血

「心臓は血を流す。血は全身を巡る。心臓の拍動が止まれば、人は死ぬ。つまり、血は動力。人が生きていく上でなくてはならないもの。」

ティトは、水汲み水車を眺めながらそう呟いた。水が町を潤すように、血が人体を潤す。水の流れが弱まれば、水車は止まる。きっと同じだ。血の流れが弱まれば、心臓は止まる。彼は自らの考えを信じて疑わなかった。

　ヤブイは町一番の医者である。町では、彼をトップに医師会が設立されており、この医師会が町の医療を支えていた。

彼は診断や治療や研究だけでなく、病気か怪我かで訪ねる医師を分けさせたり、町の立地から医療機関の配置と人数をうまく割り振ったり、新人育成にも力を注いでいた。町の人々は彼を医者というよりも人格者として扱っていた。

　エラは医師会の医者で、主に町の西側を担当し、患者を診ていた。彼女のもとには新人のラシュナーが配属された。今日も小さな診療所は忙しい。診療所に来た患者はもちろんのことだが、診療所に足を運べない人たちの場合、自分たちが足を運んでいた。

「ラシュナー、患者から血を抜いてください。私は先に次の患者のもとへ向かいます。」

「わかりました。」

徐々にではあるが、エラはラシュナー一人に仕事を任せるようになってきていた。そして、熱、頭痛、咳、下痢などの症状の軽い患者は、ラシュナーが一人で診察から治療までを行うようになった。

　ある日、二人は重体の患者の家へ向かった。熱が下がらず、一向に症状が治まらない。エラは今日も同じように治療することしかできなかった。

その帰り道、ラシュナーの眼は町を呑気に散歩しているティトの姿を捉えた。彼の心は一気に曇った。

「やあ！」

ラシュナーはその声が自分に向けられたものだと知りながらも、我関せずと歩みを止めなかった。すると、エラが彼を止めた。

「呼んでるよ。」

ラシュナーは止まる他なかった。振り返ると、ティトが手を上げながら近づいてくる。

「久しぶり。」

「ああ。」

「仕事の帰りかい？」

「そうだよ。」

「どんな患者だったんだ？」

「昼間からほっつき歩いてるお前には関係ないだろ！」

「…」

「熱が下がらない患者です。」

横から気を使ったエラが代わりに答えた。その声を聞いたラシュナーは、正と負の感情を募らせた。気を使わせて申し訳ない気持ちと余計な口出しをするなという気持ち。

「何か治療したのですか？」

「血を抜いてきました。」

「そうですか…」

ティトは少し考えた後、エラに感謝を述べた。

「それじゃあ、また。」

ティトは軽快に去っていく。しかし、ラシュナーはその声に答えない。

「態度が悪いですね。友達じゃないんですか？」

「ただの同期です。僕はティトが嫌いなんです！」

「彼が噂の…」

　ティトは学校で誰よりも優秀な存在だった。皆が理解していた。将来、彼は父親のように立派な人間になると。

　ラシュナーはティトと同級生だった。ラシュナーは頭が良かったわけではないが、忍耐強かった。ラシュナーが初めてティトと話した時、彼の第一声は決まっていた。

「僕、医者になるんだ！」

第一声にふさわしくない言葉だと重々知りながらも彼は言わずにはいられなかった。何故かは分からないが、彼に伝えなければと思った。しかし、いざ言い終わると心の熱が体の熱へと奪われ、心は不安がり始めた。そんな束の間、ティトが答えた。

「一緒になろう！」

彼の穢れのない純粋な言葉にラシュナーは救われた。彼らはすぐに意気投合した。どんな病気や怪我に対しても懸命に向き合う医者の姿は、彼らの憧れだった。

　同じ目標を掲げ、大きな夢を語り、切磋琢磨し、同じ時間を過ごしてきたからこそ、ラシュナーはティトの決断を許せなかったのだ。

「僕は医師会に入らない。」

「何言ってんだよ！この町のほとんどの患者が医師会の病院や診療所へ行くんだぞ。医師会に入らないと患者なんて来やしない。」

「わかってる。」

「お前が思ってるほど世間は甘くない。今は経験を積む時なんだよ。やりたいことは結果を出してからやればいいだろ？」

「ダメだ！」

「どうして？何があった？」

ラシュナーがいくら理由を聞いてもティトは答えなかった。

　ティトは父親が考え出した治療法を否定した。父親のヤブイは、病によって体内の血が穢されていると考えた。そこで、問題のある血を体外に出すことで健康回復を図る瀉血治療を生み出した。しかし、ティトはこの考えに納得できなかった。

「僕は瀉血治療を絶対にしない。」

「医師会で決められた治療法を患者に行うのが規則だ。」

「じゃあ、規則を変えてくれ！」

「何を言い出す！これで健康回復しているんだ。助かった患者が大勢いる！」

「違う！死んだ人間も大勢いるよ！」

「じゃあ、他に治療法があるのか？瀉血に変わる治療法が？」

「…」

ティトとヤブイの道が交わることは無かった。ティトは一人で小さな小さな診療所を開いた。ヤブイはそれを認めた。しばらくすれば、息子は自分の間違いに気が付くだろうと考えていた。

　ラシュナーのもとに一冊のノートが届けられた。そのノートは彼に悲報を知らせるものだった。

「ティトが死んだ…」

ヤブイの息子が死んだという知らせは、風が吹くように一瞬で町中を駆け巡った。どうやら彼は、患者の恋人に殺されたらしい。

　法廷で恋人は言った。病の彼は、あの医者に動物の血を体内に入れられ、断末魔の叫び声を上げ、苦しみながら死んでいったのだと。彼女は、あの医者がそんなことを繰り返していることを知り、犯行に及んだ。彼がやっているのは治療ではなく、人殺しだったと涙ながらに訴えていた。

　町中の人間がティトを非難した。それは父親のヤブイですらそうだった。

　そんな中、ティトはそんな奴じゃない。知らない奴が勝手な事を言うな。彼は凄いんだ。ラシュナーは自分の思いを証明してくれと願うようにノートを開いた。一ページ目の最初の行に短くラシュナーに宛てられた言葉が綴られていた。

「僕の親友ラシュナーへ、君は誇り高き医者になってくれ！」

それ以降は、瀉血の危険性とティトが考え出した輸血という血を患者の体内に入れる治療法について記されていた。

　ノートの最後のページには動物の血では人間を救えない。これは、人間の血と動物の血が異なることに原因があると予測していた。そして、最後の文には彼の希望が記されていた。

「患者に人間の血を使う輸血には、まだ大きな可能性が秘められている。」

文字が少し滲んだ。

　ラシュナーは自分がどうすればいいのか分からなくなり、エラに相談した。そして、彼女にノートを見せた。彼女は目を丸くした。それから頭を抱え、絞り出すように言った。

「可能性を感じる。けど、どうすればいいのか？」

「実験してみませんか？」

「人ではダメです。まずは、どんな実験をするか考えるところから始めましょう。」

　あれからひと月が経った。しかし、未だにどんな実験をすればいいのか、検討がつかずにいた。そんな時、診療所に慌てた人物がやって来た。

「エラさんいる？」

「はい。」

「大変だ！あんたのお母さんが怪我で倒れたんだ！」

「え！」

「先生、今日は僕に任せて、行ってあげてください。」

「ありがとう。そうするわ。」

エラは急いで母親のいる病院へ向かった。一人取り残されたラシュナーはドキドキが止まらなかったが、何の問題もなく役目を果たした。夕方、診療所を閉める頃、エラが母親の無事を伝えに帰ってきた。

　エラの母親は倒れてきた棚に頭をぶつけ、怪我をした。出血がひどかったが、何とか一命を取り止めた。

　目を醒ました母親は、まだ癒えぬ傷の痛みに苦しんだ。そして、頭痛、吐き気、食欲がないことを訴えた。

　診療所に今度はエラの父親が訪ねてきた。二人が何かを話し合っている。

「ごめんなさい。少し母親の所へ行ってきてもいいかしら。」

「ええ。」

深刻な顔をしたエラは、再びラシュナーに全てを任せて、出て行った。

　エラは家に戻った。母親は、ぐったり寝ている。

「お母さん。どうしたの？」

「ああ。」

母親は目を開けるのも辛そうだった。

「気分が良くないから、昨日瀉血してもらったんだけど、あまり良くはなってないみたいなのよ。あんまり人様に迷惑はかけられないから、あんたに少し見てもらいたいんだよ。」

「わかったわ。」

エラの医者人生の中で、今日のこの診断と治療が最も恐ろしかった。今まで自分が信じてきたものが崩れた状態で、患者の命を背負わなければならない。彼女の手は震えた。

「昨日、初めて血を抜くということがどんな行為か、理解できた気がするわ。あまり気分が良いものではないのね。」

エラは憂鬱そうにラシュナーに昨日の出来事を語った。

「瀉血したんですか？」

「いいえ。私は規則を破った。」

「輸血したんですか？」

「ええ。自分の血を母親に与えました。」

血の気が引いたエラの顔につられるようにして、ラシュナーの顔からも血の気が引いた。血が冷たくなる。

「どうなったんですか？」

ラシュナーは恐る恐る言葉を口にした。

「今のところ問題ないわ！」

エラは医者としてではなく、娘として決断した。母親の命と共に自分の命を懸けることを選択した。

　エラの母親はあれからみるみる回復し、元通り元気に暮らし始めた。その結果を考慮して、エラは輸血を行ったことをヤブイに報告したのである。あなたの息子さんの考えは正しかったのかもしれないと。

　その言葉を皮切りに、ヤブイは怒りに似た荒々しい態度で輸血を一例だけ承認することにした。

　怪我で血を失った患者に対して、瀉血ではなく、輸血をやらせてみたのだ。エラは緊張の中、同じように患者の血縁者から血を貰い、輸血した。ヤブイは真剣な表情で治療を見守った。

　エラは無事に治療を終えたが、結果は最悪のものとなった。患者の皮膚には白斑が現れ、赤みを帯び、そして、患者はもがき苦しみながら死亡した。ヤブイは怒り狂いながらエラを罰し、愚かな息子を呪った。彼の眼に涙は無かった。

　エラは医師として働くことを禁じられた。規則を破り、間違った医療行為をしたとして罰せられたのだ。

　診療所には、ラシュナー一人が取り残された。彼は、二人の事を忘れようとした。悲しい現実を心の奥底に仕舞い込み、記憶に鍵をかけ、迷いを断ち切るため、医師会が定めた規則に従うことで、自分という存在を律した。

　ラシュナーは毎日、人形のように患者と接した。作り笑顔で、嘘の言葉を並べて、確証のない治療を行い、彼らを安心させた。

　しかし、彼は人形であり続けられなかった。どんなに心を無くそうとしても無くせはしなかった。治療後、患者から感謝の言葉を貰う度に、彼は自分を偽れなくなっていった。自分の手のひらから命がこぼれ落ちていく感覚が確かにあるのだ。その感覚が、二人の背中を、情熱をハッキリと思い出させる。ラシュナーは自分の信じる道を進むことにした。

　来る日も来る日も瀉血を繰り返した。患者には悪いと思いながらも、彼は血を取り続けた。それは、エラの成功と失敗の原因を追究するためである。

　ラシュナーは、寝る間も惜しんで研究に励んだ。患者が命を削っている以上、自分もそうすべきだと、彼は感じたのだ。血の謎を解明するため、患者の血と自分の血をかけ合わせる日々が続く。孤独な日々ではあったが、闘わない日々よりは数百倍マシだった。

　そうして終に、ラシュナーは血液型を発見した。ラシュナーは研究成果をヤブイに知らせ、見事に輸血治療法を完成させた。それを受けて、ヤブイは瀉血治療法を撤廃する規則を作り、医師会トップの座を退いた。町の西側の小さな診療所に一人医師が戻ってきた。二人は握手をした後、抱き合った。

芥川龍之介に殺される

　第０００回芥川賞受賞作の文字が目に留まる。今まで何回この文字の本たちを素通りしてきたか僕には分からない。なにせ国語が大嫌いだったから、僕は活字を読む習慣が無かった。

　教科書に載ってる文章は堅苦しく、つまらない。おまけに読んだ後に、偉そうな先生たちから答えを要求される。ほっておいてくれよと僕はずっと思っていた。本の価値なんて面白いか面白くないか、分かったか分からなかったか、好きか嫌いかだけでいい。そこからズレた問いに対する正解、不正解、減点など糞喰らえだった。

　しかし、二十五歳になった僕は、何故だか急にその本を手に取り、レジに並んだ。本と目が合ったのだ。その本からは不思議な魔力みたいなモノが発せられていたに違いない。この本が今までの自分を打ち壊すことを期待して、財布からお金を店員さんに渡した。いつもの本よりも少し重い。新鮮な気分で家に帰ると真っ先にレジ袋から本を取り出した。

僕はまず、本のページ数を確認した。二百ページ弱。教科書十ページすら読めなかったのに大丈夫かと少しにやけてから読み始めた。

　今日まで漫画、アニメ、映画を観続けてきた。特に近年は洋画を中心に観てきたからなのか、何の希望もないような物語も途中でやめることなく、楽しめるようになっていた。きっと小学生や中学生の自分ではこの本を面白いとは思わないだろうなと感じながらページをめくる。

　気が付くと一時間も活字を追っていた。学生時代の朝十分の読書の時間すらまともに読書できなかった人間が一時間も読書をしている。僕は自分に驚いた。自分が年を取ったからなのか、この本が凄いからなのか、僕にはまだ分からなかった。

　読書ハイな状態になった僕は、夕食を取ることも、風呂に入ることもせず、読書を続けた。本のラストは、世間の価値観とズレた価値観を持つ主人公がそのズレを気にしなくなり、自分の好きなように生きていくことを決めて終わった。悪い終わり方とも取れる内容だったが、僕はいい終り方と捉えた。

　それから僕は小説を読み漁った。芥川賞、直木賞、あとはネットで評価の高い作品を片っ端から購入していった。本屋で歩く範囲が広がった。しかし、疲れを感じたことは無かった。

　家は漫画と小説で本だらけになった。仕事の合間、仕事終わり、休日、ほぼすべての時間を読書にあてた。

　そして、遂に芥川龍之介の本を手に取った。自分を間違いなく小説の世界へと導いた人物。羅生門、鼻。小学生か中学生の時に読んだことはあるが、内容は一つも覚えていない。何とも不思議な縁だ。何故彼の本を習ったはずなのに、自分が小説にはまらなかったのか。今読めば、答えが分かる気がした。

　僕は一日かけて彼の二十一の短編を読んだ。読後感は過去最悪のものだった。きっと本の内容だけではない。これが教科書に載っていることすら気持ち悪くて仕方が無かった。

　分かるわけないだろ。たかが十数年しか生きてない奴らに人間の醜さなんて理解できるはずがない。それに、人間の醜さを自分たちの言葉や態度で示すのではなく、芥川龍之介の文章で暗に示そうとしているのにも腹が立った。

　本当に世界には夢も希望もない時がある。人のあまりの醜さに人間を止めてしまいたくなるほど世界は闇で溢れている。二十五歳の僕は芥川龍之介に殺された。