沖縄の離島に続いて懸案の青ヶ島へ行ってきた。沖縄で同行したSさんと、もうひとり私の友人Yさんを誘っての3人旅だった。Yさんは全国の離島のすべての郵便局で貯金をすることに挑戦しており、Sさんの「五万分の一地形図歩きつくし」、私の「市町村役場めぐり」と同じように家族からも「行かなくていいのに」と言われていることを忠実に続けている私と同年輩の人である。しかしYさんの場合は行く度に千円の貯金をしており、見せて貰った通帳には3百万円近い残高があったので、Sさんや私よりははるかに建設的なことをしていると言える。Yさんのような「旅行貯金」をする人は郵チャンと呼ばれているそうだ。私は役チャンを自称しており、それならばSさんは地チャン(ちーチャン)とでも呼ぶべきか。
通常3人はそれぞれの目標とルールで1日に1件でも多く達成しようと食事の時間も惜しんで走りまわるのだが、青ヶ島ではどう頑張っても3人とも1日に1つしか行けない。だから時間だけはたっぷりあった。しかし基本的には3人ともいつの間にか自慢話になってしまうが、いつまでも話が尽きず、全く退屈することがなかった。
簡単に上陸を許さない島
青ヶ島は東京港から370キロ、八丈島からも南に70キロの伊豆諸島の有人島最南端にある絶海の孤島である。東京からの直行便はなく、定期交通としては八丈島からの船かヘリコプターがあるが、どちらも天候に左右されることが大きく、船は年間の欠航率が60%にも及び、ヘリも有視界飛行なので霧が出ると欠航になる。
我々3人は集合場所を青ヶ島行きの船が出る八丈島八重根漁港としていたが、八丈島までは3人とも同じ東海汽船の「かめりあ丸」に乗船したので竹芝桟橋から既に盛り上がっていた。青ヶ島への船はその日の朝にならないと運航するかどうかがわからず、我々も八丈島に着いた9時30分になって本日の運行を知った。東海汽船の着く底土港からタクシーで10分ほどの、島の反対側の八重根漁港へ、そこで見たこれから乗る「還住丸」は119トン、3837トンの「かめりあ丸」の後ではなんとも頼りなさそうだった。
この船は青ヶ島に着くとすぐに八丈島に戻るので、役場や郵便局へ行くには1泊しなければならない。片足だけでも地面に接すれば地形図1枚カウントとなるSさんはその船で戻ってもいいのだが滞在に付き合ってくれた。運航率40%ということは理論的には今日乗れば明日は欠航という可能性大なのだが、今回は幸運にも翌日も運航し1泊で戻ることができた。前週は前半3日間が欠航で後半3日間が運航だったので確率的にはそろそろ欠航でもおかしくはない。なおSさんは昨年11月に八丈島まで来たが青ヶ島へは欠航で断念しており、2度目のチャレンジで成功したことになる。
船には郵便局のATMの保守に行く背広姿の青年と、島にただ1軒ある居酒屋に出稼ぎに行くという若い女性などが同乗していた。2時間半の間、覚悟したほどの揺れではなかったが、それでもデッキに立ち続けることは適わず船室で横になっていた。近づいてから見る島はラーメンのどんぶりを逆さまにしたような、沖縄の離島とは全く異なる、まさに富士山のような火山の頂上付近だけが海上に姿を現していることを容易に想像させる姿をしていた。高さ200メートルにも及ぶ絶壁には、幾層もの溶岩と火山灰の互層が剥き出しになっており、縦に幾筋もの噴気孔の跡である岩脈が貫入しているのが見える。この描写はSさんの受売りだが、門外漢の私にとっても面白く、地層や火山の専門家だったら驚喜するような光景ではないだろうか。そしてどんぶりの底、すなわち島の頂上の一部には雨水を貯めるダムや建物などの人工物も見えた。
そのような人を容易に近づけない、断崖絶壁の横をまわり込むようにして、やっと一部壁を切り込んだようなところに島の唯一の港、三宝港があった。防波堤もなく港の奥の岩まで音を立てて高波がぶつかっている。1度接岸に失敗し2度目にかろうじて接岸した。しかし通常なら必ずある船と埠頭との渡り板はなく、客は船から飛び降りなければならない。波の上下のため渡り板はかえって危険なのだそうで、近づいたり離れたり、上下したりするタイミングを見ての飛び降りはなかなかスリルがあり、船員や駐在のお巡りさんが手をさしのべてくれやっとの思いで上陸した。北大東島の艀よりも難しかったように思う。
絶海の孤島
その南北大東島がつい最近まで無人島だったのに比べ、青ヶ島は古くから人が住み、飢饉もない比較的豊かな島だったそうだ。それが天明の大噴火と言われる1780年から85年にかけての4度におよぶ火山噴火により多数が命を失い、生存者は八丈島に避難し50年間は無人の島になっていた。その後復興のために旧島民が島に戻り1835年に還住を果たすことができた。定期船「還住(かんじゅうまる)丸」という名の由来でもある。
明治になって鰹漁、養蚕、製炭、牧畜などで島は活況を呈し最盛期には人口754人となったが今は198人(2005.4.1住民基本台帳)である。面積6.0K㎡というのは東京23区中最小の台東区の6割ほど、狛江市くらいだそうだ。前述の通り島は海底からそびえた火山の頭だけが出ていて、複式(二重式)火山になっており、外輪山の中に火口原があり、またその中に中央火口丘がある。池の沢という名の火口原にはいまだに蒸気が噴出している所があり、人は住めない。 すべての住民は外輪山の尾根の一部に住んでいて、ここに村役場、学校、郵便局、駐在所、診療所、商店、民宿、発電所などが集まっている。しかしそれらは軒を連ねるというのではなく、荒れ放題の原っぱの中に
ちらほらと点在しているという感じだ。学校は小中学校が一緒になっており生徒が23人、これに対し先生が24人いる。先生のうち家族のいるのは3人だけで残りは独身か単身赴任、ただし新任の駐在さんは4人の子持ちで、警察は家族同伴でないと着任できない決まりになっているそうだ。このほか17人の役場職員など公務関係の人だけで総数200人弱の島民のかなりを占めている。商業と言えるのは5軒の民宿に商店が2軒、居酒屋と自動車整備工場が各1軒、これですべてだそうだ。
電力は東京電力の内燃機関発電所があり、水は雨水の貯水による簡易水道がある。港などと結ぶ道路は都道で、これの改修などのための建設業者がいるのは他の過疎地と同じだ。主な産業としては肉牛の飼育のほかサツマイモ、「青酎(あおちゅう)」という名の、最近では東京あたりでも知られるようになった島の特産品である焼酎のためのものだ。ほかに「パッションフルーツ」や「切葉」の出荷がはじまり、また東京都の災害備蓄用として木炭も作られている。周囲は良い漁場だが、輸送手段がないため島内需要を賄う程度しか行なわれていないそうだ。 ヘリコプターは人を乗せるだけなので、新聞や郵便物は還住丸が運ぶ。だから欠航で何日も滞ることがあるという。還住丸でも荷物を運ぶが、このほかに週1便、大きな貨物や自動車などを積んだ黒潮丸という500トンの貨物船が八丈島からやって来るそうだ。
地チャン、郵チャン、役チャン
荷揚げをするクレーン車や駐在所のジープ、郵便車,東電の車、診療車などが集まった港には民宿のおばさんも軽ワゴンで迎えに来ていた。3週間前に予約をしようと電話をしたときにはどの民宿も工事関係者でいっぱいで、やっと最後の1軒で1部屋空いているという状態だった。とは言え船の運航に左右されるから、当日朝の八丈島からの電話を最終確認とし、また帰りの船が欠航の場合は延泊可という条件とした。なお八丈島から乗船するときは、民宿など宿泊先が決まっていないと船の切符を売ってくれない。
車は急坂を登り、外輪山トンネルを抜け火口原に入り、再びトンネルを通り集落に向かった。この間大回りをするので約5キロ、尾根を通る近道がありこれならば3キロくらいなのだが、今はがけ崩れで通行できない。もちろんバスもなければタクシーすらない。私は役場に行くのに公共交通がなければ歩くし、5キロくらいわけないと普段から偉そうに言っている手前、私だけでも歩かなくてはいけなかったのだが、見上げるような急坂と、気温はそれほどではないが湿度が異常に高く、じっとしていても汗が出てきてとても歩く気にはなれない。自分で作ったルールを破っているような気もして、公共交通に捉われない2人を前に小さくなって乗せてもらった。
さて3人3様の目標達成風景である。Sさんは船から飛び降りた時点で「五万分の一地形図歩きつくし」の1218枚目をカウント、国土地理院発行全1291枚のうち北方領土など訪問不能地を除く最終目標1247枚に対し97.6%を達成した。地形図の1枚というのは、通常はある地域の連続したものだが今回の1枚というのは「八丈所属諸島」という名前のもので、5つの枠に区切られ青ヶ島のほか、鳥島、須美寿島、ベヨネーズ列岩、孀婦岩がまとめられている。Sさんのルールはそのうちのどこかに行けば1枚カウントとなるので、青ヶ島に上陸したことにより自動的に南北300キロにわたるEEZ(排他的経済水域)までを一挙にカバーしてしたことになる。残りは30枚を切り、いよいよラストスパートというところだが、後は小笠原とかトカラ列島など交通不便な離島ばかりで、日数も費用もかかり大変なようである。
次はYさんの郵便局訪問に同行した。Yさんは窓口で1000円の貯金をし、局名入りのゴム印を押してもらい、100円の小為替を買い、さらに50円切手を貼った台帳に名所旧跡特産物等の図柄の入った風景印を押してもらっていた。この間10分はかからなかったが、他の局ではこれに待ち時間が加わる。局めぐりの難しいところは郵便局の営業している平日の9時から16時の間にこれらを行わなければならないことで、土日であろうと庁舎の写真さえ撮ればいい私の役場めぐりに比べれば苦労が多そうだ。これでYさんは通算で2962局目となり、うち離島関係は78島248局目になった。全国の郵便局は2005年3月末で24716局あり、うち離島は181島に579局あるそうだ。そのほかYさんは簡易局とか、旧国名のついたものとか、駅前局などを集中的にまわっている。なお全郵便局のなかで504の貯金を扱っていない非貯金局というのがあり、これらを含めて改廃が激しいそうだ。いずれにせよ行けば行くほど元本プラス利息で確実に金持ちになれるYさんが羨ましいと思ったが、実は行くための経費の方がそのはるか何倍・何十倍という「債務超過」のプロジェクトであり、今後も改善されるはずがない。奥さんからは「貯金なら近くの郵便局ですればいいのに」と言われ続けているそうである。
郵便局では局長夫婦を含め4人が働いており皆親切で遠来の客を丁重にもてなしてくれた。局長からもらった名刺の住所は郵便番号100-1799、東京都青ヶ島村無番地となっていて、この島には番地というものがない。郵便配達は主に局長がやっているが、もちろんどの家の家族構成も知っているから手紙は間違いなく届く。
村役場へも3人でゾロゾロと行った。最近の過疎地に多い周囲と不釣合いに豪華な庁舎とは違って小さな古いものだったのでなんとなく安心した気分になった。いつもは庁舎の写真だけを撮って終わりなのだが、庁舎をバックに私の写真も撮ってもらった。同行者のおかげである。目標3259に対し1988件目(61%)でSさんと違いまだまだ道半ばである。観光ガイドや地図、資料類をもらおうと中に入ると若い男性の職員が親切に対応してくれた。
郵便局長の案内でオプショナル・ツアー
もらった地図で草ぼうぼうの荒地の中に点在するいくつかの建物の位置関係がやっと理解できた。役場に隣接する小中学校は役場とは対照的に近代的な立派なもので、さらに新しい体育館も建設中だった。そして小ぎれいな教職員住宅やヘリポートなどを見てまわり民宿に戻ると船で一緒だった青年が私服に着替え玄関前に立っている。青年の腕がいいのか機器の状況が良かったのか、仕事の方は1時間もしないうちに終わったようだ。彼も明日まですることがなく、郵便局長の車で島巡りに連れて行ってもらうとのことだった。それに我々3人も同乗させてもらうことにした。これもYさんの貯金のお陰である。
まわると言っても皇居よりも狭いのではないかと思われる島の、そのまた火口原の中なので日比谷公園くらいの広さだろうか、それでも急坂が多いから車だと助かる。局長の軽ワゴンは大の男5人をギュウギュウに詰め込み、それこそ喘ぐようだった。丸山という天明の大噴火でできた内輪山の中腹を一周する遊歩道を20分くらいかけて歩き、火口跡付近で噴出している水蒸気によるサウナ風呂で汗を流そうと思ったら休業中、その隣の地熱を使った製塩工場を見学した。「ひんぎゃの塩」という名前で売り出し始めたそうだが工場には売物を置いておらず、帰りの竹芝桟橋の売店でみやげに買って帰った。「ひんぎゃ」とは島言葉で「噴気孔のある場所」の意味だそうだ。
リヨン大学地理学科講師
同じ民宿にマリー・オジェンドレ嬢というフランス人が泊まっていた。リヨン大学の地理学科講師だという。もともとは人文系だったが今は火山学や防災学が専門で、日本に来て7年目、北は知床から南はトカラ列島まで火山を歩きまわっているそうだ。普賢岳のある島原の市長や山古志村の村長にも会ったことがあるという。30歳代のスラリとした長身で、Tシャツにジーンズ姿で民宿の食事を旨そうに食べていたが、ドレス姿でパリの社交界に出れば人目を引きそうな美人だ。日本語を流暢に話し、納豆を除いて日本食は何でも食べると言う。フランス本土には火山がなく、日本全国火山めぐりをしているそうだが、ゲーム感覚で何とかめぐりをしている我々3人とは目的もルールも全く異なるのだろう。だから何件が目標で何件達成したかなどという変な質問は控えたが、それでも思わぬGeo Friendとの出会いだった。彼女はこの後三宅島に渡り、防災関係のシンポジウムに出席すると言っていた。
さらば青ヶ島
翌日、八丈島の6つの郵便局で貯金をしたいYさんは早く行くためにヘリコプターの予約をしていたが霧のために欠航、船は運航することを防災無線で知った。午前中小雨の合間にマリー嬢に教わった近くの大里神社へ行った。外輪山の頂上にある島の総鎮守で鬼面と女面が安置されていた。すべり易い急な石段を登った先にあり、下りの途中私だけが4度も滑って転倒した。島に食堂はなく昼食は民宿の弁当、民宿はどこも1泊3食7000円と同じ料金のようだった。弁当を食べ、民宿の主人が運転する車で三宝港へ、昨日よりも波はおだやかで、今度は人手を借りずに飛び乗り3人とも八丈島に向かった。
それにしてもこの島は今までに行った他の離島とか過疎地とは随分違う。都道に品川ナンバーの車が走り、警視庁と書かれたパトカーが駐在所に止まっているが、本州から乗継なしの船や飛行機はなく、それも欠航が多い。まさに昼夜をかけはるばるやって来た遠い島であり、多分日本一行きにくい島であり村だろう。日本一少ない人口も、半数が島外出身者で平均年齢が30歳台後半と、高齢化の進む他の離島や過疎地とも違う。他所に容易に行けないわずかな住民のために、最小限必要な社会インフラをかき集めているという風でもある。狭い島なのに人が行けるのはごく一部で、残りは自然のままである。だから残された自然の宝庫だと言えなくもないが、私には無理やり生活の基盤を維持している人工の島という感がしてならない。
学校の先生や役場職員など公共機関に働く人は2~3年で入れ替わっているそうで、ずっと島に残って島を守りたいという人はどのくらいいるのだろうか。離島ブームや、団塊の世代の第一線からの大量の引退者が出るなかで、島で暮らしたいという人は今後も出てくるだろうが、その人たちがこのような不便な島でいつまで留まるだろうか。どうしても島に残りたいという人が数名になったとしても、その人達のために公共インフラを残し維持しなければならないのだろうか。これが自分で漁船を操り隣島に行けるくらいの距離にある島ならば、数人が残ってもその人の好みとか自己責任だとか言ってある程度黙認、あるいは放置することもできるかも知れないが、この波立つ黒潮の先にある島ではそうは行かない。
仮に青ヶ島が地理的に日本の最果てにあったのならば、国防上の重要性も出てこようが、さらに南には小笠原列島がある。だからいつかこの島を無人島にするという決断が島民に求められる日が来るのではないだろうか。離れ行く島を見ながら「さらば青ヶ島」と心のなかで言ったのは、自分はもう2度と来ることはないだろうと思ったからだけではなく、いずれ近い将来この島が無人島になるかも知れないと思ったからである。
エピローグ 八丈島と三宅島
八丈島に無事戻り、民宿に荷物を預けた後、私だけが歩いて町役場へ行った。そしてSさんとYさんが民宿で借りた車で来て私を拾ってくれた。そして有名な玉石垣を見たり温泉に入ったりした。民宿は大変気前が良く、ガソリン代だけ払えば車は乗り放題だし、食堂にあった焼酎も飲み放題で1泊2食付6400円だった。青酎をはじめ伊豆諸島や久米島のものまであり調子に乗って飲み比べをし、一番旨いと思った八丈島の「八重椿」を買って帰ることにした。
さらに翌日は、3人で歴史民俗資料館に行った後、Yさんはオートバイを借りて島内6局をまわりながら貯金をするために八丈島に残り、飛行機で東京に帰るという。
Sさんと私はYさんと別れ三宅島に渡った。総トン数4965トン、旅客定員1483名のさるびあ丸に八丈島から乗船したのは定員のわずか1%の15人ほど、それも大半は三宅島で下船したので今や東京との往来はほとんど飛行機が使われているのだろう。
そして三宅島に泊まり、Sさんは地形図を1219枚とし、私は中学校の校舎に仮設置された臨時村役場に行き役場を1990件とした。最終日、東京に戻る船が出るまでの半日は島の南部の自然観察施設である「アカコッコ館」で過ごし、Sさんから野鳥や植物についていろいろと教えを受けた。気象の関係で下船したのは西海岸の錆ケ浜港で、乗船は東海岸の三池港だったので島を半周することができた。この島は約20年毎に大噴火をしている。2000年の大噴火のときは約3800人いた島民が全員島を離れ避難し、2005年以降帰島したのは2832人、噴火の度に千人くらい減るのだろうか。上陸には必要と言われ竹芝桟橋で2400円で買いリュツクに入れておいたガスマスクは使うことがなかった。八丈島からの下船客のなかに当地の防災シンポジウムに出席するマリー嬢がいた。