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卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》 第11部 ~春の娘~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その11)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》 第11部 ~春の娘~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その11)

幕間劇(14)「落ちこぼれ」

♪ かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる。
夜明けの晩に、鶴と亀と滑った。うしろの正面誰~れ ♪

 夕暮れまじかの筑後川に、真っ赤な太陽が落ちようとしていた。その西の空を淋しげに見つめながら、マリーが♪ かごめ、かごめ~ ♪と歌っている。この夏、母親の百合が結核で入院したのだ。ジョーは今、独りで福岡の家に住んでいる。昨年から福岡の高校に通っているのだ。だから、マリーは今、祖父ちゃんと祖母ちゃんとの三人暮らしだ。

 渡し船のディーゼルエンジンが、ダッダッダッダーンと川面を打った。その焼玉エンジンの勇ましさに負けじとカササギが、カッカッカッカッとイチョウの木のてっぺんで鳴いた。それを登場曲にするかのように「本な事っぁ(本当の話は)、屈め。屈めばい」と沖底の宮の祠から、仙人さんが笑いながらニョキニョキと出てきた。

 その声に振り返り、マリーはポカ~ンとして仙人さんを見ている。中学生になったマリーは、その光景の非現実性に気がつく歳になったのだ。小さい頃は、不思議なことだとは思わなかった。でも、沖底の宮の祠は小さい。産まれたての子犬が一匹収まれば良い位の大きさである。とても仙人さんの大きな身体が収まる広さはない。

 マリーは何かが喉元まで出かかったが仙人さんが話しを続けた。「それに昔は、鶴や亀は出てこんかった。鶴や亀が出てき始めたっぁ明治の世になってからばい。昔ン子はのう~ こんな風に歌いよったとたいね」と奇妙な童唄を口ずさんだ。

 ♪ かがめ(屈め)、かがめ(屈め)、籠の中の鳥追いは、いついつ出やる。
 夜明けの晩に、ツルツルつうぺった。
 なべの、なべの、そこぬけ。そこぬいて~た~ぁもれ ♪ 

 夕闇が一段と影を落とし、境内を川風が軽やかに吹き抜けた。村人は、もう夕餉の支度に忙しい。工場から帰宅する人々は、慌ただしく渡し船を下りていく。人々が日常生活に埋没するころ、怪かし達は、真夏の夜の夢の舞台に向けて、ゆるりゆるりと山から下りてくる。

 大人びてきたマリーは、少しだけ幼心を取り戻し「よ~く考えたら変な歌やね。いっちょん(まったく)意味の分らん歌よね」と呟いた。「そりゃ、隠し歌やけんねぇ。簡単には分らんように作っとるとさ」と、日常的なサイズに伸びた仙人さんが答えた。

 更に「かごめは、かがめ(屈め)じゃった。ばってん本な事っあ、カガメ(蛇目)のことじゃよ。そして、籠の中に閉じ込められていたのは、鳥追いの男さ。ところで、ワシの可愛い赤毛のマリーは、学校でいじめられたのかのう」と仙人さんが心配そうにマリーの顔を覗き込んだ。

 夕焼けが一段とマリーの赤毛を煌めかせた。「う~んん。ブキチ(武吉)がおるけん、誰も私のことをからかう奴はおらん。私が入学した日に、ブキチが1年生から3年生までの悪ガキ供を集めて『俺のマリーを泣かした奴は一刀両断にしてやる』って凄んだとよ」と、マリーが答えると仙人さんは、手を打って大笑いした。

 嬉しそうな笑い顔に漆黒の皺が刻まれる。「そりゃ、誰もワシの可愛い赤毛のマリーば、いじめる奴はおらんやろねぇ」と涼やかな川風に舞い上がった赤い髪を撫で整える。こんな振る舞いを仙人さん以外の人が行えば、マリーはその鼻っぱしに鉄拳をくらわせるだろう。ブキチが守ってくれなくても、マリーは十分強すぎる女の子である。

 仙人さんは懐から餅を二つ取り出すと、ひとつをマリーに差し出した。どうやらこれが仙人さんの夕餉のようである。餅の餡は野菜の煮びたしである。信州地方ではお焼きと呼ばれる。マリーは一口頬張り「これ南瓜?」と言うと、「ワシ(私)のは茄子じゃ」と仙人さんも頬張った。

 「籠にはもうひとつ、隠し言葉があってのう。そこには、ヒョウ(瓢)が隠れているのさ」と笑いながら仙人さんは話を続けた。秘密めいた夜風が吹き始めたようだ。更にお焼きを口に運ぶと「ヒョウ(瓢)は、ひょうたんのことじゃが、ヒョウタンの上の部分は、ツル(蔓・弦)といい、下の部分は、カゴというのじゃ」と仙人さんはお焼きを食べ終えた。

 八角の香りがマリーの口腔いっぱいに広がった。空は濃い灰色や茜色、くすんだ桃色に淡い青と奇妙な模様を描き出している。そのダークグレーの雲の中に入り込んだら、きっとエスニックな香りに包み込まれるのだろうと、まだら模様に染まる夕暮れに心奪われた。しかし、仙人さんは講釈を続ける。「カゴは籠でもあるが、亀のことも指しておる。亀は、甕の言葉遊びで、甕は、鍋に変わったのさ。それから、“つうぺった”と云うのは、辷(すべらし)のことで、辷とは見逃してやることじゃ」とマリーの瞳を見詰めた。ふいに“人さらい”という言葉が頭に浮かんだ。それは“つうぺった”に反応したのかも知れない。

 「ヒョウタンの口から逃げ出すのを見逃してやったのは、夜明けの番人さ。もちろん、そいつは、カガメ(蛇目)の手下さ。つまり、カガメ(蛇目)が、鳥追いの孫のアヒコ(阿彦)を逃がしたという歌なのさ、どうじゃね。面白い唄じゃろ」と仙人さんの昔語りが始まった。

 マリーは喉元に痞えていた非現実性を急いで飲み込んだ。そして「仙人さん。ちょっと待って。皆ば呼びに行って来るけん」と、村内に走り込んでいった。独り残された仙人さんは、イチョウのてっぺんに駆け上がると、川面を横切る渡し船の黒煙を見ながら

 ♪ カモメ(鷗)、カモメ(鷗)、籠の中の鳥は、いついつ射やる。
 夜明けの番人、ツルツルつ(辷)うぺって、
 早よ獲れ、早よ獲れ、早よ~獲って~た~ぁもれ ♪

 と独り唄を歌った。夏もそろそろ終わりである。じゃで、真夏の夜の夢もここらでお開きとしよう。

 秋風が夏の喧騒を沈め、河原が尾花色に染まり始めた。ジージージージーからチンチロ・チンチロ・チンチロリンである。夏明りに水しぶきを蹴上げていた河童共の姿も見なくなった。もちろん身震いしながらも護岸の岩場に潜り、鰻を捕まえようとする元気な水ガキも中にはいる。しかし、大半の子供達は、お宮の境内で落ち葉を集めて焼き芋の準備に忙しい。そんなある日の昼下がり、人影が消えた河原に、武吉(ぶきち)と仙人さんの姿があった。二人は川面を見つめながら何やら語り合っているようである。

 二人が腰を下ろしているのはボラ待ち櫓である。または鯉待ち櫓とも呼ばれている。漁業用語では四ツ手網漁と言われる。ボラや鯉・フナなどの川魚が、沈めた網の上に集まるのを見たら引き上げて漁をする。まことにのんびりとしたながら漁法である。

 芦の間を吹き流れ生暖かい風が吹く。まだ水は温んでいるようだ。最近、都会の川ではコンクリートの護岸工事が進み、川風は匂いをなくした。そして、田舎の河川も徐々に色合いをなくしていく。

 銀色の魚体が跳ね上がった。静寂に命の水音が波紋を打つ。「今のはボラかね。それともコイかね。いずれにしても大物ばい」と仙人さんが声を弾ませる。

 白茶けた声で「もう、エツの時期じゃ無かけん。ボラじゃなか」と武吉が声を返した。更に二人の声に耳を澄ますと「仙人さん。オリャ(俺)どうも変な奴らしかばい。今日も先生ば怒らせてしもうた」と、十六歳になった武吉がうなだれてつぶやく。「そうかね。ワシャ(私)お前さんほど頭ン良か奴はおらんと思とるばってんねぇ。どげんして(何で)、先生ば怒らしたとね?」と、仙人さんは川面を涼やかに見ながら聞き返した。

 武吉は「古文の時間に、虎が出てくる話が有ってくさい。先生がその話に出てくる『虎の心情を語れ』っちいうたとよ。だけんオリャ(俺)『虎の気持は人間には分からんけん無理です』っち答えたとよ。そしたら先生が『貴様は俺をおちょくってるのか』っち怒り始めたとよ。だけんオイ(俺)も『もし虎が人間ならどう考えるだろうか』っちいう問題の出し方なら答えられるばって問題の出し方が悪かけん答えられんっち言い返したとよ。そしたら先生は完全に怒って『学ぶ気がない奴ぁこの教室から出て行け』っちいうけん。そいならオサラバと帰って来たとたいね」と淡々として答えた。

 仙人さんはアッハハハと笑いながら「ばってん(でも)家には帰れんけん。こんボラ待ち櫓で時間ば過ごしよったとね。アッハハハ……。やっぱりお前はガバイ頭ン良か子たい」と言い武吉の頭をやさしく撫でた。それから「虎と人間では身体の造りが違う。身体の造りが違う生き物はモノの感じ方が違う。モノの感じ方が違うと考え方も違ってくる。だけん、人間以外の生き物の考え方は人間には分らん。っちいう答えは大正解たい」と褒めあげておいて「せっかくそこまで先生を怒らせたんなら、ついでに『じゃぁ先生には床を走り回るゴキブリがどんな気持ちで走りまわってるか? 分かりますか』っち言うてみれば良かったのにのう」と、仙人さんは意地悪い笑みを浮かべた。

 武吉は力なく「そげなこと言うたら、間違いなく父ちゃんと母ちゃんが呼び出されるやろうね。ただでさえ先生達からは“落ちこぼれ”っち思われとるけんねぇ」と答えた。しかし、数学や物理の成績では、武吉は学年でも群を抜いていた。武吉(武吉)は理論派なのである。理屈っぽいともいう。

 しかし、ただ単純に理屈っぽい訳でもない。小学校低学年の頃、算数の時間に「ここにリンゴが5個とミカンが3個有ります。合わせたらいくつですか?」という先生の問いに「リンゴとミカンを食べ合わせても美味しくありません。リンゴとベーコンを一緒に炒めると意外と美味しいです」と答えた。

 先生は目を丸くして「へぇ~やっぱりブキチは天才ね。その奇抜な着眼点を持っていたら、将来はノーベル賞が取れるかもしれないね」と頭を撫でてくれた。それから「じゃぁ~他にはどんなものが足せて、どんなものは足せないの?」と興味を膨らませ更に尋ねた。神童は得意げな顔をして「自転車とリヤカーなら足せる。竜(りゅう)ちゃんの父ちゃんの辰ちゃん小父さんが、昔そげんして商売に行きよらした。ばってん、船と飛行機は足せん。船と飛行機ば合わせたら両方とも動けんようになる。だけん、船と飛行機ば足すとゼロになる」と言った。

 先生は更に驚き「みんな、天才ブキチに拍手をしよう。足し算をしてゼロになるという答えが出せる人は天才よ。人間はね。長~い歴史の中でも、ゼロという数字に気づかんやったとよ。でも、インドの天才さんがゼロという数字に気づいたの。そして算数の世界は大きく広がったとよ」と、みんなに説明をしてくれた。この当時、小学校の低学年は、女の先生が受け持ち、高学年になると男の先生が受け持った。この女の先生は、大学時代には哲学を専攻していたらしい。田舎では年寄り達が「女子(おなご)にゃ学問はいらん。早よう嫁に行って丈夫な子ば産め。それが女子の唯一の役目たい」と言っていた時代のことである。

 夏休みから宿題を引いたら楽しみが残る。冬休みから寒さを引いたら幸せな時が残る。この答えは、本当だろうか? クリスマスに花祭りを足したらどうなるだろう? 自転車に翼を足したらどうなるだろう? 少年はたわいもない哲学にふけり中学時代を過ごす。そして、現実が学びの時間を蝕み受験戦争に突入する。

 昭和四十一年、ジョーは、宮崎の航空大学に入学した。英(ひで)ちゃんは、東京の大学に入学した。竜ちゃんは、福岡の私大に入学した。武吉は、三人の先輩の後を追うように、久留米の進学校に入学していたが、ここで三人の先輩の道が分かれたのである。だから、武吉は、迷っていた。男の子のロマンを掻き立てられるのは、やっぱり宮崎の航空大学に入りパイロットに成ることだ。

 しかし、竜ちゃんの大学は、九州では飛び抜けてハイカラである。大学の構内には教会があり、多くの人が胸にクロスを輝かせている。お兄さんたちは髪を伸ばし、お姉さんたちは誰しもが清楚に見える。武吉の家は代々仏教徒である。保育園も寺の中だった。お昼寝は本堂である。だから、仏様は見飽きていた。やっぱりチャペルで「アーメン」と言ってみたい。ばってん(でも)クリスチャンになる気はなかと(無い)である。

 宗教は、子供の頃から嫌というほど、仏様と、神様が身の回りから離れずについて回っている。だけん(ので)、もうこれ以上は良かと、である。正月が明けると、サギッチョ(左義長) の神事が有り、ホッケンギョウ(ドンド焼き)で村の子供達の年中行事は始まる。そして、春になるとお釈迦様の誕生日が有るし、お彼岸になれば、ぼた餅を食べなぁいかん。お雛様を飾って、鯉のぼりを立てたと思ったら、田植えの頃には、お宮でビンビン(の輪潜り)もせなぁいかん。葦の輪を、左に右に更に左にと八の字に三回も回らないかんのである。そうして頭の上で神主さんが、弓の弦をビンビンと引く。何の意味があるのか解らんけど、ビンビンをしてこないと父ちゃんがうるさいのだ。父ちゃんが言うには、ビンビンは鳴弦の儀と言ってこの半年の穢れを払い、夏の猛暑に耐えられるように行う神事だそうだ。だから、この初夏の祭りは「夏越の祓(なごしのはらえ)」というそうである。

 そして、梅雨の曇天空から夏の日差しが顔をのぞかせる頃になると、祇園さんである。とにかく暑い。水を頭からかけてもらわんと死にそうに暑いのだ。しかし、鐘や太鼓の練習をするのは子供達の楽しみでもある。学校が終わると、皆お宮に集まり先輩から鐘や太鼓の拍子を習う。ド~ンドン、ドン、カンカン、ドンドンカンカン、ドンカンカンと言った具合である。この拍子は、村ごとに違うので、音を聞けばどこの村の獅子舞が廻っているか分かるのである。

 七夕の笹飾りを済ますと、あっという間にお盆だ。盆相撲大会の季節である。この近在では、どこの村の神社の境内にも、必ず土俵が在る。だから、夏休みになったら毎日相撲の練習だ。土俵の周りには、暇な爺さん達が集まってきて後進の指導にうるさい。爺さん達は皆歴戦の相撲巧者なのだ。

 そして、秋のお彼岸の、おはぎを食べたら、七五三の着物を着て、それから冬至には南瓜を食べないかん。そうしたら、やっとクリスマスケーキである。だから、クリスチャンにまでなって、これ以上年中行事を増やしたくないのである。キリスト教はクリスマスケーキを食べるだけに留めておきたいのである。

 進学先に迷っていた高校三年生の春に、武吉は、守人とヨシに呼ばれ「お前の本当の父親は、中村武秋といい母はキム・キルメ(金吉梅)という」と告げられた。生死は不明である。中村家の事はある程度知っていた。ヨシに連れられて妹の香那と一緒に何度か蒲生(かも)の祖母ちゃんにも会いに行ったことがある。軍服姿で馬に乗った祖父ちゃんや、曾祖父ちゃんの写真も覚えている。

 仏壇の横には、やっぱり軍服姿の若い男の人の遺影があった。母ちゃんの兄だと聞かされたので、その時は伯父さんだと思っていた。あれが本当の父上だったのだ。

 母キルメ(金吉梅)の顔は分からなかった。でもこの話を告げられた時に、ヨシ母ちゃんが一枚の写真をくれた。その写真には、蒲生の一族が写っていた。ヨシ母ちゃんがまだ娘姿である。ヨシ母ちゃんと、蒲生のフミ祖母ちゃんに挟まれて幼子を抱いた夫婦が写っている。男の人は武秋である。だから幼子を抱いた女の人がキルメ(金吉梅)で抱かれた幼子が武吉である。その写真を見て武吉はおぼろげながら自分が蒲生の町で育ったことを思い出した。そして、四歳の時にヨシと守人に手をひかれ蒲生の町を後にし、でこぼこ道を、加治木の駅に向かったバスの揺れを思い出した。

 ヨシの話では、キルメ(金吉梅)と武秋は、キルメ(金吉梅)の兄の紹介で知り合ったそうだ。キルメ(金吉梅)の兄は、キム・ムチュン(金武春)という名で、朝鮮の武人の一族だったそうだ。武秋とムチュン(金武春)は、東京の陸軍幼年学校で知り合った。そして二人は同じ歳で直ぐに親友になったらしい。二人は何をするにも一緒で教官は「おいそこの春秋(しゅんじゅう)」と、二人の名をかけ合わせていっぺんに呼ぶような様子だったらしい。

 性格はまったく反対で、その名の通りムチュン(金武春)は、陽気で無鉄砲な暴れ者。武秋は少し陰気な理論派で、何事にも慎重派だった。人は自分に無い素養をもった者に憧れるものである。二人は自分には無いモノを相手に求め合い意気投合したようである。更にムチュン(金武春)は、武秋との絆を確固たるものにするために、愛妹のキルメ(金吉梅)を、武秋に目合わせたのだ。キルメ(金吉梅)は、両班の娘らしく淑やかな風情だったが、兄のムチュン(金武春)と、同じように陽気な性格で、武秋の方が常に引っ張られていたようである。

 そして二人は、ムチュン(金武春)の思惑通り夫婦の誓いを交わすように成ったのだが、ムチュン(金武春)の父ユシン(金由信)が二人の結婚を許さなかった。ユシン(金由信)達老いた朝鮮の両班にとって、日本人は憎っくき侵略者である。野蛮で教養の欠片もない倭寇の奴らに両班達は己が名誉を踏みにじられたのである。しかし、若いムチュン(金武春)には、そんな恨みの心がない。日本で教育を受けたことも一因であるが、陽気なムチュン(金武春)は「恨みでは前に進めない」ことを知っているのだ。

 朝鮮の歴史は、常に苦難の歴史である。大国シャー(中華)と、東海の覇者倭国に挟まれて幾度苦渋の色に染まったことだろう。「恨みはその苦渋の色の空の下でうつむいている姿でしかない。更に西洋列強は、中華大陸を飲み込み朝鮮半島をも我が物にするだろう。そんな苦難の時代が迫っている。そんな時にうつむき恨みだけで生きていては朝鮮の未来はない。前を向きながら時を待つのだ」と考えている。だから、ムチュン(金武春)の心は広い。ムチュン(金武春)自身は朝鮮人だが、それ以上に亜細亜人という意識が大きい。だから、「今は、日本人とも中国人とも手を結ぶべきだ」と考えている。その気概の大きさは武秋にも通じていた。だから、二人は小さな民族の利害を超えた友情で結ばれていたのだ。

 しかし、十五歳の多感な時に、祖国を奪われたユシン(金由信)の恨みは大きい。良く「食べ物の恨みは恐ろしい」と、茶化した会話に上る恨みがあるが、食べ物を奪われた悔しさは長い人生の中では刹那的である。しかし、青春という人生の門出に萌がった誇りを奪われるのは、死ぬまで忘れられない恨みとなる。だから、ユシン(金由信)は、仲間の両班達と執拗に抗日運動を続けてきた。

 だが、王権の争いから目を反らすことが出来ない朝鮮の王朝は、もはや朝鮮の民や、ユシン(金由信)達愛国者の頼りには成らなかった。1895年に日清戦争で日本が清国に勝利すると、朝鮮はやっと清国の手から自由になり独立することが出来た。時折、「日本が朝鮮を独立させた」という人がいるが、時の大日本帝国にはそんな気はない。日本は朝鮮の独立の為に清国と戦ったわけではない。たまたま、清国が敗れたので、朝鮮は清国の属国からするりと抜け落ちただけである。だから、それは束の間の安堵であった。

 今度はロシアと日本が、朝鮮半島を狙って来たのだ。ユシン(金由信)達には情けないことだったが、朝鮮の支配層は、そんな時にですら自国民を守る気概が無かった、それどころか、あちらに揺れ、こちらに揺れと、朝鮮の未来を定められなかった。だから、抗日青年達の苦難の時代は続いたのだ。そして、朝鮮王朝は、大韓帝国という名の日本の傀儡政権に成ってしまった。朝鮮半島の権益をめぐり日本とロシアは、日露戦争を戦い、日本が勝利すると、大韓帝国の命運は尽きた。

 ユシン(金由信)と仲間の抗日両班達は、ロシアの後ろ盾を無くし、もはや朝鮮国は、独立国ではいられなくなってしまった。だから恨みは、キムチの壺に漬け込み時を待つしか無くなった。トンガラシは恨みである。恨みだけが両班達の生きて立っていられる活力なのだ。

 だが、キムチの味は辛味だけではない。心を労り活力を生み出す独特の旨味もある。この旨味を生み出していたのは金氏ではムチュン(金武春)と、キルメ(金吉梅)の母ムンジョン(文貞)である。ムンジョン(文貞)は、カヤグム(加耶琴)を奏で詩歌を朗する才媛であった。そのムンジョン(文貞)には、武秋の人柄が手に取るように分かっていた。それに、ムンジョン(文貞)の目には、夫のユシン(金由信)と、キルメ(金吉梅)が慕う武秋はとても良く似て見えていた。二人とも正義感が強く、愛郷心に満ちているのだ。でも真っ直ぐな二人は、なかなか打ち解けあえないでいるように見えた。似た者同志は、案外とすんなりとは行かない者のようである。瀟

 仏頂面のユシン(金由信)を横目に置いて、ムンジョン(文貞)は何かと武秋を家に招いた。家に招かれた武秋は、正座をし深々と頭を床に垂れた。そして朝鮮の言葉で挨拶をし、金家にいる間は始終朝鮮の言葉で話した。むしろ日本語を交えて話をするのは、ムチュン(金武春)の方である。幼い時から日本で育ったムチュン(金武春)にとって、日本語は、半分母国語のようなものでもあるのだ。しかし、武秋は礼を心得ている。仏頂面をしながらもユシン(金由信)は「こいつは本物の武人だ。」と、武秋の事を見るように成ってきた。武人の誇りと共感が、少なくとも武秋に対しては、ユシン(金由信)の恨みを少しずつ解かし始めていった。だが、動乱の時代は、無情にもキルメ(金吉梅)と武秋の幸せを認めてはくれなかった。昭和二十年夏、キルメ(金吉梅)は愛する兄と武秋の戦死を知らされた。明けて春、キルメ(金吉梅)は、蒲生(かも)の町を訪れた。そして、武秋の母フミに朝鮮での武秋の様子を報告した。手には一枝の白梅が、春の便りを香らせていた。

 「早く、早く、急いで仙人さん。私がもう皆を集めてとるけん。ほら急いで、急いで」と十歳に成ったお姉さん香那(カナ)嬢が、沖底の宮の祠から仙人さんを引っぱり出している。「おう、おう」と言いながら仙人さんは香那(カナ)嬢に手をひかれて堤防を西に駆けていく。どうやら御大師さんのお堂に向かっているようだ。そういえば今日は花祭りの日である。香那(カナ)嬢は仙人さんに甘茶でも飲ませようと考えているのだろうか? それとも「私がもう皆を集めてとるけん」と言っていたので巡礼の人々に「仙人さんの昔話」を聞かせようとでもいうのだろうか?

母請いし 北の香りか シラ(始羅)の梅

~ 異国の丘 ~

 チュホ(州胡)の海賊王会議が終わると、私達は、スロ(首露)船長の船で、伊都国に送って貰うことになった。そして、美曽野女王と、臼(うす)王に、ことの成り行きを報告するのである。それから、スヂュン(子洵)の顔を見たら、項家二十四人衆の輿に揺られて、山越えをしてヤマァタイ(八海森)国に戻る予定である。

 茜色の洋上の上を鈍色の雲が覆っていく。“いやな空模様だ”と水平線に目を凝らすと、どうやら脊振の峯には雷鳴が轟いているようだ。“まぁいいか。雨になったら伊都国逗留を伸ばそう。この状況なら香美妻も許してくれよう”と秘かな悪企みを胸にしまい船楼を見渡す。

 船には、項家二十四人衆以外に、ジンレイ(静蕾)様と、バイ・フー(白狐)様も乗っておられる。お二人は、船の発注者のシェンハイ(玄海)様と、バイ・チュウ(白秋)様に代わり、斯海(しまぁ)国の造船所で細かい設計の打ち合わせを行うのだ。それは机上の図面ではなく、現場で立ち合いながら修正を加えていくのである。もちろん船室でも夏希義母様との打ち合わせを欠かしていない。

 ジンレイ(静蕾)様は、もう一人、息子のフェイイェン(飛燕)を、伴われている。フェイイェンは、私や、須佐人と、同じ十五歳だ。更に、もう一人同じ十五歳が乗り込んだ。名は、ガオ・リャン(高涼)と言いガオ・ユェ(高月)様の孫である。

 フェイイェン(飛燕)と、リャン(涼)は、もうすぐ進水する風之楓良船(ふうのふらふね)に乗り込み、大型船の操船を勉強するのだ。もちろん、フー(狐)様もそうである。須佐人と、フェイイェンと、リャンの三人は、すっかり意気投合している。

 北風が伊都国に船を運び込む。少し強い風なのでスロ(首露)船長は帆を畳むように指示を出した。屈強な船乗りが隆々たる腕で綱を引き下ろす。三人も勿論加わる。だが、やや腰つきが心もとない。しかたない、三人はまだ少年なのだ。それから、櫂を漕ぎ始める。やっぱり力みすぎて、櫂が洋上を浮遊する。“嗚呼、もう見ていられない。私がビシビシ指導してやろうか”と精神注入棒に手が伸びそうになる。でも、その様子を楽しそうにスロ(首露)船長は眺めている。

 心もとない三人の中では、やっぱり須佐人が、兄貴分だ。須佐人には、威張ったところはないけれど、何故か昔から風格がある。やはり、巨健(いたける)伯父さんに似ているのだろう。巨健伯父さんも、威張った所はないけれど、いつでも皆から頼られるのだ。

 私の村では、「小さなもめごとは、アタレルが仲裁し、大きなもめごとは、イタケルが仲裁する」と言われていた。でも、良く考えれば巨健親子は、帛(はく)女王の血を受け継いでいるのだから不思議ではない。私の血を受け継ぐ子供は、やっぱり意地っ張りなのだろうか。志茂妻(しもつ)よ。早く帰ってきて、私の意地っぱりを治す薬を作っておくれ。それに、その薬は、香美妻(かみつ)と、熊人(くまと)にも飲ませないといけないのだ。志茂妻は、今頃どうしているのだろう。

 須佐人と、フェイイェン(飛燕)と、リャン(涼)の同じ歳三人組が、船乗り家業を楽しんでいる間に、もう一人の十五歳の私は、スロ船長に、大人の事情を問いただしていた。私の食ってかかるような問いただし方に、アチャ爺と、夏希義母ぁ様は、苦笑していた。そして、スロ船長の話はこうだった。

では、まずスロ船長ことキム・チョンヨン(金青龍)王の生い立ちから話していこう。

 四代目スロ(首露)チョンヨン(青龍)王の父は、三代目スロ(首露)チョンチル(清疾)王である。そして、異母姉にキム・ダヘ(金多海)様がいる。チョンヨン(青龍)様の母は、コジャ(古自)小国の女族長ヘジン(恵珍)だけど、異母姉ダヘ(金多海)様の母は、パンパ(伴跛)小国の御姫様ジョンウォン(貞媛)といわれる。そのジョンウォン(貞媛)様には息子が一人いる。名をキム・ミョンス(金明朱)という。そして、ミョンス(明朱)様とチョンヨン(青龍)様には血のつながりはない。金氏の相関図は複雑なのである。まったく大人の事情はややこしい。

 三代目のヒルス(蛭子)王ことチョンチル(清疾)様の最初の妻は、ジョンウォン(貞媛)様である。それは、それは見目麗しいお姫様だと、ピョンハン(弁韓)国中ばかりか、ジンハン(辰韓)国にまで知れ渡っていた。対する夫のチョンチル(清疾)様は、ヒルス(蛭子)王と揶揄され呼ばれるように醜いお姿だった。

ジョンウォン(貞媛)様は、十三歳でチョンチル(清疾)様に嫁がれた。今の私より、二つも若くして嫁がれたのだ。やはり美人は得である。でも良いのだ。香美妻も見目麗しいお姫様だけど、まだ嫁いでいない。だから婚姻は運なのだ。あせる必要はない。

 世間の噂を掻き立てたのは、もっぱら美女と野獣の取り合わせである。そして、無責任な風聞が流れる。「アミョン王子は、異母妹のジョンウォン姫と、許されぬ恋仲だった」というものである。しかし、十二歳の少女が、凛々しい兄に憧れるのは、不思議なことではない。そして、アミョン(阿明)様が、心やさしい兄であったら、まるで恋人に接するように妹を愛しんだことだろう。だから、その間柄が、男と女の恋仲だったとは思えない。まったく世間の噂とは、罪なものである。

 嫁いだジョンウォン(貞媛)様は、ヒルス(蛭子)王に尽くされ、十六歳で娘のダヘ様を儲けになった。そして、二十歳に成られた時に、再び醜聞が世の人々を騒がせた。その噂話の語り部によると、世の噂とは、このようなものだったそうだ。

パンパ(伴跛)小国の醜聞 ~アミョン王子の卑しき恋~

 さぁさぁ、皆の衆、お立会い。お立会い。他人の不幸は、蜜の味。一口舐めたら忘られぬ、さぁさぁ、舐めんと分らん、禁断の味だよ。さぁ、お立会い。古今東西恋物語は多けれど、こいっぁ、やばいよ。卑しき恋の物語だぁ。

 さぁさぁ、お立会い、お立会い、皆の衆。ある日のこと、パンパ(伴跛)小国王子アミョン(阿明)が、コジャ(古自)小国のコルポ(骨浦)村の鍛冶場に現れた。と、いうじゃぁないか。皆の衆も知っての通り、アミョン王子は、ピョンハン国の中で、最も眉目秀麗な美男子と評判だぁ。じゃが、惜しいことに、性格が残虐だから、人々からの評判は、すこぶる悪い。その上、日頃から、淫蕩に浸っているアミョン王子は、妹のジョンウォン(貞媛)姫にまで、手をつけているからさぁ困ったもんだ。

 従兄妹同士の恋なら許されるが、兄と妹の恋物語は、畜生道の恋だよね。いくら高貴なお方でも、こいつはぁ頂けないね。そこで、パンパ(伴跛)小国の族長アス(阿修)様と、二代目スロ王キム・チョンプ(金千富)に嫁いでいた、妹のヒョンジョン(賢廷)王妃は、互いの子息を結婚させようと、急いだようだね。皆の衆も知っての通り、クヤ(狗邪)小国の王子は、醜いヒルス(蛭子)王子だからね。いくら、次のピョンハン王だとはいっても、醜いヒルス王子の妻になろうという娘は、国中を探してもおるまいよ。対して、パンパ(伴跛)小国のジョンウォン姫は、ピョンハン国一の美女だよね。

 だから、まったく「美女と野獣の婚姻を絵に描いた如し」じゃないか。ねぇ、皆の衆。しかし、善からぬ噂を打ち消したいアス(阿修)族長と、醜い息子の嫁探しに苦慮していたヒョンジョン(賢廷)王妃の思惑は、揺るがなかった。それに、ヒルス(蛭子)ことチョンチル(清疾)王子は、倭国から呼び戻されても素直にクヤ(狗邪)小国に戻ろうとはしなかった。きっと、一度は自分を捨てた祖国の土を踏みたくなかったんだろうねぇ。皆の衆も、そのあたりの気持ちは良く分かるよねぇ。親に捨てられた子供は、貧乏人ほど多いからねぇ。母を思えば思うほど、恨みもつのるってもんだよねぇ。その淋しさは、高貴なお方でも、貧乏人でも変わりはしないからねぇ。なぁそうだろうそこの貧乏人。えっ、「俺は中産階級だ」って、見栄張るんじゃないよ。親の顔も知らない奴がよぉ~ お前にもおいらと同じ匂いがすらぁ。でも人間意地もねえ~と生きられないからね。よおっ、互いにがんばろうじゃねぇか貧乏人!!

 そこで……、何の話だったっけ? おうおうおう、祖国に戻らなかった話ね。有難うよう貧乏人。さても晴ればれ、ヒルス王子は、隣国コジャ(古自)小国のコルポ(骨浦)村に、鍛冶場を作り、普段はそこで暮らしておったのさ。だから、二人の新居も、コルポ村っちゅう訳だ。そのコルポ村に、アミョン王子は、妹ジョンウォンと、再び浮気を始める為にやってきたのだ。どうも、高貴なお方っちゅう人は、懲り性ってものが薄いんだよねぇ。それに、ジョンウォン姫は、醜いヒルス王子に嫁ぎ、悲嘆に暮れて居ったので、二人の仲は、直ぐに恋仲の関係に戻ったちゅう訳よ。困ったもんだね皆の衆。

 ところが、ヒルス王子は、そんなことには、まったく気付かず、鍛冶場に籠っておった。良くある話たいねぇ。でもね。そんなことが、長いこと許されて良い訳ないよね。皆の衆。いくら高貴なお方でも、犬畜生の振る舞いは、いただけないよねぇ。なぁそうだろう貧乏人!!

 でもね。ある日「ジョンウォン様は、兄のアミョン王子と、浮気をしておられます」と、告げに来た正直者がいたんだよ。そこで、ヒルス王子は、館に戻り、そっと天井裏から部屋の中を覗き見たのさ。すると、確かにジョンウォン姫が、アミョン王子の背に寄り添い、頬を寄せていた。しかも、アミョン王子は裸だったらしいよ。

 えっ?! その光景をヒルス王子が皆に話したのかって? そんな自分の家の恥をさらすことをする筈はないさ。えっ?! それじゃ誰かが、ヒルス王子と一緒に、そのふしだらな光景を見ていたのかって?。そんなことは、オイラは知らないよ。知らないけど、誰か正直者が見ていたんだよ。きっとね。

 だって、そうだろう皆の衆。「ばれない秘めことはない!!」っうのは、皆の衆も痛いほど経験しているだろう。ねぇ、そのえっ?!「俺は知らなって」嘘つくんじゃないよ。正直者のオイラの前で、ねぇ、皆の衆。えっ「俺もそう思う」ってか正直者だね貧乏人!!

 話は先行くよ。良いかい。もう、誰も、オイラの話の腰を折るんじゃないよ。良いかい。行くよ。って、どこまで話たっけ? 嗚呼そうだった。秘めごとの現場を押さえたとこだったね。有難うよう。鼻の下が長いの。良~し行くよ。

 ジャンジャン~、愛妻に裏切られ激しい憎悪が芽生えたヒルス王子は、特製の鉄の網を投げかけ、二人を捕獲すると、手下に命じ館の戸板を、すべて開け放し、二人を晒しものにした。それから、ピョンハン国の全ての族長達を、急ぎ召集し、この醜態を公開した。この密通現場を、見せられた族長達は、皆、困った顔をしていたが、ヒルス王子は、「伯父上、貴方様より拝領いたしました花嫁は、このように、ふしだらな女にございます。されば、ここに、特製の網を付けてお返し申し上げますので、どうぞ、お引取りください」と言った。ジャンジャン~。

 えっ?! どうやってそんなに早く、ピョンハン国中の族長を集めたかって? 知らないよ。そんなぁことは、どうでも良じゃぁないか。その方が、話が面白くなるだろう。誰もいないのに、ヒルス王子が、壁に向かって独り言つぶやいていてもつまんないだろう。皆の前で「特製の網を付けて、お返し申し上げますので、どうぞ、お引取りください」って、見得張った方が面白いだろう。お願いだから、そこの天秤棒担いだ人、人の話の腰を折るのは止めてよ。話が先に進まないでしょう。オイラこう見えてもあんまり頭良くないんだよね。お願いだからね、そこの天秤棒、出鼻くじく真似だけはやめてよ。いいかい、じゃぁ行くよ。

 ジャンジャン~、その鉄の網は、敵の騎馬隊を捕獲する為に、ヒルス(蛭子)が造った武器だったのだ。そこで、族長の一人が「これは、また、何と艶っぽい騎馬“態”か」と、呆れ果てたように呟くと、他の族長達から、失笑が沸いた。その失笑が、木霊す中を、パンパ(伴跛)小国の族長アス(阿修)と、妹のヒョンジョン(賢廷)王后は、アミョンと、ジョンウォンの兄妹を連れ退散して行った。

 その後、コジャ小国の公子コヘ(高海)の仲介の元、ヒルスは、ジョンウォン妃と離縁し、パンパ(伴跛)小国から、賠償を受け取った。そして、アミョンは、ヌクド(勒島)へ、ジョンウォンは、チュホ(州胡)での謹慎を命じられた。当初、ヒルス王子の怒りは凄まじく、二人の死罪を望んだようだが、公子コヘの説得を受け入れ、死罪だけは許された。どうだい、皆の衆。見てきたような話だろう。

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 と、いうのが噂のあらましである。しかし、この噂には、不審な点もある。“そこの人”ではないが、アミョンと、ジョンウォン兄妹の不義密通の話が起こった時には、ヒルス(蛭子)こと三代目スロ王のチョンチル(清疾)様は、既に王になっていた筈だ。前年、二代目スロ王チョンプ(千富)様は、病に倒れ、お身体が不自由に成られた為に、王位を、チョンチル(清疾)様に譲られた筈である。だから、いくら噂でも、せめてヒルス王と呼ぶべきである。

 そして、王になられたチョンチル(清疾)様と、王妃に成られたジョンウォン様が、そのまま「隣国コジャ(古自)小国のコルポ(骨浦)村で暮らしていた」とは考えづらい。でもまぁ、五十年も昔の話だから、噂の真相を問いただしようもないが、やはり噂は噂である。

 しかし、ヒルス(蛭子)王が、ジョンウォン王妃を、絶縁したのは事実である。だから、幼かったダヘ(多海)様は、お祖母様のヒョンジョン(賢廷)皇太后に育てられたようである。その後、ヒルス(蛭子)王は、ヘジン(恵珍)様と、再婚され、鯨海の海賊王スロ船長が生まれた。しかし、ヘジン様が、コジャ(古自)小国の族長になり、大半をコジャ小国でお過ごしに成るようになると、幼いスロ船長は、姉ダヘ(多海)様に育てられたようだ。その時ダヘ(多海)様は、十四歳。スロ船長は、四歳だったそうだ。だから、スロ船長にとって、ダヘ(多海)様は、母のような存在だったのだ。以前「母と疎遠になるのは、親父譲りだ」と、自嘲気味に、スロ船長は話してくれた。

 伽耶山の美しい山姿が夕焼けに染まっている。沿岸の村々には夕餉の煙が立ち上り、港の灯りも見えてきた。祖国の村も、異国の村にも人々の営みがあり俯瞰して見れば大差はないのだろう。野に住まう生き物は、食糧に困らなければ、異国も故国もあるまい。海に住まう生き物は、海流に暮らせば、海域毎の情を持つとは思えない。人は何故に故国を思うのだろう。それは生息域への情ではなく、母の国だからかも知れない。そして、母国を思う心は、疎ましくもあり、愛しくもある複雑さを生むのである。

 ヒルス(蛭子)王ことチョンチル(清疾)様は、お生まれになった時には、背の骨も足の骨も、曲がってはいなかった。でも、早産で生まれたので、骨もまだ固まっておらず、頭などはぷよぷよとしていたらしい。そこで、二代目スロ王は「まるで蛭のような子だわい」と言われたそうだ。二代目スロ王に、我が子を卑しめる気は無かったが、母のヒョンジョン(賢廷)様は、その言葉が胸に刺さり、人目を避けて、室内に籠りがちになった。それに、もともと、ヒョンジョン(賢廷)は、肌が白く、日に焼かれるのが苦手だったらしい。そして、お乳の出も良かったので、乳母も付けずに、王宮の奥にひっそりと親子二人でいたそうだ。

 私の胸も、近頃少しは、膨らんできた。でも、まだお乳は出そうもない。加太の話では、お乳は、母親の分身らしい。だから、「子を産み母親になったら、好き嫌いをせず、ちゃんと食べて、太陽の陽気も、身体に取り込み。そして、明るく生きなければいけない。そうしないと、丈夫な子には育たないぞ」と、言っていた。魂は、神様からの分身だけど身体は、母親からの分身なのだ。だから、チョンチル(金清疾)様を、ヒルス(蛭子)王にしてしまったのは、父親だったのかも知れない。どうも、二代目スロ王自身もそう思われていたようである。子を産むことを知らない男は、どうしても、無神経なことを口にしてしまう。そして、その言葉を後悔しながら、償いの人生を送るようである。

 二歳になった頃、チョンチル(清疾)様は、酷いガニ股だった。その為に歩くのも苦手で、お二人は、ますます籠りがちの生活に成ったようだ。加太なら、このチョンチル(金清疾)様の様子を、くる病だと診断しただろう。そして、チョンチル(清疾)様の、くる病の症状が顕著になると、二代目スロ王は「このままでは、この子は王に成れない」と思い、義兄に当たる伊奴(いな)国王の室巳(むろみ)様を頼り、七歳のまだ幼いチョンチル(清疾)様を、倭国に送り出した。そして、甥のヒルス(蛭子)を憐れんだ室巳様は、伊美国の三笠(みかさ)様に託し、職人から製鉄の技術を学ばせた。

 しかし、幼いヒルス(蛭子)王に、父の思いは伝わらない。ヒルス(蛭子)王は、伊美国の丘に立ち、北の空を見やっては「自分は捨てられた」と、望郷の念を押さえた。製鉄の師匠は、風流人だったようで、ヒルス(蛭子)王に、製鉄の技術だけでなく、月琴の奏で方も教えてくれたそうだ。だから、陽が落ちた倭国の丘に立ち、月琴を奏で、望郷歌を歌って耐えたそうである。そう、夏希義母ぁ様は、チョンチル(金清疾)伯父さんに聞かされたらしい。

 そして、夏希義母ぁ様の話では、ヒルス(蛭子)王は、とても歌が上手かったらしい。ある夜、船縁で、スロ船長が、独り歌っていたのを聞いたことがある。スロ船長も、美声で、歌が上手かった。だからきっと「親父譲り」なのだろう。

 ヒルス(蛭子)王が十四歳に成った年に、父である二代目スロ王に呼び戻されてピョンハン国に戻った。そして、室巳様と三笠様は大勢の製鉄職人を付けて送り出してくれた。しかし、ヒルス(蛭子)王は、生まれ故郷のクヤ(狗邪)小国には戻らなかった。ヒル(蛭子)ス王は、二代目スロ王に呼び出されれば、直ぐに参内出来る隣国コジャ(古自)小国のコルポ(骨浦)村に鍛冶場を拓き鉄器の生産を始めた。確かに噂のように「未だ異国の丘に立ち意地を張ってみた」のかも知れない。

 キム・ダヘ(金多海)様が、十五歳になった頃、高志(こし)の族長の息子丹羽(には)様が、ヒルス王の鍛冶場に修行にやって来た。稜威母(いずも)や、高志の中でも製鉄は行われていたが、当時ヒルス王の製鉄技術は、抜きん出ていた。だから、周辺諸国から、弟子入りが後を絶たず、ヒルス王の名声は、鯨海一円のみならず東海中に広まっていたそうである。

 春の乙女ダヘ(多海)様と丹羽様は恋に落ち、やがて二人は、長女真奈(まな)様を設けた。ダヘ(多海)様十七歳の時のことである。当初、ヒルス(蛭子)王は、初孫の誕生をとても喜んだようだ。しかし「どうも、ニハは、アミョンが、倭人に産ませた子のようだ」と、いう噂を伝えた者がいた。そして、調べてみると、確かにそうだった。丹羽様が、アミョン様の子だと知ると、ヒルス(蛭子)王は、激怒し、丹羽様を、鍛冶場から追放した。そして、生まれて間もない真奈様も、共に高志に追放した。

 嵐のような怒りが収まると、ヒルス(蛭子)王は、一時の感情を抑えられず孫娘を異国の丘に立たせたことを後悔した。そして「孫娘の真奈は私を恨むだろう。親族に捨てられた恨みは、我が身が良く知っている」そうチョンチル(金清疾)伯父さんは、淋しそうに言った。と、夏希義母ぁ様に教えてもらった。だから、夏希義母ぁ様が、父様と恋に落ちた時、チョンチル(金清疾)伯父さんは、何としても夏希義母ぁ様を守りたいと思ったのだろう。でも人生は思うようにはいかない。

 その後、ヒルス(蛭子)王は、娘のダヘ(多海)様を、ジンハン(辰韓)国の王族パク・ネロ(朴奈老)二十三歳に嫁がせた。ダヘ様は、まだ十七歳だった。娘と生き別れになった悲しい花嫁を、ネロ(奈老)様は、やさしく包み込んでくれた。そして、程なく長男ヨンオ(延烏郎)を儲け、その六年後には、長女ギュリ(朴奎利)が産まれた。しかし、ジンハン(辰韓)国で、私のお祖父様イルソン(逸聖)が、王位に就いた年。王家の争いごとを避けようと、ネロ様は、下野し、独り倭国に隠棲した。

 別れぐせのついた人は、どう生きていけば良いのだろう。春の陽光に包まれて生きる人は、一握りなのだろうか。悲しみの秋風が、ふたたびダヘ(多海)様に襲いかかった。そして、幼い二人の我が子と、チマ(祇摩)王の遺児であるナリェ(奈礼)様を伴って、父ヒルス王の許に身を寄せた。

 「私の狭い了見が、娘を不幸にした」と、チョンチル(金清疾)伯父さんは悔いていたそうだ。だが、後悔に苛まれるヒルス(蛭子)王を尻目に、十八歳のチョンヨン(青龍)は、喜びに満ちていたようだ。とも、夏希義母ぁ様から聞いた。

 そして、私もそのことを問いただすと「ネロ大将の不幸は、悔やまなければならないが、ダヘ姉さんとまた暮らせるのは心が浮き立った」と、スロ船長は素直に白状した。でも、母の温もりを知らずに育ったスロ船長を責めることは、誰にも出来ない。

 翌年、十九歳のチョンヨン(青龍)は、妻を娶った。キム・アルジ(金閼智)の孫の、キム・カヒ(金嘉希)様である。カヒ(嘉希)様は、まだ十二歳だった。そして、これは明らかに政略的な婚姻だった。でも、陽気なチョンヨンは、気にしない。それに、カヒ様は、思慮深く、とても可愛かったようだ。そして、「ピミファとは、大違いだったなぁ」と、ぬけぬけと、スロ船長は私に言った。つまり、意地っ張りのお転婆娘では無かったようだ。

 ネロの反乱が勃発すると、チョンヨン(青龍)王子は、反乱軍に参戦した。反乱軍は、ピョンハン国の全面支援を得たいようだったが、ヒルス(蛭子)王は、動かなかった。私の父様アダラ(阿逹羅)を倒せば、夏希義母ぁ様を悲しませるという気持ちも働いたのかも知れない。しかし、その為に、ダヘ(多海)様は、ネロ様の後を追い入水された。そして、ダヘ(多海)様を亡くされたヒルス王は、隠居を宣言し鍛冶場に籠られた。だから、鯨海の海賊王スロ船長は、四代目のスロ(首露)王となった。チョンヨン(青龍)王の即位式が終わると、ヒルス(蛭子)王は、ヘジン様と、夏希義母ぁ様以外の来客を、全て拒否した。そして、二年目の冬、ヒルス(蛭子)王は、ヘジン様に看取られ永眠された。夏希義母ぁ様の話では、「ダヘや、ダヘや、ダヘや待て、ダヘや行くな、ダヘや、ダヘや、許してくれ。ダヘや」と、うわ言を繰り返し、そして、静かに息を引き取られたそうだ。

 ヒルス(蛭子)王から、王位を譲られても、チョンヨン(青龍)と、カヒ(嘉希)様には、世継ぎとなる子が無かった。お二人の仲は良かったが、子宝というものはそれだけでは授からないようだ。そこでカヒ(嘉希)様は、スロ(首露)王の子を生んでくれそうな娘を探していたようである。そのカヒ(嘉希)様の思いを察して、コヘ(高海)様が、ある日チュヨン(朱燕)姫を目合わせた。その時の様子を、スロ船長はこう語ってくれた。 

《スロ王が語るチュヨン姫との馴れ初め》

 親父から王位を引き継いで、俺は地獄の日々を送っていた。今のピミファになら、当時の俺の様子が想像出来よう。その頃、ミョンス(明朱)兄貴は、まだアダラ(阿逹羅)兄貴との死闘の傷が癒えていなかったからなぁ。いわゆる心の傷よ。そいっあ身体の傷よりやっかいだ。だから頼りになる兄貴の援軍は、無しよ。しかたねぇから孤軍奮闘したが、こいつぁ鯨海の大嵐より骨の折れる仕事だった。だから、もう王位なんか放り出して、海に戻ろうと、自棄に成り始めていた矢先に、コヘ(高海)爺から呼び出しがあった。

 コヘ(高海)爺は、親父からの信頼も厚かったし、本来なら、コジャ(古自)小国の族長で、ピョンハン(弁韓)国の重鎮クガン(九干)の一人だ。そして、我が母、ヘジン(恵珍)の歳の離れた従兄でもある。だから、コヘ爺からの呼び出しであれば、どんなに几帳面で王宮の仕事にうるさい重臣ども俺を引き留めるわけにはいかない。俺は、物怪(もっけ)の幸いとばかりに、王宮を飛び出し、チュホ(州胡)へと舳先を向けたね。

 コヘ(高海)爺には、俺がへたばっていることは、お見通しだったから、海の幸、山の幸を取りそろえて、にやにやと上機嫌で笑い待ってくれていた。もちろん、酒もたんと有ったさ。で、席に着くと、コヘ爺の後ろには、ひょろ長く背が伸びた娘が立っていた。

 コヘ(高海)爺は、「ワシの姉様の孫じゃ。名は、ジェン・ヂュイェン(鄭朱燕)。ピョンハン読みならチョン・チュヨン。じゃで、チュヨン(朱燕)と呼んでくれ。こんな大女に育っているが、まだ十六歳だ。くれぐれも、手を出すなよ。ワシが姉様に、こっぴどく叱られるでなぁ」と、意味深に笑った。

 俺は「誰がこんな痩せっぽちの大女なんかに手を出すものか」と、思ったが、口にすると、またコヘ爺に、ひっぱたかれそうだったので、黙っていた。それから、チュヨン(朱燕)と紹介された海賊娘は「コヘ大叔父様の言いつけ通り、今日は、チョンヨン様に、美味しいものを鱈腹になるまで食べてもらおうと準備しましたよ。さぁ、さぁ遠慮なく食べてくださいね」と言うと、山海の珍味を、数枚の小皿に取り分けて、俺の目の前に並べてくれた。

 コヘ(高海)爺が「さぁ、まずは乾杯じゃ」と、杯を上げた。注がれた杯を見ると異国の酒である。どうやら黄酒のようである。であれば、揚州あたりの酒かもしれない。米どころ水どころで越人の造ったの酒であればさぞかし美酒であろう。俺は、心浮かれて杯を上げたねぇ。

 ふと、小娘に目をやると、チュヨン(朱燕)も、なみなみと酒を注いだ杯を掲げた。それから、飲むは、食べるは“何て大食い女なんだ”と、俺は呆れて見ていたが、その喰いっぷりの良さには、ある種の清涼感も感じた。俺が呆れながら見ていると、秘境の湖沼の如き瞳で、じっと見返してきた。そして、紅い舌をだして、唇にまとわりついていた肉汁を、ペロリと舐めた。俺は思わず「こいつは赤龍だ」と、笑い出してしまった。

 すると「私、可笑しい?」と、チュヨン(朱燕)が聞いて来た。そこで、「すまない。しかし、南海の姫様は、もう少し、お淑やかに、美しくふるまった方が良くはないかね」と、言うと「少し前まで、私は、世界中で、一番美しいと思っていたわ。でも、先日カヒ(嘉希)様にお会いして、私は、大して美しくないと気付いたの。だから、もうお淑やかになんて、どうでも良いの」と、答えて一同の笑いを誘った。

 そしてどうやら、俺に、チュヨン(朱燕)を、引き合わせたのは、我が正妃カヒ(嘉希)のようだと気づいたのさ。それから、チュヨン(朱燕)は、王宮へも、ちょくちょく顔を出すようになった。そして、自分より六歳年下のチュヨン(朱燕)を、妻は、妹のように可愛がった。そればかりでなく彼女は、チュヨン(朱燕)に、俺の子を身ごもるように仕向けたようだ。我が子など欲しいと思ったことはなかったが、王妃となるカヒ(嘉希)には、そうはいかなかったようだ。

 そして、親父がこの世を去った翌年に、俺の長女キム・アヘン(金芽杏)を、産んでくれたというわけだ。しかし、チュヨン(朱燕)は、東海の赤龍だ。子を持ったからと言って、王宮でおとなしくしている女ではない。何しろ東海一の海賊娘だからなぁ。産後の肥立ちも終わると、もう海の上よ。

 だから、アヘン(芽杏)は、カヒ(嘉希)に育てられた。その為、今でも、娘は、カヒ(嘉希)だけが唯一の母親だと思っているよ。チュヨン(朱燕)が、実母だとカヒ(嘉希)が教えても「そんな冗談やめて」と、受け付けないそうだ。俺もある日「お前、チュヨンを憎んでいるのか」と、聞いてみたことがあったが「何でそんなこと聞くの? チュヨン叔母さんは、とてもいい人よ。それに颯爽としていて勇ましいわ。だから、私チュヨン叔母さんに憧れているの」と、答えた。

 俺は更に粘って「チュヨンは、お前の実の母だぞ。カヒが、教えてくれたろう」と、言ってみた。すると「私を産んだ人だとは、知っているわ。でも、だからと言って母様じゃないわ。母様は、私を愛し育ててくれる人のことよ。お父様には、そんなことも分らないの。だから、お父様は、ヘジンお祖母様に、恨みの心を抱くのよ。駄目な人ね」と、言われてしまった。俺は、息が止まりそうに成ったよ。娘に諭されて、俺は自分の馬鹿さ加減に、やっと気がついたよ。俺の母上は、ダヘ姉さんだ。ヘジンは、俺を産んでくれた人。そして、立派なコジャ(古自)国の女族長で、俺が、最も尊敬する人だとね。死んだ親父にも、アヘン(金芽杏)の言葉を、聞かせてやりたかったよ。そうしたら俺達親子も、もう少し、素直に生きられたんじゃないかってね。いかんなぁ、男は心が狭くて。

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 と、スロ船長は自嘲し私の肩をやさしく抱いた。

~ 大地と風 ~

 ラクシュミー様は、「天竺から来た交易商人で、実は、ビダルバ国の王族である」とはアチャ爺から聞いて知っていた。でも、ラクシュミー様には、以前三人の夫がいて、七人の子供がいるという話には驚いた。アルジュナ少年は、その七番目の子供だということである。だから、スロ(首露)王は、四番目の夫である。そして、もうしばらくしたら、八番目の子供を産むらしい。もちろん、スロ(首露)王の子供である。王子様なのか、お姫様なのかは、まだわからない。いずれにしても、私の大人の事情に対する理解の範囲は、一気に私のスイカ頭から溢れ出していた。夏羽のスイカ頭なら、既に水蒸気爆発を起こしているかも知れない。でも案外、この手の大人の事情なら、夏羽に取っては「何んちゃない(大したことではない)」とでも言うだろうか。でも、その大人の事情の破天荒さに、私は驚いたのだ。私はすっかりラクシュミー様の生きるたくましさに心惹かれていた。

 女は大地で、男は風の旅人だと言った人がいる。夏羽はその言葉がぴったり当てはまる男である。各地に種を蒔いては、無責任にもまた風に吹かれてどこかへ飛んでいくのである。しかし、タンポポ男の夏羽にも、法則はあるらしい。怪しいものであるが、まぁ兄貴の言葉なので一応は聞き流している。

 もし、夏羽やスロ(首露)船長のような糸の切れたタコ共にも生きる法則性があるとしたら、それは風の法則性に等しい人知では理解できないものだろう。そんな人間はフーテン(風天)とでも呼ぶしかない。フーテンの夏ちゃんやフーテンのスロさんである。

 虎になった人間がいるという。何を好き好んで虎になったかは分からない。その虎人間の心情を探ろうという試みをする人間がいる。この人もまた何を考えているの分からない。世の中には分からないことを分かろうとする暇な人もいる。嗚呼~分からない。分からないと頭を掻き毟りながら分かろうと努力するのである。こんな人はフーテンにはなれない。

 そんな人も含めて、風の神様の信徒だと思えば、哲学的な命題も少しは和らぐかもしれない。いずれにしても虎になったり、自殺を図るほどに思い悩む必要はない。風に吹かれてその日、その日を生きるのが男の甲斐性だと気楽に考えてフーテンの夏ちゃんは生きているのかも知れない。

 つまり、ラクシュミー様がたくましい大地の女神なら、フーテンのスロさんやフーテンの夏ちゃんは、風の神様の信徒であり、コチ(東風)になったりハエ(南風)になったりと案外忙しい。加太の話では、歴史に現れる偉大な王達も、見方を変えればフーテン族らしい。

 フーテン族の英雄達が心を砕いてきたのは、気象学である。平たく言えば雨風の予想である。これが掴めれば大災害が防げる。防ぐまではいかないにしても対応策は講じられる。だから、戦に勝つこと以上に大事なことである。その助言者となってくれる人を方術師と呼ぶと加太は教えてくれた。

 テル(照)お婆やフク(福)爺の徐家はその大家である。私の故郷、阿多国には雪など滅多に降らない。でもフク(福)爺が雪が降ると言えば、確かにその冬には雪が降る。

 ヤマァタイ(八海森)国でも、初夏にはハエ(南風)や東南の風が吹く。そして秋になると、今度は、北風や北西の風が強く吹きつけてくる。その北風は、層々岐岳(そそぎだけ)や、磐羅山(いわらやま)の山脈にぶつかり、伊都国や、末盧国に沢山の雪を降り積もらせる。

 そうそう、あの屏風のような山脈を、山の民は脊振(せぶり)と呼んでいる。山々の峰を結ぶ尾根は、山の民にとっては天空の道らしい。筑紫之島では、東西に走る天空の道が脊振山脈だ。メラ爺もこの天空の道を駆け、投馬(とうまぁ)国の森から、斯海(しまぁ)国の高来之峰(たかきのみね)まで渡るようである。そして、セブリという言葉は、その行為そのもののことでもある。

 ともかく、その脊振山脈に雪を積もらせた北風は、ヤマァタイ国では、乾いた北風で雪も少ない。だから、秋から冬には、突き抜けるような青空が広がる。そして、春から夏は、筑紫之海を渡ってきた湿った風が、雨を良く降らせる。だから、ヤマァタイ国は、農作物の実りが大きく豊かなのだ。きっと、徐家の先祖は、その地の利を踏まえて、このヤマァタイ国を、倭国の拠点にしたのだろう。

 この恵みの風を、季節風というそうだ。テル(照)お婆の話では、方術師になるには、まずこの風をつかまないといけないそうである。更に、強い風、弱い風、冷たい風、温かい風、湿った風、乾いた風と、風を感じ取れれば、風の行方が分かるようになる。それに、風は弧を描く時には、必ず左回りになる。海面の潮の流れは、風の影響が強いので、東海や、鯨海の潮の流れも、左回りに流れている。だから、台風も左巻きなのである。ということらしい……?。

 加太の話では、この世界を、ずんずんと南に進み、焼けるような島々を超えた先では、風が右回りになるそうだ。だから、加太は、この世界は、牡丹餅のようにまん丸いのだという。そして、その牡丹餅は、回っている。でも、私のスイカ頭では、どうも理解できない。だから、「牡丹餅の下に住んでいる人は、落っこちないの? ぶんぶん回っていたら、振り落とされないの?」と聞いてみた。

 すると、加太は「この牡丹餅の豆粒のように、餡子にくっ付いているから大丈夫」と言う。そして、餡子の粘りを、重力というらしい。じゃぁ、この地面の泥が餡子なのだろうかと、舐めてみたが甘くない。どうやら、この世界の重力という餡子は、眼には見えない。らしい……? ということで実は、私のスイカ頭も牡丹餅のようにグルグル回っていた。

 でも、十五歳になった私は、少しだけ、加太の話が分かりかけてきた。確かに台風の風は、いつも左回りに吹いてくる。だから、台風の中にいても、風の向きで台風の様子が分かるのだ。

 台風の風は、東や、南の風から始まる。そして、台風が通り過ぎだすと、風は北風や西風に変わる。どうやらそれは、この世界が、グルグル回っているのが要因のようだ。

 もうひとつ、長い航海をしていると、島影は、確かに加太がいうように海の中から、にょきにょきと現れる。もし本当に、その島が海の底から現れるのなら、チュホ(州胡)や、値賀嶋の人々は、皆、竜宮の海人である。だから、やっぱり、加太がいうように、この世界は「牡丹餅のようにまん丸い」と、考えた方が現実的みたい。と、思い始めた。

 それに、加太の「まん丸牡丹餅のグルグル理論」なら、昼と夜の違いも分かりやすい。燃え盛る焚火の前で、牡丹餅に串を刺して、グルグル回してみれば良いのだ。そうすると、牡丹餅の豆粒共にも、朝が来て、夜が来る。

 更に、その串を持った私は、焚火の周りを、グルグル回らなければいけない。昔、村の浜辺で、良くそうやって子供達皆で、加太の授業を受けたものである。

 それから、助手の私は、串を少し倒して、焚火のまわりを回るのだけど、ここからの動きが難しい。初めは、串の先を焚火の方に向けて倒しているのだけれど、反対側に行くまでに、串の先が自分の方を向くようにしなければいけない。そうすると、私以外の人には、牡丹餅が傾いたまま、焚火の周りをグルグル回っているように見えるそうだ。

 私が回り始める前は、牡丹餅の上の豆粒共は「あっちっちの夏」である。やがて、秋に成り、反対側にまわった頃には冬である。そうして、春になり一周したら、また夏なのだ。

 でも加太の話が、ここまで来る頃には、健(たける)と、儒理(ゆり)以外の子供達は、もう、うたた寝をしてしまう。隼人に至っては「もうそのままで良かけん。早よう牡丹餅が食いたい。牡丹餅ちぁ冷たくても旨か」と、言い出す始末である。何も私は、牡丹餅を温めているわけではないが、確かに、この世界は大変な苦労をしながら動いているようである。と、身に沁みて学んでいたのである。

 長い航海は、この潮の流れと、季節風を利用して計画するそうだ。スロ船長の話では、ラクシュミーさんと、アルジュナ少年の帰国の旅も、この季節風待ちになったようだ。つまり、初夏の風を待つのである。それに、冬になると、北海は更に荒れやすいので、冬の航海は、避けたのである。

 当初の計画では、一旦マハン(馬韓)国に向かい、そこからは馬での旅になる筈だった。そこで、ピョンハン(弁韓)国で、スロ船長の大型船から一旦陸(おか)の人に戻ると、別の中型船数隻で、マハン国の港に向かった。だが、サラクマ(沙羅隈)親方の縁者の処に行くと「どうも玄菟郡辺りの情勢に不穏な動きがある」という情報が届き、陸路の旅をあきらめ急遽海路に変えることになった。そこで再び大きな船を捜していたが見つからず、無駄な時を過ごしていたらしい。

 マハン国の商人から、その様子を聞いたスロ王は、「そんなことならカブラ(加布羅)に送らせよう。ただし、アチャ殿をジンハン国に送った後になるから、来年の初夏になるが良いか」と、便りを送った。もちろん、ラビア姉様と、ラクシュミーさんは、その申し出を喜んで受けた。だから、ラクシュミー様に、アルジュナ少年、それにラビア姉様と、三十六人の河童衆は、再び、ピョンハン国に戻り。初夏までスロ(首露)王の王宮に滞在していたようである。

 そうしているうちに、大人の深~い事情で、ラクシュミー様は、スロ(首露)王の子供を、懐妊してしまったのである。そして、晩秋には王子様か、それとも、お姫様が誕生するそうだ。だから、初夏に天竺に向けて、旅立ったのは、ラビア姉様と、三十六人の河童衆に、アルジュナ少年とハイムル(吠武琉)だけである。

 ビダルバ国の今の国王は、ラクシュミー様のお兄さんらしい。だから、アルジュナ少年は、伯父さんにラクシュミー様と、スロ(首露)王の結婚を報告しなければいけないのだ。そして、農学の知識を王に伝え、ビダルバ国の再興を図らないといけないのである。

 スロ(首露)王の長女アヘン(芽杏)も、この結婚を喜んでいるそうだ。スロ(首露)王の正妃カヒ(嘉希)様は、次男のクス(仇須)を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、四年前に亡くなっていた。アヘン(芽杏)は、私と同じ歳だ。だから、その時十一歳である。

 長男のソウジョ(倉舒)は、まだ二歳であった。アヘン(金芽杏)は、十一歳で二人の幼子の母になったのである。もちろん苦ではない。“幼い弟達は、私が立派に育てなきゃぁ”と、身が引き締まったようである。それが、アヘン(芽杏)を、立派に育ててくれたカヒ(嘉希)様への恩返しでもある。とはいっても、子供を産んだこともないのに母親になるのは大変である。だから、スロ(首露)王の再婚話には、ほっとしたのである。

 それに、母親になるのは、あのラクシュミー様である。その理知的で優しさにあふれた人柄に、気づけない者はいない筈だ。だから、アヘン(芽杏)姉弟はすっかり、ラクシュミー様に懐いているようである。私や、アヘン(芽杏)の歳なら、そろそろ子を持つ娘も出てくるが、やはり、十五歳の娘が子育てをするのは大変だろう。ましてや、アヘン(芽杏)や、私は、子も産んだことがないのだ。私には、アヘン(芽杏)が、ほっと肩の荷を下ろした気持が良くわかる。

 秋が深まり、寒牡丹の花が咲きほころんだ頃、スロ(首露)王から、三男誕生の知らせが届いた。何も、冬の荒波を超えて知らせなくても良かったろうが、どうやら、臼(うす)王や、ククウォル(朴菊月)姉様。それに、私にも、どうしても知らせたかったようだ。

 私は、この数日寝付けないでいた。何だか、胸騒ぎが治まらないのだ。狗奴(くど)国に重ねて異変が起きる様子はない。年寄りたちも皆元気だ。急に容態が悪くなりそうな人はいない。その為、私は胸騒ぎの理由が分からず、憂鬱な日々を過ごしていた。だから、アルの弟が誕生した知らせは、とても嬉しかったのだ。

 それにしても、怒涛渦巻く冬の海を渡るとは、船頭衆も大変なことになったものである。しかし、船頭衆が笑っていうには「伊都国にこの知らせを届けた船頭には、皆に一軒ずつ家を建ててやる」と、スロ(首露)王が約束したそうだ。そうまでしても、知らせたかったスロ(首露)王の喜びように、私とククウォル姉様は、心が温かくなった。

 ククウォル姉様の義弟の名は、ゴドゥン(居登)という。残念なことに、アルジュナ少年は、まだ弟の名を知らない。今頃、アルと、ラビア姉様のキャラバン隊は、どこの空の下を旅しているのだろう。それとも、もう天竺のビダルバ国に着いているのだろうか?

 途中には、氷の山や天上の海もあるらしい。倭国は、豊かな島々から成っているが、西の大地には、命をすり減らす道が続いているそうだ。海で命を亡くすと魚の餌になるけど、砂の大地や、雪の平原で命を亡くすと鳥の餌になるらしい。

 魚の餌になった人の魂は、竜宮に行くけど、鳥の餌になった人の魂は、きっと天に行くのだろう。だから、シュマリ女将達シャマン(呪術師)は、鳥使いでもあるのだ。でも、天の魂と、竜宮の魂は、どこかでつながるのだろうか? いつか、シュマリ女将に、シャマン(呪術)を教えてもらおう。そうしたら、天の魂と、竜宮の魂を繋ぐ道が見えてくるかも知れない。来年の春には、シュマリ女将も帰国するだろう。そうしたら、私は、最初に竜宮に行ったモユク(狸)爺さんのことを告げなければいけない。

 寒牡丹の花が咲いた同じ頃に、風之楓良船(ふうのふらふね)も進水した。ダウ船である風之楓良船の概要は、表麻呂(おまろ)所長の話では以下のようだった。

《表麻呂所長が語る風之楓良船の概要》

 まず、大きな船を造るには、長さの基準が必要です。小さな舟なら長年の経験と勘で丸太を刳り貫き、船板を継ぎ足しても造れます。しかし、大型船になると、大勢の色々な職人が関わるので、同じ長さの基準を持っていないと、上手く組み上げられません。

 例えば、親指の長さの釘を千本作ってくれと頼んでも、職人の親指の長さはまちまちです。だから、十人の職人が作ったら、百本ずつ違う長さの釘が出来ます。もし、船大工が、自分の親指の半分の厚みがある板を合わせて打ちつけるつもりだったら、船大工より長い親指を持つ釘職人の釘は、板を突き抜けてしまいます。だから、同じ長さの基準が必要なのです。

 シャー(中華)では、握った手の指四 本分長さを、束(つか)と呼びます。また、親指と、人差し指をひろげた長さを、尺(しゃく)と言います。人が両手を、左右に伸ばした時の指先の間の長さは、尋(ひろ)と言いますが、これは、大凡その人の背の高さと同じ位です。

 しかし、人によって長さは違うので、私は夏羽様の身体を基準にして、これらの物差しを作りました。この割り竹が、十束(つか)定規(注釈:メートル法では約80㎝)です。十の目盛が付いていますが、一つが一束です。ですから、ここは五束(約40㎝)ですね。ちょうど、日巫女様の膝から下の長さと、同じようですね。それから、この割り竹は、十尺定規(約180㎝)です。十尺は、一尋と同じ長さですから、夏羽様が、両手を左右に伸ばした時の長さです。このシュロ縄は、十尋の定規(約18m)です。一尺毎に朱で印を付けています。十尺定規で測ると、日巫女様の背の高さは、ほぼ九尺(約162㎝)ですね。須佐人様は、まだまだ伸びそうですが今は、まだ九尺と一束(約170㎝)ですね。アチャ様は、九尺と一束半(約174㎝)。テル様は、八尺と一束半(約156㎝)ですね。倭人の多くの女人は、七尺と三束(約150㎝)位ですから、日巫女様も、テル様も大きいですね。

 さて、風之楓良船ですが、長さは、二十尋有ります。一番幅が広い所は、五尋です。ごらんの通り、帆柱は二本で、船底から帆柱までの高さは、艇長と同じ二十尋です。帆柱が、やや前傾しているのは、三角帆を張る為です。この三角帆は、進む方向と平行にするので、縦帆と言われます。帆の角度を、少し調整すれば風上にも進めます。しかし、無風の日も有りますから、片側二十本の車櫂と八挺の櫓も装備しています。それに、湾内では、細かな操船が必要なので櫓櫂の方が良いのです。人力ですが、短い時間なら風に乗るより早いかも知れませんね。

 操船に必要な乗組員は、私を入れて五十二人です。客船として使うなら、もう百人程乗れます。船体は、天之玲来船や、ジンハン(辰韓)船とは違い船釘を使っていません。舷側板は、紐で縫い合わしています。縫い目は、油粘土を塗って防水しています。だから、船体に柔軟性が有り補修も簡単です。ただ、今の技術では、これ以上大きな船は作れません。これ以上大きな船を造ろうと思えば、やはり、天之玲来船や、ジンハン船のように剛性が高い方法でないと無理ですね。天之玲来船(あまのれらふね)は、木箱をいくつも積み重ねたような造りなのです。ですから、今の口之津の造船所の人と技術なら、風之楓良船の二倍の大きさの船も作れるでしょう。四十尋船ですね。

 客船なら五~六百人乗りに成ります。でも、遊覧船では建造費の元が取れませんから、やはり商船造りにすべきでしょう。日巫女様がお考えの海之冴良船(あまのさらふね)は、この大きさで造りますか? きっと、須佐人様なら、将来その船が必要に成る位の商売をなさるでしょう。今から待ち遠しいものですね。

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 と、オマロ(表麻呂)所長の説明は終わった。海之冴良船を、四十尋船にする考えは魅力的だ。私も、秦家商人団なら、須佐人の成長を待たずとも使いこなせるだろうと思う。でも、まずは風之楓良船を使いこなそう。そして、狗奴国の復興に目処がついたら、このダウ船で、ラビア姉様を迎えに行きたいものだと秘かに願った。

 無事に天竺に着いたら、私は、ラビア姉様のキャラバン隊を引き継ぐのだ。それから、西の大地を旅しよう。加太から聞いた砂の大地も歩いてみたい。砂漠では、駱駝という生き物で旅をするらしい。駱駝は、砂漠の舟ともいうそうだ。縦帆が付いているのか横帆なのかは、加太に聞きそびれた。しかし、櫓櫂は付いていないだろう。だって、駱駝には、馬より長い足が有るらしいから、進むのに、櫓櫂は必要ないだろう。それから、それから、スイカだって実物を見てみたい。

 狗奴(くど)国の復興に目処がついたら、きっと、そうしよう。もちろん、香美妻も連れて行かなきゃ怒るだろう。だから、女王代理は、太布(たふ)様に押し付けて行こう。そうできたら、淀(よど)様と三人で、ぺろりと舌を出して笑い合おう。よ~し兎に角、まずは、狗奴国の復興だ。早くヒムカ(日向)の肩の荷を降ろさなくっちゃ!!

~ 悲しみの春の祭典 ~

 梅の花が咲いた頃、狗奴(くど)国再建の目処が見え始めてきた。そして、やっと、犠牲者の魂送りの儀式を執り行うことになった。しかし、あまりにも多くの死者を出しているため通常の魂送りではどうにも成らない。だから、倭国中から巫女を集め、大きな儀式を行なうことに成った。

 儀式は、ハイグスク(南城)と、ナカングスク(中城)、ニシグスク(北城)の三都で行われる。ハイグスク(南城)の儀式は、南の大巫女様であるお祖母様が主宰と成られる。だから、私と玉輝(たまき)叔母さんも、その巫女の円陣に加わる。

 ナカングスク(中城)の主宰は、海人族の大巫女様美留橿媛(みるかしひめ)。そして、今の美留橿媛は、美曽野女王である。美曽野女王の巫女の円陣には、ヒムカ(日向)と、香美妻に、ニヌファ(丹濡花)も加わる。

 ニシグスク(北城)の主宰は、稜威母(いずも)のハハキ(蛇木)様だ。ハハキ様は、北海の大巫女様である。ハハキ様は、豊海王妃の兄であるウカイ(鳥喙)様の妻である。そして、カガメ(蛇目)様の娘さんでもある。だから、木俣のカガミ(蛇海)一族の巫女である。三人の大巫女様の中では、ハハキ様が一番若いが、その力は、私のお祖母様にも劣らない。ハハキ様の巫女の円陣には、那加妻と、シュマリ女将。それに、サラ(冴良)と、フラ(楓良)と、レラ(玲来)も加わる。サラ、フラ、レラは、まだ幼いけれど、山と森と風の精霊なのだ。特にフラには、風の巫女としての力が既に目覚めている。

 ダウ船風之楓良船は、晩秋には進水出来たので、狗奴国の民は凍えずに冬を越せた。当初、初の大型船建造なので、二年の歳月を予定していた。それを半年以上も早めて建造させたのだ。こればかりは、夏羽を褒められずにはおられなかった。

 そして、秦鞍耳(はたくらみみ)と、翁之多田羅(おきなのたたら)の功績も大きかった。風之楓良船は、就航すると、早速、狗奴国復興の為に活躍した。春には、住居の資材も運び終えひと段落したので、今は稜威母(いずも)に向かっている。ハハキ(蛇木)様や、安曇(あずみ)様、それに、カガメ(蛇目)様達を迎えに走らせたのだ。

 風之楓良船を進水させた口之津の造船所には、代わりに天之玲来船を陸揚げさせている。天之玲来船は、チュヨン(朱燕)さんが建造させてもう七年経っている。だから、大修理中なのだ。小さな補修は、大航海前にその都度行っていたが、できれば、五年毎には陸に引き上げて大改修をした方が、明らかに船の持ちが良いそうだ。そうすれば、二十年以上は持ちこたえられると、表麻呂(おまろ)船長が言っていた。

 この大修理が済めば、天之玲来船の船長は、正式に秦鞍耳を就任させることにしている。だから、稜威母への大航海は、鞍耳の最後の訓練も兼ねている。もちろん、サラ(冴良)、フラ(楓良)、レラ(玲来)も乗船している。だから、航海の無事を疑う心配はいらない。それに、サラ、フラ、レラの三姉妹は、将来船乗りに成るそうだ。こんな可愛い女海賊三人に襲われたら、鯨海の大海賊スロ王でさえ勝てないだろう。三人の成長が楽しみである。そうして失われた命は、若い命が繋いでいくことだろう。

 田植えの準備が始まる前に、魂送りの儀式は開かれた。儀式の数日前に、私は、稜威母からやってきた安曇様一向に、挨拶をしてきた。安曇様は、玉海(たまみ)も伴われていた。玉海は、儒理(ゆり)より三歳年上だから十二歳になる。だから、意地っ張りのお転婆娘も、すっかり娘らしくなってきた。安曇様は、玉海を、卯伽耶(うがや)の養母にされるそうだ。玉海は、幼くして母を亡くし、異母姉の豊海(とよみ)王妃に育てられた。だから、豊海王妃の代わりに「今度は、自分がウガヤを育てたい」と、申し出たそうだ。その玉海の申し出に、私とヒムカ(日向)は、とても喜んだ。だから、魂送りの儀式が終われば、早速玉海を、ナカングスク(中城)に呼び寄せることにした。

 今、卯伽耶は、ナカングスク(中城)のサイト(斎殿)で暮らしている。ホオリ(山幸)王は、狗奴国の復興で忙しく、卯伽耶は、ヒムカの許で育てることになったのだ。卯伽耶は三歳に成った。実母を失った悲しみを理解できていない卯伽耶は、明るくて元気に育っている。

 私とヒムカは、そのことが嬉しかった。そして、玉海が養母に成れば、母を知らない子にならずに済む。それに、姉妹のふたりは、同じ匂いがするはずだ。だから、卯伽耶も、直ぐに、玉海の胸に抱かれて眠れるように成るだろう。

 魂送りの儀式は、狗奴国の民の号泣を誘い、その涙の先に、復興の陽光が差し始めた。それから、ニシグスク(北城)の魂送りの儀式では、主宰のハハキ(蛇木)様が、シュマリ女将のシャマン(呪術師)の方法で、儀式を始められた。ハハキ様は黄泉の巫女でもある。だから、シュマリ女将や、巫女達が太鼓を打ち鳴らし、死者の魂を呼び戻すと、ハハキ様は、白鳥に全ての魂を宿らせ黄泉へ送られた。シュマリ女将は、ハハキ様のその配慮に、稜威母への暗い思いを幾ばくか押し流したようだ。

 シュマリ女将は、儀式の直前に帰国していた。モユク(狸)爺さんの凶報は、伊都国で知ったようだ。そして、伊都国から急ぎニシグスク(北城)に戻った。だから、私は、まだシュマリ女将に会えていない。そのことが、私には気がかりであった。

 サラ(冴良)は、ハハキ様の力に感化されて、黄泉の巫女に目覚めたらしい。サラは、山の妖精である。だから、その体内にカゴンマ(火神島)のような火を孕み、そして、黄泉の国を孕んでいる。

 いずれ、レラ(玲来)も、巫女の力に目覚める筈だ。私の予感では、美曽野女王と同じ、月読みの巫女に目覚める気がする。海の恵みは、森がもたらしてくれる。レラは、森の妖精だから、海人族に恵みをもたらすに違いない。

 ヒムカの話では、ナカングスク(中城)の魂送りの儀式では、寝たきりで意識が戻らなかった被災民の多くが回復したそうである。やはり、美曽野女王の「黄泉帰りの法」は、噂だけでは無かったようである。それは、シカ(志賀)の持つエイルの力と同じモノである。死者を蘇らせるというエイルが、西の天界にいる女神だとしたら、東のエイルは、美曽野女王だろう。

 そして私は、レラ(玲来)にも、エイルの力が宿っていると感じている。レラもきっと、死口(しにくち)を、生口(いきくち)で呼び戻すことが出来るようになるはずだ。サラ(冴良)、フラ(楓良)、レラ(玲来)の三人の春の娘達が成長するにつけて、狗奴国の復興も進むだろう。がんばれ妖精達!!

~優奈と儒理の拉致~

 シュマリ女将の報告に、私は凍りついた。優奈(ゆな)と、儒理(ゆり)が何者かに拉致されたのだ。父様は全軍に捜索させているが、まだ行方は知れないようだ。シュマリ女将には、犯行の概要がおぼろげに掴めているようだが、父様には届け出ていない。それは、確たる証拠をつかめていないことと、ジンハン(辰韓)国を揺るがしかねない内容だからだ。

 シュマリ女将からあらましの話を聞いた私は、シュマリ女将を伴い、急ぎヤマァタイ(八海森)国に戻った。そして、狗奴国に残した香美妻と、狭山大将軍を除き、皆を招集した。やはり、アチャ爺が心配したように、アマ(阿摩)王子擁立派が動いたようなのだ。

 いつになく夏羽も険しい表情で座っている。今にも気を失いそうな玉輝(たまき)叔母さんの手を、巨健(いたける)伯父さんがしっかり掴んでいてくれる。須佐人は、唇を噛みしめ今にも何者かに殴りかかりそうな様子である。カメ(亀)爺と、アチャ爺の兄弟だけが静かに目を瞑り何事かを思慮している。

 シュマリ女将の話では、どうやら私達の動きがアマ(阿摩)王子擁立派の気を急かせたようなのだ。シュマリ女将の話はこうである。

《 シュマリ女将が語る拉致に至る動機 》

 私は、予定通り、ウェイムォ(濊貊)の毛皮商人に成り済まし、ジンハン(辰韓)国に潜入しました。そして、イタケル様の話では、「チェ(崔)氏の始祖は、ツングース(東胡)のシィォンヌー(匈奴)族かも知れない」ということでしたので、まずチェ氏に近づいてみました。

 そうすると、やはりシィォンヌーの流れのようで、同じツングースの私を親しげに館に招き入れてくれました。そして、当主のチェ・ウォルソン(崔月星)様は、気前が良いのか、何か下心があるのか、毛皮も私の言い値で買ってくれました。

 それに、私の手持ちの「倍以上の毛皮が欲しいのだ」と、言われました。毛皮商人の仲間が近くで商売をしているなら、その商人の毛皮も全部欲しいというのです。そこで私は「では、マハン国にいる仲間に使いを走らせましょう」と、いうことにして、しばらくの間、館に逗留させてもらうことに成りました。それに、ウォルソン(月星)様は、アマ(阿摩)王子の教育係ですから、アマ王子擁立派の動きも徐々に掴めてきました。

 アマ王子擁立派は、アチャ様一行の訪問に驚いたようです。そして何よりも、その土産の豊かさに動揺したようです。絹に金、真珠に翡翠と、高価な宝物が荷馬車の列をなして届けられたからです。特に、日巫女様が、ユナ(優奈)様に贈られた黒真珠の首飾りは、天に二物無しと噂が広がりました。それは、アマ王子擁立派に、儒理(ゆり)様の後ろ盾がいかに大きいものかを想像させました。

 そこで、アマ王子擁立派は、儒理様を拉致するという策に出たようです。でも、王宮に居られる儒理様を拉致するのは、容易では有りません。ここから先の話は確たる証拠がないのですが、どうもナリェ(奈礼)王妃が動かれたのではないかと思われる節があります。ウォルソン(月星)様は、ナリェ王妃の信頼がもっとも篤い方ですから、或いは、ウォルソン様が、ナリェ王妃を動かしたのかも知れません。

 ある日、優奈様と、儒理様は、忽然と王宮から消えたようなのです。その翌日から国軍が一斉に動き出しました。私も街角で国軍の兵士に不審者として捕えかかりましたが、ウォルソン様の名を出しどうにか釈放されました。

 どうやら、国軍の監視は、ウェイムォ(濊貊)に向けられたようです。毛皮を纏った一団が二つの革袋を担いで逃げ去るのを見た。と、いう証言があったからのようでした。私は、「一度、国に帰り毛皮を仕入れてきたい」と、ウォルソン様に申し出て、通行証を出して貰いました。それで、ひと冬ウェイムォの村々を調べて回っていたのです。そして、どうやら、ウェイムォの人買いが噛んでいるようだということまでは分かったのですが、私ひとりの手では、それ以上は掴めませんでした。そこで、いったん帰国し日巫女様にご報告しようと思ったのです。どうか、私の不甲斐なさをお叱りください。

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 と、シュマリ女将は頭を垂れて話し終えた。私は、シュマリ女将の肩に手をやり「御苦労様でした」と言った。それから、「さて、どうしたものかのう」と、カメ(亀)爺が目を開いた。「下手には動けんのう」と、アチャ爺も目を開いた。

 すると「オイが行く!!」と、夏羽が立ち上がった。空かさず須佐人も「俺も行く!!」と立ち上がった。しかし、「それは駄目です」と、高志(たかし)大頭領が血走った二人の兄を制した。それから「まずは、お二人がどうされているかを知るのが先です。下手にこちらが大きな動きをすれば、お二人の命が危ぶまれます」と言った。

 「そういうことよのう。困ったのうアチャよ」と、カメ爺は頭の皿を撫でた。その仕草を眺めながら 「イタケルよ。蘇志摩利には、今何人位の河童衆を置いている?」と、アチャ爺が聞いた。「確か四~五十人程は居るかと思います」と、巨健伯父さんが答えた。「それなら、その四~五十人をシュマリ女将の手下には出来んか?」と、重ねてアチャ爺が聞いた。「構いませんが、それでは少なくは有りませんか」と、巨健伯父さんが尋ねた。「いや良い。シュマリさんよ。それで、ウェイムォの居住地を東から当たってくれんかのう。それから、タカシよ。至急、サラクマ(沙羅隈)親方に使いを走らせ、マハン国の河童衆を、ウェイムォの居住地の西から当たらせるように頼んでくれ」とアチャ爺は、高志大頭領に指示を出した。

 それから「ナツハ殿は、口之津に戻り、天之玲来船の修理を急がせてくれんかのう。台風の合間をぬって蘇志摩利に向かわせたいが出来るかのう」と聞いた。夏羽は「オイの命にかけて」と力強く胸を叩いた。「スサトは、シュマリさんと、天之玲来船で、蘇志摩利に向かえ。そこが、この戦の出城だ。それに己が源郷を見ておくのも良かろう」と、アチャ爺は、須佐人の膝を叩いた。

 それから「但し、蘇志摩利から動いたら行かんぞ。お前は、出城の主だからな。何かあれば逐一知らせるのだぞ。良いな。それに、どうしても自分の手に負えん事態になったら明人を頼れ。わしから、明人には一筆書いておく。良いな。くれぐれも軽はずみなことはするでないぞ」と念を押した。須佐人は、少し不満そうだがこくりと頷いた。

 すると今度は、私に「ピミファは父様に文を書いてくれないか。蘇志摩利の出城の件を、アダラ(阿逹羅)王に許可願いたいのだ」と言った。私は直接父様に談判しに行きたかったが、そうもいくまいと文を書くことにした。「兄貴よ。これで良いかのう」と、アチャ爺がカメ爺に聞くと「そうよのう。まずはそうするしかあるまい」と、カメ爺も同意した。

~志茂妻の帰国~

 その話し合いから程なく、志茂妻(しもつ)が、ジンハン(辰韓)国から帰国した。父様が私に事態を知らせるように頼んだようだ。そして、何よりも、志茂妻は、今にも消え入りそうに生気を亡くしていた。父様はその様子も心配で帰郷させたようだ。志茂妻を送り届けてくれたのは、カブラ(加布羅)船長だった。そこで、その返り船でシュマリ女将と、須佐人はジンハン国に向かった。

 修理を終えた天之玲来船は、志都伎(しずき)島の入り江に停泊させた。ここからなら蘇志摩利に渡るのも早い。だから、何か起これば、夏羽が、項家軍属を率いてウェイムォ(濊貊)の村を奇襲することも出来る。

 この旨を、メラ爺に伝え、カガメ(蛇目)様にも知らせておいた。程なくカガメ様から便りがあり、勇猛なフカ(鮫)狩りの衆を夏羽の指揮下に加えてもらえるようになった。これで、反撃の準備は整った。

 数日の間、私達は、志茂妻をそっとしておいた。本当は直ぐにでも詳細を志茂妻から聞きたかったが、今それを志茂妻に問いただすと、志茂妻の心は今にも崩れ落ちそうだった。だから、まずは、憔悴しきった志茂妻を玉輝叔母さんが優しく介抱してくれた。数日が経ち志茂妻が私達を呼び寄せた。すこし元気を取り戻したようだ。そして、志茂妻からの報告に私達の心は凍てついてしまった。

《 志茂妻が語る拉致の状況 》

 皆様、本当に心配をおかけしました。私はもう大丈夫です。今はただただ、優奈様と、儒理様の安否だけが気がかりです。しかし、お二人は間違いなく生きておられます。そして、アマ(阿摩)王子擁立派は、お二人を殺めるようなことはしません。何故ならナリェ王妃が決してお許しに成らないからです。

 シュマリ様がお察しのように、アマ王子擁立派の主領は、ウォルソン(月星)様です。ウォルソン様は、アマ王子の養育係ですから誰憚ること無く「王位は、朴家本流の血を引くアマ王子が継がれるべきだ」と、公言されています。ウォルソン(崔月星)様は、美曽野女王よりおひとつ歳上なので丁度四十路に成られました。王位についての主張以外は、極めて穏やかな方で、どちらかと言えば、政治家と云うよりは、学者肌の方です。

 その為、儒理様の豊かな才能もお認めで、儒理様の書物などは殆どウォルソン様が贈られたものです。ウォルソン様は、儒理様が王位を揺るがす存在でなければ、一族から儒理様のお相手を出したいものだと思っておいでのようでした。それほど、自分と似た気性の持ち主である儒理様を、お認めでした。

 ご承知かも知れませんがチェ(崔)氏は、キム・アルジ(金閼智)から発生したキム(金)氏の源流です。だから、ウォルソン様が、パク(朴)氏の政敵であるキム氏と懇意なのは、致し方有りません。しかし、ウォルソン様御自身は、あまり派閥の争いに関わりを持たないようにされていました。だからナリェ様も、ウォルソン様を信頼なさっていたようです。

 ところが、アマ王子擁立派の中にソク・キルソン(昔吉宣)という人がいて、この方は噂に依ると、随分と荒っぽい性質(たち)の人らしいのです。更にキルソン様は、ソク(昔)氏の出ですが、キム氏との縁も深いようです。そして、どうやらこのキルソン様が拉致事件の黒幕のようなのです。

 女官の中に、ウォルソン(月星)様が、キルソン(昔吉宣)様を叱責する様子を見たものがいました。その前に、ナリェ王妃が、慌ただしくウォルソン様を訪ね、何事か相談されていたようです。

 どうやって、キルソン一味が、王宮から優奈様と、儒理様を拐かしたのかは詳しく分かりません。しかし、何らかの形で、ナリェ王妃と、ウォルソン様が関わっておいでのようなのです。

 王様もこのことにお気づきに成っていますが、お二人を問いただすことを躊躇われています。ナリェ王妃を思うお気持ちもそうさせるのでしょうが、それ以上に、もし拉致事件の主犯が、ナリェ様とウォルソン様だということになれば、アマ王子も苦しい立場に立たされることに成ります。更には、内乱の火種にも成りかねません。

 王様は、怒りの矛先の向け場を心の内にしまわれ、憤怒の炎はご自身の心身を焼きつくして居るかのようです。私もその王様の様子を見るにつけ胸が張り裂かれそうでした。

 王様は、最も信頼を寄せているソル・ホジン(薛虎珍)様をお呼びに成り相談を成されたようです。ホジン(虎珍)様は、明人様とも仲が良く、お二人は良く似通っておられました。何だかアチャ様を思わせるのです。

 息子の明人様が、アチャ様に似ているのは不思議ではないのですが、ホジン(虎珍)様にも、アチャ様の風貌があるのです。ホジン様には、ソル(薛)氏二十八人衆と呼ばれる偉丈夫達が侍ろうています。そのソル(薛)氏二十八人衆の中に、プンファン(風歓)という知恵者がいます。どうやらプンファンは、会稽生まれの倭人のようです。

 プンファン(風歓)様は、以前、加太先生が、ジンハン国に逗留していると聞きつけ訪ねて来られました。それから数度だけ私もお話しに加わらせていただきましたが、とても賢い方です。お歳は、まだ三十路前後のようですがお独り身のようでした。王様は、プンファン(風歓)様の策をお聞きになり捜索を託されました。その報を聞き、ホジン(薛虎珍)様は笑ってソル(薛)氏二十八人衆を率いて辺境の地へ赴かれたようです。

 本当は、明人様が自ら出向かれたいようでしたが、明人様は、王様の側近中の側近である侍従長なので、自由には動けないのです。それに、親友でもあるアダラ(阿逹羅)王の心労を思うと、やはり王様の側を離れないようでした。公務が終わると、お二人は東屋に酒宴を設けられ、月明かりの下で遅くまで杯を交わされていました。それに、お二人は、阿多国の方言で話されていたので、何を語り合っておられるのかは、お供の者達には分かりませんでした。私には少しだけ理解できましたが、あまりにも阿多訛りが激しいので、私にもおぼろげにしか分かりません。どうやら、お二人の話は、大半が阿多国の思い出話のようでした。それに、ピミファ様の名前が良く出ました。ピミファ様の名が出ると、お二人には暫し安堵の笑顔が浮かびました。

 程無くして、プンファン(風歓)様が、探索の様子を報告に戻られました。どうやらお二人は、ウェイムォ(濊貊)の人さらい供に引き渡されたようです。そこで、ホジン(虎珍)様とソル(薛)氏二十八人衆は、更にウェイムォの地奥深くへと分け入ったそうです。

 この情報は、プンファン様ならではの面白い方法で手に入れられたようです。プンファン様は、大胆にもお独りでキルソン(吉宣)様の屋敷に出向かれ「ユナ様とユリ様は、どちらにおいでですか?」と、真っ向勝負でお尋ねになったそうです。

 キルソン様は、その奇策に驚きに成り「何故、ワシがそんなことを知ろうものか」と、憮然としてお答えに成ったそうです。すると、プンファン様は「嗚呼そうですか」と、以外にもあっさりと引き下がられたようです。

 ところが、プンファン様は、翌日も同じようにやって来て、同じように質問をされたそうです。キルソン様は“何故愚問を繰り返す”と少し苛立ち「昨日申した通りワシには何のことか分らん」と、答えられたそうです。愚問の主プンファン(風歓)様は、その日も「嗚呼そうですか」と、言われるとまた素直に帰られたそうです。

 でも、やっぱり翌日も現れ「ユナ様と、ユリ様はどちらにおいでですか?」と、愚問をお尋ねになったようです。七日ほど同じ愚問が繰り返されたので、遂にキルソン様の堪忍袋の緒も切れ「今日限りお前の顔は見くない」と、屋敷から追い出したそうです。

 ところが、屋敷の門を潜るとプンファン様は、満足げに微笑み「うむうむ…」と、頷きながら帰られたそうです。そして、翌日からは、キルソン様の屋敷には向かわれませんでした。

 ところが、数日後、プンファン(風歓)様は、アマ王子擁立派の主領ウォルソン(月星)様から呼び出しを受けました。そして、プンファン様は、ウォルソン様に会うなり「それにしても、ウォルソン様は、良くもあんな酷いことをなさるものですね。選りにも選って、あやつらに任されるとは……。嘆かわしいことでごさいませんか。あれほどウォルソン様は、ユリ様をかわいがっておられたでは有りませんか。私には、キルソン様の口から出た言葉が俄かには信じられませんでした」と言われたそうです。

 すると、ウォルソン様は狼狽され「キルソンが何をどう言ったかは知らんが、ウェイムォの人さらい供に、ユナ様と、ユリ様を引き渡したのは、キルソンめの独断だ。ワシ等は、ユリ様を暫らく倭国に送り返し、その間に、アマ王子の立太子の話を進めようと思っただけじゃ。それもその策を言い出したのもキルソンめじゃ」と、自ら話されたそうです。

 そもそも日頃よりウォルソン様は、荒事を好むキルソン様を、信頼されてはいなかったようです。その為に、プンファン様が、キルソン様の屋敷を頻繁に訪ねているとお聞きに成ると、密かにその様子を見張らせていたのです。

 「策士、策に溺れる」という諺がありますが、キルソン様には、そんな危うさも有るようです。策を弄しすぎる人には危うさが有り、信用し難いのですね。そこで、ウォルソン様は、キルソン様に「プンファンとどんな話をしたのか」と、お尋ねになったようですがキルソン様は「ワシは何の話もしとらん」と、無愛想にお答えに成ったようです。確かに、何も話されていないのですが、ウォルソン様は、最後の日にプンファン様が満足げに屋敷を跡にされたと、見張りの者からお聞きに成っているので、キルソン様のその答えに満足されなかったようです。

 「謀を巡らせた者は、己以外は信用できなくなる」と、加太先生も言っていました。「人は嘘をつく。嘘をつく生き物は人だけだ。だから人は皆嘘つきだ。論より証拠に私も良く嘘をついている。だから皆もをついている」という思考回路に陥るそうです。

 加太先生の話では、百年程昔のシャー(中華)にヤン・ヂェン(楊震)と言う逸材がおられ「天知る、地知る、汝知る、我知る」という名言を残されたそうです。これは四知として知られ「隠せる秘密は無い」という戒めに成っています。

 この時のウォルソン様が、まさにそうだったようです。嘘は心の重石でも有ります。だから、その嘘が大事を引き起こすほど、重荷に変わります。心が支えきれないほどの重荷は、早く降ろしたいものですが、白状するのは容易なことではありません。でもことの重大さに、ウォルソン様は、王様に自白し、死を賜る途を選ばれることになさいました。

 この話をお聞きになりナリェ王妃も、ウォルソン様の傍らに膝を落とされました。ウォルソン様は、王妃様が並ばれることをお止に成ったのですが、王妃様は「これ以上、人の道を踏み外したくは有りません」と、王様の前に出られたのです。だから、王妃様も、死を賜る途を選ばれたのです。

 王様は「その罪の重さは、死では拭えないぞ」と、静かに仰せになりました。傍らで明人様が深く頷かれました。ナリェ王妃と、ウォルソン様は、一瞬王様の言葉の真意が聞き取れませんでした。

 明人様は、王様の今の言葉は、御自分に言われたようだとも思えました。明人様はネロ様を、直接には御存じ有りません。しかし、王様に取っては兄に等しい方だったとは聞き及んでいました。それに阿多の浜に横たわっていた王様の傷の深さは心にも達していたのだと知っていました。

 だから、「罪は生きながらえて償うものだ」と王様は、御自分を叱責しながら生きてこられたのだと知っておられます。程なく、ナリェ王妃が、それから、ウォルソン様が、そのことにお気づきに成りました。王様は「死んではいかん」と、お二人におっしゃったのです。お二人は、心の内に血の涙を流したかのように、憐みの姿で、王様の前に泣き崩れられました。それから王様は、このことを内密にするよう御命令されました。ですから、キルソン様の罪も不問にされたのです。

 優奈様と、儒理様の行方は未だに知れませんが、少なくとも、その日を境に、アマ王子擁立派の企てがこの国の行方を揺るがす危惧は亡くなりました。しかし、キルソン様の野望がそこで潰えたわけではないようです。

 キルソン(昔吉宣)様の遠祖は、どうやら高志の倭人のようです。そして、ソクタレ(昔脱解)王すなわちヒョウ(瓢)様の血を引く者のようなのです。ソクタレ王の晩年にソク・キルムン(昔吉門)という将軍が居り、ピョンハン国との戦いで手柄を立てます。

 そこで、ソクタレ王は、キルムンを四等官の身分に引き上げます。ところが、四等官の身分に就けるのは王族だけなのです。何故、元は倭人だと噂されるキルムン(昔吉門)が、四等官に成れたのかは不明ですがヒョウ(瓢)様の血を引いている。と、考えれば合点がいきます。

 そして、当時の重臣たちは、皆そのことを知っていたのではないでしょうか。キルムン(吉門)と、キルソン(吉宣)が、どういう系譜で繋がるのかは分かりません。しかし、同じキル(吉)氏同門だというのは間違いないようです。

 ですから、キルソン様の野望は、ソク(昔)氏の王位奪還だと思われます。イルソン(朴逸聖)と、アルジ(金閼智)の攻防戦の裏にもう一枚キル(吉)氏の存在があるように思えます。ですから、今後もキルソン様には警戒が必要です。

 私が、ジンハン国を発つ前に掴めていた事態は、ここまでです。加太先生は、ミヨン(美英)さんや、シカ(志賀)ちゃんと引き続きジンハン国に留まることにしました。シカちゃんは「ユリは、蜂の巣で暮らしている」と、不思議なことを口にしています。

 周りには何のことか分らないのですが「大丈夫、大丈夫、ユリは、女王蜂に守られている」というのです。だから、ウォルソン様の話とすり合わせて考えると、儒理様が御無事なのは間違いないのではないかと考えられます。最後に「二人を守れなくて済まない」と、ピミファ様に王様が謝っておいででした。どうか王様をお許しください。

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  と、泣き崩れながら志茂妻の報告は終わった。玉輝叔母さんが志茂妻をやさしく抱き包んでくれた。

~ ウェイムォ(濊貊)の村 ~

 秋が深まった頃、須佐人からの使者がやってきた。蘇志摩利の様子を知らせる為である。ホジン(虎珍)様と、ソル(薛)氏二十八人衆も、蘇志摩利のハタ(秦)家の屋敷を拠点にして動いているようだ。

 そして、ソル(薛)氏二十八人衆には、シュマリ女将が遁甲(とんこう)の忍びの技を伝授したそうだ。だから、強力な遁甲の集団が出来上がったようである。そして、その蘇志摩利特殊部隊の指揮官は、自ずとホジン(虎珍)様に成った。百人近い特殊部隊だから、まだ須佐人では、荷が重たい筈だ。

 須佐人は、すっかりホジン様に魅了され師匠と呼んでいるらしい。ホジン様も、須佐人がお気に召したようで、集団の率い方を、惜しみなく伝授されているそうだ。今度、須佐人に会った時には、更に大きな男に成っていることだろう。楽しみなことである。

 蘇志摩利のハタ(秦)家の屋敷には何でも揃っている。カメ(亀)爺は、秦家商人団に、全力で蘇志摩利を支援するように檄を飛ばした。だから物資に不足はない。その豊かな物資で、ウェイムォ(濊貊)の村々の各情報も徐々に伝わってき始めた。

 とは言っても、ウェイムォの地は、筑紫之島ほどの広さである。百人近い特殊部隊が全力で動いても、直ぐに優奈と儒理の居所が知れる程に容易い仕事ではない。ましてや、相手は人さらいの集団である。のんびりと畑を耕したり、漁をしている訳ではない。だから定住地など持たない奴らである。その為に堅気の人を探す何倍もの困難が付いて回る筈だ。

 でも、ホジン(薛虎珍)様の経験は、その困難を掻い潜りながら進められているようだ。それから程無く、北方の漁村にそれらしい集団が居るとの情報がもたらされた。だから今、シュマリ女将が、ソル(薛)氏二十八人衆の内の数人を率いて探索に向かっているそうだ。ことがうまく進めば、春先までには、大きな成果が得られるかも知れないと、須佐人は伝えてきた。須佐人は、放言をしない男だ。だから、きっとうまくいくだろう。今の私は須佐人を信じることでしか安堵の夜をおくれないのだ。

 ウェイムォ(濊貊)は、シュマリ女将と同じツングース(東胡)族が多く暮らす地域である。だが、国としてのまとまりは無い。それぞれの小さな集団がそれぞれに暮らしているようである。だから、メラ爺の山の民と同じような、緩やかな共同体のようである。しかし、森の豊かさに恵まれたメラ爺の山の民とは違い、貧しい暮らしをしている村々が多いようだ。

 その為に悪党集団が潜み易い所でもある。そして、悪党供は悪事の財貨の一部を村人に分け与えるのだ。だから、悲しい相互扶助が生まれているのである。貧しい人々には、それが悪貨かどうかを問うゆとりはない。そもそも生き物は、他の生き物の命を奪い己が命を繋いでいるのである。生き延びることに追い詰められた者に、善行などという腹の足しにもならない説教は不要なのだ。

 でも可笑しなことに、ウェイムォ(濊貊)の村にも、シャマン(呪術師)は居り、そして、シャマンは「神様が良きことをした者には良き糧をお恵みになる」と説くそうだ。ウェイムォの村でもシャマンは、村々から尊敬をされている存在らしい。だから、民もどこかに善行の種を宿しているのである。

 人とは不思議な生き物である。きっと豊かになれば、その善行の種から、天に咲く花を開かせるのかも知れない。その花はティンサグヌ花(風仙花)のようなのだろうか? それとも狗奴国で見たティェン・シャン・ファ(曼珠沙華)のような花なのだろうか? 私は春を告げる白梅の香りのする花であって欲しかった。

 層々岐岳(そそぎだけ)の山頂を初雪が白く覆った頃、再び須佐人からの使者がやってきた。どうやらシュマリ(狐)女将の部隊が人さらい集団の行方を掴んだようだ。そして、使者の男もその部隊のひとりだった。

《 特殊部隊の使者が語るシュマリ女将の哀燦々 》

 その村は入り江の奥まった所に有りました。だから、海からは見えませんし、裏山は急峻なので、絶好の隠れ里に成っていました。村長は、オハという初老の大男で笑うとその細い眼が、更に肉付きの良い頬肉と瞼に挟まれて見えなくなるような顔立ちです。大きな腹を突き出しては居ましたが、強靭な男で、熊でも倒せそうな気迫が有りました。それに以外にやさしい声の持ち主で、村の子供達が始終じゃれ付いていました。

 オハ村長は、シュマリ様を見ると一瞬不思議な顔をしました。そして「以前どこかでお会いしませんでしたかのう」と、シュマリ様に訊ねました。シュマリ様が、初対面だと答えるとオハ村長は「そうですか。失礼しました。まぁ前世でもお会いしたのでしょう。ボケ爺の無礼をお許しください」と、頭を掻くと、すっかり打ち解けた様子に成りました。

 そして、シュマリ様が、優奈様と儒理様のことを尋ねると、意外にもあっさりと「それなら、サンベ(蒜辺)が連れてきた子供達かも知れませんなぁ」と、話してくれました。更に、優奈様と、儒理様の似顔絵や詳細を話すと、間違いなくその子供達は、優奈様と、儒理様だと確信を得てきました。

 そこで、優奈様と、儒理様は、今どこにいるのだと尋ねると「随分前に、サンベが売りに行ったので、今どこにいるかは分かりませんなぁ」と、オハ村長は答えました。しかし、オハ村長が、偽りを申しているとは思えませんでした。

 オハ村長の話では、サンベという男は、村長の旧知で奴隷商人の頭なのだそうです。だから、優奈様と、儒理様を、奴隷市場に連れて行ったに違いないだろうというのです。でも、オハ村長は、その奴隷市場がどこで開かれるのかまでは知らないようでした。

 村人は、三百人程度だったでしょうか。北海の漁村なので、とても貧しい村のようでした。だから、サンベや、その仲間の奴隷商人達が払ってくれる逗留費は、貴重な村の収入源なのだそうです。それにサンベは、他の奴隷商人達よりも気前が良く、来る度に、村の子供達の為に毛皮の衣を持って来てくれたそうです。

 オハ村長と、サンベは、旧知の仲だったそうですが、知り合ったのは、子供の頃で、共に人さらいに拐かされた者同士だったようです。二人とも、一度は奴隷として売られたそうですが、ある日、オハ村長は逃げ出し、逃亡奴隷に成ったそうです。そして、盗みを繰り返しながら生き延び、ある街でサンベを見かけました。そこで、サンベを救い出し、二人で逃亡奴隷に成ったそうです。

 その苛酷な人生の中で、オハ村長と、サンベは、切っても切れない仲に成ったそうです。オハ村長が笑いながら話してくれるには「ワシとサンベの青春は、泥棒暮らしでした。それに、サンベは、盗んだ物を貧しい子供達に分け与えるもので、ワシ等は盗んでも、盗んでも貧乏暇無しでしたわい。アハハハハ」ということでした。ですからこのサンベという悪党は、子供好きの妙な悪党のようです。

 盗人の青春を謳歌していた二人は、ある年に、強盗団に襲われた村を救ったそうです。これも、オハ村長が笑いながらいうには「実はワシらふたりも、盗みを働く為に、この村にやって来たのですが、先客が居たのです。しかし、そいつらが酷い奴らで、若い男は殺すし、女は手当たりしだい手ごめにしようとするのですわ。そして、幼い子供を容赦なく切り捨てようとしたところで、サンベが飛び出し、そいつ等を切り捨てたんですわ。怒りにかられたサンベは後先を考えん奴ですので困ったもんですわい。仕方ないので、ワシも飛び出し片っぱしから殴り殺しましたんじゃ。すると、その内に、村人も反撃に出ましてなぁ。奴らは尻尾を巻いて逃げだしました。いわゆる窮鼠猫を咬むの態ですなぁ。アハハハハ」と、愉快そうに語ってくれました。

 どうやら、その強盗団は、十数人ほど居たらしいのですが、サンベと、オハ村長の奇襲に意を突かれ混乱したようです。強盗団が去った後、村人は、サンベと、オハ村長に、村の用心棒を頼んできたそうです。今回は、強盗団が去ったとは言え、いつ体制を立て直して襲って来るかも知れません。だから、村を守って欲しいというのです。

 二人は村人からの信頼に戸惑いました。何しろ二人とも人から頼られるのは生まれて初めての体験だったのです。そこで、二人は居心地の悪さを押して、村に留まることにしました。そもそも二人は、根無し草の逃亡奴隷です。それに貧しい村の用心棒代なので、報酬は寝床に食事付きという格安条件でしたが、少なくとも、盗人家業からは足が洗えます。

 しばらく平穏な村の生活が集いていたある日の昼下がりのこと、二つの集団が諍いを始めました。どうやら、村の諍いことを治める村長は、先の襲撃で殺されていたようなのです。始め部外者の二人はこの争いことを見て見ぬふりをしていました。しかし一向に治まる気配がないので、見かねたサンベが、足の先でオハ村長の腰を突くのだそうです。「お前が行って治めて来い」と、いう催促です。確かにサンベは、無口な男で仲裁役には向きません。そこで、仕方なしに、オハ村長は、その鬼瓦のような顔に満面の笑みを湛えて諍いことの中に入って行きました。

 すると程無く、諍いことは治まり皆それぞれの家に帰って行きました。サンベの許に帰ってきたオハ村長は「何ちゃ無いことでもめておってのう。良~く理を説いたら、ふた組とも矛を収めてくれたわい。ああ疲れた。これも用心棒の仕事かのう」と、ごろりと横たわったそうです。すると、サンベが「これも、お前の人まとめの巧さよ」と、呟いたそうです。だから、オハ村長は「そうかのう」と半信半疑のまま眠りこけたそうです。

 翌朝、村人が総出で二人を訪ねてきました。そして、オハ村長に、村の村長職を依頼したのです。二人はまだ二十歳半ばの青二才です。だからオハ村長は「とても、とても若造の俺には…」と、断ろうとしましたが、「分かりました。謹んでこの役、お引き受けさせていただきます」と、思いもかけない饒舌さで、サンベが、オハ村長就任を受けてしまったのです。だから、あっけに取られながら、オハ村長はこの村の村長に成り、早きかな数十年が立ってしまったのだそうです。

 片やサンベ(蒜辺)は、村の子供達の遊び相手をしながらのんびり暮らしていました。そして、ある日、その子供達の中の一人の姉と、恋に落ちたそうです。娘は、キツネ目の魅力的な顔立ちをしていたそうです。オハ村長も、村人も、二人の恋を祝福しサンベの苦難の旅もここで終わる筈でした。

 しかし、ある年にとても寒い冬が襲って来ました。村の薪は底を漬きそうになり、このままでは凍死する者さえ出かねない様子でした。そこで、男達は皆で、冬の晴れ間を見出すと、一斉に森の奥に消えました。森の奥に朽ちた大きな大木が横たわっていたのです。その大きな倒木を引き出してくれば、村は寒さから守られます。

 ところが、この機会を狙っている者達がいました。はっきりとはしませんが、どうやら先の強盗団の一味か、その片割れの新しい悪党集団かも知れません。少し様子が違ったのは、今回は蛮行を働かず、素早く女子供達を拉致して、消えた点です。その中には、サンベの恋人もいました。厳冬の中で追跡するには、村からの追手の命も危険に曝します。そこで、オハ村長は、やむなく春まで待とうと村人を宥めました。しかし、サンベだけは、その親友であるオハ村長の忠告を振り切り、雪の中に消えました。

 それから、数年が経ちある年の春先に、ふらりとサンベが村に戻ってきました。しかし、傍らには、優しい恋人の姿は無く風体が悪いゴロツキ供が侍っていました。オハ村長が「今までどこでどうしていた」と尋ねると、サンベは重い口を開き「厳冬の山を越え奴らの足取りを追ったこと」「奴らは奴隷商人の集団だったこと」「恋人は既に売られて行方が知れぬこと」「その奴隷商人の頭をなぶり殺し、自分が奴隷商人の頭になったこと」を話したそうです。そして、翌朝早く大量の食料品を残して、村を去ったそうです。どこかで、村が難儀をしていると聞いつけたようでした。それから数年に一度、サンベは、悪党供を引連れて、村に立ち依るように成ったそうです。そして、毎回過度の逗留費を置いて去るそうです。

 ふと、シュマリ様を見ると、サンベ(蒜辺)という名を聞くたびに、小刻みに体が震えているように見えました。それでも、シュマリ様は「サンベが立ち寄りそうな所を、すべて教えては貰えませんか」と、執拗にオハ村長からの情報を引き出そうとしました。オハ村長も、シュマリ様の気迫に押されたように絵地図まで書いてこと細かに情報をくれました。オハ村長が知る限りの情報を与えてくれたと見計らうと、最後にシュマリ様は「もしかすると、サンベというその男の左腕には、フカ(鮫)の歯形の跡が有りませんでしたか」と、訊ねました。

 オハ村長が「嗚呼有りましたなぁ。何でも小さい時に悪戯をしておって、フカ(鮫)に噛み殺されそうに成ったそうです。しかし、その時は、姉さんがフカに銛を打ち込み助けてくれたそうです。『勇ましい姉様じゃのう』とワシがいうと『いや綺麗な姉さんだった』と、サンベは言い返したもんですわい。アハハハ、キツネ目の…あれ?……美人の…あれ?……姉さん…あれ?……もしかして……ひょっとすると……あんたは……あいつの……」と、オハ村長の小さな目が大きく見開き、シュマリ様を写し出しました。その時、シュマリ様からの口からはアイゴーと、ため息にも似た言葉が発せられ、目は涙に曇ったようでした。それが嬉し涙なのか、悲しみの涙なのか私には容易に察することが出来ませんでした。

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 と、須佐人の使者は話を終えました。善人のまま死んだ弟と、悪党になっても生き延びた弟と、どちらが良いのかしら。私はやっぱり悪党に成ってでも儒理には生き残っていて欲しい。優奈、儒理を必ず守ってね。

~ 琴海さんの春の息吹き ~

 私は生れてこんな辛い冬を送ったことはなかった。今まで生きてきた十六年間の間で一番悲しかったのは、ヒムカ(日向)と、健がクマ族に浚われた年だった。でも、あの冬は気鬱の病で寝込んでおり良く覚えていない。母ぁ様を亡くした冬も幼すぎて悲しみを実感できないでいた。でも、十六の乙女心に、優奈と儒理の行方知れずは辛過ぎる。

 シュマリ女将と、ホジン(虎珍)様が指揮する蘇志摩利特殊部隊は、必ず優奈と、儒理を奪還してくれるに違いない。須佐人だって若いながら頑張っていてくれる。だから、私は皆を信頼し、じっと不安に耐えて待つしかない。

 私の不安を察したウス(臼)王と、ククウォル(菊月)王妃が、新年を伊都国で共に過ごそうと誘ってくれた。私は、スヂュン(子洵)にも会いたかったので、志茂妻を伴って伊都国に行くことにした。

 女王代理は、やっぱり香美妻の仕事なので少し膨れていたが、香美妻も、志茂妻の塞ぎようが不安だったので渋々送り出してくれた。表麻呂は、風之楓良船の船長となり引き続き狗奴国の物資輸送を担っていてくれている。

 香美妻と、テル(照)お婆と、それから狭山大将軍は、狗奴国からヤマァタイ(八海森)国に引き揚げてきたので、今、ヒムカ(日向)の片腕として活躍していてくれるのは、表麻呂船長だけである。それも、来春には狗奴国再建の目処が立ちそうなので、表麻呂船長と、風之楓良船も、母港の口之津に落着けそうである。

 もう一艘の天之玲来船は、夏羽が、コウ(項)家軍属とフカ(鮫)狩りの衆を乗せ志都伎島から蘇志摩利の港に着いた頃である。もちろん船長は、秦鞍耳である。この任が終われば、天之玲来船と、鞍耳船長は洞海(くきのうみ)を母港とすることにしている。

 風之楓良船には、見習い船員でシェンハイ(玄海)様の孫フェイイェン(飛燕)と、ガオ(高)一族の跡取りリャン(涼)も乗船しているので、二人の仲間に再開でき須佐人もさぞ喜んでいるだろう。

 二艘の大型船がそれぞれの任務に就いているので、琴海さんが沫裸党の早舟で私達を送ってくれることになった。層々岐岳(そそぎだけ)や、磐羅(いわら)山の峠道は既に雪に閉ざされている。伊美国への峠は、どうにか越えられそうだが、やはり冬の峠は危険である。

 海も北海は荒れるが、筑紫之海から泉水湾に入り、船越から琴之浦まで陸路を越えれば、あとは琴之海である。それに船頭衆は沫裸党の海んちゅうだから不安はない。琴海さんは琴之浦で待っているので、そこまではカメ(亀)爺が河童衆に送らせてくれた。

 そして、珍しいことにこの旅にはフク(福)爺も同行してくれることになった。アチャ爺と、テル(照)お婆が動けないので、代わりに私のお守役になったのかも知れない。

 どうも年寄達には、まだ私の挙動が不安らしい。何を仕出かすか分からない不安な要素があるようだ。もちろん、そのことは私も少しは自覚しているので抗う気は無い。更に、今回は、私の手綱を引き締めている香美妻お姉ちゃまも同行しないので余計に不安なのだろう。

 志茂妻では、私と似た気性なので安心できないのである。「あのふたりなら、勢いウェイムォの村を奇襲しかねない」位の不安があるのかも知れない。兎も角、フク(福)爺と久しぶりにゆっくり船旅が出来るのは楽しかった。伊都国に着くまでに、風読みの真似ごとを学んでおこうと思っている。

 脊振の山を越えて北風が心地よく吹いてくる。そして、冬の青空は心を軽くしてくれる。船べりを叩く波の音だけが、筑紫之海に広がり眠気を誘う。ぼーっと千布(ちふ)族が暮らす山裾の景色を眺めていたら「あの辺りに着いたんじゃ」と、フク(福)爺が言い出した。「何が着いたの?」と、聞き返すと「船じゃよ。大きな母船じゃ」と答えた。それでも何のことか分からないので「母船って?」と更に訪ねた。「ワシ等の先祖の船団さ。その母船があの山裾に乗り上げたのじゃよ」「えっ難破したの?」「いやいや、あえて乗りあげさせたのじゃ」「何で?」「ここを旅の終わりに決めたからよ」と、フク(福)爺はジョ(徐)家の物語を語り始めた。

《 フク(福)爺が語るシュー・フー(徐福)の大航海 前篇 》

 我が徐(じょ)家の始祖シューフー(徐福)は、シャー(中華)の東南岸にあった呉の国の人じゃ。呉の国は、今から六百年以上も前に、隣国の越と云う国に滅ばされた。その時、徐家の一族は、青洲の斉の国に逃げたのじゃ。斉の国は田(でん)家の故国じゃなぁ。そして、密かに再興の時を待っていたのじゃ。

 じゃが、呉の国を滅ぼした越の国も、百五十年程経ち楚の国に滅ぼされた。呉の民と、越の民は、共に亡国民に成った訳じゃ。そこで、呉越の氓(たみ)は、ランシェ(琅邪)という港町で船を作り生きながらえていた。呉越人には優れた造船の匠が多かったので、呉越の船は評判が良かったのじゃ。特に、シャーチュァン(沙船)と呼ばれた船は、平底で、干潟や河川でも使いやすかったので、良く売れたようじゃのう。

 船の昔話を語れば、大昔の人は、まず、川や海を渡る時には、浮遊具を使った。水に浮くものは色々あるでなぁ。大きな流木や、竹や、葦を束ねた物などならどこでも手に入るでなぁ。他にも、大きな浮石(軽石)や、大きな木の実を使うことも多かったようじゃのう。

 今でも海女達は大きな瓢箪を浮代わりにしておるじゃろう。じゃが、それらの浮遊具だけでは、長い航海は出来ん。そこで、それらの浮遊具を結び合わせて、筏を作ったんじゃ。竹の筏、葦の筏、木の筏は、今でも良く使われておるよのう。

 浮遊具で面白いのは皮舟じゃ。まぁ正確には皮袋の筏じゃがの。豚の皮、山羊の皮、牛の皮、あるいは海豚の皮でも良いのう。この皮舟の良いところは、とにかく軽いことじゃ。十人ほど乗れる皮袋の筏でも、一人で担いで運べるでなぁ。特に流れがある所では重宝する。

 ピミファも千歳川で川旅を知ったから良く分かるじゃろう。川を横切るには随分下流に流されるでなぁ。そこで、うまく村に戻るには、流された倍以上は対岸を上流に上らないかん。その時、重い舟を引いて、川岸を歩くのは難儀なことよのう。だけん、この軽さが重宝するのよ。

 じゃが、皮舟を作るには技術が必要になる。ただ、束ねたり結んだりだけでは作れんからのう。皮をなめしたり、縫い合わせたりするには技術が必要になってくる。職人が必要になるんじゃなぁ。

 そんな舟を造る職人が生まれると、今度は、舟職人達が刳り舟(くりぶね)を作るようになった。大きな丸太を刳り抜いた舟じゃな。この丸木舟を二艘並べて筏状にして、更に帆を掛ければ外洋だって渡ることが出来る。だから、今でもホオミ(火尾蛇)大将達南洋の民は、この双胴船の扱いが巧みじゃ。

 双胴船は、高波には強いが、欠点は小回りが効かん点じゃ。だから、狭い湾や、川旅では少し使い勝手が悪い。小回りは、単体の丸木舟の方が良いからのう。なら、小回りも効き、その上に、双胴船や、筏のように、人も物資も載せられる船が欲しくなるよのう。そこで船大工の登場じゃ。

 最初は、丸木舟に船釘で横板を打ち付けた。まぁ縫い付けても良いがのう。縫いつけたらピミファの好きなダウ船じゃ。風之楓良船よの。この横板は舷側板というのじゃが、これをどの高さまで上げるかは、船大工にしか判断出来ん。

 これには、木材の性質を知っているだけでは駄目じゃでな。動く物の力の働き方や、風の力、波の力、更には、月や星の動きまでも知っておく必要があるのじゃ。その知識が無い船大工が作った船で、その知識が無い船乗りが海に漕ぎ出したら、沖の先で、すぐに沈没するじゃろう。まぁ転覆丸が欲しいピミファなら喜ぶじゃろうが、普通の海んちゅうなら、そんな危ない船には乗るまい。

 ここまで、話せばピミファも気付き始めたじゃろうが、徐家が方術師といわれるようになったのは、その為じゃ。加えていうなら船造りには、今や金属は欠かせない。じゃで錬金術も必要なのじゃ。

 我が始祖シュー・フー(徐福)は、その造船集団の長の家に生まれた。じゃで、八歳になった時に、小学に入学し算術を学び始めた。その学び舎には、同じ歳だが一年先に入学していた貴人がいた。その幼い貴人は、フー(福)の生涯の友になるのじゃが、その話は、まだ先の話じゃ。我が始祖フー(福)は、健(たける)にも劣らない美少年だったらしいが、知力も、健に劣らない秀才だったようじゃ。そこで、十五歳になると、先の貴人と、都の長安にある大学に呼ばれた。当時は、まだ長安とは呼ばず鎬京と呼ばれていたようじゃ。

 鎬京の大学には、コウ(項)家の先祖の一人であるシャン・ブォ(項伯)が、三つ歳上の先輩でいたそうだ。ブォ(伯)も、呉越の氓(たみ)だったので、フー(福)を可愛がってくれたようだ。

 入学から程なくしてフー(福)は、先輩ブォ(伯)から、同じ歳で韓の国の公子を紹介された。その公子は甘え上手な男であったそうじゃ。名を、ヂャン・リャン(張良)という。リャン(良)は、生まれる寸前に、父を不慮の事故で亡くしていた。だから、兄や姉が可愛がって育ててくれたようじゃのう。そこで次男坊の徳性を身につけたという訳じゃ。

 フー(福)とブォ(伯)、それにリャン(良)の三人は、意気投合し死友の誓いを交わしたそうじゃ。死ぬまで友だという訳じゃ。そして、その通り三人は老いて棲家は違っても友で有り続けたそうじゃ。

 また、三人は、シュー・フー(徐福)のことは、フェイ(芾)。シャン・ブォ(項伯)のことは、ブォチャン(伯纏)。ヂャン・リャン(張良)のことは、ヅーファン(子房)と呼び合っていたそうしゃわい。

 これは親しい者だけの呼び名で、シャン・ブォ(項伯)が、射陽侯に封じられ君主になっても、ヂャン・リャン(張良)が、漢王朝の宰相になっても、シュー・フー(徐福)が、倭国の王になっても、三人が互いを呼ぶ時の名は変わらなかったそうじゃ。

 我が始祖フー(福)には、ブォ(伯)と、リャン(良) の他にもう一人友がいた。先の幼馴染の貴人じゃ。その男は、リー・ガォ(李高)というて、後の世ではヂャォ・ガォ(趙高)と呼ばれている。秦帝国を滅ぼした悪名高き宦官じゃ。

 だが、我が始祖フー(福)は、この奸臣ガォ(高)に、随分助けられている。奸臣ガォ(高)も、元は趙という国の王族じゃったが、秦帝国に滅ばされている。ガォ(高)の祖父さんは、趙国の大将軍だったそうじゃが、秦帝国との戦に敗れ殺されたそうだ。

 その後、一族は母方の李氏を名乗り、身を潜めていたらしいが、やがて落ちぶれ、娘達の中には、遊女にまで身をやつした者も居るそうだ。そんな中で、リー・ガォ(李高)は辛抱強く亡国の再興を睨んでいたようじゃのう。

 そのあたりは、シャン・ブォ(項伯)や、ヂャン・リャン(張良)と似ておってなぁ。だから、志が似ておったのさ。じゃが、ブォ(伯)や、リャン(良)が、真っ向から秦帝国に敵対したのと違い、リー・ガォ(李高)は、なかなか複雑な道を辿りながら秦帝国の打倒を狙っていたようじゃ。それに、どうもガォ(高)は、秦帝国の始皇帝ヂョン(政)と、血縁が有ったようじゃ。噂では、ヂョンの実母リー・タオ(李桃)は、リー・ガォ(李高)の伯母だったのでは無いかと言われている。もし、そうであればガォ(高)は、始皇帝ヂョンより十歳年下の従兄弟ということになる。

 ガォ(高)は、一度国家反逆罪で、死罪に成りかかったことがある。どうも、趙国を秦帝国が滅ぼす際に、趙国に機密を流していたようなのじゃ。だから、死罪はおろか、その場で切り捨てられても当然じゃ。ところが、始皇帝ヂョン(政)自らが、この罪状を不問にして、ガォ(高)を助けている。

 しかし、余りにも明白な裏切りだったようで、群臣の不満は大きかったようだ。そこで、自ら宮刑を望み宦官となったようじゃ。この頃、ガォ(李高)には、妻と娘が一人いたようじゃが、妻は離縁したそうじゃぁ。まぁ宦官になり後宮に入ればどの道夫婦では居られんがな。

 ガォ(高)は、特に法律に詳しく長安の大学に入学した時には、既にいっぱしの法家のようだったらしいのう。噂では、あの高名な法家のリー・スー(李斯)とも縁があるようじゃ。もし、ガォ(高)が、スー(斯)の手ほどきを受けていたなら合点が行く話ではあるなぁ。

 スー(斯)は、始め秦の丞相リュ・ブゥウィ(呂不韋)の食客になり、その後は、中山の西の外れの一国でしかなかった秦を、帝国にまで押し上げ、その秦帝国の宰相にまで上り詰めた男だ。ブゥウィ(不韋)は、始皇帝ヂョン(政)の実母タオ(桃)の最初の亭主だから、タオ(桃)の口利きで、スー(斯)が、リブゥウィ(不韋)の食客に成れたとも考えられる。であれば、ガォ(高)と、スー(斯)の接点も見えてくるわけじゃ。

 始皇帝ヂョン(政)と、宰相リー・スー(李斯)が縁者であれば、リー・ガォ(李高)は、秦帝国の中枢にいたも同然じゃ。じゃで、ヂャン・リャン(張良)のように、始皇帝ヂョン(政)を殺めようとは考えていない。

 では、どうやって秦帝国を滅ぼし、祖国趙を再興するのか。ガォ(高)は、ずいぶんと頭を悩ましていたようじゃ。そんな折に、方術師として名を上げ始めていた我が始祖フー(福)に再開したようじゃのう。二人は旧交を温めながら策を練ったようじゃ。

 この頃、リー・ガォ(李高)は、ヂャォ・ガォ(趙高)と名を改めていた。それは、趙国の最後の王ジャ(嘉)が、亡命先で秦帝国に殺され趙国が完全に滅亡した年だったそうじゃ。始皇帝ヂョン(政)の実母リー・タオ(李桃)は、周りから趙姫と呼ばれていた。趙生まれの姫と言った軽い命名だ。だから、リー・ガォ(李高)も、伯母リー・タオ(李桃)にあやかりヂャォ・ガォ(趙高)に改名するのだと周りには説いた。しかし、ガォ(高)の心の内を知る我が始祖フー(福)は、それが彼の並々ならぬ決意だと見抜いていた。

 その再開から三年後、二人が三十路に足を踏み入れた年に、ヂャォ・ガォ(趙高)は、我が始祖フー(福)を、始皇帝ヂョンに拝謁させた。二度目の天下巡幸の際らしいのう。場所は孟子の生れ故郷の嶧山の辺りだったらしいので、フー(福)の故郷の近くでもあったようじゃのう。

 頭脳明晰な始皇帝ヂョン(政)は、フー(福)の才能を一目で見抜いた。加えて、フー(福)は、始皇帝ヂョンの世継フースー(扶蘇)の大学での師匠でもあった。世子フースーは、ヂョンの血を引いて聡明であり、自らは皇帝よりも、学徒の道を望んでいたそうじゃ。

 じゃで十七歳の頃にわざわざフー(福)の講義を聴くために大学に通っていたそうじゃ。王宮に呼びつけずに、自ら学び舎に出向くところが、フースーの人柄を良く現わしておるのう。もし、フースーが、二代皇帝になっておれば、秦帝国は盤石だったろうと後の民は嘆いたそうじゃ。

 そのフースー(扶蘇)に、始皇帝ヂョンは、我が始祖フー(福)に会う前に、人と成りだけは聞いていた。そして、目の前にしたフー(福)は、遥かに大きな風貌を漂わせていた。始皇帝ヂョンは、我が始祖フー(福)をすっかりお気に召し、ひと月近くを、轀輬車(おんりょうしゃ)の中で共に過ごされたそうだ。轀輬車とは、皇帝専用の馬車で屋根も壁もある小さな宮殿のような馬車じゃ。まぁ風之楓良船に造らせたピミファ用の船楼程の広さは有ったそうじゃわい。

 途中の泰山では、五百年ぶりに封禅の儀を行ったそうじゃ。封禅の儀とは、天命を受けたとされるものが天地を祀る儀式じゃ。じゃで始皇帝ヂョンは、何としてもこの封禅の儀を行いたかったのじゃが、群臣どもはおろか、儒者でさえこの儀式のやり方が分かる者は居らんかったそうじゃ。ところが、我が始祖フー(福)は、この儀も心得ていた。

 実は泰山には仙人が住んでおってのう。その仙人さんが時より村里に降りてくるのじゃ。そして、各村の子供らに、昔話を聞かせて遊んでくれるらしい。大半の子供達は、その話を楽しい昔話じゃったと思いながら、大人になったら忘れるのじゃ。

 じゃが、時々その話を真に受けて深く聞きよる子が居る。大人達は「また、仙人さんのほら話を真に受けて困った子じゃ」と、思っているが本人は至って真剣なもので、その後も学徒となって学び続ける子が居る。

 まぁ時々とは言っても、数百年に一人位じゃがの。その一人が我が始祖フー(福)だった訳よ。と、いうことで五百年を経て「仙人さんのほら話」が役にたったのじゃ。これを機に、始皇帝ヂョンの我が始祖フー(福)への信頼は揺ぎ無いものに成った。

 次に、始皇帝ヂョンは、我が始祖フー(福)に「桃源郷は有るか」と、聞いたそうじゃ。これも、数多いる群臣や、儒者供は「あれは迷信です」と、言って誰も答えてはくれなかった。

 ところが、我が始祖フー(福)は、いともたやすく「御座います」と答えた。じゃで、始皇帝ヂョンは大喜びじゃ。実は、始皇帝ヂョンは、四十路を過ぎ余生を考え始めていたのじゃ。十二歳で秦王に即位し二十八年も国を率いてきたのだ。それも安閑と玉座に座っていたわけでは無い。黄帝や堯や舜にも匹敵する偉業を成してきたのだ。それも、それら伝説の皇帝を除けば人としてはただ一人の存在じゃからのう。

 じゃで、三十年を機に皇帝の座を世子フースー(扶蘇)に譲り余生を桃源郷で過ごしたいと願っていたのじゃ。後の人々がいうように不老不死を望んでいた訳ではないぞ。始皇帝ヂョンは、そんな愚かな男ではない。

 ピミファや質問じゃが、始皇帝ヂョンが求めていた桃源郷とは、どんな所だと思うかなぁ。きっとピミファになら、とても始皇帝ヂョンの気持ちが分かる筈じゃ。フムフムそうじゃ、そうじゃ「戦さの無い世界」じゃな。何々、儒理(ゆり)がそう言ったのか。やはり儒理は賢い子じゃのう。その儒理がいう「誰も戦わない世界」それが、始皇帝ヂョンが求めていた桃源郷じゃ。

 何も不老不死の美男美女が戯れている世界ではないぞ。戦さの無い世界なれば、無さそうで有りそうじゃろ。シャー(中華)の全土を見渡しても、そんな土地は無いが、この広い世を隈なく探せば無さそうで有りそうじゃろ。ホッホッホホ……のう。

 そして、この桃源郷への夢を吹き込んだのは、奸臣ガォ(高)じゃ。我が始祖フー(福)の盟友ガォ(高)は、始皇帝ヂョンを桃源郷に送ることで秦帝国を倒そうと考えていたのじゃ。学者肌の世子フースー(扶蘇)を欺くのは容易い。だから、始皇帝ヂョンさえ居なくなれば秦帝国は脆い存在になると踏んでいたのだ。

 歴代の王達は、即位すると誰彼になく、自分の墓を造り始めた。大きく丈夫な墓であれば、数年では完成せんでな。実権を得たら、直ぐに墓造りを命じるのじゃ。これは、始皇帝ヂョンも例外ではない。ところが、ヂョン少年は、墓ではなく地下世界を作ることを夢見た。十二歳~三歳の子供が、自分の墓を思い描くのは返って変じゃ。それより、幼き頃より人質として不安定な状況に置かれてきたヂョン少年に取っては、誰にも知られない地下世界を造ることの方が、最も現実的に思えたんじゃろのう。

 じゃで、晩年のこの頃には、墓は巨大な地下宮殿と成っていた。じゃが、合理主義者の始皇帝ヂョンには、死後の世界より、桃源郷への夢の方が、大きく広がったろうことは想像に難くない。奸臣ヂャォ・ガォ(趙高)も、その始皇帝ヂョンの心の内が、よくよく分かっていたんじゃ。

 後の人々は「この桃源郷を我が始祖フー(福)が探しに行き、そしてそのまま戻らなかった」と、いうがそれは間違いじゃ。探しに行くのでは無い。造りに行ったんじゃ。現実主義者で、合理主義者の始皇帝ヂョンが、そんな冒険譚に走る訳がない。

 始皇帝ヂョンは、我が始祖フー(福)に「桃源郷を造れる地はあるか?」と尋ねたのじゃ。だから、我が始祖フー(福)は「東海に浮かぶ島がその地に相応しいでしょう」と、答えたんじゃ。要はワシらの倭国のことじゃな。フー(福)は、倭人じゃで、この島の存在は良く承知していた。そこで、島の大きさや、気候や現地勢力の状況から、始皇帝ヂョンが、余生を過ごす桃源郷には最もこの島が良いと勧めたのじゃ。

 確かに、倭国であればシャー(中華)から程よく離れている。じゃが、容易に渡れる島でもない。これは、地下宮殿より余程現実的で、わくわくする話ではないかと、始皇帝ヂョンは、すっかり乗り気で有った。

 じゃが、表だってこの話を進めても、反対する重臣達や、小うるさい儒者供が後を絶たないだろう。彼らにとって墓は、現実だが、桃源郷は、夢のまた夢。ただの浪費である。だから、三人は、計画だけは進めたが、中々着工出来ずにいた。

 そこで、我が始祖フー(福)は、小船団を率いて倭国の下見に出ることにしたんじゃ。じっとしていても埒が明かんでな。一方でガォ(高)は、密かに学友のブォ(伯)と、リャン(梁)兄弟に船の建造を依頼していたんじゃ。

 四年前に楚は、秦帝国に滅ぼされ、項兄弟の父項燕大将軍は戦死した。父を亡くしたブォ(伯)は、やむなく都を離れ各地を点々としていたんじゃが、この頃には故郷の呉越の地に戻っていたんじゃ。

 友とは不思議な存在じゃ。長く合わなくても、どこかで心が通じ合っているようじゃ。もう一人の学友ヂャン・リャン(張良)も、項兄弟の楚が滅ぶ七年前、十九歳の時に、祖国韓を秦帝国に滅ぼされ学び舎を去っていた。

 リャン(良)は、弟が死んでも葬式を出さず財を惜しんで、復讐戦の機会を狙っていたようじゃ。そして、我が始祖フー(福)達が桃源郷開拓団の計画を立てた翌年、始皇帝ヂョン暗殺の機会を得た。惜しくもその暗殺は失敗したのだが、この事件を機に、始皇帝ヂョンの桃源郷開拓団の計画は熱を帯びた。

 程なく、我が始祖フー(福)も、倭国より帰国し詳細を報告した。そこで、再び三人は、轀輬車(おんりょうしゃ)に籠り行程表作りを始めたんじゃ。

 いかんいかん、思った以上に話が長引いたのう。続きは帰り船の中でじゃ。この続きは面白いぞう。ピミファの好きな大航海の話じゃからのう。想像してみい。三千人の童男童女を連れていったという話だぞ。

 じゃで、航海をしたのは五千人を下るまい。童男童女だけでは、大海は渡れんでなぁ。大勢の船乗りや、童男童女の面倒をみる大人も、大勢いたはずじゃ。それに、五千人も乗せられる船など無いでのう。

 海之冴良船なら五十艘は必要じゃ。いくら秦帝国が強大じゃとは言っても、一年やそこらで、海之冴良船を、五十艘も建造するのは無理じゃろう。さてさて、じゃであればどうやって大海を渡ったのじゃろう。なぁわくわくする話じゃろう。でも、続きは帰り船の中じゃ。

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 と、大いに気を持たせてフク(福)爺の話は、一旦終わった。私は、泉水湾の奥の漁村、船越の港に着いたら、直ぐにでも帰り船にしたかったがそうもいくまい。

 琴海さんは、琴之浦の館で、今年生まれた長男の佐志耳(さしみみ)を抱いて待っていた。そして、もうお腹が大きいようだ。春には、二人目の子供が生まれるらしい。於保耳(おぼみみ)族長は、本拠地値賀嶋(ちかのしま)に居て不在だった。私は、於保耳族長に会ったら、真っ先にシュー・フー(徐福)の大船団のことを尋ねたかったので、とても残念だった。

 だって、フー(福)の大船団は、最初に値賀嶋に着いた筈である。それも五千人の大船団だ。だから、シカ(志賀)沫裸党の半数近くに匹敵する人々が船に乗っているのである。それからまだ五百年も絶たないのである。そんな大変な事態が語り継がれていない筈は無い。於保耳族長なら、きっと、昔話の中で聞いている筈だ。私は、このまま値賀嶋に渡って見たい気になったが、やっぱりそうもいくまい。

 志茂妻は、可愛い佐志耳の寝顔を見ながら少し元気に成って来たようだ。伊都国に着く間、佐志耳の子守りを、琴海さんに願い出ていた。もちろん、身重の琴海さんにも嬉しい申し入れだった。

 それにしても佐志耳は、於保耳族長に良く似ている。でも、佐志耳は、志賀(しか)沫裸党では無く、佐志(さし)沫裸党の跡取りに成るらしい。お祖母様の美曽野女王の跡を継ぐのだ。だから、将来は末盧国の大統領になるのである。

 そして、志賀沫裸党は、まだ琴海さんのお腹の中で寝ているこの子が継ぐ。もう末盧国の内乱は、昔話として語り継がれようとしている。これはとても幸せなことだ。きっと、この子は私にも幸せな兆しを運んでくれる気がする。私は、波静かな冬の琴之海の日差しの中で春の息吹を感じた。

 夏希義母ぁ様も琴之浦の館で待っていてくれた、私が伊都国行きを誘ったのだ。夏羽も居ないし、独りで新年を迎えるより楽しい筈だ。それに、リーしゃんも同行しているので美味しいものも沢山食べられる。松浦之津からは、美曽野女王も同船することに成っている。だから、伊都国の新年の祝いは、きっと楽しく賑やかである。

 優奈と、儒理の拉致騒ぎが無ければ、アチャ爺と、テル(照)お婆も一緒に行きたかったが、今は、アチャ爺が対策部隊の司令塔である。無事にことが進んだら来年は、皆を阿多国に連れていこう。そして、南国の暖かい新年を皆に味あわせてやるのだ。さぁ早く春よ来い。瞼とじれば、そこに愛する人がきっといる。

⇒ ⇒ ⇒ 『第12部 ~ 初夏の海 ~』へ続く

卑弥呼 奇想伝 公開日
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