現役時代の2000年前後、毎週のように札幌へ出張していたことがあり、週末をはさんだ時などに北海道内の市町村を回ったことがある。だから北海道全212市町村(平成の合併前)のうち、それ以前の旅行も含めて131市町村にすでに行っており、ここ数年は他の地域を優先していた。引退後かつての仕事仲間と久しぶり札幌で会うことになり、この前後に道東の役場めぐりをした。ANAのマイレージ無料航空券を使い、JR北海道に7日間乗り放題という「北海道フリーパス」を買った。気候も良く、観光客で混むには早い時期だったのでどこも混雑しておらず、快適な旅をすることができた。
市町村役所・役場めぐりの原点 中標津町
まだ利用したことのない中標津空港から北海道入りをした。中標津町こそが、わが市町村役所・役場めぐりの記念すべき第1号役場であり、20年ぶりにそこを訪ねてみたいと思ったこともあった。
羽田からの中標津便は1日に1本しかなく、羽田発は11時台なので市町村めぐりには珍しく家をゆっくり出た。279人乗のボーイング767-300は8割くらいの客だったが半数以上はツアー観光客だった。羽田を離陸後仙台市、宮古市の上空を飛んだ後大きく東に曲がり太平洋上に出た。その後再び機首を北に向けるとやがて襟裳岬の東方に至り、海岸線を左に見ながら白糠付近で陸上となり、左遠くに雌雄の阿寒岳や阿寒湖を見て、間もなく屈斜路湖、摩周湖を間近に見ると中標津空港の真上に来た。さらに東に飛び根室海峡に近づくとUターンし着陸した。このときにわずかであるが国後島の山並を目にすることができた。全空路とも快晴で、久しぶりに地上の光景を楽しみながらの飛行だった。
ツアー客の出迎えなどでごった返していた小さなターミナル前から根室行きの路線バスに乗り、最初の訪問地別海町に向かった。空港を出ると3キロほどで中標津町の役場横を通り、町の中心部を抜け別海町に向かった。
最初に来た1986年の6月21日のことを述べる。日付入りの庁舎の写真を持っているだけで、その他の記録類は何も残っていない。ちょうど高田屋嘉兵衛の生涯を書いた司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」を読み終わった頃のことだ。江戸時代後期、幕府より蝦夷地での交易を許可された嘉兵衛は、択捉島までの航路を開き、この頃来航したロシア船に捕えられカムチャッカまで連行されたが、当時の日本とロシアとの懸案解決には大きな役割を果たした。私はこの小説に感動し、しばしば出てくる国後とか択捉には行けなくとも、その近くに行ってみたいと思ったのである。ソ連もゴルバチョフの時代で日ソの友好ムードもあり、ひょっとして北方領土も近いうちに戻って来るのではという期待を持てた時期でもあっ た。
このときは札幌出張後に休暇を取り、夜行列車で釧路に出て、当時はまだあった標津線でここまで来た。そして標津町の海岸から国後島を見ようとしたが曇っていて見えず、さらに根室からノサップ岬まで行き、双眼鏡越しに歯舞群島の貝殻島や水晶島を見た。どのようにこの間を移動したかはあまり覚えていないが、日本の果てにきたのだから役場の写真でも撮っておこうと思って残していたのが今持っている写真である。
もちろん当時は全国の役場めぐりをしようなどという気はなく、そんなことが出来るとも思っていなかったが、何か珍しい、変わった土地に来たときは役場も撮っておこうという程度だったのである。数年後本格的に全国の役所・役場めぐりをしようと決心したときに、最初の1枚がこの中標津町だったので、ここを正式に第1号としたのである。
そして今回、標津線の中標津駅のあったところがバス・ターミナルになっており、別海からの帰りのバスを降りてから1キロほど離れた役場に行ってみた。大きな公園に隣接し林の中にある庁舎の姿は20年前と全く変わっていない。写真を見比べてみても寸分も違わない。ただしそこまで行く途中に渡った標津川に架かる橋の竣工が1995年と書いてあったので、私はその時は古い橋を渡っていたのだろう。
牛乳日本一の別海町
前後するがその前に行った別海町は牛乳生産量が日本一の町である。このことは事前に知っていたのだが、そんなにたくさんの牛乳を、どこにどうやって運ぶのかが知りたかった。バス・ターミナルとなっている洒落な建物の中に商工会の事務所がありそこで尋ねると、詳しいことは近くの牛乳工場に行けばわかるので連れて行ってあげると言われ、女子職員の運転する軽自動車に乗せられた。5分ほどのところに「株式会社べつかい乳業興社」の工場があり、商工会から連絡が行っており代表取締役の佐藤専務が応対してくれた。次のバスの時間もあり30分くらいしかなかったが、工場内部を見学しながら多くのことを教えてもらえた。
この町の牛乳生産量は年間44万トン、ほぼ東京都民の年間消費量に相当するそうだ。またこの町は人口17千人に対し牛が12万頭いるという。町の面積1320平方キロメートルは平成の合併後の全国市町村では第9位だが、うち約90パーセントの1188平方キロメートルが牧草地だ。だから東京都全体の面積2187平方キロメートルの約半分の広さの土地に飼われている12万頭の牛から、12百万人の都民は100人で1頭の牛から牛乳をもらっている勘定になる。
牛1頭からは1日に約30リットルの牛乳が得られるが、そのために牛は100~150リットルの水を飲むという。出された牛乳を飲んでみると味が良く、コクのある感じのするものだったが、ここの牛は摩周湖の伏流水を飲んでおりそれが牛乳の味に影響しているそうだ。広大な町中には汲み上げた伏流水のパイプラインが張り巡らせてあるという。
牛乳工場もこのべつかい乳業興社の他明治、森永、雪印といった大手もある。この会社の資本金は1億円で60%は町が、残り40%は地元の5農協が出資しており、2006年度の売上は4.35億円、65%は北海道根室管内、残りは道内や本州向けで、特に有名デパートや大手スーパーで扱っているそうだ。また「トレーサビリティシステム」をここでは牛乳に対して行っており、牛乳パックにつけられたパッケージ番号と賞味期限をこの会社のHPに入力すると、どこの牧場でどのように製造されたかがわかるそうだ。今度どこかで売っているのを見つけたら試してみたいと思う。
私の興味のあったのは搬送だったが、各工場によっていろいろあり、釧路までの100キロをトラックで運びコンテナ列車に乗せると東京まで32時間、また那珂湊までフェリーだと36時間、さらに千歳までトラックで運び貨物専用機で運ぶものもあるという。当社がデパートなどのイベントに出品するときは中標津空港からの航空便を使うこともあるという。いずれにしても消費に遠いということが最大の課題のようだ。この地は霧が多く、日照時間が短いので普通の農作物は全く向かず、広大な土地は牧畜にしか向かないらしい。かつては広い牧草地に放たれていた牛も今では牛舎でまとめて飼われ、牧草地から刈り取った牧草を餌として与えられている。この方が与える量をキチンと管理でき、また搾乳の生産性も高いようで、今はこの方式の牧場が全国でも大半らしい。
この町の牧場数は約800、昭和30年から世銀の融資によるパイロットファーム方式での入植がはじまったが失敗に終わり、その後国が土地、建物、牛までを準備し1件1億円で希望者に売り渡し経営させるという方式で進めたところこれが成功し現在に続いているという。牧畜家にとって牛乳は日銭の入るビジネスなので真面目にやっていれば失敗はないそうで、皆かなり返済が進んでおり現在この町の牧畜家の平均借金残高は35百万円だそうだ。町民の大半が牧畜家かと思ったら、町の生産額の30%は尾岱沼などの根室海峡沿岸部での漁業によるものだそうだ。 短い時間に多くのことを教えてもらえた。この工場は職業訓練も兼ねて牛乳だけでなくチーズやバター、アイスクリームなどの乳製品も製造している。おみやげにもらったアイスクリームも旨かった。一介の旅行者に対して、丁寧に説明をされた佐藤氏、またそこへ案内をしてくれた商工会の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。東京の出発時間が遅かったこともあり、今日一日の役場訪問件数はわずか1件だったが、それ以上に得ることの多かった一日だった。
知床半島の陰と陽
中標津のバス・ターミナルに戻り羅臼へのバスを待つ間に前述の通り町役場に行ってきた。羅臼行きのバスは釧路から来る長距離を走るもので、全区間では3時間50分、4740円もするが、トイレつきの豪華バスだった。中標津では釧路からと羅臼からのバスが同時にやってきて、それぞれの運転手がここで入れ替わり、釧路からの運転手は釧路に戻り、羅臼からの運転手は羅臼に戻る。たまたまこの時間帯だけのようだが、面白い運用だ。鉄道が走っていたころは、羅臼に行くには標津線の根室標津からバスに乗ればよかったのだが、今最も近い鉄道駅は釧網本線の標茶駅で、ここから根室標津までは鉄道を代替するようなバスが走っているので、これらを乗り継げば良いのだろうが、それよりは直通バスの方がずっと早そうだ。
乗客は数名の高校生を含む10人ほどだったが、根室標津駅跡を過ぎると下車する一方で、まだ羅臼までは30キロくらい手前の薫別(くんべつ)というところからは乗客は私1人だけになってしまった。夕闇迫る海岸沿いの良く整備された道をひたすらバスは走り続け、すっかり暗くなり静まりかえった羅臼の町に着いた。ビジネスホテルと称していたが、風呂もトイレも共用の、工事関係者のためのような旅館に泊まった。
羅臼に来るに当たっては、私は国後島を見ることにこだわっていた。来る途中のバスからは、標津町の中心街付近で薄ぼんやりと山影が見えたがその後は暗くなったこともあり全く見えなかった。翌朝港に行っても天気は晴れているものの島影は全く見えない。宿の人に聞くと、天気が良くてもガスのかかることが多く、滅多に見ることはできないとのことだった。
ここからはバスで知床峠を越えウトロに行く予定にしていたのだが、バスが運行されるのは2日後の6月15日からということをここで知った。峠越えができないとなると、ウトロまではバス乗継で標茶まで戻らなければならずあまりにも大回りなので、ここは思い切ってタクシーに乗ることにした。厳密に言うと、これも私の決めた役場めぐりのルール違反となるが、2日後のそのバスに乗ったという前提でその後の工程を組めば良いという、自分勝手な解釈をした。バスならば1300円くらいのところをタクシーでは9千円弱となったが、思いがけずラッキーに遭遇し、十分もとが取れたと思った。
ウトロまでは約30キロ、標高738メートルの知床峠を越えて行くのだが上るに連れ海上雲の上に国後の山並が見えてきた。タクシーを何度か止めてもらい写真を撮ったが、こういうことは路線バスではできない。また羅臼岳が間近に見える絶好の撮影ポイントでも何度か止めてもらった。斜面は白樺林が続くがまっすぐには伸びておらず曲がりくねった木ばかりで、これは強風のためとのこと。山頂から吹き下ろす風のことをこの地方では「出し風(だしかぜ)」と呼んでいるそうで、それは筆舌しがたいほどの激しいものらしい。
峠を越えると白樺の林はまっすぐに伸びたものばかりとなり、こちら側は強風はないようだ。オホーツク海を見下ろし、やがてウトロの市街地が見えて来る。こちらは大きなホテルが林立している。ウトロには8年ほど前の冬、流氷ツアーという東京から2泊3日のパックツアーに家族と来て泊ったことがある。この時は確か複数の旅行者が同じようなツアーを同時に行っていたので20台くらいの観光バスが雪道を連ねるように走り、大きなホテルではバイキングに客が列をなすような凄まじい思いをした印象が残っている。このときは流氷の迫力だけでなく知床自然センターでのネイチャーウオッチングなどで大いに感激したものだった。その後知床半島が世界遺産にもなり、このブームは続いているようで、ウトロの町内に入ると観光船へ客を呼び込む店が連なっていたりして、なかなか活気に満ちていた。大きなリュツクを背負った外国人も多く、久々に活気があった。
知床半島は北海道の東部から北東の方向に伸びた半島で、地図で見るイメージでは羅臼側が南面で陽が良く当たり、ウトロの方が北面で影になる、すなわち前者が山陽、後者が山陰と思ってしまうのだが、活況さという面では全く逆のようだ。観光客の数やホテルの収容数などは圧倒的にウトロの方が多い。交通の便では中標津空港からの羅臼と女満別空港からのウトロとで距離もほぼ互角だが、ここでも便数に大きな差がある。結局は冬に流氷を見ることのできるウトロの方が通年営業できるということでホテルが多数進出したのかも知れない。
羅臼に来れば国後島の全貌が見渡せ、これは大きな観光資源だと思うのだが、残念ながら海峡の霧がそれをなかなか見せてくれない。前述の山からの強風も観光客を呼ぶのには障害だろう。峠を越えてウトロの町並みを見たとたんに厳しい自然環境から解放されたような安堵感を覚える気分になるのはこの経路で行ってみて初めて解るものだ。地図でのイメージとの違いを認識させられるところはほかにもいくつかあったが、私にとって知床も正にそのようなところだった。
釧網本線のDMV
ウトロから斜里までのバスはオホーツク海岸に沿って走り、やがて独立峰斜里岳の雄姿が近くに見える頃になると周囲は一面ビート、ジャガイモ、玉葱の畑になった。所々直線状に並ぶ防風林を作っている赤松は、長野県から移植したものだとバスの運転手から教わった。知床斜里から網走、更にかつての湧網線に沿う市町村には既に行っているので、ここからは「北海道フリーパス」を使って網走乗り継ぎで女満別から北見方面に行く。
知床斜里から乗った釧網線の途中駅、浜小清水駅ではDMVの試験運行をしていた。DMV(Dual Mode Vehicle)とは、簡単に言えば鉄道用の車輪を持ったバス車両のことで、超閑散路線の将来を見据えた交通手段として、JR北海道が推進しているものである。試験運行とは浜小清水駅から次駅藻琴までは線路上を走り、そこで並行する国道に出て戻って来るというもので所要約1時間、団体臨時列車という扱いで事前申し込みしで乗車できる。そこまでは知っていたが、私の旅行日程とは合わず、浜小清水あたりに留置されていれば写真だけでも写せるかなと思っていたのである。
しかし本日は偉い人が来るので臨時運転するということを知った。知床斜里から乗ったキハ1両だけのワンマンカーにはもう一人運転手が添乗していて、その人がそれを運転しに行くところだと言う。一般の人は乗れないが、この列車が浜小清水に着く30分後に発車するそうなので迷わず浜小清水で途中下車した。
駅裏手にDMVが停まっていた。食堂や売店などのある道の駅を兼ねた大きな建物のごく一部が列車を待つための数人分の椅子だけがある駅舎機能を担っていたが、その建物内の食堂で大急ぎでカレーライスを食べDMVの傍に行った。そこから150メートルほど網走寄りにモードチェンジ部分があり、ここからレールが始まり、本線へのポイントに続いている。そこには小さな小屋があり、中のデスク上には信号関係の操作卓らしきものやPCが置かれており、2名の信号要員が待機していた。
発車時間になっても「偉い人達」は現れず、定刻になると先ほどのJR北海道の運転手が交代乗務員席に座り、網走バスの運転手がハンドルを握り走行開始、入口の踏切の遮断機のようなバーの手前で一旦停車、バーが上がるとモードチェンジ部分に進入した。ここで運転手が交代し、運転席の機器を入念に指差確認したあとモード変換が始まった。と言っても鉄輪が出て前輪タイヤが浮くだけの簡単なもので10秒程度で終わった。面倒なのはここから先で、前述の信号要員による信号操作や転轍機を倒してポイント切換えなどで10分近く要し、やっと本線上に出て走り去って行った。
車輪を切換えるというハードウエア上の操作は見ていて簡単だったが、信号操作が随分面倒なようだった。それはそうだろう、もともと列車を閉塞区間に入れるかどうかを厳格に管理するのが自動化かどうかは別にして信号の基本概念だったのに、いきなりどこからか線路上に変な車が現れるのだから、現行の信号システムへの割り込みは厄介であるに違いない。
次の列車に乗ると並行する国道上を走るさきほどのDMVとすれ違った。もちろんバスの運転手がハンドルをにぎりJRの運転手は交代要員席にいた。そしてお客はだれも乗っていなかった。結局「偉い人達」はこなかったようで、その「偉い人達」に振り回された運転だったようだ。それならば私を乗せてくれればいいのにと思った。
藻琴駅での鉄道から道路へのモードチェンジ施設はもっと簡単で、その部分だけが路面電車のようになっていた。これは鉄道から道路への変換だけしかできず、だから現在の試験的営業運行はこのルートしかできないわけだが、それでもそこにも小屋があり、同じように信号機器があり要員もいたようだ。今の試験運行をするためには最低でも2名の運転手と4名程度の信号係が必要で、彼らは実に真面目に、ひとつひとつの動作を指差確認しながら、キビキビと作業をしていた。乗客は誰も居らず、観客は私だけだったが、私がいなくても同じように行っていたのだろう。
今回のDMVは、小型のマイクロバスを改造したもので、とても実用に耐えるものではないというのが衆目の一致したところだとは思うが、私は今回の実験は高く評価したいと思う。と言うか、今回の実験でいろいろな問題が明らかになってきて今後の本格的なDMV実用化に向けての検討課題といったものが見えてきたと思う。法制面や信号方式などは今後いくらでも改善可能だろう。最もむずかしいと思うのは、線路上をタイヤ駆動で走る方式を鉄車輪駆動にできないかということではないだろうか。鉄道の最大のメリットであるエネルギー効率を、タイヤ駆動では減殺してしまう。その場合かなり構造が複雑になるだろうし、重量増や信頼性の問題をどう克服するかであろう。
私はDMVというものはあくまでも鉄道車両であり、それを補完するために道路走行機能をつけるものだと思う。バスに線路走行機能を付加するものではないと思う。バス仕様の車両が、他の鉄道車両と一緒になって鉄道インフラ上を本当に走れるのか。いやDMV専用の線路を走るのだ、ということかもしれないが、そのような中途半端な規模のものが市場に受け入れらけるだろうか。高速大量輸送という鉄道の得意分野をさらに広げるためのDMVでなければ成功はしないと思う。既存の鉄道のプラットフォームなどのインフラを共用し、1人の運転手が10両くらいの車両を総括制御し、末端部分になったらそれをバラして各方面に行く、かつての多層ディーゼル準急のイメージだ。
また都心部を鉄道、末端部をバスというのが常識的に考えられるところだが、私はドイツのカールスルーエで行っているような、鉄道線路上を走って来た列車が都心近くになると路面電車に乗り入れる方式を、路面軌道を敷設する代わりにこの方式にしたら良いとも思うのだ。例えば北陸本線で小松の方から来た列車の一部を西金沢で分割し香林坊など市の中心部に行くものなどを通勤時間に走らせたらどんなものだろうか。構造が難しければ本線上はEL牽引でも構わないと思う。
理想的な地方中心都市になってほしい北見市
網走市役所は訪問済みだったので網走駅では5分で接続する札幌行き特急「オホーツク」に乗り、網走湖を右に見ながら15分ほどの女満別で下車、歩いて10分くらいの町役場に行った。2006年3月に隣接する東藻琴村(訪問済)と合併し大空町となった。町役場の前に女満別空港まで3キロと書かれた標識があり、中標津と同じくらいで、どちらも空港から歩ける役場だ。
駅舎は昔の西洋の屋敷のような外見のものでメインは町立図書館、その一部が駅待合室になっており本格的な喫茶店もあった。暑かったのでアイスコーヒーを飲みながら次の列車を待った。今日は全国で北海道だけが30度を超す真夏日になったそうだ。話し好きのマスターから、網走湖は湖面の標高が0メートル、満潮時には海水が逆流するので塩分濃度が高く、汽水湖ではなく海水湖である、湖底には塩分濃度の高い水が滞留し無酸素層を形成しており、強風などで攪拌されると表面近くも無酸素状態になり、魚が大量死することがあるという話などを聞いた。
その後は少ない列車で効率良くまわるべく上り各停キハでまず留辺蘂へ行き、下り列車で端野に戻り、再度上りで北見へ行くという、行ったり来たりの稲妻方式をとった。北見は昨年(2006年)3月端野町、常呂町、留辺蘂町と合併し新しい北見市となり、面積では北海道の市町村中最大の1427.6平方キロメートル、全国でも第4位になった。人口は129千人で網走支庁の中では最大、支庁所在地の網走市の3倍以上である。常呂川の作る北見盆地の田園地帯の中心都市で、支庁こそ網走市にあるが、それ以外のこの地方をカバーする国の出先機関、企業の支店や営業所はほとんど北見にある。合併後はこの広大な市域をカバーするために旧市町はそれぞれ自治区とし、4人の副市長(自治区長)を置いているそうで全国で見ても珍しい組織だ。
上り列車で端野方面から入ると暫く単線の高架線が続き、市街地が広がっている様子が良くわかり、家電や紳士服などの専門店や大規模ショッピング・センターが郊外に点在する光景も、全国の同じような規模の他の都市と違わない。
高架が終わると北見駅で、土地はいくらでも余っている所に作ったといった感じで、駅構内も駅前広場も広々としている。そして駅横にひときわ聳え立つのが「きたみ東急百貨店」の入ったビルで、ホテルやオフィスが入っており1階がバス・センターになっている。デパートは地階から6階までを占め東京で見るような売り場をもった本格的なものだったが、今年の10月で閉店になるという。北海道新聞によると1982の開業で前年度の売上は57.4億円、ピーク時の1993年度には145億円あったそうだからその落ち込みは激しい。正社員75人、パート等その他が97人で札幌など既存の東急各店での再雇用も含め処遇を検討しているとのことだ。
家具、衣服、医薬品、家電など特定分野(カテゴリー)に特化し、低価格で販売する専門店業態のことをカテゴリーキラーと言うのは、百貨店の該当カテゴリーが負けて撤退せざるを得なくなることからこの名前がついたそうだが、まさにここ北見でもその通りの現象が起きているようだ。それに車の普及と郊外の大規模スーパーが追い打ちをかけ、駅前とか市内中心街が衰退して行くという全国共通の現象がここでも起きている。しかしそろそろそれも転換期が来るのではないだろうか。急速に進む高齢化などから各地で中心市街地回帰のコンパクト・シティ化が進められていて成果が上がっていると聞くし、財政も厳しくなる折に居住地が広がり過ぎることの非効率が自然に見直されることになるのではないだろうか。
私は北見市というのは大きく衰退することはないのではという気がする。それは札幌に行きにくいからである。北見よりも人口の多い帯広は2時間半くらいで札幌に行けるので、企業が営業所を札幌に統合したり、出張者も泊まらずに帰ってしまう、またちょっとした買い物などにも札幌に行ってしまうという、いわゆるストロー現象の影響を受ける可能性が大きい。それに対して北見は特急でも高速バスでも4時間半は要するから日帰りで何かをするというのはちょっと難しい。少ないとは言え人口33万の網走支庁の中心都市として、札幌に吸い取られることなく独自の地位を維持できるのではないだろうか。今後北見と帯広の人口の推移を着目して行きたい。東急百貨店もすでに数年前から撤退を考えていたのだろうがいろいろな事情から今までかかったのだろう。しかしここまで遅れたのだから、遅れついでにもう少し様子を見て、新しい地方の中心都市に向けた業態に変えて行くという選択肢もあったような気がする。
ふるさと銀河線廃線跡を行く
訓子府と置戸の町役場に行きたく「ふるさと銀河線」廃線跡を辿ることにした。この路線は昨年(2006年)4月に廃止されたばかりでまだ1年と少々である。この線は石北本線よりも早い1911年に開通し、帯広を経由して北見から札幌方面に行くための幹線の役割を担っていた。1932年の石北線開通後は池北線というローカル線になり、国鉄再建の時代には廃止対象となったが、1989年、地元自治体が80%出資する第三セクター「北海道ちほく高原鉄道」に転換された。しかしその後も過疎化や、道東自動車道の開通などにより、旅客の減少が続き1990年に年間100万人あった利用客も2000年には50万人まで減った。
廃止後は東急グループの北海道北見バスに転換された。朝5時台のバスには私以外に客はいるのだろうかと思っていたら、背広姿のビジネスマン風の2人が乗ってきた。発車後は北海道の市街地独特の碁盤の目状の道路を何度か直角に折れ市の南方で置戸に向かう道道に出た。この先置戸まで、旧線はこの道道とは100メートルと離れず並行する。廃線あとは踏切がアスファルトで埋められている以外は線路や駅はそのまま残っていて、レールは錆びており、雑草も所々生えているがいつでも列車が走れそうだ。
バス・ダイヤを見て先に置戸まで行き、北見に戻る途中訓子府で下車することにした。陸別以南は十勝支庁なので、次回その方面をまわる時に行くことにする。置戸も訓子府もどちらも駅はホームやレール、信号機もそのままで今にも列車が現れそうだった。また両駅とも数年前に新築されたと思われる、コミュニケーション・センターなどを併設したスマートな建物で、バスの待合室も兼ねていた。鉄道廃止の噂も出ていた頃、それを打ち消すかのような、金がかかっているように見える建物だった。
この鉄道には1967年、学生時代最後の夏休みに乗っている。当時3週間有効の旧国鉄北海道均一周遊券というのがあり、それで列車に乗り続けるだけの旅をした。どこもリュックを背負った若者の観光客で溢れ、幹線はもちろんのこと、ローカル線もそれらの客で満載で鉄道にとっての良き時代だった。北海道の国鉄全線乗車にチャレンジしたものの、確か2~3%を残した記憶がある。未乗区間は白糠線と幌内線、それに夕張線の紅葉山・登川間でいつか再チャレンジしようと思っているうちに廃線となった。それに対し合併で消えても支所として庁舎は残る役所・役場めぐりの方が対象がなくなることがないのでチャレンジのし甲斐がある。
道路は直線部分が多く、帰りは北見方面への通勤通学時間帯であったのにもかかわらず渋滞もなくバスは快適に走り、客も多くはなかった。これでは鉄道はなくても仕方ないと思わずにはいられなかった。北見の市街地に入ると信号停車などで走行スピードが落ちるので、旧線路を舗装道路にしてバス専用として北見駅まで直行させるのも良いかと思ったが、それでも短縮できるのは数分だろうからそこまでの投資も意味がないかも知れない。
北見駅にはJRの駅舎と並んでとんがり屋根を持つふるさと銀河線の専用駅舎も残っている。コンコース部分では沿線の写真などが掲示してあった。そこにいた中年の社員の話では、現在この会社は清算法人となっていて、廃線跡地や駅などの資産の処分先はまだ決まっていないとのことだった。車両は3両がミャンマーへ輸出、その他は廃車したが一部は動体保存用に陸別に残し、いつでも区間運転ができるようにしている、とのことである。
深名線廃線跡を行く
北見に戻ってからは本数の少ない石北本線を途中下車しながら1日かけて旭川に行った。生田原の駅舎は図書館の他オホーツク文学館も入っている複合施設で、文学館にはオホーツク沿岸に因む文学作品や資料・記録などが展示されていた。特にこの地方が関係する純文学から歴史小説や推理小説に至るまで、よくこんなに揃えたものだと感心した。私が前回北海道に来るきっかけとなった司馬遼太郎の「菜の花の沖」ももちろん展示してあった。 また列車本数が極端に少ない白滝の、遠軽町と合併した後の旧役場は、白樺林のなかにある北米のどこかの企業の研究所のような贅沢な、そして洒落た雰囲気の建物だった。
旭川に泊まった翌日はまず深川に出て、留萌本線沿いの秩父別(ちっぷべつ)町、沼田町に行った後、深名線の代替バスで幌加内に向かった。留萌本線の秩父別駅は往時の北海道の鉄道駅の雰囲気が良く残されていた。JR深名線が廃止されたのは1995年だが、その後もこの線はJRバス(正式名称はジェイ・アール北海道バス)によって運行されているので「北海道フリーパス」が使える。普通に切符を買って幌加内まで往復すると2千円以上するので助かる。しかし実際はこの線の運行は道北バスにアウトソーシングされており、車両と車庫などの建物はJR北海道の資産だが、運転手や保守整備などはすべて道北バスの社員が行っている。運転手はこの路線専用ではなく、道北バス本来の路線との共通乗車なので効率良くローテーションを行っているようだ。
幌加内までの70分間乗客は私1人のみで、運転手の話によると最も乗車の多い朝の深川行きの便でも高校生を含め20人もおらず、特にこの1~2年学生の数がぐんと減ってきたとのこと。この運転手、自ら鉄道マニアだと言いバス以上に鉄道の話に詳しかった。ふるさと銀河鉄道の廃止後の車両の行き先を教えてもらったのもこの運転手だったし、JR北海道で新しい特急電車を札幌・旭川間で走らせるとか、気動車は朝車庫を出ると途中どんなに停車時間が長くとも一日中エンジンを切らず、これは他のJRとは違う北海道だけの特徴だなどという話を聞いた。
バスは観光バス仕様のものだったが、鉄道廃止時から走っているもので走行距離は140万キロに達している、だからかなり走行性能やスプリングが劣化しているとのことだったが、良く整備された真っ直ぐな道路を制限速度で淡々と走っている限りにおいてはそんな古さは感じさせない。普通バスの寿命は100万キロくらいだそうで、都バスを地方に払い下げるときでも40万キロくらいしか走っていないそうだ。
バスはほぼ廃線に沿って走り、時々並行する築堤などが残っているが見えた。幌加内のバス・ターミナルに着き、バスの営業はここまでだが他に客がいなかったこともあり、その先の営業所まで乗せてくれた。幌加内の駅跡がバスの車庫と事務所になっており、毎晩3人の運転手が泊まり込む宿泊施設もあるいう。駅舎は数年前火災で焼失したそうで、あたりはすっかり整地されていたのでホームなどももちろん残っておらず、線路がどこをどの方向に走っていたかも俄かには判別つかなかった。
事務所で休憩に入る運転手と別れ、旧駅近くの役場の写真を撮り、この町の名物である蕎麦を食べてからバス・ターミナルまで4~500メートルを歩いて戻った。この町は蕎麦作付け面積と生産量では日本一だそうで、蕎麦屋だけは中心部だけに10軒近くあり、遠方から車で来る客も多いと用だった聞かされた。昨日とは違い雨あがりで気温も低く、温かいつゆ蕎麦は確かに旨かった。
バス・ターミナルは交流プラザという西洋の宮殿を模したような、町の風景とはあまりマッチしていない建物だったが商工会や観光協会の他、JR深名線資料展示室も入っていた。展示室といっても写真や駅名札などの他幼児が喜ぶ程度の模型があるくらいでたいしたものではなかったが、自分で勝手に操作できるVTRがあって、深名線の往時の走行画面などがあり、つい見入ってしまった。
帰りのバスも来るときと同じ運転手だったのでもっと話をしたかったが、他に2名の客があったので控えることにした。深名線は超過疎地を走るとか、超赤字だとか何かと超という字がついて鉄道ファンの間では有名な路線だった。私が40年前の学生時代に乗ったときは、キハ07という機械式のディーゼル・カーだったことを覚えている。廃止後20年近くにもなるともうその痕跡はほとんど残っていないが、それでもときどき廃線跡の写真を撮りに来る旅行者がいるそうだ。
札幌と夕張で一休み
札幌で3人のかつての仕事仲間と会う約束があり、深川から夕方の特急で向かった。会食をし、翌日はその中の1人の運転する車で夕張方面へのドライブをした。札幌に戻ってから、苗穂駅裏のサッポロビール園に行き、最近開業した大型スパで入浴し、ビールを飲みながら釧路への夜行列車を待った。
特急「まりも」で道東へ
札幌からの夜行特急「まりも」は、今では一世代前の車両と言っていいキハ183系4両が2両の寝台客車を間に挟んだ編成だった。やはり出力不足なのか昼間の特急が4時間以内で走る札幌・釧路間を6時間40分もかけていた。寝台料金を節約して座席指定車にしたが、札幌発車時は1両に数名というガラガラだったが、30分後の23時50分に停車した南千歳ではかなりの乗車があり座席は半分くらい埋まった。本州から最終便で来て帯広や釧路に向かう人にとっては便利な列車なのかも知れない。2人掛けの席を1人で占領できたが、1両だけあった自由席の方はほぼ定員一杯のようだった。
スピードが出ていないからか走行中の揺れは少なかったが、発車時や停車時に寝台列車特有のガクンとする衝撃を感じたのは、客車用の連結器を使っているからなのだろう。なかなか眠ることができないでいるうちに2時35分、新得に着いた。何と東の空がうっすらと明るみかけ、遠くの山並の稜線がうっすらと見える。こんな夜中でも20人近くの下車客があった。もう40年以上も昔のことだが、かつての狩勝峠の旧線ではトンネルを十勝側に抜けると眼下に雄大な十勝平野が一望でき、夜行列車での夜明けの光景は筆舌しがたいと言われていたものだ。現在の車窓からはそのような景色は望めないが、それでも夏至に近いこの時期の道東は夜明けが早く、異国に来たような首都圏からの遠さを感じさせ、北欧の白夜もこんなものなのかと思わせるものがある。
そして40分ほど走って帯広では、まだ3時19分なのにもうすっかり夜が明けており、半数近い客が下車した。高架線から見下ろす町はまだ眠っているのに、駅だけは昼間の賑わいがあった。その後も列車はゆっくりと走るがすっかり目が覚めてしまい5時22分、白糠で下車した。今日も欲張って役場めぐりを行なおうと、町役場に行き誰もいない駅で各停列車を待ち音別にバック、そしてまた先へという早朝の稲妻方式で行ったり来たりしながら釧路に着いた。音別町は2005年に阿寒町とともに釧路市と合併し新しい釧路市となったが、白糠町は合併に参加しなかったので、ここでも飛び地合併である。
釧路に着いたのが8時34分、日曜日で通勤や通学客がいないせいか、ビジネスホテルが数件建っているだけの駅前は、広場や道路の広さが余計に荒涼さを感じさせる。今日はこの後郊外の3町村に行き釧路に泊まる予定だ。朝飯前に2ヶ所行ったものの、この時間から夕方までに3ヶ所しか行けないというのは、このあたりの自治体の面積がいかに大きく、かつ交通機関が不便だということだろう。
駅構内喫茶店のモーニングサービスなどで2時間ほど時間をつぶし、阿寒バスに約1時間乗って鶴居村に行った。広大な釧路湿原の西の縁となる台地上を走るので眼下の景色は見事だ。釧網本線の走る湿原の東縁までの東西が10~20キロ、南北は釧路の市街地から鶴居の市街地までの30キロくらいの湿原が、抜けるような青空の下これが一望のもとに見渡せる。このような光景は日本では他にはなく、改めて北海道の自然の大きさを実感することができた。鶴居村は酪農や農業が盛んで、農家の平均年収額は全国一だそうだが、そのせいか市街地全体が公園のようで、村役場はその中の美術館か何かのような瀟洒な建物だった。食事のできる店がすぐに見つけられず、コンビニのオニギリを食べ釧路行きのバスに再び乗った。そして予め路線図や時刻表、地図で調べておいた途中の北斗76番地というバス停で降り、次に行く阿寒町に行くバスを待った。東縁の台地を下りたところの、原野の中の道路の分岐点で近くに民家など全く見えない、ただ広々としただけの場所だったが、車だけは結構頻繁に走っていた。
20分ほど待つとバスは時間どおりにやって来た。前方台地上の釧路空港を離陸する飛行機を見、遠くに雌雄の阿寒岳を見ながら一直線の道を進み、途中動物園や温泉施設に寄り道をしながら阿寒町の市街地に着いた。この町は南北が50キロくらいある細長い町で、北部の阿寒湖や湖畔にひろがる温泉地が全国区の観光地として有名である。町はその阿寒湖から流れだす阿寒川の流域をカバーしているのだが、町役場などのある地域は最南部と言ってもいいくらいの釧路市との境に近いところにあった。
途中並行するサイクリング・ロードがありバスの運転手に鉄道の跡かと聞くと知らないという。後で調べてみると1970年まで雄別鉄道というのがここを走っていて、阿寒町市街地からさらに山奥にあった雄別炭鉱と釧路を結ぶ44キロの鉄道線路跡だった。雄別というところは閉山後は全くの無人の地となり、廃線跡めぐりも熊が出ないとも限らず行かない方がいいようだ。私が持っている1962年の「鉄道ピクトリアル」別冊私鉄車両めぐりにこの鉄道のことが載っており、それによると前述の鶴居村と釧路を結ぶ鶴居村営軌道というナローの軽便鉄道も当時あり、両線は釧路市街地北方の鳥取というところで平面交差をしていたとのことで、その写真も載っていた。私がバスを乗り換えたところの近くだったようだ。
釧路市と釧路町
釧路に戻り、ホテルにチェックインして荷物を置いてからもうひとつ、東隣の釧路町に行った。根室本線の列車で3つ目の別保という駅で降りて徒歩5分くらいのところに役場があった。釧路市と釧路町とが隣り合っていて全国でも珍しい例とかややこしいと例などと言われていたが平成の合併でも変わることはなかった。逆に今回の合併で新たに高知県で同じようなものが出現した。四万十という名前の市と町が隣あって出来たものでこちらもややこしく、新設なのだから当事者同士がもう少し知恵を働かせても良かったのにと思うのである。
釧路町から釧路市に戻り夕食の場所を探そうと市内を散策した。10年前に家族で道東に来たときに、釧路空港で借りたレンタカーで霧多布方面に行ったのだが、そのときに市役所前で写真を撮り、その日は釧路に泊まったので、釧路訪問をカウントした。しかしなんとなく引っかかるものがあり、再度歩いて市役所前に行き写真を一応撮っておいた。それにしても日曜日の夕方のせいもあるのか釧路市内は人通りが少なくさびしい。特に升目状に走る道路が広いだけに余計にそう感じさせる。人通りだけでなく車も少ない。
釧路は北海道東部最大の都市で人口は194千人で札幌市、旭川市、函館市に次ぐ。これは阿寒町、音別町と合併した後の2006年3月末の住民基本台帳のものだが、15年ほど前の1992年のそれは213千人だったからこの間の人口減は激しい。市内には乳業をはじめとする食品工場や製紙工場などがあり工業都市であるとともに、帯広や北見まで含めた道東の港湾取扱貨物の大半を扱う大規模な港湾を有している。また漁獲高も多い。しかしその割に市街地の賑わいに乏しいのは、ひとつは市の中心部に大規模小売店の進出を徹底的に排除したからだというバスの運転手の話である。確かに郊外にカテゴリーキラーや大型スーパーがあるのは他の地方都市と同じだが、他と比べて中心街には商店が極端に少ないような気がした。北見でも東急百貨店の撤退が決まったので、結果的には同じという意見もあるかも知れないが、その途中での市街地の形成状況は異なっていたかも知れない。
もうひとつは観光面で、以前は釧路と川湯温泉というのが道東観光でのメインの宿泊地だったのが、最近はウトロとか阿寒湖に移ってしまい単なる通過都市になってしまったそうで、これも運転手の弁である。夕方になっても本当に人通りが少なく、幣舞橋の上では一組の夫婦が写真を撮っているだけだった。これも全国的に知られているフィッシャーマンズワーフの中の屋台村も大半の店は開いていたが夕食時なのにどこも客が一人いるかいないかという閑散さだった。その中の一件で魚料理を食べ、早々にホテルに引上げた。
霧多布
北海道旅行の最終日である。釧路発6時34分の列車で厚岸に行き、1時間半後の列車で浜中へ、接続しているバスで浜中町の役場のある霧多布に行った。10年前のちょうど同じ頃、レンタカーで厚岸、浜中いずれの町役場前まで行っているのだが公共交通ではなかったためカウントできなかったところで、今回が公式訪問である。快晴とまでは行かないが前回のように霧で何も見えないということはない。バスの運転手が往復とも同じ人でしかも話し好きだった。毎年春から夏にかけては霧が多いのだが、ここ2~3年は異常に少なく、こんなことは珍しいという。これも地球温暖化の影響かもしれないが、霧は海水と大気の温度差が大きいと発生するものなので、大気温度は上昇傾向にあるのだから海水温度がそれ以上に上がっているということなのだろうか。
浜中の駅から10分くらい走ると海岸に出て、その先に霧多布の島が見えてきた。函館山を低くしたような、あるいは江の島のような地形と言いたいが、陸繋島ではなく狭い水道を隔てた島である。運転手の話では以前は繋がっていたのだが、昭和35年(1960)のチリ沖地震による津波で潮の流れが変わり、水が引いた後もここは水道となり切り離されたとのことだ。もちろん橋で繋がっているので交通には支障ない。役場前でバスを降り、役場の裏手に背後の丘陵に上る坂があったので登ってみた。100メートルもないと思うが、そこにはNHKの送信用アンテナが立っており、間下に集落の全容が見え、遠くには海上の無人島や岩礁が見えた。また風力発電の風車も回っており、役場でもらったパンフレットによると最大出力600キロワットとあった。
江戸時代は松前藩の直領であり、元禄年間には霧多布場所が開かれアイヌとの交易が行われるなど北海道のなかでは比較的早くから開けていたようだが、明治に入り特に鰊と昆布の生産が盛んになった。今日では浜中町は天然昆布の生産量が日本一で、日本の昆布の水揚量の1割を占めているそうだ。別海町の牛乳といい、日本の果てにこのような日本一を誇る産業を持った町があるとは知らなかった。またかつては捕鯨も盛んで捕鯨処理場の跡なども残されているそうだが、そこまでは行けなかった。
本土と島の間の水路の幅は100メートルもないが、橋の南側は更に両側から埋め立てる形で港湾整備がなされていて、最も狭い部分は50メートルくらいになっている。さらにこの部分にも新しい橋が懸っていたし、広い港湾の敷地内は建物などなく空地になったまま、船も少なく小さな漁船が数隻繋留されているだけだった。随分無駄な公共投資をしているのだなあとも思えるが、この地域は過去に多くの大規模地震や津波による災害が発生しているので、港湾整備事業と海岸整備事業とを連携させた防災対策の意味もあるということが北海道開発局港湾空港部のHPに出ていた。
浜中に戻るバスも同じ運転手だった。道路にはエゾシカに注意との標識が多く立っていた。エゾシカは塩分を補給するために海水を飲みに来るそうで、だから海岸に平行する道は特に多いそうだ。エゾシカは車が近づいても逃げないことがあり、車の方をじっと見ていて直前に飛び出すことがあるので、とにかくエゾシカを見つけたら徐行することだそうだ。秋冬の日没と夜明けがピークだそうで、アイスバーンのときにエゾシカが現れるのが非常に怖い、というベテラン運転手の話だった。特に最近エゾシカが急激に増えているがその理由は、暖冬による積雪の減少や狩猟者の減少、さらには最大の天敵である熊が食べきれないくらいに増えたことによるらしい。農業被害も大きく、このまま放置もできないので、北海道は「エゾシカ保護管理計画」を策定し、捕獲などによる間引きをしているそうだ。なお農家がエゾシカ除けの防護柵を作る場合、柵の購入費は道の補助があるが工事費は農家が自分で負担しなければならないそうで、これもなかなか進もないという、これらも運転手から聞いたことだった。
随分知識を授けてもらった運転手に浜中駅で別れを告げた。地方に行っていつも感心するのだが、路線バスの運転手というのは本当に良くいろいろなことを知っている。運転中に話かけることは本当は良くないのだが、大抵は運転手横の席に座るのでむこうから話かけてくる。他に客がいる時は私もなるべく控えるようにしているが、そういうことの方がむしろ少ない。バス会社というのはそれぞれの地方では名門会社だから運転手として採用されるのもなかなか難しく、だから優秀な人が多いのだろう。
釧路に戻り、特急「スーパーおおぞら」で池田へ、稻妻方式でいったん浦幌にバックした後千歳空港に行き東京に戻った。釧路空港から乗りたかったのだが、マイレージサービスの無料航空券では空席がなく千歳からとなった。おかげで池田、浦幌の2町も追加できたし、なんと言ってもフリー切符のメリットを最大限引き出せたと満足している。
今回は途中1日の休みを入れて1週間という、役場巡りでは初めての長期の旅だったが、訪問件数は23、1日3.3件という低い生産性だった。やはり北海道の広さと公共交通機関の少なさとによるものだが、それよりも牛乳工場やDMVなど予期せぬ学びが出来大変収穫があったと思っている。
目標3259に対し残りは1000を切った。これからは行きにくいところが多く残っており、生産性はますます下がって行くのは間違いないが、ここまでくるともう止めるわけには行かないという気持ちもますます強まってきた。