海外地理紀行 【全15回】 | 公開日 |
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(その1)ジブラルタル紀行|公開日は(旅行日(済)) | 2001年8月1日 |
(その2)スイスルツェルン駅の一日|公開日は(旅行日(済)) | 2003年3月1日 |
(その3)ベルリンの壁その前後|公開日は(旅行日(済)) | 2003年11月1日 |
(その4)プラハとバイロイト|公開日は(旅行日(済)) | 2006年9月4日 |
(その5)2009年の香港と広州|公開日は(旅行日(済)) | 2009年3月11日 |
(その6)デンマークの2つの世界一|公開日は(旅行日(済)) | 2010年2月1日 |
(その7)2014年10月 ミャンマーの旅|公開日は(旅行日(済)) | 2014年10月15日 |
(その8)地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」|公開日は(旅行日(済)) | 2005年2月1日 |
(その9)2015年10月インド鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) | 2015年10月17日 |
(その10)2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) | 2014年12月1日 |
(その11)2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道)|公開日は(旅行日(済)) | 2019年12月1日 |
(その12)リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅|公開日は(旅行日(済)) | 1993年7月21日 |
(その13)2023年スペインの歴史を知った旅|公開日は(旅行日(済)) | 2023年5月25日 |
(その14)鉄道で辿るゲーテのイタリア紀行|公開日は(旅行日(済)) | 2024年3月9日 |
ゲーテの「イタリア紀行」を読んだ。1786年から2年間にわたって、ドイツからイタリアの南端シチリア島までの旅行記である。私はゲーテに対しては、詩人か作家といった程度の認識しかなかったが、これを読んで実に多岐にわたり能力のある人物であることを知った。自然科学者であり、地質学、生物学など幅広い博学の持ち主であり、そして法律家、政治家であることを知った。だから紀行文には、単なる物見遊山的なものではなく、行く先々の地形、地質、植生などがかなり詳しく専門的に述べられており、さらにその地の統治形態など政治的なことも述べられている。一度読んだだけではなかなか理解できない部分も多々あった。
わからないなりにも、魅力的な文面に引き付けられ、自分も行ってみたくなり、生来の「乗り鉄」資質が刺激され、同じコースを鉄道で辿ってみたくなった。ただし一度にシチリアまでは行けないので、今回はヴェネチアまで、家内と2人で行くこととした。
なおゲーテがこれを出版したのは旅行30年後の1817年のことである。この間フランス革命、ナポレオンの興隆から失墜までヨーロッパ史は大変革の時代だったのに、それらのことは紀行には触れられていない。だから彼の文章は旅行中、或いは直後に書かれたものだと思う。
世界に知られた歴史の地 ワイマール
ゲーテは、生まれはフランクフルトだが、1775年26歳のときにワイマールに移住している。その前年に出版された『若きウェルテルの悩み』が大評判になり、彼の名は既にヨーロッパ中に知れ渡っていた。当時神聖ローマ帝国は日本の江戸時代に約300の藩があったのと同じように300くらいの領邦国家があった。そのなかのひとつ、ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国の国王から招請され、この地に移住し、やがてこの国の宰相になる。日本で言えば、藩の筆頭家老といったところか。国王と言っても当時まだ18歳のアウグスト公は、父親が死去して即位したばかりで、ゲーテを兄のように慕い、政務など彼を大いに頼っていたそうだ。
だから筆者もこの旅のスタートをワイマールと決めた。わが家の娘家族が住むスイスのルツェルンを朝8時30分に出発し、丸1日かけバーゼル、フランクフルト、フルダ、エアフルトで列車を乗り継ぎ16時過ぎにワイマール駅に着いた。そして駅前のホテルに荷物を預け、街の中心部まで歩いた。
ワイマール(Weimar)はドイツ語ではヴァイマーと発音するが、歴史の授業でワイマール憲法とか共和国などと教わったので、ここでは英語読みのワイマールを使うことにする。ドイツ・テューリンゲン州の州都であるエアフルトから東に20キロほど、人口約65,000人の静かな街である。チューリンゲン州は東西統合以前東ドイツに属していたが、それが理由かどうかはわからないが全体に地味な感じがした。
15分くらい歩いたところにある国民劇場の前には、ゲーテとシラーが並んだ銅像が立っている。1919年第一次世界大戦でのドイツ敗戦後、この国民劇場で新しい憲法制定の会議が行われたことから、ワイマール憲法ができ、この憲法に基づいた新生ドイツがワイマール共和国と呼ばれるようになった。この憲法は、当時は世界で最も近代的で民主的な憲法といわれていたが、その後ドイツは巨額の賠償金などから超インフレとなり国が混乱し、やがてヒットラーが台頭しナチス独裁の第三帝国となった。
なお第二次大戦後分断された西ドイツの憲法はボンで制定され、そのままボンが首都となった。ドイツを代表する文豪と楽聖であるゲーテとベートーヴェンに因んだふたつの都市を、それぞれ新しい国づくりの出発地にしたということは、ドイツ人には戦争には負けてもドイツの芸術への誇りと、それをもとにアイデンティティを失うまいとした意識のようなものがあったのかも知れない。なおワーマール共和国の首都はここではなくベルリンだった。国民劇場の前面広場に暫くたたずんでいると、世界史の現場に来たという感動のようなものを覚えるのだった。
その広場に続くもうひとつの広場には、市役所があり、ゲーテの時代から営業していたのではと思われるような古いレストランがあり、ビールとソーセージの夕食でドイツに来た気分を味わった。それにしても1ユーロが165円という超円安が、この旅の間中何よりも私たちを悩ませたことだった。
チューリンゲンからバイエルンヘ
ゲーテは1786年、国王などとワイマールから直線距離にして140キロほど南東にある温泉保養地として有名なカールスバード(現在はチェコ領でカルロヴィ・ヴァリ)に行き、8月29日、彼の38歳の誕生日をここで国王家族や友人などに祝ってもらっている。そして6日後の9月3日の早朝3時、誰にも言わずこっそりと抜け出しイタリアに向かった。たったひとり郵便馬車に乗った、というところから「イタリア紀行」は始まっている。国王だけは知っていたとか、従者が1人ついていたという説もあるが、彼の文にはそのようには書いていない。
そして翌朝10時にはバイエルン州レーゲンスブルクに着いたとある。彼は「この間24マイル半を31時間で踏破した」と書いているが、地図ソフトで見ると直線距離でも147キロ、24.5マイルをメートル法にすると39.4キロで計算が合わない。当時の度量衡がそうなのか、或いはゲーテの間違いなのかわからいが、今後の彼のマイル表記には、いちいち地図ソフトで確かめることにした。実際の走行距離はもっとあったはずだから、この間、途中馬は替えてもずっと走り続けたのかも知れない。追いかけられないように少しでも早く、遠くに行きたいと思っていたのかも知れない。
「ドナウ河の白波が石灰の岩肌に避け散る美しい景観が続く。この石灰はハルツ山麓のオステローデのあたりからのものと同類で、目のつんだ岩質ではあるが、概して多孔性である」とあり、今後しばしばこのような記述が出てくる。イタリアに入ってからの記述に比べれば、ドイツ国内のものは簡単でさらっとしている。そしてミュンヘンに着き、市内を観光し、インスブルックに向かうべくオーバー・バイエルン地方の山中の小さな町ミッテンバルドに向かっている。
私たちは日程の都合もあり、ワイマールからカールスバードには寄らずに、直接ミュンヘンに行き、さらにミッテンバルトに行った。まずワイマールの駅からローカル線のディーゼルカーで州都のエアフルトに戻った。ワイマールは幹線とは少し離れて並行するローカル線上にある旧城下町、と言ったところなので日本で言えば播州赤穂のようなところと言えなくもない。中央ドイツの中核都市といった感じのエアフルトで2時間ほど、トラムに乗って市内を見物し、ミュンヘン行きの超特急(ICA)に乗った。この列車はなんと5時間かけてハンブルグからベルリン、ライプチヒを通りエアフルトに来て、さらに2時間半かけてミュンヘンに行くという、ドイツの北端から南端に行く超長距離の超特急列車だった。
エアフルトからほぼ直線で120キロくらい南、バイエルン州に入ったバンベルクまでは高速新線を時速300キロ前後で走った。チューリンゲンからバイエルンの野山をただひたする駆けるという感じだった。その先ニュールンベルクを通りミュンヘンまでは在来線に並行する高速専用線や、ときには在来線上を時速200キロ前後で走った。日本と違いヨーロッパの各国では、レール幅が高速線も在来線も同じなので、高速線が全通していなくても所々在来線に乗り入れながら目的地に行ける。また駅も、高速線専用のものをわざわざ造らなくても、既存の在来線駅に乗り入れれば良いので、早い時期から高速列車を走らすことができる。残念ながら日本ではできないことである。
巨大なミュンヘン駅に着いた。ミュンヘンには以前にも2度ほど来て泊まったこともあるので、今回は街にでることはなく、チロル方面に向かうローカル電車に乗りかえた。ミュンヘンからチロル地方の中心インスブルックに向かうには、高速列車も貨物列車もその間にそびえるカーヴェンデル山脈を越えるのではなく、いったん東にウィーン方面に向かい、ドナウ川の支流イン川の河畔のローゼンハイムに行き、ここからイン川を遡るようにインスブルックに行く。この方が勾配のない線路を行けるので、時間的に早い。
しかしゲーテの時代以前から、バイエルンとオーストリアのチロルの間に横たわるこのカーヴェンデル山脈を通る峠越えの街道が通じており、ゲーテもここを通ったので、私たちもここを行くことにした。ミュンヘンからは途中のガルミッシュ・パルテンキルヒェンまで快速電車に乗った。途中小さな湖のほとりを走ったりしながら少しずつ高度を上げて行く。鉄道路線はゲーテが馬車で通った道とは少し離れているようだが、鉄道は勾配の緩いところを選んで敷設されたのだろう。
ガルミッシュ・パルテンキルヒェンはかつて1936年に冬季オリンピックも行われたこともある風光明媚な人口約27千人の都市である。ミュンヘンからの電車は大半がここ止まりで、ここからさらに山奥に行くには電車を乗換えなくてはならない。ミッテンバルドはここから2駅目だが、勾配を昇っているからか30分ほど要した。途中の山の斜面にはスキーのゲレンデが数多くあり、ロープウェイやゴンドラも多く設置されていた。
ヴァイオリン製作の町 ミッテンバルド
ミッテンバルドはかつての街道の宿場町でもあり、ゲーテも「願ってもない静かな村に着いた」と記しここに泊まっている。人口6千人ほどの、屏風のように切り立つカーヴェンデルの山々に囲まれた小さな村で、私も静かで心地よい村だと実感した。標高は920メートル、ミュンヘンの標高は520メートルなので400メートル登ってきたことになる。明日下るインスブルックは574メートルである。ここだけは駅前にホテルがなく、500メートルくらい離れたポストホテルという古いホテルに泊まった。鉄道の通じるずっと以前から郵便馬車中継のための旅館だったそうで、ことによるとゲーテも泊まっていたかも知れない。
またこの町はまたヴァイオリン作りでも有名である。世界的なヴァイオリン製作地としてはイタリアのクレモナが有名だが、プロの間ではこの地も良く知られているそうで、良質な木材に恵まれているのかも知れない。ヴァイオリンの聖地とも言われているそうだ。ここにはバイエルン州立ヴァイオリン製作学校があり、こじんまりとした博物館もあった。近所の子供たちにヴァイオリンを教えることで一時わが家の家計を支えてくれた家内のために入った博物館は、古いこじんまりしたものだったが、ミッテンバルトの歴史を詳しく説明したボード類も多く楽しめた。説明はドイツ語や英語だが、今はスマホのアプリでカメラを向けるとディスプレーには日本語に翻訳された説明文が出てくる。随分便利な世の中になったものだ。
夕食はホテル内のレストランで郷土料理だという鹿肉のグーラッシュというものを食べた。よく煮込んでいたようで柔らかくて美味しかった。鹿害が増えてきた日本各地で普及させたらよいと思う。
翌朝は一面の雪で、ホテルのベランダから見る周囲の山々は降る雪で霞んで見えなかった。天気が良ければロープウェイで山に登ろうと思っていたが、諦めてインスブルックへ向かう電車に乗った。
チロルの古都インスブルック
電車がミッテンバルド駅を発車すると間もなくドイツとオーストリアの国境を通過する。並行する道路には何やら国境を意味する標識のようなものが立っており、それらしい建物もあったが、車はスイスイと停まることなく通過していた。国境を通過するとすぐにシャルニッツという駅があり、ここが分水嶺のようでそこからは下りとなった。次に停まったゼーフェルト・イン・チロルは観光地の玄関という感じの立派な駅で、ここはノルディク競技で世界的に有名なところだそうだ。なお大半のドイツからの電車はこの駅止まりで、ここで始発のオーストリアの電車と接続するのだが、たまたま私が乗った電車はオーストリア国鉄の車両がドイツ国内に乗り入れ、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンで折り返してきたものだった。
間もなく電車はイン川の谷を見下ろす断崖上に出る。そしてここからは、いわゆる岸壁にへばり付いたような線路をそろそろと高度を下げながらインスブルック中央駅に向かう。天気が良ければ、飛行機の着陸時のような景色が見られたはずだが、生憎雲が多く、イン川にそって走る鉄道路線や道路が見えたのはビルの高さで言えば30階くらいになったときだった。
ゲーテは「イン川の渓谷に下って行く。馬車はずっとイン川の河流に沿って、険しく巨大な石灰の岸壁の道をガラガラ音を立てて下って行く。このあたりは言葉にできないほど美しく、日ざかりに薄靄がかかり、実にすばらしい。郵便馬車の御者は、私の望み以上に早く走らせた。」と書いている。ゲーテですら「言葉にできないほど」と述べているところを、どうして私がうまく述べられようか。電車は「私の望み以下に」ゆっくりと走っていた。
チロルの中心インスブルックは、ウィーンよりも前のハプスブルク帝国の首都だった古い都だ。高い岩と山々との間に開けた豊かな谷にある景勝の地で、私の大好きな都市であり、今まで2度来たことがある。特にトラムをはじめとする公共交通が私の考える理想的な形で機能している。市内を走る数路線のほかに、郊外の、それも山にヘアピンカーブを描きながら登って行く路線も2つあり、このトラムから見下ろす市内の風景も、また格別のものがある。
特にこの街で気に入っているのは、ヨーロッパの都市ではときどき見かけるものだが、路線バスもトラムのホームに着く、すなわちトラムと路線バスとがホームを共用していることで、電停(バス停)に設置されている電光の運行案内版には、バスかトラムかは関係なく早く来る順番に表示されている。もちろん運賃も共通なので、利用者は運行番号と行先だけを見てどれに乗るかを決めるので、バスかトラムかなどどうでもいいというだ。長いホームにトラムと数台のバスが縦に連なって停まっている光景は頼もしい。開業したばかりで大人気と言われている宇都宮のライトレールも、この方式でバスとの乗継ができるようにすれば、さらに利用者が増えるのではないだろうか。
そのトラムで市の中心部に行き、イン川の河畔にあるショッピングセンターの中にあった魚介類の店で昼食をとった。少し歩いた後だったのでビールが美味かった。ヨーロッパのレストランでは大抵は水も有料で、ビールの方が安い。ホタテのコキールもなかなか美味かったが、海のない国の山中の盆地で、ホタテは一体どこから持ってくるのだろうか。殊によると日本から、北海道あたりから取り寄せたのではないか、そんなことを考えながら食した。
ブレンナー峠を越えてイタリアへ
いよいよブレンナー峠を越えてイタリアに向かう。インスブルックからブレンナー峠は、直線距離では30キロほどだが、ちょっと前に降りて来たミッテンバルドよりも標高が高く、750メートルを昇らなくてはならない。降りて来るときは、切り立つ崖っぷちの斜面だったが、今度はイン川支流のシル川の谷間を登って行く。日本の山越えと同じように谷の地形に沿って急カーブを繰り返す路線だが、複線で貨物列車が頻繁に走り、ヨーロッパの南北を結ぶ重要な物流ルートだということがわかる。ここでもゲーテは「インスブルックから登るに連れて、景色はますます美しく、いかなる描写も及ばない。」と記している。旅客列車は1時間1本のブレンナー駅行きの各停電車があり、4両編成で立客が出るくらい結構混んでいた。これとは別にほぼ2時間に1本、長距離の客車列車がある。これは、北はドイツのミュンヘンやベルリン、東はウィーンなどのいずれかから来て、南はイタリアのローマやヴェネチアのいずれかに行く。インスブルック・ブレンナー間はノンストップだ。
ローカル電車の方は途中駅でどんどん客が降り、ブレンナーに着いたときは5分の1くらいになっていた。地図を見ると、ブレンナー駅は、長い島式ホームの中ほどにオーストリアとイタリアの国境があるのだが、それらしい標識の類は見つけられなかった。電車は島式の一部を切り取った行き止まり式のホームに着き、降りた客はぞろぞろと進行方向に歩き、かなり先の方に停まっていたヴェローナ行きの、イタリアの電車に乗りかえる。この駅で外に出る下車客はほとんどいなかったようだった。電化方式がオーストリアは交流30万ボルト、イタリアが直流3000ボルトなので、ローカル電車の直通はない。件の長距離列車は、この駅で15分くらい停車しているので、その間に電気機関車を交換するのだろう。
私は、このブレンナー越えをしたとたんに降り注ぐ南欧の陽光を浴びるのではないか、メンデルスゾーンの「イタリア交響曲」の冒頭のような感慨が得られるのではないかとひそかに期待をしていたのだが、それは期待外れだった。実はゲーテも「白状すると、私の旅はそもそも北緯51度でこうむったあらゆる不快な気候からの逃避であって、北緯48度ならば真の楽園に足を踏み入れられるだろうと期待していたからである。しかし、あらかじめわかっていなければならなかったことだが、この期待は見事に裏切られた。なぜなら、ただ緯度ばかりでなく、山脈、東西に国土を横切る山脈が、気候や天気の誘因となるのだから」と述べている。ゲーテの時代に比べれば地形図や路線図はいくらでもネットで検索でき、なおかつGoogle Earthでいかようにも伸縮自在な立体映像を見ることができる現在に、ゲーテと同じように期待していた自分がいかに時代遅れだったかが改めて思い知らされた。それにしても、メンデルスゾーンはどこの景色を見て「イタリア交響曲」冒頭のメロディを思いついたのだろうか。
なお、現在ブレンナー基底トンネルという、峠越えをしなくて済むような長大トンネルを掘削中である。これは欧州横断輸送ネットワーク (TEN-T)プロジェクトのひとつである、ベルリン – パレルモ間2,200キロメートルを高速鉄道路線で結ぼうとする計画のなかのものである。インスブルック駅を出るとすぐにトンネルに入り、そのまま 56 km先のイタリアのブレッサノーネの近くまで行くもので、旅客列車が250 km/h、貨物列車が160 km/hの速度で、現在2時間要しているこの区間を50分に短縮するものである。
完成予定は2032年と聞いた。面白いのはインスブルック出口の手前で二股に分かれ、一つはインスプルック駅に、もうひとつはインスブルック駅をパスしてウィーン方向に向かう本線に合流するものである。おそらく貨物列車用と思われるが、あるいはインスブルックを通過する長距離高速列車の計画もあるのかも知れない。尤も今でも、ウィーン方面からインスブルック駅には寄らず直接この山越えルートに繋がる迂回線ができていて、これは貨物列車に使われているようだ。
TEN-T計画とは20世紀期末からEUで検討されたもので、ヨーロッパ域内の通行を環境保護とエネルギー削減の見地から、飛行機や車ではなく、なるべく鉄道を利用させようとするものである。そのためには鉄道の高速多頻度運行ができるよう路線の改良や車両のスピードアップを行うとしている。路線については、全部で10区間を対象としており、その中で南北の改善を狙ったものが3本ある。西から順にオランダからスイス中部を通りイタリアに行くもの、今通っているドイツからインスブルックを通りイタリアに行くもの、そして東ヨーロッパからウィーンを通りイタリアに行くものがあるが、いずれもアルプスを長大トンネルで抜ける必要がある。このうち最も西に位置するものがザンクト・ゴッタルド基底トンネメルで2015年に開業、次がこのブレンナー基底トンネル、最も東のものがゼンメリング基底トンネルで、これの完工はもっと先になるらしい。
今ヨーロッパの主要都市間は格安航空会社であるLCCが安価で飛ばしているので、これらの鉄道網が出来てもどの程度が飛行機から鉄道に移転するかわからない、また長距離バスや自家用車からの転移もどの程度か予想はつかないが、環境やエネルギー面から鉄道利用が増えることを期待したい。
イタリアの中のドイツ 南チロル
ブレンナー駅周辺で泊まりたいと思っていたが適当なホテルが見つけられず、ブレンナーから40キロほど南のブレッサノーネという町に泊まった。この旅では荷物を預けてからすぐ歩き回れるよう、ホテルはどこも駅前にとることにしていた。そのようなホテルをネットで探していたらここが見つかったからだ。電車は、トンネルと曲線の連続で狭い谷を下り続け45分ほどでブレッサノーネに着いた。
この地域は南チロルと言われ、イタリアの中ではドイツ語も公用語とされている特殊なところだ。イタリアは日本の8割ほどの面積の国で人口は今の日本の約半分の6千万人ほどだが、20の州がある。そのうち5つの州が特別自治州となっている。この南チロルと言われている地域は、トレンティーノ=アルト・アディジェ州といい、特別自治州のひとつである。他の特別自治州は、離島であるシチリアとサルジニア、ほかにフランス国境とスロベニア国境にある小さな州である。
現在のイタリア共和国の前進であるイタリア王国が成立したのは明治維新より少し前の1861年だが、この地方の帰属についてはその前後オーストリアやバイエルンとの間でしばしば係争があった。というのは、この地方は昔からドイツ人が多く住み、長い年月ハプスブルク家の支配下でもあったからだ。第二次大戦後、周辺諸国との様々な協議の上、ドイツ語系住民へのある程度の自治権を付与するという条件でイタリア領有が決まり、現在に至っている。
なおイタリアには20州の下に110の県があり、このトレンティーノ=アルト・アディジェ州内も南北にボルツァーノ自治県とトレント自治県の2つがあり、特にボルツァーノ自治県の方がオーストリアに近く、より自治度が強いようで車内放送はまずドイツ語で、次にイタリア語だった。また駅名表記も独伊併記となっており、ブレッサノーネはイタリア語でありドイツ語ではブリクセンという。駅名表示などもBrixen/Bressanoneとなっていた。
駅の真ん前にホテルがあるというだけで選んだブレッサノーネは、単なる田舎町のひとつにすぎないと思っていたら意外に見どころのあるところだった。イタリアには日本の市町村に相当する基礎的自治体をコムーネと呼び、約8000あるが、ここのコムーネの人口は県都のボルツァーノに次ぐ23,000人で、この地方ではかなり古くからの古都だった。市街地は駅からは二つの川が合流する谷底に向かう斜面に街が広がっていた。
ホテルに荷物を預けてから1キロくらい下り道を歩くと街の中心部に出る。中世からバロック期にかけての古い石造りの建物が多く残っていて、狭い石畳の道の両側にはレストランや様々なショップが軒を並べていて、シャッターの降りている店も殆どなかった。その中の1軒でピザとパスタを1人前ずつ頼んだらとても2人では食べきれないボリュームで、悪いとは思いながら大量に残してしまった。
レストランではドイツ、オーストリアと同じように、店員とは英語で会話ができたが、客同士の会話は皆ドイツ語だつた。なおこの地方にはドイツ語とイタリア語のほか、ラディン語というレト・ロマンス語群に属する言語を話す人も1%くらいいるそうだ。これはスイスでも1%以下だが話者がいるといわれているロマンシュ語と同種のものだそうで、この県ではこの3語が公用語とされているそうだ。
帰りはホテルでもらったチケットで路線バスに乗った。苦しいくらいの満腹だったので、上り坂を歩かずに済んで助かった。それにしても、イタリアなんて日本の格下だろうと思っていたが、駅も街もきれいで賑わいがあった。1人当たりGDPでもいつの間にかイタリア28位、日本32位(2023年,当年為替レートによりUSD換算)で抜かれてしまった。さらに円安が進んだ現在はもっと差がついているだろう。地形の感じとか街の規模などからは、日本でいえば、首都から遠くはなれた山奥の豊後竹田とか豊後森とかいったところかも知れないが、どちらもこれだけの賑わいはないと思う。
ヴェローナへ
翌朝はヴェネチアまで行くので早めにホテルを出た。ブレッサノーネ駅前は列車が着くと大勢の下車客が路線バスに乗り換える。この街には大学もあり、近在からの通学者なのだろう、若者の姿が多かった。ここからヴェローナまで快速電車に乗った。県都のボルツァーノまでは各駅に停車するがその先は快速になる。狭い谷間を右に左にカーブしていた線路もボルツァーノでアディジェ川の流域に出ると、その後はこの川の細長く開けた盆地の中を進む。アディジェ川は、イタリアではポー川に次ぎ2番目に長い川でヴェネチアの近くでアドリア海に注ぐ。線路の両側には葡萄や小麦、大豆などの畑や、牧場が続き、数キロ先には山地が壁のように立ち、時にその山地から川が流れて出てくる。そこは教科書に出てくるような見事な扇状地を作っている。伊那盆地内の伊那市から駒ケ根に向かって進んでいるような感じでもある。
電車は快適に走り、駅に停まるたびに乗客が増え、いつの間にか立ち客も出てきた。同じ州のもう一つの特別自治県、トレント県の県庁所在地トレントに停まり、大勢の客が入れ替わり、さらに15分ほど走りロベレットに着いた。この辺りから谷がまた狭くなってきた。ゲーテの紀行によると、ここからガルダ湖という湖を船で進み、そこが絶景だとあり、彼によるスケッチも残っている。私たちは行程の都合で船を使う余裕はなく、列車からそれを眺めれば良いと思っていたのだが、それは全く不可能だった。
事前に地図を見ていればわかることだったが、列車が走るアディジェ川の谷とガルダ湖とは高くはないが山脈で隔てられていて、電車からは一度も見ることができなかった。ガルダ湖というのは、面積は琵琶湖の半分くらいだがイタリア最大の湖で、南北52Km、最も幅広な部分でも東西18Kmという細長い湖で鉄道開通以前はは南北交通の主要経路だったようだ。アディジェ川の西に山脈を挟んでと並行する川があり、なんらかの事情で下流が堰き止められ湖になった、といった感じである。結局この湖を見たのは、帰路ミラノに向かう途中、線路が南端をかすめたほんの一瞬だけだった。
ヴェローナに着いた。イタリア北部の穀倉地帯をミラノ方面とヴェネチア方面とを結ぶ東西の幹線と、南チロルからイタリア半島への南北の幹線とが交差する交通の要衝で駅も大きい。ゲーテはこの街に1週間逗留し、建造物や美術館の絵画などに拡張の高い評論を述べているが、私たちは15分後の次の列車に乗ったので街には出ず素通りしただけだった。
ヴェローナはアディジェ川の流域の下流に近い主要都市で人口が26万人、ヴェローナ県の県都であるがこの県はヴェネト州に属しているので、もうここはヴェネチアの文化圏・経済圏と言えるのだろう。古代ローマ時代の円形競技場跡や中世の町並みが残っていて、市街地はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているそうだ。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」もこの街を舞台にしている。
ヴェローナからヴェネチアへ
ここでヴェネチア・サンタルチア駅行きの特急電車に乗りかえた。フレッチャュロッサ(赤い矢)という高速列車である。イタリアの鉄道はEU各国と同様上下分離されていて、線路など鉄道施設を保有し維持管理を行っているRFI(レーテ・フェッロヴィアーリア・イタリアーナ)がインフラを担っている。その線路上を旧国鉄に相当するトレタニアがほぼ全国的な運行を行っている。フレッチャロッサはトレニタリアの看板列車であり、日本の新幹線と同じような専用路線の他、レール幅が同じなので在来線にも乗り入れ、全国の主要都市間を結んでいる。
乗ったのはETR1000という最新鋭の車両で、機関車方式ではなく日本の新幹線と同様の動力分散方式、最高速度は400km/h、国際列車でも使えるよう、ヨーロッパ各国の異なる電源や信号方式に対応できるそうだ。車内も快適で、車内モニター、WiFi、PC用ソケットなども完備していた。ただし、ドイツのICEもそうだったが、ヨーロッパの駅のプラットフォームは日本と比べはるかに低いので、乗降時には2~3段の階段を上下しなければならない。特にキャスターつきのスーツケースなどを持参しているときはかなり厄介である。今回の旅から戻った後久しぶりに日本の新幹線に乗ったときに、ホームと車両床が同一高さだったことに改めて感動を覚えた。日本の鉄道が誇って良いことである。
ヴェローナ駅を発車すると電車は間もなく在来線と並行する高速新線に入り、体感ではあるが、時速200Km以上は出していたと思う。間もなく高速新線が終わり在来線に乗り入れたが、これも体感であるが常磐線の「ひたち」の130Km/hよりも速く感じた。
終点ヴェネチアまでは乗らず、20Kmくらい手前のパドバで下車した。ヴェネチアのホテルは高額と聞き、パドバ駅前のホテルを2泊予約し、ここから2回、日帰りすることにした。ツインで朝食付き2泊で3万3千円だったから高くはない。まだ11時15分だったが、ホテルにチェックインでき、軽装でヴェネチアへ行くローカル電車に乗った。
ゲーテもパドバに泊まり、ヴェネチアには川を下る船で行ったとある。川から潟に出るとゴンドラが迎えに来て、それで島に上陸したとあった
パドバからヴェネチァまでは、前述の特急ならば15分くらいで行くのだが、特急料金のかからない普通電車に乗り各駅に停車しながらのんびりと行くと、20分くらいかけヴェネチア対岸のヴェネチア・メストレという駅に着いた。この駅は5方面から来る路線をまとめ、対岸のヴェネチァ・サンタルチア駅へ向かわせる扇のかなめのような駅で、プラットフォームを7本ももつ大きな駅だった。ここからサンタルチア駅まで約4Kmの海上橋を渡る。ここは特急も普通列車も、ノロノロと最徐行で進む。この橋は日本では幕末桜田門外の変の頃建設しており翌1861年に完成したそうだ。複々線(4線)の鉄道橋と並行して、橋脚を共有していると思われる往復6車線の広い道路橋もあり、こちらも車の往来が結構あった。橋の両端、一番外側の車線にはトラム用の線路も敷かれていた。
結局パドバからは30分近くかけヴェネチア・サンタルチア駅に到着した。事前に日本語ガイド・ツアーを申し込んでいたので、集合場所のサンマルコ広場まで歩いた。軽装で来て正解だった。島内はすべての道路が歩行専用で自転車も入れない。そして網の目のような運河にぶつかるたびに、それを越えるための橋を渡る、そのために数段から10段くらいの階段を上下しなければならない。しかも道路はデコボコの石畳なので、キャスターつきのスーツケースを持つ人が大勢いたが、気の毒に見えた。
サンマルコ広場という、サンタルチア駅からみると丁度島の反対側が集合場所だったが、道がわかりにくく、歩きにくかったこともあり、1時間くらい要し集合時間の14時ギリギリに着いた。客は家内との2人だけで、我が家の専用ガイドになってくれたのはバルバラさんというイタリア人の大柄な女性だったが、日本留学の経験もあるといい、日本語は堪能だった。
千年続いた共和国 ヴェネチア
ヴェネチアはアドリア海の最奥にある潟(ラグーナ)の中にある約120の有人島と本土を合わせ人口25万人ほどの都市(コムーネ)であり、ヴェネチア県の県都、ヴェネット州の州都である。しかしここは18世紀末までは千年以上続く独立国家で、地中海貿易による大海洋国家でもあった。もちろん千年の間には栄枯盛衰があり、最盛期15世紀には東はキプロスから西はイタリア北部までのかなりの部分を領有していた。しかし16世紀、大航海時代に入り貿易の中心がスペイン、ポルトガルに移ると徐々に衰退し、さらにこのころ勃興したオスマントルコに次々と東部の領地を奪われた。そして1797年ナポレオン軍に敗北、ヴェネチァア共和国は正式に消滅し、その後のウィーン会議などを経てオーストリア治下の港湾都市となった。その後も何度か変遷を繰り返し、1861年イタリアの統一が成り、イタリア王国に編入され現在に至っている。
また、ヴェネチアは皇帝や国王を擁するのではなく、終始国民から選ばれた大統領(ドージ)と国会に相当する評議会が対等に権限をもつ共和制の国だった。歴史を含めこれらのことは、共和国の政庁だったドゥカーレ宮殿の内部を見学中にガイドから説明を受けて知ったことだ。内部は皇帝や国王が好む華美とか豪華絢爛という面影はなく、執務室や議場、裁判室から牢屋までいずれも実用に即した造りだったように感じた。
大統領に分相応以上の待遇が与えられず、独裁を続けてもあまりメリットがないという、ここでの常識のようなものをあえて作ったのかも知れず、共和制が千年も続いた理由が、ひょっとしてこんなところにもあったのでは、と愚考した。歴史の中に、たまに独裁的な大統領が出ても、評議会や裁判で罷免され、その者の肖像画も破棄されたという話も聞いた。
なお多くの観光案内書などではドージのことを大統領ではなく、総督と訳している。総督とは通常は植民地の最高位など本国から統治をまかされた者に対する呼び方で、確かに初期の頃は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の統治下だったが、同帝国は徐々に縮小し、15世紀には消滅しているので、ヴェネチアは完全な独立国である。ガイドのバルバラさんは、最初から大統領と呼んでいたが、私もこの呼び方が正しいと思う。
ガイド・ツアーといっても、このドゥカーレ宮殿と隣接するサンマルコ寺院を案内されただけで、後はゴンドラに乗ることがコースで、ガイドとはゴンドラ乗場で別れるという、僅か1時間半ほどの付き合いだった。でも街の見物の仕方、ヴァポレットという水上バスの乗り方や24時間パスの買い方などの情報を得られたのは収穫だった。サンマルコ寺院は、ヨーロッパではどこにでもある教会と何が違うのかわからず、印象も感慨も残らなかった。
ゴンドラは船頭の他5人乗りになっていたが、乗船客は家内と2人だけだった。料金はガイド料金に含まれいるので、2人だけの客では船頭の取り分がいかほどなのか、そのせいかどうかわからないが、30分の行程の間、船頭は一言もしゃべらず櫂を漕いでいるだけだった。ゴンドラ同士がすれちがうのもやっとという狭い運河から、大小の船がひっきりなしに通る大運河に出て、再び狭い運河に戻ると言うコースだったが、大運河を除いては、街の、建物の裏ばかりを通り、裏面を見せられたという風でもあり、これはこれで面白かった。
その後人通りの激しい狭い道を、人をかき分けるように歩き、すぐ運河にぶつかるのでその度に階段を上下しつつ夕食の店を探した。探すといっても、両側の殆どはレストランで、どの店も大声で客の呼び込みをしている。「僕が案内すれば安くするよ!」という案内人の言葉に、騙されたと思って入ってみた店で、海鮮料理を食し、まあまあの味だったが、ここでも円安の苦さを味わった。
1日目は、サンマネコ広場前から水上バスで大運河をサンタルチア駅前まで戻ることにした。しかし間違えて反対方向に行く水上バスに乗ってしまったので、潟を囲む、外海から潟を守る防波堤の役割をしている細長い半島の先端部のリドというところに行ってしまった。そこの船着き場前には路線バスやタクシーが下船客を待っていた。もうすでに暗くはなっていたが、間違ったおかげで、ヴェネチアの潟の中を船で横切ることができ得をしたような気分になった。サンタルチア駅前まで1時間以上水上バスに乗り続け、電車でパドバに戻った。
沈み行くヴェネチア
翌朝もパドバからサンタルチアまで電車に乗り、駅前から水上バスで再度サンマルコ広場に行った。ヴェネチア本島は太った魚のような形をしており、その真ん中を逆S字形の約3キロにおよぶ大運河が貫いている。運河の幅は平均50mくらいありそうで、この運河をまたぐ橋は4つしかない。運河が本島を2分している、或いは本島は2つの島からできていると言っても良いくらいだ。水上バスがヴェネチア唯一の公共交通機関であり、大運河を航行するものの他、周辺の有人島とを結ぶものが頻繁に出でいる。
サンタルチア駅前からサンマルコ広場までの大運河を航行するものが幹線で、船は2~300メートルごとに、ほぼ運河の右岸と左岸に交互にある停留場(桟橋)に停船しながら進む。そしてその都度船員が杭にロープを巻き付け、客の乗降が終わるとそれをもとに戻す。乗降口は船の右舷左舷の両方にあり、船員はデッキ上満員の乗客をかき分けるように、右舷と左舷を行ったり来たりする。船の舳先には運行番号が書かれた大きな円盤が掲げられているので、どこへ行く船なのかがすぐにわかる。路線バスのようだ。
船には各停と快速とが交互に、日中は各々24分毎に運行していているが、各停ではサンタルチアからサンマルコ広場まで15カ所に停まり45分くらいかかる。これに対し快速は半分以上を通過するがそれでも30分近くは要す。料金は75分間に何度でも乗れる1回券が9.5ユーロ(約1600円)だが、ガイドの奨めで昨夕購入した24時間チケット25ユーロ(約8200円)を使用した。それにしても大変な混雑で、次の便まで待たされることもあった。桟橋には2カ所の入口があり、市民用と一般用に分かれている。そして常に市民用が優先で、市民が乗り終わってから一般客を乗せる。市民用は1回券が2.5ユーロ(約410円)だそうだ。最近日本でも、円安の影響もあると思うが、インバウンドが増え京都など有名観光地ではオーバーツーリズムと言われ、住民のバスなど公共交通機関の利用が困難になってきているそうだ。さすが観光先進国のイタリアだ。ヴェネチアの方式など参考になるのではないだろうか。
サンマルコ広場を囲むような古い建物のひとつが歴史博物館で、件の24時間切符で無料で入場できた。ヴェネチアの海洋国時代のガリオン船の模型などが多数あり、また近世ハプスブルク治下となったときの文物も多数展示されていて面白かった。昼食は、館内のカフェテリアで安く済ませた。
すぐ近くに鐘楼という高さ100メールほどの赤レンガの塔があり、いつ建てられたかは不詳だがかつては灯台の役割を担っていたものらしい。しかし当初のものは20世紀初頭に突然壊れ、すぐに鉄筋コンクリートの現在のものに再建された。もちろん表面はレンガで化粧するなど、見た目には周囲の建物と調和しているが、内部にエレベーターも設置され展望台として登れるようになっていた。でも有料だったのでパスした。
しかしゲーテはこの塔に登っている。もちろん倒壊前なのでご苦労ながら階段の上り下りだ、しかも2度も登っている。科学者らしく、汐の干満の様子を見るために満潮時と干潮時の2度登ったのだ。そして干潮のときの記述に、「水がかなり少なくあちこちに地面が露出している」と記している。そして「湿地植物の成長によって、土地が年々隆起して、今後陸地が増えるだろう」と記している。
彼がこれを見た1786年というのは、日本では天明の大飢饉の真っ最中だった。この頃、日本の浅間山だけでなく、アイスランドで複数の火山が大噴火し、火山灰やガスが北半球のほとんどを覆ったため、飢饉が世界中で起きていたことが、今はわかっている。10年前にアメリカ13州が独立し、3年後にフランス革命が起きたときであり、この飢饉がフランス革命の遠因ではないかとまでいわれているそうだ。そんな時期の海面は今よりも低かったのかも知れない。いずれにせよ、観測体制が発達し、情報が容易に入手でき、かつAIによる予測もできる現在にゲーテが生きていてこの塔に登ったら、彼はどのように判断するだろうか。
ヴェネチアの洪水災害について興味があったのでガイドにいろいろと聞いた。ヴェネチア湾ではアックア・アルタという異常潮位が近年だんだん激しくなっているそうだ。原因は大潮、低気圧、アドリア海の東南から吹く風による高潮などだが、地球温暖化と地盤沈下の両方がそれに拍車をかけているらしい。サンマルコ広場のあちこちに、ベンチがたくさん積み上げてあるなと思ったら、それはベンチではなく、浸水時に人が歩くための臨時の通路、いや渡り廊下のようなものだった。そういえば鉄の支柱と木製の厚板で作られ、ベンチにしては高いなと思った。これを使うことは最近結構多いそうだ。
市では洪水被害をなくすために、モーゼプロジェクトという、アックア・アルタ発生時に潟の狭い入口を閉めることのできる可動式の水門を建設中だ。水門といっても、景観を守るためか普段は水の中に横になって沈んでいて、必要時はそれを縦にする、それを全部で80枚近く設置するそうで、大変な工事らしい。これがうまく作動すれば洪水被害は防げるということらしいが、年々海水面が上昇している現在ではいつまで持つものなのだろうか。でもヴェネチアの人はまだ良い。いよいよ島が沈んだら本土に逃げれることができる。本当に気の毒なのは、太平洋やインド洋の島嶼国で、どこにも逃げるところがない。海面上昇を防ぐ方法はないのだろうか。
家内の希望でガラス工芸の島であるムラーノ島に行った。リアルト橋まで歩き、水上バスでサンタルチア駅前まで戻り、ムラーノ島へ行く水上バスに乗換えた。ひとまわり小さい船で、大運河を数百メートル戻り左折して中規模運河に入り、さらに数百メートルで島から抜け出し潟に出た。鉄道の鉄橋が1~2キロ先にあり、鉄橋上を徐行、あるいは一時停車をしている列車を見ることができた。 ムラーノ島は本島から1Kmくらいしか離れていない周囲5Kmもない小島だが、ヴェネチアン・グラスを生産する島として世界的に有名だ。共和国時代の政策で、ガラス職人をすべてこの島に移住させ、ここに工場を集約した。この島自体も、運河が縦横に走り、本島からの船はその運河に入り、数カ所の船着場に寄り周遊する形で本島に戻る。15分ほどで最も本島に近いムラーノ・コロンナという船着場に降りると、ショップとガラス工房が併設された店がずっと続く、小さな運河に沿ったメインストリートがあった。そこをブラブラ歩き、ガラス博物館に行き、土産物を買ったりして、博物館前という船着場から本島に戻った。
本島内の運河に戻ったがサンタルチア駅前では降りず、そのまま終点のローマ広場まで行ってみた。ここは自動車交通の結節点ともいえる場所で、本土から道路橋で渡って来るすべての車はここから先、島の中には入れない。だから付近には大きな駐車場がいくつもある。トラムの終点電停もあったが、まだ営業運転はしていないとの話だった。ここから鉄道駅であるサンタルチア駅までは、歩いて10分もしなかった。
頑張れ日本の鉄道産業
パドバに戻る電車は、特急型でないローカルタイプのものだったが、複々線の高速路線を走ったので、メッセ以外は通過し、30分ほどで着いた。電車はダブルデッカー(2階建車両)で1階の大部分はホームの高さに合わせた低床式になっているので、乗降は楽だ。良く見ると新型の車両はすべてそうなっている。そしてそれらの車両にはHITACHIの文字が書かれている。
ヨーロッパには日立レールという鉄道車両の製造だけでなく、納入先の鉄道会社に対し保守点検サービスや運行管理のサービスまで行っている企業がある。イギリスに本部を持つ日本の日立100%の子会社である。2015年にイタリアを代表する重工会社であるフィンメッカニカから鉄道部門を買収したので、これ以降に導入したイタリアの車両の大半はHITACHのロゴをつけいてる。コンセプトは日本の新幹線や通勤電車の車両と同じものが多いが、製造はイタリア国内で行っている。他にイギリスでも高速鉄道の車両の大半は日立レールのものだが、こちらは日本で製造している。ヨーロッパでは伝統的にドイツのシーメンス、フランスのアルストムが強く、両者の鉄道車両部門の統合もなされているが、それに次ぐメーカーとして日立は頑張っている。日本人としてこんな嬉しいことはない。
パドバに戻り、トラスロール式というレールが1本だけのトラムで市の中心部を見物した後駅前に戻り、中国人夫婦が切り盛りしている駅前食堂風イタリア料理店で、安いピザとパスタの夕食をとった。
そして翌朝、スイスに戻るためにトリノ行きの高速列車フレッチャュロッサに乗った。ヴェローナを過ぎ、ゲーテが絶景だと書いていたガルダ湖の南端を一瞬右窓に見た。高速新線を超高速で走り、工事中の新線を横に見ながら在来線を特急「ひたち」並みの速度で走ったりしながら、ミラノのポルタ・ガリバルディ駅で降りた。
地下鉄でミラノ中央駅に行き、スイスのチューリッヒに行く国際特急列車ECに乗った。スイス国内に入り、イタリア語圏とドイツ語圏とを分かつ2015年に開通したザンクト・ゴッタルド峠の基底トンネルは、昨年貨物列車が起こした脱線事故の影響でまだ旅客列車は走れず、峠越えの旧線を走った。1時間くらい余計に要したが、この方が景色を堪能でき、ずっと楽しかった。
ゲーテの書によると、240年前、9月3日早朝カールスバードを発ち途中で寄り道をしながら、26日間かけてヴェネチアに着いた。私はワイマールから3日かけて来たが、急げば1日で来ることができたはずだ。いつも早回りを得意とする自分だが、今回は少しでもゲーテの気分に浸ろうかと、ゆっくり来たつもりである。本当はもっとゆっくりと来たかったがホテル代を考えると、この辺りが限度だった。円の強かった20年前であれば、3倍くらい宿泊できたと思う。
なお、ゲーテはこの先、ローマで半年近く滞在し、シチリア島のパレルモまで行っている。そしてあしかけ2年かけて翌年ワイマールに戻っている。さらにその翌年1890年、再度イタリアに出かけたが、このときは幻滅を感じ半年で戻ったという。フランス革命が起き、ヨーロッパ全体が騒然としてきて、旅行どころではなかったのかも知れない。
その後ゲーテは、引き続きワイマール国の政治に関わりながら、シラーと親交を結び、創作活動に重点を移しつつ、57歳のときに大作「ファウスト」の第1を完成させている。そしてこのイタリア旅行の30年後、68歳になった1817年「イタリア紀行」を発表している。73歳のときに19歳の少女に恋をするなど波乱に富んだ人生を送り「ファウスト」第2部を完成させた翌年1832年、83歳で生涯を閉じた。
シチリア島まで行ったゲーテのイタリア旅行にくらべれば、その半分にも及ばない今回の私たちの旅だった。私もまだゲーテの死の年まで数年残されているので、出来ることならばもう少し先まで行ってみたい、そんな気持ちでこの旅を終えたのだった。
鉄道等公共交通機関利用記録
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