定年退職後はじめての役所・役場めぐりは四国にすることに予てから決めていた。高知県が残されたただひとつの空白県だったこと、1月生まれなのでJR四国の「バースデー切符」が使えること、そして多分寒いこの時期でも南国土佐ならば暖かいだろうと思ったからである。尤も寒さは首都圏と変わらなかったが、それでも天候には恵まれほぼ予定したとおりの件数を回ることができた。
空港から歩け歩けの4町村
月曜日の朝、大勢の仕事に向かうスーツ姿を横目に若干の優越感をもってジャンパーにリュックというラフなスタイルで羽田から飛び立った。三十数年間待ち続けた余計な心配のいらない平日の旅である。最初の役場は空港から歩いて行ける吉川村とした。地図によるとターミナル・ビルから2キロくらいだし、着陸直前の機上からはまるで空港内の施設かと見間違えそうな場所にあった。しかし歩くとなると話は別で、車がビュンビュン走る広い道を何度も直角に曲がるので時間はかかる。空港への徒歩客など最初から考えていないので当然なのだろう。それでも歩き始めてから30分で吉川村の役場に着いた。
さてこの吉川村と周囲の赤岡、香我美、野市の3町は狭いところにジグゾーパズルのようにひしめいている。特に2番目に行った赤岡町などは面積が1.6平方キロ、今まで日本一狭い自治体だった長崎県の高島町が今月長崎市に編入されたので全国一になった。2002年7月に開業した土佐くろしお鉄道ごめん奈半利線というのがこの4町村すべてを走り、それぞれの町村名を冠した駅があるが、香我美などは役場からかなり離れている。結局すべての役場へ行くには列車やバスなどを待ったりしない方がいいことがわかり、吉川→赤岡→香我美→野市と反時計周りに歩いてしまった。ずっと田畑が続いていたが、ふと子供のころ高知県では米の二期作が行われていると教わったことを思い出した。しかし見渡す限り普通の田の冬の光景だったから今は二期作などしていないのだろう。こんなに狭い自治体が隣り合っているのだから当然合併計画があるのだろうと思ったがここでは具体的な動きはないようだ。
更に知恵を出そう ごめん奈半利線
バースデー切符を使う前の2日間は「安芸・室戸フリーキップ」を利用した。これは3000円で2日間、ごめん奈半利線全線のほかJRは高知まで、また室戸岬を越えて徳島県境の甲浦や内陸の馬路村まで行くバスにも乗れるものだ。この切符を売っている御免駅までいったん行った後、引き返すように奈半利行きのディーゼルカーで夜須駅まで乗って夜須町へ、和食駅では芸西村に寄ってから安芸へ行った。安芸のひとつ手前の駅は球場前といい、阪神タイガーズのキャンプが毎年行われるところで歓迎の幟などが風にはためいていた。一日目はここから高知東部交通のバスで馬路へ行き泊まった。
かつて後免から安芸までは土佐電気鉄道が走っていたが、旧国鉄時代に後免から室戸を通り牟岐線に繋がる阿佐線が計画され、これが代替するということで線路跡を譲る形で昭和49年(1974年)営業を停止した。しかし一部の工事が進んだものの国鉄末期の経営不振から中断され、鉄道のない時代が続いていた。その後高知県や地元自治体などの出資による第三セクター鉄道である土佐くろしお鉄道により2002年7月ごめん奈半利線として開通した。安芸まではほぼ前述の土佐電鉄の線路跡を高架にしているが、台地が海に迫るその先の奈半利まではトンネルが続く。開業後2年半と日が浅いせいか駅や車両が新しく列車は快適だが乗客は少ない。真冬の最も人の動きのない時期だからかも知れないが、それでも並行するよく整備された国道を走る車の流れを見ていると行楽シーズンでもどれだけの利用があるのか心配になる。快速を含め1時間に2本程度の列車を走らせ、JRの高知まで乗り入れるなどその努力は高く評価したいが、沿線の人口減は今後も続くだろうから乗客増を見込むことはかなりむずかしいだろう。
一面の田畑の中に高架線が続き、高所にある各駅にはバリアフリーとしてエレベーターを設置するなどどう見ても過剰設備なのだが作ってしまった以上は有効利用する以外にない。今となっては言っても無駄なことだが、そもそも国鉄時代の阿佐線計画などなければ安芸までの土佐電気鉄道線ももう少し長く続いただろうし、そのうちLRT化見直しなどの機運が高まったかも知れない。帰りに乗った後免町・高知市内間の路面電車は活気があったので、広島電鉄の宮島線のようなライトレールを高知市内から走らすようにさえなっていたかも知れない。
地方経済の視点からは、将来の減価償却負担よりも建設している間の経済の活性化や雇用の促進の方を取りたかっただろうし、その期間はそれなりの恩恵を享受したはずだ。だが減価償却という形での借金の返済は避けられない。並行する土佐電鉄のバスとは競合関係にあり翌日安芸から乗った室戸へのバスも高知始発だったが、たとえば土佐電鉄が何らかの業務を提供する代わりに収入の一部を受け取る条件で高知・奈半利間のバス運行を止め、この間の公共交通はごめん奈半利線に一本化とするというような策はとれないだろうか。膨大な借金の返済のために、地元の交通事業者だけでなく官民が一体となった投下資本の有効活用を考えなければならないと思うのである。
森林鉄道の走った村
1日目は馬路村に泊まった。安芸から乗ったバスは11キロほどごめん奈半利線に沿った国道55号線を走った後、安田から安田川に沿って上流に向かった。馬路村は20キロほど先の馬路地区と、更にその奥、峠を越えた奈半利川上流の魚簗瀬地区とからなる人口1300人の山村である。古くから膨大な森林資源に恵まれ、杉の搬出のための森林鉄道があり大正8年(1919年)には高知県内で最初のSLがここに走ったという。「命は保障しない」という条件つきで沿線住民も便乗させたそうでこの村への唯一足だったが、魚梁瀬ダム建設に伴い昭和38年(1933年)廃止となった。バスの窓からは所々森林鉄道の跡と思われるトンネルや鉄橋を見ることができる。途中の道幅は狭く対向車に出会うたびに道を譲ったり譲られたりしながら、安田から40分ほどで終点の馬路村役場前に着き、バスは役場の構内に入って止まった。周囲はすっかり暗くなり、カーブを描いた前面ガラス張りの村役場は内部の電気が煌々と光り輝やいていて、ここだけが劇場かホテルのようだった。
役場の裏の安田川の対岸にあるコミュニティ・センターが宿である。温泉は食塩を含んだ味がして、一日に20キロ以上歩いた足を休めるには気持ちのいい風呂だった。向かいには森林鉄道の一部が残っていて一周200メートルほどの軌道上を走らせ観光客を乗せている。またインクラインというケーブルカーのような山に登る乗物もあり、バランス用のタンクに水を入れたり抜いたりすることによって上下させるという。本当にうまく動くのか乗ってみたかったがこの時期は営業を休止している。それどころか日没後だったし、翌朝もまだ暗いうちに宿を出たので、写真も撮れず詳しいことは何もわからなかった。
翌朝はバスを安田で降り町役場に寄った後ごめん奈半利線で田野へ、田野の町役場から奈半利町役場までは2キロくらいだったのでここも歩いて行った。両町は川を挟んで市街地が続いている。この川の上流には前述の魚梁瀬がありそこへの森林鉄道もあった。またこの地区には藩政時代には奉行所もあり土佐藩の東部地区の中心地だったそうだ。
奈半利町の北方には人口1500人の北川村があり村営バスで行くことができた。山奥に広がるこの村も村役場は奈半利に近い村の入口のような場所にある。「安芸・室戸フリーキップ」は使えないので300円払って行ったが、帰りのバスはすぐになかったので奈半利駅まで歩いたが35分くらいだった。途中にはモネの庭という庭園があったが冬季で休園中、また村役場から更に山奥へ2~3キロ行ったところには中岡慎太郎の生家と展示館があるのだが、またも役場めぐりを優先してしまった。
室戸から県境の町へ
高知からやってきた室戸岬行きのバスには20人近い乗客があった。飛行機からの眺めではこのあたりは海からすぐにテーブル状の台地がありこれがずっと室戸岬まで続いていた。台地上には畑なども多く、おそらくかなり平坦地があるのだろうが、その台地と海との間のわずかに狭い部分に国道が走り家屋がそれに沿って寄り添うように集まっていた。バスからは晴天のもと土佐湾の青というよりは黒に近い色のはるかかなたにうっすらと足摺岬の方面の山並みが見えた。奈半利から30分ほどで室戸市の市街地に入り市役所前で下車したが、人口1万9千人の市の中心街は人通りも少なく眠っているように静かだった。
次のバスで県境の東洋町へ行った。インドを小さくしたような四国南東部を海岸線に沿って走り、室戸岬でV字状に向きを変える。東洋町とは大げさな名前だが甲浦と野根のふたつの町が50年近く前に合併したもので、町役場もこの中間の野原の中にある。甲浦へは阿佐海岸鉄道が来ているのでそれに乗って海部で乗り換えれば徳島まで行けるのでここはもう徳島の経済文化圏なのかも知れない。役場近くの海は生見海岸といってサーフィンのメッカとして関西方面からの客を集めていて、こんな季節でも何人かの黒いスウェット姿のサーファーが波乗りをしていた。ここから山を越えて北川村を通り奈半利まで行く国道493号線があり、高知へ行くにはこちらの方が距離は短いが、道路が悪く途中はほとんど無人の地であるらしくここを通るバスはない。もと来た道を奈半利まで1時間40分かけて戻った。
この区間の片道バス料金は2500円だったが、「安芸・室戸フリーキップ」ではここも乗れる。北川村営バス以外はすべてこの切符が使え、全部普通に支払っていたら1万円近くになっていたのが3000円で済んだのだから随分得をした。2日間でこんな使いかたをする客はめったにいないだろう。
仁淀川
四国を流れる大河としては吉野川や四万十川が有名だが、高知市内を河口とする仁淀川も大河である。長さは124キロと決して長い方ではないが、川幅は広く水量も豊富だ。さすがに全国有数な多雨地域を流れる川だけのことはある。3日目はまずこの川の流域の町村をまわろうと高知駅前のビジネス・ホテルを早朝5時半に出て土讃線下り一番列車で流域へ行くバスに乗るために佐川に向かった。
今日から3日間は「バースデー切符」を使用する。小1時間の佐川から池川町へ行くバスに乗るが、まだ夜が明けきっておらず薄暗い。高知と松山を結ぶ国道33号線を走り、途中の越智町を過ぎると仁淀川の広い河原に出て河岸段丘上を進む。そして吾川村の役場のある大崎というところから支流の池川の流域に入り池川町役場前に着いた。支流のこのあたりでも川幅は広く、段丘上の役場前からの景色は雄大だ。すぐ折り返すバスで大崎まで戻り、おばさんドライバーの運転する仁淀村の村営マイクロバスに乗換え村役場のある森まで行った。途中から国道33号と分かれ支流長者川を溯る。着いた時はまだ役場の開く時間前だったが、役場や農協などへの通勤の人たちが狭い商店街を歩いていて、一日のうちで一番活気のある時間帯だったのかも知れない。もっとも村営バスにはそのような通勤と思える客は一人もいなかった。国道439号線というのがこの先の東津野村へ続いているがバスは走っていない。そこへ行くにはいったん土讃線まで戻らなければならない。
帰りのバスまでは2時間近くあったので、大崎のできるだけ近くまで歩こうとバスで来た道を引き返し、途中の面河川との合流点にある発電所や仁淀高校の横を通り国道33号に出た。かつて高知・松山間の国鉄特急バスも走っていた道である。トラックの往来が多く高速道ができた今でも四国内の物流の幹線なのだろう。間もなくやってきたバスで大崎に戻り、吾川村役場に寄ってから更に国道を高知に向かって歩いた。次のバスまでの時間つぶしバス代の節約のためである。更に越智町で途中下車し佐川に戻った。この後は前述の東津野や檮原方面に行くバスの出る須崎に行くのだが、待ち時間を利用して一旦JRを高知方面に2駅戻り日高村役場に行った。
国道197号線に再会、檮原へ
須崎からは高知高陵交通という会社のバスで国道197号線を走る。高知を起点に須崎から内陸に入り愛媛県の大洲、八幡浜を通り佐多岬半島の三崎へ、そこから国道フェリーで大分県の佐賀関へ渡り大分まで行く全長223キロ(海上区間を除く)の国道である。一昨年の12月愛媛県を初めて訪問したときに何度も通り、特に途中の城川町と日吉村との間の約9キロは瀬戸内海に流れる肱川と太平洋に流れる四万十川の分水嶺を越えて90分で歩いている。そのときに道路標識の行き先に檮原と書かれていたのを何度も目にして、ああこの先は高知県なのだなと思ったものである。その檮原へ行くのに同じ国道を、今度は高知側から進むことになった。
檮原までの途中には葉山と東津野のふたつの村があるが、バス・ダイヤを見て葉山村は帰路に寄ることにしてまず東津野村へ行った。両村は半月後の2月1日に合併し津野町になる。もともと檮原も含めこの地域は津野地方としてまとまりがあり、とくに幕末には坂本竜馬をはじめとする尊王の志士の脱藩ルートになったりしたが、この地域には土佐藩になじまない土壌があったという。檮原町を含む1町2村で合併するのが自然のような気がするが唯一の町が一番山奥にあるという地理的な実情から2村だけの合併になったのかも知れない。新しい町役場は葉山が本庁、東津野が西庁となるのだが人口4400人の葉山の方が東津野の1.5倍あり土讃線にも近いことから順当なところか。
よく整備された国道だがバスは途中で旧道を走る。車がやっと1台通れるような狭い道が急な斜面に沿ってくねくねと続いていて、その斜面全体が茶畑になっている。葉山茶というのがこの辺では有名らしい。新しくて大きな庁舎のある東津野役場前でバスを降りた後、またこの国道を歩いてみたくなった。寒いなか檮原に向かって3キロくらい進むとトンネルにぶっかったのでその手前で次のバスを待った。
檮原に着いたのはまだ午後4時なのに薄暗く、そしてとにかく寒い。盆地の底のような市街地に冷たい風が吹きつける。町役場の写真を撮ってから早々に電話で予約しておいた宿に駆け込むように入った。花屋を開きながらの民宿で、こんな時期だから他には工事か何かの業務で長期滞在している客しかいなかった。その客が戻る前に風呂に入って食事をしてほしいと言われ入浴後5時半頃からの夕食となった。茶の間のような食事室でこたつに入りながら風呂上りのビールと鍋物など民宿にしては豪華な食事を一人で取る。外は風が吹き雪まで舞ってきたが、部屋の中は暖かく風呂上りのビールとともに心地よい。
実は今日が我が60歳の誕生日だ。一人しみじみと還暦の味を味わっていたが、それを話したわけではないのにサービスだと言ってコップ一杯の白酒を持ってきてくれた。部屋は2間続きで寝る部屋とこたつの部屋の両方を使わせてくれ、テレビも最新の液晶のものだった。民宿版スィート・ルームも石油ストーブが一晩中必要だったが、木造の古い建物で換気の注意も必要がなさそうなのも良かった。翌朝代金を払うときにビール代もいらないといわれ2食つき合計6000円だという。これで誕生日の話をして更に安くすると言われても困るのでとうとう言いそびれてしまった。
昨夜からの雪が積もり須崎に戻るバスはチェーンを巻いて走った。檮原のバス・ターミナルからは県境を越えて日吉村まで行くバスも出ていてなんとなくなつかしさを覚えるのだった。
JR四国で贅沢三昧
さていよいよ「バースデーきっぷ」での贅沢三昧である。檮原から峠を越えるとまもなく雪はなくなりバスも途中でチェーンをはずした。今回の旅は最初高知県内だけにしようと思っていたが、愛媛県でも合併が進んでおり、またせっかく四国全線が乗れるのだからと欲張って須崎から四国を縦断して瀬戸内海側の多度津まで行き、そこで予讃線に乗換え東予方面まで一気に行くことにした。この切符はグリーン車にも乗れる。須崎から乗った特急「南風」の半室グリーン車には私以外に2人しか乗っておらず、その2人も高知で降りてしまったので高知・多度津間は私ひとりだけだった。おかげで両側の席を占拠し大歩危・小歩危の渓谷美を堪能することができた。
いつもこんな利用状態なのかどうか知らないがこの切符でグリーン車まで開放するJR四国の太っ腹には感心した。人間は不思議なもので贅沢な環境に置かれると財布の紐もゆるむらしく、どちらかというとケチな部類に属する私ですらいつもはめったに飲まない車販のコーヒーなどを買ってしまう。JR四国もどうせ空なのだしコスト増にもならないのだからということなのだろうが、乗客のさらなる消費を促すという効果を読んでいたのかも知れない。中にはせっかくグリーン車に乗るのだからこの際ホテルも1ランク上げようという客だって出てくるかも知れず、そうなれば四国経済への大きな貢献となる。また1万円というのは利用者にとってちょうど手ごろな金額であり、3日間で四国全線というのもまたいい規模である。このような好条件がたまたま四国という規模だったからできたのかも知れない。他のJRで同じことをするのはむずかしいとは思うが、これからは定年退職者が増えるし、地域経済への貢献は間違いないのだからいろいろな魅力的な企画をしてほしい。それとともにどうせするならグリーン車開放のような旅先でさらにもう一段消費を促すような知恵を絞ってほしいものである。
多度津のホームでさぬきうどんを食べ、岡山からやってきた特急「しおかぜ」で伊予西条へ、今度のグリーン車にも2人しか乗っていなかった。
誰が出世するか 燧灘の3兄弟
かつて予讃線に乗って香川から愛媛県に入ると最初に川之江市に入り、製紙業や化学工業など活発な産業活動をしている中規模の市町が途切れることなく続いていた。しかし2003年4月に新居浜市が別子山村を編入、2004年4月に2市1町1村が合併して四国中央市ができ、また同年11月には2市2町による西条市が合併により誕生した。3年前までの10市町村が3市に集約された。
この三市、東から順に四国中央市、新居浜市、西条市でそれぞれ人口が96千人、128千人、116千人とほぼ同じような規模になった。新居浜、西条はそれぞれ従来から中核となっていた市の名前を踏襲し市役所も変わらずまあ順当なところに落ち着いたと言える。しかし四国中央市の場合は川之江市(39千人)と伊予三島市(38千人)と規模の拮抗した両市を含む合併だったので新市名は両者とは全く関係ない、それこそ部外者からは顰蹙を買いそうなものになった。また市役所は旧伊予三島になったが、新市の中では位置的に中央になるので、人口ではわずかに勝っていた川之江が涙を飲んだのかも知れない。なお後述する別子山村へ行くには伊予三島からのバスしかなく、四国中央市と合併する方が自然と思われるが、一足前に新居浜市に併合されている。
四国中央市は四国最大規模の国際貿易港をめざして建設が進んでいるが、もともと製紙業の盛んなところで愛媛県紙パルプ工業会の資料によると市内に50の製紙会社があり従業員が6500人、また約200社の紙加工企業に5500人の従業員が働いているという。新居浜は住友グループ発祥の地であり別子銅山とともに発展した工業都市で鉄道跡など近代産業遺産も多く残っているとのことだが、駅から市の中心街まではかなり遠い。広い道路に所々高層のホテルがあったりしてアメリカの町に来たような錯覚を起こす。西条市は西条藩の城下町だったが旧藩時代から続く広大な埋立地に火力発電所の他中小の製造業が多い。しかしこの3市とも他の地方都市同様中心街の空洞化が目立ちアーケードに並ぶ商店も営業しているのは半数もない。同じような環境のもとで同じ規模になった3市が、今後互いに競い合いながらどう伸びて行くのか、どこかひとつが突出した伸びを見せるのか、3兄弟の行く末には興味がある。
3市のもととなった10市町村の役所・役場すべてにまわりたかったが、西条市となった東予市と丹原町には行けなかった。1列車遅らせれば良かったのだが、松山で15年振りに合う大学時代の友人を待たせても悪いので次の機会にすることにした。
世界一の別子銅山の今
別子山村という人口300人にも満たない山中の小村が新居浜市に吸収された。ここに行くには伊予三島から1時間20分バスに乗るしかないが非常におかしなダイヤである。1日に3往復走っているが、日帰りをするには朝の下り1番である9時29分発で行って14時21分発で戻る組み合わせしかなく、これだとほぼ1日がつぶれてしまう。下りは他に昼と夕方に1本ずつあるがいずれも別子山で夜を越し翌朝2本が2時間の間隔で伊予三島に戻る。全体の効率を考えると別子山に泊まるしかなく、旧役場の近くの村営の山荘を見つけた。最終のバスで着いたのが夜の7時、真っ暗闇で雪のなか、たった一人の客のために明かりが煌々とついていた。
元禄4年(1691年)の開坑後数年で世界最大の銅鉱山となり人口も1万人に膨れ上がったという。また明治後期には1万2千人と愛媛県下では松山に次ぐ県下2位の人口だったそうだ。採鉱から精錬まですべて別子山で行っていたがその後精錬が新居浜、更には四阪島に移るなど徐々に規模を縮小し昭和48年(1973年)には銅山の創業もやめ現在に至ったそうだが、坑道の延長は700キロにも及んだという。旧役場の建物は新居浜市別子山支所となっていたが、パラボラ・アンテナなどには別子山村と書かれたままだった。
翌朝は雪が残っていたため宿から旧役場までの約1キロを宿の主人が車で送ってくれた。庁舎前にバスの車庫があり、2台のバスがここで夜を越すのだが運転手は伊予三島から小型車で通勤して来る。随分効率の悪いことだと思うのだが、長年にわたる乗客の流動からこうなったのか、或いは行政の補助があるので大きく変える必要なしとしてこのまま来ているのかどうかわからない。新居浜市と合併したのはかつての銅によるつながりからと思うが、新居浜市中心街とを結ぶバス路線の運行に必要な市の補助金を試算したところ膨大な額になったため、現行どおりの三島とのバスのみが走っているという。
村内を流れている銅山川は吉野川の支流である。吉野川は高知や愛媛の山深くから水を集め紀伊水道に注ぐというさすが四国一の大河である。四国の4県はいずれも律令時代からの旧4国の境界をそのまま踏襲している。四万十川にしてもそうだが国境が分水嶺などの自然の境界と一致していないところが四国には多いが不思議である。なお四国中央市は四国内で唯一、他の3県と境界を接する自治体になったそうである。
最終日は別子山から三島に戻り再度同じ銅山川流域の旧新宮村に寄ったりした後松山へ行った。自動車の販社を経営する友人から道後温泉で大歓待を受け、翌日は秋山兄弟の家を見るなど春にはまだ遠かったが15万石城下の観光めぐりをした。一昨年暮夕方に来て市役所の写真だけとって急いで空港から帰って以来である。今回は役場めぐりの旅ではめずらしい昼間の飛行機で戻った。
(2005.1.26記)