四国4県の100%を達成した。現役時代3回、退職後は連続して6年間、毎年1月に四国に渡り、都合9回で4県の216市町村に行くことができた。平成の合併後の2009年4月1日現在では95市町村となり半分以下になっている。今回もJR四国のバースデー切符を使った。例年と異なるところは、まず初日に松山に行ったことだ。日曜日の昼前に松山空港に着き、迎えに来てくれたT君と代々の松山藩主だった久松家の明治以後の居宅だった萬翆荘、さらには坂の上の雲ミュージアム、石手ダムなどを見てまわった。伊丹十三記念館では夫人の女優宮本信子さんと歓談し一緒の写真も撮ってもらった。その後道後のホテルで夕食を共にし、100%達成の前祝をしてもらった。
祖谷渓谷へ行き徳島県を完了
道後温泉6時40分発の伊予鉄市内線でJR松山駅に出て、特急しおかぜ8号で多度津に向かった。先頭の半室グリーン車には私以外に3人乗っていた。振子を働かせながら時に時速130キロ近くを出すなど相変わらず快適な走りだ。この沿線、随分多くの駅で下車し乗車したものだ。松山から順に伊予北条、菊間、大西、波方、波止浜、今治、伊予桜井、丹生川、伊予小松、伊予西条、新居浜、伊予土居、伊予三島、川之江、豊浜、観音寺、本山、高瀬、みの、詫間である。このうち特急が停車したのは伊予北条、今治、丹生川、伊予西条、新居浜、伊予三島、川之江、観音寺であり、その他の駅はどのようにして列車を待ったかなどの記憶が取り戻せないうちに一瞬の間に通過した。駅間を歩いたこともあり、その思い出も走馬灯のように去って行く。新居浜付近から見た山脈を越えたところに別子山村があり、そこへは新居浜からではなく伊予三島から1時間以上バスで揺られて行ったことなども思い出した。
多度津では30分ほど待って特急南風3号で阿波池田へ、善通寺、琴平と停車駅ではもちろん、通過駅の塩入、讃岐財田、箸蔵などでも寒い中、震えながら列車を待った記憶が蘇えってくる。こちらも先頭半室グリーン車で、香川県と徳島県との県境である猪ノ鼻峠に向かっての上り勾配を力強く登ってゆく様子が良くわかった。こちらは私以外の乗客はいなかった。
阿波池田を中心とする徳島県三好市は、2006年4町2村が合併して出来た新しい市で、今回は合併前の西祖谷山村、東祖谷山村および山城町に行き、これで徳島県の100%達成ができた。実は昨年もここに行くために祖谷山中の旅館の予約までしていたのだが、直前になって旅館から大雨による土砂崩れでバスが運休になったという電話があり行けなかったのである。今回は1日でこの3ヶ所をまわることにしたのだが、冬場の平日はバスの本数が少なく、たったひとつの組み合わせしかない。今回初日に松山に行ったのは、ここのまわり方による制約からでもあった。
西祖谷山村、東祖谷山村は吉野川の支流祖谷川の流域にある。この川は剣山を水源とし大歩危峡の下流、土讃線の祖谷駅付近で吉野川に注ぐ。深いV字谷の続く渓谷が続き、そのわずかに開けたところに両村の中心部がある。かずら橋という葛類を使って架けられた原始的な吊り橋が残っており、そこが観光地にもなっている。かずら橋に行くにはこの合流点から渓谷に沿って入ってゆく方法と、大歩危駅付近から峠をトンネルで抜けて行く方法があるが、後者の方が道路が良く整備されている。阿波池田からはそれぞれのルートのバスがあるが、平日は前者が1日に3便、大歩危駅経由の後者が4便で、休日やシーズン期間はさらに大歩危駅から4便の増便がある。
阿波池田駅前のアーケード街は相変わらず廃坑の坑道のような寂しさだ。バスダイヤの都合で、まず前者の支流コースのバスで1時間10分、旧西祖谷山村役場、現三好市西祖谷総合支所の前で降りた。途中はバスがやっと1台通れるくらいの狭い、まさに羊腸といえる道だったが、谷が深く絶景ポイントもいくつかあった。この道に入ってからは対向車など滅多になく、全部で10台もなかったのではないだろうか。
ここは一宇というところで、大歩危からの道と合流する地点であり、観光ポイントの「かずら橋」の3キロくらい手前である。西祖谷山の旧役場に寄り、大歩危駅から来るバスを待った。さらに上流、東祖谷総合支所のある京上に向かうためである。1時間近くあり、昼食時間でもあったので食堂の類を探したが「かずら橋」まで行かないとないと言われ、小さな雑貨屋のような店でパンを買った。雪もちらつきかなり寒かった。狭い道路に面して7階建ての新築マンションが2棟建っていた。市営住宅だそうだが、半分も入居していないとのことだった。
京上へはそこからさらに35分バスに乗ったが、道路は2車線のものが続いていた。「かずら橋」付近はホテルや旅館もあり、広い駐車場もあり観光地化されていて、バスも5分間のトイレ休憩を取っていた。京上では帰りのバスまで1時間40分も待たなければならなかったが、ここには旅館が経営する食堂も営業しており、菓子パンを3つも食べた後だったが暖かいうどんを食べ、寒さを凌ぐことができた。
帰りのバスには大歩危駅前を通り越し、土讃本線に沿って阿波池田方面に戻るようにして、阿波川口駅近くの山城支所前で下車した。銅山川の流入点にある旧山城町役場の写真を撮り、これで徳島県が完了した。銅山川は吉野川最長の支流であり、この上流は愛媛県となり、今は四国中央市の一部となった新宮町や、新居浜市の一部となった別子山村がある。まことに吉野川流域というのは、香川県を除く四国3県に広く及んでいる。その香川県も、最大の水源地にしているのだから、四国の水需要のかなり多くを賄っていると言える。
阿波川口駅には特急が停車しないので、高知行き各停キハで大歩危まで戻り、そこで特急に乗換え本日宿泊予定の高知に向かった。
新装なった高知駅
一昨年来たときに高架化工事完成直前だった高知駅は、本体工事だけでなく駅前広場の整備などもすっかり終わっていた。地表から高架上のホームまでを包んでしまうようなドーム屋根を持つ、なかなか洒落たデザインの高架駅になっていたが、ひところのような大規模で豪華という感じはあまりしない、身の丈に合ったものという印象を受けた。島式2本のホームも幅も狭く、それでも利用客の数からすれば十分なのだろう。階下のコンコースにある自動改札機や切符自販機の数も多くなく、有人窓口もこじんまりとしたものだった。感心したのは駅正面入口が4~50メートル後退したのに伴い路面電車もその分延伸したことで、コンコースを出るとすぐに乗場があったことだ。利用客の増大に、あるいは減少の歯止めにどの程度寄与しているのかはわからないが、公共交通のシームレス化をきちんと考えているようで高く評価したい。
高知市の最も中心街であるはりまや橋交差点は、4つの面のうち1面が全くの更地になっている。2002年西武デパートが撤退、その後ビルも解体されたままになっていたのだが、最近ここにパチンコ屋が主体となる駐車場ビルを建てるという話が起きているそうで、それに反対する市民運動が県や市に協力を仰いでいるといったことをローカル・テレビが伝えていた。
そのことを除けば高知市の中心市街地は意外に活気があるように思えた。より大規模で吸引力のある大都市が近くにないという理由かも知れない。高松までは特急で2時間少々だが、ふたつも峠を越えなければならないという心理的な距離感というようなものもあるのかも知れない。四国全体の営業拠点を高松か松山に置く企業の社員が高知へ出張した場合、日帰りがむずかしいので宿泊するということも多いのかも知れない。また周辺市町村の人々も買物や遊びでは高知に行くだろう。熊本県の玉名以北や大分県の杵築や中津などの人々が福岡や小倉などに引き寄せられるのと違う。宮崎市のような位置づけにあると言っても良いのかも知れない。
テレビの大河ドラマの影響による観光客も今年は増えるだろうが、それらに影響されない、地域の中心都市としての確固たる地位を、今後も持ち続けてほしいものである。
四万十川の複雑な流れ
翌朝、高知駅高架下のカフェテリアで500円のモーニングサービスを食べてから特急「しまんと1号」に乗った。特急なのに高知発車後3~4分走っては旭、朝倉、伊野と停車する。最初の停車駅である旭の手前まで高架線は続くが、その間の2つの通過駅はいずれも列車交換ができない構造だ。旭で待っていた高知行き各停列車は17分間そこで停車する。それは特急に後続する各停須崎行きが、信号システムの関係で特急が旭を発車する5分後になってからでないと高知を発車できず、高知行きはこの列車が旭に到着するまで発車できないからだ。通勤時間帯に高知の3駅手前の駅で17分も停車するのは、鉄道サービスとして問題ないのだろうか。県庁や市役所のある市の中心街に行くには旭駅からの方が近いのかも知れず、あるいは朝倉で降りて土電に乗った方が便利なのかも知れない。だから通勤客からは特に苦情もなく、皆そんなものと諦めているのかも知れない。しかし鉄道サービスがこのままで良いことはない。せっかく高架線工事を行ったのだから、用地はあるはずだ。一部区間だけでも複線にすべきだったと思う。でも複線化に伴う追加費用は、JR四国の全額負担となってしまうのだろうか。
カーブは多いが特急列車は振子の威力で快適に走る。並行する道路の車を次々に抜いて行くのは気持ちが良いし、こういうところでは鉄道の優位性がまだまだ残っている。これでロングレールならばさらに良い。しかし高知以西での交換可能駅は1線スルー形態になっていないので、通過駅で減速となるのが惜しい。
中村までの間の、鉄道駅が最寄りとなっているところでただ一つ残っていた中土佐町へ行くために土佐久礼で下車した。駅から歩いて5~6分の町役場に行ってから高地観光バスという20人乗りくらいの小型マイクロバスで旧大野見村に行った。大野見村というのは複雑に蛇行する四万十川上流域の盆地の村で、土佐久礼からは海抜300m以上の山々で隔てられた峠を越えて行く。2006年1月に中土佐町と合併しているが、鉄道の走る海岸部と盆地部分でどれだけの文化的、経済的交流があったのだろうか。峠越の道は小型バスがやっと1台と通れるくらいのもので、それも所要30分の間に数台程度の対向車があっただけだった。
大野見村では帰りのバスまで80分ほどあり、周囲を散策したが、四万十川に架かる古い木造橋なども残っていてなかなか雰囲気の良いところだった。旧村役場の向かい側に大野見四万十民俗館という木造の建物があり、入場無料で「ご自由にお入り下さい」という札が出ていたので、寒さ凌ぎに入館した。古い米蔵倉庫の跡で、展示物も四万十川で使われてきた伝統的な漁具や鍛冶屋の道具など、全国に数多い民俗館と変わらなかったが、作業のできるテーブルと椅子がいくつかあった。資料の整理などをしようと思ったが、暖房が全くなく寒い。館のスタッフなど誰もおらず寒いはずである。外の陽だまりのほうがまだましだったので長居はしなかった。
なお大野見と久礼を結ぶ路線バスは前述のマイクロのものが日に5往復あるが、これとは別に同じ四万十川流域の須崎とを結ぶものが4往復ある。かつて峠越えの道が十分整備されてない頃は、同じ川の流域を共にする者同士の方が、文化的・経済的な結びつきがあったのではないか。須崎からのバスはその名残なのかも知れない。
宿毛でだるま夕日を見る
土佐久礼から中村行きの特急「南風3号」で中村へ、そこで4分後に発車する各停列車に乗換え宿毛に行った。2~3年前までは大半の特急は宿毛まで直行していたが、土佐くろしお鉄道の経営合理化のためなのか、2.5往復だけになってしまった。単行の社型キハに乗り移った20人近くの客の中には背広姿が多かった。宿毛に着くと3分後に発車する高知西南交通バスで高知県の西南端大月町へ行き、すぐに戻って宿毛市内のホテルにチェックインし、荷物を預けてから市役所に行った。
宿毛の市街地は、藩政時代は山内支家の治める城下町からそのまま発展した地域と、佐伯へ行くフェリーなどが着岸する港湾地区とが3キロくらい離れておりその中間の田園地帯に1997年に開業した宿毛駅がある。旧城下町へは東宿毛駅の方が近い。鉄道を高架にする必要など全くないところだが、同鉄道の阿佐線(ごめん・なはり線)と同じように、トンネルと掘割部分以外は中村からはずっとコンクリート柱の高架線だった。駅は2本の相対式ホームをもつ頭端式で、京王井の頭線の吉祥寺駅のような構造だ。頭端の先に地平コンコースに下りる階段とエレベーターがあるので、この先宇和島方面への延長は考えていないという構造だ。
市役所の近くに宿毛歴史館という豪華な建物があった。200円の入館料を払って入ると、江戸時代の城下町の街並みを緻密な模型を使って復元した大ジオラマがあり、現在の町並みがその上に映し出されるシミュレーション映像もあり、面白かった。雄飛した宿毛の人々というコーナーがあり、明治以降に各界で活躍した20人が紹介されていたが、その中に吉田茂があった。宿毛出身の竹内綱の五男として東京で生まれ、3歳で横浜の実業家吉田健三の養子になったそうで、選挙区は高知県と聞いていたが本人はどのくらい宿毛に関わりをもっていたのだろうか。竹内綱とは、板垣退助とともに自由党を創立し、一方で朝鮮の京釜鉄道の建設や経営に尽力した人物だということも知った。
この後もうひとつの集落である港の方に歩いて行った。駅の先には広い駐車場のある郊外型大型ショッピングセンターもあった。港に着いたころ日没時間となったが、入江の向こうにちょうど陽が沈むところが見えた。幸運にも「だるま夕日」だ。2~30人の人が集まって写真などを撮っている。宿毛市のHPによると、これは大気と海水との温度差が大きく冷え込みが激しい晴れた日に、海面から立ち上がる水蒸気によって光が屈折してできるもので、一種の蜃気楼現象のようなものだそうだ。宿毛湾の冬の風物詩で11月中旬から2月中旬にかけて20回程度しか観ることができないそうで、しかも綺麗なだるまになるのはその内の10回程度、だから「幸運の夕日」といわれているそうだ。今日観たのがどの程度の出来なのかはわからないが、だるま風に観えたのは確かである。
土佐西南部を塗りつぶし
翌朝は三原村役場に行くために宿毛発6時36分の各停に乗車し、10分走った平田で下車し村営バスを待った。この村に終日留まるつもりならば別だが、効率良く往復するには朝のこのバスに乗るほかはない。30分ほど待って来た白ナンバーでの20人乗りくらいのバスに15分ほど乗って役場前で下車した。計画を立てる段階で、なかなか適当なバスが見つけられず、一時は片道を歩くことも考えたが、9キロの途中峠越えも想像していたよりも勾配がきつそうで、歩かなくて良かったとつくづく思った。帰りのバスまで45分待たなければならなかったがとても寒い。早朝で役場も開いておらず、近くを徘徊していたら営業中の喫茶店が2軒もあった。
そのうちの小奇麗な1軒に入ると5~6人の男性老人がコーヒーなどを飲んでいる。なぜこんな早朝からと思ったら、これから仕事に行くという。宿毛のコンビニで買ったパンで朝食は済ませていたが、モーニングサービスがあるというのでコーヒーとトーストを頼んだ。
この三原村は人口1800人ほどで、標高120メートルの高原地帯に位置する典型的な山村だ。土佐湾にそそぐ下ノ加江川とその支流に沿って13の集落が点在しているそうだが、周囲を450~850メートルの山脈に囲まれ、隣接する中村、宿毛、土佐清水の3市とは独立した立地条件にあるそうだ。だから今回もどことも合併せずにこのまま単独で進む道を選択したのかも知れないが、財政は大丈夫なのだろうか。
平田に戻り、また45分ほど待って「特急南風12号」に乗車した。1日に3本となってしまった宿毛からの特急の1本である。陽光に輝く土佐湾の風景を眺めながら窪川で下車、土佐西南部で最後のひとつとなった大正村に行くために予土線(しまんとグリーンライン)のキハに乗り換えた。わずか2分の接続だった。JR四国と土佐くろしお鉄道の二重戸籍区間である川奥信号場まで8キロほど戻り、中村線と別れた後は四万十川に沿って下流方面に走り、土佐大正駅で下車した。
3年前に窪川から宇和島に行く途中、行っては戻る「稲妻方式」で江川崎(旧西土佐村、現四万十市)、十川(旧十和村、現四万十町)に行ったのだが、この路線は本数が少なく時間の関係もあり、それ以上行くことはできずここ大正村だけ残っていた。ここも今は四万十町の一部になっている。そのときにも思ったことだが、同じ四万十という名前の市と町が隣接するのは非常にわかりにくいし、間違え易い。どんな経緯からそうなったのかはわからないが、もう少し当事者同士が知恵を出し会ったら良かったのに、と思う。
窪川に戻り高知まで「特急南風16号」に乗った。後は高知周辺の1町2村に行けば四国が完了する。特急のグリーン車の豪華シートに座りながら、これで四国が終わるのでこれに乗るのも最後かと思うと、何か寂しい気分になって来た。
桂浜へ
いよいよ残りは高知周辺の1町2村だが、これがなかなか厄介である。いずれも2005年から8年にかけて高知市に編入されたのだが、バスの便が良くない。13時03分に高知駅に着いたのだが、午後半日でこの1町2村を回る組み合わせがどうしてもできない。そこでまず午後は春野町へ行き、翌日午前に最後の2村、鏡村と土佐山村に行くことにした。
春野町へ行くバスは15時21分までないので、ホテルにリュツクを預け市内観光をした。高知城には以前家族旅行で行ったことがあるので、城に沿って一周した。途中寺田虎彦が幼少期に住んでいたという家があり、寺田虎彦記念館となっていたが水曜日で休館だったのは残念だった。「天災は忘れたころに来る」と刻まれた石碑も建っていた。また土電の上町一丁目電停近くの上町病院前に立っていた竜馬生誕の地という碑も見た。
旧春野町は高知市の南にあり、土佐湾に面した町だが、高知市街地との間は高さ2~300メートルの衝立のような山並によって隔てられている。近年はいくつかの新しいトンネルができ車でならば容易に行けるようだが、路線バスは昔からの道を行くので遠回りをする。市内中心部から春野庁舎前行きというバスが1日に5本あるが、桂浜に近い長浜出張所というところから春野庁舎までは車がやっと1台通れるくらいの狭い道の連続だった。この道は、はりまや橋からまっすぐ南に下がって来た道から直角に東から西に向かう、すなわち直角三角形の2辺を通るような道なので、トンネルによる短絡路がいくつかできている今はこんなところを通る一般の車はほとんどないのだろう、滅多にすれ違うということはなかった。またこの区間、乗客も私1人だけだった。
まだ日没までには時間があったので、帰りは長浜出張所からバスを乗換え桂浜に行った。テレビの大河ドラマの影響もあるのかも知れないが、バスの終点は広い駐車場とともにたくさんの土産店が並ぶ一大観光地という様相を呈していた。浜そのものは日本の海岸ならばどこにでもありそうな、特にこれといった特徴があるというものではないが、わが国近代史の一舞台としての意味があるという事だろうか。それにしても浜を囲みホテルなど多くの現代の構築物が目に入るので、ここで竜馬のロケを行うのは結構むずかしいのではないか、テレビドラマで見る桂浜は、実は他の海岸で写しているのではないかなどと余計な詮索をしたくなった。それでも初めて見た竜馬の銅像は迫力があった。像の高さが5.3メートル、台座を含めた総高は13.5メートルあるそうで、おそらく私が今まで見た銅像の中で一番大きいのではないかと思う。はるか太平洋の彼方を見つめている和服姿に懐手,ブーツ姿はかなり後まで自分の印象は残りそうである。
この後は長浜出張所まで、4キロ弱だったが浦戸湾入口の複雑な海岸線に沿って歩いてみた。延長1480メートル、海面上高さ50メートルの浦戸大橋の下を通り、小さな造船所の横などを通ったが、津波対策なのか身長を越える高さの壁がずっと続いていたので、歩きながら海を見るということはできなかった。
高知市郊外の2村で四国完結
最終日、いよいよ残る2村である。いずれも浦戸湾に流れ込む鏡川の流域にある村で、どちらも高知中心部から直通のバスがあるのだが、これをぐるりと周回しようとすると1日に午前中に行く1つの組み合わせしかない。めずらしくゆっくりとホテルを出てまず旧鏡村に向かった。ここにも喫茶店があり1時間ほど待ってさらに上流の旧土佐山村に行くバスに乗った。このバスは1日2便しかなく、夕方の便だとその日はもう高知市内には戻れない。マイクロバスだったが乗客は終始私1人だった。旧佐山村は上流と言っても鏡川が逆「コ」の字型をしており、高知市中心部からは四角形の三辺を通るように走るので直線距離ではそれほど離れていない。ただしここも旧春野町との間以上に高い山並で隔てられているので峠越えの道を行かなければならない。
役場近くの集落は斜面に小規模なものがあるだけだったが、一軒だけ地産の野菜などを売る店がありその中にうどんやピラフが食べられるコーナーがあった。そこで昼食を取り高知に行くバスに乗った。長いトンネルを抜けると眼下に高知市街が、そしてその先に土佐湾が見渡せる大変景色の良いところに出た。バスはこの先右に左にカーブを切りながら市街地に下って行った。
気になることがある。合併後高知市の人口は345,980人だが、その中で旧春野町が16,249人、鏡村が1,695人、土佐山村が1,250人である。旧春野町は、それでも5%弱を占めているが鏡村は0.5%、土佐山村にいたっては0.3%台である。高知市の市議会の定員は44人だそうだから、仮に人口比で市会議員を出した場合旧春野町は2人出せるが、鏡村と土佐山村は両方を足しても1人も出せない。このような状態で旧2村の主張とか要望がどの程度聞いてもらえるのだろうか。県庁所在地クラスの都市が周辺の小規模町村を吸収した例は他にもあるが、これほど極端な例はあるだろうか。
帰りの飛行機まではまだ時間があったので、はりまや橋から後免まで土佐電鉄の市内線に乗った。伊野までとは違い最後まで複線だった。途中までは本数が多いが、後免まで行く電車は日中15分に1本程度で、それでも結構乗客は多く、通しで乗るというよりも数駅間を乗る乗客が度々入れ替わるという風だった。終点のごめん電停から1キロ弱歩いたバイパス上の後免町通というバス停から高知竜馬空港までバスに乗った。
高知竜馬空港は、到着で2度利用したことがあったが、出発では初めてだった。時間も十分あったので展望ロビーに行ったりした。帰りの便は座席数270のボーイング767-300だったが満席に近かった。高知県は北海道や沖縄のような、離島的な感じがしたと言っても良いかも知れない。しかしもうこれで四国には来なくても良いと思うとちょっと残念な気がする。
四国216カ所をまわり終えて
四国4県の216全市町村を制覇したことになるが、あしかけ20年、11回の訪問だった。四国は一言で言えば首都圏から遠く離れた過疎の地と言って良いが、人口減少が進む現在の日本の縮図でもあり、今後わが国が進む道を先取りしているようにも思われた。その辺りを含めて、私の四国の旅の総括をしてみたい。
(1) 四国訪問の記録
退職してからは6年続けて毎年1月に四国に行っている。JR四国のバースデー切符が使えるからだ。誕生月ならば誰でも、1万円で連続する3日間JR四国の特急を全列車、グリーン車も含めて乗り放題という切符だ。JR以外にも土佐くろしお鉄道全線や一部のJR四国バスにも乗車できる。そして松山で自動車ディーラーを経営している大学時代の友人T君と会い、道後温泉に浸るというのが年中行事になった。
現役時代は2度の個人旅行のほかに、1度だけ徳島への出張帰りに役場めぐりをしている。そのほか瀬戸内海の島嶼のうち愛媛県に属する「しまなみ海道」の島々と魚島へは、離島郵便局貯金をしている友人と夏に行った。また私が正式にこの「めぐり」をしようと決断する以前、20年も前のことだが個人旅行の折に小松島と阿南の市役所の写真を撮っておいた。これらとは別に、1998年のゴールデンウィークに買ったばかりのカローラで、開業直後の明石海峡大橋を渡り高知県の土佐中村まで家族でドライブをした。このときもいくつかの役場の前を通ったが、公共交通の利用ではないのでカウントしていない。
印象に残っているところと言えば、良く歩いたところだ。鉄道やバスがあっても本数が少なく、時間帯も合わず歩いた方が早いところがかなりあった。88カ所巡りのお遍路さんには負けるが、合計すればかなりの距離だろう。その中でも面白いのは空港から歩いて行った役場、05年に行った高知県の吉川村(現香南市)がそれで、地図では高知竜馬空港のターミナル・ビルから2キロくらいだったし、着陸寸前の機上からはまるで空港内の施設かと勘違いしそうな場所にあった。しかし実際に歩いてみると、車がビュンビュン走る広い道を何度も直角に曲がらなければならない。空港への徒歩客など最初から考えていないのだから歩きにくいのは当り前だ。
歩いて分水嶺を越えたこともあった。愛媛県の城川町(現在西予市)と日吉村(現鬼北町)との間の約9キロで肱川水域から四万十川水域に抜けた。それにしてはゆるやかな登りと下りでサミットとは言えないほどの鞍部を越え、良く整備された国道197線はずっと歩車道が分離されており歩き易かった。この間を結ぶ路線バスはなく、日吉村からその先に行くバスに間に合うよう90分で歩かなければならず、時速6キロで脇目もふらずに歩いた。四国の大分水嶺を歩いて越えたというのはここだけだった。
(2) 四国の川は面白い
それにしても四国の川は面白い。分水嶺と県境、昔の国境とが一致していないところが多いからだ。四万十川は高知県の川だと勝手に思っていたが、何度かの屈曲を経ながら支流の広見川、三間川等が愛媛県内にも広い流域を持っている。また松山市南端に久万高原が広がるが、そこはもう土佐湾に注ぐ仁淀川の水域だ。同じ愛媛県で新居浜市の一部となった別子山村や四国中央市の一部となった新宮村は四国最大の流域面積を持つ吉野川水域である。
その吉野川はさすがに大きな川だ。阿波池田から土讃線はずっとこの川に沿って走り、大歩危駅を過ぎると高知県に入る。土讃線と分かれてから早明浦ダムがある。ダム湖に沿ってさらに上流に向かうと吉野川源流ある本川村に入るが、この村はその南にある仁淀川水域の吾北村、伊野町とともに04年に合併し「いの町」の一部となった。水域をまたがった合併である。
早明浦ダムは四国のみならず西日本最大のダムだそうで、ウィキペディアによると利水配分率は徳島県48%、香川県29%、愛媛県19%、高知県4%、特に大きな河川のない香川県は水道使用量の50%をこのダムに頼っているとのことだ。まさに吉野川は四国の生命の川だ。
四国は讃岐、阿波、伊予、土佐の4国がそのまま明治の廃藩置県で現在の4県になったわけだが、なぜこのように旧国境が水系と異なっているところが多いのか、興味の湧くところだ。
またそれとは別に高知県西南部に行くと列車やバスが四万十川に何度も出合う。一瞬どちらが上流でどちらが下流なのか、水の流れを見るまではわからない。四万十川に限らず四国の川は、険しい山地に降る雨水が、ほんのわずかな隙間を求めて、まるで迷路の出口を探すかのように右往左往しながら海に向かっているものが多い。意外なところで意外な川に出合う、これも四国の旅の面白さである。
(3) コミュニティバスと二次・三次バス
216の市町村役所・役場のうち鉄道駅から歩いて行けたのは109であり、その他船で行く離島の7以外の100カ所はバスでしか行けなかった。そのうちコミュニティバスでしか行けないのは13カ所あった。コミュニティバスについては、法的に明確に定義されたものはないが、地方自治体が何らかの形で運行に関与している乗合バスと言って良い。ただし自治体が経済的支援をしているバスというと、過疎地の路線バスの大半はそうなので、ここでは狭義に、市町村が自ら運行しているバスというように対象を絞ることにした。役場職員が運転手という場合もあるが、自治体の車(大半が白ナンバー)で運転手は外部委託、あるいは車両も含めて全面委託するなどいくつかのパターンがある。私が今住んでいる川崎市の丘陵地帯にバスがないので、私自身もコミュニティバス導入の運動を行っているが、なかなか実現へのハードルが高く苦労している。
コミュニティバスには過疎地型と都会型があると言われている。四国で私が利用したものは1ヶ所を除き他はすべて過疎地型だった。その1ヶ所の都会型は大変上手くいっているように見えた。香川県綾川町、06年に綾上町と綾南町とが合併した人口26千人程の高松市のベットタウンのような町だ。旧綾上町域をカバーするもので、高松市の中心瓦町から琴電琴平線で30分ほどの陶駅が起点だ。乗客定員9人のワゴンタイプのもので、駅から5分ほどの綾上支所前で別方面に行く同タイプの小型バスに乗り継げる。電車は30分毎だが、このバスは1時間毎に、等間隔時刻で運行しており電車との接続も良い。料金は乗継を含めて1乗車100円、往復とも数人の乗客があり若い女性の姿もあった。めずらしく活気のあるコミュニティバスであり、都会型の成功例だと思っている。
そのほかはすべて過疎地型であり、乗客は私1人か、他に1~2人というのがほとんどだった。この中で、これも私の勝手な命名だが「二次コミュニティバス」について述べたい。二次という意味は、路線バスの終点などを起点にするバス、すなわちそこに行くのに鉄道駅を降りてから途中で乗換えなければならない、その2度目のバスにこう名付けた。私は表のように10の二次バスに乗った。通常の路線バスの乗り継ぎもあったので、この中で「コミュニティバスでかつ二次」でしか行けなかったのは4カ所だった。大半は一次バスと接続されておりほとんど待ち時間がなく乗り換えできるようになっているが、そうでないものもあった。
また中には三次バスというものもあった。徳島県の那賀川流域にある木沢村へ行くには徳島から1時間半ほどの川口というところまで徳島バスに乗り、そこで子会社の徳島南部バスに乗り換える。その支流にある木沢村役場へ行くには川口から25分ほどの出合というところでさらに木沢村の村営バスに乗り換えなければならない。徳島までのバスに接続するのは1日に3便のみだった。
コミュニティバスの中には結構ルーズなものもある。合併で美馬市の一部となった木屋平村役場に行くバスは、吉野川支流の穴吹川に沿うこと28キロ、1時間10分の乗車だったが、今時めずらしい喫煙可だった。お客も運転手も休むことなくたばこを吸い、古いマイクロバスの木の床に灰をボロボロと落としていた。
まあそれは良いとしても来るはずのバスが来なかったこともある。愛媛県の旧広田村(現砥部町)へ行ったときのことだ。松山から1日1往復だけ伊予鉄バスがあるが、時間の都合でJR内子駅前から合併で内子町の一部となった小田支所行きの町営バスに乗り、さらに途中で乗換えたうえ2キロほど歩いて行った。しかし帰りのバスが来ない。小田支所に電話をしてもバスは運行していると言う。電話で何度か「こない」、「そんなわけはない」とやり合っているうち、今日はそのバスが手前で折り返したことがわかった。仕方なくタクシーを呼んでもらい小田支所まで行った。
支所の話では、このバスはもともと通学生を対象としたもので状況に応じ途中で折り返すこともあるという。確かにコミュニティバスというのは住民利用を第一目的とし、運賃も安く設定している、だから通常の路線バスにはない臨機応変な対応が許される場合がある。それをきちんと説明していなかったという町側の落度はあるものの、私には納得できる話だった。支所側は恐縮し、今後HPなどで一般旅行者への周知を徹底すると言っていたが、実際に私のような変な経路を辿る旅行者はまずいないだろうから無理しなくても良いと言っておいた。
(4) 四国の市町村合併
四国の市町村合併は全国レベルでみるとかなり進んでいる。平成の合併で216あった市町村は95となり、半分以下の44%になった。この間日本全体では3259が1796へと55%(2009年現在、東京23区を含む)なので、数の上では全国平均を上回っている。今治市などはなんと13市町村が一つになった。
合併では新しい自治体の名前が議論を呼ぶことが多いが、四国にも変な名前が出現している。愛媛県の四国中央市などは、私は好きではないが、まあ地理的にはそう呼んでもおかしくはないのかも知れない。わかりにくいのは愛媛県の四万十市と四万十町である。どちらも四万十川流域にあり、全国的にも知られた名前だから激しい争奪戦をしたのだろう、最終的にひとつの名前を両方が使うようになった。四万十市である土佐中村から窪川に戻りJR予土線に乗ると、途中の窪川、大正、十川が四万十町だが江川崎に来るとまた市になる。まあ地理好きの旅行者にとっては面白いが、郵便のあて先間違いなどないのだろうか。
(5) JR四国の真の競争相手は
JR四国にはほぼ毎回誕生日切符で特急グリーン車や、ローカル線の隅々まで利用させてもらったが、JR四国は年々条件が悪くなる中で本当に良く頑張っていると思う。四国全体の人口減や高齢化に加え、高速道路の延伸が大きく影響しているようだ。現在では四国の4県都を結ぶ「Xハイウェイ」が開通しJR四国の総延長の約半分、436キロが供用されている。
そして高速バスが脅威である。例えば高松・松山間では鉄道で特急が2時間半前後、1日17往復なのに対して高速バスは2時間40分前後、15往復とほとんど同レベルのサービスだ。それなのに料金は、鉄道は指定席特急券を含み5500円なのに対してバスは3900円とかなり差がある。しかもバスの場合には高松、松山とも市内中心街にも停まる。鉄道の場合は鉄道駅から中心街までバスやタクシーに乗らなければならないので余計に料金差が開く。
これは1人の運転手で運べる乗客の数は多いが、線路、駅、電力や信号設備などのインフラの維持保守を自前ですべて賄わなければならない鉄道と、その部分は道路使用料だけを払えば良い高速バスとの、原価構成上での違いによるものだ。鉄道という産業は、発足当時は自動車や航空機などとの競争もなく、インフラから運行サービスすべてを自前で行っても十分利益が出るような料金を設定できていた。その後鉄道を取り巻く環境が大きく変わり、米国では一時壊滅的になり、ヨーロッパではインフラ部分は道路と同じ公共財だという考えのもと上下分離という形が進んだ。
翻って日本では、首都圏という世界的に見ても稀な超人口集中地区や、新幹線列車を3分おきに走らせても満席になる東名間などがある。そこで自己完結的にビジネスが成り立っている企業が実際にあることから、鉄道会社というものはインフラを含めたビジネスが基本という考え方が主流らしい。
私は首都圏や東名間こそがきわめて特殊な例であり、JR四国が置かれている環境の方が普通なのだと思う。だから私は日本でも早晩上下分離を取り入れるべきだと思う。鉄道も道路の一部であり、道路の1車線分、あるいはバイパスであると考えるべきだ。主要都市間については、災害などの非常時対策だけでなく、人流や物流の面で常に複数経路が必要であり、公平な競争条件のもとに、利用者が目的に応じてその都度どちらかを選択する。そして提供者は常に競争を意識しながらサービスレベルの向上に努めるというのが理想だと思っている。
JR四国が旧国鉄のなかで最も厳しい状況に置かれていると思うので、全国に先駆けて、あるいは試行ケースとして、早く上下分離を行ってほしいと思う。JR四国は鉄道インフラを維持管理する機関に使用料を払い自社の車両を運行する、使用料は他の代替機関と不公平にならないような運賃が設定可能な金額とする。不足分は道路特定財源から補てんする。インフラ機関を民間にするのか公的機関にするのかは、ヨーロッパの先行事例を参考に考えれば良い。
尤も鉄道の本当の競争相手は高速バスではない。JR四国も実は高速バスに参入しており、高松・松山間15往復のうち5往復はJR四国が運行している。その高速バスの輸送量にも最近は陰りが出ている。人口減だけでなく、ビジネス利用を含むマイカーへの転化が、高速道路の無料化とか料金の上限制などをきっかけに進んでいるからだ。今後は私交通対公共交通という競争になるのかも知れない。だから公共交通部門はしっかりタッグを組まなければならない。鉄道と道路の料金に見合うサービスレベルが同等となるように、道路特定財源をプールし鉄道も使えるようにし、共同で改善努力をするべきだ。
とは言えこの案にはかなりの反対があるだろう。鉄道会社が経営努力を怠るようになるとか、責任の所在が分散し安全性が損なわれる、などが表向きの反対理由だが、真の理由はなぜ自動車利用者が鉄道のコストを負担しなければならないのかということだろう。道路混雑が減り、自動車が走り易くなると言っても、いつも道路がガラガラな四国では説得力がない。
しかしこれこそ国家の基本戦略だ。今後の50年、100年を見据えたときに、交通というものをどのような体系にもって行くのかというグランドデザインがしっかりと描かれ、国民の間でコンセンサスが得られる必要がある。日本は自動車産業国であり、自動車ビジネスが不利になるような政策は採れないのではと思ったことがあるが、ドイツのミュンヘンやシュットガルトでも最新式のトラムが走っていたし、アメリカでも鉄道の見直しが始まっている。
非常に精緻にプログラム化されたコントロールのもと、振り子車両は正確に腰を振りながらきついカーブを駆け抜ける。世界的にも最先端の鉄道技術で、後から作った高速道路に比べるとかなり不利な線形にも果敢に挑んでいる。道路予算の何十分の一かの費用で鉄道線路の改良をすればもっともっとスピードは出せるはずだ。総合的な交通政策のもとで、鉄道は高いけれど速くて正確という、本来鉄道が持っているはずのメリットで競争が出来るような社会になることを願うものである。
(6) 戦略的凝縮が必要では
山奥の過疎の町村には、その中にさらに小さな集落がいくつかあり、その多くは役場など公共施設のある中心集落からかなり離れた所にある。そして高齢化と人口減が進み、いわゆる限界集落というものもかなりある。私が見たそれらの集落の大半は、役場に行く途中にあったものだが、さらに奥地のものはもっとひどいのかも知れない。この先どうなるのか、いつもこれらを見る度に考えてしまうことである。
そもそも人が僻地といわれるような場所にまで住むようになった理由は何だったのだろうか。おそらく人口が増え新しい耕地が必要になったためとか、狩猟や漁労のため、造営林のため、さらには敵から逃れるため、近所づきあいが煩わしくなったためなどいろいろ考えられる。あるいは自らの意思とは無関係に強制的に連れて行かれたケースもあるだろう。連れて行かれたケースは別にして、要は生きて行くためにそれまで住んでいたところよりも都合が良かったからに違いない。そして現実にその通りだった時代が長く続いていた。
しかし社会全体が大きく変わった。今やほとんど生産活動的なことは行われておらず、お年寄りだけが年金でひっそりと暮らしている僻地も出てきた。一方で世の中全体の生活水準が上がると、僻地に住む人は僻地ゆえの諸々の不便さや隔絶感などから不満をもつようになる。そして少しでもその不満を和らげるために行政は様々な努力を強いられる。都会と同じようなライフラインの整備や、急病や災害時などへの緊急対応などがそうだが、それも金と人の面でだんだん難しくなる。行政だけではない、郵便や宅配、建物や家電製品の保守など民間企業の僻地に対する経費も増えて来ている。
人口減少期にいつまでもこんなことをしていられるはずはない。僻地に住むことの必然性、メリットがなくなったのであれば、元に戻った方が良い。いくつかの過疎地の町村では、役場のある中心集落でさえかなりの空き地や空き家があった。それならばさらに不便な場所、さらなる僻地に住む人々を中心集落に移ってもらうことを積極的に進めた方が良い。強制移住というようなニャンスで取られかねないが、限界集落の問題はもうそんなことは言っていられないところまで来ていると思う。
不要になった土地家屋の買い上げ、解体と元の自然に戻す工事費、移住先での住居新築や改築などの手当て、様々な経費の手当て、移住に伴う精神的苦痛に対する何らかの補償などの費用が必要となるが、これらはいずれも一時的な費用であり、限界集落を長期にわたって維持し続ける行政コストや関連企業の経費を考えると早晩回収できるだろう。
市町村単位では、すでにこのような施策を進めているところもあると聞く。しかしそれには限りがあるので、これこそ国の事業として、国が応分の費用を負担すべきだ。開発したところを自然に戻すことであり、余分な維持費などランニング経費をなくすための新しい公共投資である。それは一面から見れば地方切り捨てであり、退却であり、生活圏の縮小であり、一見弱気な、後ろ向な政策に見えるが、どうしようもなくなってしまう前に、手を打つ必要があることだと思う。
このような話は、先祖が苦労して開発した土地を捨てるのは忍びない、新しいところに行っても新たな人間関係を構築するのが億劫だ、自分はこのまま静かに生きてここで死にたい、など移住対象者のそれは嫌だという声が必ず出て来る。そしてそのような心情的な声は、弱者切り捨てはけしからんなどといったマスコミが好んで飛びつく話題に結びつき易い。しかし一度バラバラになった人々が再び集って生活し、より生産性の高い経済文化活動を行い、次の拡散に備えるということの位置づけで行うのだということを、当事者もマスコミも真剣に考えてほしい。私は、これは「生活圏の撤退とか縮小」ではなく「凝縮」であると考えたい。将来の再拡散に備えて、集合することでエネルギーポテンシャルを高める「戦略的凝縮」だと考えたい。これもわが国を長期的にこうするための施策なのだという国家レベルでのコンセンサスが必要であることは言うまでもない。
ひとつの小中学校で、徒歩通学の生徒だけで野球やサッカーのチームができる、少なくとも集落の最小単位をこの程度にしないと地域のエネルギーポテンシャルなど高められないと私は思う。何もひとつの市町村の中心集落ということでなく、もっと広範囲に、市町村をまたがってでも行った方が良いケースもあるだろう。離島なども同じだ。国土戦略として、例えば今後100年以内にどの島を有人にするのか、それを地理的、歴史的、経済的、あるいは自然環境面、さらには国防面などさまざまな角度から検討し、国民のコンセンサスを得るという手続きをきちんと踏んで行ってほしい。それがこれからの中央政府の最も重要な仕事だと思うのである。
今の四国の姿は日本の将来の先取りだと思う。だから新しい多くの施策を、試行も兼ねて、速く実施してほしい。 以上に述べたことは、私が一介の旅行者として見て感じたことだけをもとにしている。データの裏付もなければ精緻な検証をしているわけでもない、暴論のようなものかも知れない。多くの反論があるだろうし、またこの種の話は「総論賛成、各論反対」になり易い。
しかし昨今のわが国は、ますますそのような議論から遠のき、戦略なきバラマキ政策が続いているように思えてならない。50年後、100年後を見据えた、国家戦略というか、国土戦略といった国家レベルの議論を始めてほしい。