本州最北端の津軽半島や下北半島がいつまでもブランクのままだと気になる。札幌または函館を出発地とし青森・岩手・秋田の東北3県内のJRや一部の三セク鉄道に特急を含め期間内に何度でも乗り降りできるJR北海道の「みちのくフリーきっぷ」というものがあり、全日空のマイレージ無料航空券と合わせてこれを使ってみたくなった。青森県内には全日空が就航していないので、函館から入り青森県内をまわり、大館能代空港より帰るという行程を作った。このフリー切符は17,800円で4日間使えるものだ。しかし予定ルートを作り試算してみるとフリー切符を使うよりもその都度通常の切符を買う方が安いことがわかったので、それを買わずに行くことにした。
役場と奉行所
羽田発6時45分のAIRDO函館行き(全日空との共同運航便)は搭乗直前になって函館空港が霧のため羽田に引返すか千歳に行くかも知れないというアナウンスがあり、さらに燃料を追加するとのことで出発が15分近く遅れた。函館上空は確かに厚い雲か霧に覆われ、地上が見えたのは着陸寸前の五稜郭上空になってからだったが、無事着陸することができた。
リムジン・バスで函館駅前に行き、朝市をひやかし、新装なった駅から単行のキハ140で木古内に向かった。函館郊外の上磯あたりまでは立ち客がでるほどの混み具合だったが、その後はワンボックスに1人程度で閑散としていた。松前国道と呼ばれている並行する国道228号線は、あまり車は走っていなかったが、さらにそれに並行するように江差自動車道という高速道路が建設中だった。
本州に渡る前に、渡島半島の木古内、知内、福島、松前の4町にも行く。木古内では降りた鈍行のすぐ後に函館からと青森からの特急が同時に着き、松前行きの函館バスは下車客を集めて発車した。背広姿の用務客などを含め20人くらいの乗車で、久しぶりに客の多いローカル・バスだった。
木古内から松前までは55キロ、バスは通しで乗れば1時間30分、1220円であるが、途中下車をするとかなり高くなる。往きは知内で下車し370円+1,070円で1440円だったが、帰りは福島で下車すると870円+840円でなんと1710円にもなった。バスに限らず公共交通の料金はある程度遠距離逓減制をとっているので途中下車すれば高くなるのは当然だが、下車する場所でこんなに違うのも珍しい。何かの間違いではないかとさえ思ったが、片方に近いところと、ほぼ中間点での下車との違いでこうなるのかも知れない。
松前町役場は、昭和30年代に建てられたと思われるような木造モルタル2階建のもので、普通ならば役場の表示のある位置に「史跡 松前奉行所跡」と書かれた石碑が建っているのが面白い。全国どこでも役場というのは奉行所の現代版のようなものだから、今まであまり気にしていなかったが、奉行所の跡地に建つ役場というのは案外多いのかも知れない。いずれにせよ役場というのはダウンタウンにあるのが普通で、県庁が城跡にあるのが多いのと対照的である。だから議員や職員など県と市町村とでは城と奉行所に勤めるくらいの意識の差があるのかも知れない。
松前城は幕末の1849年、幕府が外国船警備を目的に松前藩を築城させた。石垣に白壁の日本古来の旧式城郭のように見えるが、実際は海に向けての砲台があったり、城壁の中に鉄板を仕込んだりして、当時としては可能な限り西洋技術を取り入れていたそうだ。和魂洋才の城とでも言えようか、やはり幕末に五島藩に造らせた福江城を思い出させる。
木古内に戻る途中に寄った福島町は、青函トンネル記念館があり、さらに千代の山と千代の富士の二人の横綱を輩出した町として横綱記念館があった。往きに寄った知内は歌手の北島三郎出身地を謳っており、どちらも有名人の名を借りている。夕方木古内に戻り、町役場に行ってから旅館に泊まったが、本日行った4町はいずれも人口減が激しい。私は訪問先のデータベースを作り1992年と2004年のいずれも3月末の住民基本台帳の人口を記録しているが、この間4町合計で37千人だったものが29千人台へと、20%もの減少となっていた。
どうなる青函トンネルの貨物列車
青函トンネルが開業したのは1988年3月なのでもう18年前になる。私はその翌年の夏に行き、吉岡海底駅と竜飛海底駅にも降り、非常時ための旅客待避所やトンネル維持用の基地などの見学をしている。当時は快速列車を主体とするダイヤだったが、今は日中は特急電車だけが1~2時間に1本走っている。木古内から蟹田まで「スーパー白鳥10号」に乗車したが、普通列車が走っていないので、この区間のみを乗車するときは、特例として特急券は必要ない。
JR北海道が東北新幹線接続特急用に作った789系電車は乗り心地が良く、車両内外のデザインもいい。提携関係にあるデンマーク国鉄(DSB)との共同デザインだと聞く。最高速度140キロで走っているそうだがそんなに速い感じはない。全長53.9キロのトンネルを含む木古内と青森県側の中小国信号所間の87.8キロがいわゆる津軽海峡線として新規に開業した部分で、フル規格新幹線にいつでも変更できるようなインフラになっているようだ。
途中すれ違うのは旅客列車よりもコンテナ列車の方が多く、定期のコンテナ列車だけで1日に24往復走っていると聞く。この他の不定期列車などを含めれば、ここは旅客列車の2倍近い貨物列車が走っていることになり、物流の動脈としてすっかり定着している。北海道新幹線が開業した後の貨物輸送についてはどこまで対応策が練られているのだろうか。スイスで見たような標準軌の台車に貨車ごと積み込む法式とか、コンテナ貨車のデュアル・ゲージ化など考えられるが、江差線や津軽線の線形改良や複線化によるスーパー特急方式の方が現実的ではないだろうか。しかしそれでは期待していた大型工事がなくなり、地元経済への恩恵が少なく関係者が反対するのかも知れない。だからと言って何でも大型工事がいいのか、90年代の学習効果を生かしてほしてものだ。
トンネルの前後で知内駅と津軽今別駅を通過した。どちらも保守基地として作ったものを地元の要請で駅にしたものだが、どちらも1日に上下2本ずつしか停車せず、しかも両方の駅に停まる列車はない。もしもそのような列車があったならば、今回の私の役場めぐりももう少し効率の良いものになったと思う。中小国信号所で津軽線と合流するとゆっくりとした走りになった。やがて左側線路脇にこれから行く町役場を見るがなかなか駅に着かない。かなり歩かなければならないとうんざりしはじめた頃蟹田に到着した。ここでJR北海道から東日本に乗員が交代した。
ここも人口減の激しい半島先端部
津軽半島の西側の小泊村、市浦村には10年以上前に行っている。今回行く蟹田から竜飛岬までにかけての蟹田町、平館村、今別町、三厩村は今別町だけを除き3町村で昨年3月に合併し外ケ浜町となった。
蟹田駅で下車し、今走ってきた線路に沿ってつい先ほど車窓から見た外ヶ浜町役場(元蟹田町役場)まで歩いて往復した後、町のコミュニティバスで平館村まで往復した。そして津軽線のキハで津軽半島最北を目指した。30分ほど乗って今別駅に降りたときはかなりの雨だった。そして三厩までの約6キロを歩いた。雨は途中で止み助かった。そして終点三厩から戻った。津軽線の末端部は地元の人と思われる客は少なく、むしろ中高年の一人旅風というのを何人か見かけた。「大人の休日倶楽部会員パス」などで本州最末端の旅を楽しんでいるようだ。
この地域の人口減も激しく、合併した外ケ浜町の総人口は8,964人だが12年間に2,049人、18.6%の減少だし、また合併から取り残された今別町に至ってはなんと24.6%減で4,187人である。今別町は役場も戦前か昭和20年代のものかと思われるような古くて小さなものでうっかり通り過ぎてしまいそうなものだった。無駄なものに金をかけないという姿勢は高く評価するが、このままいつまで単独で頑張って行けるのか心配である。
三厩から青森行きに乗り蓬田駅で途中下車し蓬田村へ、さらに青森で東北本線に乗り換え小湊駅で途中下車し平内町に寄ったのち、野辺地で降り町役場近くの旅館に宿を取った。
過疎地のひとつの生き方 六ヶ所村
町役場のすぐ近くの野辺地中央バス停から六ヶ所村に行くバスに乗った。明治時代に6つの集落を統合して出来た村だそうだ。しばらく陸奥湾沿いを北上し、間もなく下北半島を横断するために右折すると、まず林立する発電用の風車群が見え、次に国家石油備蓄基地のタンク群が姿を現し、続いて核燃料サイクル施設である日本原燃の再処理工場の横を通った。そしてそれらに働く人のためと思われるショッピング・モールやニュータウン風の住宅街を通り1時間弱で村役場前に着いた。エネルギー関連施設が集中している村で、豊かな村だからどんなに豪華な村役場かと思っていたら意外にもそれほどではない4階建の平凡なもので、石碑には昭和49年(1974年)竣工とあった。尤もその碑文には三沢飛行場の航空騒音に対する防衛庁からの補助金によって建てられたとあり、役場に関してはエネルギー関連からの恩恵はこれから受けようというのかも知れない。
人口も92年から04年で11,315人から11,961人と5.7%増、青森県のなかでほとんどの町村が減っているのとは対照的だ。さらにフランスに敗れたがITER(国際熱核融合実験炉)の誘致も推進していた。この村のやっていることは過疎地自治体生き残りのひとつの行き方だろう。他所が敬遠するもの、いやがるものを積極的に誘致することで村興しをめざす。しかしこれには当然ながら多くの反対が自治体の内外から寄せられる。だからもちろん十分な議論が必要なのだが、少なくとも自治体内で合意出来たことに対して外部は、すなわちそこに居住しない者は反対すべきではないだろう。これこそ地方自治の原点だ、ふとそんな思いを持った。
風力発電は出力1500KWのものが全部で22基だから33千KWの総出力となり小規模な水力発電所を凌ぐ。保守費用などで必ずしも黒字とはならないというが、化石燃料を使わないで済むし、コストと言っても保守料など地元の所得になるものが多いと思われるのでこれで良いのではないか。また備蓄基地が海岸近くではなく丘の上にあるのも意外だった。しかし本当の非常時に、例えば電気さえ使えなくなったときには重力によって船などに給油できることを考えると、本来は高所に作った方がいいのかも知れない。
離島のような下北半島先端部
野辺地に戻り大湊線の快速列車で大湊に向かった。高性能新型、といっても登場したのは1990年と15年も前のだが、キハ100系という16メートルの小型車1両だった。業務客とみられる背広姿を含む一般客の他に、30人くらいの大手旅行者のツァー客が同乗しラッシュ並みの混雑で野辺地を出発した。ツァー客は陸奥横浜で降りたが、一体どんなコースのツァーだったのだろうか。それでも座席が空かず、結局終点まで先頭に立ち久しぶりの鉄チャン気分を味わった。直線の続く海岸沿いの線路を、途中2駅停車で58.4キロを50分、すなわち評定速度70キロで走ったのは見事であり楽しかった。
大湊からは最近は少なくなったJRバスで脇野沢まで行った。途中下車して寄った川内町役場は一昨年に建ったばかりのもので、ヒバの大木をふんだんに使った豪華なものだった。しかしここも隣の脇野沢などと大湊市と合併し支所になり、どう見ても持て余し気味の庁舎だ。またバスの待合室を兼ねた「町の駅」という名前の、同じような木造の新築建物が近くにあり、広いスペースに椅子やテーブル、無料の給茶器があり、トイレもウォシュレットのものだった。ちょうど昼時で、近くの店でパンを買いここで食べたが、旅行者にはありがたい施設でありサービスだった。庁舎の離れの茶室といったようなものだが、建設費は役場の1%もしなかっただろう。
かつてはあったのかどうか知らないが、今は下北半島を一周するようなバスはなく、脇野沢から佐井まではシーラインという会社の経営する船に乗った。青森から陸奥湾を横断して来るもので、この辺りは青森市内からみれば離島のような感覚なのだろう、陸地をまわって来るよりはずっと近い。それでも90トン、126人乗高速船からは脇野沢で3人が降り、乗船は私のみ、他には乗客が1人いただけだった。1日に2往復、冬季は1往復のこの船でこの程度の利用状況ということは、この辺と青森との行き来にわざわざ車を使って大周りするということも考えられないのでもともと流動がほとんどないのだろうか。
船は鉞(まさかり)のような形をした下北半島の、ちょうど刃に相当する部分に沿って進む。途中の仏ケ浦の連なる岩の数々の景観は見事で、この船も地元の足というよりも観光客の誘致をねらったものかも知れない。しかし観光客も思った通りには伸びず、廃止の話しもあるが、なかなか結論が出ないそうだ。離島ならばどんなに利用者が少なくても余程のことがない限り廃止ということにはならないだろうが、離島のような半島という中途半端な位置が結論を出すことを困難にしているのかも知れない。
佐井港には「津軽海峡文化館アルサス」という3階建の立派なターミナル・ビルがあり、中には観光案内所やイベントなどのためのホール、さらには「海峡ミュージアム」という博物館やレストラン、物産店があったがどれも閉まっており、人もおらず照明も消えたままだった。観光で生きて行こうと頑張ったのだろうが、平成の合併から取り残され、人口もこの12年間で18%も減り3千人を切ってしまったこの村も、先行きはますます厳しいだろう。古い旅館には他の客はなかった。1泊2食6000円だったが夕食は品数も多く、食べきれないほどの量だった。
原発半島 過疎地の生き方
翌日は早朝5時半に佐井からバスに乗った。宿のおばさんは、こんなに早くからどこに行くのと言いながら朝食のおにぎりを作ってくれた。この佐井は前述の高速船が廃止になってしまうと多分本州の中でも最も行きにくい所になってしまうだろう。陸路を辿るとなるとむつ市の下北駅までバスで2時間、それから大湊線で野辺地まで1時間、県都青森までは更に30~45分、これに乗換時間などを加えると4時間以上はかかってしまう。
それでもバスの本数は1日に9往復と意外に多く、佐井からは早朝5時半から午前中はほぼ1時間おきに出発する。そのおかげで途中の町村に寄って行くには大変都合が良かった。途中大間、風間浦、大畑と下車し役場に行ったが、次のバスを待つ間は、少しでもその先のバス停まで歩きバス代の節約を心掛けた。本州最北端の大間崎に立って見たい気持ちもあったが、役場めぐりを優先した。そのようにしながら約5時間かけむつ市役所前に到着、むつ市も昨年3月に大畑町、川内町、脇野沢村と合併したので、佐井村、大間町、風間浦村がそれぞれ単独で取り残された。ただし大間町は電源開発の原子力発電所が建設準備中で、その敷地となるところをバスで通ったが、整地作業はかなり進んでいた。合併しないのはこれを読み込んでいるからだろうか。
むつ市の東隣、下北半島の東北部に位置する東通村の役場は1988年まではむつ市内のバス・ターミナル近くにあった。鹿児島市内にある離島村の十島村、三島村役場のようなもので、集落が村内各地に点在しておりこの方が便利だったからだそうだが、開村100周年を機に村内に移転した。新しい役場に行くむつ市内からのバスはいくつかの集落を通るために遠回りをしながら進んだ。この村も原子力発電所を誘致して財政が豊かなのだろう、ニュータウン然とした一帯には超豪華な村役場を中心に文化施設や体育館、高級そうな住宅団地などが作られており、六ヶ所村と同じような行き方をしていることがわかった。
村内の太平洋側にすでに定格出力110万キロワットという東北電力のBWR(沸騰水型原子炉)が運転を開始しており、ABWR(改良型沸騰水型原子炉)の2号炉、さらには東京電力の2基のABWRも順次着工されると聞く。人口8千人でこの12年間で10%近くの減少となっているが、これらの原発の運転によってやがて増加に転じるだろう。住民用のさまざまな設備が施されており、村営の学習塾まであるそうだ。
なお前述の大間町の原発は、低濃縮ウランおよびウラン・プルトニウム混合酸化物であるMOX燃料によるABWRで、これは使用済み燃料から六ヶ所村の再処理工場で回収されるウランやプルトニウムを再利用するもので、まさに下北半島が「核燃料サイクル」のプルサーマル半島になろうとしている。
鉄道とバスの乗り継ぎで横浜町に寄り野辺地に戻り、さらに七戸町まで足を伸ばした。昨年3月に隣り合う七戸町と天間林村とが合併したが、町名は七戸が取り、旧天間林村役場が新しい町役場になった。旧型レールバスなどで鉄道ファンの間で有名だった南部縦貫鉄道の線路跡がほぼ国道4号線に沿っており、新しい町役場横にもそれがはっきりわかった。1997年に運行を休止し2002年に正式に廃止となったそうで、旧七戸駅にはレールバスが動態保存されているそうだが時間がなくそこには行けなかった。最終日の弘前周辺に備えて800系電車を乗り継いで奥羽線浪岡に行きそこの旅館に泊まった。
お勧めしたい城下町 弘前
翌朝はすばらしい晴天だった。素泊まり3150円という旅館の3階の窓からは津軽富士と言われるのも尤もだと思わせる岩木山の均整の取れた山容や、黒石や弘前の町並みまで見渡せた。大釈迦トンネルで青森との分水嶺を越え、ここはもう津軽平野で弘前の文化・経済圏だと思っていたのだが、浪岡町は昨年4月に弘前とではなく青森市と合併している。
通勤時間帯の電車は弘前方面のものよりも青森方面の方が混んでいるように感じられたのは、県庁所在地である青森とかつての津軽平野の中心の弘前との力の差がついてきたということだろうか。弘前には10年ほど前に家内と旅行に来ており、そのときに白神山地近くの西目屋村に泊っている。今回は残りの岩木町と相馬村にバスで行ったが、いずれも今年の2月に合併し弘前市の一部となった。
どちらも弘前市街から放射状に出ているバスで行かなければならず、岩木に行き、いったん弘前の市役所前に戻り、相馬へのバスを約1時間待った。この間弘前城に隣接する藤田記念庭園に行くとなかなかいい所だった。当市出身の実業家で日本商工会議所の初代会頭だった藤田謙一の弘前の別邸跡で、崖をはさんで台地部分と低地部分に分かれている。台地部分は岩木山を借景とするような見事な庭園で、日本式の母屋の他に洋館があり、喫茶室もあったのでゆっくりとコーヒーを飲んで過ごした。
相馬村から戻って食事をし、中央弘前から弘南鉄道で大鰐に向かった。中央弘前駅近くにもゴシック様式の聖公会の教会があるなど多くのレトロ調の洋風建物が残っていた。それらが弘前城とうまく調和していて、お勧めしたい城下町のひとつである。大鰐温泉までは元東急7000型が2両の電車で30分だった。
超ローカル 大館能代空港
大鰐町から津軽地方最南部の碇ヶ関村(現平川市の一部)にも行くことにしたのだが、ちょうど良い列車は特急しかなかった。たった7分間の乗車だったが、特例料金のようなものはなく、運賃190円の他に特急券500円を支払い、青函トンネルで得をした気分が帳消しになった。
そして県を越え大館能代空港に行くために鷹巣まで、さらに普通電車に乗った。今回唯一の秋田県である鷹巣町も昨年3月に周辺の3町と合併し北秋田市となった。その新しい市の市役所となった旧鷹巣町役場近くから、空港へ行く大館発のリムジン・バスに乗ったが乗客は私以外に1人だけだった。
空港に着くと、ほぼ同時に能代からのバスも到着し、こちらには5人くらい乗っていた。それでも東京行きの便に搭乗したのは50人くらいいたので、団体客もなかったのにこれだけの乗客を集められるのは見事なものだと感心した。この空港、こんなところに作って誰が利用するのかと言われながら1998年に開港した。東京への便が朝夕1往復ずつ、大阪へ昼に1往復あるだけの典型的なローカル空港だが、この程度の運行状況では例え満席になったとしても赤字に違いない。そのためか要員を有効活用しているようで、セキュリティ・チェツクの時間帯や搭乗時間を極端に短くして、スタッフがかけ持ちをしていた。羽田が混雑しているので離陸の段階から待機するように指示があったそうで、搭乗してからも機内で待たされ、離陸したのは定刻の20分遅れだった。
これで本州最北端を塗りつぶすことができたが、それにしてもこの地方は人口減が激しい。だから生き残りのために、皆がいやがるものを進んで受け入れようとしているようで、過疎地としては正しい選択だと思う。原発、処理施設、刑務所、さらには自衛隊基地などがその対象と思われるが、地元が誘致したくともそこに住んでいない者の反対などで進まないことが多い。地元の責任のもとで発展を図ろうと決めたことは尊重するべきであり、よそ者が反対する権利などないはずである。地方自治というのは、そういうものではないのだろうか。