マイレージによる無料航空券では熊本行きの希望する便が取れなかったので往路は福岡空港経由にした。早朝羽田を飛び立ち福岡には8時15分着、熊本行きの高速バスに乗車した。国内線だけではなく、国際線ターミナルからも大きな荷物を持った多数の乗車があった。九州自動車道に入り鳥栖を過ぎると事故渋滞に巻き込まれ徐行と停止を繰り返し、降車する菊水インターまで72分のはずが37分遅れで着いた。
熊本県内でも平成の合併で市町村数が94から48と約半分になる。今回も合併の進んでいる地域を中心に行程を組んだ。インターネットで九州産交バスの時刻表を見ながら4日間でまわるためのベストの行程が組んだつもりだったが、高速バスの遅れで最初から躓いた。菊水インターから30分くらい歩いて行く予定だった菊水町をスキップして、山鹿へ行くバスに乗車した。高速バスがあと10分遅れていたら、このバスにも乗れなかったことになる。
産交バスには1日1000円で乗り放題という「1日フリー乗車券」がある。阿蘇方面、八代以南、天草以外、及び一部の他社が地盤とするエリア以外で使えるのでかなり役に立つ。11月末までの期間限定だったので、それに合わせて熊本県行きを早めた。なお熊本県下には産交バスの他に熊電バス、熊本バスがあるがこの2社にはそのような切符はなかった。交通タイムズ社というところが発行している月刊の熊本県内総合時刻表を事前に購入した。バスだけでなく鉄道や船、航空など県内のすべての公共交通機関の時刻を網羅した便利なもので、他の県ではなかなか見つけることができない。同社に電話して自宅に送ってもらい代金620円を郵便振込した。
菊と鹿
熊本県北部には菊池川が流れている。この川は阿蘇外輪山のひとつである尾ノ岳の南麓を水源とし、上流の菊池渓谷から菊池市、山鹿市、菊水町を流れ、玉名市で島原湾に注ぐ延長71Kmの一級河川である。水源の標高は1041mと高いこともあり、たびたび洪水に泣かされたそうだ。流域には菊池市のほか菊水、菊鹿と「菊」のつく地名と山鹿市のほか鹿北、鹿本、鹿央、など「鹿」のつく町が多い。このうち鹿グループはすべて今年の1月に合併し新しい山鹿市となった。菊池市と山鹿市を両親とするような菊鹿町も山鹿家のほうに引き取られた。一方菊池市の方は菊鹿を取られた他菊水町、菊陽町がともに隣接していないこともあり合併せず、「菊」のつかない七城町、泗水町、旭志村と合併し新しい菊池市となっている。
今回はまずこの合いの子のような菊鹿町に行くことにし、山鹿の中心温泉プラザに着くとすぐにやってきた小型バスに乗換えた。菊池川の支流の内田川の流域に広がるこの町は、県下で最も古いとされている山城の鞠智城(きくちじょう)があり古代はこの地方の中心地だったようだ。町役場は「あんずの丘」という小高い丘の上にあり、周囲は公園やスポーツ施設があり逆に商店や住宅は全くない。山鹿からのバスが1時間に1本程度あるが、うちおよそ半数がこの丘を登り役場前に停まる。しかし私が乗ったのはそこには行かない便だったので1.5キロくらい歩いて登らなければならなかった。役場は山鹿市菊鹿総合支所と表示されていた。
この町はもともと他の鹿グループとともに鹿本郡に属していたので、菊と鹿との綱引きということではなく、山鹿と合併するのが自然の成り行きだったようで、地形やバスなどの交通流から見ても順当なところだったようだ。復路も役場経由のバスとタイミングが合わず、菊池行きのバスの走る津袋というところまで歩きラーメン定食の看板のあった店で次のバスを待った。
色あせた赤い灯青い灯 菊地温泉
菊池市は律令時代から戦国乱世にかけてこの地方のみならず一時は九州全域まで勢力を及ぼした菊池一族の統治による九州の政治・文化の中心地として栄え、現在でも多くの遺跡が各地に残っている。また江戸・明治期には農業の盛んな地として、また米の集散地である商業都市として発展してきた。前述の通り今年3月に菊池郡の七城町、泗水町、旭志村と合併して新しい菊池市となったが、これら4市町村は合併前から広域連合や広域行政事務組合等の共同事務を行っていたそうだ。
菊池市内の交通の拠点はかつての熊本電鉄菊池駅跡、今は熊本電鉄バスのターミナルになっている菊池プラザだ。しかしすぐ近くにある老舗百貨店壽屋の支店が民事再生中で空屋になったままで、人通りも少なく閑散としていた。菊池市役所に行った後七城、泗水とまわったが、ここは熊電バスのエリアだ。産交のフリー切符は使えなかったが、バスの本数は多く効率良く進むことができた。さらに菊池市と熊本市との間に展開する合志町、西合志町にも寄った。この2町も来年の2月に合併し合志市となるので、久しぶりの合併前訪問であった。このあたりに来るともう熊本市のベッドタウンの様相を呈しており新市の人口も51千人と合併後の菊池市の53千人と比べても遜色ない。同じ菊池郡に属しながら菊池市との合併に加わらなかったのも頷ける。特に西合志町は熊本電鉄の終点御代志駅近くにあり熊本市の郊外であることを改めて感じさせた。
御代志駅にはかつて都営地下鉄三田線で走っていたステンレス4扉の6000型2両編成が停まっていた。熊本電鉄は軽便鉄道として1913年熊本・菊池間を開業後、改軌や電化、さらに一時は山鹿への延伸を図るなどさまざまな経緯を経たが1986年には菊池・御代志間の13.5キロを廃止した。現在は熊本市内の藤崎宮前と御代志間を結ぶ9.7キロと途中の北熊本からJR上熊本駅までを結ぶ3.4キロからなる合計13.1キロ、単線600Vの地方私鉄である。藤崎宮前からさらに市内中心部に路線を延ばし熊本市電に乗り入れライト・レール化する話題もあるようだが、後述する熊本市電の現状からはなかなかむずかしそうだ。なお藤崎宮前・御代志間を2両編成の直通電車が走り、上熊本-北熊本は単行の折返し運転となっているが、正式には本線が上熊本・御代志間で、北熊本・藤崎宮前間は藤崎線という支線である。
御代志から先、菊池までのバスは20分毎に走っており、ちょうど高校生の下校時間とも重なったためか電車からの乗継客を含めかなりの混雑だった。熊本の住宅街がどんどん外に向っているのだから、市内への延伸だけでなく御代志からもう少し先に伸ばすことを考えても良いのではとも思った。跡地は殆どがサイクリング専用道路として残っていたから復活もそれほど困難ではないだろう。菊池に戻った後、旧の旭志村役場まで往復した。ここは産交バスだったのでフリー切符が使えた。しかし西日本でも秋の陽は短く、菊池市旭志総合支所と書かれた表示板がフラッシュの光で辛うじて読み取れる写真が撮れただけだった。
高級旅館の立ち並ぶ菊池温泉は、熊本の奥座敷といった位置にありそのような役割を担ってきたのだろうが、全国各地にある同じような温泉町と同じように斜陽にあることが手にとるようにわかる。1泊2食で8千円という、ここではかなり安い方の旅館に泊まったが温泉、部屋、食事とも特に悪いということはなかった。無色透明・弱アルカリ性の柔らかい泉質で湯量豊富と書いてあった温泉にも、一人でゆっくりと浸ることができ気持ちが良かった。表の通りには昔なつかしい赤や青の豆電球のついたバーのような店が何軒か並んでいた。夕食後ゆかたにサンダルで歩いて見たが、全く人通りがなく、呼び込みの声もなく、寒さばかりが身にしみて早々に旅館に戻った。
九州の小江戸 山鹿市
翌朝は菊池から鹿本、植木などに寄りながら山鹿に戻り、ここを拠点に鹿のつく名前の町を順番に回った。これらの町にはいずれへも山鹿からのバスがあり、その中心のターミナルの役を担っているのが温泉プラザである。そこにはそういう名の大きな建物があり半分が市民会館、残りがショッピング街や食堂街になっていて、また一部が「さくら湯」という銭湯のような温泉施設になっていた。他の地方都市と同様テナントのいくつかは空室になっていたが、それでも菊池よりは賑わいが感じられた。
山鹿という名は、今から800年ほど昔、この地方の殿様が山の中で鹿が湯浴みをしているのを見つけ名づけたという。鹿が多かったのだろうか。江戸時代には豊後街道の宿場町として、また周辺から集めた米を積み出す菊池川の河港として栄えていた。八千代座という明治43年に建てられた芝居小屋があり、今日でも歌舞伎公演のみならず大衆演芸、コンサート、各種のシンポジウムなど、さまざまな文化活動の場として利用されている。今年4月に行った美濃地方加子母村の明治座のような建物だがはるかに大きく、また最近全面的な改装があった。入場料を払って中の見学ができるのだが、今日は坂東玉三郎の一座が公演中で見学だけというのはできなかった。
宿場跡の商店街は古い町並みに復元されており、また山鹿灯篭を集めた民芸館のレトロ調の建物も町並みによく調和していた。平日なのに個人やグループの観光客が多く、ナンバープレートに福岡とあった観光バスも停まっていたので、熊本からだけではなく九州一円からもやって来るのだろう。小京都というよりも小江戸、関東で言えば川越とか足利といった感じである。
ここも1965年まで、JRの植木から鹿本を経由して山鹿まで鉄道があった。時期によって山鹿温泉鉄道とか鹿本鉄道と称していたが、全長20.3キロの線路をディーゼルカーが片道約50分かけて走り、一部の列車は熊本まで乗り入れていた。その線路跡はほとんどがサイクリング専用道路となっていて容易に辿ることができる。終点の山鹿温泉駅は温泉プラザから菊池川の河畔に下ったところにあった。かなり広い構内の跡は自動車教習所の練習コースになっており、駅舎も教室になっていた。しかしその教習所も何年か前に廃業したようで今はコースのいたるところに雑草が茂っていた。鉄道も、その後の教習所もうまく行かなかったようで、地方の交通業の苦労を思い知らされる光景だった。
どのバスも順調に走ってくれたので、余裕時間を見直し、高速道路渋滞による遅れで昨日行けなかった菊水町にも行くことができた。その菊水から南関、三加和とまわって本日4度目の温泉プラザに着いたときは17時半を過ぎあたりはすっかり暗くなっていた。観光客で賑わっていた周辺もひっそりと寂しくなっていた。2日目の宿はこの山鹿に取ろうかと当初考えていたが、この後の行程のために少しでも先に行こうと、更に玉名までバスに乗った。
干拓地はビニールハウス団地
菊池川の河口付近は干拓地が広がっている。特に先月合併で玉名市の一部となった旧横島町は全域が干拓地と言っていい。この干拓は1605年加藤清正によって始められ、その後江戸時代は細川藩や側近の有吉家によって、さらに明治になると多くの個人によって続けられたが、1967年の国営事業を最後にその後は行われていないという。その横島町へ行く小型バスに玉名駅前から乗車した。間もなく菊池川の堤防上を走るが干潮の時間帯で川は中央にわずかな水路を残しただけで黒い川底を晒していた。いつもながら有明海の干満の差は凄いと思うが、満潮時にはこの辺の土地は水面下になるのだろうか、オランダの光景を思い出す。
地図では気がつかなかったが行く手に小高い丘がある。かつては有明海に浮かぶ島だったところで清正によって始められた干拓事業で陸続きとなり、その後さらに沖合いに干拓が進んだので町の中央に位置する丘として残った。町役場はこの丘の向こう側、海側にあった。周囲は一面の農地でもともとは水田だったのだろうが今はほとんどが畑、それもビニール・ハウスがびっしりと立ち並んでいた。苺がこの町の名産物だそうだ。
歩いたりバスに乗ったりして天水町へ行った後玉名に戻った。玉名地方も歴史が古く、戦国時代以前からも栄えていたが、清正の時代になってからの治水や干拓により穀倉地帯として人口も増加した。明治以降九州鉄道が山鹿や菊池経由でなく玉名を通るようになったので町はますます発展した。今博多・熊本間の特急は1時間に3本走っているが、このうち2本は玉名に停車する。九州新幹線の駅も市内にできるそうだが、現在のJRの玉名駅とは離れるので、今後の街づくりは難しくなるかも知れない。先月10月3日に岱明町、天水町、横島町と合併し新しい人口73千人の玉名市が誕生した。
田原坂
この近くの、西南戦争の主戦場だった田原坂には以前から行ってみたいと思っていたので木葉駅から歩いて10分くらいの玉東町役場で観光案内と地図をもらった。役場は古い木造平屋の建物と化粧タイルが新しく見える鉄筋コンクリートの建物とがつながっており、役場の窓口は木造側に、議会は鉄筋側にあった。この町はどことも合併せず今後も単独で進むようだ。田原坂の入口まで、舗道のない県道を歩いたが、ひっきりなしに通るトラックなどで結構歩きにくく、時に身の危険さえ感じた。しかし雨の中、重装備でいつ薩軍の弾が飛んでくるかも知れなかった当時の官軍兵士の行軍に比べればずっと楽なはずだ。
明治10年(1877年)3月、薩摩軍に包囲され熊本城に篭城中の味方の救援に向った官軍と、これを迎え撃つ薩摩軍主力との会戦がここであった。田原坂は玉名から熊本に通じる大砲や荷馬車の通ることのできる唯一の道で、加藤清正は途中の道を深く掘り下げ凹地としたりして、北部方面からの城を守る要地としていた。
坂に入ると鬱蒼とした木々に囲まれた険しい勾配となり順に一の坂、二の坂、三の坂となる。薩摩軍はこの3つの坂に幾重にも陣を重ね丘の上から銃撃を重ねたので官軍はなすすべが無かった。それでも兵器や装備、後方支援の差などから次第に官軍が優勢となり、16日間に及ぶ戦闘の末、薩摩軍本隊は敗走し戦いは終わった。両軍合わせて10万の将兵が激闘し35千人の死傷者が出たという。関が原の合戦やアメリカの南北戦争でのいくつかの会戦に引けを取らない規模の大きなものだった。独立国家となるためには避けて通ることができなかった会戦だったのだろう。
鬱蒼とした木立を抜けると斜面に沿った道となる。秋の陽光を浴びたみかん畑の下には鹿児島本線の線路が見下ろせる。1時間に片道3本の特急と2本の各停電車がひっきりなしに走っているが、谷底のような所からの走行音は増幅されるのか、かなり遠くの方からやって来るのが良くわかる。百余年前には、雨の続く中この場所からは遠く近くの大砲の響きが絶えなかったのだろう。それに比べれば何とのどかな光景だろうか。
田原坂資料館には当時の大砲や小銃などの武器をはじめ、古い写真などが展示されていた。また合戦に至る経緯や戦闘の推移などは表や地図、映像などで大変解り易くなっていた。ここで暫く過ごした後、峠の茶屋風の店で「でご汁」の昼食を取った。味噌汁の中に小麦粉で作った団子が入ったようなものだが、古戦場で味わうのもなかなかいいものだった。さらに薩摩軍の戦没者墓地などを見ながら急坂を下りJR田原坂駅まで歩いた。30分毎に走っている各停電車もこの駅だけは2本に1本しか停まらない。ホームで何本もの通過する電車を見送り、八代行きの電車で次の訪問地の松橋に向った。
なかなか完璧とは行かない稲妻方式
今日は松橋に泊まることにしているが、日没までの時間フリー乗車券で件数稼ぎをした。松橋町とこの後訪れる4町とが今年1月に合併し人口65千人の宇城市となったが、市役所となった旧松橋町役場はまるでそれを予想していたような大きな庁舎だった。そしてここからは久しぶりの稲妻方式でまず12キロほど先の中央町へ、4キロ戻り豊野町へ、その後中央町を通過して砥用町へ行き松橋に戻った。その時はもう真っ暗になっていたので駅から歩いて数分で行けるはずの、宇城市役所よりも近い旧不知火町役場へは明日行くことにした。
しかし一見うまく行ったような稲妻方式だが、我ながら釈然としないものが残ってしまった。中央町と砥用町の2町が昨年11月に合併し美里町となったが、美里町役場中央庁舎前というバス停があるので庁舎前という以上役場の正面入口近くに停まるに違いないと思いこの方式を決行したのだが、その庁舎はバス停からは見えるのだが坂を登った丘の上にあった。しかし逆方向のバスまで4分しかないのでそこまではどうしても行けない。2分ほど歩き庁舎に近づいて写真を撮ったが、西洋の教会風の庁舎の正面までは行けなかった。それなのに次のバスが4分遅れで来たので、さらに2分近づけたはずだと思うと残念だった。また新しい美里町役場となった旧砥用役場も、町外れの丘の上に移転しており、かつての熊延鉄道の駅などがあった旧市内をゆっくりできなかったことも残念だった。件数稼ぎばかりに気を取られもっと大切なことを忘れていないか、いつもの旅で忸怩たる思いをする一時であった。
山間僻地再生の切り札となるか、グリーンライフ科
最終日は今年8月に6市町村により合併した八代市の未訪問町村を中心にまわった。一昨年12月に球磨川沿いを旅したときに旧八代市、千丁町、坂本村には行っていたので残りは鏡町、東陽村、泉村である。松橋駅から早朝7時前の八代行きの電車に乗ると通学の高校生が大勢乗っていた。次の小川で降り国道3号線に出ると24時間営業のハンバーガー店があり朝食をとった。これも宇城市となった旧小川町の庁舎前からわずか1ヶ月前の今年10月1日に隣接する竜北町と合併し氷川町となった旧宮原町役場に寄った後、氷川に沿って山奥の東陽村、泉村に行くバスを待った。
バスに乗るとまた通学の高校生でほぼ座席が埋まっていた。すぐに降りるのだろうと思って立っていたがなかなか降りない。そのうちに座席を詰めてもらい腰掛けたが、乗車後40分の泉振興センターで私が降りてもまだ乗ったままだった。彼らはこの先の八代農業高校泉分校に通う生徒達だった。八代に戻るバスの運転手の話によるとこの分校には日本初の「グリーンライフ科」というのがあり、八代市内や熊本市内からの通学生がいる。熊本からだと片道1時間半、交通費だけで1500円くらいするので親も大変である。グリーンライフ科というのは、野外活動などの授業を通して登山やカヌーの専門家を育てるものだそうだ。
今の時代に向いた学科かも知れず地方の、それも山奥の分校が存続をかけて始めたものだろうが、それだけ遠距離からの生徒を集めているのだとすると成功していると言えようか。しかし寮などはないようなので、バス1台分の学生がすべてだとすると教育機関といえども無視できない規模の経済は働かないだろう。生徒たちはだらしがない格好のものは少なく、車内で大声を出すようなこともなかった。しかし気がきかないというのかどうか、お年寄りが乗ってきても誰も席を譲らず、仕方がないので私が立ち上がると皆はずかしそうに下を向く。私のことを分校の視察にでも来たどこかの偉い人とでも思ったのだろうか。
この泉村の奥、峠を越えれば球磨川の上流五木村に出る。一昨年に見た川辺川のダムはまだ決着がついていないらしい。私が会社に入る前から計画されたダムはとうとう私の定年退職を過ぎても決着がつかなかった。私が生きている間につくのだろうか。
復路は途中の種山というところで降り旧東陽村役場に行った。その後のバスは2時間後だったので、何もすることのないところだったので前述の宮原を過ぎ、さらに鹿児島本線の線路を越えた鏡町の役場まで歩いてしまった。7キロ以上あったと思うが70分で着いてしまった。これで合併後の八代市を完了、さらに竜北町に寄り宮原町と合わせ新しい氷川町も完了とした。この後は小川から乗った電車を再度松橋で降り不知火町に寄り新しい宇城市を完了と、熊本県のほぼ南半分を制覇することができた。
本当に必要なのか 公共交通
この後はどことも合併せずに単独で進む宇土市に寄り、更に豊肥本線の電化区間を見てみたかったので熊本から肥後大津まで行った。この線の熊本側は篠栗線と同じように、JR九州が都市近郊区間の公共交通としてインフラを整備し、高頻度運転を行っている区間なので乗客も多く活気があった。あらためてJR九州の姿勢に拍手を送りたい。
そして最後は菊池郡の菊陽町に行った。熊本のベッドタウンとして人口3万を超えるのも間近な町だ。役場は豊肥本線の原水駅からは1キロくらい離れていたがバイパスに近く熊本市内からはバス路線もいくつかある。ここから熊本空港へは近く、タクシーならば10分もかからずに行けそうだったが、まだ時間はたっぷりあるのでいったん熊本市内に戻った。役場の退庁時間だったが職員は「お疲れ様」とか言い合いながら皆駐車していた車で帰ってしまう。役場前からバスに乗る職員は皆無だった。他でもそうだったが役場職員が通勤にバスを使っているのを見たことが殆どない。鉄道やバスなど公共交通の廃止には地元の反対があるとよく聞くが、役場の通勤にすら使おうとしないのに何を言うか、これが地方の現実なのだろうか。
逆風に晒される熊本市
道路はバイパスなどがよく整備されており夕方のラッシュ時間であるはずなのに渋滞することなくスムーズに市内中心部、つるやデパートのある通町筋まで来ることができた。その辺りは渋谷の駅前くらいとは言わないまでも人が多く、バスや路面電車がひっきりなしに走っていた。しかし今朝買った熊本日日新聞によると市電の乗客が減り続けているらしい。1999年の約1087万人をピークに2003年は前年比4.8%減の969万人、04年は更に4.5%減の925万人となっている。熊本市交通局は全国で初めて冷房車や超低床車を導入しラッシュ時は2~3分おきに電車を運行するなど工夫を重ね、健闘してきたのにこのような結果だ。女性ドライバーの増加、少子化による通学客の減少、沿線に集客力のある施設そのものがなくなってきたのではないかと分析し、じわじわ進む街の空洞化を懸念していると書いてあった。こんな状況では熊本電鉄との接続の話などもなかなか進めにくいに違いない。
また一昨日の同じ新聞で、熊本市の今後についての記事があった。熊本市が周辺市町村との合併を画策したがすべて相手にされずひとつも実現しなかったので、人口657千人の中核市ではあるものの、このままでは政令都市にもなれず、将来道州制となったときの九州の首都となるのは難しいとあった。とくに熊本よりも人口では下位だった新潟や浜松が合併で大きくなり政令都市になるだけに焦りがあるとのこと。実際の熊本の市街地は市域を越えて広がっているのを見て来たが、周辺の植木町、菊陽町、益城町などいずれも3万人台の人口だしその他の隣接する町を加えれば80万人くらいとなり政令都市になれる。さらに宇土市や今回合併して大きくなった山鹿市や菊池市まで含めれば優に100万を超える。熊本市だけをボイコットするような形で周辺市町村で合併が進んだのは何か特別な理由でもあったのだろうか。
空港までのバスを待つ間、アーケード街を歩いているとダイエーの8階にラーメン城下町というのがあったので入ってみた。新横浜のラーメン博物館に似せた昭和30年代の町並みを復元したところに7軒のラーメン屋が営業していたが、客は全体でも5人くらいで実に閑散としており、薄暗いレトロ調は気味悪くさえあった。市電の乗客減少といい、合併の失敗といい、今熊本市は逆風に晒されているといえるのだろうか。
「公共交通の新たな挑戦」というシンポジュウムが近く開かれるということがやはり新聞に出ていた。過疎地域のバス網問題をテーマに山口市や浦安市のコミュニティバスの事例紹介などがあるそうで交通関係労組が主催するものらしいがどんな前向きな討論がなされるのだろうか。公共交通の促進については総論賛成でも私は乗らない。役場の職員どころか交通局の職員すらマイカーでの通勤をやめようとしないのではないか。そんなことではいつまでたっても公共交通は蘇えらないだろう。