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第3章 〜 消えた足音(その3)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第3章 〜 消えた足音(その3)

 十七時から始まる夜間勤務者との引継ぎも済ませ、金沢春香はシルバーメタリックのサイクリング車に乗って職員駐輪場を後にした。小高い丘の中腹に建つ介護施設〈コスモスの里〉から国道までの坂道は、大きな桜の並木が続いている。好き放題に伸びる枝に邪魔されてか街路灯も薄暗く、早めに暮れていくこの季節は油断していると転倒事故を起こす危険もあった。まして、こんな風の強い夕暮れはなおさら気を使う。

 国道へ出てからも、横から吹きつける風にあおられ、春香の乗るサイクリング車はハンドルを取られ一瞬ふらつく。追い抜きをかけてきた大型トラックのクラクションが耳の真横で響いた。気を引き締めようと片手でダウンベストの襟を立て、ゴーグルの曇りを指で拭った。

 明日は久しぶりに彼と休みが重なり、六甲の山頂へドライブする約束になっている。そのことが気持ちを引き立ててくれるわけではないけれど、部屋で一人いるより少しは気分転換になる。近くのスーパーに寄って、明日のお昼の弁当に入れる材料を見繕っていくことにした。

 アパートの駐輪場に自転車を止めていると、強い風にあおられたコーヒーの空き缶が鉄柱に当たって寂しげな音を立てた。蛍光灯に照らされたまっすぐな廊下を部屋のドアへと急いだ。スチールドアのキーを回した途端、思わず顔をしかめた。右手首から肩へと鋭い痛みが走った。視線を落とすと長そでのセーターの袖から、真新しい包帯がのぞいている。痛みが引いていたため、春香は昼間の出来事をすっかり忘れていた。

 〈コスモスの里〉の昼下がりのことだった。利用者に順番で入浴してもらう段取りをしていた。利用者の中には昼ご飯より、午後の入浴を楽しみにしている人も多い。そんな中で藤崎のおじいちゃんが、「順番が遅い」と不平を言い始めたのだ。一度文句を言いだすと止まらない人だということはわかっていた。なだめて待ってもらうしかない。車いすに座る藤崎老人に、順番を待ちましょうね、と後ろに移動させようとした。その時老人は、突然顔を青ざめさせ叫び声を上げたのだ。

「何でワシはこんなとこにいるんや。いつになったら家へ帰してくれる!」

 そうわめきながら、春香の右手に噛みついたのだ。仲間がすぐに引き離し、春香を処置室に連れていき応急の手当てをしてくれた。老人は溜まった怒りを発散すると、もう何に怒ったのか忘れてしまったようにおとなしく順番に従い始めた。藤崎老人には帰れる家も頼れる縁者もいないのに、時として、ここではないどこかへ帰りたがる。春香も当初の痛みが引いてくると、次から次に押し寄せる作業に痛みを忘れたように忙しく体を動かした。

 部屋へ入って照明を点けてからも、藤崎老人の声が耳に残っている。ここは自分の居場所ではない、と身体全体で表そうとした老人の姿。春香は着替えることも忘れその場にうずくまり、膝を両手で抱えて目を閉じた。向かい風(アゲインスト)が強過ぎると感じた時は小さい頃から、この姿勢でその風をやり過ごす方法を学んできた。

 強い風に大粒の雨までが混じりだした。窓ガラスを叩く雨音が強くなる。その音で春香は我に帰った。

 あれほど両親から離れて暮らしたかったはずなのに、いまだに落ち着ける場所を見いだしかねている、そんな自分が情けなかった。昼間の藤崎老人の声は、わたしの声でもあるのだろう。高校二年の冬休み、あんな出来事さえ起こらなければ、とも思う。しかし出来事は現に起こったのだし、その延長上の時間に今の自分がいるのも確かなのだ。

 テーブルにある固定電話が鳴った。この電話が鳴るのは東京の母からか、職場の連絡か、営業の売り込みがほとんどだ。今夜の電話は夜間チーフの佐藤さんだった。以前の入所者で今は在宅に切り替えているおばあちゃんから、「春香さん」を名指しで施設に電話が入ったというのだ。物干し竿が風で飛ばされ、窓ガラスが割れたらしい。連絡する相手を間違えているとは思ったがむげに断ることもできず、施設の軽自動車で迎えに来てもらうことにした。

 一人暮らしのおばあちゃんの家に着くと、介護士の男性と手分けして割れたガラスを取り除き、窓枠にベニヤ板を打ち付けた。本格的な修理は明日ガラス屋さんに来てもらうから、と春香のレインコートを離そうとしないおばあちゃんをどうにか納得させ車に乗り込んだ。助手席に腰を降ろした春香は、濡れた髪をタオルで拭きながら、雄介に携帯電話をつないだ。

 リビングで雄介は一人ソファに寝転がり、点けっぱなしのテレビにぼんやり視線を向けていた。窓の外で風の音がひときわ高く聞こえる。どうやらこの地域も暴風圏に入ったようだ。気圧が下がっているのだろう、耳の奥が水に潜ったように圧迫される。一人っきりで家に残されてみると、室内にこもる空気はやけに重たく、生臭く、いつもの慣れ親しんだ家の空気とは違う匂いが鼻先にまといつく。

 突然鳴り出した携帯電話に雄介は、我に返ってソファから身を起こした。着信音から金沢春香だとすぐにわかった。救われたと思った。このまま一人で台風の行き過ぎるのを待つのは正直うんざりという気持ちだった。

「今、かまわない?」春香の声が流れた。

「もちろん」雄介は応えた。

「すごいわね、この風。何も壊されてない? こっちはもう大変」

「今、どこにいるんだ?」

 春香のケータイが風の音をまともに拾っている。部屋から掛けているのではなさそうだ。

「以前受け持っていたおばあちゃんの家の窓ガラスが割れてしまったのよ。こんな夜に来てくれるガラス屋さんもいないし、当直の男性とその家でベニヤ打ち付けて、これから帰るところ。服はもうずぶ濡れ、散々な夜だわ」

 車の助手席に座りながら電話してきているのだろう。ずぶ濡れになった彼女を横に乗せて走る顔も知らない当直の男性に、雄介はなぜか軽い嫉妬のようなものを覚えた。

「お父さんから、何か連絡は入った?」声をひそめ、春香が尋ねた。

 昨日届いた手紙のことを話そうかと思ったが、少しためらった。彼女は今、一人ではないのだ。

「明日、予定通りでいいのね?」

 彼女は話題を切り替えるように訊いた。

「この風も収まって、明日は絶好のドライブ日和になると思う。昼飯時でもいい、君に読んでもらいたいものがあるんだ」

「読んでほしいもの?」一瞬の間が空いた。そして、「あなたからのラブレターなら、少し早すぎない?」と春香の笑い声が流れた。大事な話を茶化されたようで、雄介は次に続ける言葉を詰まらせてしまった。

「ごめんなさい、冗談を言うつもりじゃなかったの。じゃ、電話切るね。わたしも明日、楽しみにしてる」

 そう言って春香の電話は切られた。

 深夜に入って風雨はさらに勢いを増した。雄介は二階の自分のベッドで浅い眠りに入った。どれくらい眠ったのか、電線が風を切る音で目を覚ました。ベッドから起き上がり、手探りで壁のスイッチに手を伸ばした。何度押しても明かりは点かない。窓越しの気配から察すると、どうやらこのあたり一帯が停電しているようだ。

 机の引き出しから手探りでビームライトを取り出し、青白い光を頼りに階段を下りていった。リビングの大きな窓のロックを確かめ、勝手口のサッシドアも鍵を締め直した。食卓の固定電話は相変わらず不機嫌に押し黙ったまま鳴る気配は見せない。試しに受話器を持ち上げ、耳のそばにかざしてみた。どんなに耳を澄ませても受話器の向こうから、人の体温を感じさせる音が流れてくることはなかった。手に持つライトのせいかリビングもどこか寒々として、父親の不在という事実が、この夜はひと際身に染みて強く迫ってきた。

 風呂場のそばにある洗面台を通り過ぎた。鏡に青白く自分の顔が映っている。足を止めその鏡像を見ているうち、鏡の奥にーということは雄介の背後にー何やら人影のようなものが揺れている。暗くてはっきりとはしないが、どうやら父の部屋あたりでその影は消えてしまった。思わず、あっと声を上げた。この嵐に紛れて父がこっそり家に帰って来たのでは、そんな気がした。溜まった疲れが見せた一瞬の幻かもしれないが、念のため父の部屋の様子を覗いてみることにした。父の部屋へ足を向けかけた丁度その時、洗面台の蛍光灯に明かりが点った。停電は復旧したのだ。

 さっそく父の部屋へと足を踏み入れた。四日前、気が動転している中で入った時は、部屋の隅々まで目配りする余裕などなかった。今回は比較的気持ちも落ち着き、より細部に注意を向けることができた。父が寝起きしているこの部屋は、我が家でも数少ない父だけの〈聖域〉のようなスペース扱いで、母でも父の断りなしにこの部屋には入れなかった。いわばこの家の主のための、結界に守られた空間だと見なされていた。来客からは奇妙に映っても、それが野木家の暗黙のルールだった。しかし今夜はそのルールを、雄介の手で破ることにためらいはなかった。

 クローゼットの扉を開いた。先ほど鏡に映った黒い影が吊るされた衣服の影に潜んでいるかもしれない。衣服をかき分けその奥まで手を差し入れた。それでもっき見たはずの人影はどこにも見い出せない。壁沿いに造り付けの書棚が並んでいる。雄介の読んだことのない書物が多かった。中には本気で読んだとは思えない〈奇術の理論と実践〉とか、〈カバラの歴史〉そんな本まで目に付いた。古いレコードのジャケットや積まれたCDケースの横には、マジックで使う小道具の類もいくつか無造作に置かれている。主の不在のせいか部屋の空気はどこか侘し気で、淀んだ空気に満たされている。

 雄介は深いため息をついて窓際の父の机に近づいた。長年父が使っている専用の椅子の座り心地を試したくなって、そっとその椅子に腰を下ろした。背もたれの付いた黒皮の肘掛け椅子は、思ったほど座り心地が良いわけではなかった。雄介にはとても長い時間座っていられそうもない。こんな椅子に腰を下ろし、父は毎晩何を考えていたのだろう、と雄介はいぶかしい気持ちにかられた。時折り窓越しに闇を切り裂く鋭い音が響く。窓際に近づいた雄介は、その音に抗うように胸の内で大声で叫んだ。

(父さん…! あなたに一体何が起きたというんだ?)

 これ以上部屋にとどまっていても、新たな手掛かりは見つかりそうにない。雄介は明日行く予定の春香とのドライブのことに頭を切り替え、二階の部屋へと戻っていった。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日