関西で開催された社会人の地理クラブ、地理の会巡検に参加した。1日目土曜日が草津と近江八幡で天井川や八幡堀などを見学した。翌日曜日は高校の修学旅行以来の京都三条河原町周辺を見てまわった。そしてせっかくここまで来たので、合併のフォローが遅れている県のひとつ、岡山県の市町村をまわることにした。夕方京都を出て、新快速で姫路へ、各停電車に乗換え和気で降り駅前の旅館に泊まった。岡山県へは12年前、JR駅のあるところだけ、すなわち行き易いところだけをまわっただけだった。今回は合併が絡むのでそんなわけにも行かず山奥の町村まで行った。バス・ダイヤをよく調べて行程を立てるなど事前の計画作成に苦労したが、それもまた楽しいものだった。
今回はバスのない時間帯をカバーするためにかなり歩いたが、1日を除いて好天に恵まれた。新緑の中、暑くも寒くもない、旅行には1年で一番いい時期ではなかったかと思う。
本当にあったのか 備中高松城水攻め
岡山県初日は、岡山市から主に山陽本線に沿って、それこそ1駅ごとにあると言ってもいいくらい役所・役場が連なる笠島や倉敷など10市町をまわった。そして夕方気になっていた吉備線の備中高松駅に行った。実は私は高校で日本史の授業を受けたことがないので比較的最近まで知らなかったのだが、戦国時代に豊臣秀吉の備中高松城水攻めというのがあった。これを知ったのは8年前、埼玉県の行田市に行ったときだ。市の郷土博物館で忍城水攻めの説明を読んだのだが、秀吉の北条攻めの一環で石田三成が、もともと沼地のなかにあった忍城を落とすために郊外の一方に堤防を築き荒川や利根川の水を引いてダム湖にして城を水没させようとした。ところがこれが失敗に終わり城を落とせなかったどころか三成側に多数の溺死者を出した。これは備中高松城の成功例を真似しようとしたものだということを、その時に知ったのである。
その後司馬遼太郎の黒田勘兵衛に関する小説「播磨灘物語」でこのくだりを読み、ますます行きたくなったのである。高松城跡は駅の北方500メートルほどにあり公園になっている。丘というほどではないが、当時は周囲が沼地でここだけが島のようになっていて本丸や天守閣があったという。今では沼地だったところは田畑が広がっている。そしてここは岡山市内であり新興住宅も多く建っている。南北及び東側に小山が囲む盆地のようなところなので、西方に堤防を築き足守川の水をここに流し込めばこの一帯がダム湖になる。そのために現在の吉備線にほぼ沿った形で3キロにも及ぶ堤防を、それも12日間で作ったという。そしてたまたま堤防完成直後に大雨が降り、城は水没し始め城主の清水宗治が自刃し城を明け渡した。この間本能寺の変があり、秀吉がそれを隠しながら毛利軍と停戦交渉を行ったなどエキサイティングな歴史の面白い話が続くのだが、地理の話としては本当にこんなことが出来るのかということに興味が沸いた。
3キロもの堤防を築くなど土木機械がふんだんに使える現在ならともかく、大量の石や土をどこからどうやって運んできたのかとか、作業員をどうやって確保したのかとか、設計や工程管理をどのようにしたのかなど、しかもそれを12日間で完成させたなど俄かに信じがたい。城跡に30分くらいじっと立って、鉄道の築堤や家の立ち並ぶ様を見ていればいるほどますます疑いたくなってくる。本当は大雨に乗じて、城の周囲に水が行きやすいように水路を調整しただけではないのかとか、排水をしにくくしたのではないのかなどと、単純に考えたくなるが、いずれにせよ城が水攻めに合ったことだけは確かなようだ。
もちろん今はそんな堤防は残っていない。いや一箇所だけ築堤跡というのがあるのだが、そこへ行こうかどうか迷って土地の人に聞いたら、これというものは残っていないということだったので止めてしまった。他にも足守川からの水取り入れ口跡なども残っているそうだが、今日はその前に20キロ近く歩いていたので面倒になった。役場でないのだからタクシーを使っても良かったのだがその金も惜しんでしまい、歴史はおろか地理の学徒にもなかなかなれないものだと後悔している。なおこの備中高松城の北西高梁市にある城は備中松山城と呼ばれている。岡山県に高松城と松山城があるのも面白い。ところで吉備線はJR西日本によって数年後にライトレール化されるらしい。そうなると岡山市内から路面電車風の軽快電車が頻繁に走り駅も増えるかも知れない。そうなったらもう一度行って、今度こそ地理の学徒らしく振舞ってみたいと思った。
備中国分寺
吉備線で総社に戻り駅から3キロ位離れた郊外にある民宿に泊まった。翌朝は6時に宿を出て役場めぐりをしながら清音駅まで歩き井原鉄道に乗った。総社市の周辺は高梁川左岸に広がる盆地のようなところで、西方を流れる高梁川を除く三方が小高い山で囲まれている。その南側の山麓に山手村、清音村の役場が3キロくらいの間隔にあるが両村ともこの3月22日に合併し新しい総社市に組み込まれた。
主に南斜面の小高い丘陵上を歩いたのでずっと右手に盆地全体が見渡せ、古墳の姿もはっきりわかり面白かった。この地方は古くから栄えていたようだ。盆地東側の丘陵の麓にある備中国分寺もなかなかいい。もともとは奈良時代に建立されたものだが、南北朝時代に焼失し現在の建物は江戸時代中期に再建されたものだという。境内には五重塔がそびえ遠くからもよく見えた。寺域は東西約160メートル、南北約180メートルの広さで戦後の発掘調査で南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されているが、伝えられている金堂や講堂についてはその位置や規模などは今でも明らではないという。付近は「吉備路風土記の丘公園」という県立公園になっている。のどかな田園風景が広がり、昔を偲ばせると言いたいところだが、古墳の麓には新築住宅の群れがあったりして古代と中世と現代が混ざりあった風景だ。
国分寺というのは歴史ファンにとってはこの上ない興味を引かれるものだと思うが、地理好きにとっても面白い。現在の都道府県や市町村の区割りも遡れば古代の国に行き着く。また現在の市町村には国分寺とか国府とか府中などという名前のものが多くあるし、市町村名ではなくとも地名や駅名に多く残っている。なお大化改新(645年)で古代日本の国毎に首都のような町として国府が定められ役場にあたる国庁が置かれ、さらにその近辺に主要な神社群を配置し総社とした。国分寺はその後天平13年(741年)聖武天皇の勅令によって国営の寺として国府またはその周辺に建てられた。だから普通は国府、総社、国分寺が3点セットとなって全国に分布しているのだが例外もあるらしい。国府は全国で68ありこれを全部まわっている人もいるそうだが、公共交通機関だけでまわるのはまず不可能だろう。しかしチャレンジ精神をくすぐられることは確かである。
さて総社市だが、まさにそのような名前であるだけにこの近辺がかつての備中国の政治の中心だったことは間違いない。しかし国庁跡についてはいまだ見つかっていないそうだ。
井原鉄道で行きがけの駄賃
美甘駅からは平成11年(1999年)に開業したばかりの第三セクター井原鉄道に乗って高梁川の支流、小田川流域の町村をまわった。清音駅ではちょうど朝の通勤通学時間にぶつかり大勢の客が井原線から降り倉敷方面へ行くJR線に乗り換えて行く。ここも井原鉄道の専用ホームが別にあり乗換客は狭い通路を歩かせられるという第三セクター鉄道お馴染みの構造である。
清音を出ると右カーブしながら立派なトラス橋で高梁川を渡り、その後は高架線のまま真備町、家掛町を通り井原市に向かう。車窓からは見たかぎりではずっと市街地が続き住む人も多そうだ。しかし朝のラッシュ時間帯が過ぎるに従い乗客が減り1両に数名となり、いずこも同じ地方鉄道の経営の苦しさが想像される。この鉄道を何度か乗り降りし、さらに沿線から離れたふたつの町にも行かなければならないので「ほのぼのフリー切符」という1200円で1日全線何度でも乗降自由というフリー切符を買った。
途中で知ったのだが、この線は旧山陽道に沿っている。さらに前述の国分寺や備中高松も、すなわち吉備線も山陽道に沿っている。岡山から福山にかけては山陽本線の前身だった山陽鉄道は旧の山陽道から離れ海岸に沿って敷かれた。また国道2号線も同様海岸寄りを通り、さらに近代になって臨海地域に重化学工業が発達したので旧道側は相対的に発展が遅れた。それでも繊維などの古くからの産業も残り、それなりの経済活動もあるようだ。矢掛には本陣跡が残っている。
井原市の北に芳井町が、矢掛町の北には美星町がありどちらも今年3月1日に井原市と合併し新しい井原市となった。それぞれ井原駅前、矢掛駅前から北振バスという会社のマイクロ・バスが日に数本ある。ふたつのバスを乗る間に井原鉄道の終点広島県の神辺まで行って戻る時間があった。一昨年5月に広島県東部に行ったときにひとつだけ残してしまい気になっていたところなので迷わず行った。予定外の待ち時間に行け、しかもフリー切符が使えたので余計な支払もなく、こういうのを行きがけの駄賃というのだろう。
井原から芳井支所への行きと矢掛から美星支所への往復のバスは同じ車両で同じ運転手だった。ほかの乗客はひとりいたかどうかという状態だったので、すっかりこの運転手と仲良くなりいろいろな話を聞かせてもらった。このバスも朝夕の通学生だけのためにあるようなもので、昼間の病院通いのお年寄りも最近では福祉サービス会社の車で送迎されることも多く、いよいよバスの終日を迎えそうだということ、またこの辺のバスの運転手には農業をしたり年金をもらったりしながら週に3日程度働いている人も多いという話も聞いた。人口減少という絶対条件のもとでは企業努力など死語に近いし、利用者もバス会社も行政も公共交通の安楽死をただじっと待っている、というのが実情のようである。
いろいろと寄り道をしながらその日は新見に泊まり、翌日は雨のなか美作東部の市町村をまわり中国勝山からさらに山奥に入り美甘村に泊まった。
わが道を行く 新庄村
美甘村からさらに出雲街道を米子方面に行くと鳥取県との県境に新庄村がある。なぜかここだけが後述の真庭市の合併には加わっておらず、今後も単独で生きて行くようだ。明日は雨だったらバスで、そうでなければ歩いて新庄村の役場まで行く予定だと宿の奥さんに話したら、新庄に行くなら絶対に凱旋桜を見て来なさいと言われた。もう桜の時期は過ぎているのにそれでも見る価値があるという。バスにせよ歩くにせよ、役場の写真を撮るだけの時間しかないと言ったら、それならば宿の車で送ってあげると言う。奥さんはどうしてもそれを見せたいらしい。
翌朝は好天だった。6キロくらい先の、歩けば1時間ほどの桜並木入口まで、車ではほんの5~6分だった。国道181号線となっている出雲街道はよく整備されており、この先四十曲と書いて「しじゅうまがり」と読む峠には約2キロのトンネルができ米子も近い。宿も魚を買うときは境港まで行くそうで、昨夜の夕食も日本海の魚だった。
宿の奥さんが言うだけのことはあった。500メートルくらい続く旧道の宿場跡は幅数メートルの道の両側に桜並木が続き、その外側には両側とも鯉の泳ぐ小さな小川を挟んで古い家並みが続く。この桜は日露戦争の勝利を記念して植えたそうで、だから凱旋(がいせん)桜というそうだ。写真で見る桜の時期はそれは見事で周辺から大勢の観光客が訪れるという。花が終わり若々しい緑の並木だったがそれも見事なものだった。
その並木が終わったところにあるのが村役場で、これは一転ヨーロッパの田舎で見かける教会のような建物だった。新庄村はみずからメルヘンの里と称しており、そのためにこんなチロル風の建物にしたようで、中国山脈のなだらかな山並みを背景に確かにそれらしく周辺の景色にマッチしたものであるが、私にとっても初めて見るスタイルの庁舎だ。それにしても古い宿場の復元とのアンバランスがおかしい。この新庄村は人口1千人ほどで今回の真庭市の合併でもただ1村参加していないし、特異なわが道を行く村のようだ。そのような村だからひょっとしてこんなものまであるのでは、と思ったものがやはりあった。元阪神タイガーズ新庄選手のコンクリートの足型で、平成10年12月13日来村記念という碑まで建っていた。どっちもどっちと言うか、他人が何と言おうとわが道を行く者同士の本領発揮という気がしないでもない。
公共交通で行けない村 中和村
真庭市というのは岡山県北西部の真庭郡の勝山町、久世町、落合町、湯原町、美甘村、川上村、八束村、中和村、それに上房郡の北房町の5町4村が本年(2005年)3月31日に合併したばかりの人口5万5千人弱の新市である。岡山市の中心市街地を流れ児島湾に注ぐ旭川の最上流部にあり、真庭郡では前述の新庄村だけが加わっていない。このうち落合と久世と勝山の3町には1993年5月に行っており、それぞれ順に186、187、188番目の訪問である。いずれもJR姫新線の沿線にあり、いかにこの頃は行きやすいところばかり行っていたかがわかる。新庄から中国勝山駅前の中鉄バス勝山バス・センターにいったん戻り、今日はこの後相当歩くことになるし、ここ勝山に泊まる予定なのでコインロッカーにリュックを預け、まず川上村までバスに乗った。68分、1380円だった。旧町村役場はそれぞれ支庁となっているが、川上と八束は蒜山川上庁舎、蒜山八束庁舎とそれぞれ頭に蒜山(ひるぜん)をつけ、観光地を強調している。少ないバスを有効利用するために八束までは大急ぎで歩いたりしながら中和村への入口ともいうべき初和というバス停で降りた。
役場はここから約4キロ山奥に行ったところにありそこへ行くには市営のバスがあるのだが、インターネットでは情報を得られず、また勝山のバス・センターで聞いてもわからなかった。中和の役場へ電話したら教えてくれたが、勝山からの中鉄バスとは全くというよりも、わざととでも言いたくなるくらい接続していないことがわかった。平日の場合中鉄バスは6往復半、市営バスは5往復ある。夕方の役場方面への1本のみが15分程の待ちで乗換えできる他はどれも最小でも1時間近く待たなければならないし、なかには5分前に行ってしまうというものまである。どうしてこんなダイヤにしているのか理解に苦しむが、それなりの理由があるのだろうし住民から文句も出ていないのだろう。困るのは私だけなのかもしれない。
全国の市町村役場には東京から公共交通機関を乗りついで行けるはずだという仮説の検証を兼ねてまわってきて、なかなかその判定を下すことがむずかしいこともあったが、行けないと断定できるケースはいままでなかった。どうやら旧中和村が1703件目にしてはじめての、公共交通機関では行けない役場という栄誉を与えられることになりそうだ。
だからと言って行かないわけには行かない。歩くのは米子から中国山地の中を通り宮津まで行く国道482号線で、途中何ヶ所かで改良工事を行っていた。並行する川が大きく迂回する部分では小さな峠を越えるのだが、その部分は500メートル弱の新しいトンネルが貫通したばかりで、前後の道路の工事だけが残されていた。行きは事情がわからず峠越えの道を辿ったが、出入り口の状況と、付近に工事関係者が全くいないことがわかったので、悪いとはおもったが新しいトンネル内を歩いてきた。車は絶対に来ないし、こんな山奥ではホームレスが寝ていることもないだろうから安心して良いのだが、照明がないので暗く、あまり気味のいいものではなかった。知られたら咎めを受けたに違いない。
ちょうど昼の時間帯だったが役場周囲には食堂はおろか、食物を売っているような店もない。役場の受付でこの近くにそのようなところがないか尋ねたところ、さらに1キロ先に商店があるという。4キロも歩いて来てまた戻らなければならないのに、もうそんな所まで行く気力はない。まさに足なし、食なしの役場であった。結局この日は昼食にはありつけなかったが、半ばこういうこともあろうかと朝食をたらふく食べておいたし、アーモンド入りのチョコレートを持参しておいた。役場めぐり1700件の知恵である。
さらに旭川に沿って戻る途中の湯原で下車した。旅館やホテルの多い湯原温泉があり、ここに泊っても良かったのだが、明朝早い出発を考えると勝山まで戻らなければならない。役場は木造二階建ての大変古い感じのものだったが、山間の温泉地には良く似合うものだった。山奥の鄙びた温泉地と言いたいのだが、すぐ近くに米子自動車道のICがあり、岡山や米子には1時間程度で行けるそうなので、瀬戸内ものでも日本海ものでも夕食のおかずには事欠かないだろう。 途中の山林の各所で台風でなぎ倒され枯れた木々を多く見た。伐採しても売れないし、人手もないのでこのまま放置するより他にないのだというのが、バス客から聞いた話だった。
役場めぐりもつらいよ
最終日は、中国勝山6:00発の芸備線ディーゼルカーで15分、美作落合で降り、バスで旭川水系から高梁川水系を遮る峠を越え、一部は歩き、合併で高梁市の一部となった有漢町を通って高梁に出た。そして支流の成羽川に沿ってこれも高梁市となった成羽町、川上町、備中町に行った。ここもバスの本数が少なく、途中9キロ近く歩いた。旧成羽町に吹屋地区があり、そこまでは行けなかったが、ベンガラの産地だ。江戸時代中期頃から銅の採掘がはじまり、いっしょに採れる硫化鉄鉱石から作れる赤い塗料がベンガラで、伊万里焼や備前焼などに使われたほか、神社仏閣の外壁に塗られた。吹屋地区の集落は、ベンガラ漆喰壁の赤い町並みで知られているそうだ。
ここにも行きたかったし、天守閣が残っている山城の備中松山城や、「男はつらいよ」の映画で2度も舞台になった武家屋敷や町家、神社仏閣が立ち並ぶ高梁の市街地を観光したかったが、役場訪問件数を優先したために時間が足りなかった。いつかゆっくり来たいと思ったところのひとつだ。伯備線の特急「やくも」で岡山に戻りバスで空港へ行き、全日空機で帰った。
今回は初めて公共交通では行けない役場の判定を自ら下したり、初めて見るチロル風の庁舎に出合ったりもした。公共交通の終日近し、を感じさせるところへも行った。それとともに歴史ファンが行くような場所に地理好き風なアプローチを試みてみた。そのなかで国分寺めぐりということに惹かれそうになったが、あまり気を多くすることは良くない。歩き過ぎや食事抜きでつらいこともあるが、それでも役所・役場めぐりに邁進することにしよう。
(2005.5.31記)