どこまで歩いても事務所で見せられた借用書が、頭の中にぶら下がり続けた。歌舞伎町の入口にある赤いネオンゲートをくぐっても、その紙切れは頭から離れない。これは事務処理上たまたま起こったミスに過ぎない。赤の他人のデータと父のデータがオペレ―ターのちょっとした不注意で誤って入力されてしまった、そう思いたかった。五十年も前に作られた書類のコピーだという。季節を間違えた幽霊でもあるまいし、そんな書類が今頃地の底からさ迷い出てきても、まともに相手する必要などないはず、歩きながらもその書類の存在を打ち消すのに雄介は躍起になった。
父からの手紙をあの場で所長に見せていたら、どんな反応を示しただろう、と雄介は考えてみる。臭覚の鋭そうな所長のことだ。手紙の中から雄介が見落としていそうな鍵になる言葉を目ざとく拾い出し、新しい意味を付け加えたかもしれない。もう少し粘って所長の話を聞いておくべきだった。事務所での対応の仕方は詰めが甘かったとしか言いようがない。これが報酬を伴うプロの探偵の仕事なら、即刻お払い箱になっても文句は言えないところだった。
歌舞伎町をだいぶ奥へと入った。それでも事務所の連中が後ろをつけていそうな気配は消えなかった。昼みたいに明るい大通りから、尾行者を巻くように暗い細道へと入っていった。いつしか背後にちらつく視線も薄闇の中に紛れていった。
夜が更けるにつれ人の流れも格段に増えてきた。電飾看板の点滅に瞼を刺激されながら、所長の話した言葉をもう一度思い返した。オーナーから宿題を出された父は、その場で答えを出せず―もしくはあえて答えを出さずーそのまま持ち帰ったという。宿題というなら、一旦家へ持ち帰るのが定石のはず。なのに父はその後一度も家へは戻らず、その代わりのように東京の大田区から、息子宛に手紙を送って寄越したのだ。手紙には、「帰るのはもうしばらく時間がかかる」と書かれていた。
かって通勤用の車を買おうとローンを組もうとした時、そのローンの保証人になることを父はあっさり断ってきた。まだ勤めて幾年も経たない若い身でローンを組むの早すぎる、それが父の言い訳めいた理由だった。そんな父が三十半ばの歳で、あんな書類に連帯保証人として名前を連ねている。しかも二千万というかなりな額だ。日頃見慣れた父とは違う、別の父親がそこにいるような気がした。もしかすると借用書に署名したのは、本物の父親ではなく、父親の名を騙ったまったく別の人物では。そんな突拍子もない考えさえ雄介の頭に浮かんできた。
浮かれた酔客のグループが近づいてくる。ビルの狭い隙間に体を寄せ雄介は身をかわした。そうして狭い壁に背中を預けてもう一度手紙に目を通してみた。父の心の揺れが明らかに読み取れる。それまで自分を映していた鏡が、〈リクエスト・ポジション〉の一言で突然いくつにも砕け墜ち混乱している父の姿だ。鏡の欠片のどれにも自分の顔が映って、どれが本当の自分の顔なのか途方に暮れている姿だ。まるで夏祭りの夜店の竿に並んだ色んなお面のように、それらが口々に何やら呪わしい言葉を吐きかけてくる。店の後ろの暗がりに潜んでいる魔法使いの親玉が、そう言わせているのかもしれないが。
近くのクラブかキャバクラで秋の謝恩パーティーでもやっているのだろう、奇抜なメイクと衣装の男女が笛やタンバリンを鳴らしながら雄介を追い越していく。彼らの後ろ姿を見送りながら、雄介も仮面を被り奇抜なコスチュームに身をやつして往来を練り歩きたかった。名無しの自由さこそ、混乱の渦中にある自分には必要だった。空回りばかりのこの状況を、何とか打ち破りたかった。たかがコピーの書類を見せられただけで、これほど動揺する自分が情けなかった。一時間後に春香の妹夏美に会う約束がなければ、このグループに合流して、ミラーボールの回るフロアで一晩中ステップを踏んでいたかった。しかし初めて会う若い女性に、酔いの回った赤ら顔で対面するのも気が引ける。浮かれるグループを見送りながら雄介は、品川駅で予約した今夜の宿を目指すことにした。
新宿から今夜予約しているホテルへ地下鉄で向かった。途中乗り換えを間違えだいぶ時間のロスをしたが無事チェックインを済ませ、ロビーの奥にあるエレベーターに乗り込んだ。一日歩き回った疲れが体中に染みている。エレベーターの壁に背中を預け、雄介はなんとか体を支えた。力を抜くとそのまま床にずり落ちそうだった。部屋はそれほど広くはないが、窓のそばに置かれた書き物机や清潔そうなベッドメイクに好感が持てた。雄介はさっそく窓際の椅子に腰を降ろし、リュックから真新しい手帳を取り出した。この旅を始めるのにわざわざ買い求めたものだ。真新しいページの始めに、今朝早く新大阪駅で新幹線に乗ってからこのホテルに着くまでのあらましを、思い出すまま記録していった。今は些細なことに思えても、後から振り返ると有力な手掛かりに変わることもある。旅の間はこの記録付けを欠かさないつもりだ。神戸の家を出たのが朝早かったせいか、ボールペンを走らせながらも瞼が下がってくる。眠気を追い払おうと椅子から立ち上がり遮光カーテンを思い切り両側に開いた。夜の東京湾が窓越しに広がっている。黒い布の縁をステッチでかがったように、光の粒が緩やかなカーブを描いてまぶしく煌めいている。ガラス窓は開け閉めしにくいルーバー式で、締め切ると窓外の音は耳まで届かず、室内でエアコンの音が天井のどこかでしているだけだ。これから春香の妹と会う約束がなければ、ベッドに倒れ込んでこのまま眠りの中へ滑り込んでしまいたかった。
父の手紙を手掛かりにここまでやって来た。途中神戸の春香から、留守電に残された奇妙な伝言を聞かされた。その伝言を頼りに、新宿の事務所を訪れてみた。そこで、借用書のコピーを見せられた。それには正直肝を潰した。父の自筆の署名が書類の中にあったのだ。本物からコピーした書類だとはすぐには信じられなかった。何かの方法で合成されたニセモノだと、その場で破り捨てたかった。事務所もどこか胡散臭げで、所長や社員たちの対応の仕方も、父のこれまで生きてきた暮らし振りとは真逆の世界の住人達のような印象だった。
ベッドのそばにあるクリーム色の電話が鳴った。受話器を取るとフロントから、来客が訪ねて来たと報せている、それも若い女性だという。金沢春香の妹が現れたのだ。ロビーでしばらく待ってもらうよう伝えて受話器を置き、鏡の前で髪に軽く手櫛を入れてからロビーへ下りて行った。
ロビーの一角にティラウンジが設けられている。こんな時間から出発する人もいるらしく、大きなキャリーバッグやトランクをそばに置いて、アジア系と見えるグループがソファ席で談笑している。彼らから離れて、季節外れのアイスレモンティのグラスをストローでかき混ぜている若い女性が目に付いた。雄介と目が合うと向こうもそれと分かったらしく、ストローを指に挟んだままの手を上げ合図してきた。
身なりは普通のお嬢さんという感じ。オレンジ色の厚手のシャツの上からグリーンのパーカーを羽織り、下はピンクの綿パンと黒のスニーカーを履いている。取り立てておしゃれをしているふうではないが、柔らかな頬の線とくっきりした目鼻立ちは姉の春香とよく似た表情をしている。
「姉さんから聞いてると思うけど、神戸から来た野木雄介です」
立ったまま雄介は軽く頭を下げた。彼女の視線は雄介の頭の天辺からスニーカーの先まで、男の品定めでもするみたいに遠慮もなしに移動した。向き合って座った雄介に、彼女は改めて目を凝らしながら口を開いた。
「たしかに、悪い男ではなさそうね」
「その点は安心してくれていい。姉さん発行の保証書を持ってるから」
さりげなく言ったつもりだが、彼女はその言葉で初対面の警戒心を解いてくれたのだろう、顔に笑みが浮かんだ。
出てきたホットコーヒーを口にしながら雄介は、家で起こったあらましを話して聞かせた。大体のことは姉の春香から聞いているようだった。
「バイト先にも了解とれたから、明日からあなたと一緒に行動できる」
「自分で動ける範囲は、なるべく自分でやってみるつもりだから」雄介は即座に応えた。
「そんなにムリしなくてもいいって。一週間のうちにお父さんをどうしても見つけたいんでしょう」
姉とよく似た形の良い眉をひそめ、眼差しに力を込めた。彼女の気迫に雄介は黙ってうなずくしかなかった。
「じぁ、話は決まりね」夏美はそれだけ言うと、ソファから腰を浮かせ立ち上がった。「明日の朝迎えに来るけど、車がいい? それとも歩きで?」
「車より、電車かバスで移動したほうがいいと思う。その方が偶然にも、親父と遭遇するチャンスに恵まれるかもしれない」
頷きながら夏美は右手を前に差し出した。何の意味なのかすぐには分かりかねたが、握手を求めているのだと悟った。
「ホテルのロビーで握手してると、何かの商談が成立したときみたいだね」雄介も照れながら手を出すと、
「そうよ。ふたり一緒にお父さんを見つけ出すという、心の契約が成立したの」
彼女の手の内は温かく、雄介は東京に着いて初めて大きく息をついた。ロビーを遠ざかる後ろ姿を目で追いながら雄介は、心の契約か、と胸の内で呟いた。そして、そんな契約があるなら一度は交わしてみたいものだ、とふと思った。今朝早く新大阪駅で新幹線に乗り込んだのが、もう何日も前のはるか遠い時間のように感じられた。
翌朝夏美との待ち合わせ場所に出向く前に、ホテルの最上階にあるレストランでバイキング形式の朝食をとることにした。全面ガラス張りの窓の向こうに、東京湾の水平線が霞んで見える。昇る朝日も靄のためその輪郭はぼやけている。ロールパンに一口サイズのバターを塗りながら黙々とそれらを口に運んだ。時折り黒い影が窓近くをよぎる。目を向けると窓枠をかすめて、数羽のゆりかもめが戯れ合いながら沖合へ飛び去っていく。
地下鉄駅へ下りる階段のそばで夏美の到着を待った。ほどなくビルの角から、彼女が小走りに駆けてきた。
「ごめん、待った?」夏美は少し息を切らせ、「あなたの卒業した大学までなら、ここから地下鉄に乗るのが一番早くて確実だから」と説明した。
ふたりで地下鉄駅に通じる階段を下りていった。行き先は父も卒業し、雄介もその後を追うように通った同じ大学だ。下宿していた横浜の伯父の家からなら雄介一人でも十分行き着けるが、卒業して十年以上も経つと地下鉄網もバス路線も大きく様変わりして、一人では心もとなかった。
構内の地下通路を何度か曲がり、長いエスカレーターを乗り継いで、地下深くにあるコンコースを目指した。どこまで降りても改札口に行き着けないほどの距離を、まるで地球の中心を捜すように横へ下へと移動した。
切符売り場に並ぶ夏美を待ちながら、雄介は人の邪魔にならないよう壁沿いにたたずんだ。真新しいタイル壁に、色味に富んだ広告ポスターが貼られている。白い砂浜にコバルトブルーの海が広がるポスターもある。〈羽田からモルディブのビーチまでひとっ飛び〉とキャプションがふられている。新しく就航する空路の宣伝なのだろう、ビーチにテーブルとパラソルを持ち出し、水着姿でお節料理を食べる家族の団欒風景が写っている。もうそんな季節なんだ、と雄介は妙な所で妙なことに感心した。家族そろって正月を祝うなんてもう何年もやってないな、とも思った。
入線を知らせる電子音がホームに響いた。慌てて乗り込んだ二人は吊革に手を掛け、窓ガラスに映るそれぞれの顔をぼんやり眺めた。
地下鉄とバスを乗り継いで、大学近くへと着いた。昨日藤並公平氏の奥さんから聞いた、新しく編集された同窓会名簿を閲覧するためだ。父と息子が同じこの学校を出ている。資料の閲覧程度なら飛び込みで頼んでも多少の融通はつけてくれるだろう。雄介はそう軽く考えた。
生まれてからずっと神戸で暮らしてきた雄介は十年前、都内の大学に入学が決まり、急遽横浜の耕一郎伯父さんの家に下宿することになった。「兄貴の家なら安心だし、何より安上がりだからな」と、父は兄に冗談半分の礼を言っていた。「父と息子が同じ学校で学ぶのも愉快ではないか」と、その時の父は上機嫌で笑い声を立てたものだ。
いつもは学生たちでごった返す正門前のけやき通りも、午前の講義にはまだ間があるのか学生の姿はちらほらしか見られない。見上げると空は蒼く澄んで、初冬近くの透明な空気に包まれている。どこかの枝先で、鋭い鳥の啼き声があたりの空気を震わせた。この風景は雄介が通っていた頃とさして変わらず、父もまた若かりし頃、胸にいろんな屈託を抱えながらこの道を行き来したのだろう。
キャンパスへと続く正門をくぐる二人連れは、留年し続けている苦学生と遊ぶのに忙しい女子大生のカップルに見えなくもなかった。バランスの悪さはお互い我慢しながら、ポプラの樹の植わった構内の広場を横切った。雄介の記憶ではこの広場を突き抜けた先に、背の高いヒマラヤ杉で囲まれた古びた二階建ての洋館があり、総務関係の部署はその建物に集まっている。年数を経たレンガ造りの壁には蔦が絡まり、建物の一部は学生たちから物見の塔と呼ばれ上空へとせり上がっている。その塔は遠くから見ると、常緑樹の海に浮かぶのっぽの灯台のようにも見えた。在学中雄介にとってこの建物は不思議に足を踏み入れる機会もなく無縁に近い存在だった。キャンパスに散在する他の建築物は次々新しい意匠の現代風のビルに建て替えられていったが、この建物だけは時間の流れから取り残されたように手つかずのまま、今も古風なたたずまいを見せている。
白いペンキを何度も塗り直した両開きの扉を引いて、二人は館内へと足を踏み入れた。エントランスホールをワンステップ上がると、うぐいす色のリノリュームを張った廊下が奥へと続いている。ホールにも廊下にもひと気はなく、靴が床に擦れる度にネズミの鳴き声に似た音を立てた。天井の蛍光灯は節電のためかいくつか消され、全体に薄暗い雰囲気だった。窓はあっても小さく、外の光りは申し訳程度にしか差し込まない。どこまで奥へ進んでも学生や大学関係者に出食わさなかった。場違いな場所に紛れ込んだようで、夏美に背中を押されながら雄介は廊下の角をいくつか曲がった。
館内は、外から眺めるよりずっと奥行きは深かった。そのくせ廊下のどこにも案内プレートは貼られていない。長期療養者用の古い病院施設の造りに似て、部外者の入館を想定していない不親切な造りだった。廊下に並ぶ同じような扉のどれにも、同窓会事務局のプレートは貼られていない。入口へ戻ろうとしかけた時、夏美があっと小さく声を上げ指を差した。指の先の扉に「総務課」と記されたプレートが貼られ、その下に (同窓会事務局)の文字が読み取れた。間違いない、ここが藤並公平氏の奥さんが言っていた部署のようだった。
雄介は息を詰めて真鍮製のノブに手をかけた。ドアは音もなくスムースに開いた。中は教室の倍ほどの広さで、そこにデスクが十台ほど整然と並び、部屋の隅にはコピー機などの事務機が置かれている。部屋の奥には管理者と思しき男性の机がこちらを向いて、職員はそれぞれパソコン画面を睨みながら黙々とキーを叩いている。管理者の初老の男性も、積み上がった決裁書類から目を離す素振りもなく、カウンターの前にたたずむ二人に気づかない。全員が二人を無視するように仕事に集中している。部屋の一番奥はフロアより一段高くなって、防塵用の全面ガラスに覆われている。中に四台ばかり大きな金属製の箱が据えられている。ステップにゴム製のスリッパが並んでいるのは、その部屋に入るにはスリッパに履き替えるようになっているのだろう。ガラス張りの向こうに据えられているのは、塵やほこりを何より嫌う大型スーパーコンピューターなのだ。建物そのものは時代の遺物を思わせる古いレンガ造りの建物なのに、その内部には最新式のCPU(情報集積装置)が防塵ガラスに守られ据えつけられている。
異様なアンバランスに雄介は息を飲んだ。フロアから一段高くなって物々しくガードされた全面ガラス張りのスペースが、神を祭るおごそかな〈神域〉のようにも見えてくる。さしずめこちら向きに座る管理者は、AIにかしずく現代の神官なのかもしれない。
部屋の奥のコピー機で作業を始めた若い女性職員が、ようやくカウンターの前に立つ二人に気づいてくれた。こちらに顔を向けて、「何かご用ですか」と眼で問いかけてきた。
「皆さん、忙しそうですね」
カウンターまで歩み寄ってくれた女性職員に、雄介は皮肉交じりに声を掛けた。
「御覧のように狭いスペースでも、処理する情報の量は膨大ですから」女性職員は用意されたペーパーを読むように淡々とした調子で答えた。
「古い話で恐縮なんですが」と、雄介は続けた。「僕の父がここを卒業してるんです。当時の父の友人関係、ゼミやサークル仲間の現在の住所なんかを知りたい、そう思ってやって来たんです」
女性職員に一瞬困惑の表情が浮かんだ。口をピタリと閉じて、外敵に攻撃された二枚貝のような表情になった。
「家から父が消えてしまって、その立ち回り先を調べてるんです」
それ以外に他意はないことを示しながら、雄介は胸ポケットから写真を取り出した。卒業式の日にこの大学の講堂前で写したスーツ姿の父の写真だった。職員は差し出された写真にも無表情に、ただ黙って首を横に振ってみせた。雄介の訴えが効を奏していないのは明らかだった。雄介はさらに続けた。
「部屋を開けてみたら、いるはずの父が家のどこにもいないんです。肝心の父の姿が消えて、後には空っぽの部屋が残されていたというわけです」
「同情はします」と、女性職員は雄介の眼を見ながら返した。「ですが、ここは大学中の情報を一括処理する部署でして。毎分毎秒新しい情報が洪水みたいに流れ込んでくるんです。そのデータにはどんな感情も思い入れも混じりません。ですからあなたの置かれた境遇に同情はしますが、それ以上のことをわたしに求められても…」
「そんなことはわかっています」と、雄介はカウンターから身を乗り出した。「見ず知らずのあなたに、同情してもらおうとここまでやって来たわけではないんです」
「ご覧のように、とても忙しい部署なんです。ほかに用件があるなら、手短にお願いしたいんですけど」
彼女は困惑の表情をはっきりと顔に浮かべた。
「いいですか、あなたの仕事がどれくらい膨大かなんて、僕にはまるっきり関心のない話です。さっきも言ったように、親父はここで学んで、ここの卒業証書をもらってます。おまけにこの僕までが、ここの卒業生だときてる。あの箱の中には僕のデータも間違いなく入ってるはずですよね」
ガラスケースに納まるCPU(中央制御演算装置)を指さしながら、雄介は声を高めた。ちぐはぐでかみ合わない人間同士のやり取りを、ガラスの向こうのAI(人工知能)は薄笑いを浮かべて、聞き耳を立てている気がした。
「その話は先ほど伺いました。ですが、わたしにどうしろと?」女性職員は眉間にしわを寄せながら言った。
「卒業時のクラス名簿とか、父の加入していたサークルの構成員とか、そんなつながりをたどりたいんです。最新版の同窓会名簿が存在する、そう聞きましたけど」
「同窓会名簿の閲覧をしたい、そういう用件ですね?」
もう一度念を押してから女性職員は踵を返した。奥のデスクで書類をめくる管理者と思しき男性に近づき何やら耳打ちを始めた。座ったまま後ろ向きになった管理者の後頭部の形も着ているブレザーの格子縞も、雄介の父とどこか似た雰囲気を漂わせている。もしかするとこの管理者は消えた父本人で、先回りして息子の到着をここで待ち構えていたのでは、そんな錯覚を覚えるほどだった。後ろに控えているAIが、父のデータを3Dホログラムで立体的に投影しているのではないのか、そんな気持ちを抱かされた。
管理者が座ったまま向きを変え、カウンターの二人に観察するような視線を向けてきた。やがて椅子から立ち上がると、カウンターへと進み出てきた。
消えた足音 【全13回】 | 公開日 |
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(その2)第2章 | 2020年8月31日 |
(その3)第3章 | 2020年9月30日 |
(その4)第4章 | 2020年10月30日 |
(その5)第5章 | 2020年11月30日 |
(その6)第6章 | 2020年12月28日 |
(その7)第7章 | 2021年1月29日 |
(その8)第8章 | 2021年2月26日 |
(その9)第9章 | 2021年3月31日 |
(その10)第10章 | 2021年4月30日 |
(その11)第11章 | 2021年5月28日 |
(その12)第12章 | 2021年6月30日 |
(その13)第13章 | 2021年7月30日 |