奄美諸島へ行くときには十島村の村営船で行こうと以前から決めていた。鹿児島県の十島村というのは三島村と同様村役場がそれぞれの村内にはなく鹿児島市内にある。この2つの庁舎の写真は撮っているので、私のルールでは両村へは公式訪問をしたことになっておりカウントもしている。しかし何かスッキリしないものが残っているので上陸はせずとも、少なくとも船上から島影ぐらいは見ておきたいと思っていたのである。そのようなわけで船の運航予定を調べていたら面白いものを見つけた。レントゲン船である。
まずは県北でウォーミング・アップ
2007年5月14日 (月)羽田空港を朝7時少し過ぎに飛び立った全日空機は強い迎え風で遅れるというアナウンスがあったが8時50分、鹿児島湾から国分市の上空を通り鹿児島空港に着陸した。船の出航は23時なのでこの間に県北部の未訪問地を少しでも多く回ることにした。
まず阿久根まで行く空港連絡バスに乗り、2005年11月の合併で霧島市の一部となった旧溝辺町役場へ行った。更に路線バスや、峠越えの道を6キロほど歩いたりしながら、薩摩町、祁答院(けどういん)町、宮之城町、東郷町役場と順に行った。薩摩、宮之城が2005年3月にさつま町に、祁答院、東郷が2004年11月にそれぞれ薩摩川内市の一部になっている。
かつての国鉄宮之城線の廃線跡をたどるようにして、3年半ぶりの川内駅前に出た。交通費節約のため新幹線ではなく在来線に鹿児島中央まで乗った。
十島村のレントゲン船
利島村の村営船である「フェリー十島」は夜鹿児島港を出て翌朝から順にトカラ列島と呼ばれている7つの有人島に寄航しその日の夕方奄美大島の名瀬に着き、折り返し再び各島に寄り鹿児島に戻るものと、名瀬まで行かず村の最南の島、宝島で折り返すものが交互に、それぞれ週1便ずつ運行するのが原則だ。しかし他のパターンもあり、数カ月先までの運行予定が発表されている。それを調べていたらレントゲン船というのを見つけた。これは島民の検診のためレントゲン車を載せて各島に概ね2時間ずつ寄航しながら行くもので、2日を要する。途中の悪石島に夜間停泊する。1年に1度だけのものらしく、私が奄美に行きたいと思っていた正にその時期に運行されることを知った。
早速昨年青ヶ島に同行した5万分の1地形図歩きつくしに挑戦中のS氏、離島の全郵便局での貯金にチャレンジ中のY氏と相談、話はすぐにまとまりこの区間だけでも一緒に行こうということになり、Y氏の郵便貯金友達のO氏も含め4人旅となった。鹿児島中央駅前で合流したY氏はレンタカーで県内の郵便局を回って来ており、S氏も数日前から来県し三島村の離島に行って来たという。港近くのドルフィンプラザという新スタイルのレストランや工芸品ショップ、アミューズメント施設などが入ったウオーターフロントの中の一店で夕食、成功を期しての前夜祭とした。現役サラリーマンのO氏も仕事を早めに切り上げて東京から駆けつけてきて合流した。
1389トンの「フェリーとしま」は想像していた以上に大きく、車両甲板の上に3層、さらにその上に操舵室があり船内にはエレベーターもあった。車両甲板には2台のレントゲン・バスの他車は少なく、コンテナが多く置かれていた。名瀬まで2晩を過ごすことになるので15,870円払って指定寝台を取っておいた。2段寝台で列車のものよりははるかに広く快適だった。23時の出航後は全くというほど揺れを感じることはなく、早朝の飛行機に乗るために3時台に起きたこともあり、早々に眠りについた。外海に出ても揺れは感じず朝5時少し前、そろそろ最初の口之島に着くころだと思っていると船内放送がありほとんどの客が一斉に起き出した。
(1)口之島
定刻の5時15分に最初の口之島に着岸、防波堤など意外に立派だ。埠頭にはレントゲン検査を待つ島民が集まっていて、船から出た2台のレントゲン・バスに一人ひとり乗り込んで行く。その間下船を希望する客はチェック・リストに名前を書かされる。定員200人のこの船に、今回は150人ほどの乗船客があったそうだが下船リストにも100人以上の名前がありほとんどの客が上陸したようだった。仕事で来ている人も多いようで、その人達は港に集まってきた軽自動車に乗ってそれぞれの目的地に散って行く。そのために島中の車が集まっていたのではと思われるほどだった。
通常だとひとつの島で何か用をしようとすると最低でも1泊はしなければならず、しかも1週間に2島しか行けない。それに比べてこのレントゲン船は、各島での滞在時間は2時間程度だが、夜鹿児島を出てから2日かけ7つの島全部に行ける。2時間以内の用事だったらこの船を利用しない手はない、ということなのだろう。航海の間にだんだんとわかって来たのだが、発電所を視察する電力会社の人達、防火用水のポンプを保守点検する機械メーカーの技術者、学校に用のあるらしい教育委員会や保健所かと思われる人達、携帯電話の電波状況をチェックするNTTの人達などがいた。そして一般の島が好きな観光客の他、Y氏と同じような郵便局で貯金をする目的の、通称郵チャンと呼ばれている人達も10人くらいいた。
ただし郵便局があるのは口之島、中之島、宝島の3島のみだし、最初の口之島は早朝で郵便局はオープンしていない。だから2つの島でしか貯金ができないがこれでもいいらしい。しかし中には口之島に留まり開局の時間まで待って、その後チャーター船を雇って「フェリー十島」を追いかけ3局回ったという裏技を使ったグループもあったそうだ。
口之島の港は集落のある斜面の裏側にあるので集落まで行くには坂を登り尾根を越えなければならない。Y氏とせめて郵便局の場所だけでも調べておこうと歩いて行ったものの、集落の入口あたりに着いた頃船の長声二笛が鳴った。出航の30分前に汽笛を慣らすので船に戻るようにと強く言われていたのだが、まだ出航予定の1時間前だ。一応停泊予定時間は2時間だったがレントゲン検診が早く終わったのだろう。郵便局を見つけることはできず船に戻るしかなかった。
(2)中之島
船に戻ったら先ほどのリストの自分の名前にチェックを入れる。前年に置いてきぼりを食った客がいたそうで管理を強化しているそうだ。このようにして順に7つの島を巡ったのだが、最初から時間が繰り上がり次の中之島では郵便局がオープンした9時に汽笛が鳴った。港から歩いて15分ほどの郵便局では時ならぬ大勢の貯金客の対応をしなければならなかったが、局側もこの日のために訓練でもしていたのか、手際が良かったというY氏の話である。
中之島は、戦前十島村と三島村がまだひとつの旧十島村だった頃は村役場もあった島だ。敗戦により北緯30度以南が米国の占領下に置かれたため、そこを境に2村に分断されるとともに、復帰後もそのままの形で今に至っている。人口も現十島村7島の中では最多の167人(2004年3月末住民基本台帳)で村役場の出先機関も他の島が出張所なのにここだけは支所、と言っても来年はここも出張所になるそうだ。
この島の集落は港からは比較的近く、私は1人で小高い丘の上にある発電所に行って見た。A重油による内燃機関の発電機が2ユニットで最大出力200KW、他に移動可能な非常用のものが1機あった。敷地内の重油タンクまでは港からパイプで結ばれており、フェリー十島とは別にタンカーが来るそうだ。この島には他にも山の奥に最大出力53KWの水力発電所もあるそうで、たまたまそこにいた九電の人が今から水力の方に行くから車に乗せてあげようかと言われたが、すでに汽笛が鳴った後だった。この人は船に乗らなくて良かったのだろうか。トカラの有人島で水力発電所があるのはこの中之島だけだが、他の島にはいずれもここと同じかそれよりも小規模な内燃機関発電所がある。それにしても電力会社も人が住んでいればどんな離島でも電気を供給しなければならず大変だが、本土の人が負担する電気代の中にはこの費用も含まれているのだろう。
(3)平島、(4)諏訪瀬島
その後平島、諏訪瀬島と寄航した。平島も港からはつづら折りの道が登山道のように続くだけで、集落はその向こう側にあるのか全く見えない。とてもその坂を登る気にはなれず港で無為に過ごすだけだった。諏訪瀬島は中之島に次ぐ面積の島で活火山の御岳が今も噴煙を上げていた。ヤマハがリゾート開発しようとして作った飛行場がありそれを見に行こうと思ったが、集落の方に行きたくなり役場の出張所、といっても作業小屋のような小さな建物で誰もおらず鍵が閉まったままだったが、そこに着く直前に汽笛が鳴った。船もだんだんと気が短くなったのか急かすように何度も汽笛を鳴らすようになった。途中に桜島で見たようなコンクリート製の噴火退避のためのシェルターもあった。
(5)小宝島
もともとのスケジュールは、次は悪石島に行きそこで一晩停泊だったが、鹿児島で乗船時に明日寄航予定の小宝島には天候悪化で接岸できないことも予想されるので本日中に繰り上げ寄航することを知らされていた。他の島の停泊時間もどれも予定よりも短かったので、だんだんと時間が繰り上がってきた。
小宝島は今までとは違って比較的平坦な島で、集落へも坂を登る必要はなかった。有人島7島のなかでは面積も人口も最小の島で、島民は43人。小中学校はあったが、ここは宝島にある小中学校の分校だった。そこで先生の話を聞くことができた。分校は生徒9人、うち5人は山海留学生、先生は7人だそうだ。もっといろいろと話を聞きたかったが、汽笛に急かされた。
(6)悪石島
再び鹿児島方向に逆行するような形で悪石島に着いた。
夕食は船の食堂でカレーを食べたが、その前に港から20分くらい歩いて温泉風呂に入りに行った。この船に乗るような人にとっては皆予定の行動だったようで、乗船客が次々に押し寄せてきて我々がそこを去る頃には正に芋洗いの大混雑となった。まず何を差し置いてでも温泉に急行しようと提案したY氏の先見の明のお陰だった。2泊分の宿泊費が入った船賃は安いと思った。
(7)宝島
翌日はたった1人の下船客のために再度小宝島に寄航した後宝島へ向かった。どの島も私には公式記録として行かねばならない役場はなかったが、地理を趣味とする者にとっては経済や文化が自己完結することの多い離島は魅力的である。主に役場の支所や出張所、商店、学校、発電所などを見たいと思っていたが、7つの島のうち悪石島以北はいずれも火山島でどこへ行くにも急坂を登らなくてはならず、それら全部をひとつの島で停泊中に見ることは不可能だった。しかし小宝島と宝島は隆起サンゴによる島だったので坂が少なく、しかも港が集落に近かったので、特に宝島では2時間の間にその全部を見ることができた。
学校は小中学校が一緒になったもので生徒が16人で先生が13人、小高い丘の上のこじんまりした校舎への坂道にはブーゲンビリアがきれいに咲いていた。山海留学生が宝島に6人いた。村では全国各地から積極的に山海留学生の受け入れをしていて、7つの島全体では15人いるそうだが、その中でも特に子宝島の5人とともにこの二つの島に多いのは、自然条件が過酷な島々のなかでも比較的住み易い方なのかも知れない。或いは宝島がスティーブンソンの小説「宝島」のモデルとなった島だそうなので、子供の冒険心を掻き立てるものがあったのかも知れない。
村のHPによると2004年3月時点での村全体の人口は663人で4年前に比べ90人減っている。このうち65歳以上が255人。宝島は人口114人の内65歳以上が41人、小宝島は43人中10人、過疎なんていう生易しいものではない、島に船が着くたびに、ロープでの係留など島側で必要な10人近くの要員をいつまで確保できるだろうか。いつまで有人を続けられるのだろうかと正直思ってしまうほどだった。
奄美大島へ
宝島から最後の2時間半の航海は、大半の客が目的を果たしたのか、余韻を楽しんでいるか疲れを癒しているという風に見えたが、我々4人は奄美に着いてからが本番なので各自その計画確認などに余念がない。
13時35分、名瀬港に着くと我々も解散、Y氏とO氏は島内の郵便局めぐりのために一刻の猶予も惜しむようにレンタカーで去り、S氏は更に今夜の船で喜界島に渡る。私は波止場近くのホテルに荷物を預け、断続的に強い雨が降る中、古色蒼然とした奄美市役所へ行き写真を撮った。
奄美大島には平成の合併以前は7市町村があったが、そのうち名瀬市と笠利町、住用村が2006年3月に合併し奄美市になった。間に龍郷町を挟んだ笠利町とは飛び地合併だ。島の人口は82千人、面積712万㎡は佐渡より狭く対馬より広い、佐渡も対馬それぞれ単独の市になったのだからここだって当然そのような話はあったのだろうが、いずれにせよ私はこの7つの庁舎には行かなければならない。
島には奄美交通と道の島交通という2つのバス会社がある。ほぼ全島に路線を張り巡らせている奄美交通は鹿児島交通の子会社で岩崎グループに属する。これに対し道の島交通は2005年1月までは岩崎バスと称していたが、鹿児島の岩崎グループとは全く関係がなく、紛らわしいということで改名したらしい。奄美交通に比べるとかなり小規模で空港へも乗入れておらず、大半は奄美交通と同じ路線を補完するように走っているが、後述する宇検村だけはこの社のものでしか行けない。
それにしても両社とも経営が苦しいのか、とにかく走っているバスがかなり古い。いずれも本州や九州からの中古車だろうが、車体が所々錆たり腐食しているところに何度か塗装を施していて失礼ながら正に何とかの厚化粧である。ただしどのバスも乗って感じるのは足回り、すなわちエンジンの調子はそんなに悪くなさそうなこと。これはわが国の自動車工業の技術水準の高さなのかも知れず、日本の車はかなりの長期間、走行性能は落ちないものなのかも知れない。逆に言えば、外見の劣化とかスタイルの陳腐化だけで車を買い変えているユーザーが多いのかも知れない。
名瀬から他の6つの庁舎へ行くバス路線は、2社を合わせればほぼ1時間に1本は走っている。しかし宇検村だけは1日に2.5往復しかなく、ここが行程上のクリティカル・パスとなり、途中に喜界島への往復を含め足掛け3日をかけてまわることになってしまった。
地図の上での奄美大島の形はなんとなくグレートブリティン島の北部、スコットランドに似ている。深く切り込まれたいくつかの湾がだんだん狭くなり、そして川となったところに集落が発達している。名瀬や龍郷がそうであり、宇検の集落も同様で、グラスゴーやインバネスなどに似ている。しかし地形は全く異なり、奄美は険しい山地の連続なので内陸を通ってお互いを行き来するのがかなり難しい。鹿児島から沖縄まで続く国道58号線が北部の笠利からから南部の古仁屋まで73.3Km、本島内を縦貫しているがその間に長さが1キロ以上のトンネルが6つ、その内2つは2キロ以上である。
この日は奄美市役所に行った後、市の中心部からバスで40分ほどの大和村へ行った。国道58号からはずれ、西海岸に沿う県道を走るのだが、複雑な海岸線が続くのでトンネルが多かった。なお名瀬からはどこに行くにもまずトンネルを抜けなければならない。
人口が2千人にも満たない大和村の市街地は死んだように静かで、役場近くに郵便局があったので、ひょっとしてYさん達が来たのではないかと尋ねてみたら、30分くらい前にそれらしい2人連が来たとのことだった。バスで名瀬市内に引き返し、回転寿司屋で夕食とした。
喜界島ヘ
翌日は北部の龍郷町、旧笠利町に行き、奄美空港から喜界島に飛んだ。船で行きたかったのだが、この島へは鹿児島と奄美を結ぶフェリーが早朝夜間に寄航するほかは昼間の船がなく、効率よく動くためには飛行機で行くしかなかった。
喜界島は奄美大島の北東にある隆起珊瑚礁の上にある平坦な島で、周囲およそ50Km、面積60K㎡、東京23区で最も広い大田区と同じくらいだ。奄美空港付近からが最も近いようで、海を隔てた約25キロ先には喜界島空港がありお互いに肉眼で見ることができる。ふたつの空港の滑走路もほぼ並行している。36人乗りのサーブ340Bというプロペラ機は7人の乗客を乗せ奄美の滑走路をほんの助走程度という感じで走るとすぐに浮上、離陸2分後に「ただいまから着陸態勢に入ります」とアナウンスがあり3分後には喜界島に着地、並行する滑走路間をU字型に飛んだだけだった。
わが国で最短の航空路線かと思ったが、もっと短いのがある。南北大東島間である。昨年ここへは船で行ったので実態はわからないが、両方空港間は十数キロしか離れていない上、両方の滑走路がほぼ一直線上にあるので、風向きによっては正味飛行時間が1~2分ということさえあるかもしれない。
喜界島の空港ターミナルは木造平屋で、ローカル線の鉄道駅舎のようだった。駅前広場のようなところから海岸に沿った線路ならぬ滑走路に並行しているメイン・ストリートを歩くと椰の並木が続き、意外なことに喫茶店やレストランが何軒も並んでおりいずれも営業していた。
1キロくらい進むと鹿児島銀行の支店や信金、生協などのある町の中心部に出て、そこから右折し坂を登った先の高台に町役場があった。昨年(2006年)2月に業務を開始したという真新しい建物で、2階建てながらかなり大きなもので、300席のホールなどをもつコミュニティーセンターも併設されていた。また建物の横は広い公園になっていて、太平洋や奄美大島が一望できた。大きな建物だったが、変に意匠に凝るようなところがなく、デザインもシンプルで機能本位という印象を受けたのは、バブルがはじけた後に建てたものだからだろうか。
抜けるような青空のせいもあるが、この島が明るく活気のあるような印象を受けた。人口8600人というのは決して多いとは言えないが、簡単に隣町などに行けないことから経済活動や文化活動はすべてを島内で完結させなければならず、そうだとすればこのくらいの人口規模でもある程度の賑わいというものが持続できるのだろうか。ヨーロッパなどで人口が1万人にも満たない町でも中心市街地が意外に賑わっているのを見て不思議に思ったことがあるが、そういうことなのかも知れない。丁度1年前に行った八丈島と同じくらいの人口で、そういえば中心部の町並みも同じような規模だったことを思い出した。
途中のレストランで昼食を食べ空港に戻った。先ほど乗って来たプロペラ機は鹿児島に行ってしまい、別の機が鹿児島から飛んで来て奄美に向かうのでそれに乗った。帰りはU字ではなく、風の影響かZ字状に飛んだので飛行時間は8分だった。喜界島滞在はわずか2時間だったが、空港から歩いて行ける役場というのも高知空港近くの吉川村以来で、そこよりも近かったと思う。しかし離島の役場だともっと近いところが他にもあるかも知れない。
ジャングルの先ヘ
空港からバスで名瀬に戻り宇検村に向かった。名瀬から宇検まで行くバスは途中乗り換えになるが往路2本、復路3本しかなく昼間の便だとまる1日つぶすことになるので、夕方の便で行き宇検村に泊まることにした。ここだけは道の島交通バスの独占で、名瀬市内の道の島交通営業所というところから乗車、ここで事前に切符を買うと5%引きだった。20人乗りくらいのマイクロバスは、高校生などでほぼ満席の客を乗せ国道58号線を南下、いくつかの長いトンネルを抜け島の東側に出て、旧住用村の役場、現在は奄美市の住用総合支所のある西仲間に到着しここで違うバスに乗換えさせられた。
同じようなマイクロバスだがこちらはさらに旧式で、ここだけは他と違ってエンジンまでも劣化しているのか苦しそうな音を出しながらの走りだった。左手にマングローブの林を見ながら更に国道を10キロくらい下り新村というところで右折し、島を横断する道路に入る。密林の中のカーブが続く道が続き集落など全くない。30分近く走りようやく集落が見え出した頃からひとりふたりと高校生が降りて行く。乗客のリクエストではなく、運転手がバス停でもないところで勝手に停めているので完全にルーチンワーク化されているようだ。
やがて焼内湾のリアス式海岸のような地形の最奥とでも言うべき、湯湾という所に着いた。宇検村の役場があるところで、集落はこの焼内湾の沿岸に沿って点在しており、乗って来たバスはこのまま湾北岸方面に行く。一方南岸の集落へはまた別のマイクロバスがここから出ており1人の女子高校生だけが乗り換えて行った。この生徒は2度乗り換えて名瀬の高校に通っていることになる。
焼内湾の入り江は天然の良港として、また遠近海漁船の避難港としても知られているそうだ。道路が開通したのは多分比較的最近のことで、それまではこの村への行き来には船を利用していたのだろう。ジャングルを切り開いて作ったような道路を延々と走った先の静かな内湾の風景を見ているとそう思わせてしまうものがある。高レベル放射性廃棄物の最終処分場の誘致も検討されたが反対意見も多く断念したそうだ。
奄美観光(株)という会社の経営する「やけうちの郷」という施設に泊まった。温泉や介護施設がメインのようだが、コテージの他スポーツの合宿に使われるような宿泊施設もある。和室が朝食つきで3000円だというので予約をしておいたら、正に学生が大勢で寝泊りするような30畳敷くらいの大広間だった。トイレはもちろん、テレビすらないガランとした空間の片隅にひとつだけふとんを敷き早々に寝るしかなかったが、建物は新しく快適で熟睡できた。
マングローブを見て奄美の最南端へ
宇検村に泊まった翌朝6時50分、途中乗換で名瀬まで行けるバスに乗った。高校生は昨日と同じ顔ぶれだ。宿では朝食時間前だったのでおにぎり弁当を作ってくれた。来たときとは違って国道との合流点である新村というところでバスを乗り換えた。今度はマイクロではなく普通のバスである。昨日乗り換えた西仲間では別方向から来たマイクロの客を乗せ、ほどほどの込み具合になって名瀬に向かって行った。私はここで下車して、バス停の真ん前にある旧住用村役場の写真を撮った。昨年の合併で今は奄美市の総合支所となっているが非常に古くて暗い感じの建物だった。昨日はここでの乗換で、その間に庁舎の写真を撮ってはおいたのだが、再度撮り直した。
ここから本島南端の古仁屋まで行くバスまで1時間以上あったので、国道を古仁屋方面に数百メートル歩きマングローブ・パークの入口にある道の駅に行った。宇検への往復のバスの車窓からはマングローブの原生林が見渡せたので寄ってみたいと思ったところだ。周辺はカヌー探検などもできる大きな自然公園になっていた。まだ朝の8時前だったがマングローブ館というレストランやシアターなどのある建物の入口ロビーに入ることができ、テーブルやベンチがあったのでここでおにぎり弁当を食べた。国道はさらに登りになっており、さらにそれを進むと高いところからマングローブ原生林の全体が見渡せた。
古仁屋行のバスは宇検村との分起点の新村を過ぎると峠越えのためにカーブの連続となる。そして頂上からは一瞬ではあったが加計呂間島とその手前の海峡の静かな佇まいが見渡せた。前述のように奄美大島は洗濯板のようにいくつもの山脈が島を横断するように走り、縦貫する国道58号線はトンネルの連続だが、ここだけは峠越えだ。今この下にトンネルを建設中だが完成すると鹿児島県内で最長のトンネルになるそうだ。
古仁屋の町は思いの他市街地が広がっており、港の規模も大きく活気があった。海底が観察できる遊覧船や加計呂間島に渡るフェリーや、その他の周辺の有人島へ行く水上タクシーなどの出入りが賑やかで、観光バスからも大勢の客が降りて来た。奄美では名瀬に次ぐ人口11千人の瀬戸内町の役場に行ってから徳之島へ行く船を待った。
徳之島へ
船は2800トンの「フェリーきかい」でトカラ島への「十島丸」に比べてかなり大きい。鹿児島から喜界島、奄美大島の名瀬、古仁屋と寄航し徳之島の平土野まで行く。航路の最終区間のためか360人の総定員に対し乗客はたったの5人だった。
船は加計呂間島との間の狭い海峡を引き返すようにして進み、やがて島の西側に出ると南の方に大きく舵を取った。加計呂間島の南にある大小の島々を見ているうちにやがて左手に徳之島の島影が見え、近づくに連れ山並みがはっきりとしてきた。ジェット機の離陸をすぐ近くで見ながら、飛行場の横を通ると間もなく左に回り込むようにして平土野の港に着岸した。この間2時間20分、やはり島へ行くのは船の方が楽しい。
入港直前に、正面の小高い丘の上にイスラム寺院のような金ピカに輝く大きな丸屋根と尖塔をもった新興宗教の総本山のような建物が見えた。山上の宮殿に向かうような石段も見え、船員に聞くと天城町の町役場だという。
平土野の港で降りたのは前述の通り5人の客と1台の軽トラックだけだった。タクシーが1台だけ待っていたが誰も乗らない。役場の方に向かって歩いていた私を追いかけるようにやってきて、島の中心街の亀津までバス料金で行くから乗ってくれと言う。こちらは公共交通を乗りにわざわざ遠くまで来たのに料金が安いからと言ってタクシーに乗るわけには行かない。理由を説明してもわからないだろうから、このすぐ近くに用があるので歩いているのだ、と言って断った。
その町役場は近づけば近づくほどますます寺院のような、宮殿のようか感じのするものだった。70段くらいの石段を登るとアラビア風の鉄格子の門があり、そこを入ると噴水のある池を囲むようにドームを正面にコの字型にブルーの建物が囲む。柱はすべて円柱でとにかく異国情緒が漂う。尤も経費節減のためか池に水はなく、建物も空調を止めているので全ての窓や入口がオープンになっているので、余計に古い遺跡の中にいるようだ。噴水を囲む円柱の建物など、スペインのアルハンブラ宮殿を思い出すようなものだった。「ハブの取り扱いはこちらです」という札の置いてある役場の総合窓口でバスの時刻を尋ねたら変更になったばかりの時刻表をくれた。
徳之島には天城、伊仙町、徳之島町の合併しなかった3つの町があり、天城から反時計回りにこの順に路線バスで回わる予定だった。しかし直近のダイヤ変更で平土野から伊仙への昼間のバスが夕方遅くまでなくなってしまったので、バス代が嵩むがいったん徳之島町の中心街亀津に出てそこから伊仙に往復するという方法をとった。亀津へのバスは空港発でほぼ1時間に1本走っているが、ここもマイクロバスで乗客は私1人だった。西海岸にある平土野から島の中央部を横断し東海岸の花徳というところに出てそこからサンゴ礁の続く海岸沿いに走り亀津までは約30キロ、45分くらいだった。
想像していた以上に大きな島という印象で、中央部など広い高原状になっている。バスの運転手の話では、この島は奄美大島よりも耕地面積が広く、以前は米の二期作を行っていたが、政府の転換奨励で今は砂糖キビを作っているという。雨も多く島の南部を除いては干ばつの恐れは少ないとのことだが、それでも現在奄美群島内では最大規模のダムを建設中だそうだ。
九州農政局が事業者となっている徳之島ダムといい、総貯水容量が800万トンという離島にとってはかなり大型のもので、今この島内にあるすべてのダムの貯水量を足したものよりもはるかに多いという。完工予定は2011年度ですでに進捗率は50%だが、ここに来てこんな大きなダムがはたして必要かという議論が起きているそうだ。農業にとっては必要以上に大きいので、これはひょっとして核廃棄物最終処分場を誘致するためのインフラとして建設しようとしているのではないか、いや沖縄の米軍基地の一部を持ってくるのではないのか、だから建設を中止するべきだという意見まで出ているとの話だった。
亀津のバスターミナルは一方通行の狭い道に小さな商店一軒分の今にも崩れ落ちそうな古い木造の待合室があるだけだった。ここから伊仙に行き、帰りのバスを待つまでの間、この島の名物の闘牛が行われる闘牛場や民俗資料館を見た。伊仙、徳之島町の役場の庁舎は、それぞれ天城町のそれと競うようなものかと思っていたら意外にも古いままのものだった。
空路で徳之島から鹿児島へ
亀津の市街地のホテルに泊まった翌日は東京に戻るだけだ。鹿児島で飛行機を乗り継ぐのだが、徳之島から鹿児島への便は12時半なので、ホテル前を10時45に出るバスまで何もすることがない。海岸沿いの道を北の方に1キロほど歩くと亀徳という地名になり、ここにこの島のメインの港がある。鹿児島から名瀬、徳之島、沖永良部島、与論島を経由して沖縄へ行くフェリーがちょうど着いた時間だったのでこれの着岸光景を見た。船は「フェリーきかい」よりさらに一回り大きく、埠頭からは見上げるような高さだった。下船客も100人近くいたようで、昨日の平土野とは大違い、喜界島や古仁屋に寄らない分だけこちらの方が早くて便利なのだろう。乗船客も数十人いた。今回行けなかった沖永良部島と与論島に行くときにはこの船を利用したいと思い、上下のダイヤを入手しておいた。
港からホテルに戻る途中「JAまつり」というのが催されておりのぞいて見た。農業に関するありとあらゆるもの、耕運機から肥料、冠婚葬祭用の礼服まで展示即売が行われており、今まで全く知らなかった耕運機の値段などを知ることができた。ホテル前からのバスは昨日と同じ道を走り、天城の役場の前を通り1時間弱で空港に着いた。
喜界島に比べれば大きな空港と言えるが、それでも搭乗ゲートはなく地平からタラップで乗るもの、163人乗りの日本航空MD-81はほぼ満席に近い状態だった。徳之島からは鹿児島行きが2便ありいずれもMD-81、このほかに喜界島に行ったときと同じ36人乗りのサーブ機による奄美大島行きが2便ある。先ほどの船を合わせれば、人口27千人だけあって結構島外との行き来も多いようだ。雲の間からはトカラ列島の島影がときどき見え、鹿児島空港には1時間ほどで着いた。
奄美群島のうち沖永良部島と与論島を除く市町村すべてに行くことができたが、2005年の奄美群島の総人口は126千人で50年前1955年の約6割だそうだ。旧市町村別では名瀬市のみはほとんど変わっておらず、逆にその他の町村はおおむね半減している。島別にみると喜界島、徳之島、沖永良部島でほぼ半減。奄美大島は32%減、与論島は27%減となっている。次の50年ではどうなるのだろうか。
鹿児島では東京への便まで3時間近く空港内で待ったが、ひょっとすれば溝辺町などへはこの間に往復できたかも知れず、そうならば初日にさらに1~2ヶ所多く行けたのではないかなどと、ふと頭の中を過った。しかしもしそのことがはっきりすると後悔の念が先立ち、せっかくの貴重な体験や楽しい思い出が色あせることにもなり兼ねないので、バスダイヤを再度調べるなどの深追いはそれ以上しないことにした。