久米島と渡名喜島の両方に効率よく行くことだけを考えると、今年はこの1日しかなかった。まずANAのマイレージ・サービスの無料航空券交換点数が通常より少なくて済むローシーズンであること、渡名喜島への船が1日に2便ある金曜日であること、そして海が比較的安定していると思われる春から夏にかけてだ。そうすると4月の金曜日しかないわけだが、3月末から4月20日までは船がドック入りするので、その間の金曜日の2便はない。ということで今年、そのすべての条件をクリアーするのは4月23日(金)のみで、その日の渡名喜島行きを中心に前後の予定を組んだ。
そして意気込んで出かけたのだが、今年の異常気候が沖縄にも及んでいるのか、乗船予定だったその金曜日の午後便が渡名喜島に寄港できなくなってしまった。そのために同島に泊ることになり、これはこれでまた貴重な体験をさせてもらったが、当初予定していた他の村には行けなくなった。結局3泊4日で1町5村という、青ヶ島以来のパフォーマンスの低い役場めぐりとなってしまった。
普天間の轟音と静寂
那覇空港ターミナルビルから外に出たときの熱気は香港かシンガポールに来たかのようだった。ゆいレールでおもろまちへ行き、巨大なデューティフリーショップの隣、予約しておいたホテル法華クラブに荷物を預けた。そして中部の未訪問の町村にゆくために、まず普天間市場までバスに乗った。市の中央に米軍普天間基地があり、それを取り囲むようにドーナツ状に市街地が広がる宜野湾市の市役所には2006年に行っている。市役所は基地の南東を走る国道330号線に面しているが、今回は市役所前を通り越して普天間という名前の元になった普天間宮の近くまで行った。琉球古神道神を祀る由緒のある神社のようで、もともと一帯はこの神社の門前町だったそうだ。
古い店が立ち並ぶ商店街があったが多くの店はシャッターが降りていて活気がない。沖縄は今の日本では例外的に子供が多くどこも活気があると思っているが、ここだけは他県の地方都市の中心市街地のようだ。やはり基地が関係しているのだろうか。市場は基地の滑走路のほぼ先端にある。そして離陸する軍用機のキーンとする音が聞こえる。ただし私がいた約1時間の間にはそのような音が聞こえたのは2~3回であり、それよりも大型ヘリの方が頻繁に飛んでいた。これも大きな音を立てており、報道によると訓練が多いとのことだが、訓練というのは未熟なパイロットが行うものだから、このあたりの市街地に落ちることが絶対にないとは言えないだろう。
今まさにこの普天間基地の移設が大きな問題になっており、民主党政権のまともなシナリオを欠いた迷走により、この先が全く見えない。このあたりの商店街の衰退ぶりを見ると、どうも基地の移設は、なかなか埒があかないので住民の方があきらめて脱出をしはじめたのではないかとも思ってしまう。もしそうでなく、近い将来基地が確実に返還され、跡地の開発が進み、周辺の地価も上がり活況を取り戻すという可能性が高いのであれば、住民は我慢してでもそこに留まるはずだ。ひょっとして住民は早くから移設の可能性は低いと見ており、政権交代がそれに拍車をかけたのではないだろうか。周辺の静寂ぶりと、ときどきそれを破る轟音とで、ついそのように思いたくなる。
宜野湾市の面積は19.7K㎡というから、東京の北区か港区くらいの広さである。しかし市域の中央部と北部が米軍基地となっており、その面積は全市域の約32.4%を占めているという。人口は91,264人(2009年3月末住民基本台帳)だからかなり過密だと思う。那覇市の外延的な拡大により、基地の南側などは那覇市のベッドタウンにもなっている。更に沖縄国際大学、琉球大学が立地し、沖縄コンベンションセンターも整備されている。
昼食に入った店で、ハンバーク・チーズ・ライスというものを食べた。皿に盛られた飯の上にチーズをみじん切りにしたものをバラ撒き、その上に大きな薄べったいハンバークが覆っているといったもので500円だった。12~3人も入れば一杯になるような小さな店で、近くの高校生のたまり場のようにもなっている店だったが、若い外国人も入って来る。壁に張られたメニューには円のほかドル表示もあり、今食べたものが5ドル、すべて1ドル100円換算となっていた。今だったらドルで払った方が10%近く得だから、アメリカ人には良く利用されているのかも知れない。
なお、後述するような理由で最終日、夜の東京への飛行機まで半日空いてしまい、もう一度普天間に行ってみた。今度は反対側、基地の北西側を走る31番のバスで行ったが受けた印象は変わらなかった。
沖縄本島完了
縦に長い沖縄本島の南部は、高い山こそないがそれでも台地が尾根のように南北に続いている。そこを沖縄自動車道が走っているが、次に行く北中城村役場はその自動車道のすぐ横にある。北中城ICが近くにあるが、高速バスが近くに停まるのかどうかわからななかったことと、普天間基地の近くにも行ってみたかったことから、普天間で一度降りてから他のバスで行こうと思っていた。しかしそのバスは20~30分に1本と本数が少なく、雨も止んだので歩くことにした。国道330号線を石平というところで右に曲がり島を横断する県道81号線(宜野湾北中城線)を進むと左側は金網のフェンスが続き、その向こうは喜舎場テラスハウスという米軍の居住地が続いていた。歩き始めてから25分ほどで沖縄自動車道の下をくぐると北中城村役場がそこにあった。人口16千人ほどの村だが、この村も地図で見た限りでは四分の一くらいは米軍関連施設だ。ただし基地ではなく住宅や米軍専用のゴルフ場だ。
そこから下り一方の道をさらに歩き、東海岸に沿って走る国道329号線と交差する渡口というところに出た。そこから中城村役場前までバスに乗った。東海岸は都市化もそれほど進んでおらず、なんとなく鄙びた感じがする。しかしさらにバスを乗り継いで南に向かい、西原町役場のある小那覇というところまで来ると様相が一変した。交差点の一角にはかなり大型のスーパー、サンエー西原シティがありすっかり都会風になっていた。製糖工場の跡地に2003年に開業したものだそうだ。交差点のすぐ近くにある西原町役場へ行き、これで沖縄本島にある全市町村を完了した。さらに県道38号線(浦添西原線)という、やはり島を横断する道を行くバスに乗り、途中で左折し、首里駅で下車、そこからゆいレールに牧志まで乗った。ついでにゆいレール完乗も行った。
ところで沖縄の路線バスについてだが、4社が運行しており路線ごとに統一した番号が振られているのはわかりやすい。といってもこれはいつも利用する島民にとってわかりやすいことで、逆に島外からの旅行者や訪問者が知りたい路線番号の説明がどこにもない。僅かに沖縄バスのみが、バス停に貼られた時刻表の一部に番号別のおおまかな経路を記載しているだけで、自分の行きたいところへは何番のバスに乗れば良いのか、大半はほとんどわからない。
沖縄のバスは、島外の人には利用してもらう必要なし、と考えているのではないだろうか。旅行者の大半はレンタカーや貸切バスを使っているのが現実かも知れない。私も過去に2度ほど利用しているが、レンタカーは本土に比べかなり安いし、確かに便利である。ナンバーを見ると乗用車の半分近くは「れ」か「わ」でありレンタカーが非常に多いことがわかる。1人旅でも下手に路線バスを使うよりもレンタカーの方が安いかも知れない。バス会社にとっても、観光客は貸切部門か、系列のタクシーやレンタカーで儲ければ良く、路線バス部門に余計な投資をする必要はないと考えているのかも知れない。
私にとってはそれでも良い。住民にとって便利かどうかが重要であり、私自身にもわかりにくいバスを乗り継ぐという謎解きのような楽しさがあるからだ。しかし路線番号の説明を時刻表に追加することくらいは、たいした投資ではない。沖縄のバスはわかりにくいから行くのをやめておこうといっている島外の人も来るようになるかも知れないし、あるいは道に不案内なレンタカー利用者が引き起こす渋滞を減らす効果もあるかも知れない。
久米島へ
もう何度目かの泊港から久米商船のフェリー「ニューくめしま」に乗った。この会社は非上場で資本金1億円という以外は株主構成などわからないが、県や関連自治体の出資は当然あるのだろう。679トンのフェリーは乗客定員は337名とあったが、ざっと数えたところ5~60人の乗船だった。座席の半数はテントと防風用の透明ビニール・シートで囲まれたデッキ上の椅子席だ。南国だからこれで良いのだろう。私も船室内には入らずずっとこのデッキ席にいた。渡名喜島経由で久米島まではちょうど4時間である。
曇天だが風が出ているせいか比較的海上は遠くまで見渡せた。泊港の防波堤の外に出るとまず右手に無人島の慶伊瀬島が見えてくる。那覇港から西北西へ10キロほどの環礁群で高速船ならば20~30分で行け、ダイビングなどで訪れる客もが多いそうで、こんもりと盛り上がった丘には緑も見えた。それを過ぎると左手に慶良間諸島が近づく。大小20あまりの島々がかなり広範囲に広がっており、遠くの島はかすんでいて良く見えない。このなかの渡嘉敷島には今回4日目に日帰りで訪れる予定だったが、後述する理由で行けなくなった。
その島々が後方に退くと、前方に2つの島が見えてきた。これが渡名喜島で2つの山の間にわずかな平地がある島なので、遠くからは2つの島に見える。島の南端をまわり込む頃、那覇に向かう僚船とすれちがい渡名喜港に寄港した。村役場は船のタラップを降りて島に着地してから1~2分歩けば行けるような近いところにある。15分も停泊するのだから十分に行って帰れるし、船上から写真を撮ることもできるが、ここはルールに従い明日上陸することにしている。数えると下船客が20人、乗船が1人だった。フェリーから降りた車はなく、コンテナを2~3個降ろしただけだった。
渡名喜出航直後、属島の入砂島を右に見て、30分くらいすると行く手にまた2つの島がぼんやりと見えて来た。久米島だ。渡名喜島と同じように、2つの山地の間に平地があるので、渡名喜よりはかなり大きいがやはり遠くからは2つの島に見える。久米島からは沖縄本島に向かって、隆起サンゴ礁が10キロくらい延びている。間もなくそれも見えてくるはずだが、右手海上にたしかに白い一本の線が続くのが見えてきたが、サンゴ礁なのかどうかまでは判別できない。渡名喜島と同じように島の南端からまわり込むようにして、西岸にある兼城(かねぐすく)港に着岸した。4時間ほどの航海だったが、左右に島を見ながらだったので退屈せず、ほとんどデッキから離れることはなかった
久米島は2006年4月、島にあった2つの村、具志川村と仲里村が合併し全島が久米島町となった。兼城港は旧具志川村の市街地近くだ。町営バスの時刻を確かめてから、琉球銀行などもある商店街を通り15分くらい歩いて旧具志川村役場だった具志川庁舎に行った。高台にあり東シナ海が見渡せる。今日この後は旧仲里村役場に行き、近くのホテルに泊るだけである。時間は十分あるので、バスで空港に行ってみた。町営バスには島一周線、島尻線、空港線というのがあり、他はマイクロバスだが空港線だけは中型ノンステップの首都圏の市街地を走るような、それも最近導入したと思われる新車だった。しかし客は私以外にはなかった。途中に楽天イーグルスが春季キャンプに来る立派な球場などが見えた。
久米島空港は、2000メートルの滑走路をもち那覇との間を35分で結ぶ便が多い日は1日に7往復もある。そのうち4往復は39人乗りのボンバルディアDH1、朝の1往復が50人乗りのDH4、いずれもプロペラ機で琉球エアコミューター(RAC)の運行、その他昼と夕方の2便が125人乗りのボーイング737-400でこれは日本トランスオーシャン航空(JTA)の運行だ。ターミナルビルは1階に航空会社のカウンターをはじめとする出発、到着のすべての施設がある。地形の高低差をうまく利用しており、駐機場は1段低いところにあるので、ビルの1階からは段差なくそのまま搭乗ブリッジにつながっている。2階に大型レストランがあったが今は廃業しており、1階に数軒の土産店と小さな飲食コーナーがあるのみだった。ここで少し遅めの昼食として「久米島そば」を食べたが、沖縄ではどこにもあるソーキそばと変わらないように思った。
B737の便が到着し、降機客数を数えたら48人だった。そのうち町営バスに乗ったのはわずか2人、飛行機利用客の5%にも満たない。立派な新車がもったいないと思うがこれが今の公共交通の現実か。数年前の対馬厳原空港では確か10%がバスを利用していたと思う。空港からそのバスに2人の飛行機客と乗り、もうひとつの町だった仲里庁舎前で降りた。町役場本庁舎とは名乗っていないが、具志川にくらべこちらの方が建物も新しく、大きく、町長室や議会室もあったのでこちらが町役場本庁舎なのだろう。近くに琉球銀行支店もあったが、集落の密集具合は具志川の方が上のように思えた。
庁舎前からサトウキビ畑の中を1キロ弱歩くと海岸のリゾート地帯に出る。あたりにはリゾートホテルやペンション、民宿のほかレストランなどが集まっており、元日航系だったホテル久米アイランドもあった。ホテルにチェックイン後、自転車を借り2時間近く周囲を回った。 「日本の渚100選」に選ばれたというイーフビーチは確かにきれいだった。近くの港にはたくさんのレジャーボートやグラス底の観光船などが係留されていたが、人はおらずひっそりとしていた。盛夏になると活況を呈するのだろうか。他にクルマエビの養殖場などもあった。夕食は海鮮料理屋でなんとか鯛のバター焼きを泡盛とともに食した。
翌日も兼城港までバスに乗った。このバスはホテル前を出て、フェリー客のために兼城港に寄り、さらに空港まで行き第1便に接続するものなのでさぞや混んでいるのではないかと思っていたら、フェリーに乗る私以外に客はなく、兼城港で私が降りた後は空車で空港に向かって行った。沖縄本島に行く住民や観光客にとってはバスなど無用のものなのだろうか。尤も途中から高校生がポツリポツリと乗ってきて、兼城港の少し手前、久米島高校前に着いたときには20人近くなっていたが全員降りて、残ったのは出発時と同じく私1人になってしまった。 だからこの45人乗りの新型バスは航空客や船客ではなく、スクールバスを目的に導入したのかも知れない。飛行機や船の客は貸切バスか、宿や家族、知人などの送迎車か、タクシーを利用しているのだろう。立派なバスを走らせるよりも能登空港で行っているような乗合タクシーとか、タクシー利用に補助金を出すことのほうが合理的なような気がする。
渡名喜島
久米島から1時間半、渡名喜島で下船した。ターミナルの建物と言っても、事務所、売店、カウンターだけの軽食堂のほか待合室部分に椅子が50個くらい並んでいるだけの、ローカル線の駅舎程度のものだ。その向かいの村役場の写真を撮ったりしているうちに、入れ替わりに那覇から久米島に行く船が入港してきた。昨日久米島まで乗船した便である。これを見るまで気がつかなかったが、この船で再び久米島に戻り、夕方の直行船で那覇に戻れば、何も金曜日でなくとも渡名喜島に泊らずに、ルールに違反せず役場に行けることがわかった。しかしそれでは30分くらいしか滞在できず、他の市町村ならともかく、せっかく離島村まできたのだから面白くない、1年のなかで1日しかないこの日に来て良かったのだと、その時は思ったものだ。それが午後から風波が強くなり午後便の渡名喜寄港がとりやめになり、予定外にこの島に泊まることになったのである。
渡名喜島と4キロ離れた小島である入砂島の2島からなる渡名喜村は人口が424人、2009年3月末の住民基本台帳の数なので、実際に常住している人はずっと少なく、半分くらいではないかというのが島の人の話だった。2島合わせた面積は3.7K㎡で最下位の富山県舟橋村に次ぐ全国で下から2番目に狭い村である。人口も下から6番目だ。入砂島は全島が在日米軍の射爆場となっていて村民はいない。しかしこの基地があるおかげで村に多くの財政支援がなされているそうだ。
そのひとつに、エコカーという1人乗りの電気自動車があり、車体に「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業」と書かれていた。1時間800円で借りてみた。最近のものよりも1世代前のものと思われ1人乗りにしては図体が大きい。それでもかなりの坂道でも力強く登ることができ、なかなかの優れものだと思った。周囲12キロほどの島だから1時間もあれば簡単にまわれた。この島はもともと隣接する2つの島の間に砂が堆積しひとつの島になったもので、佐渡島をずっと小さくしたもののようだ。その中間部の5~600メートル四方のところにだけ人が住んでおり集落が構成されていて、その南北に2つの山があるという形になっている。その南側の山を上り、島の南部を一周できる舗装された道路があり、これを走ってみた。島の南岸は高い崖なので、途中見晴らしの良いところを通る。慶良間諸島の多島群も良く見えた。展望台もあり、遊歩道なども良く整備されていたが、「ハブに注意」の立て札がいたるところにあったので車からは降りなかった。
その後はまた中間部の平地に降り発電所、海水淡水化施設を見たりした。発電所には先ほどフェリーから降りてきた大型タンクローリーが停まっておりタンクに給油をしていた。広い敷地には鉄筋コンクリートに赤瓦の、最近建ったらしい幼稚園・小学校・中学校がひとつになった学校があった。この学校だけでこの島の平坦地の十分の一くらいの面積を占めているのではないかと思った。
昼食は、この時間帯のみ営業していたフェリーターミナル内の食堂で勧められた「そば」を食べたが、久米島のものと変わらない気がした。その後は雨が降り始め風も出てきた。仕方なくターミナル内でただ帰りの船をじっと待った。金曜日のみ午後の那覇行きが寄航するのは、那覇から単身赴任で来ている学校の先生のためだということを聞いた。ターミナル内には昨年この島でロケが行われた「群青」という映画の撮影風景などの写真が壁一杯に貼られていた。長澤まさみ主演のこの映画、島の風景を余すところなく現わしているようで、また説明にあったストーリーもなかなか面白そうで、一度は観てみたいと思った。
船は久米島を予定通り14時に出港しこちらに向かっているが、風や波の具合によっては渡名喜に寄航できないかも知れないという。港内はそれほどの波ではないので大丈夫だろうと思っていたら、到着予定時刻の15時30分を15分くらい過ぎてから寄航は取止めという連絡が入った。ちょうど防波堤横の松林の影になり船の姿を見ることができなかったが、近くに来てしばらく様子を見ていたようだ。何人かの船を待っていた客は、「又か」といった表情で、それほど困った様子もなくすぐにいなくなり、那覇に帰るという40歳台の自動車ディーラーのセールスマンと50歳台と思われる女性の歯科衛生士と私の3人がとり残された。良く来ているというセールスマン氏が難なく3人分の民宿の手配をしてくれた。2食つきで6000円だった。風雨が強くなり、どこへも行けず8畳間でテレビを見たりしてゴロゴロするだけだった。
翌朝は雨もあがり風も収まったので、乗船までの間集落の小路を歩いた。この集落はふたつの山に挟まれ風道となり台風時には集落上を猛烈な潮雨が吹き抜けていくという厳しい自然条件のなかで、特異な敷地形状が形成されているということが看板に記されていた。重要伝統的建造物群保存地区と書かれた村役場が建てた看板で、それによると敷地が道路よりも低く掘下げられていること、道路は微妙なカーブと食違いの道路交差、白砂の細い道と緑の空間などによって集落景観を豊かにしていること、屋敷林で覆われた集落景観と琉球赤瓦葺きの木造建築や石垣などの伝統的建造物を現在に良く伝え、地域的特色を顕著に残しており、わが国にとって保存する文化的価値が高い、というようなことが書いてあった。
土曜日の那覇に向かう船には渡名喜からは50人くらいの乗船客があり、久米島からの客も合わせ往きよりは混んでいたように思う。それでも定員の三分の一程度、100人くらいのようだった。翌日曜日、読谷村で行われる普天間基地返還県民大会に出席すると思われる村長の姿もあった。船には特別室というのがあり、村長はそこに入るのかと思っていたら、我々と同じように、デッキの椅子に座っていた。
当初予定では昨日中に那覇に戻り、今日は渡嘉敷島に日帰りで行くことにしていたが、船が那覇泊港に着いたのが昼過ぎとなり、後は夜の東京への飛行機までの間どこかで時間をつぶすしかなかった。泊港近くで昼食を取り、もう一度普天間に行ってみようと、3日前とは反対側、基地の北西側を走る31番のバスで行ったが受けた印象は変わらなかった。おもろまちに戻り、まだ時間がたっぷりあったので、デューティフリーの横の最近出来たらしい大きなショッピングセンターとシネマコンプレックスに入ってみた。そこは若い家族連れや学生風の若者でごった返しており、映画の切符売場などは延々長蛇の列だった。日本の少子化傾向に対して沖縄だけは例外と言われており、それにしては国際通りなど以前に比べて活気に乏しいと思っていたら、若者はこんなところにいたのだ。市役所が建て直し中でおもろまちに仮庁舎を移していることもあり、新都心も徐々に新しい都心になりつつある、そんな感じがした。
その後は国際通り近くの、首都圏ではもうあまり見かけなくなった純喫茶といった感じの店でコーヒーを飲んだりして時間をつぶした。結局沖縄県については、これが最後としたくないので意識的にひとつ残しておいた座間味村だけでなく、今回行き損なった渡嘉敷村の2つが残ることになった。この2つの島の村、隣接しているのに別々の船便しかないので2日に分けて行くことになる。楽しみが残せてまあこれでも良かったと思っている。