著者プロフィール                

       
社会見学や文化祭など 〜 私の良き時代・昭和!(その28)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

社会見学や文化祭など 〜 私の良き時代・昭和!(その28)

 その他にも社会見学やOBによる先輩講座の講演も行われた。社会見学では京都の宇治にある天ヶ瀬ダムに行ったことがある。国鉄の宇治駅から徒歩でダムまで登った。

 淀川水系の大きなダムで、ダムの通路からみた眺めは圧巻であった。高低差は七〇メートルあり、ダムの水面を見てみると、何か引き寄せられる妙な感じがした。後でだが自殺の名所ということも聞いた。管理する関西電力にもたくさんのOBが勤めていると説明で聞いた。帰りもダムから駅まで歩くのだが、一日歩いているので大変きつかった。

 途中ヒッチハイクを試みたがなかなか止まってはくれない。やっとの思いで、軽トラックのおじいさんが止まってくれた。荷台に何人か乗り、駅の近くまで送ってくれた。この間次々と友達を抜いていく。羨ましそうにこちらを見ながら「汚いぞ。チャンと歩け」とか「俺も乗せてくれ」などの声を聞きながら優越感にひたっていた。このときばかりは本当にうれしかった。つくづくこの学校は本当に体力を鍛えることが好きな学校だなと思った。しかしこのことが担任にばれて、トイレ当番の罰を食らうことになった。

 翌年の社会見学は当時世界一(中央径間五一〇メートルで現在世界三位)といわれた港区と南港を結ぶ建造物でゲルバートラス橋である大阪港みなと大橋であった。長さ約一キロもあり、通路から海面までの高さは五〇メートル以上ある。見学時はまだ最終仕上げ段階の工事中であった。全員ヘルメットをかぶって通路まで上り、歩いた。

 とび職の人は何の抵抗もなく、いとも簡単に平地でも歩いているように普通に行き来していたが、実際に通路に出た瞬間これは無理だと悟った。凄い強風と高さで歩けなかった。足元を見れば、五〇メートルの高さがある。それもなんの障害もなくストレートに海面ということで恐怖にかられた。遠くに海面の美しい波頭が見えた。風で橋も少し揺れているように感じた。手摺にしがみつくのが精一杯だった。

 これが世界一の橋かと思い、日本の技術力の高さを実感した。よくこんな巨大なものが造れるものだ。最大スパンといわれる五一〇メートルの通路を歩いているときに特にそう思った。

 現在も阪神高速で南港のインテックスやATCに行く場合は、この橋を渡るが、渡るたびに当時を思い出す。紅色の鮮やかな色で、今も綺麗にメンテナンスされており四〇年以上を経過しても、その形は美しく、いつまでも大阪の要所として活躍していることが誇らしく大変うれしく思っている。

 秋の文化祭には女子高の生徒がたくさん押し寄せた。結構お嬢さん学校の生徒の入場者も多かったと記憶している。校庭の模擬店にはたくさんの女生徒が群がっていたが、こちらの校舎からは測量の道具であるトランシット(双眼鏡のような機器)で可愛い子がいないか品定めをしていた。また、友達の彼女の顔を確認したりしていた。

 クラブ活動では大阪中之島の公会堂で演奏会を定期で開催していた。そのときには全校一年生の中でも一番可愛いと噂されていた女生徒が、お菓子も持って応援に駆けつけてくれた。来ているのは知っていたが、まさか私の応援にとは思ってもいなかったのでびっくりした。実はこの子はクラブの先輩女子の知り合いで、文化祭の時に私を見て気にかけていたとのことだった。先輩男子はこぞって「羨ましい」の連発であったのでお菓子をおすそ分けしてあげた。

 夏になると能勢の山奥で合宿を一週間行った。男子はごろ寝同然で、女子だけがちゃんとした部屋を与えられていた。寝る場所も毎日違う。ある時、たまたま、部長の横で寝たのだが、夜中に目が覚めた私は目前に部長の顔を見て、声を上げてしまった。なんと、部長は目を開けた状態で寝ていたのだ。私はてっきり睨まれているのかなと思った。「部長」と声をかけても反応がなかったので、「この人は目を開けて寝るのか」と思った。そのときの恐怖心は言葉では形容できない。人それぞれいろんな癖があるものだなと思った。

 またこの合宿所には他の女子校も参加しており、みんな気になって仕方がなかった。先輩女子は「みんな口から涎が出てるよ」と冗談を飛ばしてからかっていた。

 ある日食事前にある先輩が来て、こっそりと「面白い物を見せてやるから来い」と男子生徒を呼びに来たので、ついて行ってみるとなんと風呂場ではないか。風呂の窓は縦に長く少し開いていた。そこから湯煙が出ていたが、人の気配が若干見えたりしていた。先輩の、「女風呂やで。今女子校が入浴しているはずや」との言葉に「ええ!」と男子みんなで歓声を上げた。ガラスが曇って見えるようで見えないが、数人の女の子がガラス側に立ち、こちらに向かって手を振っているではないか。ということは覗いているのがばれているということか。これは一大事だ。と思った瞬間宿屋の主人が「こら~」とほうきを持って追いかけてきた。ばらばらに一目散で逃げたのを思い出した。

 夕食のとき、顧問の先生が風呂を覗いたやつは立てというのでほとんどの男子が立った。勿論部長の姿もそこにあった。先生が先導したものは誰だ、と追求してきたとき、部長が「僕です」と答えた。みなを庇って部長が責任を取ろうとした。しかし、他の先輩が「部長ではありません」と発言すると、あちこちから「私です」のいい合いとなり、結局顧問は「学校の恥だ二度とするな」といいつつ、「どうだった、可愛かったか」と小さな声でささやいた。それがまた女子生徒の耳に聞こえたものだから、今度は女子生徒から「一つも反省なんかしてへん。本当に男っていやらしいな~」となり、女生徒から非難されるということになってしまった。

 結局は男子全員、女生徒の前で「学校の名誉を汚して申し訳ありません。二度といたしません」と謝ったのだった。青春ドラマをそのまま絵にしたような展開の夏合宿であった。その夏の合宿では蜂に刺されたり蚊にかまれたり、夏風邪をひき帰宅した者もいた。管理するのも大変だった。虫除けの薬は常備品として無くてはならないものだった。

 文化祭の前になるとOBたちもクラブの応援にやってきた。時には卒業後一〇年目の先輩という人が初めて来たことがある。理由はわからない。二八歳ということで凄いおじさんに見えたが、昼休みには「みんなで何か食べて」といって、一万円をカンパしてくれた。二年生の女生徒が早速ハンバーガーショップへ買い出しに行った。さすがに先輩は大人だ。これならどんどん先輩に来てほしいなと思った。この先輩のパートはトランペットだった。部長のトランペットに聞きほれていたが、この先輩はその上をいく音色だった。「はっきりいってレベルが違う、凄いな」と思った。私が入部したときに、部室に一枚の写真が飾られていた。いつの時代のものか全くわからず、でもその当時の部員全員で撮った写真である。しかしこれも先輩が訪問されたことで判明した。前面中央になんとこの先輩が写っていたのである。ということは一〇年前に撮られたものか。

 そういうこともあり、「今の部員全員の写真を撮ろう」ということになり玄関前で撮りその写真の横に飾った。昭和四八~四九年ごろだと思う。今も部室に飾られているのだろうか。一番目立っているのが私である。しかし、私は卒業以来母校を訪問したことがないので見ていない。

 当時、私はドラムを担当していたが、どうにもうまくいかない。手足の動きが違う。音楽のリズムに合わせて手足をばらばらに動かすことなどできるわけがない、できる人は天性の才能の持ち主だと思っていた。しかし練習のおかげで、拙いものの徐々にではあるができるようになってきた。先輩も少しは練習量をこなしてきたんだなと、認めてくれるようになった。

 文化祭当日、それも本番の途中に、先輩が「一度叩いてみろ」といってきた。私が「だめです。できません」というと、先輩は「大丈夫だ。感覚でひけ。いちど実戦を経験することは大事なのでやれ」といいさっさと舞台裏に出て行ってしまった。仕方がないので、どうにでもなれと思いドラムの席に座った。ステージの幕が上がる。何と溢れんばかりの満員ではないか。そこには同級生も来ていた様で、大きな拍手が沸き起こった。ここまで来たら破れかぶれだと思い、私は楽譜を見ないでアドリブで叩くことにした。

 ビートルズナンバーから演奏が始まった。音楽の良し悪しはドラムにかかっていることがよくわかった。最初スティックを叩いて「ミッシェル」から演奏に入るが何故かテンポが重く曲もドラムに従い重いビートサウンドになってしまって変な「ミッシェル」になっている。「どうしよう、俺のせいだ」と頭ではわかっているが、どうすることもできない。しかし、思い切って少し軽快にテンポを速めたのが功を奏しビートルズらしい演奏になってきた。重苦しい会場が少し明るくなってきた。

 これ程音楽が人の心に響くなんて実戦でしか味わえないと感じた。奏でる方も非常に心地のよい瞬間を味わうことができた。ひいている内に周りの音も聞こえてくるようになり、音に合わせながらフィーリングでリードしつつ叩いた。ビートルズからサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」や「明日に架ける橋」などを演奏した。この「サウンド・オブ・サイレンス」はダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが共演した映画「卒業」の劇中歌としても有名で、特に最後は劇的で感動的なシーンであった。私も何度も見た映画である。

 演奏が終わりほっと胸を撫で下ろし「結構できるもんだな」と感じた。先輩はできることを見越して私に託してくれたのかなと思い、先輩に感謝した。

 人前で演奏するということは、あるがままの自分をさらけ出し、聴収から評価を受けることになるが、それを恐れてはいけない。恥ずかしくないように練習を積むしかないと心に誓ったのであった。やはり実演は何よりも勉強になる。しかし背中と脇は汗でびっしょり、無我夢中で叩いた。片隅から拍手をおくる先輩の姿がとてもうれしかった。

 高校時代の夏休み三年間は母校OBが勤務する府の事務所に学校推薦でアルバイトをした。

 所長がOBでとてもやさしく、現場の見回りにはいつも連れて行ってくれる。工事現場に行くと大手ゼネコンの工事関係者が出迎えてくれる。父より上の恰幅の良い中年監督が一五歳の私にも丁寧に挨拶をしてくれるのだ。「私は高校派遣の実習生です」といっても終始丁寧な態度で接してくれた。何とも気持ちの良いものであった。なにか自分が偉くなったような錯覚を覚えた。大阪府のヘルメットを被っていたので、「ヘルメットのチカラかな」と内心思った。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日