伯父が再び話し始めた。「結婚相手がどなたかなんて聞きだすゆとりもなかった。あいつも、あまり詳しく話したがらなかった。とりあえず式服も略式で、式場のある神戸へ家内と二人で駆け付けたんだ。式が始まって間もなく、わしら夫婦は危うく腰を抜かすところだった」

「いったい何があったんです?」雄介は身を乗り出すように訊いた。

「式の印象を一言で表すと、わしらの前を〈狐の嫁入り〉が通ったという気がしたんだ」

 伯父の言葉が理解できず、雄介は居心地悪げに何度か座り直した。

「祭壇の前で、タキシード姿のあいつが花嫁を待っていた。やがて花嫁入場となって、開いた扉から白いウェディングドレスの花嫁が入場してきた。ため息が出るほどきれいだった。だけどその時自分の目が信じられず、思わず隣に座る家内の袖を引っ張ってしまった。頭に深く被ったレースのせいで、花嫁の顔つきまでははっきりしなかったが、家内も同じ気持ちだったらしい、通路を歩む花嫁をわしらは口を開けたまま眺めてたよ」

 雄介は固唾をのんで次の言葉を待った。

「その花嫁は、誰だったと思う?」伯父は訊いた。

 雄介はわからないというふうに、首を横に振ってみせた。

「もちろんお前のお母さんだ、千賀さんだよ。浦田君に連れられてこの家に何度か遊びに来たことのある、神戸の野木千賀子さんだったんだ」

「浦田さんという人は、式場には…」

 途中で口ごもった雄介に、初音さんが言葉を添えた。

「スイスから届いた航空便は、式には出席できないという意味も含まれていたことになるわね」

 さらに伯父が続けた。

「浦田君を見つけようと、式場くまなく見回したが、彼の姿はどこにもなかった。これは何かのリハーサルかもしれない、わしは式の間ずっとそんな気がしてたよ」

「それでもこの人、帰りの新幹線で、いい結婚式だったな、なんて同意を求めるから、わたしは正直に、出来の悪いフェイクドラマを見せられてるみたいだった、と言ってやったの」

 初音さんが語気を強めて言い添えた。

「その人は式の当日、スイスにいたわけですね」同意を求めるように雄介は訊いた。

「あの時は瞬間移動のマジックで、式場から彼の姿が消されてしまった、そう思うしかなかったんだ」

悪い冗談のように伯父はそう言って苦笑いを浮かべた。披露宴の余興でなら、そんな趣向もありかもしれない。しかし厳粛な式の真っ最中に、主役が入れ替わってしまうことなどありえなかった。雄介も唖然として、しばらく口をきけなかった。

「冗談だよ、そんなふうに感じたと言ったまでだ。出席できなくて当然だよ、あの男は技術研修でその時スイスにいたんだから」

「時計職人になるための修行だったんですね」

「それまでは国内でもかなり大きな時計メーカーに勤めてたんだ。時計と言えばその頃は、昔ながらのゼンマイ式がほとんどだった。しかし新しいクォーツ時計が進出して、従来のゼンマイ式は片隅に追いやられた。あの男は自分の手で時代遅れの時計をあえて復活させようと考えたらしい。それなりの勝算もあったんだろう。会社を辞めて、時計職人が集まるスイスのどこかの街へ技術を学ぶために移り住んでいった」

「そんな若い人がよく思い切りましたね。退職金も知れてたでしょうに」

「どこかで渡航費や生活費を工面したんだろう、わしらの知らぬ間にさっさと飛び立っていったよ」

 浦田氏は当時、かなりの幸運に恵まれたのだろう。運よく相当なスポンサーがついたに違いない。浦田氏がその後帰国しているなら、会ってぜひ詳しい話が聞きたい、父や母の当時のことをもっと知りたい、と雄介は強く思った。

「その人は今、どこにおられるんです?」 

 伯父夫婦は一瞬困惑の表情を浮かべた。しばらく間を置いて伯父は、

「弟が神戸へ移ってからは、わしらの周りでぱたりと浦田君の話は途絶えてしまった」と言いにくそうに答えた。

結婚を機に友人がお互い疎遠になるのはよくある話で不自然なことではない。それでも雄介は食い下がった。

「まさかスイスに定住されたということはないでしょう。帰国されてるなら、今どこでなにをされてるのか噂でもいいんです。どこかで時計の店を開いてる、そんな話を小耳にはさんでいるならぜひ」

 伯父夫婦は言葉に詰まったが、伯母が仕方なしにというふうにやがて口を開いた。

「これは街の噂話でしかないんで、あなたに聞かせるのをためらったんだけど。そこまで言うならあえて話しておくことにするわ」

 雄介は伯母の顔をまっすぐ見つめた。

「浦田さんは日本へ戻ってからしばらくして事故に遭って亡くなった、そう噂する人もいるの。野毛の美容室に立ち寄った時、たまたま大道芸で評判だった浦田さんの話が出て。昔、店のそばでパフォーマンスをしてくれた浦田さんは、飛行機事故に遭ってだいぶ前に亡くなってるそうよ、店のママさんからそんな街のうわさ話を耳打ちされたの」

「事故で亡くなった?」雄介は声が裏返りそうになった。

「覚えてない? あなたの歳ならたぶん高校生の頃だったと思うけど、新聞でもテレビでも連日放送してた大きな飛行機事故」  

 有力な手掛かりをつかめそうな人にやっと出会えたと思った途端、その人は飛行機事故に巻き込まれ、すでに亡くなっているというのだ。

 その事故のことなら雄介も朧げに記憶に残っている、たしか高校二年の夏休みのことだ。テレビや新聞が何日にもわたって報道していた。その事故に巻き込まれた遭難者のことなら、街の噂に頼るより、図書館に行けばもっと確かな情報を掴めるはず。雄介は明日さっそく図書館に出向いて資料を閲覧することに決めた。

 伯父夫婦には話の終わりまで、事務所で父の名前の載った借用書を見せられたことは話さなかった。伯父夫婦に迷惑のかかりそうなことは避けたかった。それでも雄介は努めてさりげなく、伯父夫婦の反応を探ってみた。

「話は変わるんですけど、父が結婚する前、誰かの借金の保証人になった、みたいな話を聞いたことはないですか?」

「借金の保証人?」伯父は思わず聞き返した。

「それはないな。お前も知ってるようにあの性格だ、弟に限って借金の保証人になることなどまず考えられん」

 伯父は強く打ち消した。そして同意を求めるように、初音さんの方に顔を向けた。

「そんなあり得ない話、息子のあなたが一番よく知ってるでしょう。神戸の家の建て替え資金だって、借金は嫌だと言って、退職金を手にするまで何年も雨漏りのする家で我慢したくらいの人なのよ。それも銀行の好条件の融資話を何件も断ってまでよ。そんな人が、他人の借金の保証人になるなんて、あるわけないわよ」初音さんはムキになってそう返した。

 伯父夫婦は口をそろえて、父に借金などありえないと打ち消してくれた。しかし事務所で見せられたあの書類は、白昼夢や液晶画面に浮んだ映像ではなかった。まさしくリアルでの出来事だった。あれが悪い夢でないとしたら、灰皿で隠された個所に何が書かれているのかぜひとも探らねばならない。飛行機事故に関する資料を図書館で当たる必要もある。やらねばならないことが雄介の前に山済みになっていった。

 伯父夫婦と顔を合わせ、久しぶりに積もる話もでき、雄介の気持ちもほぐれていった。残った料理に自然と箸が伸び、談笑に興じる余裕も生まれた。席を立つ間際、初音さんが雄介に、

「近頃は他人に成りすまして人を騙す(やから)も多いから、あなたもよほど気をつけないと。うかうかしてたら神戸のあの家、他人に乗っ取られてしまうかもしれないわよ」と付け加えた。

 父に似せた人型ロボットが平気な顔で我が家に上がり込み、気づいたら家ごとそいつに乗っ取られている、そんなことだって起こりうる時代なのだ。雄介はもう一度ゆるんだお腹のベルトを締め直し、居ずまいをただして腰を上げた。

「今夜はここに泊まっていけばいい、老人二人だけだから、寝る部屋はいくつもあるし」

 疲れの見える雄介に、伯父は二階を指さした。

「それがいいわ、二階にお布団敷いてくる」そう言って初音さんが立ち上がりかけた。しかし雄介は丁重にそれを手で制した。ここで一晩過ごしたら、来た時二階から聞こえた足音が、夢の中まで追いかけてきそうな気がするのだった。

 ホテルへ戻るためにJR桜木町駅へ向かった。夜の街を駅へと急ぎながら雄介の頭には、父の学生時代父の親友だったという浦田氏の名前が盛んに巡り続けた。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日