和歌山県のカバー率が他と比べて著しく低い。全国では68.7%なのに和歌山県だけは16%と群を抜いて低い。だから今回はそれを挽回すべく紀伊半島一周をすることにした。東名夜行バスで大阪に入り、以後南紀を西から東に回り名古屋から帰るという行程にした。青春18切符が利用できるシーズンだったのでそれも大いに使った。しかし途中普通列車の本数が極端に少ないところもあり、一部は特急列車や並行する路線バスにも乗らざるを得なかった。
東名夜行プレミアム・ドリーム
長距離夜行バスというのは以前から結構人気がある。最近ではそこにビジネス・チャンスありと見た旅行社が貸切バス業者などと組み格安料金で参入、中には東京・大阪間3千円台などという、驚くような低料金のものも出てきている。これに対向するためにJRバスもさまざまなバージョンのものを出し、学生などを対象とした格安ものを売り出したりしている。一方アコモデーションのグレードを上げ、料金を割高にしたものも運行している。
今回はそれを試してみたく、プレミアム・ドリーム号に乗車してみた。片道9,310円というのは、通常のものが8,610円であるのに対したいした高さではない。にもかかわらず座席はゆったりしており、特に前後の間隔が広いので足を伸ばすことができる。国際線のビジネスクラスと比較しても遜色なく、結構眠ることもできた。2階席だったが1階には更に高い9910円という席もあり、これは早々と売り切れになっていた。
早朝から行動するには新幹線で来てホテルに泊まるよりははるかに安いし、急行銀河のB寝台でも16,000円かかる。早割やネット割を使えば10%以上安く購入できるから半額くらいで行けることになる。ほとんど満席だったから、東京・大阪間の流動というものは昼夜の別なく巨大なものがあるのだろう。メニューを増やしてもいずれも消化されるようだ。途中の渋滞はなかったのでバスは定刻よりも18分早い6時30分に大阪駅桜橋口に到着した。
ところでこの旅に出る1ヵ月ほど前に格安夜行バスの事故が起きている。モノレールの橋脚にぶつかりガイドが死亡、運転手や乗客多数が重軽傷を負った。長野県の貸切バス会社が運行していたもので、原因は運転手の過重労働による居眠り運転で、規制緩和の結果がこういうことを招いたという報道が多かった。確かに低料金で多くの客を集めようとする旅行社と、高価なバスの稼働率を少しでも上げようとするバス会社、そして所定賃金だけでは生活が苦しく無理してでも時間外労働を厭わない運転手との組み合わせが招いたことかも知れない。
しかし私はその原因が規制緩和にあり、それが一方的に悪いという意見に組みしたくはない。むしろ規制緩和の時代に、安ければ何でも飛びつくという、消費者の行動そのものにもう少し配慮を求めるような論調があっても良いと思う。そもそも東京・大阪間など、どう考えてもそんなに安く運行できるわけがない。誰かが余分なリスクを背負うなど、どこかで無理をしているのに違いない。さらに言えば東京・大阪間の移動を、それほどまで安くしなければならない理由もない。生活に必須のものでもなければ、弱者を救済するものでもないということも世間一般に知ってもらう必要があると思うのである。
コスト構造を調べて、こういう料金ではこういうところにリスクが潜むから、このようなものは購入しない方がいい、というようなことを国民に知らせるのもメディアの役割ではないだろうか。鬼の首をとったように規制緩和を批判するばかりではなく、このようなことを明らかにすることが公共交通の健全な育成になり、ひいては健全な社会の維持になるのである。
規制緩和による新規参入や競争により料金が下がったものは通信費や航空料金など数多くあり、それらは下がったというよりも適正になったのであり、これは規制緩和の成果である。それが変に行き過ぎになりいびつな構造にさせないために必要なのは消費者のしっかりした判断だろう。あまりにも不自然な料金でサービスを提供する者は、消費者の常識的な判断によって淘汰される。こういうチャック機能が働くことが規制緩和を効果のあるものにするのだと思うのである。
2つの庁舎が写った写真
大阪から乗った阪和線直通快速電車は関空行きとの並結のため、和歌山まで行くのは3両しかなく早朝にもかかわらず混んでいた。特に和歌山に近づくにつれ通勤ラッシュ並みになった。和歌山市役所には既に行っているので紀勢本線の各停電車に乗り換え、同じく訪問済みの海南市をパスし、まだ行っていない下津町と有田市で下車した。前者は加茂郷駅、後者は簑島駅だった。有田市は簑島町が周辺の町村と行った昭和の合併時に有田町という名前になり、その後市になった。みかんで有名な有田としたのだろうが、高校野球の名門校の名前の方が印象に残る。その簑島高校は市役所の隣にあったが、野球に限らずスポーツや文化活動で名門のようだ。
そして湯浅に来た。ここには湯浅町と広川町との両役場が直線距離にして600メートルほどの近さにあり広川という小さな川を挟んで市街地が繋がっていた。
まず駅に近い方の湯浅町役場に行く。庁舎は東京オリンピック前後に建てたと思われるかなり古いもので、4階建でさらに消防署の望楼のような4階分くらいの高い塔屋が建っていた。後で知ったのだが、この辺はほぼ100年ごとに繰り返し発生していた南海大地震による津波の被害を受けてきた。最近のものは昭和21年(1946年)であり、次の到来も時間の問題とされている。だからそのような塔屋というか望楼を必要としたようだ。
その役場から熊野古道と表示の出ていた狭い道を歩き、広川の橋を渡ると間もなく広川町役場があった。こちらは平成になってから建てられたと思われる人口規模にそぐわない豪華なものだった。そして庁舎正面から写真を撮ると左奥に湯浅の塔屋だけが写っていた。
役場間の距離のランキングをインターネットで調べることができ、ここは第4位とあった。それによると1位は徳島県海南町と海部町の間で629m、2位が埼玉県蕨市と戸田市で838m、3位が福岡県大野城市と春日市で848m、1位は未訪問で、2位と3位については歩いたことがあるがそれぞれどのくらい時間を要したのか記録をつけていなかった。今回の湯浅町と広川町の間は915mとなっているが、地図上での直線距離は5~600mといったところだ。尤も役場間の距離というのは、役場のどことどことを指すのか、建物の一番近接した部分を指すのか、或いは正面玄関同士を言うのか、はたまた町長室同士を取るか、これらによって順位がどんどん変わって来そうである。いずれにせよ私が実際に歩いた道を市販の地図ソフトで計測してみたら0.9Kmでこの間10分だった。
1枚の写真に一部とは言え2つの庁舎を写すことができたのはこれが初めてだ。ちょうど1年前、長野県飯田市近くの豊丘村の新築移転した前の旧庁舎、と言っても建物はすでになく豊丘村と書かれた門柱だけが残っていたのだが、この門柱の先に直線距離にして2キロくらい先の台地の上に高丘町役場がありそれを写真に撮ったことがある。そのときは正確には両庁舎ではなかったが、今回は初めてそれができたのである。それはともかく、ひとつの駅で降りて2つの役場に行くことができ、得をした気分になった。
湯浅から1駅藤並に戻り、有田川上流の清水、金屋へ行った。藤波・金屋間には2001年まで有田鉄道が走っていたが、今はバス会社となりこの地域を走っている。そのマイクロバスに藤並駅前から乗り1時間10分、有田川中流の清水町に行った。桜がきれいだった。清水から金屋にバスで戻り、そこから藤並までは、途中の吉備(きび)町によりながら歩いた。この3町は2006年1月に合併して有田川町になった。
御坊と紀州鉄道
再び紀勢本線を途中由良町の最寄り紀伊由良、日高町の最寄り紀伊内原で途中下車しながら御坊に着いた。感心なことに紀州鉄道はJRの和歌山方面からのほとんどすべての列車に接続している。そのレールバスに乗車、5分ほど走った2つ目の紀伊御坊駅で下車した。4輪単車に乗るのは多分初の体験だと思うが、貨車のようにごつごつした乗り心地を想像していたのに、どういう構造になっているのか、物凄くスプリングが良く、客が乗降する時は扉付近が沈む感じで手漕ぎの渡し舟に乗る時のようだった。線路状態は素人目にも良いとは言えず、それなのにこのスプリングのお陰かそれを感じさせない。それでもレールのジョイント音は単車だけに珍しかった。
紀伊御坊駅は1本の線路の両側にホームがあり、もちろん使用しているのは片方だけだったが駅舎もあり駅員もいた。しかし料金は下車時に車内の料金箱に入れたし、全線単線で信号などないのだから、この駅員の仕事は何なのだろうか。予約していた「あやめ旅館」は駅の目の前、玄関同士が接吻しそうな近さだった。
まだ薄明るかったので、旅館にリュックを置き明朝予定の御坊市役所と美浜町役場へ歩いて行った。御坊の方は旅館から5分もかからない至近距離にあったが、美浜の方はさらにそこから2キロほど先で、20分要した。しかし着いた時は18時40分、彼岸がすぎたばかりのこの時期だったがかなり暗くなっていた。明日出直そうかと思ったが、それだと7時に旅館を出るまでに朝食が用意出せないと言われたので、フラッシュを使って庁舎と看板の写真を撮り公式訪問とした。再び市内に戻り、普通の食堂と言った感じの店で食事をしてから鉄道の終点西御坊駅まで歩いた。
暗い街中で、私の子供の頃の記憶にあるような古い木造の駅には蛍光灯が灯り、そこにさっき乗ったレールバスがエンジン音を立て止まっていた。事務所のような小屋から、これも先ほどの高齢の運転手が出てきて私だけを乗せて発車、路地裏のようなところを500メートルくらい走って市役所前、更に同じくらい走り紀伊御坊に停った。
この鉄道、かつては御坊臨港鉄道と称していたが1972年東京の不動産会社によって買収され紀州鉄道となったものだ。会社自体は不動産業やホテルなどの観光業がメインだが鉄道会社というと企業のプケステージが上がる効果を狙ったとして当時話題になったことを覚えている。買収後1989年には末端区間である西御坊駅・日高川駅間0.7キロを廃止し、現在は全線2.7キロ、三セクの芝山鉄道を除くと日本一短距離の鉄道だ。稼動中の車両は前述のレールバス1両のみ、これが1日中休むことなく、フェリーのように30往復しているのである。
後で調べてわかったのだが、レールバスは兵庫県の北条鉄道から中古で購入したものだった。他にも大分交通耶馬渓線から流れて来たキハ604というモスグリーンと上部がうす黄色のツートンカラー全面2面窓という古色蒼然たる車両が紀伊御坊駅の側線に置いてあった。しかしこれは稼動している様子はなく部品確保用だろうか。このほかに同系列のキハ603というのが現役で走っているということがインターネット上の複数のサイトに載っていたが目にすることはなかった。今考えると紀伊御坊駅にもう1つ側線があり車庫のような建物があったのでその中に置いてあったのかも知れない。
いずれにせよこの鉄道、この規模で乗客も少ないから赤字には違いない。しかし前述のように不動産会社の広告塔としての役割が大きく、関西だとお里が知れているのかも知れないが、関東で紀州鉄道というと徳川御三家とまでは行かずとも、何か大きな鉄道会社だと勘違いされるのかも知れない、その名前を冠したホテルがチェーンとして成功していると聞く。この会社から見れば、鉄道部門が例え赤字だったとしても広告宣伝費として、また暖簾代として、少なくともプロ球団を持つよりはずっと安くて済むのだろう。旅館のおばさんに、この鉄道が廃止になると言う話はないのかと聞くと、シンボルだからそれはないとキッパリ言われた。何のシンボルかは聞き漏らしたが。
南紀の山奥へ
2日目は紀伊山地の山奥へ行くことをメインとし、JRには多くは乗らないのでこの日青春18切符は使わなかった。まずは御坊で太平洋に注ぐ日高川の上流へ。御坊南海バスから事前にFAXで送ってもらった時刻表をもとに中津村、美山村と上流に向かった。東京から高知や徳島への飛行機に乗って紀伊半島南部の山岳地帯の飛ぶと、いくつもの谷が複雑な曲線を描き絡み合っているように見える。その中でも特に日高川は随所で急峻な山にぶつかり複雑な蛇行を繰り返している。バスは川に沿った道を走るのだが、一部では大きく迂回する川をトンネルでショートカットする。途中満開の桜の群を何度か見るにつけ、日本にはこんなに桜が多かったのかという思いを新たにした。
帰りはJR道成寺駅手前で下車、旧川辺町の役場に行く。日高川流域のこの川辺町、中津村、美山村が2005年5月に合併して日高川町になった。昨日の有田川町と同じ、流域仲間ということで町名も自然だし旧川辺町役場が新町役場になったのも旧自治体の規模や位置からみても妥当なところだろう。御坊市を含む合併も検討されたと思うが、御坊に飲み込まれることを嫌ったのだろうか。なおこの旧美山村の更に上流には龍神村があるが、ここは田辺市と合併した。同じ日高川町の流域であり、バスも乗り継いで行けないこともないが、峠を越えてでも御坊よりは田辺の方が近いようだ。
道成寺駅で電車を待つ間、駅の案内図に道成寺という寺が徒歩数分のところにあると出ていたので行ってみた。駅前の寂しい道を電車と並行に御坊方面に辿り、100メートルくらい先の角を右に直角に曲がると、その先は回り舞台で次幕のセットが現れたように、突然門前町が開け大勢の参拝客がいた。広い駐車場には大型の観光バスも何台か停っていた。事前知識が全くなかったが紀州観光の定番コースでもあるらしい。みやげ物屋の前を通り、60段くらいの石段を登ると朱塗りの仁王門があり、その先正面に本堂があり、右手に三重塔があった。満開の桜に囲まれた塔はなかなか良い絵になる。歌舞伎や浄瑠璃では定番らしい「安珍・清姫伝説」の舞台となった寺だそうだが、「安寿と厨子王」と混同するほどに知識のない私にとってはこの寺のありがたさとか感激というようなものは湧いてこなかった。
道成寺駅に戻り、印南で途中下車し紀伊田辺に、ここから龍神バスで日高川最上流の龍神村に向かった。田辺で海に注ぐ会津川を遡り、南部で注ぐ南部川の流域に入り、最後に日高川の谷に降りるのだが、途中の南部川の流域では分水嶺となっている尾根のようなところは、左手はるか下に深い谷を見下ろすなかなか雄大な景色だった。龍神村は「伝説の桃源郷」という言葉がふさわしい景勝地であると旧村のHPに書かれていたが、確かに随分山奥に来たという感じがした。
旧村役場は田辺市龍神行政局という看板だったが、1993年竣工の豪華なもので、吹抜けのホールに会議室ばかりの2階や使われないままの議会堂のある3階建、必要な場所以外は消灯していて全体が薄暗い感じの、今やどこにでも見る支所となった庁舎だった。しかし建物の外観は他と異なり、「龍」というイメージを出そうとしたのか、形状や彩色が日本離れした、どちらかというと中華風と言えようか、門のところを横浜中華街の朝陽門のようなものにでもすれば似合ったのではないかと思った。
なお観光地として名が知られている龍神温泉は役場からさらに上流に十数キロ、バスで20分ほどのところだ。「難陀龍王」という仏教の神様のお告げで弘法大師が開いたことから龍神温泉と呼ばれるようになったと伝えられているそうで、紀州徳川家の代々の殿様が入浴に来たという。和歌山からこんな山奥まで、籠に乗る殿様は良いとしてもお供衆には難儀なことだと思う。夏季は高野山から龍神温泉までバスがあり1時間半くらいで来ることができるそうだ。
温泉までは行かず、別の峠を越え南部川に沿って下るバスで2004年10月に合併し「みなべ町」となった旧南部川村役場、さらに歩いて旧南部町役場に行った。みなべ町の町役場は本庁とか支所という分け方ではなく、前者が第二、後者が第一庁舎という看板が掲げられていた。 南部駅から電車で紀伊田辺に戻りビジネスホテルに泊まった。田辺市は2005年6月に上述の龍神村のほか中辺路町、大塔村、本宮町を含めた合併で県全体の約22%を占める県内1位の、太平洋岸から奈良県と接するまでの広い面積の市になった。世界遺産に認定された熊野古道など近年ブームの観光地を一手に引き受けているようだ。私も近い内に学生時代の友人仲間と古道歩きをする予定で中辺路町や大塔村はそのときまでとっておくことにした。
南紀の海岸線に沿って
紀伊田辺6時25分発の電車で周参見へ向かった。白浜と日置川へは古道歩きのときに白浜温泉に泊まれば良いと思って残しておくことにした。田辺のコンビニで買ったサンドイッチを一部が駅施設となっている周参見町民コミュニティプラザの座り心地の良い椅子で食べた。その後の電車で串本へ、田辺以東新宮までは各駅停車は2両のロングシートの電車が3~4時間に1本と極端に少なくなる。だがどの電車も青春18切符利用者らしい乗客で賑わっていた。
串本は本州最南端の町という意識で駅に降り立ったせいか陽光の強さを感じたが、八丈島とほぼ同緯度だということなのでそれも頷ける。駅前に帆船の銅像があり、これは1791年に来航したアメリカ商船レイディワシントン号90トンのもの。当時の国禁を破って水や薪を調達したという。アメリカ側にはこれが日米間の初の接触であるとして公文書にも残っているそうだ。ペリー来航の62年前のことだ。また明治23年(1890年)オスマントルコ海軍の遭難とその救助に当たった地元の人々の話も良く知られている。今月号のナショナルジオグラフィツク誌を読んでいたら、沈没した木造軍艦エルトゥール号を5年後に引き揚げるためにトルコと米国の調査団が来日し2週間にわたって潜水等調査をしたということが書いてあった。
潮岬まで行くバスに乗れば本州最南端の地を踏むことができるのだが、先日大間に行った時も最北の地までは行っていないのでそこまでは拘らないことにした。なお串本町のHPによれば、本州の東西南北端の市町の首長による「本州四端サミット」というのがあり、連携して観光振興を始めとする様々な事業を展開しているそうだ。青森県大間町、岩手県宮古市、山口県下関市がメンバーとのこと、未訪問は遺骸は下関だけになった。
串本から新宮までは熊野バスが1時間毎に走っており、次の電車は3時間後だったので東隣の古座町までバスを利用した。古座は2005年4月に合併し串本町の一部になり、旧串本町のそれよりも新しく大きく見えた旧町役場は串本町古座第二庁舎となっていた。案内図を見ると議会場があったので、町長のいる本庁は串本だが、町議会は古座にあるという珍しい例のようだ。
そして古座川を遡ること2キロ先にあるどことも合併せずに残っている古座川町の役場へ行った。町営のふるさとバスというのが古座駅との間に4往復走っていたが、時間が合わず往復とも歩いた
その後は電車で太地へ、町役場のある市街地は駅から離れた小さな岬にあり町営の循環バスもあったが歩いてトンネルをくぐって行った。日本における捕鯨発祥の地だそうで町内にはくじらの博物館もある。紀伊勝浦までもまたバスを利用、さらに新宮までは時間の関係で特急「くろしお」に1区間だけ乗車した。18切符のルールにより特急券だけでなく乗車券も合わせて買った。
紀州の三重県へ
15年前の1992年11月に奈良県の十津川村から新宮に出て、熊野灘沿いの市町村を回ったことがある。この先は、そのときに残したところをカバーしようと新宮に着くとすぐに発車する亀山行きのキハに乗った。ここからはJR東海となる。新宮駅を発車してすぐの長い熊野川鉄橋を渡ると三重県に入る。県が変わっても、尾鷲までが紀伊国であり、江戸時代は紀伊徳川家が支配していた。そのためもあり、この先も駅名に紀伊長島など「紀伊」のつくものがある。
新宮から15分ほどの阿田和で下車し、紀州鉱山のあった内陸の町旧紀和町まで40分ほどバスに乗った。2005年11月に熊野市と合併しているが、ここはもう三重交通のエリアだった。長いトンネルで峠を越えた先の、熊野川支流の北山川流域に出ると熊野市役所紀和庁舎と書かれた小さな旧役場があり、近くに熊野市紀和鉱山資料館があった。閉館時間になっていたので中には入れなかったが、屋外展示として ケーブル搬器やトローリー電気機関車が置いてあった。
紀州鉱山という長大なトロッコ路線をもっていた鉱山がここにあったそうで、産銅量では国内屈指で歴史は古く、天平17年(745年)に建立された奈良の大仏にも使われ、表面の金箔も近くの川の砂金を使ったという説があるそうだ。その後も盛衰を繰り返しながら石原産業の経営する鉱山として昭和53年(1978年)まで採掘を続けたそうである。これも全く事前知識もなく、すべて家に戻ってからHPなどで調べたことである。
帰路は熊野市駅前までバスに乗り、ビジネスホテルに泊まった。
和歌山県飛び地の北山村
翌朝は和歌山県の飛び地、北山村に行った。三重県の熊野市から三重交通のバスが3往復、北山村営のものが2往復あるが、時間の都合で前者を利用した。しかしこのバスは正確には北山村に行くというよりも北山川対岸の熊野市育生地区に行くもので、途中北山村内を走るが村役場のある大沼地区には行かない。だから対岸の大沼口というところで降りて橋を渡る。バス停から役場までは700メートルほどあり、帰りのバスが来るまでの16分間に往復しなければならなかったので半ば走るようにした。
この村は北山川の右岸にあり、川を挟んで対岸が三重県、一方の境は奈良県で和歌山県の他自治体とは接していない、まさに飛び地である。私の地元川崎市には飛び地があるが、県のレベルで1村全体が飛び地になっているのは他にはない。村役場のHPによると、この村の97%が山林で、昔から良質の杉に恵まれ林業で栄え、伐採された木材は筏によって木材集積地の新宮まで運ばれていた。当時は人口の大半を筏師が占め、彼らは新宮の木材業者との結びつきが強く、江戸時代には和歌山藩新宮領に属していたこともあり、明治4年廃藩置県で新宮が和歌山県に編入されると村民の要望によりこの村もそうなったとのことだ。しかし戦後になると北山川にもダムが建設され筏流しができなくなるなど生活環境が大きく変わった。今では「観光筏下り」を復活させ、観光立村として生きて行こうとしているほか、古来よりここでしか栽培されていなかった柑橘類の「じゃばら」を村の特産物として売り出している。ここ数年来花粉症に効果があるということから人気が高まり、今では村の基幹産業となっているそうだ。
人口は570人、北山川が作る斜面に沿って走る国道169号線沿いのわずかな平坦地に小規模な集落が点在するだけだ。その中で中心になるのが大沼地区で、ここに役場のほか郵便局や農協、さらには商店や旅館などがあり、小学校と中学校もある。北山小学校のHPによれば、2006年度の児童数は27人で内10人が6年生だった。30年以上前に村内に3つあった小学校が統合されたが1950年には263人の児童がいたそうだ。
この北山村の土を踏んでいたのはバス停との往復16分間中約半分の8分くらい、それも走っていただけだった。しかし熊野市駅前からここまで途中のバスの車窓はなかなか変化に富み楽しかった。北山川の流域に出るには急峻な山を越えなければならず、小型バスがやっと1台だけ通れるだけの羊腸の小径という言葉がぴったりの道が続いた。途中に長さ1.6キロの新大峪トンネルがあり、ここだけは1983年の開通というだけあって2車線の立派なものだったがそれを越えるとまた狭い道、そこをくねくねと北山川の谷に向かって降りて行った。滅多にすれ違う車はなかったが、この道は普通のドライバーにとってはかなり難儀しそうである。特に高齢になってからの運転はかなりむずかしいのではないだろうか。そのためか、往きは終始私1人だけだったが熊野市に向かう帰りのバスは高齢者が大部分だったが10人くらいの乗客があった。
トンネルを越えた先にある熊野市神上地区は那智黒石の産地だそうだが、3千本あるという桜が正に満開で、山を下りながらの光景はピンク色の雲で覆われたと言っても過言ではなかった。特に廃校となった中学校の校庭に爛漫と咲き乱れる様は、木造校舎とよく調和し、わが世の春を謳歌していた。さらに北山川に出るとそこには七色ダムがあった。上流にある池原ダム湖との間で揚水発電を行っており、35万キロワットの出力だという。天端(てんば)というダム堤体の一番上部が車がやっと1台通れる狭い道路になっており、バスもそこを渡り和歌山県側北山村に入るのだが、この部分も国道169号の一部という。ダムの天端が道路になっているのはよくあることだが国道というのは珍しいそうだ。ふと全国ダム天端渡りに挑戦している人も居るのではないかなどと思った。この天端からも満開の桜が良く見えた。バスはその後北山村内を走り、途中から再び橋を渡り熊野市側に戻り、前述の大沼口に着いた。車窓から見る北山川の渓谷は雄大で、全く飽きることのない熊野市からの1時間だった。
今回も事前の調査不足で、せっかくこのような珍しい村に来るのならばせめて一泊するなど工夫が必要だったと思っている。役場でもらったパンフレットによると、観光筏まで送迎してくれるバスがあり、更に瀞八丁のジェット船に乗り継ぎ新宮までバスで行くこともできたようである。はなから観光のことなど考えていなかったがなかなか来ることのできない所だ、途中の雄大な渓谷美と満開の桜を見ながら、毎度のことではあるが私の市町村役場めぐりももう少し余裕をもったものにしなければいけないと思ったのである。
ローカル列車を乗り継いで神奈川県へ
ローカル列車は相変わらず青春18切符利用者と思われる観光客で混んでいた。JR東海の気動車は車両は旧式だが、エンジンは英国カミンズ社の新式のものに換えているのでスピードもあり快適だ。特に熊野市・尾鷲間は紀勢本線が最後に開通した区間で、それも比較的最近1969年のことなので、途中の駅部分を除いては直線ロングレールのトンネルばかりでそこをかなりのスピードで走る。だからのんびりとしたローカル列車の旅という風情でもない。
紀伊長島で16分間という停車をし、荷坂峠越えの後紀伊柏木で下車、15年前に行きそこなっていた紀勢町へ行った。今は両隣のいずれも前回訪問済みの大内山村と大宮町と合併し大紀町となっている。次ぎの列車も3時間後でそれを待っていると今日中に新幹線にでも乗らない限り家に帰れない。しかしここには三重交通の南紀特急バスというのが1時間に1本程度走っており、それで津まで乗った。途中から伊勢自動車道に入り、1時間3分で津駅前に着いた。
ここからは快速「みえ」で名古屋に出て、東海道在来線の電車を乗り継いで川崎まで、これでなんとか今日中に帰ることができた。但し「みえ」は津から四日市手前の川原田まではJRではなく伊勢鉄道の線路を走るのでこの間のみ490円を別に支払った。いずれも乗り継ぎ時間が短く夕食の時間は取れそうにないので、電車の中で食べようと津駅前のコンビニでおにぎりを買っておいた。しかし快速「みえ」も、名古屋からの東海道線快速も混雑で席につけず、浜松、静岡、熱海で乗り継いだ電車はいずれもロングシート車両だった。せめて隣の席に客がいない時に食べようと思っていたが、なかなかそのような状態にはならず、結局口にできたのは22時過ぎ、熱海で東京行きに乗り換えてからだった。
それにしても青春18切符利用客がいるからということもあるのか列車はいずれも混んでいる。特に静岡県内の東海道線は夜遅くになっても客が減らない。どの駅でも降車客と同じくらいの乗車客がありいつまで経ってもすいてこない。やはり工場などが多く、いろいろな変則勤務があるからなのだろうか、工員風の外国人も見かけた。静岡・熱海間などは3両編成でずっと通勤電車並、丹那トンネル内でもかなりの立ち客があった。青春18切符の利用客はともかく、これでは普段の一般利用客が気の毒である。
今年の3月のダイヤ改正で、東海道本線の静岡県内はロングシート車に置き換えるとともに編成縮小があった。一方運転本数は多少増え、より都会型の鉄道になったということだが、シーズンによって、あるいは時間帯によってこのような輸送のアンバランスが生じてしまうようだ。尤もJR東海から見ればこれは極めて合理的な施策だったのだろう。乗客の大半は数駅の間しか乗らず、他社との競争がなく、長距離を乗りたい客は新幹線に誘導するので企業戦略としては実に当を得ていると言わざるを得ないのかも知れない。
とは言え鉄道というのは、例え短時間であっても本来着席利用をするべきものだと思う。確かに我々大都会に住む者にとっては物心ついた時から電車は混むもの、座れればラッキーという感覚に慣らされてもいたが、その方がおかしいのであって、ヨーロッパの都市交通ではこんなことは滅多にない。地方都市を中心に都会型のダイヤに移行することは歓迎だが、車両まで都会型を真似することはない。名鉄や近鉄との競争がある名古屋周辺や、高速バスや自家用車に客が取られそうな飯田線や身延線などにはクロスシートの快適な車両を投入している。JR東海は新幹線のお陰で業績も良いのだから、競争がなくとも静岡地区にも量的に質的にも高いサービスを提供し、鉄道サービスとはこういうものだという心意気を示してほしいものだ。
熱海で乗り換えた東京行きは15両という長編成となり、これはこれでまた資源の無駄遣いという感じもしたが、津で買ったおにぎりをやっと口にすることができた。それにしてもどこに行っても青春18切符の利用者は多かった。旅行の潜在的需要は大きなものがあり、低料金の輸送サービスが提供されればそれが顕在化する。JR各社にとってみればたいした収入ではないかもしれないが、各地のホテルや飲食業、観光施設にとっては大きなビジネス・チャンスであるし地方経済活性化という面では効果が見え易いものである。だから青春18切符のような企画は今後も続けるべきだと思う。
しかしそのような企画によって、普段の利用者が不便を被るようになってはいけないし、せっかく旅に出たものの、やはりどこに行っても鉄道は混んでいるからやはり車にしようと旅行者が思うようにさせてもいけない。そのようなプログラムを実施する以上、増発や増結をするなど、JR単独で行うことが費用面でむずかしければ地元が何らかの負担をするなどして国内旅行を活性化させる必要がある、そんなことを考えさせる今回の旅行だった。