著者プロフィール                

       
はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 〜 私の良き時代・昭和!(その1)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 〜 私の良き時代・昭和!(その1)

はじめに

これまで一人の人間として半世紀以上を過ごしてきた。思い返せば瞬く間に過ぎていった感がある。この間、小さいながらも色々な経験と出会いがあり、貴重な体験の連続でもあった。人間の素晴らしさ、汚さ醜さ、また尊さを味わった。

日本は戦後の復興期を上手く乗り越え、ある程度の経済発展を遂げた。その後も総中流階級社会という繁栄を謳歌し、そして今、アメリカ流儀の生活様式が広がるなかで、豊かさの裏返しともいえる「自由に基づく個人主義病」が蔓延し、病める日本といわれるようになってしまった。ここでいう自由とは「我儘な自由」とでもいっておこうか。日本語には自由という一つの言葉しか存在しないが、英語には「フリーダム」と「リバティ」という二つの自由があることは有名な話である。

簡単に説明すると、前者は「当然あって当たり前の自由」、後者は「なかった自由を戦いで勝ち取った自由」である。日本はリバティの経験がなく与えられたフリーダムしかない。言葉も自由という表現しかない以上、その自由のなかには犠牲を強いてでも自由を勝ち取るという能動的な価値が欠落しているといってよい。
つまり日本の自由は個人レベルの我儘なものに埋没し、個人的な権利主張の道具として利用されているに過ぎない。

文化という言葉も同様で、英語には二つの意味があるが、このことについては本文中に詳しく述べることにする。

さて、これからの日本、澱める心と精神の行き着く先は一体どうなっていくのであろうか。

そう思いながら自己の体験や諸々の出会いを振り返りたい、という気持ちが大きくなってきた。私のささやかな過去(昭和時代)の出来事、特に活気に充ち溢れていた戦後復興期の良き昭和という時代を思うままに任せて、綴ってみたくなった。

平成の御世が終わり、新しい「令和」の御世になったため、激動の昭和時代は更に一世代後退し、ますます遠い存在となっていく。私自身、戦前・戦中・戦後直後という激動の時代は経験はしていないが、運よく戦後復興期を生きた幸せな世代である。その私自身も人生の七~八合目にさしかかっているといえる。山の高さは人によって様々だが、「この高さから眺める現在の景色は」と問われると答えに窮してしまうだろう。

忙しく慌ただしい時代、前を向いて歩いていくしかないが、時には意識して足元を見つつ後ろを振り返ることも必要だろう。過去も永遠に広がっている。その過去に対して尊敬を払うこと、つまり過去を大切にしなければ新しい価値あるものは何一つとしてつくりだすことはできない。

数学者の岡潔(一九〇一~一九七八年)は「人間の中心は情緒だ」といっている。戦後日本の生き方は勉強や知識のことだけで夢中になっており、人としての心、所謂、情緒の必要性を忘れてしまっている。一番大切なことは論理や理屈ではなく情緒である。美しいものを見て美しいと感じる心である、私たちは自然と人の世の情緒の中で暮らしているといってもよい。現代の日本は戦後の新しい考え方さえ学べば、戦前の古い考え方を侮辱し否定してもかまわないといった風潮があるようで、私には大きな勘違いをしているように思えてならない。古い感じ方や考え方を否定したとしても、新しい感じ方を得られるものではないことを知るべきである。人間(日本人)の支柱(大和心すなわち情緒)は戦前戦後を通しても、そう簡単には変わるものではない。この繊細で日本人同士でなければ通じない感受性を大切にしていかなければならない。しかし戦後教育における特に文化学(論)の世界では、この感受性(情緒)を無視あるいは侮蔑し続け、傷だらけにしてきたのである。人間は頭より心(情緒)が大切であることは誰にでもわかるのだが、過去の歴史認識の共有が断絶されたことから、特有の社会的、個人的エゴイズム(利己主義)により、統一体としての大事な核である情緒がないがしろにされてきたのである。学問に秀でていることと教養があることとは決してイコールではない。

日本人は豊かな時代よりも貧しい時代の方が人間として立派な生き方をする民族かもしれない。

西郷隆盛の有名な詩文に次のようなものがある。西郷自身は一冊の著書も残していないが簡潔で正義感のある多くの詩文を残している。それは知行合一そのものである。


道は一つのみ「是か非か」
心は常に鋼鉄
貧困は偉人をつくり
功業は難中に生まれる
雪を経て梅は白く
霜を経て楓は紅い
もし天意を知るならば
だれが安逸を望もうか


また西郷は徳が多ければそれに順じて財が生じる。徳が少なければ財も減ると指摘する。つまり、徳に励む者には求めなくても財が付いてくるというのである。西郷は日本を健全な道徳的精神の上に構築しようと悪戦苦闘した偉大な人物といえる。この道徳こそが日本人の情緒そのものではないだろうか。

現代の日本は心の問題を忘れて、忙しい日常に追われているのが実情であり、いくらがむしゃらに働いたとしても「人生は本当に短い」が、「人生は使い方を知れば長い」ともいえる。プラトンの弟子で万学の祖である賢者アリストテレスが自然を相手取って「多くの偉大な仕事のために生まれた人間には、遥かに短い時間(寿命)しか存続できないのは不公平である」と告訴しているそうだが、人間の寿命が短いということではなく、人生の多くを人間自身が放蕩(ほうとう)や怠惰で浪費し、また無駄な苦労をしつつ厄介な骨折り仕事に費やし、自我の欲情のままに濫費してしまうから、真の幸福追求の時間(真の人生)が短くなってしまう。そういうものは人生ではなく単なる時間の経過に過ぎない。

しかし、人生の足を引っ張る諸々の悪い環境が襲ってくる中で、人間はその波に飲み込まれることの無いようによくよく考えねばならない。まず心に留めなければならないことは「一体自分の努力する目標は何であるのか。その目標を達成するためにはどのように生きていく必要があるのか。その道のり(行程)も把握しなければならない。決して世の中の模倣に同調して生きることだけは避けなければならない」と二〇〇〇年前に生きた実践哲学者であるセネカはいう(セネカ著『人生の短さについて』)。

我々は日頃から常に雑念(煩悩)や観念で動くのではなく「どういった心情(こころも)ちでいるか」ということを大切にして生きたいものである。

少々長くなってしまったが、本書の狙いは私という普通の人間が経験してきた普通の生活を、また人との出会い、書物との出会いを通じて昭和~平成を通じて体験したこと、学んだことを何らかの形で残しておくということである。あくまでも小さな個人の物語であり、そこは気負わず自然体で流れのままに筆を進めることにする。今回は第一編として高校時代までを語ることにする。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日