幕間劇(18)「朝日のようにさわやかに」
葦の穂に秋映えが色を添え輝いている。その葦原の堤防に沿って線路が伸びている。堤防の上には朽ちたトロッコが打ち捨てられている。そのトロッコを線路に乗せ揚げ悪童達が危ない遊びに興じている。どうやら、堤防の坂道を転げ落とし脱線させようとしているようである。上手くいけばトロッコは葦原の草原を心地よく走り抜けるのだがそうはいかない。何故なら廃線になった線路は整備不良なのである。だから、途中で脱線する。その瞬間に悪童達は飛び下りる。その瞬間が悪童達の楽しみである。そういう遊びなので葦原の草原を最後まで走り終えてもあまり楽しくないのである。もちろん、葦原を駆け抜ける時の頬を打つ川風は心地良い。しかし、その後に苦役が待っている。つまり、終点まで走ったトロッコを、また堤防の上まで押し上げなければならないのである。秋に成ったとはいえ重いトロッコを押し上げるのは重労働なのだ。だから、坂道の途中で脱線する方が楽でスリルも満点である。
この危険な遊びを思い付いたのは、りゅう(竜)ちゃん達だったが、竜ちゃんは今大学受験に忙しくそれどころではない。ブキチ(武吉)は、受験勉強までもう一年余裕がある。しかし、剣士の武吉はこんな無謀な遊びには関心がない。剣そのものが狂気を秘めているのであるから充分なのである。そこで、この無謀な遊びを引き継いでいるのは信夫である。姉のタミ(民)ちゃんも大学受験で忙しいので信夫の悪童ぶりに目を光らせているゆとりはない。中学二年生になった信夫は、他の地域の悪童も呼び寄せている。だから、主に重いトロッコを押すのは中学生の仕事である。その為、小学生の後輩達はトロッコに乗せてもらったままである。だから小学生はとっても楽チンなのだ。もちろん小学生も坂道の麓まで来たら降りて手伝うのは暗黙の了解である。そして意外にも、この小さな援軍がなかなか役に立つのだ。何しろこの遊びの動力源は重力とそして人力である。その為、人海戦術はこの遊びには欠かせないのだ。
このトロッコは少し前までは気動車に曳かれて川砂を運んでいた。高度経済成長に沸いていた日本は建築ラッシュだったのである。だからコンクリートの材料である砂が大量に必要に成った。砂には大きく山砂、川砂、海砂の三つがある。しかし、海砂は塩分を含んでいるのでそのまま使えば鉄筋が錆びてしまう。山砂には土も含まれている。だからやはり川砂が一番使いやすい。もともと地元では川砂は良く建設材料として使われていた。
この村の公民館を建てる時も村人総出で川砂を運んだ。もちろん運搬車はリヤカーである。だから、毎年上流から大量に流れてくる砂の量からすれば何のことはない量である。ところが、建築ラッシュで使われた川砂はその流入量の数十倍を上回ったようだ。そのため十数年で取りつくしてしまった。そこで残ったのは河原の砂浜を覆いつくした潟と、この朽ち果てたトロッコの残骸である。
川砂の機械掘りで川底の地形も変わり川は危険な遊び場に変わった。だから学校では先生達も「川では泳いだらダメ!!」と釘を刺したのである。砂を掘り起こされた急激な深みでは、垂直方向の渦が舞うことがある。その渦に巻き込まれると水面に上がれなくなり溺れ死ぬのである。更に、皮肉なことに川砂の補償金は地元を潤し小学校にもプールが出来た。だから、子供達は、もう水通し(みっどし=用水路) や、堀(クリーク)や川で泳ぎ遊ぶことはなくなったのである。
でも悪童には物足りない遊び場である。「危ないぞ。恐いぞ」と言うのは遊びには欠かせない要素である。その「危ないぞ。恐いぞ」を避ける手段を身につけながら子供達は成長していく。だから、このトロッコ脱線ゲームも「飛び下りる時は、堤防側。飛び降りたら転がれ」と年長の子が年少の子にしっかり教え込むのである。また、年少の子を乗せた時は、なるべくブレーキを利かせてスピードを落とし緩やかな脱線に留める。
沖底さんの祠から、対岸のこの光景を眺めながら、「いつの時代でも悪童は元気が良いのう」と仙人さんが嬉しそうに呟いた。そろそろ村の子供達が仙人さんの昔話を聞きに集まる頃である。信夫達も無謀な遊びを切り上げ、年少の子供達と渡し船に乗りこみ沖底の宮に向って来るようである。遠くで豆腐売りのラッパの音が響いてきた。さて、婆様達は夕餉の支度である。しかし、若夫婦はまだ田畑で精を出している。そして、川漁師の爺さん達はもう網を干している。さぁ悲しみの春もそろそろ癒された頃である。ジョーは今頃福岡の街の下でこの夕空を見上げているだろうか。
1965年4月14日火曜日の朝、ジョーのママが静かに息を引き取った。初七日が終わった日、民ちゃんと、美夏ちゃんとマリーは三人で沖底さんの南側にアサガオの種を蒔いた。種を蒔く前に祖母ちゃんが芽切りのやり方を教えてくれた。三人はひとつひとつ丁寧に爪ヤスリで芽切りをした。花壇作りは、竜ちゃんが男の子達を総動員して手伝ってくれた。土留めには瓦を使うことにした。竜ちゃんの父ちゃん辰ちゃんが幼馴染の中園の小父さんから、割れて使えない瓦を貰ってきてくれたのだ。
中園の小父さんは瓦焼き屋さんだった。村の西の堤防沿いには数件の瓦焼き小屋が立ち並んでいた。更に下流の六五朗橋の下でも河川敷に数件の瓦焼き小屋が立ち並んでいた。筑ッ後川が氾濫し大量の泥を押し流してきたこの土地は、瓦に最適な土が無尽蔵にあった。だから、この町は酒造りと同じ位に瓦焼きが盛んだった。
その焼き割れて商品に成らない瓦をオート三輪で運んでくれたのだ。花壇の土は、川砂と田んぼの土を混ぜ、水はけを良くした。川砂と田んぼの土は、竜ちゃんと男の子達が何度もリヤカーで運んでくれた。そして出来上がった小さな花壇に、民ちゃんと、美夏ちゃんとマリーの三人は種を蒔いた。
赤ちゃん指の第一関節までを土に刺し、植え穴を作った。それから種のへそ(胚)をお日様に向けてやさしく土を被せた。今年は暖かいので芽立ちも順調だろう。種を蒔いてから三人は、毎日登校前に水撒きをした。そして、川面に向って一礼し振り返って北の空に一礼した。
一週間ほど経つと可愛い双葉が開いた。「本葉が七枚程度まで伸びたら芽を摘むと良いよ。そうするとそこから脇芽が伸びて茂りが良くなるよ」と祠の中から仙人さんが教えてくれた。しかし、三人はそのままにすることにした。自由に芽を伸ばしたかったのだ。そして、沖底さんの祠の軒下まで延びたら撤芯しようと考えていた。仙人さんは「まぁ好きにすりゃ良かたい」とそのまま祠の中で眠りこけてしまった。
蔦を絡ませる支柱の竹は、美夏ちゃんの祖父ちゃん、カガミん爺が切り出してくれた。それを手先の器用な信夫が四つ目垣に組んでくれた。信夫は中学二年生に成ったばかりだが小さい時から竹細工が得意だった。
ポケットにはいつも肥後守(ひごのかみ)という小刀を持っている。この小刀は日本刀と同じ製法で作られている。本物の日本刀なら、武吉の方がうまく扱えるだろうが小刀肥後守の扱いは信夫の方が優れていた。
武吉は高校二年生に成っていた。高校はひで(英)ちゃんの後を追って久留米の高校に進学した。国語の時間のことである。テーマは「春の情景」で作文を書くことに成っていた。「短い詩のような文章でも構わない」という条件である。そして、最初の発表者は静香ちゃんである。
静香ちゃんは少し変わった娘である。活発で頭の回転が速い子だが、どうも文章を読むのが苦手らしい。話すときは饒舌なのだが、音読は大の苦手である。だから、文章も少しおかしい。静香ちゃんがたどたどしく作文を読み始めた。「綺麗かしら。赤いの好きだけど桃色も好き。堤防で遊ぶの楽しいよね。水の匂いに混じって素敵な香りもしてきた」そこまで読むと言葉がつっかえて先に進まなくなった。
国語の先生は先を促そうと「何が綺麗なんだ」と言った。それから「君の文章には主語が無いぞ。さぁ主語をつけてもう一度」と背を押すつもりで静香ちゃんの肩をポンポンと叩いた。しかし、静香ちゃんは返って萎縮し声が出ない。すると突然武吉が立ち上がり「僕は静香ちゃんの作文はとても良くできていると思いました。先生、人の心に主語は必要ですか? 主語って何ですか?」と先生につっかかって来た。
先生は困ったように「文節に『が』や『は』が付き文章の主体を成すものだ。それ位中学校で習っただろう」と答えた。しかし、これが更に武吉の反抗心を煽った。「僕は『私は綺麗かしら』が隠れた主語だと受け取りました。でも、もしかすると『春の野は』が隠れた主語かも知れません。静香ちゃんの心の中ではどんな言葉が浮かんでいたのかは分かりません。文章は、あるいは言葉は『発した者のモノ』ですか。それとも『聞き取った。或いは受け取った者のモノ』ですか? 先生がいう主語の主体は誰ですか? もし、発せられた文章が、『受け取った者のモノ』であれば、返って主語がないほうが魅力的な文章になることもあります。何故ならそこに想像の空間が生まれるからです。そういう文章は駄目なんですか?」と捲くし立てた。
先生はいよいよ困りはて「独り事なら良いが他人との会話だと主語が必要だろう。『あそこにあった。取っといて』では聞いている方は、何のことか分らんだろう。例えば『ペンがあそこにあった。貴方が取ってくれると嬉しいわ』とか言わないと、どうして良いか分らんだろうが。お前も分らん奴だなぁ」と武吉を制した。
しかし、武吉はもうどうにも止まらない。「例えば『アサガオには毒がある』と言った場合の主語はどっちですか? アサガオですか? 毒ですか?」と食い下がった。ついに先生は「うるさい!! お前のような奴が居ると授業にならん。今すぐ教室から出て行け!!」と本気で怒りだしてしまった。中学の時の虎の心情の二の舞である。しかし武吉は懲りもせず「教える気がない方からは、学ぶ気も有りません」と教室を出て行った。
きっと今頃は不貞腐れて近くの食堂でラーメンでも食べていることだろう。嗚呼そうそう、焼き飯も一緒に頼んだに違いない。食堂のラーメンと焼き飯は抜群の相性良しなのだ。長い人生。広い世の中。いつか、どこかに武吉と相性良しの先生も現れることだろう。まぁそれまでは旨いラーメンでもすすって気長に待つしかなかろう。
しかし、武吉は本来杓子定規な理屈屋ではない。むしろこの世に定まるモノはないと考えている。例え曲った杓子の柄でも、時には定規になるかも知れないと考える性質なのである。今日の一太刀は明日には振るえない。今の間合いは次にはない。だから「形の稽古が必要なのである」と考えている。これは矛盾する言い方のようだが「形にも定めがない」と武吉は自覚しているのである。だから、哲学的に言えば剣の修業とは不条理なモノかも知れない。切れないものを切り続けるのである。そんな武吉の国語的なセンスでは主語は重要ではない。文章を読むとは己の心を読む修行だと考えている。その為、国語の先生とは袖すりあわないのである。
今年になって、武吉の両親河野守人とヨシは花畑の駅前で川魚料理屋を始めた。屋号は「川葦」である。守人とヨシを知る知人達から見れば至ってシンプルなネーミングである。竜ちゃんの父ちゃん辰ちゃん等は「カワノヨシ」と発音している。
河野ヨシは武吉の母ちゃんの名だが辰ちゃんは「河原の葦」を頭の中に描いているのである。だから、あながち間違いではない。そして、川魚以外の食材は辰ちゃんが仕入れてきてくれている。
川魚はもちろん川漁師の守人とヨシが獲った川の幸である。気楽な川漁師から、サービス業に半転職したのは、武吉や香那の学費を稼ぐ為である。この頃に成ると川もすっかり変わってしまった。高度経済成長に伴う建設ラッシュで何艘もの砂利採取船が川底を掘り返してしまったのだ。川底の地形が変われば流れも変わる。そして、何より砂浜は見る見る内に粘土質の潟に姿を変えてしまった。その為、手長海老もウナギもすっかり数が減った。だから、川漁師だけでは子供達の学費が賄えないのだ。
川魚料理屋「川葦」が開店すると村の衆の宴会パターンは、六つ門町のネオン街から、花畑に変わった。しかし、締めが美弥ちゃんのラーメン屋台であることには変わりがない。民ちゃんの父ちゃん兼人は税務署務めなので、二日と置かずにこのパターンである。
そしてホロ酔いで佐賀行きのバスに乗り帰るのである。しかし、時折飲みすぎて江見のバス停で降りそびれ終点の佐賀まで行ってしまうこともまま有るらしい。そんな時には「いやぁ、佐賀のお城の近くにJAZZを流す洒落たバーを見つけてね。ちょっとトリスを飲んでバードを聞いて来たよ」と言い訳するのである。しかし皆は「博多ならいざ知らず佐賀にJAZZを流すような洒落たバーがある筈は無かばい。佐賀ン飲み屋なら村田英雄やろうもん」と思っているので相手にしてくれないのである。
アサガオは日々伸びていき夏の暑さから沖底さんの祠を遮った。武吉の妹、神童香那嬢も十一歳になった。だから今では仙人さんの昔話を聞く会は香那嬢が取り仕切っている。同級生の芳幸は伝達係りである。英ちゃんの妹明美ちゃんも九歳になった。英ちゃんと同じように祖母ちゃんの晴美先生が勉強を見てくれているので明美ちゃんも小さな才女だ。
今年に成って、英ちゃんはあまり家に帰って来なくなった。英ちゃんは東京の大学に進学するつもりである。坂井先輩は今年から福岡の大学に通いだした。でも下宿はせずに国鉄で通学している。だから、英ちゃんは坂井先輩に受験勉強を見てもらっている。坂井先輩の都合が悪い日は、真理子先輩が付き合ってくれた。
真理子先輩は地元の大学なので急な頼みでも聞いてくれた。真理子先輩は医学部の二年生になった。英ちゃんが家に帰るのは土曜と日曜日位である。ほぼ週の五日は坂井先輩の家に厄介になっている。でも、坂井先輩のご両親は下宿代など取ろうとはしない。だから、やっぱり、父ちゃんの屋台ラーメンが下宿代替わりだ。
田植えが終わると、アサガオの花が咲き始めた。年寄りは川涼みをしながら板台に座り、子供達は沖底さんの祠の前で仙人さんの昔話を聞きながらアサガオの花を眺めている。中学三年生のマリーは、地元の高校に進学しようと決めた。美夏ちゃんは一緒に久留米の女学校に行こうと言っていたが、やっぱり祖父ちゃんと祖母ちゃんが心配であった。
地元の高校は中学校より近かった。だから、何かあってもすぐ家に帰れる。マリーが地元の高校に進学するというので美夏ちゃんも地元の高校に進学することにした。美夏ちゃんはあこがれの制服よりマリーの方を選んだのだ。それに、地元の高校の生徒の大半は地元の中学出身者である。だから、武吉の脅しはまだ充分効いている。その為、誰も赤毛のマリーをいじめようとはしない筈だ。
ジョーは、香椎の家に山本先輩と二人で住んでいた。ジョーが一人ぼっちになったので、山本先輩は香住ヶ丘の下宿を引き払いジョーの家に引っ越してきたのだ。だから、淋しさに襲われることはない。それに山本先輩が受験勉強を手伝ってくれるので助かっている。だから、山本先輩の下宿代は家庭教師料と相殺である。それに食料品は美食家の山本先輩が香椎の商店街で仕入れてくる。肉屋の藤本さんや、魚屋の木下さん、八百屋の小西さんとは既に親戚づきあい並みに親しい。加えて山本先輩は美的センスも高いので夕食は毎晩ディナーというに相応しい。
ディナーが終わるとママのJAZZのレコードをかけながら受験勉強は始まる。ジョーはパパと同じようにパイロットの道へ進むつもりである。だから、宮崎の航空大学を目指していた。ジョーが香椎の家を出ても当分山本先輩が住んでくれることになっている。だから、ジョーが宮崎に行っても香椎の家は空き家にならずに済む。だから家の心配はいらない。それに他人に貸したり売ったりする気持ちはない。この家にはママの匂いが残っている。
山本先輩は、毎朝MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)の「朝日のようにさわやかに」を流しながら淹れたてのコーヒーを飲んだ。ジョーもそのコーヒーを飲んで学校に向かった。山本先輩の説では「『朝日のようにさわやかに』と云うのは誤訳に近い」ということだった。本当はこの曲には、どろどろとした愛憎の歌詞があるらしい。でもミルトジャクソンのヴィブフォンの音はすがすがしく爽やかである。朝日に小鳥達のさえずりが風をふるわすかのようである。
物事は表面だけでは分からないことが多いのかも知れない。駅から学校に向かう路地裏にアサガオの花が咲いていた。いつもは殺風景な路地裏が華やいで見えた。四十九日に家に帰った日に民ちゃんと出会った。民ちゃんは、いつでも華やいで見える。竜ちゃんと民ちゃんは福岡の大学に進学するそうである。やはりクリスチャン系の大学である。その大学は有名校ではあったが、竜ちゃんや民ちゃんの学力ならさほど無理なく入学できた。だから、二人とも受験勉強という苦役に苛まれることは少ない様子だった。でも、やっぱり四人は受験地獄の季節のただ中にいるのである。だが、この地獄を抜ければ自由の国への道が開けるはずだ。と思いジョーは頑張っている。
それから、民ちゃんは、ジョーが通う高校の学園祭に行きたいと言った。受験勉強の息抜きを兼ねて、少しでも早く福岡の街に馴染みたいようだ。だから、博多駅に迎えに行く時間を調べて落ち合う場所はホームにしようと約束した。
1966年、竜ちゃんと民ちゃんは福岡の大学に入学した。ジョーは宮崎の航空大学に合格し宮崎に引っ越した。英ちゃんも目標の大学に入学し東京へ行った。福岡に下宿した民ちゃんは、山本先輩と頻繁に会うようになった。そして、秋にはべ平連の集会にも参加した。
前年、アメリカは北爆を開始しベトナムの戦火は大きく広がっていた。民ちゃんには、左翼的な思想は無かったが「私達にも何か出来ないの?」という思いには駆られた。だから、天神の駅前で「ベトナム戦争に反対しよう!!」というビラまきも手伝った。それから程なく民ちゃんは、香椎のジョーの家で山本先輩と暮らすように成っていた。もちろん、ジョーには知らせていた。ジョーも宮崎で素敵な彼女が見つかったようだ。「来年の『どんたく』には皆で参加しよう」と手紙をくれた。
竜ちゃんは大学に入学すると本格的にロックバンドを始めた。英語の歌詞は随分流暢になっていたが、日本語の歌詞で歌う時も妙な巻き舌に成っていた。その方がロックらしく感じるそうである。ある日のコンサートの後、民ちゃんが「日本語の歌詞の時は素直な日本語で歌ったら。何を言っているのか歌詞が分からんよ」とアドバイスすると「良か良か、大した内容の歌詞や無かけん。のり、のりたい」と相変わらずブルーブルーの発想のままである。
「『ナカメシグローリーアン』ち、分かるね」と竜ちゃんが、民ちゃんに聞いた。「それ英語?」と民ちゃんが首をかしげた。「いんにゃ(否)日本語たい。中が飯でぐるり(回り)が餡たい」と竜ちゃんが言ったので「嗚呼、牡丹餅のこと」と妙な納得感で民ちゃんが答えた。「他には?」と民ちゃんが聞き返すと「キャストクライ、フッキャキーエルもあるよ」と竜ちゃんがいうので民ちゃんはじっくりと思考した。
そして「あっ分かった。消すと暗いに、吹けば消えるでしょう。相変らず竜ちゃんは変な発想ばかりするのね。そんなのを並べて歌詞にすると?」と民ちゃんが聞くと「歌詞はどうでん良かとよ。どうせ歌詞の内容なんか皆聞きよらんけん。のり、のりたい」とバーボンを旨そうに流し込みながら竜ちゃんが答えた。
確かに、この頃のロックコンサートのPAは大音量重視で歌詞は殆ど聞き取れなかった。その為客にも竜ちゃんの歌う歌詞の内容は聞こえていなかった。だから「ナカメシグローリーアンlove」や「キャストクライblues」でも良いのである。竜ちゃんのファンは、竜ちゃんのギターを目当てに集まるのである。
確かに小さな時からピアノを習っていた民ちゃんの音楽センスからでも、竜ちゃんのギターはジャガジャガかき鳴らしている他のロッカーとは一線を超えていた。特にトレモロをピックでは無くクラシックギターのように指で弾くテクニックは民ちゃんもお気に入りだった。
「竜ちゃんって意外とギターのテクニックを研究しているんだ」と感心して聞いたら、一枚しか持ってなかったフラットピックが割れたので、アコーステックギターで練習を始めた頃のフインガーピックを使っただけらしい。「だって勿体なかやん」と答え、それにせっかく覚えたスリーフィンガーやアルペジオも使わないと「勿体なかやん」ということらしい。確かに竜ちゃんは小さい時から物を大事にする子だった。泥船の海賊船だって、竜ちゃんが言い出しっぺである。河原に打ち捨てられていた廃舟が勿体なかったのである。そこで英ちゃんに相談したら、英ちゃんが「コンクリートの船がある位やけん。泥で塞ごう」と案を出したのだ。廃物利用は子供の遊びの原点である。そして想像を膨らまし夢を育むのだ。だから、今でも竜ちゃんのギターには夢の力が備わっている。
1968年6月2日日曜日の夜、大学に米軍のファントム偵察機が墜落した。これを機に山本先輩は学生運動にのめり込んでいった。山本先輩は大学院の四年生になっていたがとても社会人になる様子は無かった。民ちゃんと山本先輩の仲もこの頃からぎくしゃくとしたモノに成ってきた。
竜ちゃんはチャペルで知り合った同級生の秦靖子(ヤッコ)と西新のアパートで同棲し始めた。ヤッコ(靖子)は、清楚で華奢な女の子だった。ヤッコの実家は博多駅の近くで緑橋という小さな橋を渡った辺りにあった。でもヤッコは家を出たがっており、ある夜ボストンバックを一つだけ下げて、竜ちゃんのアパートに転がり込んできた。ヤッコと竜ちゃんが同棲を始めてしばらく経った頃、竜ちゃんは「雲仙にツーリングに行こう」とヤッコを誘った。単車は友達に借りるらしい。
その白とブルーのツートンタンクの単車は少し変わった形をしていた。特にマフラーが変なのだ。ヤッコがそのことを指摘すると「おう、これは通称弁当箱マフラーたい」と竜ちゃんが教えてくれた。その呼び名のように車体の中段に添わせてあるマフラーの後部が本当に弁当箱のようである。ヤッコは「なんだか格好悪いなぁ」と思ったがCL250というこのオートバイは、舗装されていない道でも楽に走るらしい。だから、雲仙行には最適らしいのだ。そして、CL250はダートのワインディングロードを力強く駆け登った。
天空までもう少しである。山頂の尾根に着くと有明の海がまばゆく輝いていた。「あっこ辺り(あの辺り)が筑ッ後川の河口たい」と、竜ちゃんが東北の彼方を指差した。ヤッコが「どこ? どこ? あっち?」と指さすと「んにゃ(否)、あそこはタカシ(高志)ン村たい。カメ(亀)爺の館はこっちばい」と修正するのだった。そして「昔は、雲仙ば高来之峰(たかきのみね)っち呼びよったらしか。そして、こん有明海ば挟んで邪馬台国があったとよ」と得意げに説明をした。ヤッコが「えっ?! 邪馬台国って奈良やないと」と聞き返すと「何ば、馬鹿なこつ言うとね。邪馬台国はあそこたい」と自信有り気に胸を張って言った。ヤッコが「え~っ?! 誰がそんなこというたと?」と訝しがると竜ちゃんは「そりゃ、仙人さんたい」と答えた。その様子を仙人さんは雲仙の雲の上から眺めながら笑って見ていた。
ツーリングの初日の宿は、竜ちゃんの実家だった。ヤッコに初めて会った辰ちゃんはすっかり舞い上がりいつになく酔いが早く回った。上機嫌の辰ちゃんはヤッコを川魚料理屋『川葦』から美弥ちゃんのラーメン屋台へとひっぱり回した。そして「おう、こん娘は、竜の彼女たい。ええらしか(可愛い)ろ。なぁ、みゃい(大層) ええらしか(可愛い)ろ」と自慢して回った。そして、家に帰ると「おい竜、ブルースばやれ」と言い出した。ヤッコは「えっ? 小父さんがブルースを聞くの?」と驚いていたら竜ちゃんが弾き始めたのは「夜霧のブルース」だった。それから「別れのブルース」「雨のブルース」「新宿ブルース」と、竜ちゃんは、ヤッコに照れ笑いを送りながら和製ブルースを弾き続けた。ヤッコはその様子が可笑しく微笑ましかった。そして、そのヤッコの笑顔は朝日のようにさわやかだった。
夢砕け 尚美しき 山河あり 緑雨に濡れた 君の青春
サルメ(佐留女)が語るサルタ族の物語
♪ 悲しき王の話をしよう。悠久の調べに乗せて、怒りの時は去り後悔の音色が流れる。
嘆きの声を聞こう。同胞の屍を踏みしめて、山野は静まりの鵺(ぬえ)の嘆きが流れる。♪
私達の始祖は、サルト(沙流人)という異形の人です。雪のように白い肌、真白い髪と髭に大きな鷲鼻。その猛禽の嘴の左右には、ホオズキ(鬼灯)の実のように赤い瞳。だから、人は沙流人を鬼人と呼び、その姿を見るのを避けました。
沙流人の父は、サルタバハ(猿田馬覇)という名の西域の商人でした。猿田馬覇は翡翠や黒曜石を求めてこの地にやってきたのです。沙流人の母は、ハヤツ(破鵺津)姫と言いヌプクル(野の民)の女族長でした。破鵺津姫は若い娘だったのですが、大きな力を持つ巫女女王でした。だから猿田馬覇は破鵺津姫を頼ったのです。
破鵺津姫が沙流人を産むと、部族は真っ二つに割れました。猿田馬覇と破鵺津姫の仲を快く思っていなかった者は、「サルトは祟りで産まれたのだ」と非難しました。一方で異形の沙流人を白神の化身だと信仰の対象にする一団も現れました。
その集団はオボダ(於保田)党と呼ばれ、ヌプクルの族長クニマル(六合丸)に率いられていました。沙流人を忌み嫌っていたのはリエン(裡猿)とヤタ(谷多)という族長でした。二人はニタイクル(森の民)でネギノ(禰疑野)党と呼ばれていました。もう二人、アイ(阿猪)とウスイ(薄猪)という族長がキムウンクル(山の民)を率いていました。彼らはショセックツ(鼠石窟)党と呼ばれていました。この裡猿と谷多、阿猪と薄猪は皆、私の祖先でも有ります。
禰疑野党の裡猿と谷多は、あからさまに沙流人に敵対的な行動を取りました。裡猿と谷多程にはあからさまではないのですが、阿猪と薄猪も沙流人には空々しい対応を取りました。ただひとり於保田党の六合丸族長だけが、沙流人を擁護していましたが、沙流人は阿人の中では孤立していました。
当時、今のトウマァ(投馬)国は阿人が群雄して暮らしていました。しかし、沙流人の時代になると投馬国の北部に倭人が住み着き始めていました。その中からイホミ(伊穂美)王が現れてきます。伊穂美王は、兄のイサミ(伊佐美)王を助けて倭国の占領に乗り出していました。
投馬国がその足掛かりでしたが、投馬国の中南部には、まだ伊穂美王に服わぬ者が大勢いました。加えて投馬国の中南部は山深い地域が多いので、伊穂美王も攻めあぐねていました。於保田党が暮らす地域は海沿いの平地だったので、伊穂美王はまずその地に上陸しました。
ただ、山深くまで攻め入るつもりはありませんでした。海路を確保しようというのが狙いでした。伊穂美王の軍は大半が倭人なのでアマ(海人)族の軍なのです。だから海上の支配権を握りたいのです。
鼠石窟党が暮らす東の地域も海に面していました。だから、伊穂美王は次に鼠石窟党が暮らすホト(穂門)の浜に上陸しようと考えていました。その噂を聞きつけた鼠石窟党の阿猪と薄猪は慌てました。
海辺で暮らしている者が多いとは言っても鼠石窟党は山の民です。河口での漁は暮らしの糧ですが、大海原に乗り出す海人ではもう無いのです。だから海戦になれば勝ち目はありません。そこで、禰疑野党の裡猿と谷多を頼ることにしました。そうなると、伊穂美王もなかなか安易には彼らを攻められません。
裡猿と谷多の禰疑野党は谷間深くに暮らしているので下手に攻め込めば歴戦の伊穂美軍といえ壊滅しかねません。そんな時、於保田党の六合丸族長と破鵺津(破鵺津)姫が、伊穂美王を訪ねてきました。二人は「サルトをこの地の統治者にしてもらえるなら、伊穂美王の臣下に成りましょう」と持ちかけてきました。
そこで、伊穂美王はまだうら若い沙流人に面会しました。最初はその異形に戸惑いましたが、沙流人に偉才の相を見ると、戦焼けした赤銅の腕でしっかりと沙流人を抱きよせ「今日からお前は俺の息子に成ってくれるのか。うれしい申し入れじゃわい。良~し、皆の者 今夜は祝いの大宴会じゃ」と大声で全軍に叫びました。そして歌や踊りの地響きが於保田の津に鳴り響きました。
於保田党の族長と破鵺津姫は、伊穂美王の阿人に対する処遇を聞き及んでいました。中ノ海に暮らすキムウンクル(山の民)の族長キピル(鬼蒜)は、娘のエヒメ(笑媛)を伊穂美王に嫁がせ、ニタイクル(森の民)のハリマ(梁蟇)のイワオ(巌男)は、伊穂美軍の将軍になり、伊穂美王の次女イナビ(伊南美)姫を妻に迎え、梁蟇国を任されていました。だから、きっと、帰順すれば受け入れてくれると思ったのです。
そして、また巌男と同じように、快活な伊穂美王に憧れ自ら帰順しました。伊穂美王は、沙流人に五百の尖兵を与えました。これに負けじと六合丸族長もヌプクル(野の民)の若者五百を沙流人に付け送り出しました。
千人隊長になった沙流人は、鼠石窟党が暮らす穂門の浜に上陸すると、伊穂美王に与えられた大量の食糧を穂門の浜に暮らす鼠石窟党の民に分け与えました。そして、千人隊の尖兵には「食い物は山にある。我々は山の幸を食い尽くしながらネギノを攻めるぞ」と宣言しました。
そのことを穂門の浜に暮らす鼠石窟党の民にも知らせ「谷間に親族が居れば、穂門の浜に一時疎開させるように」と猶予を与えました。着の身着のまま山を下りても食糧には困らないので、噂を聞きつけた鼠石窟党の民はぞくぞくと山から下りてきました。
阿猪と薄猪は好戦的な者を率いて抵抗を試みましたが、沙流人軍の勢いは止めようもなく、瞬く間に禰疑野の盆地に追い込まれました。沙流人は宣言したように、抵抗するものには容赦なく、途中の村々は全て焼き払いました。だから、沙流人のホオズキ(鬼灯)の実のように赤い瞳には紅蓮の炎が灯っていました。そんな沙流人を民は「鬼が来た」と恐れ逃げまどいました。
でも、沙流人は、禰疑野の盆地から於保田の津への道は空けていました。だから、禰疑野の民はその道を下り於保田の津へ逃げました。もちろん於保田には六合丸族長が居るのでそこで抵抗軍が組織されることは有りません。禰疑野には、徹底抗戦を続ける鼠石窟党と禰疑野党の抗戦派だけが残りました。
しかし、伊穂美軍の五百の尖兵と地の利を知り尽くした同族五百の兵を相手に、各地で抵抗軍は討たれていきました。沙流人を忌み嫌っていた裡猿と谷多は命尽きるまで戦う覚悟でしたが、鼠石窟党の阿猪と薄猪は、武器を捨て於保田の六合丸族長に命乞いに走りました。
禰疑野盆地の池や川は赤く染まり、裡猿と谷多が討たれると、禰疑野盆地からは人影が絶えました。しかし、生き延びた阿人達は、沙流人を恨むことは有りませんでした。何故なら沙流人こそが、阿人達が生き延びる道を示したのです。裡猿や谷多の生き方ではいずれ阿人達は滅びる運命にあったのです。
しかし、同族殺しの沙流人は、自身の中に重い物を背負ってしまいました。服わぬ者阿人を討った沙流人を伊穂美王は、投馬国の王にしようとしましたが、沙流人はこれを辞退しました。そして、高木の神の一族を招き投馬国の中核に据えました。
北を倭人のクラジ(秦倉耳)族が治め、南を阿人が治めることにしたのです。後に沙流人の末裔は、猿田馬覇の一族ということからサルタ(猿田)族と呼ばれるように成ります。そして、もうひとつの生き延びた阿人の末裔が、私の祖父様と母ぁ様です。日巫女様も良くご存じの山の民といわれている一族ですね。
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と、サルメ(佐留女)の語りは終わった。この先にサルシ(佐留志)一家の物語があるそうだが今夜はここまでだ。私は、佐留志族長の冒険談を早く知りたがったが夜も更けてきた。続きは後日にするしかない。でも、佐留志族長の親分はシェンハイ(玄海)様で、サラクマ(沙羅隈)親方が兄貴分だ。ということだけは数日前に佐留志族長に教えてもらった。だから、きっとわくわくする冒険談が始まるだろう。
翌朝、私はその冒険談より驚く話を聞かされた。ヒムカ(日向)が佐留女の兄ウズヒコ(宇津彦)を婿に迎えるというのである。ウズメ(宇津女)さんがメラ爺に呼ばれたのはその相談だったようだ。相談とは言っても話はもう決まっている。だから相談とは祝いの席とその後の宇津彦の処遇である。どうやら、宇津彦をトウマァ(投馬)国の筆頭族長にしようという話のようである。
ヒコミミ(日子耳)はまだ若い、秦鞍耳は当分私が手放しそうに無い。だから、宇津彦を投馬国の筆頭族長とし治めようという案のようだ。もちろん、メラ爺の発案である。クラジ(秦倉耳)族長もタカムレ(高牟礼)様も、宇津彦の父である佐留志族長にも異論はない。
更にこの元の発案者はホオミ(火尾蛇)大将のようである。クド(狗奴)国の巫女女王が宇津彦の妻であれば、投馬国は大安泰である。そして、婿になる肝心の宇津彦の意見を聞こうとする者は誰もいない。宇津彦はヒムカと同じ歳である。だが、まだ独り身である。男色では無いのだがウネ(雨音)と同じで晩生なのである。但しウネとは違い農業ではなく商業に精を傾けている。
遠祖の猿田馬覇も西域人の商人だったのである。宇津彦は伯父のイツキ(猪月)夫婦を頼り幼い頃から商売を学んできた。加えてマンノ(万呼)さんからラビア姉様の商学を聞き及び商業に魅せられてしまったのだ。
ラビア姉様の商学の理念「経世済民」は「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」というものである。だからそれは私の中でも大きな教えに成っている。そしてバイチュウ(白秋)一族はそれを、身を呈して示している。だから、私も宇津彦が白秋様のような大商人になるのは反対ではない。
しかし、白秋様の偉業を知らない投馬国の三長老には心配だけしかない。だから、ただただ早く宇津彦が妻を迎え、子を授かり、猿田族と投馬国の繁栄を望みたいのである。そして、その妻がヒムカなのである。これに異議を唱えるなど大罰当たり者の所業である。だから、誰も宇津彦の意見など聞かないのである。
しかし、もし宇津彦に意見を求めたら「はぁ」と他人事のように答えるはずである。雨音の香美妻への返事もそうだったらしい。香美妻や私や志茂妻や、そしてヒムカに取って夫はそれ位が丁度良い。やたらと構って欲しがる男も面倒だし、やたらと構いたがる男も面倒である。
私達は忙しいのだ。通ってくるなら用事が有る時だけで良い。淋しくなったらそっと来れば良い。用も無いのに妻の周りをうろつく男など迷惑なだけだ。ましてや妻の手料理を食べたいなどという甘えは首を刎ねなければ治らない。
しかし私とヒムカの手料理を食べる男はそれ以上の苦役を強いられるかも知れない。あの灰汁巻きを平気で食べてくれたのはタケル(健)だけである。現ツ神(アキツカミ)と呼び慕われる健は尋常な男ではない。だから、尋常な男達ならあの灰汁巻きを食べた後に、手料理をねだる勇気は湧かない筈である。
宇津彦も夢中なことがあるから、ヒムカに無駄な愛情を求めたりはしないだろう。愛の絆など幻想である。立ち木に絆で繋がれた牛馬が幸せを噛みしめているとは大きな誤解である。宇津彦はヒムカにとって必要なことしか求めない筈である。自分の都合を押し付け、妻を縛りつけておこうとはしない男である。私はそんな男が良い。
実はナツハ(夏羽)も意外なことにそんな男である。良く見渡すと私の周りにはそんな男が多い。アチャ爺もカメ(亀)爺もそうである。イタケル(巨健)伯父さんだってそうだ。私はそんな男達に育てられたのでやっぱりそんな男でないと相手にはしたくないようだ。
もちろん、ヒムカもそうである。だから、ヒムカの夫に宇津彦は丁度良い。きっとホオミ(火尾蛇)大将は、クド(狗奴)国や投馬国の為ではなく、ヒムカの為にヒムカにぴったりの婿を選んだのである。しかし、結果的には長老達が望むように狗奴国や投馬国は安定し、ヒムカの黒潮女王国はますます繁栄する筈だ。
ヒムカは伊穂美王の末裔である。伊穂美王の五国をヒムカが治めることに何の不思議もないのだ。そして、伊依乃島の南洋民もそれを待っている。伊穂美王の偉業はヒムカが引き継ぎ、伊佐美王の偉業は須佐人が引き継ぐことだろう。そして、ヤマァタイ(八海森)国には徐家の三女神が居る。
伊阿多の偉業はニヌファ(丹濡花)が担うだろうから……フムフム。やったぁ~私は自由だ。良ぉ~し。私はアヘン(金芽杏)に負けない南洋の女海賊になるぞぉ。そして帆にいっぱい自由の風を孕ませ天竺まで行くのだ。そして、そして、アルに論戦を挑もう。それからキャラバン隊を率いて西域を旅するのだ。
そうだ。それならズーツァイ(紫菜)も伴わなければいけない。でもその前に須佐人に馬の乗り方を習って置かないといけない。それに、少しはラビア姉様にソグドの言葉も習っておいたが良さそうだ。良ぉ~し。そうと決めたら早速加太に……。嗚呼、加太はまだ帰ってきていなかったのだ……。加太には色々聞かなきゃいけないのに……。それにしても、加太はどこまで行ったやら……。
~ タケル(健)との帷 ~
ヒムカと宇津彦の祝いの席は、一月後に投馬国の宇沙都で行われることになった。だから、中ノ海の伊穂美王の末裔も皆集まる予定である。私の気の病は全快したのだが、これからヤマァタイ(八海森)国に戻っても、また直ぐに宇沙都に戻って来ないといけなくなるので、結局ここにこのまま居候ということにさせてもらった。
女王の私がいなくてもヤマァタイ国は、香美妻お姉ちゃまがいれば大丈夫である。それに、香美妻お姉ちゃまの助手は、私の代わりに志茂妻が努めるので何の支障も無いであろう。「私は神輿じゃけんのう」祭り事(政務)がなければどこで自由にしていても良い筈であると勝手に解釈している。
だから、この火の座を早く隠居部屋と長老会議で使いたがっている三長老にはもう少し我慢してもらわないといけない。そこで、そのお詫びを兼ねて私は三長老を温泉に連れて行くことにした。このタカムレ(高牟礼)様の館から東へ半日ほど歩くと、どぉ~うも?! 温泉が沸いているらしい。「どぉ~うも?!」というのは高牟礼様も豊月女も知らないのである。実は、この情報は近衛二十四人隊の槍の項作がもたらしたものである。
槍の項作は高来之峰の麓で生まれ育っている。だから温泉に鼻が利くのである。先頃知り合った山師から、私も高来之峰で嗅いだことのある「ゆで卵のような匂い」がする所があると聞いた。そこは、猪野と呼ばれている山の麓らしい。そこを流れる猪野川を遡るとその場所がある。猪野川は緩やかな小石の河原が続くので歩いて楽に昇れるそうだ。槍の項作はその情報を元に現地を訪れた。
高来之峰の麓の温泉ほど明らかに「あっ温泉だ!!」という場所は無かったらしいが、二~三箇所ここを掘れば「どぉ~うも?! 温泉が…!!」という場所には目星をつけたそうである。そこで、項権とも相談し「そうだ。どぉ~うも?! 温泉を掘りに行こう」と成ったのである。
近衛二十四人隊の六つの輿には、三長老とリーシャン、そして、沢山の海の幸を乗せた。山の幸は現地調達である。何しろ猪野と呼ばれている位だから、シシ肉には困らないだろう。それに久しぶりの物見遊山である。風光明媚を愛でるだけではなく、やっぱり美味しい物も欠かせない。
豊月女と佐留女は私と一緒に徒歩組である。手先が器用な徒手の項増が、私と同じ革のサンダルを、豊月女と佐留女にも作ってくれた。だから、私と豊月女と佐留女の三人は、小さなキャラバン隊なのである。そして、豊月女と佐留女のサンダルには、梅の小枝があしらわれている。二人が手折ったのであろう。ほころび掛けた白梅の花が、豊月女と佐留女の乙女心を春風に漂わせているようである。もちろん私のサンダルにはそんな余計な飾りはない。
私はもう恋する春の乙女ではないのだ。かと言って福々しい母親にも成れていない……。まぁ余計なことは考えずに歩こう。梅の小枝は、項増が器用にサンダルに結い付けてくれたようだ。しかし、あの項増のごつい手から繊細な品々が作り出されるのはいつ見ていても不思議である。
項増は、私より四歳年上なので今年で三十一歳になる。これから男盛りに成り威厳も増す。でも項増は、寡黙だ。無愛想ではないが無駄なことは言わないのである。項権がその弟子で弟のように可愛がっている剣の項明とは対照的だ。
項明はその名の通り陽気でおしゃべりである。そして、話し上手なので皆を和ませてくれる。でもそれほど気性の違う二人は意外と仲が良い。項明のおしゃべりを、いつも項増はうんうんと楽しそうに頷き聞いている。そんな項増の姿が項明にはとても嬉しいことのようだ。
その徒手の項増には、ミツマ(巫津摩)の巫女の司タマコ(玉呼)を妻問いさせた。玉呼は巫津摩の巫女の司である。そして、ミタマ(三珠)族の娘である。三珠族の領地はヤマァタイ国の南東である。玉呼の母であるタマナメ(魂拿女)族長は、夏希義母ぁ様と同じ歳だ。だから、玉呼を生んだのは三十路を過ぎてである。
父のツララ(津頬)軍団長は、カメ(亀)爺の盟友で同じ歳である。だから、妻の魂拿女族長とは親子ほどに歳が離れている。魂拿女族長は十八歳で津頬軍団長を夫に迎えたのだが、二人は長い間子に恵まれなかった。そして念願の子が授かった時には、津頬軍団長はとうに五十路を超えていた。
だから、玉呼は一人っ子である。その為、私が徒手の項増を妻問いさせた時は、項権の妻問いの時のオミナ(鬼水)族のヤソメ(八十女)族長やオミナ(於美奈)軍団長と同じように大喜びされた。そして、項権が鬼水族の頭領であるように、徒手の項増も今は三珠族の頭領である。
二人には、ククチ(菊智)という息子とタマミ(霊魅)という娘がいる。もちろんこの兄妹も祖父祖母(じじばば)っ子である。何度もいうが祖父祖母っ子は良い子に育つ。祖父ちゃんと祖母ちゃんが注ぐ愛は深い。そういう訳で、祖父祖母っ子には不安が少ないのである。
たとえ前途が不安に塞がれかけても振り返れば、いつでも祖父ちゃんと祖母ちゃんが見守って居てくれるのである。だから、大丈夫。いつでも「ナンクルナイサー」と自然に前に進めるのである。
霊魅はまだ五歳である。でも、剣の項権と徒手の項増は、既に互いの息子と娘を添い遂げさせることに決めている。もちろん両方の祖父ちゃんと祖母ちゃんも大賛成だし母親のトヨコ(豊呼)と玉呼もそう決めている。だから、ホミナ(豊美菜)と霊魅が行かず後家になる可能性は無い。同じ祖父祖母っ子なのにそこが私と大いに違うのだ。嗚呼、困ったものである。
徒手の項増は、捨て子だった。筑紫乃海の浜辺に捨てられていたのを項増の養母が拾ってくれたのだ。どうやら葦の小舟に乗せられて流されたようだ。狐の皮衣に包まれ首には瓢箪のお守りがただひとつ。
ただそれだけ……。ただそれだけが項増の人生の始まり。項増の養父と養母は高齢だったので、物心がついた時には、項増にも二人が実の父と母ではないと分かった。でも項増は、養父と養母のやさしさに包まれて育った。だから、淋しくは無かったし自分の生い立ちを知ろうとも思わなかった。
もし、ふと淋しさに襲われそうになったら「ダイセンジガケダラナヨサ」と呪文を呟くのだ。そうすればもう大丈夫。最初から何もないのだ。この淋しさだって幻なのだ。「俺は失うものなど何も持ってない」そう自分に言い聞かせるのであった。
養父と養母の二人は項増にマスオ(益魚)という名をつけてくれた。ただそれだけが項増が失いたくないものである。氏名(うじな)などは無い。ただ益魚だけである。「おい~マスオ」「何ね。爺ちゃん」「マスオや~い」「何ね~ぇ。婆ちゃ~ん」という具合である。
項増の養父と養母は貧しい海辺の民だったのである。それに項家一族では無い。だから、氏名などはないのだ。しかし、その養父母も益魚が十三歳の時に添い遂げるかのように続けて亡くなった。形見は、項増につけてくれた名前益魚だけ。二人はそれ程に貧しく、そして高齢だったのだ。
それから、天涯孤独になった益魚は、悪党の仲間に入り悪事に手を染め生き延びてきた。ある年、益魚は悪党の仲間と項家軍属の荷を襲った。身の程知らずの愚連隊である。悪党の仲間はあっという間に、項家軍属に打ち殺されてしまった。しかし、益魚だけは、どうにか項家軍属の手練れ達と互角に打ち合っていた。
だが、流石に徒手の項佗には勝てなかった。だから、打ちのめされ項家軍属の手練れ達に簀巻きにされた。そして、海に放り込まれる前に項佗が「お前が死んで泣く者は居るか」と聞いた。益魚は、ぶっきら棒に「ツクシノウミの魚達が喜ぶだけだ」と答えた。
項佗は、しばらく考えていたが簀巻きの縄を解くと「俺の後に付いて来い」とだけ言った。その日から益魚は徒手の項佗の弟子になった。しかし、項佗が徒手の師匠とはいっても、益魚と項佗は二歳しか違わなかった。だから、益魚にとって師匠の項佗は兄貴分でもあった。
益魚が十八歳に成った頃、項家軍属には、項佗以外で益魚に勝てる者が居なくなった。益魚は死に物狂いで修練をしたのだ。徒手の腕を磨くのは、益魚に取っては、生きる為のただ一つの目的でもあったのだ。
徒手だけが捨て子で天涯孤独な益魚の友でもあった。砂地や岩を打ち続けた益魚の拳は、ごつい手を作った。しかし、意外にも器用な手でもあった。きっと幼い時から網を繕い育ったからであろう。
それに首に巻いていた瓢箪のお守りも見事な木彫り細工だった。だから、それを見て木彫りを教えてくれる者や、竹細工、革細工、骨細工など様々な細工物を教えてくれる者が出てきた。そして益魚の飲み込みは早く仕上がりも見事だった。
それに一度目にしたものは何でも作ることが出来た。但し長い間じ~っと見ているのである。七歳の頃そうやってじ~っと見ていて藤蔓の小さな籠を編み上げた。村人は、感心しきりで養父母でさえも驚いていた。
項家軍属の見習いに成って間もないある日、益魚は革のサンダルを作り女族長の夏希義母ぁ様に捧げた。異人が履いていた革のサンダルをじ~っと見て作ったのだ。それも異人が履いていた物より数段美しかった。アケビの蔓で染色した黄緑色のサンダルは、梅雨空も吹き飛ばしてくれそうな位に素敵だった。
初めて出会った十六歳のあの日から、益魚は夏希義母ぁ様に幻の母を重ね憧れていたのだ。夏希義母ぁ様はこの贈り物を大層喜び、そして益魚の隠された才能に驚いた。そこで師匠の項佗と、益魚を項家の一族に加える相談をしたのだ。
そして、益魚は項佗一家の養子と成った。だから、益魚に取って師匠の項佗は兄に成ったのである。因みに、項佗の一家は、阿多国の項家の一員である。だから熊人の同族である。
益魚が阿多国の項家の一員に成った際、夏希義母ぁ様は、益魚に項増の名を与えた。音と文字を益魚から増雄に置き換えゾウ(増)としたのだ。それに夏希義母ぁ様から氏名(うじな)も貰ったので項増である。
それ以来シマァ(斯海)国では、皆が益魚を徒手の項増と呼ぶように成ったのである。だから、項増にとって夏希義母ぁ様は、生きて目にすることのできるただ一人の母であった。それに、実子の助べえナツハ(夏羽)より、百倍真面目で百倍賢く、百倍頼りがいがあるのである。そして私にとっても四歳年上の頼りがいがある兄貴である。
でも、愚兄の夏羽も、近頃はラビア姉様と希蝶のおかげで少しは頼りがいのある頭領に成って来た。とも一言、一応付け加えておこう。しかし顔を合わせると「嗚呼、可愛い妹ピミファよ。夫はまだかい。えっ、夫はまだかい」と口うるさくて閉口しているのである。まぁ親代わりの兄として心配しているのだろうが、私の一存ではどうこうなる問題ではない。心配するなら夷洲(台湾)の先でもヂュヤー(朱崖)の先でも行って来て、私の夫を捕まえてきて欲しいものである。夷洲や朱崖の先でも無理ならフーナン(扶南)国やピュー(驃)国まで足を延ばせば良い。船ならアマノレラフネ(天之玲来船)の二番艦がある。鞍耳船長頼んだよ。
「どぉ~うも?! 温泉」は思っていたより容易く見つかった。近衛二十四人隊は手際良く湯船を作り、五十人以上はゆるりと長居出来る仮屋を建てた。仮屋とはいえ数年は持つ筈である。その間に投馬国に暮らす人々が本格的な湯治場を開くことだろう。この仮の湯治場には、情報をもたらした山師の一団も招待した。彼らはジンハン(辰韓)人と阿人が交わった種族らしい。だから、私がジンハン国の姫でもあると分かると沢山の山の幸を持って集まってくれた。それから、連夜の大宴会が続いた。
三長老は隠居の身であり、私も似たような身である。だから、時間はたっぷりあるのだ。いっそヒムカと宇津彦の祝いの席が開かれるまで、一月余をこの「どぉ~うも?! 温泉」の湯治場で過ごそうという話でまとまった。それに湯の質がとても良かった。だから、三長老も「こりゃぁ~長生きが出来そうばいねぇ~」と喜んでいた。
そんな様子で湯治を楽しんでいる私達の噂は、たちまち周辺に広まり温泉好きの人々が集まり始めた。そして、麓の村人達が「こりゃ~冬場の良い内職に成りそうじゃわい」と、本格的な湯治場造りに乗り出してきた。それから、瞬く間に温泉街が出来上がった。そうなると「どぉ~うも?! 温泉」というのも変なので、村人達は、高牟礼様の名をあやかって、イノムレ(命牟礼)の湯と呼ぶことにした。
命牟礼の湯に大勢の人が集まって来ると、ただ湯に浸かり夜毎に宴会を開いていても連日のことなので飽きてくる。そこで、各村の芸達者が集まって、様々な芸事が始まった。佐留女の舞は村々の若衆の目をくぎ付けにしたが、中でも一番人気なのが、剣の項明の講談である。
キツネ目で切れ長の目をした項明は姿ぶりも清々しい。それに寡黙な徒手の項増と違い雄弁な上に話し方も面白い。項増の細工物教室も人気は高く掘っ立て小屋では入りきれなくなっていた。もちろんリーシャンの料理教室も盛況である。温泉街で小料理屋を営もうと思っている商売人に加えて、海辺のおかみさん達や、山間のおかみさん達も生徒の列に加わっている。そして、授業料は持ち寄りの食材なので私達の食もこと欠かない。
しかし、何といっても項明の講談人気は群を抜いている。特に娘達からの人気が高く毎回おしゃま娘達が前の席を占拠している。何しろ剣の項明は項家二十四人衆の中でも貴公子と呼ばれている美丈夫である。その上タケル(健)にも劣らない美形である。だから、おしゃま娘から婆ちゃん達まで女性人気は幅が広い。
しかし、剣の項明には既に私がヤメツ(八女妻)を妻問いさせている。八女妻は私より七歳若い。だから、項明とも七歳違いである。それに八女妻は香美妻の従姉妹だから飛び切りの美人である。もし類まれなる詩人がいればその姿を「明眸皓歯」と詠うだろう。であるから、私からの妻問いの沙汰に不満がある筈もない。万が一にでも私のこの沙汰を拒めば、項明は即座に簀巻きである。
もちろん簀巻きにするのは私ではない。ヤマァタイ国の若衆が総がかりである。そして、当然ではあるが須佐人がニヌファ(丹濡花)を拒まなかったように項明も喜んで八女妻を妻にした。今では項明と八女妻の間には、セタカ(畝鷹)という息子とシラキ(白亀)姫、クロキ(黒亀)姫という双子の娘を授かっている。
白亀姫、黒亀姫はまだ幼子だが光り輝く黒玉(こくぎょく)、白玉(はくぎょく)である。貴公子項明の気品を一身に受け取った双子である。同じ双子でも私とユナ(優奈)は、容姿も性格も違っていた、でも白亀姫と黒亀姫は、どちらが黒玉で、どちらが白玉であるか私にはまだ見分けがつかない。
二人とも色白で黒々まんまる目玉の愛らしい娘なのだ。いずれにしても二人が倭国の碧玉であることは間違いない。大きくなればきっと連城の璧(へき)と成ろう。でも十五の城位では手放せない。少なくとも三十の城付きでなければ二人の妻問いは受け入れられない。そうなると何処の王子様に嫁がせるかである。良ぉ~し!! 帰ったら早速香美妻と算段を始めなければいけない。二人はセオリツ(世織津)と同じ歳である。だから、もう十二~三年も過ぎれば嫁に出さないと行けないのである。
でもその前にまずは希蝶だ。希蝶は四歳年上なのである。そうそうナラツ(菜螺津)は一歳上だった。嗚呼チュクム(秋琴)もいた。チュクムは七歳年上なのだ。私もすっかり伯母さんである。自分の子も授かっていないのに可愛い娘達の嫁入りの心配をもうしているのである。嗚呼どうしよう。困ったものである。
項明が貴公子と呼ばれるのはその容姿からだけではない。項明は、項家四支族の跡取りの一人なのである。各項家の元は項家三兄弟である。総本家は阿多国項家であり今の当主はハク(伯)爺である。そして跡取りは熊人だ。
斯海国項家の当主は私の愚兄夏羽である。残りの二支族は、項家三兄弟の長男シャンイェン(項燕)から分かれたドイマァ(対海)国とチュホ(州胡)の項家である。剣の項権は対海国項家の出だがその中の分家筋である。
対して弟分の剣の項明は、州胡項家の跡取りである。州胡項家は項燕の息子シャン・ジー(項鶏)が州胡で興した項家である。その孫リャンナ(梁那)の時からは州胡の三氏族の一つであるリャン(梁)一族を名乗っている。
そして、項明の本名はリャンミョン(梁明)というのである。父上は、私が州胡の海賊王会議でお会いしたリャンチュル(梁乙)様である。しかし、二人の親子関係はあまりうまくいってないようである。何が原因でどう上手くいってないのかは分からない。この話を私にしてくれたガオリャン(高涼)もそこまでは詳しく知らなかったようだ。
今のチュホの三氏族の跡取りは、高涼とリャンヨン(梁燕)とフーヂェン(夫貞)である。そして、梁燕と剣の項明は双子の兄弟である。剣の項明こと梁明の方が兄なので、幼い頃は項明の方が跡取り扱いだったらしい。でも二人の母が亡くなった後、剣の項明こと梁明は家を出たそうだ。そして、同じ項家三兄弟の長男項燕の末裔である項権を頼ったようである。それから先の話は高涼も良く知らないし項明も語りたがらない。
兄貴分の項権は一部始終を知っているようだがそれを人に吹聴するような人柄ではない。だから、剣の項明こと梁明は長い家出中である。いつの日か父の梁乙様と和解し梁明に戻るかも知れないが今は定かではない。私には当分剣の項明で居る気がする。
人格は、本家だから分家筋だからといって決まる訳ではない。項家に限っていうと総本家の熊人は粗忽者である。夏羽も同じように危うい。私の見立てでは項家の中の人格者筆頭は項権である。項権は誰よりも思慮深く頼りがいがある。どことなくイタケル(巨健)伯父さんに似ているのだ。だから、項明は項権を兄と慕っているのだ。
同じように項明を私の身内に見立てると項明はアタテル(阿多照)叔父さん似だ。巨健伯父さん程の威厳はないが、明るく誰からも好かれて頼られる。
項家人格者二番目は徒手の項増である。総本家跡取りの熊人にも項増を手本にするようにと常々言い聞かせている。だから熊人も項増を亜父と呼んで頼っている。早くに父を亡くした熊人は心から項増を父代わりにしているようである。これも夏希義母ぁ様からのかけがえのない遺産である。
イノムレ(命牟礼)の湯の湯治場造りに一番貢献した槍の項作は、生粋の斯海国項家の男である。だから、夏希義母ぁ様の秘蔵っ子だった。夏羽も六歳年下の項作を弟のように可愛がっている。だから性格が似通っている。人懐こい性格で誰とでも打解けるのが早い。でも夏羽や熊人と同じ粗忽者の血が伝染している。
但し、熊人もそうだが夏羽の助平が伝染していないことだけが救いである。だから、夏羽の助平が伝染しないように、槍の項作には、ミヤキ(巫谷鬼)の巫女の司ヒトコ(仁呼)を妻問いさせた。仁呼は高木族の娘である。だから、槍の項作とは泉水湾を挟んで隣どうしの生まれである。
仁呼の兄コナガイ(固南貝)は槍の項作と同じ歳である。だからきっと二人は幼い頃、泉水湾の中程に小舟を漕ぎ出し、石合戦を繰り広げていた筈である。「こっから先は、オイ(俺)達ちん海やけ、来らせ~ん。バ~カタレ~」「何ば言いよっか。ワガドン(お前達)の帆影がオイ(俺)達ちん海に入りこんどるやないか。こんちくしょ、これでも喰らえ~」と小石を投げ合うのである。
これは、悪童達の困った遊びである。でも互いにそれが楽しいのである。もちろん小石でも当たると痛いので双方とも当たらないように威嚇的投石を心がけるのである。しかし時折当たってしまうこともある。すると「こら~何ばするとかぁ~当たったやないか。あ~痛た。そんなら、これで仕返した~い」と泳ぎの達者なのが数人海に飛び込むのである。
そして、敵方の舟縁を掴むと揺すって脅かすのである。悪童達の中には女の子も混じっているし年少の子も居る。だからその子らが「ぎゃ~、えずかぁ~(怖い)」と怯えるのである。すると敵側からも泳ぎの達者なのがドボ~ンと海に潜り、舟底から小舟を揺するのである。今度はこちらが「ぎゃ~、えずかぁ~(怖い)」と怯える番である。
でも実は女の子も年少の子も「えずく(怖く)」はないのである。この子らは生まれた時から海人(うみんちゅう)なのだ。多少舟が揺れる位なら楽しいのだ。私なら転覆する位に揺らして欲しいものである。
そんな遊びを数回繰り返し日が傾き始めたら「今度は許さんけんねぇ~」と言い合いながら、双方ともギッチラギッチラと櫓を漕ぎそれぞれの村の浜辺に帰るのである。きっと槍の項作とコナガイ(固南貝)もそうだったに違いない。特に項作はそんなやんちゃ坊子さが抜けていない。だから悪友も多い。
項家四人衆 | 師匠 | 妻問い | 子供 |
剣の項権 | 剣の項荘 | オミナ(鬼水)族のトヨコ(豊呼) ミフジ(巫浮耳)の巫女の司 | ヤソカシ(項八十柏) ホミナ(豊美菜) |
徒手の項増 | 徒手の項佗 | ミタマ(三珠)族のタマコ(玉呼) ミツマ(巫津摩)の巫女の司 | ククチ(項菊智) タマミ(霊魅) |
槍の項作 | 槍の項冠 | タカキ(高木)族のヒトコ(仁呼) ミヤキ(巫谷鬼)の巫女の司 | 小春・奈華里 井佐里・宇良 |
剣の項明 | 剣の項権 | ミヤマ(三邪馬)族のヤメツ(八女妻) ミイト(巫依覩):内宮の巫 | セタカ(畝鷹) 白亀姫・黒亀姫 |
梅の花が咲きほころんだ前庭には朱塗りの台盤が置かれている。そこに、宇津彦とヒムカが並んで座っている。そして、ヒムカの横には何故か私も並んで座っている。当初ヒムカは、ささやかな祝いの席を望んでいた。しかしホオリ(山幸)王はそれを許さず大饗を主張した。可愛い姪の祝いである。何でささやかで良いものか。というお気持ちだったのだ。
しかし、ヒムカは先立たれたアソ(吾蘇)様とソツヒコ(蘇津彦)、ミケヌ(巳魁奴)のことを慮り大饗を控えたかったのだ。しかし、知恵者の王である。まずは、九歳の蘇津彦と七歳の巳魁奴に有りのままを告げ「母ぁ様の幸せをどう思うか。お前達に相談したいが良いか」と問われた。
蘇津彦は「母の幸せを望まぬ息子はおりません」と答え、巳魁奴は「じゃぁ私にも弟か妹が授かるんですね」と喜んだ。更に王は「日巫女様の祝いの席も同時に行いたいと、投馬国の三長老からも相談されておってなぁ」とヒムカに告げた。そして、「ホオミ大将がなぁ。どうしても大饗宴で祝いたい。と言うのじゃ。どうじゃ。駄目かのう」と迫ったのである。
もちろんここまで攻め込まれればヒムカに勝ち目はない。蘇津彦と巳魁奴と投馬国の三長老と火尾蛇大将の悲しむ姿は、ヒムカには耐えられない。それに宇津彦も既にホオリ(山幸)王に籠絡されていた。ということで私も朱塗りの台盤の前にちょこんと座っているのである。
そして、私達の台盤の前には沢山の円卓が並んでいる。海が見渡せる丘の広場は見渡す限りの人の波である。前列の円卓には、ウス(臼)王にククウォル(朴菊月)姉様。ミソノ(美曽野)女王に夏羽やラビア姉様など倭国連合の代表団の姿が見える。
前列の左の円卓にはハハキ(蛇木)様を始めとしたイズモ(稜威母)やコシ(高志)の方々の姿が見える。そして、前列の右の円卓は伊穂美王の五国の代表団だ。後列には狗奴国や投馬国の人々が大勢居る。幾百の人が居るのだろう。まさに大饗である。
はじめに、主催者を代表して高牟礼様が私の全快を報告され、皆に礼を述べられた。それから、秦倉耳様が、宇津彦がヒムカの婿になる報告を述べられ、佐留志様が皆に礼を述べられた。佐留志様の声は少し潤んでいるようだった。そして、美曽野女王が祝いの言葉を私とヒムカに贈っていただいた。
私はふと眼を潤ましそうになった。すると「さぁ、皆の者、大饗宴を始めようぞぉ~」と、天をも突き上げる火尾蛇大将の大声が会場に響き渡った。ホオリ(山幸)王とアサラ(吾佐羅)様は、ヒムカの親代わりとして各円卓を廻られ、佐留志様と宇津女さんは、宇津彦の親として各円卓で礼を述べられている。
私には、臼王とククウォル(朴菊月)姉様が親代わりになってくれたようだ。父様やスロ(首露)王の姿はここには見えないので、臼王が「アダラの兄貴」の代りを務めてくれたのだ。
そして、宴会の花は佐留女である。宇津女さんは接待に忙しいので、踊り連はアチャ爺が率いている。そして、その踊り連の花が佐留女なのだ。ラビア姉様は六歳に成った希蝶と一緒に踊った。希蝶の初舞台である。踊り終わった希蝶は、今私の膝に上でリーシャンの料理に舌鼓を打っている。
サラ(冴良)、フラ(楓良)、レラ(玲来)のおしゃま娘もすっかり色香が漂い、その踊りは既に天女の舞である。そして、佐留女の二度目の舞が始まると、大饗は最高潮に達した。そして、遅れてタケル(健)がやってきた。健が姿を見せると、大饗の怒涛のうねりは影をひそめ中ノ海のように静まった。
健は、やはり現つ神(アキツカミ)であった。健派の娘達はいうに及ばず日子耳派の娘達もその明星に声を失い見惚れた。健は「父上遅くなりました」と王に挨拶すると火尾蛇大将と杯を交わし始めた。
それから朱塗りの台盤に歩み寄ると「ヒムカ姉様、ウズヒコ様おめでとうございます。ピミファ姉様もお元気に成られたようですね」とやさしい声で私達に言葉を掛けてきた。そして私の隣に座った。すかさず希蝶が私の膝から健の膝に乗り換えた。そして、「私はキチョウと言います。六歳です」と挨拶している。夏羽の血だろうか? 素早い動きである。
健派の娘達は羨ましそうに希蝶の姿を見ている。ヒムカが吹き出しそうになり「本当に、キチョウはピミファの血を引いているの?」と聞いてきた。そして私をじっと見つめて「ピミファもキチョウを見習ったが良いよ」と言い加えた。反論を考えたが思いつかない。その通りである。いつだってヒムカの私への観察眼は正しい。でも良いのだ。これなら希蝶が行かず後家になることはなさそうである。
私は同志志茂妻の袖を引き同意を求めたかったが、残念ながら志茂妻はここに居ない。香美妻が祝いに駆けつけたので、今は志茂妻がヤマァタイ国女王代理の代理なのだ。それに才女志茂妻は妻問い等には関心がない。愚かしい男の妻などになる暇はないのである。もし志茂妻が婿を取るなら加太を超える男だろう。だから現世ではそんな男は現れそうもない。それにしても加太はどこまで行ったやら……?
祝いの大饗宴は七日七晩続いた。七晩目の朝未き健が私の寝屋に素早く忍び込んできた。そして私の衾(ふすま)に身を滑らせ私を見つめた。私はあっと小さく声を上げそれから目をゆっくりと閉じた。
~ 筑紫乃海に野分き立つ ~
突然「クシャン!!」と、くっさめが出た。きっと誰かが私を褒めているのだ。そうだろう。そうだろう。だって、私は賢いのだから。すると「キシャ~ン!!」と、二度目のくっさめが出た。きっと誰かが私を憎んでいるのだ。どうしよう。私、誰かに嫌なこと言ったかしら。私って無神経な所があるからなぁ。嗚呼どうしよう。更に「アチュー!!」と、三度目のくっさめが出た。やったぁ!! きっと誰かが私に惚れたんだ。そうだろう。そうだう。だって、私はこんなにも良い女なのだから。世の男共が惚れても不思議ではない。えっへへへへ……でも「ハクション」と、四度目のくっさめが出た。嗚呼何~だ。風邪(ふうじゃ)か。がっかり……卵酒でも飲んで早く寝よう。
でも季節はもう夏である。夏の風邪は治りが遅い。こじらせないように早めに治さないと酷い目にあう。私も二十八歳なのだ。もう若くはない、だから、回復力も衰えている筈だ。それにジンム(仁武)に移しでもしたら大変である。きっとタマキ(玉輝)叔母さんに叱られてしまうだろう。
ニヌファ(丹濡花)は昨年春、お祖母様から巫女の力を授けられた。だから、須佐人の子胎穢土とセオリツ(世織津)を連れて阿多国で暮らしている。その為須佐人は、イズモ(稜威母)やコシ(高志)と阿多国を行ったり来たりしている。
ヒムカは祝いの大饗宴が終わると直ぐにナカングスク(中城)に戻り伊依乃島の復興に乗り出した。復興団の役目は、伊依乃島の新たな開拓だ。ヒムカの夫となった宇津彦は、五百名近くの開拓団を組織した。その中の半数以上がマハン(馬韓)系の農民である。サルタ族はマハン国からの移民である。だから、ウネ(雨音)のような農家が多い。
伊依島南岸のコウチ(河内)には牟田が広がっていた。そこを水田に変えようという計画である。開拓団の団長にはウラト(宇羅人)というまだ二十歳の青年を選んだようである。そもそもこの開拓団は二十歳前後の青年達で構成されている。投馬国や狗奴国の年寄り達は「そんなに若衆を送りだしたら、投馬国や狗奴国が爺婆ばかりに成りはしないか」と心配したようだが宇津彦は、伊依島に新しい国を作る位の気概で臨もうとしているようだ。
喩えればシューフー(徐福)の小さな開拓団のようなものである。宇羅人は若いがウネが太鼓判を押している農家である。宇羅人は物心が付いた時からのウネの弟子である。だから、宇津彦は、宇羅人を団長にすることに何の迷いもなかったのである。
それに伊依乃島には、チチカ(月華)姫の使え人だったイチミ(壱未)とヒムカの乳母だったソイラ(粗衣螺)の一族が待っているのである。加えて伊依乃島の民は、マハン人ヨサミ(依佐見)の一族と南洋民の混血集団である。だから、人の争いが起きる危惧はない。
開拓団の最大の敵は自然である。しかし、この春ヒムカの元には壱未復興団団長より開拓団の作業も順調であると知らせが届いたようだ。コウチ(河内)に復興の足がかりが出来れば次はアタテル(阿多照)叔父さんの出番である。今、ヒムカは阿多照叔父さんと田家イサナ(勇魚)漁団を組織しようとしているようである。
それから、ハイムル(吠武琉)は去年の田植え歌を、娘をあやしながら聞いていた。もちろん名はロウラン(楼蘭)である。ポニサポの産後の肥立ちも良くシュマリ(狐)女将も安心しているようだ。
初夏にポニサポがロウラン(楼蘭)を産んだ後、暮れにはヒムカが宇津彦の子を産んだ。名はイツセ(伊襲狭)である。伊襲狭は伊依乃島の復興に忙しい両親に代わり、蘇津彦兄ちゃんと巳魁奴兄ちゃんが面倒を看ているようである。十歳に成った蘇津彦は、常に伊襲狭をおぶってあやし暮らしているようだ。そして時々八歳の巳魁奴兄ちゃんも替わってくれるらしい。三人は親に頼らず三兄弟で生きていく覚悟のようである。見上げたものである。蘇津彦兄ちゃん頑張れ!!
伊襲狭を産んだヒムカは産後の肥立ちが終わると、もう伊依乃島と狗奴国の間を頻繁に行き来しているようである。宇津彦は更に忙しく、いよいよ投馬国の祭り事(政務)からも手が離せなく成ってきているようである。
それに引き換えると健は優雅である。ほぼ一日書を読んでいるか弓を引いているかである。ニシグスク(北城)の祭り事(政務)は皆臣下達がこなしている………ようにも見えない。健の臣下はまるで神官のようである。では民の暮らしは誰が統制しているのだろう?と、観察していたらどうやら各村の村長がしっかりしているようである。やっぱり健は現つ神である。だからここニシグスク(北城)は神の国のようである。メタバル(米多原)の館で悪戦苦闘している私は何だったんだろうと思ってしまう。
健の弓は正射必中である。矢が的を外れたところを私はまだ見たことがない。百発百中なら面白みがなくなる気がするけど、それも意に介していないようである。ただ、ただ、一射、一射、静かに弓を引いているのである。私が「それだけ上手なのに何で練習をするの?」と聞いたら「弓を引いていることを忘れるまで続けます」というのである。やっぱり現つ神とも成ると大変人である。
私は、ウネ(雨音)とアルジュナ少年と健の誰が変人大将だろうと考えを巡らしている。そして、三人とも甲乙つけがたいのである。そう竹簡に書いて香美妻お姉ちゃまに送ると「如何にも不可解ハハハハ……」と書いて送り返してきた。
私は今年の初めに子を産んだ。健の子である。名はフク(福)爺がジンム(仁武)と名付けた。そして今私は、仁武と健と三人で、ニシグスク(北城)で暮らしている。ヤマァタイ国の女王は正式に香美妻お姉ちゃまに禅譲した。そもそも女王の仕事は、香美妻お姉ちゃまがこなしていたのである。だから、ヤマァタイ国の祭り事(政務)には何の支障もない。私は志茂妻と香美妻お姉ちゃまの助手をしていただけである。
そうそう、助手二号の志茂妻は突然夫を持った。それも何とその夫はオマロ(表麻呂)船長である。確かに表麻呂であれば加太に匹敵する知恵者である。志茂妻が急に婿選びを思い立ったのは、私と健のことが呼び水に成ったのかも知れない。
そして、もう一人呼び水に引かれた者がいる。佐留女である。佐留女も突然日子耳を夫にしたのである。もちろん投馬国の三長老は大喜びである。実は佐留女の思い人は健だったようである。そして、日子耳の思い人は佐留女だったのである。豊月女は、喜んでいいのか悲しむべきなのか思案中である。まぁ思う存分思案に暮れると良い。豊月女は恋する乙女なのだ。恋する乙女はそうやってだんだんと美しく成っていくものである。
私の産後の肥立ちの世話は、玉輝叔母さんがやってくれた。仁武もすっかり玉輝叔母さんに懐いている。抱かれ心地などは、やっぱり玉輝叔母さんの方が数段に良いようである。もちろん、幾人もの子を育ててきた玉輝叔母さんに私などが勝てる訳もない。ましてや健もヒムカも、そして私も玉輝叔母さんが母代わりなのだ。だから、親子二代に亘る抱かれ心地の良さなのである。
仁武は、首も据わり目も見えるように成ってきた。そして、玉輝叔母さんと目が合うと嬉しそうに笑う。私に対しては、お乳をあげる時以外は仏頂面である。姿形は健似で徐家の男である。しかし、その仏頂面の奥にある眼差しは私似で頑固者のようである。這い這いをしながら時折じろりと後ろを振り返る陰険な眼差しも玉輝叔母さんの話では私にそっくりらしい。困ったものである。
佐留女は、見た目が健似の仁武をとても可愛がってくれる。しかし、佐留女は、仁武が私に似て意地っ張りでお転婆で頑固者であることをまだ知らない。佐留女と日子耳にはまだ子はいない。でも玉輝叔母さんの見込みでは「来年には子を授かるだろう」ということだ。神様は、玉輝叔母さんにだけは誰にいつ子を授けるかを教えてくれるようである。
ジンハン(辰韓)国から便りが届いた。父様からの祝いの便りである。そしてひと振りの剣と沢山の錦が添えられていた。剣は仁武にであろう。そして錦は私の花嫁衣装かも知れない。父様は娘とは縁が薄い方である。だから娘への接し方が不器用なのだ。
錦はナリェ(奈礼)王妃が選ばれたに違いない。男には無い繊細な柄選びである。錦の量は父様が決めたようだ。アマノレラフネ(天之玲来船)の船体を全部錦で覆ってもまだ余る量である。とても私一人で着られる量ではない。だから、大半を希蝶とチュクム(秋琴)に贈ろう。そして「ほらほら、祖父ちゃんから贈り物だよ」と伝えてあげよう。
父様は私の好みなど知らない。私は錦より皮衣の胡服の方が好きである。だってキャラバン隊には胡服の方が便利である。でも仕方ない、親心だけは貰っておこう。私も、もう一児の親である。そして、私がとても嬉しかったのは、甥っ子が出来た便りだ。父様も嬉しそうである。竹簡の墨がいくつも垂れている。力が入り過ぎて墨の加減が取れていないのである。筆達者の父様にしては珍しい筆の誤りである。
名は、ネへ(奈解)というらしい。ネロ(朴奈老)様を思い出させる名だ。母のチヨン(金智妍)も元気そうである。チヨンはネロ様の孫である。だからネへはやっぱりネロ様の血を引いている。父様とネロ様の血を引いたのだ。だからネへには大王になる素質が備わって居る筈である。私は、たった一人の甥っ子ネへにとても会いたくなって来た。
うだるような暑さの中で百日紅の赤い花が風にそよいでいる。暑さを忘れさせてくれるような可憐な姿だ。その紅花が散りかけた頃、大きな台風が筑紫之島を襲った。どうやら南西から北北東に抜け上がり中ノ海から鯨海を北上したようである。
幸いニシグスク(北城)では大きな被害は出なかった。館の庭木が数本薙ぎ倒された位だ。もちろん茅葺屋根や藁葺屋根は殆ど剥ぎ取られてしまった。しかし人々は事前に岩屋等に避難していたので人災は出さずに済んだ。でも各住居の修復は大変だ。だから、館の大広間は避難民でいっぱいである。
健はニシグスクの食糧庫の鍵を全てリーシャンに渡した。そしてリーシャンの炊き出し隊は、周辺の村々も飛び回ったので飢えに苦しむ民はいない。メラ爺は、山の猟の狩り枠を広げニシグスクの食糧庫に蓄え始めた。そして稲の被害も少なかったので、皆で木の実拾いに精を出せば、今年の冬も乗り越えられるだろう。
しかし、台風の直撃を受けたクラジ(鞍耳)族の領域は大変であった。特にキクツ(企救津)の被害は甚大なようである。ヒムカと宇津彦は伊依乃島に出かけていたので、復旧の陣頭指揮は火尾蛇大将と日子耳が取っている。
台風の被害がなかったハイグスク(南城)からは、ホオリ(山幸)王が全面支援の王命を発している。だから物資面では困るまい。しかし人的被害はまだ掴めていない。私は企救津や宇沙都の民には、ただならぬ世話をかけている。だから、人的被害の全容が分かるまで気が気ではなかった。数日後、火尾蛇大将より、「怪我人多数。されど死者無し」と一報が入り私は安堵のため息をついた。
それから十日が経ち私は膝から崩れ落ちた。アチャ爺からの竹簡には「野分立つ。ヤマァタイ国壊滅。カミツ安否不明。直ぐ帰国せよ」と有った。そして夏羽からの竹簡には「野分立つ。シマァ国壊滅。ラビア・キチョウ安否不明」と有った。更にウス(臼)王からは「野分立つ。イミ国壊滅。イナ国被害甚大。ミソノ女王倒れる」と有った。私は健に抱きかかえられていなければ気を失い倒れていただろう。
健は、急ぎ牛馬をかき集め私の帰国部隊を編成してくれた。そして、クシ(都支)国から、イヤ(伊邪)国に出て千歳川を下る帰路を確保してくれた。仁武は、佐留女が看てくれることになった。私は、玉輝叔母さんとリーシャンを、近衛二十四人隊の輿に乗せると牛馬より早く山を駆け下りた。
項権も、項増も、項作も、そして日頃はおしゃべりな項明でさえ一言も口を利かず帰路をひた走りに駆けた。イヤ(伊邪)国で千歳川の河原に降りると、既に、五艙組み五列の筏が待っていた。その五列の筏に、健が用意してくれた牛馬と資材を全て積み込んだ。更に健は、百名の護衛隊を付けてくれた。皆屈強な若者達である。
筏は急流をせわしく降り下りイハシ(已百支)国に入ると流れはやっと緩やかになった。しかし、辺りには凄惨な光景が広がっていた。夏の緑田は全て赤土に覆われていた。流木は彼方まで散乱し建物は見えない。山肌はいたるところで身を裂いたように剥き出しで痛々しい。
已百支国からヤマァタイ国に入ると、私達はいったん右岸に上陸しミイト(巫依覩)を目指した。巫依覩はメタバル(米多原)の館と同じように高台にある。だから無事である公算が高い。そして巫依覩は、私のサイト(斎殿)であった。
以前なら巫女頭の香美妻が務めていた所である。しかし、香美妻は女王に成ったので、必ずしも巫依覩にいるとは限らない。泥濘の道を数時進むと巫依覩が見えてきた。どうやら巫依覩は無事なようである。
巫依覩に入ると項明の妻八女妻が迎えてくれた。項明は八女妻の無事な姿を見ると安堵し破顔しそうに成ったが耐えた。項権、項増、項作の妻子の安否はまだ掴めていないのである。そして他の二十名の隊士も皆不安に包まれている。しかし、普段は無愛想な徒手の項増が笑って項明の肩を叩いた。それから槍の項作も破顔し項明の肩を叩いた。師匠の剣の項権が眼で「行け」と促した。他の二十名の隊士も手を叩いて項明の喜びを後押しした。項明が私を見た。私も項権を真似て眼で「行け」と促した。項明はやっと安堵の破顔を浮かべ八女妻を抱き寄せた。
セタカ(畝鷹)と白亀姫、黒亀姫も無事であった。八女妻の報告では、香美妻女王は、やはり米多原の館に向かっていたようである。私も一刻も早く米多原の館に向かいたかった。しかし、氾濫した千歳川の濁流は未だ勢いが衰えておらず、とても舟を浮かべることなどは出来そうもない。伊邪国までは山に挟まれて川幅を保っていた千歳川も伊邪国の平地に出た途端に大暴走をしたのだ。そして、千歳川は幅を広げ、まるで干潟の海である。
私は巫依覩の祭り場に入り静かに目を閉じた。大丈夫。希蝶の羽音が聞こえる。ラビア姉様も無事だ。泥だらけの顔をした香美妻の笑顔も見える。ミフジ(巫浮耳)の巫女の司豊呼も、巫津摩の巫女の司玉呼も、そして、ミヤキ(巫谷鬼)の巫女の司仁呼も元気で各地の対策に奔走しているようである。
しかし、各斎場の巫女達の気は殺気立っている。それだけ各地の被害が大きいのだろう。他の隊士の一族も無事なようである。私が近衛二十四人隊にそう告げると皆の気力も戻ってきた。さぁ皆で前に進もう。
しかし、米多原への道は泥濘に覆われた干潟である。だから、物資を山と背に積んだ牛馬達も難儀を強いられそうである。すると近衛二十四人隊の隊士のひとりカワゾエ(川素恵)が妙案を申し出た。川素恵は、元は私と同じ海女である。しかし、私やヒムカが荒磯の海女であったのに対して、川素恵は筑紫乃海の干潟育ちの海女である。
川素恵は「物資を牛馬に背負わせず小舟に載せましょう」と言った。その小舟を牛馬に曳かせるのである。つまり小舟はそり(雪舟)である。更に槍の項作が車輪の付いた台座を作らせた。泥濘では小舟をそり(雪舟)として曳き、土が固まった道に出た時には、この車輪の台座に小舟を乗せ荷馬車として使うのだ。やっぱり私の近衛二十四人隊は頼もしい。
そして、川素恵は背に細長い板を背負っていた。潟そりというらしい。これなら泥濘に足を取られなくて進めそうである。もちろん玉輝叔母さんとリーシャンは小舟のそりに乗せる。だが、私は潟そりを使ってみたくて心が湧く湧くし始めた。これで泥濘が広がる荒れ野でも進める。
そして、三日をかけて米多原の館に到着できた。香美妻は居なかったが巫女の話では、カメ(亀)爺の館で奮戦しているらしい。私は、徒手の項増に玉輝叔母さんをカメ(亀)爺の館に送らせた。そして、もっとも難儀をしているだろう千歳川の川筋の村を復旧させる為に、項増の第二部隊八名に加えて健が付けてくれた百名の護衛隊を全て向かわせた。
一月の皆の奮戦でヤマァタイ国では、一応の落ち着きを取り戻すことができた。香美妻も米多原の館に戻り女王職に復帰した。更に斯海国から志茂妻を呼び戻し女王補佐として任に当たらせた。斯海国の復旧は道半ばにも至っていないようである。だが、琴海さんやソトメ(外海)族長など沫裸党の応援も駆けつけ奮闘していてくれたようだ。そして、希蝶とラビア姉様の無事も確認できた。
そこで私は、仁武と健が待つニシグスク(北城)に戻る前に、臼王に会うことにした。臼王は、今回の台風被害の全容を掴んでおられる筈である。そして何より美曽野女王の様態も気がかりであった。
私は、項権の第一部隊、槍の項作の第三部隊を伴い、山を越え伊都国に向かった。そろそろ各地では災害の後に付き物の治安悪化が始まっていた。しかし、近衛十六人隊に手向える規模の賊徒集団はまだいない。私達は、徒手の項増が編んでくれた革のサンダルを踏みしめて、秋の野山を進んだ。
伊都国の三雲の館は大きな被害もなく落着きを取り戻していた。臼王も還暦を前にされているが、そのことを感じさせない位にお元気だ。ラビア姉様は相変わらずお美しい。スヂュン(子洵)も十三歳の乙女盛りに成っていた。私は土産の首飾りをスヂュンの首にかけてやった。翡翠よりも深い碧の色石にスヂュンは目を細めて喜んでくれた。これは、メラ爺が、イゴ(為吾)国の渓流沿いから取って来てくれた色石である。だからとても珍しい色石である。
臼王の話では、明日か明後日には、フウノフラフネ(風之楓良船)が、東海貿易から伊都国に寄港するらしい。風之楓良船は、この航海が終われば、口之津の造船所で大修理を行う時期であった。しかし、口之津の造船所は、壊滅的な被害を被っている。夏羽からの知らせでは、復旧は春先に成りそうだ。
幸いアマノサラフネ(海之冴良船)は、大修理が終わり、口之津の造船所を出港していたので無事だった。現在、海之冴良船の船長はヤマト(倭)である。大修理を機に表麻呂は、船を下り倭が船長に成ったのである。隼人は、その倭船長の許で見習士官である。
今、表麻呂は倭国海軍の提督として造船所の復旧に追われている。だから、表麻呂提督と志茂妻は、まだ子を授かっていない。復旧がひと段落したら二人をイノムレ(命牟礼)の湯で養生させないといけない。そして、表麻呂の跡取りを作らせよう。倭には、おしゃま娘の三番目レラ(玲来)を妻問いさせていた。
そして十八歳に成ったおしゃま娘はもう一児の母である。倭と玲来の赤子はミナモモ(水桃)という名の娘である。徐家の血を引く娘なので赤子ながら既に美人である。しかし、おしゃま娘の血も引いているので……。もう暫らく経つとさぞかし賑やかな家に成ることだろう。狭山大将軍もすっかり祖父ちゃん顔である。
翌日の昼下がり、風之楓良船が伊都国の港に入港した。私は、高涼を労う暇もなく翌朝の出航を命じた。もちろん倭国の異変を目にした高涼と乗組員にも異議はなかった。翌朝風之楓良船は、臼王を伴って末盧国の佐志之津を目指した。佐志之津に入港すると、既に海之冴良船が停泊していた。私は、倭船長に投馬国から鯨海沿岸へ北上するよう命じた。既に、アマノレラフネ(天之玲来船)には、投馬国から中ノ海へ向い状況を把握すると共に、各族長からの要請があれば支援するように伝えている。秦鞍耳も一族の様子が気がかりな筈である。
美曽野女王の容態は思った以上に芳しくなかった。特に胸の痛みが強いようである。その痛みの為か美曽野女王のやつれ方は激しかった。以前から強い疲労感や倦怠感に襲われていたようだが、この災害を前にして無理を通されていたようだ。痩せた手を衾の脇から出され私の手を掴むと「ヒミコ様、お恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありません。しかし病には勝てないのでこのままで私の願いを聞き入れてください」と言われた。
そして、その願いとは私に「倭国女王を任せたい」というものであった。そこで私は「分かりました。ミソノ女王がお元気に成られるまで、女王代理を務めさせていただきます」と応えた。美曽野女王は、私の応えに安堵されたように目を閉じられ眠りにつかれた。
私は、臼王と相談し美曽野女王を伊都国の三雲の館に移すことにした。三雲の館なら、志茂妻を頻繁に往診させることができる。今は、加太から医術を学んだ志茂妻に美曽野女王を委ねるのが賢明である。私は、佐志之津の丘に急ごしらえのサイト(斎殿)を造らせ、美曽野女王の力を引き戻すように祈祷した。
そもそも美曽野女王は蘇りの術の力を持つ巫女である。だから、私の祈祷により少し容態を回復された。その回復を見届け風之楓良船で美曽野女王を三雲の館にお運びした。それから被災状況を確かめるために斯海国に向かった。
七歳に成った希蝶は、大人達に交じって瓦礫の後片付けを頑張っていた。私は泥だらけの顔を拭いてやり、スヂュンにあげた物と同じ首飾りを掛けてやった。希蝶は目を輝かせ首飾りを着物の中に仕舞い込むと「叔母様有難うございます。私、もうひと働きしてきます」と元気に駈け出した。
口之津の港町は全壊に近かった。風の被害も大きかったが、何より大雨による土砂災害が酷かったようだ。造船所も半分以上が土砂に埋もれている。剣の項荘、徒手の項佗、槍の項冠の三人の姿は見えなかった。三人は斯海国の各首領である。だから、各地で復旧の陣頭指揮に当たっている。久しぶりに三人との旧交を温めたかったが、今はそれも贅沢な話である。
ラビア姉様の話では、死者と行方不明者が五百名を超えているようだ。斯海国は一万余戸六万人の国である。だから多くの民が家族を失っているようである。行方不明者の多くは土砂の中か海の中である。しかし、日々の暮らしを取り戻すことの方が急がれるので亡骸はまだ眠ったままである。
その捜索隊をオホミミ(於保耳)頭領が組織し今斯海国に向かっているそうである。台風はコシキジマ(古志岐島)の西を北上してきたようなので、チカノシマ(値賀嶋)は無傷だったようだ。だから、漁を切り上げ百艘の支援舟団を組んでくれたようである。
衣食は、琴海さんと外海頭領が、サセブ(佐瀬布)沫裸党とソノギ(彼杵)沫裸党で掻き集め運び込んでいる。しかしひと冬を越すには足りそうもない。台風は、口之津から筑紫之海を荒らし上ったので、今年の稲の収穫は望めない。倭国の穀物庫でもあるヤマァタイ国が深刻な食糧不足に襲われれば、それは倭国中に広がる。狗奴国も投馬国の支援でゆとりはない。これは狗奴国や伊依乃島を襲った津波の被害に増して難題である。 加えて外貨獲得の城だった口之津の造船所が壊滅しているのだ。食糧不足に財政不足、そして治安維持と難題の山である。私は急ぎ米多原の館に戻り対策会議を開くことにした。だから、当分仁武にお乳をあげられそうにも無い。私の着物を虚しくお乳が濡らした。嗚呼、詩でも詠もうか。
稀人や 筑紫乃海に 野分き立つ
芦人呼ばいで 乳房寂しき
~ 悪しき実の益 ~
樒(シキミ)の木の葉が全部落ちた。樒の木は常緑樹だから枯れたのかも知れない。今年の冬は極寒と暖冬が激しく入れ替わったので根が疲弊したのかも知れない。花芽も枯れている。これでは、もし春になり葉が芽吹いたとしても実は付かないだろう。悪しき実を付けなければ結界は保たれない。そして、黄泉の国への入口は塞ぐことが出来ない。だから、樒の木の代わりになる塞ノ神(さえのかみ)を置かなければいけない。
もし塞ノ神を見出すことが叶わなければ、久那止神(くなどのかみ)を置こう。昔、黄泉の国を廻った大神は、桃の実を投げつけ黄泉醜女(よもつしこめ)等を防いだと聞き及んでいる。そうだ。桃の実を敷き詰めよう。そして、桃の花なら例年に増して咲きほころんでいる。幸い桃の木の丘は災害に遭わずに無事だった。
この冬、どうにか倭国は飢えを耐え忍び、春を迎えた。春を迎えラビア姉様は、伯父の白秋様に支援の使者を送ることにした。そして、やっと口之津の造船所が復旧できたので、風之楓良船は急ぎ大修理に入った。
大修理が済んだ後は海之冴良船の船長を隼人に代え、倭を船長に据える。将来倭国海軍を担って立つ倭には、ダウ船の操船も長けさせておこうという表麻呂提督の意図である。秦鞍耳は、投馬国に留まり中ノ海復興の陣頭指揮を執っている。中ノ海の民は伊穂美王の五国の民である。だからこの任は、秦鞍耳に取って宿命でもある。秦鞍耳を天之玲来船の船長から退役させたので、旗艦天之玲来船の船長には、高涼が赴任している。
ジンハン(辰韓)国やピョンハン(弁韓)国からの支援物資は、アヘン(金芽杏)がチュヨン(鄭朱燕)船で運んで来てくれた。ドキョン(東犬)も故郷の惨状に気が気では無かったようだ。アヘンの一行が中ノ海に向かってくれたので、天之玲来船を中ノ海より戻した。そして、ラビア姉様の書簡を携え白秋様の許へ向かわせた。
高涼は、チュホ(州胡)とポーハイ(渤海)にも足を延ばし、州胡の一族やシェンハイ(玄海)様の支援もお願いするつもりである。使節団の団長には須佐人を立てた。だから、須佐人が私の名代である。須佐人には、「時が許せば、チュクムの様子を見てきて欲しい」と内命をした。そして、チュクムへの守り刀を託した。この神剣「魂凪」が、チュクムの荒ぶる心を治めてくれる筈である。
初夏、ヒムカから便りが届いた。伊依乃島南岸の復興は順調のようである。コウチ(河内)の牟田の水田開発も順調で、秋の実りの一部を倭国の復興に贈れそうだとあった。各地に避難していた南洋民もトサプ(杜沙府)に集まり始め、杜沙府は国都と呼べる規模に膨れそうだ。そこで、伊依乃島南岸をヨサミ(依佐見)国と名付け初代の族長を壱未親方と宇羅人とし、祭り事(政務)の長を二人に任せたようである。
そしてヒムカ自身は、田家の漁船団を柱とした黒潮漁船団を率いて、アユチノウミ(東風茅海)まで足を延ばしたようである。そして悲報も届いた。伊依乃島南岸を、先兵となり切り開いてきたケヌマ(気濡馬)が力尽きたのだ。悪童仲間も半数に減っていたようである。ヒムカは、気濡馬の亡骸をアシツル(芦津留)岬のツロ(突櫓)の丘に葬った。ダバウタキ(駄場御嶽)の近くである。そして、気濡馬が橋頭堡としたイブリ(胆振)の津も近い。生き延びている悪童仲間は黒潮漁船団に加わったそうである。
彼らは東へ東へと死地を求めて進んでいるようである。東は太陽の国だ。それもまた良かろう。気濡馬が葬られた突櫓の丘も南洋を見渡す太陽の丘である。ヒムカは一年の半分を狗奴国で、もう半分を伊依乃島南岸で過ごしているようである。しかしその忙しい合間を縫って昨年暮れにヒムカは宇津彦の二番目の息子サデヒコ(佐田彦)を産んだ。やっぱりヒムカは逞しい南洋の女である。
斯海国からヤマァタイ国、伊美国、伊奴国、投馬国の各地では災害が多くの孤児や遺児を生んだ。そして、天涯孤独となった七歳以下の孤児は皆巫依覩に集めた。巫依覩の丘に五棟の臨時の託児所を建て巫女達が面倒を看ている。その子達でさえ百名を超えている。七歳以下の子供達は生きる力も弱い為に多くの幼児が犠牲に成った。それでも百名以上が独りで生き延びた。
生き延びる力が強い七歳以上の子供達は、更に多くが独りで生き延びている。しかし、その数はまだ掴めていない。巫依覩は私のサイト(斎殿)なので、近衛二十四人隊もここに居住している。
そして、捨て子の身だった徒手の項増は、任務でもないのに自主的に託児所の園長先生に成っている。だから、近衛二十四人隊の二番隊八人は、皆保母さん保夫さんである。中でも川素恵とツキメ(月芽)の女隊士二人は乳児のあやし方が上手い。特に陽気で愛嬌に溢れた月芽があやすと、泣いている子も泣き止む。
月芽は米多原の館の下町っ子である。だから、大勢の子供達の中で育ってきた。その為に子慣れしているのである。対してタケシ(武獅)が抱くと笑っていた子も泣き出す。その反応に当の武獅が泣き出しそうである。武獅は、本当は子供が苦手なのである。しかし、徒手の師匠の項増が園長先生を楽しんでいるので、渋々付き合っているのである。そして、その武獅もやっぱり捨て子であった。
しかし、項増と違い生まれてすぐに捨てられた訳ではない。孤児に成ったのは七歳の時だ。その時も台風で壊滅的な被害が出て多くの孤児が生まれた。飢えに苦しむ村々では幼い子供達を、山に連れて行き置き去りにした。だから、山奥では可愛い七つの子達が息を細らせながら鳴いていた。
その中で、辛うじて生き延びた武獅達が覚えた生きる手段は、最初が泥棒である。そして、こそ泥から始めて十三歳に成った頃には、いっぱしの強盗に成っていた。その上に身体も大きかった武獅は、悪党の親分に成っていた。
善人として生きる道は誰からも教わっていない。だから武獅にとっては、それがまっとうな人生だった。今日も明るく元気に町や村々を襲いに行くのだ。奪った物が多いほど勤労の証なのである。十五歳に成った年に武獅は、徒手の項増に出会った。
項増が徒手の項佗に出会ったのとまったく同じである。愚かにも武獅達も項家軍属の荷を襲ったのである。結果は、項増が徒手の項佗に出会った時と同じである。項増に打ちのめされた武獅は、その日から項増の弟子になった。
武獅は、項増に同じ野犬の臭いを嗅ぎつけ心が落ち着いてきた。そして、善行の喜びも覚えた。それは悪徳の快楽より甘美なモノであった。そういえばアルジュナ少年が「悪人こそ真を悟り易く、善人故に迷う」と言ったことがあった。その時、善人の私にはその言葉の意味が分からなかった。しかし、項増や武獅を見ていると少しアルの言葉が理解できた気がしてきた。
善悪は人が決めるものではない。何が善で何が悪であるかは神様が決めるのだ。だから私達人間は心静かに神に祈り天命を聞くべきである。私は賢くなったと勘違いして他者を厭しめ世から排斥してはいけない。それこそが過ちであり悪行なのであろう。
とは言っても凡夫の私には悟りの道は遠い。まぁぼちぼち行くしか仕方ないだろう。それにしても巫依覩の託児所は毎日大賑わいである。百人以上の乳幼児が笑い、泣き、叫び、起こり、駄々をこね、そして、腹減った~と騒ぐのである。この集合音は天をも突き上げ地をも揺らすのである。これでは黄泉醜女(よもつしこめ)等も逃げ出してしまうだろう。私は、そんな喧騒の中で仁武のことを思い心寂しさに襲われた。そして、私も、項増や武獅の母と同じように、子を捨てた悪しき母かも知れない。
秋が深まって来た頃、須佐人と高涼が帰って来た。農耕馬なら六百頭は積載できる天之玲来船には、支援物資が満載されていた。米俵だけなら一万俵である。もちろん農耕馬や米俵だけを積んできたわけではない。食料は勿論だが衣料品や建築資材、そして私が何よりも欲しかった医薬品も沢山積まれていた。
被災した民にまず必要なものは食べ物である。次は住居だ。それから田畑を直し、橋を架け直して道を確保する。だから、被災した遺骸は大半がそのまま放置されている。葬儀は人の暮らしにゆとりがなければ出来ない。ましてや数知れない屍の野なのだ。だから野ざらしの遺骸にも皆は驚かなくなっている。まずは生き延びた者が死の淵から早く逃れることが優先されるのだ。そして、井戸は埋もれ、河川の水もまだきれいではない。その為、昨年の初秋から疫病が万延し始めたのだ。
だから、巫津摩と、巫谷鬼と、巫浮耳の三ヶ所のサイト(斎殿)は野戦病院の有様である。志茂妻が各地を廻り的確に指示を出しているが、医薬品の不足に悩んでいた。だから、天之玲来船の支援物資を心待ちにしていたのだ。
シャー(中華)での医薬品の手配は加太が行ってくれたようだ。今、加太はチュクム(秋琴)を見守っていてくれているようである。漢王朝の乱れは、カロ(張華老)様の一家の暮らしも苛んでいるようである。ユナ(優奈)の夫でチュクムの父ジャオ(張角)は、白秋様達の奔走のおかげで牢を出ることは出来たらしい。しかし官職には就けず薬草を採って売ったり、商人の荷物運びを手伝ったりして暮らしているようである。
そんな貧しい暮らしの中でも、チュクムは明るく元気に育っているようだ。そして、ミヨン(美英)とシカも見守っていてくれるので、チュクムのことは心配しないでも良さそうである。
薬草を採るかたわらジャオは加太に医学を学んだそうである。だからジャオは儒家であり医術者でもある。しかし、墨子と同じように儒教の教えだけには満足せず人民の為の自由国家を夢見ているようである。
五年ほど前から身内や友人を集め教団を立ち上げたようである。漢王朝の腐敗は進み、弾圧は改革解放派の一族郎党にまで及び始めたようである。その為に難を逃れた解放派の一部がジャオの教団に逃げ込んでいる。カロ様はそれが大きな騒動の火種になりはしないかと心配されているそうだ。その話は私も少し不安になった。チュクムも私の血を引く尹家の巫女である。だから、戦乱は、チュクムを戦さ場の巫女として目覚めさせかねない。
秋の終わり、香美妻女王は、巫津摩と、巫谷鬼と、巫浮耳の三ヶ所のサイト(斎殿)に火の座を造らせた。これなら病人の治りも早まることだろう。ヤマァタイ国は、香美妻女王が安定させ始めたので、私は春を待ち、中ノ海から高志に向けて巡幸することにした。須佐人には、鯨海を北上させ高志のアリソウミ(有磯海)で落ち合うことにしている。
筑紫之島の北部の治安の乱れが、各地で不穏な動きを生んでいるようなのだ。伊依乃島南岸から東風茅海にかけての一帯にはヒムカが居る。だから、暗雲が広がる気配は無い。そこで私は中ノ海で秦鞍耳と落ち合い各族長と再会し状況を語り合うことにした。そして、イズモ(稜威母)は馴れた須佐人に頼んだ。その旅には天之玲来船を使わせる。だから高涼との気が合った旅行きである。
高涼には、五年前に冴良を娶らせた。冴良も、おしゃまな娘から十六歳の乙女に成っていたのである。メラ爺の孫娘冴良を高涼に娶らせたのは「当分、リャンは州胡へは帰しませんよ」という私の意志表示である。
ガオ・リャン(高涼)は高一族の跡取りなので、いつかは州胡の族長として返さなければいけないが「当分、お借りします」と、ガオユェ(高月)様にも伝えているのだ。それに、高涼の父上ガオロン(高栄)様もまだ五十三歳である。だからもう十年は高涼を借りておくつもりである。そして、ガオユェ(高月)様も笑って許してくださっている。
高涼と冴良には、ガオミ(高米)という二歳になる息子がいる。メラ爺はもう曾祖父ちゃんなのだ。そしてメラ爺の血を引いて足が速そうである。高米が七歳になったら、私は革のサンダルを贈り州胡のカマオルム(釜岳)を二人で駆け上がろう。と夢想している。
稜威母への旅には、冴良と高米の親子も乗船させようと考えている。そして、須佐人の息子のハラエド(胎穢土)と、娘のセオリツ(世織津)も稜威母への旅をさせようと考えている。ニヌファ(丹濡花)は、お祖母様から大巫女になる技を受け継ぐために阿多国から離れられない。だから、冴良に胎穢土と世織津の面倒も見てもらうつもりである。来年、胎穢土は七歳に成り、世織津は五歳に成る。二人には早くから源郷を見せておきたいのだ。
私の旅行きは、風之楓良船を使う予定にしている。風之楓良船の船長は倭である。倭と玲来の娘ミナモモ(水桃)も来年は三歳になる。だから、船霊(ふなだま)様として乗船させるつもりだ。そして、玲来は月読みの巫女であり森の妖精だ。その為、チヌノウミ(茅渟海)から高志までの陸路では荒ぶる神共を鎮撫してくれる筈である。
それからもう一人青二才を乗船させることにした。口ばかりが達者で困った奴である。すこぶる賢いのだが、それがまた仇である。だから友達が出来ない。唯一の理解者は倭である。名は、チヨダ(徐智淀多)という。まだ十八歳である。
智淀多は、米多原で生まれ育った都会っ子である。だから生意気小僧である。そして、父のタカシ(高志)大頭領の頭痛の種である。マン(万)爺の孫なので徐家の男らしく美系ではある。しかし健のような温かさがない。そして、徒手の項増の弟子の月芽とは幼馴染である。
だから、愛嬌に溢れた月芽の爪の垢を煎じて飲ませよう。それも十指分、否!! 足の指も入れて二十指分である。それ程に愛嬌がない。その無愛嬌者の智淀多は、小さい時から何かと私にまとわりつくのである。そして「それはヒミコ様、違いますよ」「いやいや、ヒミコ様のお考えは浅い」「ヒミコ様ともあろう方がその程度の知識では」と、五月の蝿のようにうるさいのである。
智淀多が唯一認めている大人は、志茂妻だけである。智淀多は志茂妻の弟子を自称している。そして、あとの大人達に対しては皆一様に、小馬鹿にした態度を取るのである。だから母のヨド(淀)女房頭は、あちらこちらで謝っている。そこで、「旅の空の下でチヨダを鍛えてほしい」と、淀女房頭に懇願されたのである。私は、狭い船内で毎日無愛嬌者の顔を見るのは厭だったが、倭にも懇願され乗船させることにしたのだ。
雪が舞い始めもうじき山も雪で閉ざされる。近衛二十四人隊に無理を強いれば、雪山を越えニシグスク(北城)に戻れないこともないが、春からの旅立ちを考えると色々準備も忙しい。だから、私は仁武のことを思い浮かべながら巫依覩の館で冬を越した。
私は、本当に酷い母親である。このままでは、仁武は母の顔も知らずに育つかも知れない。我が尹家の始祖伊尹(いいん)様も、母の顔を知らずに大きくなったそうだ。そして、ユリ(儒理)も母ぁ様の顔を知らない。それに、健も母ぁ様の顔を知らないのだ。母のない子はどうやって冬の寒さを耐えるのだろう。
開け放った蔀(しとみ)の向こうでは、樒(シキミ)の木の葉を雪が覆い始めた。朝から降り始めた雪は庭山を覆いそれでも深々と降りつもる雪の白さが眩しかった。
~ アハウミ(淡海)の夕映え ~
春三月、天之玲来船と、風之楓良船は、同時に投馬国のクキノウミ(洞海)から出港した。高涼船長と、須佐人の天之玲来船は、鯨海を北上し、高志に向かう。既に、闘商須佐人は、鯨海の海賊王の称号をスロ(首露)船長から奪いつつある。
首露王もその誇らしい称号を、須佐人とアヘンが受け継いでいくことに異論はない。今では鯨海の沿岸民も「鯨海の海賊王」と言えば須佐人とアヘンの顔が浮かぶようである。そして、二人は鯨海の二大海商である。
鯨海の白い狼アヘンは、主に鯨海の西岸を交易の拠点にしている。そして、北はシュマリ(狐)女将の生まれ故郷辺りまで北上し始めたようである。その水先案内は、亡きサンベ(蒜辺)の盟友オハ村長が買って出てくれたそうだ。
オハ村長のウェイムォ(濊貊)の村は、須佐人の拠点の一つだ。そして今は、アヘンと須佐人が落ち合う港町に成っている。だから、アヘンとオハ村長も周知の仲である。アヘンの北交易開拓の話を聞いたオハ村長は「是非、自分に案内させてくれ」と申し出たそうである。オハ村長自身は、ウェイムォ(濊貊)の北の村の出身である。だから、シュマリ女将と、サンベ(蒜辺)の生まれ故郷までは足を伸ばしたことはないそうだ。しかし、北方の民の言葉や習慣は良く承知しているので、水先案内人としては最適である。そして、オハ村長には盟友サンベの生まれ故郷を、一度目にして置きたいという思いが強くあったようだ。
ウェイムォ(濊貊)の北方には、今でも悪党オロチ(大蛇)族が健在なのだが、鯨海の助べえオロチ共は、「鯨海の白い狼の異名を持つアヘンに征服されたがっている」と言う噂も広まっており困ったものである。
対する須佐人は、鯨海の東岸に交易の拠点を築きつつある。高志までは、既に伊佐美王が北征をしているので、秦家商人団の拠点は確保されている。今、須佐人は、高志の北方メアンモシリ(寒国)に交易を広げつつある。だから、私は今回の旅で、高志で須佐人と落ち合い、その拠点の一つを案内してもらうことにしている。
倭船長の風之楓良船は、中ノ海からポロモシリ(大国)を目指す。旅立つ少し前、私には月の女神様が降りてきてすこぶる体調が悪かった。だから、智淀多に当たり散らしながら、どうにか過ごしていたのだが、潮風を嗅げばもう大丈夫である。智淀多は、私の散漫な怒りを理解できなくて困惑していたが、男の智淀多に女の体調など理解できる筈もない。あきらめておくれ智淀多よ。女の怒りには、理路整然とした怒りなど無いのだ。ただ、ただ、身体が陰鬱な思いに包まれ、取り留めもない怒りを生むのだ。だから、智淀多よ。私をなだめよう等という無駄な行いは止めよ。お前は、ただ、ただ、私の無意味な憤りを受け止めてくれていれば良いのだ。
中ノ海を渡れば、もちろんチヌノウミ(茅渟海)からは陸路である。でも大丈夫、その山岳キャラバン隊の隊長は私の筈である。きっと……。ぜひ……。出来るなら………。お願い秦鞍耳大隊長様!!~~~。その大隊長様は、現在、スワ(周訪)国のシラギ(白魏)の泊に居ると、報告を受けている。そこで、風之楓良船は直接周訪国の白魏の泊を目指した。
本当は、宇沙都に立ち寄り那加妻に会い、そして、我が愛し子仁武を呼び寄せたかったが、先を急ぐ旅である。だから、私情は抑えた。なんて薄情な母親なのだろう。でも大丈夫。仁武は、母がいなくてもスロ(首露)船長のように、きっとりっぱな男になる筈だ。
白魏の泊では、イホタ(鮪捕多)様から中ノ海の様子を伺った。中ノ海には不穏な動きはなさそうだ。だから、白魏の泊で秦鞍耳を乗船させると、キビ(黍)国、ハリマ(梁蟇)国 、アワ(粟)国と足早に帆を進めた。
秦鞍耳の妻となったフジトメ(藤戸女)は、母国の黍国で復興に汗を流していた。そして、ひと段落ついたようだったので、藤戸女も、この旅に同行させることにした。藤戸女は、中ノ海の女である。だから藤戸女が乗船していれば、どんな瀬戸も渡っていける。
秦鞍耳と藤戸女には、トミヒコ(秦冨彦)という息子が居る。しかし、秦冨彦は、まだ二歳になったばかりなので、オンラ(鰛良)祖父ちゃんと、アソメ(阿蘇女)祖母ちゃんが、面倒を見てくれることに成った。賊徒の頭として恐れられた鰛良も、すっかり祖父ちゃん顔である。そこも、アチャ爺に似てきた処である。藤戸女の弟アナミ(穴海)も、二十歳に成り、もう立派な黍国族長見習である。だから、鰛良族長も、なかば隠居の身である。今度、投馬国のイノムレ(命牟礼)の湯に誘ってやろう。高牟礼様達も、ますます陽気の花が咲き、きっと喜んでくれる筈だ。もちろん、アチャ爺も呼ばなくっちゃ。
梁蟇国では、やっとイナミ(稲波)様にお会いできた。シララ(白螺)さんが言っていたように、本当に妖艶でお綺麗な方だ。稲波様からは、高志の様子を詳しく伺った。高志は、ヨンオ(朴延烏)様が治めているので大丈夫なようである。しかし、高志の北にある阿人国のメアンモシリ(寒国)に、強硬派がいるようである。その強硬派が、ポロモシリ(大国)に拠点を移せば、倭国を二分する恐れがある。
今のポロモシリの族長は、アサマ(阿佐麻)様である。阿佐麻様は、ニタイクル(森の民)であり、木の国のコダマ(狐魂)の妻シララさんの兄である。だから、私は、シララさんに会いに行くことにした。シララさんが同行してくれれば、この旅も安堵の旅になろう。それにシララさんは、元々ポロモシリのお姫様なのだ。これほど心強い案内人は他にいない。
幸いシララさんは、粟国のセト(勢斗)の許に居るようである。勢斗は、伊穂美王の末息子ヒコナ(蛭児那)と、南洋民の海女イソラ(五十螺)の末裔である。
そして、妻は木の国の狐魂の長女ヒバリ(雲雀)だ。だから、粟国の復興に追われている勢斗夫婦に代わり、スズメ(海雀)と、アヤト(彪人)の孫守りをしているようである。そして、勢斗は、粟国の族長となりチヌノウミ(茅渟海)の館に戻っているようである。
クキノウミ(洞海)を出て七日目。風之楓良船は、茅渟海に入港した。ここからは陸路である。陸路の部隊は、秦鞍耳を大隊長に、近衛二十四人隊と、倭が船員の中から選抜した二十一人隊、それに、私と、藤戸女と、リ-シャン。智淀多に、玲来と、ミナモモ(水桃)。そして、シララさんに、勢斗が五十人の物資輸送隊を付けてくれた。
だから、これは山岳の否、森のキャラバン隊である。だが残念なことに、私は、このキャラバン隊の隊長ではない。秦鞍耳が居るのに、私が隊長になる訳にもいかないようである。だって、隊長としては、明らかに私より秦鞍耳の方が優れている。そして、それは誰の目にも明らかである。副隊長は、項権である。では、私は四番隊長かというとそう簡単ではない。だって、徒手の項増が居り、槍の項作も居る。それに、剣の項明までも居るのである。仕方がないので、私は、智淀多に、玲来と、水桃、そして、リーシャンの小さなキャラバン隊の隊長に成ることにした。もちろん、この件に異論を挟む者はいない。
風之楓良船には、牛馬も積んで来たので、私は、馬の背に揺られている。乗馬は、先頃須佐人と、イタケル(巨健)叔父さんに習ったのだ。騎馬隊なら近衛二十四人隊の輿の上で揺られているよりは、私の自尊心を満足させられる。だが、残念なことに、まだ革の胡服は手に入れていない。でもまぁ小さなキャラバン隊だから良しとしよう。
リーシャンと、玲来に、水桃、そして、シララさんは、近衛二十四人隊の輿の上である。図々しくも、智淀多が輿に乗ろうとしたので、私が、縄を掛け馬に繋いでいる。しかし、本人は、私の御者のつもりである。私は、捕縛の縄のつもりだが、智淀多は、手綱を引いていると勘違いしている。私の手綱を引くなど千年早い。無礼者智淀多めっ!!
そして、無礼者智淀多は、やっぱり口うるさい。「ほら、ほら、ヒミコ様、そんなに駈けては、皆が付いて来られないではありませんか」とか「ほら、ほら、ヒミコ様、その崖では馬を降りないと、馬が難儀をするではありませんか」等と、小うるさいのである。“お前は私の従者か。それとも馬の従者か!! ”と怒鳴って遣りたいのだが、どうも皆は、私と智淀多のやり取りを面白可笑しく聞いているようなので止めた。
茅渟海の浪速の津からは、川沿いに陸路を遡った。シララさんに聞くと、この川には特に名はないようである。だから、私は、浪花之川と呼ぶことにした。浪花之川を昇ると、大きな湖があるようだ。そこは、アハウミ(淡海)と呼ばれているそうである。そして、浪花之川は、そこを水源にしているようである。では、アハカワ(淡川)と呼んでも良さそうである。良しそれなら!! 昇りは、浪花之川で、降りは、淡川と呼ぼう。
ポロモシリの族長アサマ(阿佐麻)様の館は、淡海の東の浜にあるらしい。だから、順調な旅行きであれば、三日程の日程に成りそうだ。淡海の岸辺の村までは、一日の強行軍で進むようだ。しかし、そこで舟団を仕立てないといけない。
牛馬は、竹の筏を組みそれで運ぶことにした。シララさんの話では、竹には不自由しないそうである。だから、五艘の竹の筏なら、近衛二十四人隊にかかれば、一日あれば充分である。それに加えて十五艘の川舟を、シララさんが手配しているそうである。
淡海は、南北に長い湖らしい。更に周辺には、内湖が四十以上もあるそうだ。つまり湿地帯のようである。牟田や、縄手とも呼ばれている。内湖に点在する村は、小牟田、中牟田、大牟田、上縄手 下縄手、沖田畷(おきたなわて)等と呼ばれ皆水路で結ばれているそうだ。道は泥濘が多く、あまり利用する人は居ないようである。
だから、陸路の方が難儀を強いられるそうだ。でも、水路なら波静かな湖面を見ながら進むので、優雅な舟旅を楽しめるようである。それに、シララさんが一緒なので、阿人とのいさかいも危惧することはない。春の野遊びならぬ、春の湖畔遊びが楽しめそうである。
浪速の津を出て三日目の早朝、私達は舟旅を始めた。それぞれの舟に、十名前後が乗り込んでいる。私は、シララさんと乗船した。道中で、シララさんにポロモシリのことや、阿人の世界について、色々聞いておきたかったのである。智淀多が当り前のような顔をして私の舟に乗り込んできたので、「お前はあっち」とリーシャンが乗る舟を指差した。だから、智淀多は渋々リーシャンと同乗している。
私は今日だけでも、小姑のような智淀多から離れられて幸せである。実はリーシャンも智淀多が苦手である。智淀多は、自分の部署でも無いのに良く調理場に顔を出す。そして、1つひとつの料理に口を挿む。「この菜花は、苦味が強いですが、何故ここに付け合わすのですか?」とか「鮎は、腹子に苦みと旨みがあるのに、何故取ってしまうのですか?」といった具合である。更に困ったことに、何故か智淀多は、食材に詳しいのである。
最初は、リーシャンも「嗚、肉の脂身を苦菜でさっぱりさせますんじゃ」とか「嗚、鮎の腹子は、これだけを集めて塩辛にします。『うるか』という料理です」とか答えていたのだが智淀多の質問がしつこいものだから閉口するのである。もし智淀多が高志大頭領の息子でなかったら、だんだん苛立ってきたリーシャンは「うるさかぁ~~~~!!」と言って、智淀多を脊振の峰まで投げ飛ばすことだろう。
もし、智淀多が料理好きなら、素直にそう言ってリーシャンに教えてもらえば良いのである。そう言って頼めば、人情味豊かなリーシャンは、喜んで弟子にしてくれるだろう。智淀多は、そんな簡単な人付き合いも出来ないのである。まったく迷惑な変人である。
しかし、たまにリーシャンも知らない食材を持ってきて「これは、癖が強い食材ですが、渋みを取れば旨味が引き立ちます。何とかうまく調理出来ないものでしょうか?」と、相談めいたことを言う時もあるようだ。そんな時は、リーシャンも一瞬だけ、変人智淀多が好きに成るそうである。この湖は、筑紫乃海にも負けない位に、多くの生き物に恵まれた食糧庫でもあるようだ。だから、食材談義をしておれば、智淀多とリーシャンの会話も弾むことだろう。
日が傾き始めた頃、私達は、ポロモシリの族長阿佐麻様の館、沖田畷(おきたなわて)に着くことができた。阿佐麻様の館、沖田畷は、内湖に浮かぶ浮島であった。この大きな内湖には、大小様々な浮島が三百島ほど浮かんでいるそうである。シララさんの話では、竹や真木で造った大きな筏の上に、葦を厚く敷き詰め島を造っているようだ。急な流れもなく、大きな波も立たず、真っ平らな湖面は、山肌を削って村を造るより、労力も掛からず、立地条件も良いらしい。
浮島の四隅には、湖底に柱を穿った櫓が立っている。普段は四つ手網を垂らしてボラ待ち櫓として使っているそうだ。そのボラ待ち櫓に、浮島が繋いである。しかし、固定はしていない。浮島と、ボラ待ち櫓は、輪っかで繋がれている。だから、浮島は、湖の水位に合わせて上下するのである。
淡海には、大小十数本の川が流れ込んでいるそうだ。しかし、ここから海に流出する川は、私達が昇ってきた浪花之川だけらしい。だから、雨期ともなれば、淡川を流れ落ちる水の量が追い付かず、淡海の水位は、どんどん高くなるらしい。つまり、陸にある村なら頻繁に水没するのである。でも、この浮島の沖田畷村なら水没の心配はない。
それに、夏は湖上の風が涼しく、冬は湖の水温で暖かいらしい。そして何よりも、水と食料が同時に確保できる所が便利なようである。なにしろ、筏に吊るしてある柴の束を引き上げれば、小海老や小魚が沢山獲れるのである。
一つの島には、三世代一家族が二十~三十人暮らしており、家族が増えて手狭になれば、新しい島を造るそうである。湖の沿岸には水田も広がっていたが、おかずにする位の菜物は島の畑でも作られていた。水を蒔く必要がないので、殆ど放ったらかしのようである。だから、人工島の山菜のような物である。
島と島の行き来は小さな田舟を使っている。小さな子供達でさえ、上手に田舟を漕いでいる。この子供達は皆、水ガキ共である。だから、泳ぎも潜りも上手である。陸を走り回るより、水の中の動きの方が数段にすばやく美しい。彼らは半漁人である。いや人魚姫かも。湖畔の陸にも掘立小屋が点在している。本当はここが沖田畷らしい。
農作業が忙しい時や、山の幸を求める時には、その沖田畷の掘立小屋の村で寝泊まりするらしい。しかし、じめじめしているので皆の評判は良く無いそうである。特に、半漁人、いや人魚姫達は、浮島の家の方がお気に入りのようである。
浮島の上の家も葦で造られている。心柱には丈夫な真木を使っているが大半の材料は竹と葦である。だから、とても軽いそうだ。必要なら皆で担いで、浮島の上を移動させることも出来るようである。だから、増改築も自由自在である。煮炊きは、浮島の隅にある水屋(台所)で行う。炉は竹の筏の上に粘土で土間を作り、その上に灰を盛ってある。天井には、竹で火棚を作り火の粉を受けるように造られている。何しろ、屋根は燃えやすい葦である。小さな飛び火なら、水を掛ければ直ぐに消えるので大災にはならない。しかし、もし手に負えない位の大火災に成ったら、水屋(台所)を浮島から切り離すそうだ。そして、燃え盛る水屋(台所)ごと湖の沖に引いていけば、火祭り程度の出来事であろう。しかし、幸いなことにシララさんは、一度もそんな光景を見たことはないらしい。
ず~っと北にあるメアンモシリ(寒国)では、冬になると湖面が凍りつく湖が多いらしい。しかし、淡海は冬でも凍らないので、食料に事欠くことはないそうである。だから、淡海の内湖には、こんな水上村が沢山あるそうだ。
ポロモシリには、この水上の王国以外にも、三つの集団と集落があるようだ。一つ目は、この淡海の東の山を越えた処にある。ルルム(流留無)という名の大きな集落のようだ。流留無は、東風茅海の奥に当たるようだ。だから、ドキョン(東犬)は、流留無の生まれかも知れない。流留無には、キムウンクル(山の民)が多く暮らしているらしい。そして、その先祖は、須佐能王や伊佐美王に追われた者達である。だから、私達倭人には、恨みの感情を持つ者が多いようだ。
特に、流留無の首長カシケ(火斯気)は、倭人に対して抗戦派のようである。人には、好戦的な人種と平和的な人種がいる訳ではない。戦わなければ生きていけなかった人々と、平和に暮らせた人々がいるだけである。だから、流留無の首長火斯気は、成りたくて好戦派になった訳ではない。倭人が阿人を追い詰めたから抗戦派に成ったのである。
二つ目は、流留無から北の山に向かう中ほどにある。アイミ(藍実)という名の集落のようだ。ここの首長ホニヒ(穂煮火)の先祖は倭人らしい。伊佐美王の将軍の一人だったらしいが、何故か伊佐美王を裏切り阿人の世界で生きたらしい。倭人嫌いの火斯気首長と、倭人の血を引く穂煮火首長の関係がどうなのかは良く分からない。しかし、二つの集団の間には争う様子はない。それでも時折、猟場や水問題を巡り、話がこじれることはあるようだ。しかし、そんな折には、大首長阿佐麻様が収めるので戦さになることはないそうである。
三つ目は、藍実の山を更に北に進んだピタ(斐太)という名の集落のようだ。斐太の北の山を下れば、そこは、もう高志のようである。斐太の首長はケマハ(毛馬伯)と言い、毛馬伯首長はヨンオ(朴延烏)様とも面識が有るようだ。斐太は、かなり広い盆地のようである。シララさんの話を聞く内に、私は「嗚呼、北のハイグスク(南城)のような所か」と想像を巡らせた。だから豊かな田畑も広がっているかも知れない。しかし、かなり高所の集落らしいので、田畑より牧場の方が多く広がる風景かも知れない。シララさんからそんな話を聞きながら、私はこの三国を廻り高志に行こうと思った。良~し革のサンダルに脂を塗り磨いておこう。
阿佐麻様の館は、沖田畷村の中ほどにあった。阿佐麻様の浮島の中央には高い望楼がそびえている。あの高い望楼の上からなら淡海がすべて見渡せそうだ。そして、湖風も心地良いことだろう。阿佐麻様の浮島は四つの浮島を連結して造られておりカメ(亀)爺の屋敷にも負けない広さだった。
四つの浮島はそれぞれ「集会所」「倉庫」「広場」「住居」と使い分けられているようである。私達は「集会所」と「広場」の浮島を使わせてもらうことになった。私達は、百四名の旅団である。だから集会所島だけでは収まり切れないのである。そこで、広場の島には急遽十棟の葦の小屋が造られていた。私達が立ち去ればこの小屋は他の島々に移し、それぞれの浮島に建っていた古い葦の小屋は解体され新しい地面に成るのだ。見事なまでに合理的な村造りである。
集会所の島と広場の島は、ポロモシリの祭り事(政務)の中心らしい。ポロモシリは、投馬国と同じような合議制で国が保たれている。流留無の火斯気、藍実の穂煮火、斐太の毛馬伯の三人以外にも小さな集団の首長が百八人居るらしい。その首長会議がここで開かれるようである。だからここは国会の場である。
開催時期などは決まっていないらしい。何しろ彼らはメラ爺と同じ自由の民である。だから、メラ爺が王様ではないように、大首長阿佐麻様も王様ではない。それでも筑紫之島の山の民がメラ爺を一族の柱とし頼っているように、阿佐麻様もポロモシリの大黒柱であることには変わりない。
阿佐麻様は、黒々とした髭に覆われた顔の奥に理知的な目を据えられていた。私はイタケル(巨健)叔父さんの傍にいるような安堵感を覚えた。項権がもう二十年程歳を重ねると阿佐麻様の風格を醸し出す気がする。しかし、温和な表情の奥には苦渋の湖底も垣間見えた。それはヨンオ(朴延烏)様に通じる表情だ。
舟旅の途中でシララさんに聞いた話では、阿佐麻様の人生は戦いの日々だったようである。そもそも阿人の社会は戦いを好まない。しかし、私達倭人がこの地に移民して来てから様子が変わった。要は阿人と倭人の戦いが始まったのだ。そして勝利の多くは倭人にもたらされた。それが新たな戦いを生み出した。阿人同士の戦いである。
自由の民である阿人は、野を、山を、森を、海を生きる衾とし、自然に抱かれ暮らしていた。だから、もし別々の集団が一つの地域を棲み処としても、程好い距離を保ち暮すのである。それに長く定住する集団ではないので軋轢を生むこともないのだ。つまり「俺の土地」ではなく「みんながひと時を暮らす神様の土地」だという感覚である。だから、戦さの最大要因である領有権闘争がなかったのである。
しかし、倭人が国境線を引き阿人の自由を奪うと定住する阿人も増えた。否、国境という眼には見えない柵(しがらみ)に定住を強いられたのである。そして今や、メラ爺のような山野を駆けまわる風の民は、阿人の中でも少数派らしい。
何故メラ爺が自由な風の民で居られるのかは誰も知らない。もしメラ爺に尋ねても「な~に、ちょいとばかりここが達者なだけじゃ」と、ポンとその健脚を叩くだけだろう。メラ爺の足は天馬の足である。私が革のサンダルの紐を引き締め、息切らしながら山を登っているのとは明らかに違う。きっとメラ爺は山の峰々を天駆けている筈である。天馬のメラ爺なら誰も絆で柵に縛り付けることは出来ないだろう。
翌朝、私達は再び森のキャラバン隊に戻った。淡海から東の峠を越えて、東風茅海に出るのだ。流留無の首長カシケ(火斯気)は倭人嫌いなので、阿佐麻様が同行してくれることになった。阿佐麻様が一緒なら戦さに成ることもあるまい。だから、淡海の浮島で、シララさんとは別れることになった。
シララさんも孫守りが忙しいのである。勢斗が付けてくれた五十人の物資輸送隊は、そのまま私達の旅を支えてくれることに成っている。五十人隊の頭は、ハエポロ(栄幌)という三十路半ばの男である。
ハエポロは、ニタイクル(森の民)で、生まれ育ちはメアンモシリ(寒国)らしい。寒い国の人は言葉数が少なく、暑い国の人はおしゃべりが多いと思っていたが、ハエポロは陽気でおしゃべりである。そして、とても声が大きい。先頭を歩いていても百人隊の殿(しんがり)まで声が届きそうである。
そして話の内容には大した意味はない。しかし、絶えず陽気に話しているのだ。「ほうほう、この実は美味いぞう。昔、食い過ぎてなぁ。三日も下痢よ。アハハハハ」とか、「アユチノ海の浜には、昔に大狸がおってなぁ。弓で射て焼いて食ったら屁が臭くてなぁ。コチ(東風)が高志まで臭いを運んだとさ。アハハハハ」と言った類である。大意はないが、山深い道行には退屈をしないですむ話である。
智淀多は、そんなハエポロの話を「あの方は無意味なおしゃべりですね」と断じた。私は「お前がいうな」と叱りつけてやった。確かに、智淀多の話は物の道理を踏まえてはいるが、「お前の話は、私にはつまらん!!」と重ねて一喝してやった。すると智淀多は「ほらほらヒミコ様、無意味に怒っていると足を踏み外し谷底に落ちてしまいますよ」と私に注意を促すのである。皆は、私と智淀多のやり取りに笑いを堪えているようである。私にはそれも悔しい。
日が傾き始めた頃、後ろを振り返ると淡海が夕映えに輝いていた。今夜は山中の村で一夜を明かすことになっている。その村は何となく脊振の村に似て感じられた。そして、可愛い刺青を手足に施した子供達が元気に走り回っていた。
日が落ち篝火に囲まれ、私達は村人と一緒に夕餉を楽しんだ。阿佐麻様には、幾人もの子供達がじゃれついている。子供達は阿人の王様が大好きなようである。普段の阿佐麻様はポロモシリの大首長としての威厳に満ちており物静かな方であるが、今はすっかり好々爺である。同じ王様でも私の父様とは随分違う。
私はもう随分父様に会っていないが、伝え聞く様子では、父様は陰鬱の王であるようだ。豊かさとは何だろう。ジンハン(辰韓)国に比べるとポロモシリは貧しい所に見える。でも、その王の表情は豊かで幸福に満ちている。私は父様が哀れに思え無性に会いたくなった。
翌朝、東の彼方に、東風茅海が朝日を天に照り返し輝いていた。あんな素敵な目印があれば、火斯気が暮らす集落を見落とす筈はない。私は意気揚々と山道を駆け降りながら阿佐麻様と、とりとめもない話を楽しんだ。
でもそんな他愛ない話の中にも阿佐麻様の思慮深さが垣間見えた。例えば、夢の話である。阿佐麻様は、「いつも叶えられそうもない夢を見ている」そうだ。智淀多が「夢は叶える為に描くものです」と生意気なことを言ったが、阿佐麻は笑いながら「そうでもしないと生きていけない時もある」とおっしゃった。若造智淀多は、まだ人生の苦渋を知らないのだ。挫折し前に進めなくなった時にも人は夢を見て前に進むのだろう。そして「夢は、くじけそうになったら叶えられない」と思い気を起こすのである。
阿佐麻様は「自然との闘いは生きがいを生む。人はあまりにも小さく、自然はあまりにも大きい。だからこの闘いは挫折の連続だ。だが、それが知恵を生み復活の活力を生む。しかし人間同士の戦いは虚しさを生むだけだ。他人を欺く偽りの知恵は猜疑心と恨みしか生まない。世にいう兵法とは欺瞞の業であり知恵とは呼べない」と智淀多を諭された。
傍らでリーシャンがうんうんと頷いている。智淀多もそれに感化されてうんうんと頷いているが、本当に理解できたのかは怪しい。更に阿佐麻様は「私の闘いの相手は自然であり、自然とは神であるから、私の闘いの相手は神だけである。神との闘いに幾度打ちのめされても神は私を見捨てたりしない。だから、生きている限り私は神に勝とうと不可能性の賭けに挑んでいる。そして、その意欲が衰えた時、私の命は尽きるだろう。私はそんな生き方を続けたい。だから、人間同士の戦いには時を割きたくはないのさ。しかし、そうは上手くいかないのも人生だ」と話された。リーシャンは手を叩いて賛同している。智淀多の顔には、やや理解不能の影が懸かっている。まぁ賢い智淀多だから、もう三十年も経てば理解できるだろう。頑張れ智淀多よ!!
カシケ(火斯気)の集落ルルム(流留無)には日暮前には到着できた。北の山脈から千歳川と変わらない大河が流れ落ちアユチノウミ(東風茅海)に注いでいる。明日から私達はこの大河を遡り、峠を越えて高志に向かうようである。季節は夏の盛りを迎えようとしている。しかし山頂への道は、涼やかで暑さに苦しめられることはないそうである。
突然先方の森から女達の奇声が響いた。そして武装した男達が大勢こちらに向かってきた。男達は陣形を整え戦闘態勢で私達を迎えた。その陣形の奥から剛毛を湛えた初老の男が姿を現した。どうやら火斯気のようである。火斯気は、私達には一瞥もくれず阿佐麻様の前に進み「阿佐麻様。ご壮健なお姿をお見せになり有り難く存じます」と大首長への礼を取った。
阿佐麻様は、返答の礼を返されると「それにしてもカシケよ。物騒な迎え方だのう。私と戦さでも構えるつもりだったのか」と火斯気に微笑み、その構えの意図を聞かれた。「いやぁ~阿佐麻様に刃向かうなど滅相も御座いません。ただワシ(私)は倭人共に用心しているだけですじゃ。倭人共は油断の出来ぬ輩ですからのう」と秦鞍耳を睨みつけている。
秦鞍耳は隊列を振り返ると「武器を捨てよ」と指示した。そして「カシケ殿。これでよろしいか」と聞いた。火斯気はフンと鼻で笑うと「流石にロンヌ(殺し屋)族の頭領だ。度胸だけはあるのう」と戦闘態勢を解かせた。
聞きしに勝る倭人嫌いのようである。男達は我が部隊が放棄した武器を集落の入口に積み上げた。そして、無防備に成った私達を集落に迎え入れてくれた。物騒な出迎えでは有ったが、集落の大広間には、女達が沢山の御馳走を並べて待っていてくれた。程なくあの奇妙な声を響かせ女達が舞い始めた。どうやら鳥を模した舞のようである。阿佐麻様の説明では歓迎の舞のようである。
火斯気が「大した馳走は有りませんが、さぁ皆さん召し上がってくだされ」と宴の開始を告げた。皆が夕餉の宴を始めると一人の若い男が弓を持って舞い始めた。狩りの舞のようである。その舞いが終わると突然、智淀多が立ち上がり滑稽な舞を踊りだした。どうやらリーシャン仕込みの愉快な舞のようである。その陽気な腰つきに女達が手拍子を入れて歌を合唱し始めた。武装していた男達も刀を抜き打ち鳴らしながら拍子を取り出した。その様子にリーシャンも参戦し智淀多と舞い始めた。どうやら卑猥な交尾の舞のようである。まったく智淀多め!! なんとはしたないと私は渋い顔をしていたが、火斯気は破顔一笑している。阿佐麻様が「なかなか機転が利くお方ですなぁ」と智淀多を褒めた。
確かに場は一瞬にして和んだ。まぁ今回は智淀多を認めるしかなかろう。舞が終わった智淀多は、すっかり人気者である。これに呼応するかのように、今度は複数の男女が立ち上がり陽気な唄を歌いだした。意味は分からないが、どうやら歌垣と同じような恋の歌のようである。宴が進むにつれ私は阿人の陽気さを知り始めた。
しかし、火斯気は、私に向かっては始終不機嫌で、私の方を見ようともしない。そこで私の方から「私の友人にアユチノウミ生まれの男がいます。ドキョンと呼ばれていますが、カシケさんに心当たりは有りませんか」と聞いてみた。
すると火斯気は「知らん」と膠(にべ)も無い。でも私はめげずに「キビ国のオンラや、シララさんとも知合いで、雲龍刀と呼ばれる宝刀を振う剣の達人よ。本当に知らないの?」と言って見た。すると、火斯気の目がギョロリと見開かれ私を見た。それから愛想も無く、「ほう~チュプカセタ(東犬)は生きておったか」と呟いた。
私は「えっ?! ドキョンは、チュプカセタってもいうの?」と火斯気に問い直した。「ドキョンというのは、ロンヌ族の言い方だ。そんな情けない名で呼ばれるとはチュプカセタも落ちぶれたもんだ」と火斯気は投げ捨てるように言った。それから、深い溜息をつくとボソリボソリとドキョン(東犬)の身の上を語り始めた。
カシケ(火斯気)が語るドキョン(東犬)の物語
あいつの父親は倭人だ。だが、ワシがただ一人知る真っ当な倭人だ。名はホピカ(穂卑河)という。元はリョウ(秤)王の家臣だ。だから、女王さんと同じ筑紫之島の生まれだ。穂卑河大将は、生まれて間もなく大嵐で両親を失くしたらしい。そして物心が付いた頃に若い秤王に拾われたらしい。
否、その時まだ秤は王子だ。知っての通り、秤王子は、伊佐美王の孫じゃから、勇ましい男だった。だから、悪童穂卑河の目の中に勇者の光を見い出したそうだ。そこで、秤王子は、薄汚れた乞食の幼子穂卑河を召しだし自分の近従にした。そして、自ら学問と武術の師匠になったそうだ。だから、穂卑河は、秤王子が王に成ると、そのま王の近衛隊長に成った。
良家の子息達はやっかみ「乞食の隊長」と嘲ったようだ。しかし、穂卑河はそんな嘲りなど気にも留めなかった。秤王は自分の命を救ってくれた唯一人の恩人だった。だから、穂卑河は、秤王の為に戦うことだけが生きている意味だと思っていたようだ。
穂卑河が成人すると、秤王は何度も妻を娶らせようとしたようだ。武人で名を馳せた秤王も、自分と似ている武人の穂卑河を、大層可愛がっていたようだ。後に、父を倒すことになる息子の臼王より、穂卑河の方を信頼していた向きさえある。
しかし、息子を気遣うかのような秤王の縁談話にも、穂卑河は耳を傾けなかった。穂卑河には、家族というものが理解できず疎ましくさえ思えたようだ。家族の温もりや情などは無縁の存在だった。そんな男だったからその戦い方も非情だったようだ。必要とあらば根絶やしも厭わない戦い方だったようだ。正に生粋のロンヌ(殺し屋)族よ。
そんな穂卑河が、三十歳の時に、今度は東征の将軍に引き立てられた。もちろん秤王の大抜擢だ。歴戦の武人達や重臣の間からは、更に妬みの囁きも漏れ聞こえて来たようだ。しかし、秤王は意に介さなかった。そんなことも穂卑河を奮い立たせ東征は破竹の勢いだった。
しかし、流石に茅渟海まで来ると、その勢いも弱まった。茅渟海の東の大地はポロモシリだ。知っての通りポロモシリは、阿人の英雄アドモフ(率賦)が倭人への抵抗線を張った所だ。そして、アドモフが没して五十年以上が経ち、人々は彼をカムイ・アドモフと呼び崇めていた。その為ポロモシリの戦意はとても高かった。だから、穂卑河も、迂闊に浪花之川を遡り、淡海に攻め込むことは出来なかったのさ。
それでも、どうにか淡海の西岸に本陣を構える所までは侵攻出来た。そこで、穂卑河と倭国軍は長期戦を覚悟し、ポロモシリの各地に遁甲(とんこう)を放った。穂卑河は、猛将として名を馳せてはいたが、実は知将でもあった。本人の弁に依ると「俺は孤児で独り身だったから、書を読む以外にやることがなかったのさ」ということだった。しかし、唯の竹簡に巣食う書の虫ではない。俺に、穂煮火と、毛馬伯の三人にとって、穂卑河大将は学問の師匠でもあった。幼い頃から、乱暴者で有名だった俺にでも、分かり易く、そして辛抱強く教えてくれた。しかし、それもこれもハチャム(羽茶霧)姉さんのおかげさ。
知将穂卑河は、武力戦ではポロモシリを落とせないと悟り懐柔策に出た。まずは、淡海周辺の村々を手始めに親睦を結び、秤王への恭順を取り付け始めた。餌は、村々の環境整備だ。淡海周辺の村々は湿地が多く流行病も多かった。そこで知将穂卑河は、シューフー(徐福)という倭人の王が用いた大航海の技を、淡海周辺の西岸に広めた。筏の浮島だ。
筏の浮島の快適性を伝え聞いた村長達は、穂卑河の下に押し寄せ、瞬く間に淡海周辺には浮島村が広がった。そして、この浮島造りには大勢の倭国軍の工作部隊が関わった。中には、自然と若い兵士と阿人の娘が夫婦になり子を生す者達も出てきた。そんな様子で三年が経つと、淡海周辺は実質的に倭国軍の手に落ちた。
そもそも阿人には強力に国を成す意識は薄い。日々の暮らしに支障がなければ徹底抗戦を主張する輩の勢いも衰えるという訳だ。それに知将穂卑河は、阿人に「征服された」という感情を抱かせないように配慮した。兵士達にも小刀しか帯びさせず威圧感を抑えた。更に浮島村以外にも各地で様々な土木工事を行い阿人の村人に重宝がられた。阿人達に取って侵略軍である筈の倭国軍は、自分達の暮らしを守ってくれる護衛軍のようにさえ映っていた。
子供達は倭国の進駐軍の兵士を見かけると「饅頭おくれ!!」と皆で一斉に手を差し出した。兵士達は笑いながら小さな饅頭を子供達に配った。これも知将穂卑河の美味しい謀(はかりごと)だったようだ。しかし、俺達子供には嬉しい謀だったから気にも留めなかった。
更に穂卑河大将は、子供達を集めて小さな学び舎を作った。学び舎を発案したのは、ハチャム(羽茶霧)姉さんだ。だから、俺もその学び舎『エラムオカ(恵良霧丘)』に通った。当時俺は七歳さ。ピカピカの学童よ。
羽茶霧姉さんは、メアンモシリの大首長マラプト(摩羅夫登)の娘だった。そして、母はメアンモシリの大巫女様チノミシリ(茅野魅尻)だ。大首長マラプト(摩羅夫登)は、服わぬ者アドモフの盟友マタハ(真多波)大首長から数えて四代目のメアンモシリの大首長だ。だから、後にポロモシリの大首長アシカイ(芦海)と共に穂卑河大将を支えることになる。
しかし、羽茶霧姉さんの父の摩羅夫登も、母の茅野魅尻も、そして芦海とその妻アベナンカ(阿倍南花)も、穂卑河大将暗殺に端を発した大戦さで皆戦死した。そして、それが今まで続く戦いの最初の火種だ。
話を少し前に戻そう。穂卑河大将は、阿人の懐柔作戦の合間に徐々に、阿人の暮らし方を好ましく思うように成ってきた。そして、それは羽茶霧姉さんの存在が大きく影響していた。穂卑河大将が羽茶霧姉さんに出会ったのは、羽茶霧姉さんがまだ十八の時だった。俺もまだ六歳で青尻の鼻垂れ小童だ。
その頃、俺の両親は、メアンモシリの大巫女茅野魅尻様に仕えていた。だから、ポロモシリと、メアンモシリの中ほどに在った火の山の麓で暮らしていた。そこは火山灰の原野で、ヨナパル(汰原)と呼ばれていた。そして、淡海での様子はヨナパルにも聞こえてきた。そこで気丈な羽茶霧姉さんは、俺と弟のチュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)を伴って淡海の様子を見に出かけた。そして、淡海の畔に在る沖田畷に着いた。
そこには、叔母である阿倍南花が住んでいたので心配はなかった。だから、阿倍南花の息子である大首長阿佐麻様は、羽茶霧姉さんの従姉弟だ。阿佐麻様と俺は同じ歳だが、その器量は天地雲泥の差だね。悪童で無知な俺でも、阿佐麻様に出会った瞬間「服わぬ者アドモフの再来だ」と感じたものさ。
もちろん、伝説の英雄だから、俺は本当のカムイ・アドモフをこの目で見たことはない。だが、俺の目の前にいたのは、間違いなく古老達から語り聞かされて来たカムイ・アドモフだったのさ。だから俺は自ら「俺が弟分に成る!!」と宣言した。急に悪童の弟分が出来て阿佐麻兄貴は戸惑っていたが、俺は昔から言い出したことは引かない男だ。それにうまい具合に阿佐麻兄貴の方が俺より三日早く生まれていた。三日でも兄貴は兄貴だ。
そう知った羽茶霧姉さんの弟蛛怖禍茶辺が「おう三男坊。宜しくなっ」と肩を抱いてくれた。だから俺も「おう長男坊。宜しくなっ」と肩を抱き返した。蛛怖禍茶辺兄は、俺より五歳上だったからな。阿佐麻兄は戸惑いながら笑っていたよ。
阿佐麻兄の父親は、芦海という名で、カムイ・アドモフから数えて四代目のポロモシリの大首長だった。穏やかな人だった。俺とは真逆の人間だ。些細なことでもカチ~ンと来てしまう人間にしてみれば不思議な人だ。
例えば、俺なら殴り倒している相手でも、芦海様は静かに頷きながらそいつの話を聞いている。俺からしてみれば、相当に身勝手なことを言いやがっている奴の話でも、ふんふんと穏やかに聞いている。するとそいつ等は「言いたいことは全て言いました。後は芦海様にお任せします」と納得した素振りで引き上げていくのさ。
不思議だったね。ボコボコにして納得させるならまだしも「ふんふん」だけだぞ。あれは今思い出しても不思議な光景よ。なぁ、やっぱりボコボコが普通だろう。非情のロンヌ族穂卑河大将も芦海様のその不思議に魅せられた一人だ。だから、非情の常勝将軍の足を止めたのは、芦海様の存在が大きかったのだと今の俺には分かっているがな。
淡海周辺の村々が秤王に恭順したとの報告以来、穂卑河大将の進駐軍は五年の間淡海を動こうとしなかった。穂卑河大将は、芦海様との親交の中で、阿人と戦うことの無意味さに気づいたのだ。もし大勢の阿人を殺し、力で制圧したとしても得るものは何もなかった。阿人国は、倭国とは気候風土が違っている。だから土地だけを奪ったとしても豊かな国は作れない。阿人国には、阿人国に合った国造りをするべきだ。その為には「阿人との共存が良策だ」と考えたようだ。
そして、芦海様の人柄がそれを確信させた。しかし、武力侵攻の手が止まったことに業を煮やした倭国の重臣達は、秤王に穂卑河解任を再三申し出たようだ。だが、秤王は同意しない。そればかりか「ホピカが阿人の娘に子種を宿した」との報を受けると、秤王は、幼きチュプカセタ(東犬)に宝刀の雲龍刀を贈らせていた。秤王にとってチュプカセタは、まだ見ぬ孫のような存在だったのかも知れないなぁ。しかし、秤王も、いつまでも重臣達の意見を無視する訳にもいかなかった。そして、ついに「ホピカへ真意を尋ねて来い」と詰問することを許可した。
秤王の意向は「問いただして来い」という程度のものだったが、重臣達は勢い立ち詰問を盾にし大軍をポロモシリに向かわせた。そして、大軍を送る口実に臼太子を総大将とした。次の王である臼太子の軍であれば大軍が相当であるという理屈さ。
雪解けと共に筑紫之島の島を出陣した大軍は、春まだ浅き茅渟海を瞬く間に覆い尽くした。そして、その態勢は、詰問では無く宣戦布告に等しかった。更に、淡海に迫る大軍は、浪花之川周辺の村々を焼き尽くし女子供も容赦なく殺した。だから、穂卑河大将も腹をくくるしかなくなった。
初夏、穂卑河大将は、倭国の進駐軍を前にして「国に妻子が居る者は、倭国に戻れ、俺と伴に進む者は独り身の者だけにせよ」と反旗を翻した。だから半数以上の進駐軍の兵士は後ろ髪を引かれる思いで茅渟海の倭国軍に投降した。しかし、反乱軍として残った進駐軍の中にも妻子持ちは多かった。彼等は、穂卑河大将を残して国になど帰れなかった者達だ。だから、穂卑河大将と共に戦う為に妻子を捨てた。
彼等にはもう失うものはない。そんな反乱軍だから捨て身で戦う気概に溢れていた。それに、穂卑河大将を慕う阿人の若者も大勢穂卑河大将の許に集った。学び舎『エラムオカ(恵良霧丘)』の学童達も我先にと反乱軍に志願した。十七歳に成っていたチュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)兄は真っ先に手を挙げた。俺も手を挙げたが、まだ十二歳だったので羽茶霧姉さんに却下された。学び舎『エラムオカ』の学童長だったホニヒ(穂煮火)は十九歳なので参戦を許され小隊長になった。穂煮火は投馬国の生まれの倭人だ。国には親兄弟もいたようだが、あの日以来その話はしなくなった。もしかすると、秦鞍耳殿の一族かも知れんなぁ。
臼太子の倭国軍は当初楽観に満ちていた。何しろ戦力では反乱軍を数倍上まわっていた。そして、反乱軍に参戦した阿人は戦さを知らぬ若造共だ。だからまさに「赤子の手を捻るようなもんだ」と高を括っていたようだ。しかし、先に言ったように反乱軍は捨て身だ。もとより討ち死には覚悟している。だから決死の遊撃戦を展開した。そして、臼太子の倭国軍を茅渟海まで押し返した。
それから、膠着状態が始まった。倭国内では、穂卑河の反乱はしばらく伏せられたが、戦線の膠着に秤王から戦況報告の使者が届いた。そして報告は臼太子自らが帰国し行うことになった。臼太子が報告を終えると重臣達からは「反逆者穂卑河を討て」という声と共に討伐隊の増援が俎上された。しかし、穂卑河裏切りの報を聞いた秤王は「そうか。あいつもやっと自分の居場所を見つけることができたか。良かったのう」とだけ言うと御簾の奥に消えた。
激怒する重心達は「穂卑河を討て」の命を聞けずに憤懣やるせないまま困惑した。そして幾度かの小競り合いを繰り返しながら茅渟海での停滞戦は五年の長きに及んだ。その間、秤王は何とか穂卑河を倭国軍に戻そうと使者を送って来た。秤王はそこまで穂卑河の人柄を愛でていたようだ。
しかし、それでも穂卑河大将は、秤王に心で詫びながら抵抗戦を続けた。反乱から一年後、ジンハン(辰韓)国でネロ(朴奈老)の反乱が起きた。そして、鯨海周辺の緊張が高まった。その為に臼太子は呼び戻され茅渟海の倭国軍は半数に減った。その間、穂卑河大将は、阿人軍を組織化し再強化させた。
シャー(中華)に墨功と呼ばれる集団がいたそうだ。その墨功は徹底した防衛力で敵を疲弊させたそうである。知将穂卑河はその策を用いた。そもそも阿人は戦さ嫌いなので侵略的な攻撃戦に対しては積極性が湧かない。しかし、自衛となれば別だ。だから戦さ嫌いの芦海様もその策には同意した。
そこでポロモシリの西部には幾つもの山城を築いた。更にその山城は木柵と空堀を相互に巡らせ強固な防衛力を図った。そして、学び舎『エラムオカ(恵良霧丘)』では攻防戦の授業も始まった。武器も狩猟用の短弓は、飛距離を伸ばすように工夫された。竹槍を飛ばす大弓も作られた。シャー(中華)では弩弓というらしいな。
穂卑河大将は、白兵戦を避け飛び道具を使う遠戦に重点を置いた。それは阿人軍には女子供が多かったことも起因している。羽茶霧姉さんも幼いチュプカセタ(東犬)の手を引いて籠城戦の先頭に立っていた位だからなぁ。しかし、遊撃戦も果敢に仕掛けた。白兵戦を辞さない遊撃戦には、穂卑河大将自らが選んだ武闘訓練の合格者だけが参戦した。
武闘訓練の中身は、槍や刀、弓や徒手など多岐に渡ったがどれも護身術を旨とした。小童の頃の喧嘩に始まり大戦さを経る中で、穂卑河大将は「まず構え有り」と悟ったそうだ。我が身を守る構えが出来ぬ者が、やたらと相手に殴りかかっても程なく力尽き敗れるということを、貧民の悪童達の喧嘩で身に染みて悟ったらしい。ぉり
だから、「払って切り返す」払えの練習を繰り返しやらされたものさ。しかし倭国の正規軍だった先輩達の打ち込みは、易々とは払えず手酷く打ちのめされたものさ。だから俺達若造は「祓えたまえ、清めたまえ」と呟きながら訓練に精を出したもんよ。
十五歳になると俺も遊撃戦に出してもらえるようになった。遊撃戦で大事なのは「逃げ足の早さだ」というのが可笑しかったね。奇襲をかけると、敵は驚いて逃げるから若造の俺はついつい深追いしそうになる。それを良く穂煮火小隊長に叱られたもんだ。「遊撃戦の勝機は一瞬で去る。だから一撃の勝ちを得たら直ぐ逃げる」というのが心得らしい。だから「深追いは、死地に足を踏み込む行為だ」と良く諭された。
穂卑河大将の遊撃戦と各個撃破の戦術で、半数に減った臼太子の倭国軍は苦境に立った。それでも、時折、倭国軍は総攻撃をかけてきた。半数に減ったとはいえ倭国軍は俺達の倍以上の戦力だからな。だが、穂卑河大将が生み出した強固な籠城戦に阻まれた。
臼太子と重臣達は、幾度も討伐軍の増援を要請したが、秤王は首を縦に振らなかった。そして重臣達は密かに穂卑河暗殺部隊を淡海に送った。本国に居た臼太子がそのことを知っていたかは分らん。ただ、穂卑河の反旗から五年後、穂卑河大将は暗殺部隊の精鋭に誅殺された。
しかし、秤王は、穂卑河大将の罪など問うてはいない。だから、穂卑河大将に罪を問い誅殺させたのは、臼太子とその重臣達だ。今の倭国は、そんな奴らが牛耳っている所だ。何故そんな倭国を信用など出来るものか。兎に角、秤王は穂卑河暗殺に激怒した。そして、臼太子を叱責し排斥しようと考えたらしい。そこで、重臣達は秤王を倒し、臼王を建てようとする動きを始めたようだ。
だが武王秤を倒すのは容易ではない。そこで、各地で戦さが始まった。それが、倭国統一同盟と倭国自由連合の戦いに繋がっていく訳よ。だから、今まで続く倭国の大乱は、穂卑河大将の暗殺が切っ掛けなのさ。
穂卑河大将を暗殺した臼太子の倭国軍は、勢いづきポロモシリになだれ込んできた。そして、大首長アシカイ(芦海)様と妻のアベナンカ(阿倍南花)様も殺された。阿佐麻兄はどうにか穂煮火小隊長が藍実の山里まで落ち延びさせた。そして夫と父を失った羽茶霧親子も穂煮火の許に身を寄せた。しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。羽茶霧姉さんの父で、チュプカセタ(東犬)の祖父であるメアンモシリの大首長マラプト(摩羅夫登)も殺された。
大首長摩羅夫登は、芦海様を助けようと援軍に駆けつけていたのだ。阿人国は倭国軍の蹂躙するままに成っていた。俺とチュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)兄は、穂卑河大将を父と慕っていた若衆を集め「ホピカ自由青年同盟」を組織し遊撃戦で抵抗したが如何せん多勢に無勢だ。多くの仲間を失いながら俺達はメアンモシリに逃げ込んだ。
ポロモシリの民は主な村を倭国軍に焼かれ山奥に逃げ込んだ。だから、阿佐麻兄や穂煮火小隊長、そして羽茶霧姉さんとチュプカセタの親子の行方も分からなくなってしまった。ポロモシリは、ほぼ壊滅状態だった。
しかし、その時思わぬ助け舟が入った。狗奴国の若き王ホスセリ(穂須世理)だ。穂須世理王は、倭国王の秤王に阿人国から撤退するように進言した。穂須世理王がそう倭国王に進言したのは、若き王の義侠心から出たものだったが、実は秤王の意向も含んでいた。
知っての通り狗奴国は倭国の中でも強国だ。その穂須世理王の進言は、倭国の重臣共には退けられない。そして、末盧国の比羅夫大統領が大きく頷くと「阿人国からの倭国軍撤退」は決まった。
秤王は、我が意を得たりとばかりに、臼太子の倭国軍を緊急に阿人国から撤退させた。臼太子を担ぐ重臣達は激怒したが、狗奴国、末盧国に加えて稜威母勢や高志勢もこれに賛同したので歯軋りをするしかなかったようだ。だから、重臣達は狗奴国と末盧国の内乱を企て始めたようだ。
倭国軍が撤退すると、俺達はアユチノウミ(東風茅海)からルルム(流留無)に上陸し状況を把握し始めた。そして、阿佐麻兄や羽茶霧姉さんにチュプカセタの親子とも藍実で再会できた。穂煮火小隊長が皆を守っていてくれたのさ。
しかし、それから二年後羽茶霧姉さんがこの世を去った。死因は流行病だったが、この戦いの心労が死を招いたのは明らかだった。だから今でも俺と蛛怖禍茶辺兄は「ハチャム姉さんは倭国に殺された」と思っているのさ。
その時チュプカセタ(東犬)は十二歳だった。しかし涙は溢さなかったよ。怒りが涙を止めたのか、悲しみの心も亡くしたのかは俺には分からない。だが、陽気で愛らしかったチュプカセタはあの頃から変わった。
それから五年後、ついに倭国の重臣達は狗奴国の反乱を引き起こした。俺達「ホピカ自由青年同盟」は、稜威母の安曇様に願い出て、ホオリ(山幸)王の反攻軍に参戦した。その中にはチュプカセタもいたのさ。チュプカセタは、俺の許で武術を習っていたのさ。ほとんどの戦士は初めて敵を殺めた後は虚無状態に陥る。立ち直りが早い奴は一日で次の戦いに向かう。だが数日は使い物に成らなくなる奴が多い。そして、中には立ち直れなくて脱走する奴もいる。しかし、チュプカセタにはそれが無かった。
狗奴国の反乱から二年後、俺達「ホピカ自由青年同盟」は、火尾蛇大将の配下となり投馬国に向かった。だから、チュプカセタの初めての戦闘は、投馬国のオボダ(於保田)の津だった。ワニ族(鰐)の軍舟で上陸すると、チュプカセタは雲龍刀を腰に差し駈け出した。そして瞬く間に一人の敵の首筋を切った。二人目は脇を切り上げた。三人目は喉を突き絶命させた。それから敵陣を走り抜けながら切りまくった。チュプカセタが切り開いた血路に、火尾蛇大将の反攻軍がなだれ込み、敵は耐えられず逃げ出した。戦闘が終わると、チュプカセタは何事もなかったかのように干飯を口に運び水を飲んだ。
そして、次の日も同じように戦った。俺は、チュプカセタの心が壊れているのではないかと心配になった。それは無情の殺人剣なのだ。ホオリ(山幸)王が狗奴国を奪還する少し前のことだった。その日、血刀を拭きながらチュプカセタは、ふーっと大きなため息をついた。俺は「おい、大丈夫か」と声をかけたが、奴は「いや、ちょっと喉が渇いただけだ」と言った。そして翌日の海戦で奴の姿を見失った。「矢を受けて海に落ちた」とか「舟ごと転覆し皆溺れて死んだ」とか中には「自分で首を切りつけ海に落ちた」等と、あやふやな目撃談を聞かされたが、謎の多い戦死だった。まぁ俺には、チュプカセタが討ち取られるなど考えられなかったので「嫌忌の渦に呑み込まれたのだろう」と思っていたのさ。その後のチュプカセタのことは知らないが、やはり生きていたか。やれやれ、根なし草になるとは困った奴よ。
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と、火斯気は陰鬱な声を落として話を終えた。
でもドキョン(東犬)は根なし草ではない。余程、火斯気にアヘンの夫婦連の話を聞かせてやろうかと思ったが止めた。きっと火斯気には理解不可能だろう。でも、ドキョンは、私が火斯気に会っていると知ったら驚くかしら。今頃ドキョンは、ウェイムォ(濊貊)の海辺の村々を旅していることだろう。もしかしたら鯨海で会えるだろうか? その時には「戦さ場から人知れず逃げ出す業」を教えてもらおう。きっと私にも必要に成る筈だ。何しろ、私とドキョンは戦さ場の神から好かれているようだ。困ったものである。ねぇドキョン。
⇒ ⇒ ⇒ 『第16部 ~ 火球落ちる ~』へ続く
卑弥呼 奇想伝 | 公開日 |
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