海外地理紀行 【全15回】 | 公開日 |
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(その1)ジブラルタル紀行|公開日は(旅行日(済)) | 2001年8月1日 |
(その2)スイスルツェルン駅の一日|公開日は(旅行日(済)) | 2003年3月1日 |
(その3)ベルリンの壁その前後|公開日は(旅行日(済)) | 2003年11月1日 |
(その4)プラハとバイロイト|公開日は(旅行日(済)) | 2006年9月4日 |
(その5)2009年の香港と広州|公開日は(旅行日(済)) | 2009年3月11日 |
(その6)デンマークの2つの世界一|公開日は(旅行日(済)) | 2010年2月1日 |
(その7)2014年10月 ミャンマーの旅|公開日は(旅行日(済)) | 2014年10月15日 |
(その8)地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」|公開日は(旅行日(済)) | 2005年2月1日 |
(その9)2015年10月インド鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) | 2015年10月17日 |
(その10)2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) | 2014年12月1日 |
(その11)2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道)|公開日は(旅行日(済)) | 2019年12月1日 |
(その12)リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅|公開日は(旅行日(済)) | 1993年7月21日 |
(その13)2023年スペインの歴史を知った旅|公開日は(旅行日(済)) | 2023年5月25日 |
(その14)鉄道で辿るゲーテのイタリア紀行|公開日は(旅行日(済)) | 2024年3月9日 |
「優雅なスペイン8日間」という旅行社が企画するパッケージ・ツアーに現地参加した。8日間といっても、日本からスペインまでで1日、帰りは時差の関係で2日要するので現地で観光できるのは正味5日間のみで、ここに参加した。海外のパッケージ・ツアーに参加したのは初めてだったが、コースが良く練られており、また現地のガイドもコロナ禍にも生き残ったからかどうか、質が高く説明も適切であり、満足できるものだった。
ヨーロッパの国はそれぞれ独自の歴史をもっているが、その中でもスペインという国は、長いイスラム占領期間があったなど特に歴史的に面白い。今回の行程の中で、筆者は主に歴史面に注目していたので、あえて表題を「歴史を知った旅」とした。景色や食事についての説明や感想は殆どない。
5月19日(金)
スイスLuzern 8:35 → 9:44 Zurich 空港 スイス国鉄IR75
Zurich空港 12:00 → 14:20 Madrid空港 イベリア航空IB3477
Madrid空港 15:26 → 16:07 アトーチャ駅 スペイン国鉄
アトーチャ駅 16:25 → 16:30 ホテル VILLA REAL Taxi
ホテル VILLA REAL 17:45 → 19:00 ペルー料理店 徒歩
ペルー料理店(ル・インディー・デ・オロ)
20:00 → 20:15 ホテル VILLA REAL 徒歩
筆者と家内は、このツアーの2日前より娘一家が住むスイスに来ており、現地参加、現地離脱という形で参加した。ツアー一行が東京を発つ日に、チューリッヒからマドリッドに飛んだ。2時間ほどの飛行だった。空港からはRenfeと呼ばれているスペイン国鉄の電車で中央駅に相当するアトーチャ駅まで乗り、ホテルは1キロくらいの所だったが大きな荷物を抱えていたのでタクシーを使った。
ホテルに着いたのは16時半ごろだったが、ツアー一行がホテルに入るのが深夜の1時ごろと聞いていた。羽田を11時45分に発ち、ドイツのフランクフルトまで14時間20分乗り続け、マドリッド行きに乗り継ぐ、7時間の時差があるのでホテルに入る時間は、日本時間で言えば朝の8時頃、大変な強行軍である。特にロシアによるウクライナ侵攻が始まってからは、今までのようにシベリア上空を飛ばす、北極まわりになったためフランクフルトまでは以前に比べ2時間も余計にかかっている。
ツアー一行や添乗員のNさんと顔を合わせるのは明日の朝食時とし、今日はホテル周辺をぶらついた。ホテルは市の中心部にあり、道を挟み対面には何人かの警察官が常駐している大きな建物があった。軍関係の施設かと思ったら、これは国会で、下院の議事堂だという。上院はまた別のところにあるそうだ。そういえば、アトーチャ駅のすぐ横に農林省があったりして、この国では日本の霞が関のような官庁街のようなものはないのかも知れない。
以前ペルーの日本人学校の副校長をしていたという友人から、スペインに行ったらペルー料理を食べるよう勧められており、ガイドブック(地球の歩き方)で見つけた店をホテルのフロントから予約をしてもらった。歩いて10分ほどのところにあったが、フライのような料理が中心だったと思う。ホリューム感がわからずに注文していたので、とてもすべては食べられず半分くらいを残してしまうという、勿体ない食べ方をしてしまったことを後悔している。
5月20日(土)
ホテル VILLA REAL 9:00 → 9:17 王宮 貸切バス
王宮 9:35 → 9:50 マヨール広場 徒歩
マヨール広場 10:00 → 10:10 サンミゲル市場 徒歩
サンミゲル市場 10:15 → 10:20 王宮 徒歩
王宮 10:27 → 10:45 プラド美術館 貸切バス
プラド美術館 12:45 → 13:09 カサ・デ・バレンシア 貸切バス
カサ・デ・バレンシア 14:20 → 14:45 ホテル VILLA REAL 貸切バス
ホテル VILLA REAL 15:10 → 15:30 アトーチャ駅 徒歩
アトーチャ駅 16:37 → 16:43 ソル駅 地下鉄1号線
チョコレート喫茶 17:30 → 18:00 ホテル VILLA REAL 徒歩
ホテル VILLA REAL 18:45 → 19:00 夕食 @Bar( Hotel近隣) 徒歩
Bar 20:30 → 20:45 ホテル VILLA REAL 徒歩
朝食時に添乗員Nさんや他のツアー客に会った。4組の夫婦のうち新婚旅行だという若夫婦の他はいずれも我々と同年代と思えた、他に急遽ご主人の都合で一人参加となった婦人がいて、客は総勢11人となった。
本日は終日マドリッドの観光である。9時に大型の貸切バスでホテルを出発した。マドリッドの人口は約325万人、都市圏人口は約680万人であり、国土のほぼ中央にある地理的条件から首都の場所としては最適だろう。首都となったのは江戸に幕府ができた少し前の1561年で、カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が統合されスペイン王国となってからだ。
緯度は北緯40.4度で日本の盛岡市と同じくらい、なおスペインの北端は日本の稚内くらいで、南端は東京と同じくらい、極めて大雑把な言い方をすれば、スペインは東京・稚内間の距離を1辺とする正方形に近い形だ。面積は50.6万キロ㎡で日本の1.3倍、人口は4,740万人で40%だ。
マドリッドの旧市街は小高い丘陵上にあり標高650m、ヨーロッパの首都のなかでは最も高地とのこと、気候面では暮らしやすそうだ。なおロンドンよりわずかに西だが、ドイツやフランスと同じ大陸時間を採用しているので、この時期は夜の22時頃まで明るい。
貧乏くじを引いたスペイン・ブルボン家
バスは王宮前の地下駐車場に停まった。車は地下を走るようになっていて、今までの道路跡は歩行者専用の広場になっている。市内には同じように地下化した道路が他にもいくつかあり、歩行者専用路や公園が多い。現在の王宮は18世紀中ごろに建てられたルネッサンス調のものだが、現在国王はここには住んでおらず、この建物は国賓の接遇など国の行事に使われている。
スペインの現在の国王は、2014年に即位したフェリペ6世だが、スペイン王位継承戦争の結果1700年にフランスのブルボン家からやってきて即位したフェリペ5世の末裔である。しかしこの一族は王位についたり、つかなかったりの繰り返しで日本の天皇家とはかなり異なる。フランコの独裁時代の1931年~1975年までの44年間、その前は共和制だった1868年~1875年までの8年間、さらにその前はナポレオン軍に占領されナポレオンの兄が王位についた1808年~1813年までの6年間、この間は王家ではなかったもののお家断絶がなく、脈々と子孫を残し今日に至っている。
なお、ブルボン家の前はハプスブルク家だった。1516年、王家の跡継ぎがいなくなると姻戚関係にあったハプスブルク家のカール大公が乗り込んで来てスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まった。このときに従来ハプスブルク家の所領だったオランダ、ベルギー、ルクセンブルクやシチリア島などが、スペイン領となった。
このころからがスペイン帝国の全盛期で、中南米などの殖民地をから莫大な富がもたらされ、まさに世界帝国と言われるようになった。しかしやがてそれも衰退に向かう、1588年には無敵艦隊が英国艦隊に敗れて弱体化が進んだ。そのような衰退に向かう中で1700年に王位についた現ブルボン家だが、王様になったりならなかったりで、この先もまた共和制にならないとも限らない。大きな歴史の流れの中では、貧乏くじを何度も引いた一族と言えるかも知れない。
日本史の最大の犠牲者 支倉常長のいたところ
王宮の裏側、すなわち西側は崖になっていて、その下は広い低地が広がりそこが新市街になっている。さらにそのはるか先に山脈がかすんで見え、マドリッド市内の水はこの山脈から延々と引いてきているそうだ。これはフランコ独裁時代に建設したもので、フランコも良いこともしていたそうだ。
王宮に並んで教会があり、これはかつてフランシスコ会の修道院で支倉常長が寄宿していたと聞き、戦慄が走った。日本の歴史の中で犠牲になった悲劇の主人公は数多あるが、支倉常長が最も悲劇の人だと筆者は思っているからだ。1612年伊達政宗の命を受け、現石巻市の月浦から伊達藩が造ったというガリオン船でスペイン人宣教師のソテロとともにメキシコのアカプルコに向けて出航、さらに大西洋を渡ってスペインに1614年に着いた。ここで国王に拝謁し伊達藩との交易を依願したが拒絶された。
伊達政宗は、徳川幕府が出来たものの未だ豊臣恩顧の勢力も強く、あわよくばスペイン艦隊の支援も受け天下取りも狙っていたとも言われている。だから常長には交易だけでなく軍事支援も得るよう命じていた。当時のスペインは英国艦隊に負けるなど最盛期から徐々に国力が低下していたとはいえ、世界各地の動きなど情報収集力は卓越したものがあり、日本に関する情報は様々なルートから既にかなり正確に得ていたようだ。すなわち徳川が取った天下は盤石に向かうだろう、キリスト教禁教はますます厳しくなるに違いない、一地方の勢力と手を組んだところでその流れは止められず、交易をしたところで何のメリットもない、そんなところから拒絶をしたのだろう。常長の交渉力の問題ではない。怪しげな宣教師ソテロに乗せられ更にローマまで行き、ローマ法王に拝謁するも何の効果もなかった。
常長が失意のもとに、フィリピン経由で仙台に戻ったときには、伊達政宗もすっかり家康にすり寄っていた。だから常長がキリシタンであったという理由で常長のみならず世継ぎまで殺害したのは、恐らくこの件を家康に知られたくなかったのか、或いは知られたとしても常長が独断で行ったことにしようとしたのではないか。まことに戦国武将というのは非情なものだが、政宗などはその中でも極悪非道と言えよう。日本史の犠牲になった常長が、日本人が誰も行ったことのなかったスペインに一時とはいえ滞在し、その文化や風習に接することができたことだけは、せめての慰めであったかも知れない。教会の中に入ってみたかったが、バスはその前を素通りしただけで、教会の写真すらも撮れなかった。それでも筆者の気持ちはしばらく日本の戦国時代から離れられなかったのである。
絵の天才は科学も技術も天才 プラド美術館
マドリッドの市内中心部を歩いて観光し、王宮前地下からバスでプラド美術館に行った。プラド美術館はホテルからは広い通りを挟んだ対面という位置にあるのだが、バスで最も入口に近いところまで連れて来てもらったのは正解だった。一般の観覧客が延々長蛇の列で入場を待っている横から我々グループはさっと入る。この辺りが団体ツアーの価値のひとつだと思うが、その費用もちゃんと価格に入っているのだろう。
この美術館は16世紀、ハブスブルク王朝時代、スペインがヨーロッパ最強で、南北アメリカ植民地からもたらせる莫大な富で裕福だった時代に、名画を買い集め王家専用に建てたそうだ。その後さまざまな曲折があったものの1819年「王立美術館」と称して一般の観覧を受け入れた。
巨匠とわれる画家の名前も満足に言えない筆者は、絵画に対してはズブの素人だし、もともとそんなに絵画には興味がなかったのだが、日本人の現地ガイドが極めて簡潔でわかり易い説明をしてくれたおかげで、一時絵の世界に没入することができた。スペインには16世紀のエル・グレコ、17世紀のベラスケス、18世紀のゴヤという3人の世界的巨匠がいて、それぞれの代表作を10作品くらいずつ説明を受けながら鑑賞した。ほとんど覚えていないが、個人で行ったならばもっと何もわからなかっただろう。
ここに限らず、美術館に来て筆者がまず受ける印象は、家電量販店のテレビ売場のようだということだが、ここでもそうだった。どの絵も高画質な大型液晶画面で見るように鮮明だった。もちろん照明の技術によるものもあるかも知れない、或いはときどき修復作業をしているのかも知れない。それでも数百年経っても色が褪せないのが不思議だ。今のようにあらゆる色の塗料、絵具が金さえだせば手に入る時代と違い、かつては画家は自分の思う色を出すための絵具を自分で考え準備しなければならなかったという。岩石の粉とか植物の汁とかを混ぜ合わせたりして、求める色が出るまで気の遠くなるような試行錯誤を重ねたのではないだろうか。しかも数百年後も色が変わらいことまで考えていたのかも知れない。だとすれば当時の画家は、画才だけでなく、化学技術の才能、職人のスキルも持っていたに違いない。
美術館を出てバスに乗り、市内のレストランで昼食を取った後ホテルに戻り解散。14時45分頃だった。
中世の城下町トレドへ往復するオプショナル・ツアーがあったのだが希望者が少なく中止だった。個人的には行ってみたかったのでRenfeで行こうと15分くらい歩きアトーチャ駅まで行ったが、切符売り場がなかなか見つからず、やっと見つけたときは本日中に戻れる列車はないことを知らされ諦めた。地下鉄で午前中散策した近辺の最寄り駅まで乗り、土産物店を見たり、喫茶店で休憩したりしてから、歩いてホテルへ戻った。土曜の午後だからなのか、市中心部は渋谷の駅前のような凄い人出だった。
本日夕食は自由だったが、Nさんに連れていってもらい近くのBarに行った。
5月21日(日)
ホテル VILLA REAL 8:40 → 10:35 コンピクテ 貸切バス
ラ・マンチャ風車の丘
コンピクテ 11:10 → 11:40 プエルトラビス 貸切バス
昼食 ベントラレ・キホーテ」
プエルトラビス 13:00 → 14:20 ウェルラ 貸切バス
ウエルラ 14:35 → 16:20 コルドバ ローマ橋 貸切バス
メスキータ見学
花の小道、旧市街見学
ホテル EUROSTAR PALACE
マドリッドを出てしばらくは小高い丘がいくつも続くところを走ったが、やがて日本では見たこともないような広い平坦な平野となり、その中の高速道を淡々と走った。ラ・マンチャ地方と言い小説「ドン・キホーテ」の舞台だそうだ。やがて右手遠くの丘の上に数機の風車が見えるとバスは高速道から右折し田舎道に入り、小さな集落に入り、狭い道を家の軒を掠めるように進み、そしてヘアピンカーブで丘に登りひとつの風車の前に停まった。
スペインからオランダヘ、西洋史の主役交代を感じさせる風車
風車は、かつて小麦粉をひいたりオリーブ油を搾るのに使われたものだそうで、小屋の中にも入ることができた。階段を登り屋根裏部屋のようなところに行くと羽根の回転軸を中心に木造の歯車が数個あった。臼もあったので、ここで粉をひいたりしていたようだ。羽根は骨組みしか残っていなかったが、かつては毛皮などを貼っていた。一応風向に合わせて、羽根の方向を変えられるようになっていた。
風車については、20年近く前、オランダに行ったときに、そこでじっくり見て感心したのだったが、それに比べると随分簡素なものだった。オランダに風車が伝わったのは、15世紀にハプスブルク王朝となりオランダがスペインの統治下になったときだそうだ。しかしその後のオランダでの発展ぶりは目覚ましかった。最初は粉ひきなどスベイント同じ用途に使われたが、やがて海面下の低地の水を汲み上げるために使われるようになった。そしてそのためには、スペインのものの2倍以上の巨大なものになり、羽根の直径や風車の高さも2倍以上になった。
オランダで見た風車は、プロペラ(羽根)が風向きに合わせられるような回転式構造になっているところはスペインと同じだが、さらに仰角も調整できるようになっていた。最上階は部屋全体がギア・ボックスのような木製の歯車だらけの部屋になっており、大きな物を揚げ下げするためのロープや滑車群などとともに工場の中のようでテクノロジーの塊という印象だった。大きな動力をまず中央の縦軸の回転運動に変え、さらにそこからいろいろな用途のための回転に分岐する、すべてが木製歯車と軸(シャフト)との組み合わせだった。風車を作ることも大変な作業だったに違いないがこれらの保守、特に磨耗する木製部品の保守維持も重要な作業だったに違いない。これらの風車が最盛時オランダだけで1万もあったということは、例えば歯車の規格を揃えて標準部品として流通させるとか、メインテナンス・サービス専門業者のネットワークが形成されるなどの保守体制が確立していたに違いない。
スペインの風車は原初の形から進歩をしていないように見えるので、オランダと大きな差がついてしまった。1648年、独立戦争の末オランダはスペインから独立した。そして東インド会社を作るなど世界に羽ばたいた。同じ時期、スペインはますます衰退に向かった。大航海時代の主役はオランダに移り、その後更にイギリスに代わった。丘の上の風車は、まさに西洋史の主役交代を思わせるものがあった。
イベリア半島2000年の歴史がわかる コルドバのメスキータ
ドン・キホーテのような旅人姿が似合うようなは旅籠風の店で昼食をとった後、バスは同じような平原を更に南に向かって走り続けた。やがて正面遠くに山々が見えだすと、まもなく山地に入り、さほど高くはない峠を越え、アンダルシア地方に入った。グアダルキビール川というコルドバやセビリアを経由して大西洋にそそぐ大河の流域に出て西に進む。途中見事な向日葵畑を見たりしながらコルドバ市内に入り、ローマ橋のふもとでバスを降りた。
コルドバはローマ時代ヒスパニア属州の首都であり、イスラム時代になってからも後ウマイヤ朝の首都だった。現在は人口30万人くらいだが、最盛期には100万人いたという。ローマ橋の基礎部分はローマ時代に作られ、度々補強されたのだろうが、いまだに風格を残している。川幅は50メートル以上あると思われるが、水量は哀れなほどわずかである。フランコ独裁時代に上流にダムをいくつか造ったためだそうだ。かつて水運で賑わったであろう河港は跡形もなかった。
この橋を渡ったところにあるメスキータを観光した。現地ガイドは日本語を上手に話すスペイン人男性だったが、彼の説明も要を得ておりわかり易かった。
伝説によると、紀元前2世紀頃ローマ人がコルドバを建設し、ここに神殿を建てた。それから約800年後の6世紀にイベリア半島を支配していた西ゴート族の王がコルドバを掌握し、キリスト教の教会にした。8世紀にはイベリア半島を征服したイスラムの後ウマイヤ朝がコルドバを首都とし、この教会を残しモスクの増築を続けた。さらにレコンキスタ(キリスト教国による再征服)により、ここをキリスト教の教会に戻した。メスキータとはスペイン語でイスラム教の礼拝所である「モスク」の意味だが、コルドバではキリスト教の大聖堂になった今でもここをメスキータと呼んでいる。
面白いのはその都度増築をしてきて途方もなく大きなものになったことだ。石の文化だからなのだろうか、そのときどきの最も入手しやすい石材で増築をしてきたようだ。だから場所によって柱や壁や天井の雰囲気が異なる。イスラム寺院によくあるミナレットという高い塔は、それを隠すように上から石材で覆われ、教会の尖塔になっていた。
筆者は日本でこのようなケースを知らない。木造という材質の問題もあるだろうが、城にしても寺社にしても、大抵は再建であり、継ぎ足しと云う例はない。大阪城も秀吉の建てたものに対し家康はそれを徹底的に破壊し再建したという。だから今の大阪城を見ても、秀吉の建てたものや、その前の石山本願寺だったときのものを知ることはできない。このメスキータは2つの宗教文化が融合し、なんとも言えない独特なハーモニーをもった大建築物になった。ここに来れば2000年以上に及ぶイベリア半島の歴史を知ることができると言っても大げさではないだろう。
メスキータを見てからは、日本の離島にあるような、人がやっと1人通れるような狭い道が続く旧市街を散策し、ホテルに入った。
5月22日(月)
ホテル 9:15 ― 10:20 ルーケ駅跡 貸切バス
ルールーケ駅跡 10:40 ― 11:50 グラナダ市内 SM駐車場 貸切バス
SM駐車場 11:50 ― 12:00 市内レストラン 小型バス分乗
市内レストラン 13:30 ― 13:45 サンクリストバル展望台 小型バス分乗
展望台 13:50 ― 13:55 サンニコラス展望台 小型バス分乗
展望台 14:15 ― 15:15 ホテル Parador de Granada 小型バス分乗
アルハンブラ宮殿見学 16:00 ― 18:00 グラナダ泊
コルドバからグラナダまでは100キロ少々だが、いままでの高速道路とは違って一般道路だったので、バス前方から見る景色は楽しかった。起伏のある丘を縫うように進む様は、北海道の美瑛のあたりの光景を思い出させた。昼前にはグラナダ市中心部に着き、スーパー・マーケットの駐車場で2台の小型バスに乗り継いだ。小型といっても20人は乗れるものでガイドを入れても総勢12人の一行にとってはここでも贅沢なものだった。
市内中心部のレストランで昼食後、アルハンブラ宮殿の全容が良く見えると言う宮殿から市街地を挟んだ対面の丘の上に登った。展望台は2カ所あったが、このころから雨が降り出し、どちらから見ても谷を挟んだ向かいの山の上にあり宮殿はかすんでいた。小型車でなければとても入れない狭いところを走った。そして市街地に戻り、ここで車の渋滞に巻き込まれ、そこを抜け出してからは高速道路で郊外に出て、大きく迂回するように走って、目と鼻の先と思っていたのに1時間もかけ、アルハンブラ宮殿に着いた。そして宮殿の敷地内にあると言っても良いような、宮殿の建物と見分けがつかないようなホテルに入った。パラドールという、城や寺院の建物を使った国営のホテルで、このようなものがスペインには100以上あると聞いた。しかし屋内は近代的なホテル仕様のものだった。
アルハンブラ宮殿
いったんホテルで休憩をとってから、日本人の女性現地ガイドの案内でアルハンブラ宮殿を見学した。ここも一般客は長蛇の列だった。ここは山の上にあり、建物の形状などから宮殿というよりも城塞のようだ。ここが繁栄したのは、レコンキスタが進んでいた最中の13~14世紀、日本では鎌倉時代にあたる。キリスト教勢力が北のほうから徐々に侵攻し、それまでイスラム王朝の首都だったコルドバが陥落してからのことだ。イスラム王朝の支配地がアンダルシアだけとなり、その間ここが首都となり、住宅、官庁、軍隊、モスク、学校など様々な施設を備えた城塞都市となった。
コロンブスがアメリカを発見したと教わった1492年、レコンキスタによってグラナダが陥落すると、アルハンブラ宮殿はキリスト教勢力の手に渡ったが、時の国王カルロス5世がこの宮殿を別荘とし、カルロス5世宮殿という建物を建設した。それらを含め贅を尽くしていた面影が随所に残されているとの説明だったが、どうももうひとつ感動が湧かなかった。かなりの雨のなかで、この宮殿を回るには屋根のない部分が多く、傘をさしたりつぼめたりしなければならなかったこともあったかも知れない。
スペイン全史が俯瞰できたコルドバのメスキータと違って、ここは鎌倉時代のものだけが残る鎌倉市に来たようなものだという実感だったが、周囲の山々に溶け込んだ風景は鎌倉には失礼だが、ずっと雄大である。筆者にとってはコルドバのメスキータのほうがずっと面白かったのだが、アルハンブラという名前は音楽でも知られているせいか、日本でも、多分世界でもはるかに有名なのだろう。
5月23日(火)
ホテル 9:30 ― 9:40 市内SM駐車場 小型バス分乗
SM駐車場 9:45 ― 10:30 ロス・グバデス 貸切バス
ロス・グバデス 10:45 ― 11:55 ミハス 貸切バス
ミハス 13:50 ― 14:15 マラガ空港 貸切バス
マラガ空港 16:52 ― 18:17 バルセロナ空港 VY2118
(離陸17:04/18:11着陸)
バルセロナ空港 19:34 ― 19:50 市内レストラン 貸切バス
レストラン 21:45 ― 21:50 ホテルRenaissance Barcelona 貸切バス
バルセロナ泊
グラナダから地中海沿岸に出るには3000メートル級の山々が連なるシェラネバダ山脈を越えなければならないのだが、高速道路の勾配やカーブはそれほどのことはなく、鞍部と思われる部分も短いトンネルで抜け、2時間くらいで地中海を眼下に見ることのできるマラガ郊外に出た。
バスは市内には入らず、海岸に迫る山地中腹の外郭道路を走り更に西に、ミハスに向かった。この辺りはコスタ・デル・ソル(太陽海岸)と呼ばれている。地中海に面し温暖な気候と、日照は年間の300日以上あるそうで、保養地であるとともに一大観光地でもある。特にアンダルシア地方独特の白い家並みが続き、そのなかでもそれらをまとめて観光地として特化したような村がミハスだった。このころから晴れ渡ってきて、まさに太陽海岸を走っているという気分になってきた。
コスタ・デル・ソルのテーマパーク ミハス
高速道路を出て、山を登って行くと、村の入口ともいえる広場があり、馬の牽く大型馬車や、派手な衣装を身に纏ったロバの牽くロバタクシーという小型馬車がたくさん並んで客待ちをしていた。ここでバスを降り、石畳の路地や坂道を登って行くと、両側に土産店や飲食店など白壁の建物が続く。京都の清水寺参道や江の島の商店街のような道が、複数あるようなものだ。白い家が多いのは、この地方の太陽の光が強いため、光を反射させ高温になるのを防ぐためだと聞いた。そういえば中学の頃、夏になると学生帽に白いカバーを被せたのを思い出した。結構な坂道で、歩くのも楽ではない。馬やロバにとってもきついのではと思った。
村の最奥で最も高いと思われるところに小さな闘牛場があった。外から見た大きさではとても本格的な闘牛をするところではない。闘牛の真似事をしているのかも知れない。2時間ほどの自由時間の間に各自昼食を済ますように言われていたので、本場ものをと思ってピザとパスタの店に入った。しかしどちらも本場はスペインでなくイタリアだったことを家内に言われ納得したが、筆者にとっては、そんなことはどちらでもよく、美味しいと思った。
土産物店などをひやかしながら歩いたが、最も面白いと思ったのが、入口広場のすぐ近くにあった村役場だった。真っ白な壁が美しく、さすがに観光地を代表するような建物だと思った。以前岐阜県の白川郷の村役場が、全くその地にそぐわないどこにでもあるような平凡な庁舎でがっかりしたのを思い出した。庁舎の横が展望台になっていて、地中海を広く見渡すことができたが、ジブラルタルやアフリカは見えなかった。
コスタ・デル・ソルのゲート・シティ 巨大なマラガ空港
この後はマラガの空港から国内線でバルセロナに向かった。空港までは来た道を戻り30分もしなかったが、マラガの西の郊外というような場所だったので、市内には入らなかった。マラガは人口60万、都市圏全体では、定義の仕方によるが130万から160万あるそうで、アンダルシアではコルドバやグラナダよりも大都会である。日本では、熊本や鹿児島くらいなので空港もその程度のものかと思っていたら、桁違いに大きな空港で驚いた。ターミナルビルは成田の第二くらいはあるのではと思え、大勢の客でごった返していた。空港のHPを見るとスペイン国内21路線、海外 122路線とある。ヨーロッパの殆どの国の首都だけでなく、イギリス23都市(空港)、ドイツ15都市、フランス10都市とを結んでいるし、ポーランドでさえワルシャワ、グダニスク、クラカウなど7都市に週1~2便飛んでいる。
また空港に行く途中にドップラー・レーダーも見えた。これは離着陸時に飛行機に対するダウンバースト(下降噴流)などの発生を知らせるためのものであり、高価なもので、日本でこれを設置しているのは羽田、成田、伊丹、関西、中部、千歳、福岡、鹿児島、那覇といった主要空港だけと聞いている。この面からも主要な空港なのだろう。
長蛇の列で待ってセキュリティ・チェックを済ますと免税品などを売る店が、これもまたたくさんある。大型デパートの1フロア分くらいの広さのところに、これらの派手な店をかき分けるようなジグザグな通路を通らないと搭乗ゲートに行けない構造になっている。その搭乗ゲートだが、搭乗開始の30分くらい前にならないとゲート番号がわからない。ゲート番号などもっと早くからわかっているはずだと思うので、客を商店街になるべく長時間留まらせ、多くの金を落させるのが狙いではないのかと勘繰ってしまう。
いずれにせよマラガはコスタ・デル・ソルの中心空港であることがわかった。ヨーロッパ各地からの観光客や、ここに別荘をもつ富裕層が繰りかえし訪れるのだろう。だから常に混雑していて、このくらいの規模の空港でないととても利用者を捌けないのだろう。マジョルカ島やカナリア諸島の空港も、あるいはこのくらいの規模なのかも知れない。
バルセロナまでの飛行時間は1時間と少々だった。直線距離では760キロ、東京から山口くらいだが、地形の関係もあり、直結するような鉄道路線がない。そのためか満席だったし、毎日運航するものだけでも7便くらいあるのだから流動は多いのだろう。
バルセロナに着いて、飛行機を降り、ここも利用客でごった返す長い通路を歩いてバゲッジ・クレームに着いたが、預けた荷物が出て来るまで1時間近く待たされた。こけは特にスペインだけのことではなく、コロナ後になって、人手不足のため航空荷物の捌きなどにしわ寄せがきているという話を聞いた。大型貸切バスで市内のレストランに連れて行かれ、夕食後近くのホテルに着いたのは、22時近かった。
5月24日(水)
ホテル 9:00 ― 9:15 サグラダファミリー教会 貸切バス
教会 11:20 ― 11:30 サンパウロ病院 貸切バス
サンパウロ病院 11:40 ― 11:55 グエル公園 貸切バス
グエル公園 13:20 ― 13:20 昼食会場 Asador del Mar 貸切バス
昼食会場 14:22 ― 14:40 ホテル 貸切バス
ホテル 15:30 ― 15:45 カステリア広場 El Corte Ingles 徒歩
カステリア広場 16:45 ― 17:15 ホテル 徒歩
ホテル 20:30 ― 21:00 フラメンコショー会場 貸切バス
フラメンコショー 21:45 ― 21:50 王の広場 徒歩
王の広場 22:00 ― 22:10 ホテル タクシー
終日バルセロナの観光である。バルセロナは、カタルーニャ州の州都、バルセロナ県都である。人口はマドリードに次ぐ160万人、国際的な観光都市であると同時に、サッカーを通じて世界中の子供たちからも知られている都市ではないだろうか。そしてスペインの中ではかなり東に寄った、フランスにかなり近いところにある。
バルセロナはイスラム支配の後、アラゴン連合王国としてギリシャあたりまでの地中海を支配したときもあったが、スペインの中心がマドリッドに移ると、カタルーニャ語を話すカタルーニャ地方として、スペイン中央とは一線を画すような動きをしていたようだ。市街地は19世紀の中頃に大改造され、東西と南北の幹線道路とその間を結ぶ碁盤の目のような、整然とした街づくりがなされている。
なぜ騒がれる サグラダ・ファミリア教会
バルセロナ第一の観光名所のようで、我々のツアーもここから始まった。マドリッドのプラド美術館同様一般客は大変な列だったが、ツアー客は専用入口から待たずに入れた。ただしセキュリティ・チェックは空港のそれよりも厳しく、最初からベルトまで外さなければならず、筆者を含めほとんどの人がX線ゲートで引っ掛かりボディチェックされていた。
サグラダ・ファミリアというのはスペイン語で聖家族のことで、聖家族とはキリストとその両親の家族のことだということを、ガイドから聞いて初めて知った。英語ではホーリー・ファミリーとなるそうだ。その聖家族にまつわる物語などが彫刻で刻まれていたが、内戦で破壊されたのを修復しているそうだ。しんしこのような物語の像や壁画をもつ教会は数多あると思うので、特にここだけの特徴とは言えないだろう。
アントニ・ガウディの設計は、抽象的な曲線をやたらに使い、なにやら幻想的な世界に誘われるというのが特徴なのかも知れないが、筆者からすれば幼児の絵にしか思えず、好きか嫌いかと聞かれれば正直に好きでないと答えざるを得ない。ガウディ的な建物はウィーンの清掃工場でも見たことがあり、それを真似た大阪の清掃工場も何が良いのかと言いたい。もしそれを世界中の人の大半が良いと言うのであれば、もっと市役所やオフィスの建物にあっても良いと思うのだが、それも稀だ。だから大半の人は、なんだかよくわからない、ということなのではないだろうか。
とすると1882年に着工され、完成まで300年はかかると言われていたので、それからすると今は全工程の半分くらい、その建設の進め方を見ることができるのが面白い、或いは貴重だということだろうか。だがそれも、最新のITを駆使し、3D構造解析と3Dプリンターなどを駆使することになったので、工期も大幅に前倒しとなり、2026年には完成するそうである。となると数年後には工事途上という特徴もなくなってしまい、他に比べて圧倒的に差別化された教会ではなくなってしまう。
なにやらケチばかりつけているようだが、長蛇の列をじっと我慢してやっと入場したのであればまた違った印象を受けたのかも知れない。ツアー客の全く勝手な、贅沢なコメントである。それでも、小さなのぞき窓から見た地下の礼拝堂だけはなかなか威厳のあるようなものに見えた。
再びバスで市内観光をした。といってもサンパウロ病院の建物を一瞥し、高台にあるグエル公園で一時を過ごし、レストランで昼食後ホテルに戻っただけだった。そこで解散、以後は自由行動となった。
グエル公園は1900年ころ、市街地の拡張から山手に自然を生かした新しい住宅地を開発することになり、そこでもガウディが設計に携わった。しかし発想が進み過ぎていたのか住宅地としては成功せず公園となったもので、結構起伏のある道を歩きいい運動になった。ガウディが住んでいたという家もガウディ記念館として残されていたが、中には入らなかった。
自由行動時間には添乗員のNさんが個人的に付き合ってくれ、15分くらい歩いてカタルーニァ広場に行った。主要な道路に囲まれた、1辺が100メートル以上はある正方形に近い広場で、中央は公園になっていて、野外音楽などのイベントもできるようになっていた。カタルーニァ独立運動の集会などもこういうところで行われるのだろう。
ここはまた公共交通の拠点でもあり、地下にはスペイン国鉄(RENFE)の4路線、カタルーニャ州立鉄道(FGC )の3路線、地下鉄の2路線が集まっている。それらは広い地下道で結ばれているが、それらの位置関係が複雑で慣れていないとなかなか使いにくい。東京の地下鉄の場合、例えば4つの路線が交わる大手町や後楽園・春日などは、それらがすべて方形に交差、すなわち「井の字方」に交差しているので、わかり易いが、ここは斜めになっていたり、地下通路の横をかすめていたりしてわかりにくい。
コルテ・イングレスというスペインを代表するデパートが、この広場に面してあり、地下の食品売り場で土産になりそうな缶詰などを買った。このデパートはスペイン国内に91店舗あるそうで、ヨーロッパでは最大のものだそうだ。デパートの前面からは空港へ行くバスも発着していた。
帰りは歩行者専用の通りを歩いた。公共交通を充実させ、車の使用を極力減らすような都市としてバルセロナがその最先端だという記事を何かで読んだことがある。一方通行や歩行専用道路を増やし、車移動ではわざと時間がかかるようにしたことで、小さな通りを活性化させたそうだ。そして感心したのは碁盤目状の道路の交差部分はどこも必ず45度の切り込み(オフセット)がなされていたことで、この部分の使い方は場所によってそれぞれ違っていたが、道路に余裕が見られたことは確かだった。また路面電車も延伸工事をしており、「スローモビリティー」の都市を目指しているということは間違いないということがわかった。
そんな道路の途中の工芸品などを売る商店でバッグの買物をした。ショーウィンドをのぞいていると、店員が扉の鍵をあけて中に入れという。開放したままにしておくと物騒だから、ということだった。
ロマとフラメンコ
ツアーにはオプションとしてフラメンコショーというのがあった。最初は行くつもりはなかったが、旅の途中でNさんから聞いたスペインのジプシーの話に興味が湧き、フラメンコとも深い繋がりがあるとのことだったので、見に行くことにした。
ジプシーというのは差別用語で、今はロマと呼ぶのが正しいそうだが、インド北部を発祥としヨーロッパ全体に広がり、居住地を定めず移動しながら生活している集団のことだ。結婚はロマの中でしか行わないそうなので、単一の民族とか人種と言えるのかも知れない。言語や宗教はそれぞれの住む地域で異なるが、タロットというカードを使った占いなど独特の神秘主義的な風習が残っているそうだ。歌劇「カルメン」の中に出てくるような密輸業とか、今でも強盗やスリなどをするものが多いので注意が必要だと言われた。
スペインにはルーマニアに次いでロマが多いそうだ。そのなかでもアンダルシアには、シェラネバダ山中の洞窟などに住んでいる者も多いと聞いた。グラナダでアルハンブラ宮殿に向かう道を小型バスで登って行く途中の崖に、洞穴がいくつかあり、明らかに人が住んでいるように見えた。入口には扉やカーテンがあり、門柱のようなものがあったり、車が置いてあるものもあった。内部は電気も引かれ近代的な生活をしているとのことだった。
ロマの文化のなかでも特に音楽は西洋クラッシックのなかで大きな影響を与えている。ヴァイオリン曲であるサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」やラベルの「ツィガーヌ」などはロマの音楽そのものだ。なお、ロマのことをドイツ語ではツィゴイネル、フランス語ではツィガーヌということを知った。またブラームスの「ハンガリー舞曲」、リストの「ハンガリア狂詩曲」、エネスコの「ルーマニア狂詩曲」なども、そう言われればロマのものと思われるリズムや旋律が出て来るし、ベートーヴェンの第7交響曲の第4楽章やチャイコフスキーの第5交響曲の第4楽章などもロマの音楽をヒントにしたのかも知れない。
そして独自の音楽、踊りがスペインではフラメンコの原型となったそうなので、見に行くことにした。オプショナル・ツアーということだったが参加したのはわが夫婦だけで、大型バスにNさんを含め3名だけが乗って会場に向かった。浅草か新宿歌舞伎町のような下町風、庶民的なところで、カイドがいないとなかなか行けないところだと思った。
会場は舞台を囲み100人くらいが入れる、天井の低いところだったが既にショーが始まっていた。強烈なリズムと音だったが、音響装置のようなものは使っておらず、特殊な靴で床を踏む音が殊更大きかった。着飾った女性ダンサーに続いて男性ダンサーの歌と踊りがあったが、特に男性のものが強烈だった。ダンサーがロマかどうかはわからなかったが、はるばるヨーロッパの西の果てまでやってきたロマの文化の一端が知れたように思い、スペインに来たのだなあ、という感慨のようなものが湧いて来た。
夜10時頃になっても盛り場の賑やかさは変わらず、みやげ店ではNさんが値切り交渉をしてくれ、最後になってスペインの庶民の生活に触れることができたように思えた。さすがに帰りはバスを断りタクシーでホテルに戻った。
5月25日(木)
ホテル 6:00 ― 6:40 バルセロナ空港 貸切バス
バルセロナ空港 10:43 ― 12:25 バーゼル空港 VY6260
(離陸10:54/12:20着陸)
バーゼル空港 13:01 ― 13:20 バーゼル駅 路線バス
バーゼル駅 13:28 ― 14:55 ルツェルン駅(オルテン乗換) SBB
最終日は早朝6時にホテルを出発、ツアーの一行とはバスセロナの空港で別れた。一行はミュンヘンで乗継ぎ日本へ帰るのだが、我々は30分後のハーゼル行きのブエリング航空に乗った。しかし出発は約1時間遅れた。バルセロナの空港は、マラガのものよりも更に一回り大きく、ここも出発ゲートの番号が決まるまで、商店街で時間をつぶすしかなかった。
ヨーロッパの航空事情
飛び恥(英語でフライトシェイム flight shame)という言葉で、4~5年前からヨーロッパで広がった飛行機の利用に反対する社会運動のようなものが起きている。CO2排出量の多い飛行機の利用をやめようというもので、北欧スウェーデンで始まり、多くの人が飛行機をやめて列車を利用しているそうだ。しかし今回のマラガのような場合、マドリッドとの間には高速鉄道はあるが、それ以外の都市とは乗り継ぎがあり、かなり時間を要するので、そう簡単に飛行機をやめるというわけには行かないだろう。
今回スイスとスペイン間を、最初は鉄道で行くことを検討したが、乗継が多く時間がかかる上に、飛行機の方が鉄道の半分くらいの経費で行けることが解った。「飛び恥」運動の影響か、あるいはLCCが増え競争が激化しているせいか、ヨーロッパ内の航空運賃は安くなってきているようだ。
チューリッヒからマドリッドまでのイベリア航空、マラガからバルセロナまで、及びバルセロナからバーゼルまでのブエリング航空は、いずれも満席だった。しかもいずれも搭乗に時間がかかり、出発が遅れた。この搭乗に時間がかかるのは理由がある。搭乗券には登場順を示すグループ番号が記されており、それに従って順次ゲートから入るのだが、どうやら支払った料金が高い客から優先的に乗せているようで、機内の狭い通路で大混雑を起こしている。日本の場合、例えば後方とか窓際の客を先に乗せるようにグループ番号を振っているので、通路での混雑は少なく、スムーズな流れになっているので、搭乗にそれほど時間がかからない。ヨーロッパも日本のようにすれば良いのにと思うし、だれでもそう思っているのだろうが、それが出来ない理由が何かあるのかも知れない。
5日間のツアーは、主要なところを訪れたにしては行程にゆとりがあり、忙しいと言う感じはあまりなかった。地理という平面的なことだけでなく、歴史という縦の流れもあわせて、二次元的な捉え方ができたのは、キリスト教とイスラム教がサンドイッチのようになったスペインならではと言えるだろう。
筆者が興味を示せず、感動もしなかったところもいくつかあったのは、筆者の個人的な好き嫌い、あるいはヒネクレによるものであり、これが参加者全員が抱いた印象や感想であるわけがないことは言うまでもない。
海外地理紀行 【全15回】 | 公開日 |
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