毎年初夏、かつての札幌での仕事仲間との会食とドライブがすっかり年中行事となり、今年もそれに合わせて役場めぐりをした。今回は大きく空白の残る十勝地方と、そこから日高に抜けるルートをメインにした。金曜夜の会食と土曜日のドライブの後、札幌から帯広に向かった。金曜日の夕方までに札幌市内に行こうとしたが、マイレージの無料航空券使用だと前日木曜日の、それも早朝の便にしか空きがなかった。そこで木金2日間で、これも懸案だった旧浜益村方面に行くことができた。
市役所から日帰りできない合併先 厚田村、浜益村
石狩湾を囲むように西から小樽市、石狩市、そして北東に厚田村、浜益村が連なるが、2005年10月に厚田と浜益が石狩市に編入された。このうち石狩市浜益区となった旧浜益村へは、札幌市内からは平日には日帰りで行くことができない。いや札幌どころか、石狩市の中心、市役所のある地域から公共交通機関では日帰りができないのである。札幌からは、沿岸バスと中央バスが各1往復ずつ出ているが、いずれも浜益を朝に出て夕方戻る。前者の沿岸バスは本社のある羽幌から来る特急「はぼろ号」が、浜益を通るのが8時25分、札幌駅前には10時10分に着く。中央バスは旧浜益村内を起点に浜益が6時33分、札幌ターミナルには8時43分に着く。前者が所要105分であるのに対し後者が130分なのは、途中の集落に寄り道をし、石狩市役所前を通ったりするからだ。
木曜日、札幌を昼過ぎに出て石狩市役所、厚田支所とバスを乗り継ぎ、夕方浜益に着いた。合併前の石狩市は、1994年北広島と同時に町から市に昇格している。札幌市の北部に隣接する、札幌のベッドタウンのような市で、札幌市石狩区と言っても良いくらいだ。市役所は花畔(ばんなぐろ)というところにあり、住宅地とは離れた野原の真ん中に建つ、5階まで吹き抜けのロビーをもつ巨大なものだった。ここまでは札幌からのバスは頻繁にあるが、この先厚田までが2時間に1本程度、さらに浜益までは前述の通り1日2往復である。なお土休日と7月下旬から8月中旬の毎日、札幌を朝出て夕方戻る留萌行きの中央バスが1往復走るので、この期間だけは日帰り可能である。行楽用のバスなのだろうか。
花畔中央から乗った厚田行きバスは留萌に向かって日本海に沿う国道231号線を走り、間もなく石狩川を渡る。石狩河口橋という3径間連続斜張橋で長さが1412メートル、北海道の河川に架かる橋としては最長のものだ。もう海まで2キロもないのだが、川はここから大きく曲がり5キロ近く海岸と並行するように流れやっと海に注ぐ。すなわち長さ5キロ、幅数百メートルの砂嘴が続いている。この砂嘴には翌々日、ドライブ時に連れて行ってもらった。札幌から1時間毎に石狩行きというバスが出ていたが、その石狩というバス停があるのがこの砂嘴上である。意外に集落が発達しており、かつては運上屋などもあったという。また1976年の石狩河口橋完成までは、石狩渡舟が出ていたのもここからだそうだ。車で行ける最先端のところから先は海浜植物が咲くなか数百メートルの遊歩道があり、それも途中で終わり河口はさらに2~3キロあり行くことができなかった。小さな灯台があり、映画「喜びも悲しみも幾年月」の撮影舞台となったと言う。
さすがに大河の河口には広大な砂嘴が形成されるもので、信濃川河口新潟市の繁華街もそうだ。明治の開拓者のなかには、あるいは石狩に新潟のような都市を作ることを夢見た者もいたのかも知れない。石狩川は、流域面積は利根川に次ぐ全国2位、長さは信濃川、利根川に次ぐ3位だ。
厚田で2時間近く過ごした後、浜益に向かった。国道は大変良く整備されており、さらに良くするための新しいトンネル工事も行われていた。旧浜益村、現在の浜益区は人口1700人ほどで、滝川からの道路と交差するところにある柏木バス停付近に集落が多く、小学校と中学校もここにある。旧役場があるのはここからさらに3キロほど北の浜益地区で、ここの旅館に泊った。役場は台地上にある近代的な大きな建物だった。また道立浜益高校があったが現在は3年生の女子高生が1人いるだけで、今年度での廃校が決まっているそうだ。翌朝その高校に行ってみると、たった1人の生徒が登校するところだった。1951年に滝川高校の浜益分校として開校したものだが、校舎はまだ新しく、旅館の奥さんの話では中学が移転してくるとのことだ。それにしても小中学校ならともかく、高校が生徒1人になるまで存続させていたというのは、どんな地域の事情があったのかはわからない。浜益のバス停では10人ほどの小学生が市営のスクールバスを待っていた。
滝川高校の分校があったくらいだから、かつては滝川方面との結びつきが強く、路線バスやスクールバスが走っていた時期があった。それ以前は小樽との間に定期航路がありこれが唯一の交通機関だったという。国道231号線が整備されてからは、車が使える人は札幌に行くようになり滝川との往来もほとんどなくなったそうだ。しかし札幌に行くにしても朝出て夕方戻るバスしかなく、地元のタクシーに頼んでも運転手不足でなかなか行ってもらえないという。旅館のご主人が札幌の病院に入院したとき奥さんは見舞いに行っても、宿の夕食の支度のために帰りはいつもタクシーで帰った、札幌MKタクシーだと長距離が割安になるが、それでも2万円くらいはかかったそうだ。大きな買物にもなかなか行けず、通販で済ますことが多いという。
ふるさと銀河鉄道代替バスと道の駅 本別町、足寄町、陸別町
金曜日の昼頃札幌に戻ってから旧友と市内観光などをし、翌土曜日は有人の車に乗せてもらい、石狩川河口や夕張方面をドライブした。友人たちと別れてから、札幌17時57分発の特急「スーバーとかち」で帯広に向った。帯広のビジネスホテルに泊まり、翌日曜日は早朝5時50分帯広駅前発の「ふるさと銀河線代替バス」に乗った。陸別まで行くバスが1日9往復あり、このうち土日に運休となるのは2往復だけだ。
実際の行程はダイヤの都合などで前後するが、この沿線の池田に近い方から本別、足寄、陸別の3つの町に行った。いずれの町の役場もかつての鉄道駅から3~500メートルの近さにあった。そして旧駅も、1989年三セクの「ふるさと銀河鉄道」への転換後、町民会館などと一緒になった大きな駅舎に建て替わっていた。そして三セクも廃止となった今、それらは駅前広場と合わせた道の駅になっている。「道の駅ステラほんべつ」、「道の駅あしょろ銀河ホール21」、「オーロラタウン93りくべつ」であり、いずれも跨線橋とホームの一部を残している。3年前の07年には北見から北見バスで置戸まで来たが、このときは廃止の翌年だったので線路も撤去されておらず、今でも列車がすぐ来そうな感じだった。それに比べると、時間が経過したためか、一部の鉄道関連の構築物が残っていることを除いては、普通の道の駅との違いはほとんどなくなっていた。
ただし陸別駅だけはホームも線路もそのまま残っており、車両も6両ほど置いてあった。駅の前後を含め500メートルくらいに線路が残され、1両のキハがエンジン音も高らかに行ったり来たりしていた。陸別町商工会の主導で「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」が設立され、観光施設としてキハの運転体験や乗車体験が、日を限って行われている。4月から10月にかけての第2・第4土日が運転日で、今日は第1日曜日なのでテスト運転を行っていたようだ。隣駅までの10キロくらいを復活させる構想もあるという。
陸別から先へは北見バスが、帯広からのバスの概ね半数に接続する形で走っているので、今でも北見・網走方面への周遊ルートとしても使うこともできる。早朝のバスを除いては常に10人近くの乗客があり、通学生のいない日曜日にしてはまあまあの乗車率だと思う。途中の道路は大変良く整備されおり、また車の通行量も少なかった。これは高速道路の無料化社会実験に関連しているのかも知れない。道東自動車道が足寄駅の手前3キロほどのところまで来ており、全線無料だ。足寄以南についてはそのせいもあるのかも知れないが、以北についてもガラガラだった。もともとたいした需要のないところに作った高速道路のように思える。
沿道は十勝川の支流、利別川に沿ったそう広くない谷間である。だから農地は少なく、どちらかといえば林業の方が主だったのだろう。かつて陸別や足寄からは森林鉄道も出ていた。だから今は主たる産業がない、超過疎地になってしまったようだ。人々は何で暮しているのかわからないが、住宅を見る限り不思議なことに新しい立派な家が多い。それらは同じように出窓にレースのカーテン、その間には観葉植物の鉢が置かれ外からはかなりリッチに見える。なんでも安く、そして帯広までも無料の高速道路で行けるのだから、随分住みやすい恵まれた環境なのだろうか。職がないとか言われているが、首都圏郊外よりも、暮らしやすいように思えてならない。
これだけの過疎地を走っていた地北線の廃止が他にくらべて遅かったのは、つい最近までこの線を高規格化して札幌から北見や網走への短絡ルートの一部にするという構想があったからだと聞く。確かに石北本線まわりよりは近道だし面白いアイデアだと思う。こちらのほうが石北本線だった時代もあったそうだ。しかし高速道路建設と鉄道高規格化の両方を同時に行うというのは、さすがにバブルの時代でも難しかったのだろう。今の道路の利用状況をみると、高速道路すら不要だ。既存の道路もかなり良く整備されており、それすら持て余す程度の車の通行量だ。鉄道ファンとすれば、新規に高速道路を作るよりもずっと安価で済む在来鉄道の高規格化と既存国道の改良の方が費用対効果は大きいと思うのだが、もはや手遅れのようだ。
代替バスは十勝バスが運行していたが、車両はこの路線専用のものだった。中扉低床式の都会仕様の車両だったが、これだけの長大路線ならば観光バス仕様のものの方が良かったのではと思う。朝夕の通学輸送対応としたのかも知れないが、乗ったのが日曜日だったのでその辺りはわからない。
帰路は幕別で降り、駅前の町役場に寄った後キハ45単行の釧路本線各停列車で豊頃まで行った。途中の池田で21分停車し、釧路行きの「スーパーおおぞら」に道を譲った。豊頃駅前からはスクールバスと書かれた無料の町有バスで十勝川の橋を渡り、対岸の市街地にある役場に行った。釧路から帯広へ向かう都市間バス「すずらん号」にタイミング良く乗れ、帯広に戻った。
農業という産業、農家という事業 音更、士幌、上士幌、鹿追、芽室、清水
翌月曜日、旧国鉄士幌線沿線の音更、士幌、上士幌と、その東にある鹿追の4町に行き、さらに根室本線沿いの芽室、清水町に行った。旧士幌線には学生時代の1967年夏、終点十勝三股まで乗っている。また当時新得から鹿追まで北海道拓殖鉄道という私鉄が走っていたが、行程の制約からこれには乗れず、その翌年に廃止になったことを後で知った。なおこの鉄道は、運送会社として今でも残っており、今回乗車したのはその子会社の北海道拓殖バスだった。
帯広から士幌方面へのバスは、広大な平原の中、並木がいつまでも続く一直線の道をたんたんと走る。車窓からの眺めは、実に日本離れした、ヨーロッパの田園風景そのものだ。小麦、ジャガイモ、甜菜、トウモロコシなどの畑の他牧草地が続き、大型の農耕機が働いている。素人目にも効率の良い、生産性の高い農業とはこういうものかと思わせるものがあった。
データをいくつか、士幌町について全国平均などと比べてみた。音更は帯広市の郊外で近年ベットタウン化が進み純粋な農村とは言えなくなってきていること、上士幌は逆に山奥の森林地帯が多く耕地面積比率が低くなっていることから、この地方を代表する典型的な農業町として士幌町を選んでみた。農家1戸当たりの耕地面積が北海道全体では22.35Haなのに対して士幌町のそれは38.65Haと1.7倍もあり、北海道を除く全国平均1.81Haに対しては何と21倍もある。北海道の平均は、その他の12.3倍である。士幌町のHPによると、2010年3月末の住民基本台帳上の人口は6,755人、2,409所帯である。内農家が414、そのうち専業農家が86%の356所帯である。北海道全体の農家に占める専業農家率が52.2%、北海道を除く全国平均が21.8%だから、いかにこの町が農業中心であるかがわかる。そして単純に考えれば1戸当たりの耕地面積が広いほど生産性は高そうである。
このような光景とデータを見て感じることは、当たり前のことかも知れないが、農業というのも一つの産業であるということだ。これだけ大規模で、高度に機械化された農業を支えるためには大型農機の調達や保守、大量の肥料の提供などの多くの周辺産業が発達するし、収穫物の保管や加工、輸送なども大規模なものが求められる。生産性の高い農業を中核とした、豊かな経済が地域に活性をもたらせているのではないだろうか。帯広市街の意外な賑わいも、それによるものではないだろうか。
帯広には土日と2泊したのだが、土曜日の夜など繁華街は人出が多く、地方では久しく見なかった辻占い師もいた。北海道の中で、札幌と苫小牧を除く地方の拠点都市のなかで帯広だけが人口が減っていない。私の役場めぐりで統計を取りだした1992年以降の数字だか、ごくわずかだがプラスになっている。帯広市だけの人口は17万人弱だが、東西南北に隣接する幕別町、芽室町、中札内村、音更町はいずれも人口が増加しており、特に市街地がつながっている音更町は45千人と市並みであり、92年以降30%近い増加である。十勝平野に製造業の大規模な工場があるという話は聞かないので、やはりこれは大規模農業と関連産業によるものだと思う。
これこそが市場原理に則った農業という産業が成功している例だろう。部外者からの見方かも知れないが、日本の農政は市場原理に逆らう政策を何年も続けているのではないだろうか。農家の戸別所得補償政策などしかりである。北海道と本州以南では農業の規模が全く違う。本州以南の小規模な農家の生き残りをいくら模索しても、それは農業という産業の発展にはつながらない。士幌町並みとまでは行かずとも、少なくとも北海道の平均程度になるくらいの、本州以南の農地の集積と経営面積の拡大が必要だろう。全国をまわってみると、農地はいくらでもあるのに細分化され、素人目にも有効活用がされていない。それらは自然による制約というよりも、所有区分の複雑化など歴史的、人為的な制約によるものが多いと思う。
WTOの農業交渉やFTAなど、日本を取り巻く外圧が高まるなか、自立した産業としての農業を振興するということが、今後の国際貿易体制のなかで必要だろう。今の土木技術をもってすれば、本州以南にもいくらでも大規模農地をつくることができるはずだ。企業による農業経営などもっと大胆に進めて良い、そうすれば北海道に比べ気候条件はずっと良いのだから、生産性の高い、国際的にも競争力のある農業という産業が勢いを持つと思う。さらにこれからは農家は家業ではなく、事業であるという認識が必要だと思う。
士幌町だけでなく、音更、上士幌、鹿追いずれも町役場庁舎は広い敷地のなか、緑陰に良く似合う格調の高い建物だった。また町民会館や博物館などもゆったりした感じのものが多く、農業による豊かさというのはこういうものなのかと思った。しかしここまで来るには並みの苦労ではなかったはずだ。士幌町の本格的入植の始まりは、明治31年で、うっそうと広がった原始林を切り開く、不撓の開墾だったという。岐阜県で設立された美濃開墾合資会社の一行43戸が中士幌に入植し、濃尾大震災と水害の頻発からその後も岐阜からの移住者が多かったという。今この地で成功している人たちは、もちろん先代の苦労もあっただろうが、バブル経済に踊らされることもなく、農業の生産性向上を求めて地道に努力を続けて来たのだろう。
1987年に廃止された士幌線については、音更町役場の近くに鉄道公園があり、そこにはSLと貨車が展示されており、公園の形状が鉄道駅の敷地そのままのようだった。
林業再興の夢を 十勝から日高へ 占冠村、日高町、穂別町、平取町
帯広から幕別町、清水町に寄り新得で降りた。新得町役場には1997年に来ている。石勝線の新得・新夕張間は、津軽海峡線と同じように特急しか走っていない路線なので、この区間だけを利用する場合は特例として特急券不要となる。だから占冠に行くのに、わざわざ新得で降り切符を買い直し、駅前の喫茶店で2時間ほど時間をつぶした。
特急は新得を出ると20分走ってトマム、そしてさらに20分走って占冠に停まった。2~3人が乗車したようだったが、下車は私1人だった。占冠駅からは占冠村の村営バスと日高町の町営バスが出ているが、いずれも札幌方面からの特急に接続しており、1時間以上待たなければならず、1.5キロ先の占冠村役場まで歩いた。役場の向かい側の広い道路を挟んだ道の駅は、観光バスが次から次に出入りしており、大勢の観光客で賑わっていた。札幌と道東方面とを結ぶ観光コースの、トイレ休憩場所にもなっているようだ。道東自動車道が占冠から帯広方面が先行して開業している。夕張・占冠間の一般道を走ってきた車にとって、高速道路に入る直前の、程良い休憩場所のようだ。しかし2~3年後には全線が開業するそうなので、ここもいずれは閑古鳥となるのだろう。
一足早くそうなったのが、日高町の道の駅だ。占冠村役場前から占冠駅発の日高町町営バスに乗ると、私だけが乗客の小型のマイクロバスは鵡川水域と沙流川水域とを隔てる峠を越え、日高総合支所前に着いた。占冠のそれよりもずっと広い駐車場を飲食店などが取り囲む、郊外の大ショッピングセンターのような道の駅で、その一角に旧町役場や町民会館などの行政施設があり、また今晩泊る旅館もあった。ここは「道の駅樹海ロード日高」といい、国道247号線日勝峠の出入り口にあたる場所で、旭川方面と苫小牧方面を結ぶ国道237号ともクロスすることから、国道の中間重要拠点でもあり、長距離トラックをはじめ大半の車が立ち寄っていた。
ところが、前述の道東自動車道の占冠以東の開通により、かなりの車が占冠経由となりここには寄らなくなった。そしてさらにそれに追い打ちをかけたのが、ほんの数日前に始まった高速道路無料化の社会実験だ。道東自動車道も無料化の対象区間になったことから、それまで高速料金を惜しんでいた車まで、皆そちらに行ってしまった。広い駐車場は、材木を積んだ大型トレーラーが1台駐車していただけでガランとしていた。翌日の新聞には、この道の駅の利用が今回の実験により60%減ったということが出ていた。
旧日高町は沙流川下流の平取町を飛び越えて河口の門別町と飛び地合併している。町役場本庁は旧門別のほうだが町名は日高町となった。合併直前の旧日高町は人口2千人そこそこだ。この町は、かつては沙流川上流の木材の集散地として大いに賑わっていた。旅館の奥さんの話によると、40年くらい昔の最盛期には人口8千人、20社くらいの製材会社があったという。占冠もかつては林業の村で、鵡川の上流で伐採した材木を筏にして川に流していたという。沙流川と鵡川は10~20キロの間隔でほぼ並行して流れ、太平洋に注いでいる。
1986年に日高町まで来ていた旧国鉄富内線が廃止された。開業したのが64年だから、わずか22年間しか営業していなかったことになる。私は67年、大学4年の夏休みに乗っている。このときは鵡川から鉄道で来て、ここからバスで釧路本線の金山まで行った。バスは占冠を通った。こんな山中にも人の住む村があるのか、と当時思ったものである。
この富内線は鵡川に沿って上流に行き、穂別町の富内というところで右折し峠を越え沙流川の中流振内に向かい、今度は沙流川に沿って上流の日高町に向かう。まるでアミダのようである。しかし今の路線バスは日高町から真っすぐに河口の富川まで行くので、穂別に行くにはいったん海岸まで出なければならない。それも1日に2本のみだ。ほかに札幌への「高速ひだか号」、苫小牧への「特急ひだか号」が各一往復、いずれも朝出て夕方戻るものがあるが、前者は鵡川までは往きは乗車のみ、帰りは降車のみしかできない。既存の路線バスとの客の奪い合いを避けるためなのだろうが、この程度の本数しか走っていないのだから常時乗降可にしてもらいたいものだ。そうすれば途中の平取にも、もう少し楽に行けたはずだ。
日高本線沿線最後の町に 三石町、鵡川町
日高本線沿線の鵡川以東で未訪問の役場は、鵡川と三石だけだった。富川から日高三石まで1両だけのキハに乗った。海を見ながら62.2キロを1時間36分かけて走ったが、かすかな霧で遠くまでは見渡せない。途中の静内では、列車交換でもないのに20分停車をした。高速バスのトイレ休憩のように、20人にも満たない乗客のほとんどが売店やトイレなどに向かった。各停列車だけがのんびり走るこのような超ローカル路線には、気分転換になって良いのかも知れない。鉄道の駅が道の駅を真似したようで面白い。
日高本線にぴったりと寄り添う国道235号線を、道南バスによる札幌・浦河間の「高速ペガサス号」が、列車とほぼ同じくらいの本数走っている。しかしこのバスも鵡川以東では札幌方面行きは乗車のみ、浦河方面行きは降車のみと決められている。この沿線内で相互を行き来したい客は、バスは走っているのに列車しか利用することができない。それでは不便だからマイカーにしようという人は多いだろう。少ない客の奪い合いを避けるということかもしれないが、もうそんなことを言っていられる段階はとっくに過ぎている。公共交通をどうやって残すか、必要以上に自動車に頼らざるを得ない状態をどう是正するのか、今こそ公共交通部門が手を組む時である。最近良く聞くモビリティ・マネジメント(MM)とは、このことだと思う。
それにしても日高本線の客は少なすぎる。鉄道として残すのは日高門別あたりまでで良く、それ以東は廃止しても、これだけ国道が寄り添っているのだから支障はなさそうに思う。あるいはDMVなどは、この線に向いているかも知れない。この線に前回乗ったのは1999年のことで、そのときは当線限定使用のキハ130型という小型車両ばかりが走っていた。しかし潮風を浴び続けるなど老朽化が激しく短期間で姿を消し、今はどこででも見るキハ40型だった。
日高三石からの帰路は鵡川で下車、この地方で最後に残った旧鵡川町と旧穂別町に行った。両町は2006年合併してむかわ町となった。そのためか鵡川駅前から穂別に行く道南バスは、1時間近くの乗車なのにもかかわらず運賃が片道200円、65歳以上は100円だった。町営のコミュニティバスという扱いなのだろう。役場めぐりで、初めて受けた老人割引である。大型バスは老若男女で座席がほぼ一杯だった。
このバスは旧富内線の3つの駅跡に寄るものと寄らないものがあり、所要時間に10分くらいの差がある。旧線はバス道とは川を挟んだ対岸を走っていたために、毎回橋を渡っては戻るからだ。穂別の町並みも欅並木の続くリッチな感じのするものだった。上流の占冠で流した筏を収集するのが穂別だったそうで、ここから鉄道で運び出したそうだ。旧役場のすぐ近くに旧駅跡と思われる細長い公園があったが、数キロ先の富内駅跡に駅舎・線路が保存されており、登録有形文化財に登録されていると聞いた。時間がなく行けなかったが、往時は材木を満載した貨車で賑わっていたことだろう。
信号方式にさらなる工夫を
苫小牧への列車は鵡川駅を8分遅れて発車した。苫小牧で札幌行き「特急すずらん」への接続時間が7分しかなく、これでは間に合わない。次駅停車中にワンマンの運転手に特急に待ってもらうように頼んだ。そうでないと今日中に東京に戻れないからだ。運転手は結果を車内放送で伝えるから待っていてくれと言い、携帯電話で指令所と連絡を取ってくれた。間もなく特急は待つので急いで乗り換えて下さい、という放送があった。苫小牧では私の他に4~5名の客が跨線橋を走って登った。特急は2分遅れで発車したが、運転手はじめ素晴らしい対応だったと思う。
しかし信号装置さえもう少し良いものであれば鵡川の発車は4~5分遅れで済んだはずなのだ。いやソフトウエアを修正するだけで済むことかも知れない。所定ダイヤでは鵡川止まりの列車が19時32分に到着し、その後苫小牧行きの上り列車が35分到着し36分に発車するようになっている。ところが下り列車の到着が遅れ、その列車が駅に到着しないと上り列車は駅に入線出来ない。上り列車は駅手前で停車したまま待たされていた。過走による事故防止のため同時入線を行わないようなシステムにしているためだと思うが、入線順序を柔軟に変えることができないようになっているのだろう。
日高本線の信号方式はコストのかからない特殊自動閉塞式を採用していると聞いた。駅内の線路にのみ軌道回路を設け、駅間の線路には軌道回路を設けないのできめの細かい対応が出来ないのかも知れない。しかしこのように片方に遅れがあった場合には入線の順位を変更するというくらいことは、それほど難しいことではないと思う。上り列車が先に入線さえできていれば、遅れはもっと小さくて済んだはずで、「特急すずらん」を待たせることもなかった。単線でのダイヤの定時確保というのは非常にむずかしい。しかし今の方式では、ひとつの遅れがどんどん他に影響を及ぼして来る。それを最小化させるようなソフトウエアやオペレーションの改善を望みたい。
苫小牧で駆け込み乗車した「特急すずらん」の南千歳まではわずか15分だったが、特急券は300円ではなく600円だった。あらためて北海道の広さを実感した。千歳空港を21:26に離陸し22:51に羽田のC滑走路に着陸した。今回は十勝から日高がメインだったこともあり、比較的北海道のなかでも進んでいる地域、あるいは北海道の優位性を生かして成功している地域をみて来た感じがする。十勝の農村と帯広市街地の活気がそのように感じさせた。
北海道は道州制の実験を今すぐにでも行うべきだと思う。市町村合併の次は道州制とマスコミは囃し立てるが、その議論は区割りばかりで、何を地方分権にするのかの議論が全く欠けているように思う。これにはやってみないとわからないことが多く、それにはどこかで試行させる他なく、それには北海道が最適だと思うからだ。北海道の総合開発事務を行う中央省庁として、かつては北海道開発庁があり運輸省、建設省、国土庁、農林省の直轄事業を傘下で行っていたが、中央省庁再編の一環として2001年より国土交通省のなかの北海道開発局となった。これをまず全面的に道に移したら良いと思う。
面積や人口、GDPなどから見ればデンマークやオーストリアとそう変わらないし、国ではないがスコットランドにも規模の面では近い。外交、国防以外の広範な自治権を与え自治州くらいにはなっても良いと思う。失われた20年とまで言われるような日本において、新しい施策を行うのにまず北海道で試して見るということもできるかも知れない。これらの様子を見てから、本州以南の道州制を検討したら良いと思うのである。
今回は間に友人とのドライブなどを挟んだが、5泊6日で、1市16町3村の合計20役場に行った。累計2885で残りは374となった。