プロフィール
嵯峨野 嘉竹
著者:嵯峨野 嘉竹
詩集3冊、私小説「私は猫なのね」などの自著がある。
『遺文』書籍に込めた想い
此れは「遺書」として詩作したものではなく、初老に辿り着いた現在の自分が過去の自分を見つめ、其の一段落した人生の踊り場で自分に語り掛ける労いであり少々のお灸を据える反省であったり、経験を経て得たものから意義を見出し、此の後の人生展望を豊かにできたらと考えました。
人生は、「学べよ」そして「実れよ」そして「枯れよ」と年代毎の実践訓示をされてきましたが、此処近年は人間としての素養が損なわれてきているように思え、教育は高水準化してきているにも拘らず、反比例するように情緒を欠如した人間が増え秩序と規律を乱している様に見えるのです。
日本の未来を思い描くとき、決して揚々とした展望は見えてこないのです。
そして、生きる意義とは意味とは目的とは、と肩を怒らせず自然体の視線から得た感覚と悟るとはどう云った状態なのだろうかと思いを馳せました。
本書は、人生通過点での覚書として認めたものですので読んでいただける方々と共々に人生を精進して行きたいと願っております。
此の「遺文」は、様々な状況下で生きる方々に多少なりともお役に立てて頂けたらとの思いも込めております。多くの方々のお目に触れて戴く願望が叶えられたならこの上の無い幸甚に存じます。
インタビュー
『遺文 生の意義を悟る』が刊行されました。今のお気持ちはいかがでしょうか。
自身でも、まさか五作品目まで出版するとは思ってもおりませんでした。それ以前に、まさか自分が本を出版する作者に為るとは想像すらしない展開でしたので、友人知人以上に本人が一番驚愕している有様なのです。
詩作を始めたのは二十代前半のことでしたが、直ぐに飽きて仕舞いました。その後、二十年以上経過した頃に再び書き始めてから僅かな期間で、あれよあれよと云う間にたくさんの詩が書き溜まりまして、軈(やが)て放置するのが勿体ないと思う様になり、軽い気持ちで既に詩集を出版している会社の先輩に相談をしたのです。すると、折角本にするのなら出版社を紹介するから製本にしなさいと言われ、清水の舞台から飛び降りる覚悟で初版を敢行したのです。
其れが「悪魔の申し子達へ」と云う詩集でしたが、タイトルから「何か悪い宗教でも入っているのか」と周りの人間に言われましたが、程なくしてその誤解は解けまして、晴れて多くの人達にお配りする念願が叶いました。
その時が一番悦に入っていた瞬間だったと思います。
二作目三作目と其れなりに感激は有ったものの一作目以上の歓喜は味わえなかった様に思えますね。
四作目は我が家の猫さんを可愛がりの視線から描いた親馬鹿全開の私小説に仕立て書き上げました。
執筆が終えた頃、既に猫さんの体調は悪くなっていましたので、猫さんが元気な内に出来上がりを見せたいと、出版社さんに無理を言って早急に製本をして戴き、十九歳の天寿を全うする一カ月前にしっかりと目に刻んでもらえました。
今回出版しようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
人生の一区切りと云うか、年相応の人生観を多くの人に読んで戴くことで共感してもらえたり、人々の人生に善い影響として寄与出来たらと思ったからです。
本書は、人を見下したり思い上がってとか独りよがりにとか、人々に不遜に思われて仕舞う様な意識や趣旨は全くありません。
純粋に社会を見つめ、自分を見つめ、現状と将来を展望した中で、沸き上がる言葉が文脈となって、一心不乱に書き綴らせる行動を執らせました。ですので、誠実と真摯な姿勢の上に成り立つ詩を載せておりますので、必ずや多くの方々に抵抗なく受け入れて戴けると思いました。
そう思うと、此の詩達を埋もれさせてはいけないと云う思いが頭を擡(もた)げ、出費の算段もつかぬうちに自費出版の決断に至って仕舞いました。
此の詩集は編纂(へんさん)をせずに、総てを組み入れました。
ですが、お手に取って戴ければ、読み進めてゆく間に真意は伝わると思いますので、是非多くの方々に本書を知って戴きたく存じます。
どんな方に読んでほしいですか?
老若男女と生活環境にかかわらず、目標を見失った、人生に行き詰まった、悩んでいるなど、特に生き様を求める若者に読んで戴きたいですね。
大望としては、世の中に良い影響をして、詩の愛好者や読書家に認められる書籍と為って呉れたら嬉しいなとは思うのですが、少しでも多くの方の眼に触れて欲しいと云う事が一番の願いですね。
人間の持つ優しさや、時に厳しく接する気概を持つ必要性と、生きる為には自分を律する抑制力も携えなければならない事を弁えて、人々と協調した生き様の大切さを再認識しなければならないと思うのです。
本書は性善説の上に成り立つ、いわゆる青臭い倫理観をもち受け止めてもらえてこそ読者の皆様に受け入れてもらえるのだと思うのです。
偽善と捉えられてしまうかも知れませんが、心情と云いますか根幹は「変人ではあるが悪人ではない」との自負を持っておりまして、縦(よ)しんば偽善者であるとしてなら、一生を通して貫けば、聖人ではなくとも善人としてなら罷り通るのかなとの愚考を巡らせもしますが。
迷い、悩み。悔い、目標が見えない、年齢を問わず心豊かな人生を歩んで戴きたい総ての方々に、真正面から向き合い、共に明日へ一歩を踏み出しましょうと後押しが出来たならと願うのです。
コラム
- 01 猫
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猫さんとの関わりは、幼少期まで遡ります。アパート住まいでの居り、数時間前に頭を撫でてやった真っ黒な子猫が、部屋のドアーの前で、私のスリッパの上に座っていたのです。 親が、此処は飼えないから可哀そうだけど他所に行くまで放っておきなさいと言われました。居なくなっては又戻っていたりを繰り返し、何日かして現れなくなりました。 暫くして、別の子猫を拾い不憫に思って物置に隠して飼おうとしたのですが、餌の煮干しを措き、翌日覗いたら目を見開いて死んでいました。喉に詰まらせたのか首の紐がきつかったのか、今でも後悔が頭を過るのです。 時を経て、勤務中の職場にふらふらになった白い子猫が迷い込んで来たのです。このままでは死んでしまうと思い家に連れ帰りました。 子猫は元気になって育ちましたが、私は生傷が絶えませんでした。 其の子猫も十三歳の天寿を全うし家族に見守られ乍ら穏やかに旅立ちました。 其の1週間後、買い物帰りの母親が草藪の中で鳴く子猫の声に気付き、烏が狙っていたとのことで、前掛けに包み連れ帰りました。 目が見える様になり、お転婆に過ごしましたが、十九年の生涯を静かに閉じました。 何方も我が家で幸せに過ごせたのか分かりませんが、私は出会えたことを感謝しています。 現在は、是までお世話になった動物病院から子猫をお預かりして、喧嘩し乍ら同居生活を送って居ります。
- 02 梟
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梟との出会いは、子供の頃から鳥類の中では一番好きだったことがあるのですが。 ふくろうは、賢い鳥として知られていますが、「不苦労」「福ろう」とも喩えられて、縁起の良い鳥としても親しまれているのです。 それでは、私が梟の置物のコレクションを始めた経緯をお話しします。数十年前に、梟の可愛らしい置物を手に入れてから、何となく店先で目にした物を買い求めているということが続き、いつの間にか扱いそうなお店は条件反射的に覗いて仕舞うという癖が付きました。集めた梟さんの数は、大小合わせて百体を超えて仕舞いましたね。
- 03 ドライブ
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四十年以上ハンドルを握り続けて、現在のお気に入りは、鎌倉から江の島方面への身近なコースを年に二~三回と、奈良・京都へのロングドライブでして、年に三回ほど楽しんでおります。車は現在で9代目となり、年代物になっても頑張ってくれています。安全運転は勿論のことですが、高速道路上では何度も誤った運転をするドライバーを目にして、少しは自重しろと呟いてしまいます。幾つか事例を紹介しますが、 ① 方向指示器を出さずにフラフラと飛び出す輩、突然急な飛び出しをする輩、どのレーンを走行したいのか出たり入ったりする輩。 ② 100㎞制限の路上の追い越し車線へ、80㎞で急に飛び出すトラックや軽乗用車に急ブレーキで対処させられたり。 ③ 100㎞制限の路上の追い越し車線を、80㎞で何㎞も後続車の走行を阻害し続けるトラックや軽乗用車(老人か女性)。 これらの運転は迷惑をかけるだけでなく、危険な行為ですので皆様はご注意くださいね。
- 04 ジャイアンツ
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父親の影響で、小学生の低学年頃から巨人軍のファンです。野球をするときは当然、長嶋か王の打撃フォームを真似ました。当然、弊害に悩まされました。自分のフォームがバラバラになって正しい姿勢を見失ったのです。結局、以前の自然体なフォームを取り戻すまで半年以上を費やして仕舞いました。現在は、年にⅠ度観覧に行く程度で、専らテレビ観戦を主体に声援を送っています。家にはグッズが占拠し、知人にはジャイアンツ狂と認知されて居ります。
- 05 団扇収集
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京都旅行で祇園祭の宵山の雑踏を徘徊している折に、「函谷鉾」と云う保存会を見つけました。長閑なお囃子の流れる中で、鉾を拝観出来るという呼び込みに背を押されて、拝観料を納め事務所の中を通り鉾の中に案内されました。見かけより中は広く、お囃子衆の内側をパンダの拝観宜しく、立ち止まることを許されず押し出される様に鉾の外に吐き出されました。時間の割には其れなりの感慨もあり、再び喧騒の人混みを流されるも、千二百年の歴史の空気感に浸り 乍ら、いつの時代も変わらぬであろう出店の賑わいや其方此方で奏でるお囃子の音色に、束の間の時空の旅人気分を味わいました。宿に戻り、袋の中を覗くと安物の「函谷鉾」と印のある団扇と保存会の会報誌が入っていましたので、帰宅後何とはなしに団扇を長押に刺し見ていました。同封の会報誌を捲っていると、会員募集の案内が記されていたので早速電話して入会の意志を伝えたのです。抑々、何故「函谷鉾」なのかと云うと、鉾と山車の二種類が在って鉾は出走の順番が決められているのですが、山車は籤引きでその年度の順番が振り当てられるのです。函谷鉾は鉾の二番手を担うもので、一番ではなく控えめな立ち位置が気に入ったのですね。ということで、以後二十数年に亘って会費を納め、毎年祇園祭には何を措いても通いつめ印の記載された団扇を貰って帰るのです。四方の長押はいつの間にか鉾の団扇に占拠され、神棚も眉を顰める様な態を為してしまいました。もう一方では、旅行誌の中に深草団扇なる紹介欄を目にし、秋早めの京都旅程に団扇のお店探訪を組み込みました。この時期は、通常非公開の寺院の拝観が可能になるので、其れを目的に計画を立てるのですが、その中に様々なお店の見物やショッピングも組み込むのです。斯くして目的の団扇屋さんを訪ねると、店内には思いもよらぬ絢爛豪華な物から細工の緻密な物に混ざって、白地に赤文字の芸舞妓御用達の配布用の名入り団扇が飾ってありました。女将の説明を受けながら数枚の深草団扇を購入し、帰宅後、想定していたリビングの壁上部に貼り付けてみましたが、隙間が大きく開いて、もっと貼れと強請む様に思えたのです。それ以後、事在る毎に購入を続け瞬く間に壁は団扇で埋められてゆき、左から右回りに季節ごとの絵柄を並べて、絵暦の様な状態の陳列となりました。
- 06 野球
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プロ野球の選手になりたいと思う事もありましたが、それ以上に野球をしたいと暇があればボールとバットだけは手にしていました。ユニフォームや用具を買う余裕が無かったので、チームに入る事も出来ず、社会人になるまで試合に臨んだことがありませんでした。実際にゲームに入ると自分が浮き出るほど皆のレベルが低く、何故か、虚しさを覚えたものです。周りから、それだけ上手なんだから野球部に入りなよと勧められましたが、その時にはバレーボールに興味は移り、学生生活を送る傍らで其の頃から盛んになった六人制バレーに打ち込みだしました。
- 07 バレーボール
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始めは惨めなほど何も出来ませんでしたが、先生や先輩と卒業生のご尽力を得て、一年ほどすると試合に出られるまでに上達してゆき、軈て、先輩や同輩から褒められることも多くなり、そうすると、勝率も目に見えて上がり、県で8位の位置を獲得する事もありました。そのメンバーとの関りは現在までも続いており、腐れ縁と飲み会などでは笑い合う仲となって大切な友で居てくれています。
- 08 バドミントン
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40歳を過ぎてから始めたのですが、当然の事乍ら身体が付いてゆきませんでした。其れでも、2年ほどすると息切れれすることも減り、フットワークも其れらしく動き回れる様になりました。其れが油断を生んだのでしょうか、バレーで培ったジャンプでスマッシュを打ち着地した瞬間左足のアキレス腱が悲鳴を上げて仕舞いました。即刻皆に担がれて指定病院に入院手術の段取りとなりました。時を経て、回復復調をするのですが、スポーツの神様は更なる試練の道を授けて下さいました。今度は左足のアキレス腱が悲鳴を上げて仕舞い、入院・手術・リハビリの手順を再度踏む命に服する運びとなったのでした。其れでもめげずに精進の道を歩むのですが、50歳を少し過ぎた時に振り上げた利き腕の右肩に激痛が走り、待っていたラケットを放り出すという事態に追い込まれたのです。その後は、騙し騙しのリハビリバドミントンになりましたが、其れでも健康バドミントンは楽しいのですよ。皆様も、気が向いたときにでも体育館やスポーツセンターなどを覗いて、お気軽に仲間入りなど、お願いしてみてはいかがでしょうか。きっと、有意義な時間が持てると思いますよ。
- 09 ソフトボール
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壮年ソフトボールと云う地域の会が在ったのですが、その当時は中年世代が元気で多く居たため、若年層は入会出来ませんでした。私は29歳以下でしたので、住居地区のチームに入れて戴く事は出来ましたが試合には出られません。ですが、手伝いをする事と練習に参加する事は出来ましたので、其れなりに楽しい時間は過ごせました。軈てチームの一員として正式にデビューしたときは、非常に嬉しかった事を記憶して居り、成績はどうであったか記憶にないのですが、仲間に豪く褒められた記憶がある事から、其れなりの成果は挙げたのかなとは思いますね。その後、10年ほど続けましたがチームのメンバーも減る一方で、解散を決断する状況に追い込まれ、チーム消滅と共にユニフォームを脱ぎました。
- 10 スポーツ関連の不祥事について
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2017年年末から2018年の後半にかけて、よくも是だけ不祥事が起きるものだと経験がない憤りを覚えます。相撲は国技だと、関係者は驕りがあるのです。問題の本質を掘り返そうとせず、体制保護・営業重視の悪行が露呈しても改善するとか自浄作用の機能が無いのです。有害な団体なのですから、公益財団法人の認可を取り消さなければならないと思います。大学内体育系の不祥事は、体質に要因する問題なので、外部からの提起は不可能で、内部告発でしか発覚しないのです。其れが、法に違反する不祥事であれば国民の非難や追及があり得るのですが、学内で内部処理されてしまえば不問とされて仕舞う性質のものなのです。此処で、我々が関与するべきなのか、傍観する事が正しいのかの判断は、被害者の意志に寄り添うべきものと思うのです。 余談ですが、学生への体罰の良し悪しが議論されますが、私は否定派で、肯定は出来ません。クラブ活動は課外行事なので任意の範疇を超えるものではなく、口頭での叱責も度を超えてはならないのです。生徒の態度が悪いのであれば、何度でも注意を与え改善させなければならないのです。指導とは、方向性を示して目的を悟らせなければなりません。指導者には、熱意の他に我慢強さと粘り強い根気が要求されるのです。続ける意思や、やる気のある生徒は育てなければなりません。決して、従わない生徒でも見捨ててはなりません。
- 11 歌唱力を考える
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物心ついたころから父親がラジオ造りが趣味だったものですから、洋楽や歌謡曲を問わず常に音楽が流れて居りました。その影響で、知らず知らずのうちに曲を覚えて口ずさんでいたところ、少しずつ歌手の真似事から自分なりの歌い方を模索し、周りから認められる様になってゆきました。そうなると、歌手を目指そうかなどとの欲が生まれます。然し、それ以上に野球に夢中になっていたこともあり、プロ野球選手を勧める声も無視できず、後々、何方も中途半端で終わる事に為ります。それでも、歌うことは続けていましたが、二十歳を過ぎた頃に行き詰まりを覚えて、二年ほど悩み続けた結果、細工に走らず素直な歌唱で語り掛けることが自然な歌を表現できるのだと気付きました。思い入れが強すぎると雰囲気が壊れます。シャウトするにも怒鳴って仕舞っては白けさせます。また、あっさり流し過ぎても曲の味わいを表現できません。適度の振り付けは曲を盛り上げる効果がありますが、此れも遣り過 ぎては逆効果に為ると留意してください。何れにしても、人前で歌う場合は嫌味にならない様に、そして、ご自身が楽しくパフォーマンスを発揮出来て、納得の出来る記憶が数多く残せる様に心掛けてみては如何でしょうか。歌うことは健康にも良く、何より楽しいのですから。
- 12 カラオケを見直す
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前項で歌唱に悩むという件をお話ししましたが、其の解決策として多くのレコード店(当時はレコードのみ)を巡り、カラオケは有りませんかと聞きまわり、無いのを知ると作ってもらえないか頼みましたが取り合っては呉れませんでしたね。因みに、カラオケは歌手の人達がステージや営業で使用していた事を知っていました。若しかしたら、私の行動を見ていた人が作ってくれたのでしょうか。 最近のカラオケは、点数を競う事に主眼が置かれている様ですが、歌詞を間違えない様にモニターを見るのは理解しますが、点数を気にする様では歌本来の意味から離れている様に思えるのですね。観点を変えて見れば、楽しむ歌とは別にカラオケと云う二本立てのジャンルが確立したのかも知れませんね。私としては、人に聞いて戴き共感し合うとか、歌に真摯に取り組み最大限に満喫したいと云う楽しみ方を推奨したいのですが。勿論、カラオケ大会の存在は歌好きの私には嬉しい場ですので、もっと盛大になってくれることを願いますね。唯、歌は他人と競おうとするとどんどん崩れていってしまいます。嫌ららしい感じに陥って仕舞いかねませんので気を付けて欲しいですね。 もう一つ「キー」を大切にすると云う事をアドバイスしたいですね。女歌を男性が、男歌を女性が歌う場合には当然2度3度の変調をしなければ大抵は合わせられません。然し、同性の歌でも声帯には個人差がありますので、自身の音域に合わせる必要があるのです。この作業は、歌い易くするだけではなく「感情移入し易くして歌の完成度を高める」作用が得られるのです。テクニックを高めるとか、音域を広げるとか、様々な挑戦は続くのでしょうが、小手先や喉で歌う事をせずに、腹から声を出す事に重きを置いて楽しみながら精進を目指してください。 <マナーと心構えについて> 其処に集うのは歌好きばかりとは言い切れません。中には嫌々や仕方なく席に着いたという人間も居るでしょう。其れでも守らなければならないマナーと心構えがあるのです。歌好きで集う者は、当然、守り持たなければならない心構えがあります。歌は楽しいものです。集う者皆で楽しい場にしなければなりません。其の時間を有意義に過ごす為にも、自我を抑えなければならないのです。つまり、場の空気を和やかなものにし、演者の妨げになる行為を自重、歌い易い状況造りを援助する心意気が大切なのです。あなたが演者と為る際は、周りの人間の気遣いで気持ちよく歌わせてくれます。其の大切な場を支える為に我を抑え、周りの人間と協調し、心地好い場創りに努める必要があるのです。延いては、個々の技量向上にも繋がる可能性があるのです。 大声で歌唱を邪魔したり、茶茶を入れるなどの行為は、マナーとしてという以前にその場に居る資格のない存在なのです。それは、大会に出場する様な立場の人間になれば持たなければならない別の心構えがあります。当然、競うのですから評価点数を上げるべく皆さん努力をしますね。然し、其処で考えて欲しいのですが、対戦相手は敵ではないと云う事で、切磋琢磨し会う盟友であり、向上心を刺激し合えるえる大切な仲間であると云う事を認識して欲しいのです。いがみ合ったり、反目し合ったり、僻んだり、妬んだり、失敗を願ったり、陰で貶したり、窮地に追い込む行為や心情は決して好い方向には向いません。必ずその人間の歌に反映されて仕舞うのです。周りの人間には其の在り様が見透かされます。点数以前に人間として周囲や仲間から見放されます。歌は、良くも悪くも其の人間の心を表す最大の武器だと云います。大会以外の人前で歌う場合に、他人の心を捉えられるか、将又、見向きもされずそっぽを向かれるかは、あなたの人間性に委ねられるのです。心したいですね。
- 13 楽器を弾く
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私の場合、楽器とはギターとなるのですが、お世辞にも上手だとは云えません。抑々、ギターを弾きこなすなどと恐れ多く、考えたこともありません。ギターは、歌う為の伴奏にしか使えませんので、曲を弾くなどの器用さは持ち合わせてはおりませんから、観ようによっては宝の持ち腐れとも揶揄されかねませんね。然し、気になる歌の譜面を目にして難しかったり面倒なコードであったり、意気消沈も断念も考えました、然し、其処で生み出した技が体裁良く言うならば「編曲」をするという誤魔化しなのです。基本は、メジャーコードとマイナーコードそしてセブンスコード等を駆使して、其れらしい演奏に持ち込むのです。要は、自分が楽しむというスタンスの上で烏滸がましさは出さない事、是が、趣味の真骨頂だと自負して居ります。
- 14 奈良・京都 (1)
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観光と注意点
奈良と京都を旅行すると決めた場合の注意点とアドバイスをご紹介したいと思います。 観光の足としては一般的なバスか電車、またタクシーなのですが、目的が散在する場合、移動や乗り継ぎに大きく時間が割かれます。京都の主要観光場所は、「洛中」「洛北」「洛西」「洛南」「東山」「伏見」「山科」「西山」「醍醐」「山城」「山崎」「城陽」などですが、奈良の主要観光場所は、京都の比ではありません。「吉野」「飛鳥」「室生」「天理」「斑鳩」まだまだ書ききれないほどあるのです。奈良市街地にある程度集中してはいるのですが、日本の誕生した場所です。当然、貴重な歴史的建造物や遺跡寺社などが点在しているのですから、観光と云うより、見学か拝観と云う表現が適切なのだと思いますね。此れ等を飛び飛びに回るのは3泊ではとても無理です。どうしても何か所か取り込むのであれば、早朝から回れる時間設定を組むのです。つまり、夜行バスか新幹線での奈良か京都着を選ぶか、強行スケジュールですが車での行程となります。東京からですと概ね500㎞の距離があり、6時間程の運転時間が要求され、結構疲労も溜まります。ですので、ある程度の休憩時間を計算しなければなりません。 奈良・京都観光を計画する場合、観光拠点となる宿泊施設の選定が重要となります。特に、両都とも一人旅の宿泊は拒否される場合が多く、充分な確認が必要です。
- 15 奈良・京都 (2)
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現状と問題点
特に京都の関係者を悩ませる問題が、外国からの観光客なのです。移動手段として、安上がりなバスや電車の利用を求め主要な観光施設を通る路線を混雑させ、市民の利用の弊害となっています。更には、所構わず塵を捨てたり立ち入り禁止場所に入ったり、挙句には柵を越えて草や苔を踏み躙り、桜や楓などの草花の枝を折ったりと、暴挙無礼を働き関係者に迷惑をかけているのです。
- 16 奈良・京都 (3)
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楽しみ方と工夫
奈良と京都は日本を国として確立した土地です。ですが、其の成り立ちから趣が異なります。奈良は天皇制定を成し、威厳を楚として古の安寧を現在に伝え、確固たる歴史の燈火を燃やし続けているのです。寺院を守る燻香こそ奈良が奈良たる所以となるのです。奈良は、歴史遺産の宝庫です。何処を掘っても遺跡が現れ、其の為に工事が中止中断されるのは年中茶飯事で、時に無視して工事を強行するということもあったようです。この後、どの様な貴重な遺跡遺構が発掘発見されるか楽しみです。 京都はお公家文化が花開き、風雅の色添えを得て本物志向の豪華絢爛たる建築物・庭園・工芸品・書画・焼き物・織物・細工物に加えて、宗教の変革による芸術、華道・香道・書道などの派生を得て精神文化にも影響を与えてゆくのです。同時に、武家社会の確立により、剣術が武士の心得となり、書道・学問などの教養を学び、文武両道を極める処世を生業とする様になります。公家や武家の需要に応える為、職人は様々なものに亘って更に優れた要求に対応し、技術の向上と職種の多様化、食文化の開花をみることになるのです。
- 17 奈良・京都 (4)
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奈良・京都訪ね歩き
「古の都」「雅・粋の極み」「歴史創生の表舞台」「近代宗教礎の地」そして、「過去と現代が共存して生きる街」etc、として多くの観光客を魅了し誘う、日本最大の観光地。奈良と京都。海外から大勢の方々が訪れる日本の観光の象徴である両都は、中学生が日本誕生の歴史観賞することを目的とする修学旅行という形で教育の一環として継続されてきた経緯があります。しかし、現在では修学旅行も様相を変え、両都を選ぶ生徒も減り、机上で学んだ日本の歴史知識を深める機会が失われつつあります。そして、衆人の中でも「奈良にあるものやら、京都にあるものやら」要領を得ない方もお見受けすることがあります。世界中の方々が見に来られる両都を、そこに住む我々日本人が「見たことがない、あまり知らない」というのは実に勿体ないことだと思うのです。興味が湧かないのは致し方なくとも、何処か旅行を検討している状況であれば、是非、両都を旅なさって下さい。必ず感動を味わえると思います。奈良、京都、どちらも現在の街並みから目を少し転じただけで、そこには過去が厳然として息衝いているのですから。街の彼方此方にタイムカプセルが鏤(ちりば)められているように思えて、心浮き立つ感じがしますし、何と云っても街そのものがテーマパークなのですから時間を忘れて溶け込んでしまうでしょう。ですから、ご帰宅後には、ご家族ご友人に思いの丈の感想をお話になって下さい。 両都を訪ねて下さる方が、更に増えると思うのです。
- 18 奈良・京都 (5)
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何故、奈良・京都へ(上)
私が、この大切な古都のご紹介ご案内をさせて戴きたいと願った要因は、自分探しの旅が始まりです。私の祖先といわれる平家の武士が、落ち武者として辿らなければならなかった道のりを考察し、そのご苦労と、何を求め生きられたのかを尋ねることが、私にできる唯一無二のご供養になるのではないかとの愚考からです。皆様ご存知の通り、源平合戦の舞台は平安遷都の京都です。 不遜と思われるかも知れませんが、古都で繰り広げられた庶民の与り知らぬ皇族・氏族・公家・武者の争いであり、度重なる「都の造営」や、聖武天皇の詔による「東大寺大仏建立」の国民総出による国家的プロジェクトの参画という柵に、知らぬうちに巻き込まれ、翻弄されました。そして、直接的であれ間接的であれ(大仏建立に限らず、幾多の場面にもその影響は受ける事になります)、その枢機であったか数奇散々であったのかは別にしても、その時代時代の歴史の渦中に身を置かなければなりませんでした。そのような状況下での暮らし振りや、夫々のご先祖様のご心中・思想・功績に想いを巡らされ、お偲びになられることも、古がより身近に感じられることでしょう。両都を旅されたい気分は弥が上にも高揚してこられることと存じます。<その折には、是非、人生の途中に一息を入れるつもりでお出掛けになって、現在と古が風の表と裏側で見え隠れする風情を堪能なさって下さい。そのようなことでも、肩の力の抜けた目で未来を展望されるきっかけにもなるのではないかと思うのですが。過言な申しようはご容赦下さい、私事に戻らせて戴きますが、当然、現状から過去の両都を見知ることは不可能です。しかし、現存の史物から手懸りが得られるのではないかと思えたのです。そして、思考錯誤を繰り返し煩悶し、糸口の見えない手探りの自分探しをする徒然に、過去と現代が同居して生きる町を訪ね歩くうち、何時しか初志を凌駕し、日本そのものを知りたい欲求が頸を擡(もた)げてきたのです。京都を訪ねることで、平城京・藤原京・飛鳥宮という嘗ての都を生み育んだ奈良に思いが馳せる様になりました。それが、私が奈良と京都を旅したい理由なのです。自分本位な発想ですが。是非、本書をご高覧戴き、皆様に奈良・京都を訪ねて戴きたいのです。そのお願いをした上で、再びご不遜に思われてしまうお尋ねをしたいのです。「あなたは自国のことをご存じですか」。海外旅行が持て囃される風潮に疑問と老婆心を抱くことから、皆様にお問い掛けをさせて戴きたいのです。<奈良・京都を学び継ぐ>あなたは外国の方々に、日本が誇る両都の説明を求められた時、正しくお教えできますか。 私は、外国の諸事情に詳しいより、自国を堂々と明らかにご案内できる方が尊いのではないかと感じるのです。その一方で、奈良・京都を訪ねる方々はどの様に両観光地を知り、訪れることを選択するのかを私なりに考察し、更に多くの方に来訪して戴けることを念じ、ご提案をさせて戴きたいと思います。そして、この後、両古都への旅をご検討中の方々には、必ずお役に立てるとの自負から、本書をご高覧戴けることを熱望致します。 また、京都・奈良を良くご存じではない方や、もっとお知りになりたい方々へのご助力とアドバイスになればとの願いから、釈迦に説法とならぬ様心し、両都の辿った変遷の再考を通して、観光と並行した楽しく有意義な旅想を創案して戴けるご提示をしたいと存じます。したがって、多くの旅行案内書とは違った観点から、実際にお役に立てる情報を主体として書き入れたつもりですので、是非、末永くお手元に置かれまして、折に触れご高覧して戴けたなら幸いに存じます。尚、本書に整然性を持たせる為に付け加えさせて戴きますが、深く歴史を遡ると、神話の教典と史実との区別が難しい状態に陥ってしまいますので、歴史書を基に、西暦五百年以後を基本として記述させて戴きます。<奈良・京都を訪ねる理由とは> 京都・奈良を旅行される方の場合、暫く前の世代であれば、ふとした瞬間の修学旅行を回想した状況から発起されることが多い様に思いますし、更には、その後、時間を置いて個人的に、「じっくり」、そして、「ゆっくり」街の雰囲気に浸りたいという、再訪願望に揺り動かされて訪れる方も少なくないでしょう。また、旅行地を決め兼ねている場合にも情報量と観光名所の豊富さ、そして、仄かな旅愁を擽る風情や古へ誘う歴史を育んだ憧憬の地であり、加えて、ひと時でも気品と雅に触れることのできる希少な地であることが訪問地に選ばれる理由になるのではないでしょうか。違ったケースでは、人伝えに思い入れの籠った情報から、ご自身のイマジネーションを膨らませ、決断される方も多いのではないでしょうか。或いは、お目当てを訪ねる傍ら、または、所要で来られて他の観光名所も立ち寄りたいという、補充的な選択肢もあるようです。何れにしても、それだけ人々を捉えて離さない魅力が、京都・奈良という土地にはあるのです。京都・奈良に親しむ一度は行ってみたい憧れの有名観光地という視点から、初めて訪れる方や不案内な方の中には、有名寺社仏閣巡りをメインにした、「主要観光コース巡りツアー」を利用される方も多く、ゆとりを持ったタイムスケジュールでの移動であり、入場・拝観券の購入手続き不要(旅行会社にて手配済み)による時間の短縮ともなり、セット内容によっては、普段では拝観出来ない、目にする事が出来ない文化財を見る事が出来る特典が付いている場合もありますので、お得で安心した観光を楽しむこともできるでしょう。また、一日コースや食事付きコースには有名料亭での昼食がセッティングされている場合も多く、楽しみも倍加するものと思います。そういった観点から、初めは、こういう企画観光参加による旅行をされることを、お勧めしたいと考えます。その後、再訪ならびに、複数回の来訪を望まれる方へ、私なりのアドバイスを差し上げたいと思いますので、ご参考になさって戴ければ幸いに存じます。<京都・奈良を考える>奈良・京都、言うまでもなく、その歴史的変遷の中で国家構築の礎を担ってきた地です。そして、歴史創生期を如実に語り記憶される過半をこの両都で占めているのです。それは、紛れも無く日本と云う国を創り上げてきた地であるという周知の事実であります。しかし、奈良と京都では、その政治的背景や繋がる文化の相違によって、趣は全く異なるものになっているのです。ですから、観光目的も微妙に違ってくると思います。私事ですが、少し前に、「京都・奈良へ旅行する」という表現をされる方が多いのは何故かという素朴な疑問が浮かび、私なりに考え、「京都と」それこそが、両古都に都が置かれたにも関わらず、古人が京都を訪ねる事を「京に上る」「都へ行く」と表現しました。 一般的にも、京都の遷都期が長く、その時期に歴史的に重要な変遷が展開され、日本の都として広く認知された様です。それに因り、現代に至っても、人々には都として慈しまれ、日本の象徴として認められており、奈良を軽んじることなく、「京都を」受け入れられているのだと感じました。しかし、そういった事情を踏まえた上で、敢えて、奈良が遷都発生の地である事に敬意を表し、表記する際、「奈良と京都へ」と記載したく、次項以降にご紹介する事柄をご賢察の上、ご高察を以てご続読戴けます様お願い致します。<日本建国の礎、奈良を考える> それまでの日本社会の世情と云えば、各地に点在する豪族を中心とした多くの農民・下人・賤民を抱える集団を指します。豪族は農民の収穫物を徴収(年貢として納めさせる)し、それ以外の者達には様々な下働きをさせます。その中には後の武士に繋がる自警団を擁しており、その見返りとして、その者達を庇護するという図式で信頼関係ならびに力関係を維持していました。しかし、統治する豪族の長や有力者の裁量・力量に因っては、領内の支持を得られず謀反に遭う事もあり、当然の成り行きとして、隣接する豪族間との利権争いや略奪と云った軋轢に端を発する紛争は、日常茶飯事に繰り広げられておりました。抑々、天皇系譜誕生の地であるとともに、卑弥呼率いる日本初の国、「邪馬台国」建国伝説は、ここ奈良とする説が有力視されており、大和朝廷誕生の礎を築いたと云われております。 更に、奈良は、豪族間の勢力争いを平定し、天皇主権政治による国家の安定統治を推進し、仏教普及により、国民を精神的苦悩から解き放し・心穏やかな生活を確保する政策(聖武天皇勅願による、東大寺の大仏造立に代表される)を推進しました。<古墳ブーム到来と戦>卑弥呼以来、三世紀以降に代表される時代の皇族や豪族は、広大な土地に巨大な墳墓(卑弥呼死亡期と古墳時代到来期が同時期『二世紀後半王位に就き、祈祷師・呪術師的宗教で内乱を鎮め、二三九年に魏国より親魏倭王の称号を受け三世紀中頃没した。)を挙って建造し、その権力を鼓舞しました。そして、それに呼応するかのように天皇継承に関わる争いも無くなることはなかったようです。疑心暗鬼の時代到来です。農民や平民は日々の生活に追われる中で、皇族・貴族たちは諍いの影に付き纏われることになります。親族にさえ心許せずに、一度昂った精神を平常心に立ち戻らせるのは至難の業となります。それは、一兵卒に至るまで伝心し、平静を齎せずに、新たな脅威への対策を余儀なくされるのです。それとともに、何の罪科もない農民や平民に延々と戦の犠牲を強いて爪痕を残し続けることになるのです。この戦は、幾つもの時代を跨ぎ、天皇継承争いから武家社会の天下取り抗争へと様相を変え、江戸時代を迎えるまでの永い年月に亘り、庶民に犠牲を強いて続けられることになりました。<シルクロード終着地>ローマを起点とするシルクロード東方終着地が日本と云われており、様々な文化や物品が一筋の道によって流通され、国々からの情報を得る一方で、我が国からも発信しました。その齎す影響は多岐に亘り、我が国に多くの財産として形を残します。中でも、仏教伝来による政治と仏教の融合。人々の生活や習慣を豊かにし、現代に至るまで影響を与え続けています。 <渡来文化の影響>それまでも幾度となく、朝鮮半島や中国からの渡来人(帰化人)が亡命や技術を伝える為に渡来し、日本の発展に寄与されていましたが、六三〇年に、中国の唐時代初となる外交使節団として犬上御田鍬に同行する一二〇人(後に五~六〇〇人)余りの遣唐使を渡海させ、以後、二六四年に亘って一五回渡航を試みました。しかし、多くの難破遭難と困難を(これは、渡航時期に問題があって、唐の正月を祝う儀式に参賀する為、七か月前の六月に出航しなければならなかったのです。それは台風到来時期に当るのです。)極め、菅原道真の提議(唐後期の戦乱による回避)により廃止されました。随伴された人物には後世に名を残す仏僧の玄昉・最澄・空海を始め、山上憶良・吉備真備・橘逸勢といった官吏がおられました。また、中には、阿部仲麻呂の様に帰路途中で遭難に遭い、そのまま長安に徴用されて残る者や、志半ばで異土に屍を埋める御霊、海に散った御霊も少なくはなかったのです。幾多の人々のご尽力の上に齎された功績として、日本人の受けた影響の最も大きかったものは、仏教だと思います。庶民のそれまでの信仰とは、民族信仰=祖先神、自然神=自然の山・岩・木などを神格化崇拝することで、社はなかったようです。シャーマニズムと世界で云われ、「祈祷師・呪術師」(日本では「かんなぎ(巫)」とも呼ばれる)が古代から存在し、神や霊と交信して雨乞いやお告げなどを伝えていたようです。それを、畏れと崇敬の念を以て受け止めていたのでしょう。また、皇族をはじめ氏族や豪族は、その家系の氏神社を設えて祈祷をしていたようです。それと、卑弥呼は巫女だったという説もあり、大和朝廷でも「かんなぎ・祈祷師」が祭政一致の中心を担っていたようです。不安定な治安情勢や度重なる疫病の蔓延などで国内は騒然とする。そういう世相の中に、インドから諸国遠路を経て、我が国に仏教が伝来しました。日本に初めて伝来したのが五三八年、百済より仏像・経典が欽明天皇に贈られ、命により蘇我稲目が向原の自宅を浄めて祀ったのが寺の始まりとされています。但し、伽藍を配した現在に見る寺院として形を成した寺は、「飛鳥寺」が第一号となるのです。 仏教の教えは、死後には総ての者を救う仏の坐す極楽浄土が在ることを説き、来世を信じさせることで死への不安を払拭し、生きる意義を求める糧を授けたのです。それが「仏」という誰もが身近に感じられる対象であり、心の安息を得られたのだと思います。しかし、人々を救う為に求められた仏教を巡って、崇宗派(蘇我稲目・聖徳太子)と排仏派(物部尾興・藤原鎌足)による戦が始まり、蘇我馬子と物部守屋の代に崇宗派の勝利決着するまで続くことになります。<都の造営> 都造りを遡ると、それまで五~六世紀の間、天皇が即位をする毎に奈良南部を転宮しながら統治を執り行っていましたが、「倭京」日本初、最古の大王政権飛鳥は、「富浦宮」「小墾田宮」「飛鳥浄御原宮(地下下層遺構が飛鳥板蓋宮と飛鳥岡本宮とみられる)」を総称する飛鳥京として斉明天皇から天武天皇、そして持統天皇に受け継がれて造営が成りました(その間、僅かですが、天智天皇から大友の皇子により、五年ほど滋賀に大津宮が遷都されていました。それも、壬申の乱に勝利した天武天皇が飛鳥浄御原宮に即位する迄の間の出来事です。)。 そこで驚かされるのは、飛鳥京の機能です。奈良盆地の立地を巧みに取り入れた水利と排水機構が整備されていたのです。高台にある「水路の遺跡」から都へ網の目のように水溝を引き、生活用水を確保しつつ、消火用水の確保と、その多くの水量で涼夏対策としていたようです。また、その地下には豊富な地下水が流れ、飛鳥川の東側に発掘された苑水池を介して想像も出来ない排水機能が造られていたのです。苑水池に流された排水は、地下水圧とバランスがとられ、池水面より高くなると地下水に流れ込み、下がると地下水が入り込みます。池が自然の切り替え弁の役を担っていたのです。風雅・優美を愛でつつ、見えない部分では、現在の都市機能が苦慮する難問を、いとも容易くクリアしていたなんて称賛に価しますよね。 因みに、よく氾濫したため、飛鳥川に排水を流し込むと云う選択肢は無かった様です。如何ですか、無性にロマンを掻き立てられて、今直ぐにでも飛んで見に行きたい衝動に駆られませんか。造営された飛鳥京は、五一年という在京期間しかありませんでしたが、飛鳥の地に凡そ、推古天皇から数えて一〇〇年に亘り威光を示した後、藤原京に移り平城京に遷都されるまで奈良の都の存在を国中に知らしめたのです。その後、平城京に遷都するまでの間の政務を担った藤原京は、中国の古書「周礼(しゅらい)」の記述を基に、中央部に宮城を配した(中心部から三六〇度見渡せる造り)整然として理想的な造営方式を取り入れた藤原京が誕生しました。 しかし、僅か一六年の遷都期の後、都は平城京に移されることになります。その理由は、都の水資源の確保が難しくなった事と、当時、主流であった長安の都の様式を取り入れた最新の都造りを急いだからだと云われ、新宮城を都城中央北部へ配し、南向きに京城を見渡す造りに改めました。その南には壮大な都の入り口朱雀門を構え、中央を大極殿に至る南北三km道幅七〇mの公道「朱雀大路」を引き、両側には役所など七~八千人の務める多くの建屋が置かれ、儀式や宴会が執り行われた「日本庭園の原型」といわれる東院庭園が配されていました。 その後、七八四年に、七四年という政務を終えて都は桓武天皇に伴われて長岡京に遷る事になるのですが、平城京去都前にして、目まぐるしく三ヶ所の移宮を繰り返しているのです。七四〇年に恭仁京へ、七四四年に難波宮へ、七四五年には紫香楽宮と、迷走遷都とでも云うべき意味不明に捉えられるような事業を行ったのです。一説には、国家的プロジェクトとしての首都圏構想を抱いて、転籍した地にネットワークを敷こうとしたとの見解もあるようです。 こうして、平城京での七四年の遷都期を経て、日本の幼年期とも云える飛鳥・奈良時代を疾駆した奈良での歴史は、京都平安京へと引き継がれる事になります。この慌しい遷都期を率いた天皇が聖武天皇であり、それを支えられたのが光明皇后です。私見ではありますが、歴代天皇の中でも、足跡と波乱万丈な政務を熟された面を鑑みれば、功績は多大であったと思うのです。 飛鳥京から平安京へと遷都する短期間に行った数々の足跡の内でも、第一の功績に「大仏建立」が挙げられると思うのです。これは、天下の混迷を糺す為であるのと、当時蔓延していた疫病平癒の願いを仏に託す為でした。その強い勅願によって日本全国から集められた資材・人材・資金を得て、国中を巻き込む騒動となった大事業も、発願以来九年(七五二年開眼供養)の歳月を経て成し遂げられたのです。確かに、律令制の制定・国史の編修・位階の改訂・八色の姓の制定と、天武天皇は後の朝廷主権基盤を構築されましたが、衆生へ向けられた政策は少なかったように思いますし、天智天皇は大化の改新から中央集権支配の基となる租・庸・調、等の制定を行いましたが、何れにしても、暗殺や継承争いという血生臭い側面を持ち合わせていることから、後記にさせて戴いた次第です。補足的に、藤原仲麻呂が唐に倣って儒教を基に朝廷政策を制定させ、歴史編纂などを手掛ける等の業績も残しましたが、ここでも、仲麻呂の乱による汚点(史実解釈の相違による事実誤認かは解析不可能であり、国導を志す方便が理に敵っていたか、現時点では知る術がないのです。)によって、説明止まりとさせて戴きます。そして、決して忘れてはならないのが、飛鳥朝廷に推古天皇の皇太子として摂政を務めた「聖徳太子」の足跡ですね。 「憲法十七条」「冠位十二階」を制定(近年の解釈には、朝廷内で定められたとの見識も在るようですが。)し、天皇主権政治を推進しました。そして、法隆寺を初め各地に著名寺院を建立するなど仏教の興隆に尽力しました。そして何よりも、その自らの偉業から衆生にカリスマ的な存在感が周知され、崇敬と憧憬の念を以て信奉を集めたのです。それに因って人々の心に安らぎをも齎したのです。外交政策では、「小野妹子」を遣隋使として派遣し、新羅征討を有利にする為、先進文化を取り入れる為の施策を行いました。「和を以て貴しと為す」は余りにも有名なご法語で、現在にもそのご遺志は日本の良心として継がれております。<都は京へ> 七八四年、都は長岡京へ遷都するも、僅か十年という短命の期間を経て、七九四年に平安京へ都は落ち着くことになります。 桓武天皇を頂いて、南北5.2mの朱雀大路を境に南向きに、右京・左京と分け、東西4.5mの碁盤の目状に区画整理を行いました。右京・左京共に縦横に大路と小路で南北を九条、東西を四坊として、 その後、右京は衰退、左京は鴨川から東山にまで連なるようになる発展を見せました。<文化の変遷>此れまでに両都の築き上げた文化を辿るため、日本の歴史を千八百年ほど遡ります。邪馬台国の女王卑弥呼が、二三八年に魏国(現中国)への遣使を遣わした(それ以前、奴国王が後漢の光武帝に使者を送った記録もあるようですが、金印を授かる旨の記述には疑問があるようです。)ことにより、親魏倭王の称号とともに魏志倭人伝に記されていることは、皆様ご存知の史実です。 それはつまり、古代より近隣国との交易が行われていて、様々な文化の影響を受けた事を意味しており、実際、様々な人材の渡来によって生活形態が向上し、新しい技巧の導入や改善により技術が改善されていったのです。<文化の変遷、衣>両都が都としての成育を推し進め、生活水準と社会形成の拡充を図るために、巧みに異国文化を取り入れていった過程を詳(つまび)らかにすることで、賢く開花していった状況を訪ねたいと思います。初めに、飛鳥時代以前の人々の風俗風習を知り、これから両都が辿る変遷を紐解きます。衣類は、狩猟で得た毛皮や粗雑な布で織ったワンピースの様な装束で、弥生期になると、女性は貫頭(かんとう)衣(い)というポンチョ状の布をスッポリ被り、男性は袈裟(けさ)衣(い)と呼ばれた片肩から通した布を前で、共にお腹の辺りを紐で結んで留める装束でした。古墳時代まで進むと大陸の影響も濃くなり、役人になるとチマチョゴリに似た衣裳(きぬも)と云う上衣を身に纏う様になり、女性はスカート状で男性はズボン状の足結(あゆい)と云う衣褌を穿く様になり、その時代は右前合せだった様です。農民の衣類は、一枚の粗雑な布を夏季は日除けに、冬季は寒さ避けに適した工夫を凝らして着用していたようです。飛鳥から奈良時代になると、絹など繊維の生産能力が上がり、織物や染色の技術が向上し、貴族や役人などの装束は飛躍的な改善がなされて、此の頃には現在に通ずる左前合わせに変わるのです。また、冠位十二階に示される官職識別により、上質な織物に彩色を施した装束が、皇族・貴族の装束と共に、中国(隋)などの影響を受けて、礼服・上服・平服の三種が制定されたのです。<文化の変遷、食>それでは、次に食と住の状況を検証したいと思います。弥生時代では稲作は少なく、団栗類と共に大麦・小麦と稗や粟を捕食としていた様です。一方の住居は、農民は竪穴式住居に暮らし、役人は板塀に囲まれた木造小屋に執務し、近くの木造住居に住んでいました。此の頃には、後の飛鳥京以降に続く都造営の構想をしていたのではないでしょうか。飛鳥・奈良時代に移ると稲作が発達し、農耕時代となり、瓜類・果実類の栽培が食生活改善を飛躍させ、海産物の豊富な資源から漁業の活性化に因って魚中心の日本独自の食文化が形作られます。奈良時代に、「鑑真和上」が中国から渡来した折に日本へ持ち込み普及させたものは仏教のみならず、後の日本の食文化に多大な貢献をされ、「味噌」を始め、「豆腐」「納豆」等の大豆食品を普及させ、その後に続く様々な人々の手に因って多種に亘る食材が齎される礎となられたのです。<都の開花>両都は、大陸で培われた都の造営技術ならびに統治機構を手本として、それを凌駕する大和国の造営に邁進しました。奈良は、日本初となる大陸の文化・文明・思想を日本流に取り入れ、天皇を最高権力者であり日本の象徴として世界に鼓舞する中央主権政治の確立と京城の造営を果し、国内の治安を平定させました。それと共に、朝廷内には十二階位と十七条憲法の制定に因って、規律を整然化させる事で上下関係の認識が図られ、夫々の役職に在っての分際と参画意識を持たせる基盤を構築したのです。更に、衆生に在っては、朝廷の政治指導が機能する様になって日常生活に安定が齎されました。更に、仏教を布教・浸透させる事で人々の精神的な拠り所とし、日常生活から不安を取り除き生き甲斐を持たせる事ができました。京都に遷都され、また、その後の日本国興国隆盛に繋がる礎となり、奈良は日本の顔となったのです。京都は、奈良から受け継いだ天皇政治と王朝文化を融合させ、独特の雅を育み、粋や侘び寂びという精神文化と貴族文化を生み出し、花開かせていったのです。雅とは、凛とした威光と静謐な厳粛を根幹に持ち、連綿と培われた文化の一つの栄華を称辞するものです。平安王朝文化は天皇家を中心に、貴族や重臣、後には武家の台頭による様々な需要を満たす為、あらゆる職種の職人が都に呼び集められました。 そして、既存の職を補い、より複雑・高度化し熟練度を要求される技量と、増える需要に応える為に職の細分化と専門職を整備しました。夫々の職人が切磋琢磨してその技法・技術・精度を卓越した域までに高めていったのです。
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何故、奈良・京都へ(中)
<神社と寺院の違い> 奈良・京都を訪ねる主な目的から寺社仏閣巡りを切り離しては考えられません。何故なら、飛鳥時代に大陸を経て奈良の都に伝来して以降、仏教は奈良の地に根付き荘厳に育まれ、京都の都で優雅に開花した心の安寧の象徴なのですから。したがって、神社と寺院を楽しく有意義に拝観する為には、その成り立ちから違いを知る必要があります。ですので、此処で微識なりの講釈にてお示しをさせて戴きたいと思います。取り敢えずその違いを端的に表現しますと、神社は祭神という数多おられる中の神様をお祀りし、お仕えする神主などの神職者によって保守され、参拝者は庇護と加護を祈願しニ礼二柏手を以て祈りを捧げます。寺院は仏像をご本尊様と崇め、僧侶がお勤めと称して修行勤行によって教義を会得する道場であり、衆生(一般人)が心の拠り所として集い、先祖からの墓を(墓地を有しない寺院も在ります。)庇護し、自らを見つめ明日の糧を求める聖域なのです。祭神と神社の関係 神とは、畏敬の念を抱かれ参拝される対象であり、所願の祈念を聞き心の安寧に導くため、そして、ご託宣を授けるために鎮座されて居られます。神社とは、天照大御神を頂とするご祭神(多くは御影がありません)や、八百万の神々をお祀りする為、自然神をお祀りする為に建てられる居屋ならびに、神域敷地内を云います。また、七福神と並び、神格化された人神(菅原道真公など)をお祀りする社があり、御影を祀る事があります。 七福神は神として祀られていると思いがちですが、民間信仰にはその境が判然としないことや、或いは、インドの神々が釈迦の導きによって仏教へ帰依した(宗教の教義上の説)ように、日本へ渡来以降、寺院に在っては、そのご利益に与る為に礼拝仏としてお祀りする事もある様です。神職の階位と職階 飽く迄も、神社は「神が降臨する御座所」として存在します。そして、ここでご説明する神社とは、天照大神を始祖とする天皇家歴代のご先祖様をお祀りする拝所を指します。但し、古代より、歴代皇族のご遺体は、古墳を経て後には陵墓に埋葬されております。しかし、個々の古墳や陵墓全てを参拝する事は不可能であることなどから、伊勢神宮を造営し総ての御霊をお祀りすることで拝参を行える様にしたのです。したがって、神社に参拝するということは、必然的に日本の象徴である天皇家の安寧を祈念し、その国民である我々個人、ならびに、家族の平穏を祈願するという図式になります。主義や思想を除外して考えるとき、如何にも日本的な成り立ちだとは思えませんか。それでは、神職の説明に入ります。仕える人々は神職(神主)として、職称を「宮司(ぐうじ)」「権宮司(ごんぐうじ)」「禰宜(ねぎ)」「権禰宜(ごんねぎ)」の呼称を持つ職階と階位で役職を区分されますが、次に、職階と階位について触れさせて戴きます。職階と階位の関係について。 *宮司は神社の責任者、権宮司は副代表者となります。*禰宜は宮司補佐。権禰宜は一般職となります。*職階の上位者が神職としては地位が上となります。例…明階の禰宜より、正階の宮司の方が神職としては上位です。ご承知かも知れませんが、一般人は神職に就く事が出来ません。神職になる為には、神職養成機関である所定の高等課程を修了す ることで「正階」を授与され、その後、二年間の神社奉仕と各種研修を経て「明階」を授与され昇階します。それ以外では、検定試験を受験し授与される方法があります。但し、大卒以上の学歴・学識を有し神社本庁の推薦を得なければならないため、容易に受験は適いません。
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少々逸脱しますが。今日では総称して神社と呼んでいますが、神社そのものは、本来、伊勢神宮を本宗とした宗教法人である「神社本庁」を機関として末社に至る八万有余の傘下の呼称でした。また、現在では目にすることのない、第二次世界大戦後に廃止された「社格」は、その歴史や由緒を知る手掛かりとなるのですが、標石を消された痕跡などで垣間見る事が出来るかも知れませんし、由緒書き(パンフレット等)などに記されていることも有ります。皇族に関係する「官幣、大・中・小社」、国土経営に功のあった祭神を祀る社に与えられた「国幣、大・中、小社」がそうでした。そして、神社名を標示する際、「□□神社」とある場合、「□」が社名で、「神社」が社号となります。続いて、神宮→宮→神社→社となります。時に判り難い神社系譜そのものを分類してみます。「氏神社」とは、氏神様と呼ばれた古代社会の氏族の守り神であった当時の名残でしたが、時代と共に変遷し、現在では人々の生活に融け込んで一般に崇拝・参拝されています。 現在では、出雲大社教などの復古新道教と、伏見稲荷大社・靖国神社・日光東照宮などと「単位宗教法人」の多様宗教法人が存立しますので、次に、主だった「単位宗教法人」の分類をします。表のような祭神を祀る神社や、その他の社教が割拠し、日本の神教を興隆させております。
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<仏の説明>此処では、「如来」「菩薩」「明王」「天」「諸尊」と分類して表記し、仏には夫々ご功益を与える為の道具や武器などを携えておられますので、併せてご説明致します。 此処に記載以外にも、七〇尊の如来がおられますが、一般的に知られる五尊をご紹介致しましたのでご了承下さい。
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天部・明王部に属する仏は、バラモン教から仏教へ帰依した神々がその大半を占めていますが、その殆どが仏陀(釈迦如来)に諭されて仏教の守護をするようになったとされます。
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<仏教の世界観>仏教に於ける世界観を説明する場合に「十界」と表現し、その内の私達の居る世界を迷界の輪廻六道と定義し、「天界」、「人間界」、「修羅界」、「餓鬼界」、「畜生界」「地獄界」と説いております。それを基に「輪廻転生」説(生死が繰り返されるとして、生前の行状から次生での道が定められ、その生涯を辿る宿命を背負わされるという考え方。)に法られた人生が展開されると教示されます。そして、その上階にある悟階(四階)へは悟りを啓かない限り、 六道での輪廻転生を繰り返えすのだと定義しています。この教義は、いわゆる宗教上の示唆であると受け流すか、受け止めるのであれば、人生教訓としての部分で今後の人生展開に反映させればよいのだと思えますが、此の項で「個々に生じる恐れのある」疑念は、宗教哲学とする僧侶の研究対象であって、人生哲学とも通じる性格を具える難問ですので、飽く迄も教義として受け止めて戴きたいと存じます。抑々、仏教は、仏に縋れば極楽浄土へ行けるという教示の下に日本に根付き普及した思想です。そして、安息と生きる糧を授ける為に衆生の集う場、心の拠り所として建立されたものが寺院です。当然、神社にしてもその要素はあります。また、優れた仏教を日本に普及させようとしたもう一つの願いが、僧侶が悟りを得る為(仏の教えの極みを求める)の場として、数多くの様々な教典や仏像を収める道場としての面を併せ持っているのです。寺院とは、僧侶が仏門に教えを乞う場であり、修行場であるという原点があるということをご理解になり、その上で、私達にご利益を授けて下さり、また、苦悩を取り払って下さるご慈悲が戴けるのですから、粛々と拝観なさって戴きたいと思います。 寺院の施設ご本尊を安置する建屋を本堂と呼び、禅宗以外の宗派の悟りを啓く為の修練の場です。禅宗では、ご本尊を安置する建屋を方丈と云い、悟りを啓く為の修練場を「法堂」と呼びます。座禅修行が主になりますが、どの宗派でも目指すものは一緒ですので、方法論を語るのは差し控えます。寺院の場合は、ご本尊へのご奉仕、ならびに、僧侶自身の修行と共に、衆生(私達一般民)への説法という務めがあり、法用の務めもあります。そして、伽藍(寺院施設の建屋で、鐘楼・五重塔等)も多いのです。
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<守り本尊>私達が仏様に祈念をする、お導きを戴く為の対象仏を、「守り本尊・お守り」とお呼びします。 しかし、ご自身の「守護仏」である仏様をご存じの方は、意外と少ないのではないかと思いますが、あなたは御承知でしょうか。多くの方の場合、干支と生まれ年で定められていますので、次に、干支による仕訳表にしてご説明したいと存じます。*今表は、守護仏と守護神のご紹介をさせて戴き、ご利益につきましては略記とさせて戴く事をご了承下さい。
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<宗派の説明>宗派とは、示唆する教義(宗教上の教え)に基づく信仰基盤の総称であって、内部で更に細分化されている分派も存在する様です。それでは、主だった宗派をご紹介しますと、「浄土宗」「浄土真宗」「曹洞宗」「天台宗」「真言宗」「臨済宗」「華厳宗」「黄檗宗」「日蓮宗」「時宗」「律宗」「融通念仏寺」「法相宗」等が挙げられます。その内の、「臨済宗」「黄檗宗」「曹洞宗」が三大禅宗と呼ばれ、禅を通じた修行が行われます。また、「天台宗」にあっては総合的な宗教であって比叡山の延暦寺に宗祖「最澄」を祀り千年以上灯明を絶やすことなく灯し続けておられます。そして、この禅宗寺院は特に京都の大寺院に多く見られ、枯山水庭園や茶室を設え、多くの塔頭(寺域の中にある同宗派の小院)を抱えています。因みに、京都五山という表現が在りますが、これも禅宗の臨済宗に於ける寺格を示すもので、鎌倉時代の京都に於いては足利幕府と反目する大徳寺と妙心寺を政略上から除外して、別格に南禅寺、第一位に天龍寺、第二位に相国寺、第三位に建仁寺、第四位を東福寺、第五位は万寿寺を制定した事に始まったものです。また、夫々の宗派に基づき修行の御法も教義も異なりますので、必然的に、用いられる教典や寺院の建築様式、さらに伽藍配置などについても変化が生じてきます。余談ではありますが、最澄の下に比叡山延暦寺(788年建立の天台宗)で学んだ法然上人が、浄土宗の知恩寺を初めとする寺院創設の基を築き、法然上人の教えを受けた親鸞聖人が浄土真宗の開祖となり、後に、娘の覚信尼に因って西・東本願寺が開創され、夫々、京の都で布教をする為に開創したのが二宗の始まりとされますが、その間には二上人共に宗教弾圧による配流の憂き目に遭い、異土にての布教をしたとされています。その後、両宗は名僧の功績を得て分派を伴う形で、皆様ご存知の発展を遂げるのです。僧侶の職制寺院は、衆生の心の拠り所としての仏教を広める為に、その象徴となる「仏像」を拝謝する施設として、聖徳太子が広めた聖域です。その後、僧侶が仏教教義を学び知識を深める為に更に多くの寺院が建立されるのに伴い、その教えを授ける為、授戒をする為に高僧が日本に渡来されて仏教の興隆が成されていきます。寺院に仕え修行する僧侶の称号と僧階についてご説明したいと思います。現代日本では無戒で僧職を営む祭祀者が大多数を占めており、慣習で僧侶と呼びますが、比丘・比丘尼(びく・びくに、仏門に帰依し具足戒を受けた男子・女子)の定義からは誤りとなります。仏僧になる為には、その宗派の師僧の下で得度・度牒(男子が得度、女子は度牒)を授かり、一生を懸けた自己の開放(無心を悟る)を得る修行に努める誓約をすることになります。前述以外での僧侶資格を得るためには、夫々の宗派の教義を学ぶ為の教育機関が存在し、その科程の修了証書を授与される事でその宗派の僧侶となり、適合する僧階を与えられます。ですから、宗派に属する僧侶となるため授与後に他宗派への宗派替えはできませし、教義が異なる事から、その宗派の僧侶と為るべく門を叩くのですから、その選択肢の考察は無用だと思いますが、若し、後に改宗する場合には、現宗派からの退宗許可を得た上で、当該宗派の入宗認可を得る必要があるかも知れません。その一連の手続きを踏んだ後に、その宗派の教義科程を受け直し、長時間を懸けて僧位を習得することになります。補足になりますが、「得度」ではなく「私度・自度」は、個人的に行うもので仏教界には認知されません。「廃仏毀釈」以後、戒脈は途絶え、戒を受持する伝統宗派に僧伽(そうぎゃ・サンスクリット語でサンガ)は存在しません。
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次に僧侶の称号を表にしてご説明します。僧侶は格に因って法衣の色が定められておりますので、外見上からも識別する事が出来ます。
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<神社と寺院はどのようにして造られたか>先ず、神社と寺院の違いは前項でご説明致しましたのでご存じとは思いますが。少し触れさせて戴きます。神社は、既に、紀元前に社が構えられ信仰されていたことを古書、および、由緒書きに見ることができます。民俗信仰または自然神信仰が一般的であったと「渡来文化の影響」の項で記しておりますが、民俗信仰の場合にあってはご先祖様を、自然神信仰にあっては、自然に存在するものが対象ですので、標柱を立てるか注連縄を張るというお祀りの仕方だったようです。寺院は、「渡来文化の影響」の項で記述した、五三八年に向原の蘇我稲目邸に仏像を祀ったことが初めとされております。 神社と寺院を外見上で判別できるのは、結界(境内と俗界を分ける境界)の入り口に見えます。神社には鳥居が立ち、社域を玉垣で張り巡らされます。寺院には山門(宗派により三門と呼ぶ)が立ち、寺域を漆喰塀か板塀で囲みます。明治以前の神仏習合社(神社とお寺が同居)がその儘の状態で現存する。或いは、破壊されず残った場合はその限りではありません。神社にお祀りされるのは祭神で、神殿になります。天照大御神をご祭神とする神社と、出雲大社・靖国神社・明治神宮等の鳥居を含む外観は、簡素な板壁に囲まれた観音開きの扉を備え、屋根は、きわだ葺き・藁葺・瓦葺がありますが、それ以外の神社にあっては、「青丹よし」の、朱色と緑色の鮮やかな彩色を施した社も沢山有ります。補足しますと、合祀という表現がありますが、これは本来のご祭神とは別に、後に祀られたご神体を供にお祀りする事を云います。寺院にお祀りされるのは主に仏像ですが、ご本尊として曼荼羅を掲示される寺院もあり、「本堂」または「法堂・方丈」(禅宗)になります。また、個々の仏像を祀る為に建てられたお堂や、大寺院の山門(三門)内にお祀りされる姿が見受けられます。そして、その山門(三門)内の障壁および天井には極彩色の画が描かれていることが多く、他の回廊・伽藍についても彩色や画の描かれる状況が見られます。因みに、法堂の天井画には龍を描かれるケースが多くみられます。その理由は、龍が水神として崇められている事と関係し、火難防止を祈念して描かれているのです。寺院・神社の運命お寺や神社には、様々な背景や事情があって、その規模や寺域の移転を余儀なくされて現在地に在基されている場合が結構多いのです。武家統治が終焉を遂げ、明治新政府確立により神道国教化政策の下で、仏教界に於いても国民共有財産の損失としても悲劇的な出来事が「神仏分離」「廃仏毀釈」政策であったと思います。廃仏毀釈…廃仏=江戸時代末期から(明治初年)、神道、儒教の学者による神国思想鼓吹により寺院や仏像の破壊行為が繰り広げられ、更に、明治新政府による「神仏分離政策」によって、それまで仏教に圧迫を受けていたと考えていた神職者たちによる仏教の排撃(寺院・仏像・仏典・仏具の焼却や除去、そして僧侶の還俗強制)が行われました。毀釈(1868年・慶応4年)=釈迦の教えの排意。今、人気となっている仏像に興福寺の阿修羅像がありますが、こちらのお像もその時に損傷し、廃棄や売却の憂き目に遭う難を逃れた経緯を持たれています。皮肉なことに、この後に日本近代仏教は覚醒の好機を経て形成されてゆくことになるのです。
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<寺院の称号>門跡寺院…皇族男子が歴代の住職を務める寺です。門跡尼寺…皇族女子が歴代の住職を務める寺です。*共に目印として、外壁を肌色で染め、横に五本の白線が入ります。そして何処かに菊の御紋が入ります。ここからは一般寺院の説明になります。一般的には、「○○山」→「○○院」→「○○寺」と命名される事が多いのですが、「○○山」→「○○寺」、または、「○○山」→「○○院」と名付けられている場合もあります。但し、奈良時代以前に建立された寺院にあっては、山号も院号も見受けられません。それは、その時代以降に普及した制に因るものです。山号…もとは、その寺院が所在する山の名を寺の呼称としたもので、寺号の上に表記されます。院号…皇族・将軍が建立した寺院を「院」と表名されましたが、現在ではその規定もなく、大寺院塔頭の寺名に用いられている他、一般寺院名にも用いられる様になっています。寺号…建立者の意匠を寺名として掲げる事が多く、その教義を示すことが通例です。幕府による宗派統制江戸幕府は、仏教教団統制を目的とする蝕頭(ふれがしら)を設置する事で、「本末制度」により十三宗(「宗派の説明の項」に掲載)五十六派の掌握と統治という目的を果しました。寺院の組織一宗一派の根本道場を本山と称し、連なる寺院を分院・末寺と云いますが、格式によって総本山または大本山を設ける宗派もあります。これまで、多くの寺院が改宗や荒廃を経て、寺名を改めざるを得ない事態が発生したため、現寺院名が建立当時とは替わっている場合があるのです。寺院はどの様にして開創(建立)されたか。天皇ならびに皇后の勅命によるもの、将軍および縁者の命によるもの、大名または正室の請願によるもの、仏僧の発願によるものが主な発端ですが、事由については菩提を弔う為というものが多く、古くは国家鎮護・疫病平癒を祈念して建立されました。特に、京都に在っては、貴族の邸宅や別邸を、後に寺院に改めたものが多くみられ、雅の世界観もこういう意匠が一端を担っているのではないかと思えるのです。寺院の構成宗派によって建造物が異なることがあり、同じ用途でも呼び名も変わることがありますので、此処では禅宗とそれ以外の宗派に分類・対比して概略のご説明を致します。<禅宗>塔頭…本寺を囲む寺域に点在する小院及び、点在する分院。 伽藍…本堂以外の建造物を指します。庫裏(厨房)・鐘楼・東司(トイレ)・山門(三門)・舎利塔・五重(三重)塔・浴室・方丈(住まい)・法堂(修行道場)。庭…通例は枯山水庭園で、池は作らず石組みと白砂の組み合わせにて、草花と苔などを用い、疑似山水を表現します。他宗派本堂(御影堂とも呼ぶ)・修行を行う道場・山門(三門)・鐘楼・方丈・経蔵(お経を保存)・庫裏・方丈・本尊を別途祀る堂も。庭…池泉庭園または池泉回遊式庭園が主流です。禅宗・他宗派の伽藍についても其々の意匠意向に於いて書院の形態や庭の鑑賞趣向も工夫が為されており、時間をかけても好い拝観の際の見所かと思います。<京都の地域表現>京都市中は碁盤の目と表されますが、北へ向かうことを上る、南へ向かうことを下ると表現します。東へ行くことを東入る。西へ行くことを西入ると表現します。通りの名前も北から南に向かって例えば、まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう、と言った「丸」「竹」「夷」 「二」「押」「御池」の頭文字を歌にして伝えてきたのです。京都御所を中心に南向きに東側を左京区、西側を右京区、北側を上京区、南側を下京区と呼びます。京都は、政治と王朝文化を融合させ、独特の雅を育み、粋や侘び寂びという精神文化を生み出してきました。したがって、その違いを体感する、或いは、見つめるといったことをお勧めしたいのです。但し、その千二百年の歴史が示す様に、京都人は甘くないのです。少々の知識をひけらかして知ったかぶりを気取ると、鼻の先で笑われた挙句に嫌われて、体良くあしらわれるか相手にされずに、箒を逆さまに立てられて嫌われます。最も嫌われるのは、常識の無い人間と物を大切にしない人間、そして、理性のない人間です。一言でいうと、それが、歴史を培ってきた人たちの阿りの無い品格と云うか、美学なのです。ですから、「一見お断り」や「愛想が無い」とみえる所為は、京都ならではの気品であり風格を形成してきた土台なのです。そこにも憩いの要素は潜んでいるのかも知れませんが。然し、ものは考えようで旅行者にしてみれば、対等の立場である筈なのに、宿や料亭が客を選ぶというアンバランスな風潮は本当に正しいのかを奈良も京都の関係者も一考の要があるのではないかと思うことも否めないのですね。
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何故、奈良・京都へ(下)
<奈良・京都の旅を嗜む>奈良・京都と云えば、寺社仏閣巡りを主体とする観光がどうしても思い浮かびがちですね。当然、それ以外にも、史跡や歴史的建造物拝観・書画鑑賞・名庭園観賞・博物館巡り・漂う土地の風を嗅ぐ街の散策・自然景観の観賞目的・貴重な祭事や行事の見分・風情や情緒を体感すること等々といった、時空を超えて古に思いを馳せる時間に浸ることであったりするのでしょう。或いは、そこに息づく伝統芸能や研ぎ澄まされた匠の技の継承から、培われた持て成しの意匠に触れることを楽しみにされるのかもしれません。それ等は、奈良・京都を愛し、それぞれに縁の下の力持ちとして影で支えた歴々の人々の手により可能とされてきたもので、温故知新を慈しみ、過去と現在が調和して日常に息づく裏には、その意義を継承し途切らすことなく、連綿として受け継がれる穏やかな意思が相伝されている事をご賢察の上で、両都を訪ねて戴きたいと願うのです。東京に遷都された後、京都の町は荒廃の憂き目に遭おうとしておりました。然し、その境遇を有力者知識人の叡智を以て好転させる新境地を齎す事業が開発されたのです。 それが、琵琶湖から京都市中に水を通し、海産物を始めとする物資の輸送を船で展開させ、水力発電を利用した電灯と軌道電車を走らせる事で活気を蘇らせたのです。現在では、船の往来こそ潰えましたが、疏水の潤いは現在に脈々と受け継がれ、多くの寺社や庭園を潤しています。【特別な拝観をする】 ○御所・離宮 京都には、合わせて四か所の御所と離宮が在ります。その内、仙洞御所は京都御所の中に在り、拝観を希望される場合には、京都御所の拝観願いとは別に拝観願いを提出し、許可を得なければなりません。また、離宮の拝観を希望する場合も、宮内庁宛てに往復ハガキにて所定事項を記入の上許可を得なければなりません。こちらが皇室関係の特別拝観施設です。京都御所 仙洞御所桂離宮修学院離宮 ○事前許可が必要な寺院 西芳寺(通称苔寺)は、直接往復ハガキなどにて拝観許可を得なければならない。○城奈良にしても、京都にあっても、存在した城郭は三十を優に超える数を控えていたのです。当然、栄枯盛衰の常にあって衰退の憂き目に遭い現存するものは僅かしかなく、現実に、この両地でも幾多の戦が繰り広げられた痕跡を知ることができるものは、城跡公園や史跡・石碑のみとなってしまっており、平和な現在に在っては歴史の証人としての存在を示しているのです。しかし、その生々しい歴史の傷跡や多くの遺構から、特に伏見城から多数の残材を幾つかの寺社に血天井などとして移築し、また、戦での焼失を免れた門などが拝観可能な状態で保存され現在に蘇っています。京都の繁栄京都は、政治と王朝文化を融合させ、独特の雅を育み、茶道から華道を通して香道等の、道と呼ばれる粋や侘び寂びという精神文化を生み出していったのです。したがって、その違いを体感する、或いは、見つめるといったこともお勧めしたいと思います。【観光施設(名所・旧跡・庭園・寺院・城跡)拝観諸注意】 取り分け数多い施設といえば寺社仏閣になりますが、全てが拝観可能という訳ではないのです。そこで、拝観可能な寺社仏閣についての拝観方法を説明します。一、観光寺院…清水寺に代表される、常に有料にて拝観できる寺院。二、開放寺院…平安神宮・大徳寺等の、境内の拝観は自由で、塔頭や庭園については非公開である場合が殆どです。三、非公開寺院…通常非公開な寺院です。四、拝観謝絶寺院…一般のお寺で、墓地を備えたものが多いです。五、非公開寺院…通常非公開です。「但し*事前交渉」にて拝観を許 可される場合があります。その際の拝観料は不明 ですが、心付けは心掛けたいものです。六、特別拝観…御所や離宮、西芳寺(苔寺)では、事前の拝観許可申請が必要となります。*事前交渉は、直接当該寺院に電話等にてお確かめ下さい。*特別拝観許可申請については、御所・離宮は御所内の宮内庁所へ、往復はがきにて申し込む方法と、インターネットによる申請方法も最近では増えてきているようです。拝観注意事項一、写真撮影…注意事項として受付場所に表示されます。① 写真・ビデオの撮影が容認されている場合は、機材で建造物や施設を荷物などで傷付けぬよう十分注意し、他拝観者の見学の妨げと為らぬように心して下さい。②三脚の使用は、禁止されていなければ庭や苔や建物などの施設を傷つけないように注意しなければなりません。 二、仏像拝観…一期一会と云いますか、何回、拝みに参られたとしても、仏様の表情はその度に違います。それは、拝む私たちの心境で変わるのであって、仏様は、私たち夫々に写し鏡のようにお姿を見せるのです。そこから、自らご自身の為すべきことを知れます。*お数珠の持参をお勧めします。 三、庭園拝観…殆どの庭園は順路に沿った拝観となっており、定められた通行規定を守り進みます。進入禁止や立ち入り禁止区域は元より、苔や草花を踏 む事は厳に慎まなければなりません。四、荷物…建物・設備・貴重品・調度品・絵画・仏像・等々の様々な国宝や重要文化財を拝見するのですから、絶対に損傷をさせぬよう充分注意しなければなりません。その為には極力手荷物は持たない方が安心ですし、行動にも自由が利きます。【主な行事】○奈良の行事若草山山焼き修二会(東大寺のお水取り)春日若宮おん祭り鹿角伐り春日大社万灯篭大仏お身ぬぐい正倉院展○京都の行事葵祭(賀茂祭) 茅の繰り 祇園祭 五山の送り火明治以前には西方に更に幾つかの送り火が存在していた様です。時代祭鞍馬火祭り壬生狂言 千灯供養 三船祭 朮参り京都五社巡り東の八坂神社西の松尾大社北の加茂別雷神社宮南の城南宮中央の平安 【両都の特筆したい人物】○奈良鑑真和上行基○京都角倉了以 山縣有朋 ○その後の両都に関わり尽力した人物アーネスト・フェノロサ 岡倉天心…仏像の保護・保存を行った。棚田嘉十郎…平城京跡の保存・再現を、資産を擲って訴えた。犬養 孝…明日香村保存に貢献した。
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法律・政治
司法に携わる判事・検事・弁護士と、夫々の聖務を全うしていないことを認識せず社会に混乱を齎すのだ。判事は判例と照らし合わせて判決処分を下すと言い、自己判断を下す事を避ける。検事は、罪状と求刑を社会的な反響を踏まえない様な、量刑の不鮮明な告訴もする。弁護士に至っては、罪人の受けるべき処罰を軽減させる、有ろうことか明々白々な罪人を無罪などと主張し、誤った判決を受けさせた結果を「有能な弁護士」と云う看板に飾る。 法を整備し司法の行政を統括するのは政府の務めですが、現状の罰則適用に破綻が起きている事態に、緻密で迅速な対処が為されていないことが憂慮されるのです。無免許運転や飲酒運転で事故を起こしても軽量刑で済まされる、詐欺など社会秩序を営めない性質の人間の刑罰が甘い、これらに匹敵する状況の刑期(死刑を含む)や罪罰の厳然とした改訂が為されなければならないと考えるのです。当然、判事・検察官・弁護士は「慣行に捉われず」信念を持った判決に導く勇気を示して欲しいですね。与党政治の在り方に欺瞞や不遜な行為が見られるのは昔からなのですが、社会一般人の不満本音を正面から向き合わない、目を背ける事態は不信を拡大させ信頼を損なう背信行為となります。首相の役割尊厳は、国民に危惧をさせてはならない事、一挙手一投足に目が光り、過ちを隠そう騙そうなどと国民の目を疎か愚弄しては足元を掬われ更迭の憂き目に遭うやもしれません。 方や野党の言動にも不満は否めないのですが、第一に、声高に自民党をぶっ潰すと選挙戦でも気勢を上げますが、野党に、政権を担える政党は存在しません。其れは、ご自分達が一番認識している事です。何より不愉快な行動が、概ねの質疑に対して、反対のための反対、つまり、自政党の存在を会議場に評価させる為、与党の政策を悉く廃案に持ち込む為の悪意の仕業で、とてもその様な政党を支持したいとは考えられないでしょう。それ以上に不遜な行動が、在任中に政党を変る事、政治姿勢を転換したり支持者の意向を無視・無にする事です。
- 34 生活を考える (2)
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教育
教育の責任本分は両親に在ります。是は自分達の子孫を社会に任せっぱなしの無責任な人間にとって反発を生む表現でしょうが、負んぶに抱っこ体質の不逞の輩と呼ばれて然るべき存在であると認識しなければ、あなた方の子孫の繁栄は在り得ません。哀しいかな、現在の日本に頼りとする人間は一握りの僅かな人達しか見当たりません。社会を維持できるのは、個々に与えられた義務の遂行であり、其れを全うできなければ、社会から個々の庇護を受ける権利は省かれて世捨て人として疎外されても仕方ないのです。我が国に於ける道徳とは、個人を生かす事で安寧を保ち、安寧を保つ為に個人が義を尽くす事で衆生が守られるを理とするのです。然して、教育の本質は個々の在り様が其の行く末を決める。子孫に人間としての素養と忍耐と知識を授け、学習教育を受けられる土台を育んだ後に、国に其の行く末を委ねられるのです。
- 35 生活を考える (3)
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治安
昔から、日本はスパイ天国と世界中から揶揄されるほど出入国が容易な国ですが、犯罪発生件数も検挙率も世界でも秀逸な状況を顕示して居ります。今、一番危惧されるのは尖閣諸島への中国からの領海侵犯と日本領海内での海洋資源の侵犯掘削行為です。赤い舌領海の主張と一帯一路構想を展開する中国の暴挙で、東南アジアを巻き込みアメリカ軍備が介入する事態を招いていることが不穏要素なのです。
- 36 生活を考える (4)
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生活
今の日本には、職人の活躍できる場が狭められているのですが、それは、商品に対する適切な評価が為されていない事と、価格の不当な値下げを行う事に因って起こった現象なのです。安売りや値下げ競争は職人を侮辱する行為であり、それらに群がるのは、自らの職を奪う行為であり社会から働き場所を無くす所業なのだと気付かなければ生きる術さえ失わせるかもしれません。価値観の喪失ならば、もう一度昭和の活気のあった生活環境を思居返して、自分の行動を見直してみませんか。昔から「安物買いの銭失い」と云う諺があります。銭だけではなく仕事も失うかもしれませんからね。 世界的な見地から、私の嫌う風潮が「食べ放題」と「大食い大会」なのです。是は、奪われる命への鎮魂と感謝と敬意を無視する行為で、世界中で餓死してゆく人々への暴挙冒涜に他ならないからです。
- 37 生活を考える (5)
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宗教
あなたは宗教をどの様な意味合いで捉えていますか。私なりの見識から、宗教の主張する意図と願いと疑問点を社会生活に与える影響から考察しました。ご一考戴ければ幸いです。先ず、あなたの宗派は何ですか。是は、あなたが選択したのではなくて、あなたの家庭に伝えられてきた伝承に因る門徒なのですね。勿論、改宗した場合は別です。つまり、悪意のない洗脳とも云えるのですね。是は、国が平穏と繁栄を主眼に、主義と方針を安寧に堅持させる基盤を国民に示すのと同義語的なスタンスで、その家系的な繋がりを持つ教育の一部なのです。是を踏まえ、あなたが宗派を学ぶ・知識を得る・悟りたいといった思考を持った事があるかお尋ねしたいのです。多くの方は余り無く、ご先祖様にお線香をあげる、手を合わせるなどの一般作法で供養をされて終わる方が自然な姿なのでしょう。 古の日本に於ける宗教は、自然に畏敬の念を以て山・岩・木・滝などを神の宿る神聖な存在と崇めて、日々の安寧を祈ってきたのですね。その当時、死者は土葬か風葬にされていた様で、弔うと云う様な儀式は無かった様です。風葬の場は一帯が衆生に認知されており、表現は適切性を欠きますが、捨てるという行為でした。軈てインドから中国や朝鮮を経て仏教が伝来しました。其の教えは、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行けるというもので、其れは、極楽と云う浄土の世界があり、魂が救われ其処に行けるのだと、その荒んだ時代の人々に生きる希望を待たせたのです。其の教義から、宗教的に死者を弔い供養する形態が普及し、衛生上(風葬の場合、腐敗による悪臭や害虫の繁殖に因る疫病の発症を予防する)からも、死者の回向が作法として家族の精神的な支えとなる効用も齎してくれたのです。 その後、鎌倉時代になると、日蓮さんが「極楽はない、極楽は今の世にあるんだ、その生き方次第で人生を極楽にできるのだ」と説いて辻説法をして回ったのです。立正安国論を提言し、蒙古の来襲を神風を巻き起こして退散させたと云う伝記はご存知ですね。話が逸れましたが、宗教は人々の心を救う為に生まれたのですが、それ以前から、僧侶は其の奥義を窮める、悟りを得る為の修行に生きる目的を見出し精進していたのです。宗教とは、思うに、人々から死の恐怖を取り除き、日々の生活に潤いを持たせて安寧な暮らしを送らせる拠り所なのです。 神仏は本来お姿のない存在で、唯一お釈迦様だけは実在の修行者で悟りを啓いた方として、そのお姿を仏像にして信者が拝せる様な形式を構築したのです。実態を鑑みれば、仏様も神様も実態がない存在、架空の創造物です。若し、宗教者が其の真意を理解した上で、衆生の心の安寧を保つことを願って布教し続けるのあれば、其れを信心と呼ぶのでしょう。「仏心」と時々人間の行為を視取ることがあります。これが示すものは、仏とは夫々の心のうちに在って、同様に悪魔や鬼と云った心の負の部分も同居するのだと教えたいのではないでしょうか。仏の心とは、自分の心から発生する慈愛慈悲の真意が発揮される力で在り、善意を肯定する自身の良心なのです。
- 38 生活を考える (6)
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日本の崩壊
<はじめに>常々、ニュースであり日常生活の中に於いても、日本の常識と安全神話の崩壊を直視させる事象が氾濫していますが、あなたはこの現状をどのように受け止めていますか。平素の生活さえ薄氷を踏むが如き緊張感を強いられ、当然と享受していた安全や平穏な生活環境が激崩し、更に悪化を辿る世相に、将来への展望が拓けないと云う不安を拭い切れないのですが、あなたはどのようにお考えでしょうか。そこで、何故このような状態に陥ってしまったのか、また、この現況を打開し健全な国に再生することが可能なのか、私なりの考察をお示しした上で、改善にお導き出来る提案とお受けとめ戴き、皆様にもご同考戴ければ我が意を得たりと存じます。<現状を知る>1、指導・教育を考える 先ず、教育の根源とは、平和を尊重し社会秩序を遵守・構築 する人間形成にあります。 その為に、家庭に於いては、子供が共同生活への適応能力を身に付ける指導を果たす義務があります。それは、人間としての良識・倫理感・道徳観念・生命の存在意義・社会生活への関わりを説き、他人の見識を尊重し自己の主張とを精査する適応能力を身に付けさせることです。これは、教育機関に預けられている期間だけではなく、両親 が義務の遂行が可能な限り続くのです。それは、個人を社会が護り、個人は社会に貢献して尽くすと云う、確固たる骨組みで 成り立つからなのです。教育機関は、各々の学年に応じて学習要綱に則った教育と体 力向上の指導を行う訳ですが、ここで、家庭との間で認識と見解の相違による軋轢が生じ、教育実務の円滑な遂行に障害を引き起こすのです。その要因として、次の項目が挙げられます。 ①、PTAの過剰介入 教師の質や指導姿勢を問われることがありますが、教育現場の混乱は、本を正すとPTAと個人的な家庭の不如意、或いは過度な介入にあると考えます。昨今では、個人情報の流出が懸念され、ある程度の斟酌はするものの、多くの教員に手枷足枷を嵌め、健全な職務遂行を阻害しているのだと考えます。 ②、生徒と家庭の素養 近年特に考えさせられるのが、子供を育てられる親がいない事です。少なくとも1970年代くらい迄は敬意を払うと云う思慮を会得していたと思うのですが、現在の子供や成人にしても、敬語は使えても敬意を払うと云う真理を知らず、年長者への接し方が整っていないのです。妙な事ですが、平気でと云うか、当然の様に大人を愚弄する事に躊躇いはないのです。 「邪魔だからそこをどいてくれませんか」と云う表現ですが、これは、敬意を損ない敬語で装飾した欺瞞の例えで、気に入らない事が在れば一瞬にして態度を豹変し、見下した言葉を吐くか、恫喝する事も有ります。 この類の青少年の家庭は、どの親を照らし合わせてみても正しい叱り方と導き方を心得ていないのです。そのために、不誠実な怒りを子供に向けて仕舞い、その結果として、その行為が理解出来ない子供に懐疑心と不信感を植え付けて、行く行くは親への反抗心を芽生えさせます。その挙句に、同様の環境を幻滅の眼差しで受け止める術しかない状況の中で、救いを求めるべき社会には懐疑心が芽吹いており、望まれる成長の道を求められぬ悪循環に嵌ります。 厄介な事に、そういった大人達は上辺や聞き齧りだけの説得力の無い蘊蓄を語りたがり。その見え透いた稚拙な知識を振り翳す事で誤った認識を植え付けるか、更なる幻滅感を上塗りさせて仕舞うのです。 ③、教師の制約と素養 教師個々の素養を探れば、確かに不適合か不向きと見て取れる人材も見受けられますが、殆どの教員は真摯に教壇に立ち生徒と向き合って居られるのです。その中で、その教育・指導を妨げる障害も発生しています。難問は、「自由」を「勝手気儘」と取り違えるPTAと父兄のごり押し要望に因り、度々変更される教育指針に手枷足枷を嵌められた状態で、教育ロボットに押し遣られた状況からどう脱却するかということです。次に考えさせられる問題が、クレーマーと呼ばれる父兄の存在で、教員には前段の手枷が現存する事を盾にし、執拗で無秩序な要求を放り込みます。 是等の問題は、文科省を囲む政府の対応に因って容易に改善が可能なのです。取り組むか放置するかで、日本を取り巻く様々な課題が解消されてゆくのです。④、教育と指導の現状を顧みる 教育と指導の礎を鑑みれば、その国の置かれた主義・思想に基いて成り立っています。日本は民主主義を掲げ、宗教と思想の自由を保障し、併せて教育を推進し国民生活の向上を目指します。 不合理なのですが、実態を見極めると、宗教はその家庭の信仰宗教を慣例的に継承する事になり、教育にしても、その国の主義主張を思考に擦り込む事になるので、形の上では洗脳と変わりない形態をとっているのです。これは、知識を得る手段の一段階として構築された歴史として捉えれば不遜ではないのですが、将来、子供の意思選択に家庭も社会も過剰介入せず、静観し見守る寛容さを周知する事で均衡が保たれると考えます。 ⑤、情操教育の変革を考える 社会全体が精神不安定・情緒不安定に陥り、本来、青少年を教育・指導すべき親でさえその素養が欠如し、その人間形成の悪しき土壌を作り出しています。係る弊害を検証すると、「我慢を知らない」「人を欺く事に躊躇がない」「命を軽視する」「他人に無関心」「協調性の欠如」「感謝の念が持てない」「思慮が至らない」等が列挙され、此れらが厳然として現代の子供達に反映し、情操教育再考提案の根源となっているのです。この問題の解決策は、社会と大人の意識改革を敢行しなければ始まらず、実現可能か否かは政治に委ねるしかないのが実情です。⑥、規範の変化 是まで培われてきた日本の道徳観・倫理観・感性の変化を顧みると、第二次世界大戦後の米国の政治介入が大きかったと思えます。 戦前までは、封建制により社会全体および家庭内に於いても縦割り統治にて整然と規律が守られて居りました。この制度の良し悪しを論ずるのは別の項に回し、社会も家庭も秩序が保たれていた事はご理解戴ける事と思います。では何故、戦後の社会規範から道徳が崩壊を辿ってしまったのかを考察します。先ず一つ目の要因として、米国先導となる学校教育と国民の意識改革を挙げます。 悪い言い方をすれば、封建制度に因る制圧された生活であり、高圧的な教員の指導であり、個人の主張や表現は抑圧された環境に置かれていましたが、それでも国民が反発もせず従順でいられた理由は、一人一人に倫理観が備わり、夫々が共感意識を弁えていたからだと思います。 それが、敗戦を契機に言論も主張も手枷足枷を解かれ、抑圧される立場から自由という未知な環境を突然与えられ、戸惑い乍らも「既成概念の柵」から突然に解き放たれた中で、その解放感に馴染むには然程時間は掛からなかった事は容易に想像できます。その時点の行政に於いては、将来を見据えた規律・秩序・倫理等を堅持する基本理念を定めなかった事、国民にあっては、自らが国や社会との連帯・連携を考察し、教育機関や政治組織との関わりに思慮せず、不適切且つ過度の要求を突き付けた事が、現在の不安定で秩序の欠乏した社会を形成してしまったのだと思います。 外国から環境を変化させられ、それに適応する術に未熟で未来を展望する読解力を持たなかった元凶は、鎖国期間が障害となったのかは不明です。それでも、其れまでの日本が規律と秩序を保つ事が出来ていたのは、天皇を精神の要とする君主関係・社会を形成する徒弟関係・父親を大黒柱とする主従関係を心の柱とし、夫々がその立場を尊重し合う事で規律と秩序を凛として翳していた事は、全国民の弁えとして遵守していたからです。気の遠くなる長い歴史の上に構築された日本の精神構築と建設的忠誠心を戦後の国政への介入統治に因って、米国の思惑となる日本精神崩壊の道を辿らされたのです。⑦、社会への不満と道理の隔たり 巷で耳にする台詞、「息が詰まる社会」「支配された生活」「腐敗した世界を壊す」「社会を変える」その他にも有りますが。此の感情が意味するものは、実は不誠実な精神状態だと知らせる必要性を示唆しているのです。先ず、何故社会が必要なのかを説くには、人間社会を構築・維持する意義を有史以来、人間としての体を成した段階で必要に迫られて創造したと云う事を記さなければならないと思います。古代に人間一人で生き抜くことは不可能だと云う事は理解戴けると思います。その中で、お互いの命を外敵から守る為に運命共同体を形成します。ですが、その有効性を認識した次の段階では家族単位の小集団から、その集団を少しずつ大きく拡充させ、併せて個々に役割を持たせる事で集団運営への参画意識を植え付け、組織の形態を整えてゆくのです。 こう説明している段階で「柵」「義務」「制約」は、個々 が庇護される為の契約・約款だと理解出来ませんか。その真意を整理する為に、倫理・規律・秩序・真理・道理・定義を以て、情熱を基に社会の構築意義を説けたと思うのですが。 是までの説明で、個々の義務の履行が個々の権利と庇護が 保障される条件であり、国を健全に存続出来る条件であるとご理解戴けるのではないでしょうか。
- 39 人生を楽しむ (1)
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生きる意義
あなたは生まれてきてよかったと思いますか。あなたは生きられることに感謝しますか。あなたは生きることを楽しんでいますか あなたはどの様な生き方を望みますか あなたはこのあと何をしますか あなたは人生にどの様な歴史を刻みたいですか あなたはどの様な人生の締め括りを望みますか 多分、生と云う、次々と送り出されては排斥されてゆく、この世界の営みに、無限と思われる魂の存在が、実は限りなく制限された選択されて生み出される命なのだと思えるのですね。 つまり、魂は創り出されるものではなくて、宇宙の隙間に際限なく埋め尽くされており、その中から依り出される存在だと思うのです。 その中には、様々な生命体が混在し、その中で夫々が凌ぎ足掻き発奮し生き抜いてゆく事を条件として、宇宙と云う不思議な絶対権力の持ち主から与えられる、所謂、生きる権利なのだろうと思えるのですが。 どのような生き方をしても個人に与えられた権利なので許されると思いますが、少なくとも、最低限の義務や道理は守らなければ、生きる事が憚られてしまうのです。人間らしく生きる・自分らしく生きる、「らしさ」とは何だと思いますか。言い換えれば、「として」生きるにはと考えられば、どの様に生きるかという生き様を示してくれる指針の明示ではないかと思えるのです。
- 40 人生を楽しむ (2)
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目的を探す
人間の一生なんて実に短いものです。其の時間内に為せる事などたかが知れているのです。だからこそ、大切に時を刻みたいのですね。一日、一時間、一分、一秒を無駄にできないと思えば、自ずと泉が湧きだすように自然な形で朧気乍らにも見えてくるものなのです。焦る事は何もありません。幼少時に見つかることがあるかも知れませんが、年月を重ねるうちで、或いは、多くの経験を重ねる中で見つけるかもしれません。然し、多くの人は余裕なく生活に追われ、ふと疲れた人生を顧みる事があり、その様なときに閃きを得ることもあるのです。その業跡・影響の大小や他人との比較などは意味がないのです。その時点で其れが其の人の目的となるのですから。人生に遂げるべき約束事など無いのです。そして、何も成し得なくとも良いのです。真摯に生き抜くことが尊いのです。人生とは「チャレンジ」なのですから。くれぐれも人生を途中で投げ出す様な行為は留まってください。
- 41 人生を楽しむ (3)
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恋愛
異性を好きになることを恋と云います。愛するとは未だ未熟な人間には使えない段階の表現なのです。愛とは、広い視界を持った永遠不滅の清浄な精神を示します。好意を持った異性の、末永い幸福を願う事が出来る様な精神状態を具えられる様に為った時点から、愛と云えるのかも知れません。些細な事を非難したり暴言を吐いたりするのは、未熟な証拠で、お互いの人間性を認め合えなければ愛を構築することなど不可能なのです。 恋は魔物だと表現する知恵者が居ます。そして、恋は何物にも勝る力になるのだと説く人が居ます。恋愛は時として邪な野望を抱き人智を揺るがす暴挙を起こさせます。それでも、真摯な愛を貫こうとする人々も居るのです。哀しいけれど其れが人間の性であり、称えられ愛される資格を持つ人間の本質でもあるのです。余談ですが、善人とは一握りの人間を於いて、偽善を一生続けられた人間の事を指し、尊い志を示すものですね。あなたにお尋ねしますが、どのような場面に在っても、相手を疑うことなく信じる事ができますか。逆に、どの様な状況に追い込まれても、相手に信じてもらえる対処が出来ますか。相手の代わりに死ねますか。相手の代わりにリスクを背負えますか。この様な問いは愚問です。また、してはならない愚行です。愛とは労りの心から生まれるものなのです。
- 42 コロナウイルスと闘う
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序章
抑々論から申し上げる
人間が人間として生きるには何が必要なのかと皆に考えて欲しい。
其れは、個人の命を尊重し己の命を守護庇護する約束事を堅持する事に尽きるのだ。
若いから未熟だからと甘えてはいけない場面に必ず突き当たる事を肝に銘じなければならないのだ。
現実は矢継ぎ早に其の試練を仕向け対応を問う。其れに君は太刀打ち出来るのだろうか。多分不可能なのだろう。然し、其れでも君達は立ち向かわなければならないのだ。其れは、君達が生きる選択をしなければならず、両親親族子孫の未来を庇護しなければならない宿命を帯びているからに他ならず、突き詰めれば人類の存亡が其の肩に負わされていると云う事なのだ。
君が生きて行く限りに於いては外される事の無く、未来永劫に亘る宿命と称される選択の余地のないお仕着せなのだ。
コロナウイルスは、中国の町の不衛生な市場から発生した。
蝙蝠から一人の人間に感染したとされ、発症した病は瞬く間に巨大な本土を制覇し、驚愕の伝播力と猛威を以て地球上を恐怖の坩堝へと落とし込んだと報道されているのだが、その様な荒唐無稽な発想が俄かに信じられるのだろうか。
賢察
此の原因は地球温暖化に由因するものとも推測される。
是まで多くの地にて増水・水没にて生存域を阻害され奪われた人々の事は現実として多くの人間が目にした。
其の弊害を被った事例が牛の「口蹄疫」・豚の「豚コレラ」・鶏の「鶏インフルエンザ」を引き起こしたものと、人類が今回対峙するコロナウイルスとは同列の疫病とは捉えられないだろうか。
歴史的に見ても、何百年かに一度は人類が見舞われる試練が襲うと予見はするのだろうが、今般の対応遅れは尊ぶべき其の命を貪り、此の現在に於いて対応できない病など無いと軽々に打算したのだろう。 だが、今はそれらの誹りの矛先を鞘に収めておくのだ。
コロナウイルスは、今後人類の生活を脅かし駆逐できないまま対峙してゆかねばならない病と為るのだと肝に銘じ、今日罹らなくても明日は罹るかも知れない、来週は罹るのかも知れないと云う危機感を共持し感染防止策を徹底して、「うつらない」「うつさない」対処を実践することが、重篤患者や死者を減少・消止させる今できる最善策なのであると自覚して欲しいのだ。
誰もが感染し誰もが発染源・媒体となり得るのだ、療養し喩え復調し体調も改善されたとしても再発もする。コロナウイルスは何れ変異し凶悪化するかもしれない事を鑑みれば、うつさないと云う事が最善手と為り、逆に撲滅策など現状では無いと心するのだ。
大切な家族や友人や罪のない周囲の人間を危険に曝してはならず其の未来を脅かしてはいけないのだ。 何より、君が感染者と為り大切な方々を殺す手先と為って欲しくないのだ。君が関わってしまった場合、一生遣り直すことのできない苦悶と懺悔を背負わされて仕舞う事態は避けて欲しいのだ。 仮に、生涯罹らずに終える事が出来たとしても其れは稀な幸甚な事であったと思うべきなのだ。
提言
コロナウイルス患者を収容する病院では、他の病状患者へも負担を強いる事と為り、医療従事者の疲弊も極限に達する状況が派生し、世界中に於いて多くの医療従事者が感染・過労により尊い命を奪われている。新たな患者を収容出来得る施設は崩壊の危機を目の前にしているのだ。今は裕著に構える時期を逸し新たな患者を生み出さぬ対処が優先されなければならない。最悪の状況を想定して仕舞うと世界の人口が大幅に減少する。此の最悪の状況を辿る現況をみて回避し封じ込めを念じ、負のスパイラルを止める事を望むならば、為すべき事を理解し実践されると夫々の良識を信じたい。
嵯峨野嘉竹
追述
1997年のx日に天の大王が地球に舞い降りて人類を滅ぼすとノストラダムスが予言書に記した。
二十猶予年の時の誤差を経たが、其の予言が現実のものと為るのかも知れない。
これは、人類に辟易とした天が鉄槌を振り下ろす施業の証人として、一人一人が残酷な結末に対峙させられているのかも知れない
川崎商業高校定時制同窓会
川崎商業高校定時制同窓会
2015年11月 7日、浅草橋、屋形船にて同窓会を開催
2016年 1月21日、新年会(有志)
2017年 1月19日、新年会(有志)
2017年 8月24日、暑気払い(有志)
2018年 5月17日、飲み会(有志)
2018年11月29日、忘年会(有志)
同窓会諸氏の近況など
弔事
2015年 9月30日、諸井先生
2017年 3月 8日、白野むつ子さん(旧姓坂ノ上)
2017年11月28日、大津先生
2018年11月 9日、菅原喜久江さん