ここ数年、毎年この時期には北海道に行くことにしている。かつての仕事仲間と札幌で会食し翌日はドライブというスタイルが定着してきた。今回もそれに合わせ、火曜日から江差、奥尻、倶知安と泊り歩き、金曜日の夕方札幌入りをした。今回は渡島半島の未訪問町をまわることにし、函館からスタートしようと思っていたが、マイレージの無料航空券では座席が取れず、千歳空港に降り立つこととなった。朝1番の札幌行きはエアドウ(ADO)との共同運航便でB767-300、ANA機では270席なのにADOになると286~289席と2列多く、その分前後の間隔がきつくなる。低運賃をめざした企業であり、利用客もそれを承知で乗っているはずで、このような利用者にとっての選択肢が多くあるということは好ましいことだと思う。ほとんど空席がなかった。
特急と各停の大きな差
千歳空港ターミナル地下のJR駅より渡島大野までの乗車券と八雲までの自由席特急券を購入、次駅南千歳で函館行きスーパー北斗6号に乗換えた。空港発着のエアポートライナーが南千歳駅で上下ホームを逆に使用するのは乗換客の利便性を考えた実に良い措置だ。特急はほぼ満席で来たので苫小牧までは座ることができなかった。しかしその後は登別などでの下車客が多く、東室蘭を過ぎると、四分の一くらいになった。振子式特急型キハ281系は最高時速130キロを出しているそうだが、乗っていてそんなに速くは感じない。それは多分コンテナ列車が多く走るので線路がかなり堅固で揺れが少ないこと、車窓からの風景が畑や牧場ばかりでスピードを感じさせないからなのか。それでも並行する国道を走る車を次々と追い越して行くので、やはりかなりのスピードなのだろう。しかしこの車両,量産開始が1993年というからすでに15年を過ぎている。そのせいかデッキやトイレなど内装のところどころに経年を感じさせるものがあった。
八雲で下車し、10分くらい歩いて町役場に行き、函館本線の各停列車で次の森に向かった。今度はキハ40系の単行で、特急に比べるとエンジン性能が格段に劣る。加速性能も悪いが本格走行になってもスピードが上がらず、今度は平行する自動車に追い越される始末だ。例えば八雲から森までの31.6キロを、特急がノンストップで18分(表定時速105.3キロ)なのに対し、各停は途中7駅停車で複線区間なのに40分(表定時速47.4キロ)も要す。
さらに森から渡島大野まで乗った別のキハ40はもっと遅かった。駒が岳までの厳しい登り勾配が続き、赤井川で特急とコンテナ列車の交換待で9分停車をしたこともあったが、この間たまたま八雲・森間と同じ31.6キロを57分も要し、表定時速は33.3キロだった。ローカル列車だってもう少しスピードの出せる、少なくとも並走する自動車には負けないようなエンジン性能をもつ車両を走らせてほしいものだ。
どこからが夢か北海道新幹線
渡島大野で下車し、06年2月に南接する上磯町と合併し北斗市の一部となった旧大野町の役場へ行った。旧上磯町役場が市役所となっており、そこへは9年前に行っている。大野総合分庁舎は駅から3.1キロほど離れており、バスも1時間に1本程度あったが、時間もたっぷりあったので歩いて行った。渡島大野駅が北海道新幹線の新函館駅になるそうだ。北海道庁のHPによれば、総合政策部のなかに新幹線・交通企画局のページがあり、そこには05年5月に新青森・新函館間を着工、完成は15年度とあった。新青森まで34分というから現行青森・函館間2時間前後に比べればかなりの短縮だ。
すでに開業済みの青函トンネルを含む新中小国信号場・木古内駅間の海峡線がいつでも新幹線に変えられる規格になっており、全くの新設区間というのは新青森・新函館間148.9キロのうち上記開業部分を除く61キロほどなので、予算さえ計画通りならば予定時期に開業できるだろう。しかし渡島大野駅には駅舎横に新函館(仮称)駅建設地と書かれた大きな看板が立っているだけで、工事もしていなければそのための準備をしている様子も見えなかった。同じHP上に進捗率についての記載があり、09年4月現在事業費消化ベースで15%、用地取得(契約済み)率40%、トンネルや明かり工事を除く軌道工事の発注率0%とあった。本当に6年後に開業するのだろうか。
さらに新八雲、長万部、倶知安、新小樽を経由して札幌まで延長する構想があり、大宮以北で最高時速360キロの電車を走らせれば東京・札幌間を3時間57分で結べるとあった。しかしこちらの方は資金調達などまだ不明確なものが多く、どの程度の実現性なのか。それよりも在来線のさらなる高速化や新函館駅での新在乗継方式を工夫することでかなり便利になるだろう。前述したが在来線の線路状況は極めて良いので、時速150~160キロの特急列車を走らせることも十分可能だと思う。また新函館は新八代のような同一ホームでの平面乗換ができる駅構造にして、さらに在来線側には2個列車を停め、1つは札幌方面への特急、もう一つは函館駅へのシャトル列車とし5分以内で接続するようにすればかなり便利になると思う。
江差で道州制について考える
大野総合分庁者前から江差行きの函館バスに乗り、厚沢部町に寄った後、江差の中心街である新地町で降りた。まず旅館にリュックを預けJR江差線で一駅、上ノ国へ行き夕闇迫るなか豪華な町役場の写真を撮った。江差まで戻る列車やバスはまだあったが、旅館に戻るのが遅くなると夕食に余計な手間をかけさせると思いタクシーで旅館まで戻った。10分もかからず、料金も1970円、北海道では珍しく近い隣町の役場だった。
江差に来たのは3度目だ。最初は42年前の97年8月、大学時代最後の夏休みに北海道国鉄全線乗りつぶしを企てたとき。2度目は20年前の89年8月、前年に開通した青函トンネルを体験しようと中学生になった息子と来た。このときは函館から奥尻島に飛行機で飛ぶ予定だったが台風か何かで欠航になり、その代わり江差に行くことにしたのだと思う。このときに役場の写真を撮っておいた。その後役場めぐりを正式に始めるにあたり、それまで撮っておいた何枚かの役場写真を日付順にならべると江差が9番目となったので公式記録にも9番目とした。上ノ国が2699番目だったので20年間に2690カ所を回った後、隣町に行ったことになる。
今の役場は新しいものになっており、場所も変わっていた。江差の市街地はかもめ島という陸繋島を頂点とする直角二等辺三角形の形をしているが、海岸部の道路1本を渡るとすぐに崖となり丘陵地上に商店街などが広がる。旅館も、JR駅や檜山支庁も丘陵地上だ。20年前は町役場も丘陵上だったが、今の役場は海岸部の、埋立地と思う港のすぐ近くの江差追分会館の隣にあった。町のHPによると今年09年5月の人口は9379人と1万人の大台を割っている。最初に訪れた67年には15千人前後だったのでこの間に三分の二に減ったことになる。
翌日は早朝のバスで檜山支庁管内の乙部、大成、熊石に行き、枝幸に戻り奥尻へのフェリーに乗った。檜山支庁というのは南から北に向い上ノ国町から瀬棚町までの日本海岸7町と厚沢部、今金の内陸2町、それに奥尻町の全10町を管轄していた北海道に14ある支庁のひとつだった。それが平成の合併で、熊石町が渡島支庁の八雲町と合併したために離脱し、大成、瀬棚、上檜山の3町が合併し「せたな町」となったので、今は飛び地を含む7町の管轄となっている。そして昨年08年の北海道議会で14の支庁を再編し9の地域振興局にするという条例が可決され、檜山と渡島を統合し道南総合振興局が作られることになった。尤もその下部機構として檜山地区を管轄する地域振興局というものも残るそうだから実態は何も変わらないのかも知れない。それなのに江差町役場前には「檜山支庁存続と権限機能強化を求める江差町連絡会議」という名前で「檜山支庁存続」と書かれた大きな看板が出ていた。
私は地方分権とか道州制のためには北海道がまずそのモデル地域になるべきだと思っている。北海道開発庁との統合を行うほか、その他国の出先機関の大半を道のもとに置く。移行時にどのような抵抗や障害があり、移行後にどんな問題が生じるのか、格好なテストケースになると思う。道州制については机上の議論ばかりしているが、このような実験こそ必要だ。しかし道庁や議会にもそうしようという意欲が見えないところを見ると、道州制など本当はしたくはない、今の方がずっと居心地が良いというのが皆の本音ではないのかと勘ぐりたくもなる。だから本当にやる気のある主要大臣級の実力者とか、最近増えた総理経験者などを知事にするのが良いだろう。同じように市町村レベルでも、市がひとつもないような支庁などはひとつの市として、いわゆる基礎自治体にしてしまう、ということも合わせて試行してみると良いと思う。
いずれにせよ今の檜山支庁は全体でも人口45千人でひとつの市にも満たないくらいの小さな支庁である。しかし小さいとは言え支庁所在地として江差が君臨していたのは江戸時代からの歴史によるものだろう。奥尻への船が出るまで1時間ほどあったので、復元された江戸幕府の軍艦「開陽丸」を7000円払って見学した。幕末にオランダで建造され、戊辰戦争中に榎本武揚らを乗せ江差にやってきたが、暴風のために明治元年(1868年)座礁・沈没したものを、オランダに残っていた設計原図をもとに復元し、資料館としたものである。
幕末に幕府はオランダにこの船を発注するとともに造船技術や様式海軍導入に必要な知識を習得させるために榎本ら15人の留学生を派遣した。派遣先のライデンやハーグについて説明したVTRが、私も5年前に行った同地を紹介しており親しみを感じさせた。外国からの脅威に対して建造した軍艦が、結局は国内の争いのために江差まで来たが、海戦らしいこともせず、座礁・沈没してしまった、なんとなく戦艦大和とも共通するような軍艦の運命を感じさせる。
奥尻島
奥尻島の奥尻港までは江差と瀬棚からフェリーがありそれぞれ2時間15分、1時間40分を要する。奥尻港から一番近い対岸の町は大成で20キロもなく、ここからならばフェリーで1時間もかからないはずだ。それなのに江差と瀬棚との間にしか航路がないのは、かつて鉄道があった時代の名残だろう。道路交通が発達したフェリー時代には最短航路を取るのが経済的に有利と思えるが、そうさせないように江差と瀬棚は頑張っているのだろうか。大成の中心街に近い久遠漁港はかなり規模の大きなものだったし、ここにフェリー桟橋を新設するための投資を行っても、燃料代や時間短縮効果で早期に回収できそうに思うのだが。
奥尻港に着いたのは15時過ぎだったが、港に近づいた頃10隻くらいのイカ釣り漁船がすれ違うように出港して行った。夜間にかけ漁をして対岸の久遠漁港に陸揚げするそうだ。そこには札幌や函館から買付人が来て、深夜の1時までに渡せば早朝の市に出品できるので高値で売れるそうだ。久遠港で江差に戻るバスを待っているときに、漁船修理工場の奥さんから聞いた話である。
奥尻港から歩いて5分くらいのところにある旅館にリュックを預け、町役場の写真を撮り、町有バスで島南端の青苗に行った。町営ではなく町有という呼び方もめずらしいが、このバスが島内各地へ1~2時間に1本と比較的多く走っている。車両は白ナンバーで町役場が所有、運転手も役場職員だという。最近各地で流行りのコミュニティバスなどよりもずっと以前からあったようだ。
島内どこでもフリー乗降できるので、青苗にある津波館の前で降ろしてもらった。1993年7月に発生した北海道南西沖地震の直後に島を襲った大津波に関する写真や資料を展示していた。600円の入場料で入ると女性の説明員がずっとエスコートしてくれた。特に印象に残ったのが映像ホールで見た災害発生から復旧までの記録と、この地域で大津波となったメカニズムを説明した部分だった。奥尻島周辺、特に青苗付近の海上は岩礁が多く浅く、また本土との間もかなり浅く、それらを含む複雑な海底地形が津波被害を大きくした原因だったそうだ。有史以前奥尻島は北海道と地続きだったという。
津波館は丘陵地から一段下がった、海岸に張り出した低地の上にあり、津波で建物などが流された跡地だそうで、今は建物を建てることが禁じられている一帯だ。また人工の小山があり、そこには災害で亡くなった人や行方不明になった198人の名前が刻まれたモニュメントがあつた。
奥尻島の大きさは東西11キロ、南北27キロで周囲84キロあり日本の離島の中では面積が14番目、八丈島の約2倍だ。人口は北海道南西沖地震などで大幅に減り07年1月の住民基本台帳で3640人、1960年の7908人をピークに減少が続き過疎化が進んでいる。漁業の他は観光業で旅館や民宿が多いが、泊まった宿は私以外の客はなかった。ウェブサイトで見つけた「美味プラン」という2食付きで8500円のコースだったが、ウニの塩水漬、アワビやイカの刺身, 海老フライや焼魚に浜鍋などもつく、なかなか豪勢なものだった。
瀬棚線廃線紀行
奥尻からの帰りは瀬棚にした。フェリーが瀬棚に近づくと多数の風力発電用プロペラが林立しているのが目に入った。なかには洋上に建てられたものもあり、これは日本初のものだという。NEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の補助事業として行われ04年に稼働開始、北海道電力に売電している。しかし町は死んだように静かだった。長万部へ行く接続バスがあるが2時間半も待たなければならない。港近くに立像山という高さ90メートルほどの丘に登ってみると素晴らしい展望だった。
05年9月に瀬棚町、北檜山町、それに奥尻に最も近い大成町とが合併し、平仮名のせたな町になった。町役場は北檜山町に置かれた。06年4月の北檜山町の人口が5997人で2757人の旧瀬棚町の2倍以上あり市街地も賑わいがあったので順当なところだったのだろう、北檜山の庁舎も豪華なものだった。なお旧大成町の人口は2512人だった。
函館本線国縫駅から渡島半島を横断していた瀬棚線には67年に乗っている。廃止されたのはその20年後の87年だ。当時の時刻表では大半の列車は長万部直行で1日に8往復、この他に1往復函館に直行する準急「せたな」も走っていた。当時各停列車は長万部・瀬棚間を1時間半前後要していたが、今この間を走る函館バスは7往復あり1時間40~50分だ。時間が長いのはバスの方が集落のある地域に寄るために大回りする部分があるからだ。なおこの他に北都観光の運行する札幌と結ぶ特急バスが1往復ある。
今回はこのバスで途中の北檜山、今金に寄りながら長万部まで行ったが、本数が少ないので先に今金に行き、北檜山に戻り長万部に向かうという稲妻方式を採った。瀬棚駅跡には駅名票だけが残っており、敷地の大部分には真新しい医療センターの建物が建っていた。北檜山では駅舎がすっかりそのままバスターミナルとして残っており、ホーム跡からバスの乗降をするようになっていた。今金の駅跡もバスターミナルとなっていたが、こちらは専用の新しい建物になっていた。
記憶の限界 データ確認は必須
長万部からは山線と呼ばれている函館本線に乗り、途中ニセコ町に寄り倶知安で下車、駅から徒歩15分の温泉ホテルに泊まった。ここへ来る途中の蘭越駅に停車したときに、すでに来ていると思い込んでいた蘭越町に本当に来ていたのだろうかという疑いが湧いてきた。今回は事前にEXCELに記録した訪問先データを確認せず、自分の思い込みだけで未訪問地を挙げ計画を立てていたのだが、蘭越の駅や町役場までの道を歩いたという記憶がどうしても蘇ってこない。リストも持参していないので確かめようもない。
そこで翌朝、早朝6時にホテルを出て上り列車で蘭越まで戻り町役場に行った。どうやら初めて見る景色ばかりで、やはり行っていなかったということに確信が持ててきた。家に戻ってからチェックしたらやはり今回が初めてだった。2700件を超えると記憶も曖昧になって来るのだから、事前のDBチェックは必須との認識を新たにした。尤も今回は早起きすることでリカバリーでき、多少運賃が余計にかかっただけで済んだが、帰宅してから気がついたのでは遅い。と言いつつもう一ヶ所、真狩村についても記憶が曖昧だった。こちらも倶知安からバスがあるのだが今回は時間的にはどうやっても行くことは無理、果たして帰宅してからここも未訪問だったことがわかった。結局札幌・苫小牧を結ぶ線より東南で未訪問なのは函館近くの鹿部町と砂原町(現在は森町の一部)、および小樽近くの赤井川村の承知済み3ヶ所のほかに真狩村が加わり4ヵ所になってしまった。
倶知安町は市ではなく町だが、後志総合振興局の局所在地である。スイスのサンモリッツと姉妹都市提携をしているようで、駅前には同市への方角と距離8979Kmの標識が立っていた。また北海道新幹線ができると札幌まで15分、東京まで3時間45分とかかれた標識も立っていた。
倶知安から京極まで、かつての胆振線を代替するバスで京極まで行って戻り、小樽まで行き、さらに快速電車に乗り換え札幌に出た。中島公園近くの予約していたホテルまで駅前通りを歩いた。大通公園までの地下道工事は殆ど終わっているようで、植栽など道路面の復旧工事がたけなわだった。旧拓銀本店ビルも高層ビルの骨格ができていた。
楽しいフォトラン
最終日役場巡りは休みとし、友人の運転する車で絶好の晴天のなか、3人でニセコ方面をドライブした。鉄道に理解を示す両氏のお陰で銀山駅、小沢駅、比羅布駅を訪れることができた。また途中火口原の中にある赤井川村の役場へも寄ってもらったが、これは公共交通機関でないのでもちろん非公式訪問、しかし余市からのバスダイヤも確認できたし、バス停から役場への行き方もわかった。
銀山と小沢は列車に合わせるように行ったので良い写真が撮れた。岩内線との分岐駅だった小沢駅は、本線ホームだけが残る無人駅になっていて、2両編成の軽快型キハ150がやってきて2名の客が乗って行った。40年以上昔の学生時代、上りの急行「宗谷」が小沢で下り「宗谷」と列車交換したことを覚えている。急行型キハが双方とも10両以上、座席に座れなかった多くの客が、しばしの間ホームに出て手足を伸ばしていたのを想い出した。
比羅布高原では羊蹄山が正面に見えるホテルのレストランで昼食をとった。蝦夷富士と言われるだけあって左右対称の見事な光景だった。何度も登ったことのある友人の話を聞いているうちに、離島のことが頭に浮かんできた。海面が山頂から3~400メートルのところにあるのが青ヶ島や御蔵島で、もう少し海面が下がったのがトカラ列島の島々で、さらに下がったのが利尻島なのだろうか、もちろん個々に組成が異なり形状もさまざまだが、そんな風に数百、数千万年という途方もない時間スケールに思いが及ぶのだった。
友人達と札幌で別れ、千歳から帰京した。今回は正味4日で町ばかり16ヶ所、だんだんと効率は落ちて来たがこれで累計2710、残り549となった。次からは出かける前にもう一度訪問先データを確認することにしよう。好天に恵まれ、気温は高かったものの低湿度でスツキリとして気持ちが良かった。両氏の話だと毎年6月の最終土日は晴天でなかったことがないとのこと、来年もこの時期に北海道に行ければ良いと思っている。