航空会社のマイレージがたまっているので役所・役場めぐりにも時々飛行機を使っている。わが国には定期航空便の発着している空港というものが現在90あるそうだ。そのうち32は沖縄の那覇空港を除く離島のもので、私は離島へはなるべく船で行くようにしているので奄美大島、喜界島、徳之島の空港を除いて利用したことがないし、今後もあまりないだろう。離島以外となると58中36と6割も利用していることがわかった。そうなると離島以外の全空港にチャレンジしたいという気持ちも起きて来る。そんなこともあり今回は初めての能登空港と富山空港を利用することにした。
デリバティブと乗合タクシー 公共交通の新しい試み 能登空港
能登へのANA747便はエアバス320、座席数166のうち90%くらいは埋まっていた。この路線は地元と全日空で「搭乗率保証制度」というものを導入している。予め年間平均搭乗率を決め、それを下回った場合は石川県及び地元自治体が全日空に対し損失を補填し、逆に上回った場合は全日空からインセンティブが支払われる。目標搭乗率は機体の変更などに伴いその都度変動し、今は62%だそうだが本日の搭乗具合だと確実に上回っている。双方の金額に上限を定めるなどいくつか条件はあるようだが、当事者双方のリスクを最小化するデリバティブのようなもので考え方としては合理的だ。航空に限らず地方の路線バスなど公共交通で取り入れて良い方式だと思う。
生憎雲が多く羽田離陸後どこを飛んでいるのかわからなくなったが、途中僅かに雲間から見えた都市には新幹線と大きな川があったので長野市だったようだ。私は日本中の地図がある程度頭のなかにあるので、飛行機から時々見える下界がどの辺りなのかわかる事が多いが、そのときの最大のヒントになるのは新幹線だ。今回は長野新幹線がなければわからなかったかも知れない。高度が下がると海面が見え間もなく海岸と軍艦島とも呼ばれ能登の名所になっている見附島がはっきりと見えたので、恋路海岸上空から能登半島上空に入ったことがわかった。ほとんど自然林が続く中を降下し能登空港に着陸、人里離れた林の中の空港で、周囲には空港関連の建物しか見当たらなかった。
ターミナル・ビルはローカル空港にしては珍しい4階建ての大きなもので、道の駅にもなっていて一般ドライバーへの観光案内や休憩のための施設もあり、更には奥能登行政センターというものも入っていた。パスポート申請交付などを行う行政サービス窓口がある他、建設や農業関連、教育関連の事務所、研修室や会議室などがあり、建物の3階から上がすべてそれに使われていた。
この空港は東京と結ぶ便が1日2往復あるだけなのでそれに接続した路線バスはなく、その代わりに「ふるさとタクシー」という乗合タクシーがある。5つの方面に向かう9人乗りのワゴン車が1列に並んで待っていたが、和倉方面だけは利用者が多く小型バスだった。原則として予約制で、前日に電話で珠洲市方面に行きたいと言うと「珠洲市のどこへ」と聞かれたので市役所にしてもらった。結局客は私1人、普通のタクシーだと1万円はするそうで、所定料金の1000円だけ払えば良いので、私は助かったが運行している地元タクシー会社は大赤字のはず。運転手の話だと赤字は石川県が補填しているそうだ。予約客がいなくても飛行機の到着時間に合わせ空港で待機しており満員でさえなければ利用でき、乗降場所は各地域の代表的な施設の前などいくつか決まっているので限りなく路線バスに近い。また予約客が多いときは中型バスに切り替えるなど弾力的な運用をしているという。私はこの「タクシー」という名称から公共交通機関として見なしていいかどうか迷ったが、以上の事実がわかったことと、代替の手段がないことから良いということにした。利用者にとっては大変便利な交通機関なので、他のローカル空港や離島の港などでも参考にしてほしいと思った。なお金沢からの特急バスや穴水・輪島間の路線バスのうち何本か空港を経由するものがあるが、いずれも飛行機の発着時間とは無関係で、主として行政センターへの客が利用しているという。普通のタクシーも1~2台停まっていたが、飛行機が到着しても利用者が1人いるかいないかという程度らしく、お忍びでタクシーでなければまずい、という人ぐらいしか利用しないのでは、と運転手が云っていた。搭乗率デリバティブやこの乗合タクシー、公共交通のこれからを示唆させてくれる能登空港の取り組みだった。なおターミナル・ビルに隣接し日本航空学園の校舎と、さらにその先に寄宿舎があった。滑走路を実地訓練に使っているとのことだった。
地震のつめ跡を行く
すれ違う車も滅多にない高速道路のような良く整備された道を快適に走り珠洲市役所へ行き、さらに路線バスを乗り継ぎ、旧内浦町、旧能都町、旧柳田村を経由し輪島に向かった。このうち内浦、能都、柳田の2町1村は2005年3月に合併し能登町となった。珠洲市だけはどことも合併せず単独で残ることになったが、15年前には25千人あった人口が2006年には19千人台になるなど減り方が激しく、今後も難しい行政が続くことだろう。
なお能登半島の内側と言うか、穴水から珠洲市の蛸島までは2005年3月まで、61Km間をのと鉄道が走っていたが能登町の合併と同時に姿を消した。バスは珠洲、内浦、能都の中心駅だった珠洲駅、松波駅、宇出津駅にそれぞれ寄って行く。珠洲駅跡には行かなかったのでわからないが、松波、宇出津駅跡ともレールが撤去されていた以外はホームや駅舎はそのまま残っており、自動券売機も設置されたままだった。
この鉄道は、国鉄時代の1959年に穴水・鵜川の最初の区間が開業した後、徐々に路線を伸ばし、蛸島までの全線開業は64年と比較的新しい。しかしその頃から地方ローカル線の経営問題が顕在化し、88年には第三セクターののと鉄道に移管されている。金沢から急行「能登路」を走らせたり、三セク後もパノラマ気動車による「のと恋路号」を運転するなど観光路線として努力をしていたが、一方で「ふるさとタクシー」で走ったような高規格な道路整備が進み、沿線人口の減少もあり鉄道利用者は減る一方だった。地元は鉄道廃止に反対だったというが、一方で優良な道路もどんどん作らせた。あれもこれもというわけには行かない。
宇出津からは半島を南から北に横断する形で日本海側の曽々木海岸に出た。ほぼ半島中央の旧柳田村のバスターミナルには4つの方向に行く4台の能登町の町営バスが停まっていた。うち2台は中型、2台はマイクロバスで柳田スクールバスと書かれていたがいずれも白ナンバーのもの。宇出津からのバスに接続するが、降りて来たのは3人の高校生のみ、誰も乗らず空で走って行ったものもあった。
曽々木海岸からは右手に日本海を見て走った。所々片側通行になっていて、道路工事をしている。3か月半ほど前の、3月25日に発生したマグニチュード6.9の能登半島地震による崖崩れや道路崩落によるものだ。バス運転手の話によると、完全復旧は1年くらいかかりそうだとのことだが、子供を学校に通わせるために地震発生3日後には応急工事で車が通れるようにしたそうだ。市町村合併などで公的部門の要員がどんどん減って行く中で、このような災害時に優先順位をきちんと守り対応した当事者の判断を讃えたい。
海上はるか沖に舳倉島と、その手前にある七つ島の島影が見えた。舳倉島は輪島沖50Kmの周囲約5Kmの小島で、2000年の国勢調査によれば人口164人55世帯の人が暮らしているそうで、輪島からは1日1往復の定期船で1時間半ほどで行けるそうだ。役場めぐりの対象ではないが、離島めぐりとしていつか渡ってみたい島だ。輪島市内でバスを降り、30分ほど歩いた舳倉島の見える小高い丘の上にある国民宿舎に泊まった。
かつては離島だったのか? 能登半島北部
国民宿舎で朝食代わりにおにぎりを作ってもらい、市役所前から輪島駅まで歩いた。駅と言っても2001年に廃止された鉄道の駅跡でバスターミナルと「道の駅」になっていた。駅舎風の立派な建物があり、デーゼルカー半両にも満たない線路とホームがモニュメント風に展示されており、駅名票は次駅がシベリアと書かれた当時のものが保存展示してあった。 穴水まで直行のバスならば30分ほどで行けるのだが、乗ったのは能登空港経由だったため50分近く要した。輪島乗車時に私の他に6人が乗っていたが全員が空港で下車、飛行機などない時間帯なので行政センターに行ったのか、或いは航空学校の関係者だったのかも知れない。
穴水で、今はここが終点となっているのと鉄道の七尾行き列車を見送ってから門前行きのバスに乗った。2006年に合併し輪島市の一部となった町だったが、先日の地震で特に被害の大きかったところとして全国に知られた。バスターミナルから総合支所となった旧役場までの市街地には青いビニールシートがかかった半壊した建物が何棟かあり、またきれいに整地されているところも何か所かあったが、これは全壊などの結果取り壊された跡なのだろう。なお横浜市鶴見にある總持寺は曹洞宗の本山であるが、明治末期に鶴見に移転してきた前の本山はここ門前町にあった。今は總持寺祖院として町の中心に残っているが、かつては大勢の参拝客で賑わっていたのだろう。
門前の市街地から西に向かい日本海に出たあたりが黒島地区で、ここは江戸時代には北前船の寄港地であり、幕府の天領でもあった。今でも当時の町割が残っており、北前船に関する資料館もあるそうだが、このあたりが地震の被害が特に大きかったようで、つぶれたままの民家も何軒かバスの窓から見えた。そして広場のようなところにはプレハブの仮設住宅が数十軒並んで建っていた。
さらに能登半島西側の海岸線に沿って北から南へ富来、志賀の役場に寄りながら羽咋市に出た。富来と志賀は220年9月に合併し新しい志賀町となった。どちらも役場が新しく大きなものだったのは、北陸電力志賀原子力発電所のお陰だろうか。また旧富来町の三明というところから羽咋までは、1972年まであった北陸鉄道能登線の廃線跡が今はサイクリングロードになっており、バスの走る道路にぴったりと沿うように続いていた。
羽咋市役所は訪問済みだったので、この後は合併で中能登町となった鳥屋町、鹿島町に行く予定だったが雨が強くなり予定を変更し、羽咋から七尾へ行くバスで鹿島町だけに行くことにした。当初予定は七尾線の良川駅で降り、両方の町へ合計9キロくらい歩いて往復するものだったが、今回鳥屋町の方を諦めればほとんど歩かないで済む。能登半島の付け根部分の町村にも未訪問のものが残っており、いつか再訪することになるので鳥屋町にはその時に行くことにする。その鹿島町のバス停は、今までに見たことのない観客席のようなベンチだった。
羽咋から七尾にかけては邑知(おうち)地溝帯と言う低地で、大きなブルドーザーが半島を横断して掘った溝のようになっているが、南側の崖の上を走るバスからはその様子が良くわかる。両方の崖はいずれも逆断層という、低い方の面が斜め下に潜り込み、もう一方がそれにのしかかるように動いた珍しい地形だそうだ。低地を挟んだ向こう側の台地というか山並を見ていると、素人目にも能登半島北部もかつては佐渡と同じような離島だったのではと思ってしまう。或いは佐渡が能登半島と同じように半島として地続きだった時代があったのかも知れない。学生時代地学というものを学習しておけば良かったと思った。
七尾に着いたときも相変わらずの豪雨だったが、七尾市役所に行ってから、のと鉄道で能登中島、田鶴浜町のいずれも七尾市と合併した町に行った。そして和倉温泉駅の駅前食堂で夕食を済ませた後、素泊まり予約をしておいた温泉旅館に行った。のと鉄道は七尾・穴水間と路線を縮小したが、走っている車両はいずれも新品のものだった。
能登島から富山県に
3日目も小雨まじりの天気だったが能登島に渡った。島と言っても本土からは2本の橋がありバスがある。そのバスは能登島交通という北陸鉄道グループとは無関係の会社のもので、そのためか和倉温泉でも中心にある北鉄のバスターミナルからは少し離れたところに専用の和倉温泉バス停があり、人に聞くまでわからなかった。JR七尾駅前も同様で、駅前ロータリーのバス乗場にはなく、駅から少し離れたところに七尾駅前というバス停がある。
長さ1050メートルの能登島大橋は、海底が浅いのか、吊橋ではなくPC橋だ。七尾湾にとり囲まれた形の島なので、海を渡っているというよりも大きく屈曲する川を渡っているといった感じで離島に来たという気はしない。この橋は1982年に完成し、当初は有料だったが、98年には償還が終わり無料となった。橋が出来るまでは七尾港との間にフェリーがあり、能登島交通というのはフェリー時代、島内専門の会社だった。
橋の開通とともに能登島交通は本土への乗り入れを開始したが、北陸鉄道グループの地盤だったのであくまでもフェリーの代替としての扱いにしたのか当初は本土内のみでの乗降はできないクローズドドア方式だったそうだ。その後七尾市との合併が関係しているのかどうか、本土内での相互乗降はできるようになった。しかし七尾駅前バス停などは、当時の名残りかも知れない。能登島も七尾市の一部となった今、旅行者にとってわかりやすいよう、駅前ロータリーのバス乗場から乗れるようにしてもらいたいものだ。公共交通の存続が脅かされている時代に、地方の事業者がお互いに相手を排除することばかりを考えている時ではないと思う。
能登島に入ってすぐの大橋入口というバス停では島内の別の方向に行くバスが待っていて、この会社が島内の公共交通を一手に引き受けていることがわかった。役場はほぼ島の中央にあり、向かい側にはコンビニもあったので朝食には簡単にありつけた。島ならではの見るべきところは有ったのだろうが,絶海の孤島というものでもなく簡単に橋で渡れてしまい、島としての魅力は特に感じられなかった。役場があるので行かなければならなかったが、本当は舳倉島の方が島としては面白いだろうなと思ったりした。
七尾から県境を越え氷見に行った。20年以上前に来た時は、この間は1本のバスで行けたと思う。しかし今は富山に入ったばかりの脇という集落で北鉄バスから加越能バスに乗り換えなければならない。23分待って乗り換えたのは私1人だった。七尾出発時には10人以上の客があり、氷見到着時も同じくらいの乗車だったので、それぞれの市内バスとしては立派に役割を果たしているようだ。
氷見市役所に寄り高岡まで氷見線に乗った。数人の西洋人も乗っており、途中伏木港に停泊していた大型船にはロシア文字も見えたのでロシア人だったのかも知れない。高岡では万葉線のLRVを見る暇もなく北陸本線の電車に乗り換え、沿線の町村をまわった。
福岡、小杉、大島、大門といずれも小規模な町だが、役場はいずれも駅から中途半端な距離にありそれらへの往復で結構な距離を歩いた。福岡町は2005年11月の合併で高岡市となり、残りの3町は同日に新湊市、下村とともに射水市となっている。さすがに本線だけあって沿線には工場など事業所が多く、新しい住宅団地やショッピングセンターなども目につく。いずれも駅前は首都圏近郊のそれとよく似た感じで、ショッピングセンターを併設したものがあり、乗降客の姿も多かった。過去10年間の旧町の人口も山間奥地の自治体が激減しているのに比べれば微増か横這いといったところで、同じ県内でも場所による差が出てきていることがわかる。
合掌造りに泊まり日本の農業問題を考える
再度高岡に戻り城端線の終点城端へ、庄川沿いの山奥へ行くバスに乗り換え今日泊まる平村へ向かった。長いトンネルを抜け相倉入口というバス停で降りると民宿の車が私を待っていてくれた。
相倉(あいのくら)には未だに合掌造りの民家が20棟残っている。世界遺産となった五箇山の中の一集落で、五箇山商工会のHPを調べて民宿を探した。合掌造りの民宿は1泊2食7~8千円、その他の民宿は7千円と出ており、せっかくなので合掌造りの方にした。合掌造りとは2階より上が簡単に言えば現在でも盛んに取り入れられている住宅のロフト、あるいは屋根裏部屋になっている3階建のもので、屋根が急勾配なので遠くから見ると両手を合わせて合掌しているように見えるのでこのように呼ばれているとのことだ。
民宿では、1階中央に囲炉裏を囲む2~30畳の広い部屋があり、襖で仕切った6~8畳の部屋のひとつに寝た。2階以上は、普通の民宿のように個室が並ぶ形に改造されていて、3階へは危険なので昇らせないように階段を閉鎖していた。屋内まで原初の形が残っている合掌造りというのは今では少ないようだ。食事は囲炉裏を囲んでの山菜や岩魚を主とするもので、地酒のにごり酒と良く合って旨かった。台湾から来た若い2人の女性客がおり、名古屋から高山、白川郷とまわった後この民宿に3泊しているという。日本への旅行は3回目だそうで、日本が好きかという質問には何の屈託もなくYESの答えが返ってきた。
この相倉集落は深い谷を造っている庄川の左岸の細長く開けた段丘上にある。かつては、城端まで行くのに庄川の谷伝いには行けず峠越えの道しかなかったが、小牧ダムという当時東洋一と言われたダムが造られた後は、堰き止められた細長いダム湖の上を船で行き来したそうだ。そんな苦労も今では国道の長大トンネルで簡単に行き来できるし、ハイウェイである東海北陸自動車の全通も近い。
現在は32戸中20戸が合掌造りだが、かつてはすべての家がそうだったという。江戸末期から明治時代に建てられたものばかりだそうで、民宿も築200とのこと。私よりも10歳くらい年上と思われる奥さんと息子の嫁さんとで切り盛りしていた。
奥さんさらに上流の上梨というところの農家から嫁いで来て、ずっと農家を営んでいたが道路の開通後ご主人は砺波平野の方に何かの仕事で車で通うようになり、民宿も始めた。農業をやめて15年くらいになるそうだが、「やめてみてこんなに楽になるものとは知らなかった。もっと早くやめておけば良かったとつくづく思った」という言葉に日本の農業の諸々の問題が濃縮されているように思えた。
たまたま同じ頃読んだ日経新聞によると、日本の農業生産は国内総生産(GDP)の1.2%、雇用規模は全体の5%にすぎない。食糧自給率がカロリーベースで40%と、先進国のなかでは最も少ない。北海道を除く都府県の平均耕作面積は1.3ヘクタール、米国の約200ヘクタールはもちろんドイツやフランスの40ヘクタールにも遠く及ばない。従業者の高齢化はますます進み、後継ぎはなく、放置すればわが国の農業は確実に衰退するとあった。
現代都会では、仕事上のノルマだの、人間関係によるストレスだのと言って自然を相手にする農業を羨む声も聞くが、自然相手というのはそんなこととは比べ物にならないくらい厳しいもので、いつ何が起きるかわからない、ストレスなど都会の人間の想像に及ぶものではないらしい。そのように厳しい農業というものは、代々家族によって継承された遺伝子と、自分の周わりのほとんどが農家という閉じた社会があって、すなわち他に比較するものを知らず、人生とはこんなものだと思い込んでいることによって成り立っていたのかも知れない。しかし今では、多くの情報が入るようになり、他の社会で育った人たちとの交流が増えるにつれ、なぜ自分たちだけがこんなに苦労をするのかといった農業を続けることの不公平さを感じ取るようになったのでないだろうか。
そう考えると最早生業としての農業などというものは成り立たず、大規模に機械化して、それに合うように農地の方を改造して、企業がビジネスとして農業を行う方法しかないのではないかと思う。短絡的な考え方かも知れないが、全国の農村を見てきてなんとなく感じていたことが、民宿のおばさんの一言で確信できたような気がした。今の農業政策はまだまだ農家を守るという前提で行われているように思えるが、農家自身が本当にそれを守ってほしいと思っているのだろうか。
もちろんだからといって農業を100%こうした方が良いということではない。一方で企業による大規模に組織化した漁業が行われる中、個人漁師による高級魚の流通があり、趣味の釣りが流行っているように、農業が好きで本格的に付加価値の高い農業を行う意欲のある人にはそれなりの助成を行うべきだし、レジャーとしての農業というものにもっと注目してもいいだろう。食糧自給というわが国の生死を握るような基本的な農業は大企業にまかせた方が良い。企業にやらせると利潤に走り本当に必要なものの生産をやめてしまうという反対論があるかも知れないが、電力やガス、交通機関だってすべて民間企業が行っているではないか。
塩硝作りのなぞ
翌朝は谷の底まで降りてそこに広がる下梨集落の中にある旧平村役場、2004年11月合併後の南砺市平行政センターに行った。そこからバスに乗ること10分、上平村役場だった上平行政センターに行った後、今来た道を引き返すように小原ダムの横を通り約4キロの道を上梨集落まで歩いた。ここにある築400年という合掌造りの村上家が民俗資料館として開放されており300円の入館料を払って見学した。農機具や養蚕、和紙作りに使われた道具が多く展示されていたほか、囲炉裏端で館主のおじいさんが民謡「こきりこ節」などを交えながらこの家や周辺の歴史を語ってくれた。
新築当時はすべて白木の建物だったそうだが、400年の囲炉裏の煙はすべてを黒光にさせていた。1階が住居兼オフィス、2~3階が工場兼倉庫、中2階の立つこともままならない天井の低い部屋が奉公人の寝泊まりするところだ。館主一家は1階の部屋を陣取り、そこは一段と高い敷居をまたいで入らなければならない。敷居が高いという語源だそうだ。次三男は他家に奉公人として出されたそうで、当時長男に生まれるかどうかで雲泥の差があったが、それが当時の秩序維持にとっては必要だったのだろうし、それを当然とした時代が長いこと続いたというのも不思議である。
合掌造りでは養蚕が主に行われていたと今まで聞かされていたが、実際にそれが始まったのは江戸時代後期からで、ここではそれまでは塩硝と和紙作りを行っていたそうだ。塩硝とは火薬の原料で、種子島に鉄砲が伝来されるとともにここでの製造が始まった。当時この地は石山本願寺の寺領で、信長や秀吉との戦いもここの塩硝なくしてはできなかったのだろう。その後は加賀藩の支配地となり、同藩の庇護と統制のもと江戸時代を通じて行われた。囲炉裏の穴の中に雑草を入れ尿をかけ、土をかぶせ発酵させるという微生物の力を活用した方法で最終的には硝酸カリウム(KNO3)を作ったそうだ。どのようにしてそのような製法をこの地で見つけたのか、他から伝わったのかどうか謎だそうだ。なお和紙も同じ頃から、特に冬季に行われていたそうである。
砺波平野の散村から河川敷の富山空港へ
上梨からバスで城端に戻り、そこから南砺市となった旧町村を回った。平村、上平村と同時期に城端町、福野町、福光町、井波町、井口村、利賀村の4町4村が合併しできたのが南砺市で人口58千人、福野町役場が市役所になった。このうち鉄道が通っているのが城端町、福野町、福光町でそれ以外は鉄道駅から放射状に伸びる路線バスがある。加越能鉄道バスが主だが、これを補完する形で南砺市のコミュニティバスが実証実験として走っている。本数は少ないが、いくつかの旧町村相互間を結ぶものもある。福光町のみはかつて金沢からバスで来たことがあり、また利賀村については富山側から来て泊ってみたいと思っているので別の機会にすることにし、残りの町村と砺波市、及びそこと合併した庄川町の6市町村を午後一杯で回ろうとパズル解きを行った。
答は城端から井口まで4.7Kmを徒歩、そこから井波まではコミュニティバス、さらに庄川まで2.3Kmを徒歩、砺波市役所前まで加越能バス、砺波駅から福野まで城端線、そして駅近くの南砺市役所前から富山空港へのリムジンバスに乗る、というもので我ながら見事な解だと満足し早速実行に入った。雨あがりの曇り空で気温も高くなく、この季節にしては歩くには上々のコンディションで井口には予定よりも早着、食事のできる店がなく、コンビニで買った弁当を「いのくち椿館」の中の喫茶コーナーで食した。椿の研究と保存を目的として2年前に開館したという黒と白を基調とした大きな平屋の建物で地域住民のコミュニティーの場になっている建物で、広いロビー内には椿に関連した陶器や漆芸品の展示があった。最近よく目にする箱モノに違いないが、こういうところを食事や休憩で積極的に利用するのも悪くないなと思ったりした。
ところがそこで油断し、次の井波へのコミュニティバスに乗り損ねてしまった。井口行政センターの前で待っていると、想像していたのとは反対方向からバスが来たので、その先でUターンでもするのだろうと思っていたらそのまま先に行ってしまった。今までの経験から最低でも2~3分は遅れて来るのが当たり前と思っていたバスが時間通りに来たこともあったが、コミュニティバスというのはその地域のいろいろな所をくまなく回るので場所によっては逆方向に走ることだってあるという公共交通の基本に立ち返れば当然のことに気がつかなかった。100%自分のミスで、自称ローカルバスのスペシャリストも返上したくなるほど情けなかった。
結局他に方法がないので井波庁舎まで4.3Kmを急ぎ足で歩いた。井波の市街地は石畳通りなどがありゆっくり見物したかったが、ここも大急ぎで通過した。次の庄川から砺波に行くバスに間に合うかどうかギリギリだったし、バス停が庄川庁舎の近くにあるかどうかもわからなかったが、庄川庁舎にはバスの発車5分前に着き、幸いにも庁舎前にバス停があり間に合った。
バスは高岡行きで、歩いてきた道を引き返すように走り、大急ぎで通り過ぎた井波の町中を丹念に周回した後、砺波市役所に向かった。井波町というバス停には鉄道駅舎のような復元された建物が建っていた。今回も事前調査不足だったが、これは1972年に廃止された加越能鉄道加越線の駅跡だ。北陸鉄道の石動から城端線を福野でクロスして井波町を通り庄川まで走っていたディーゼル鉄道である。コミュニティバスに乗れてさえいれば、この駅跡などゆっくり見ることができたと思うと残念だった。
結局砺波平野の南端の、飛騨山地から流れだす庄川の扇状地上の散村を12Km以上歩いて横断したことになる。南砺市役所前から空港行きリムジンバスの発車する10分前に福野駅に降り立ち、なんとかそのリムジンに乗ることができた。バスは行って来たばかりの砺波市役所前に寄ってから富山空港に向かった。まあ今回のコースは途中どこかで遅れが出ても、どこかをカットすれば最終的には飛行機には間に合うような形にしておいたが、結果はオーライということだった。
富山空港は初めての利用だが、河川敷にある空港ということで興味があった。神通川の土手を挟んで滑走路と駐機場は河川敷に、ターミナル・ビルは堤防の外側にありボーディング・ブリッジはその堤防を跨ぐように作られていて、その長さは日本一だという。また専用コンテナの運搬車は堤防に斜めに作られた坂道を上下してビルと飛行機の間を行き来していた。大雨など気象状況で運休や遅れの発生が多いのではないだろうか。それでも279席のB767-300は満席に近かったし、東京へは日に6便ある。鉄道も新幹線とほくほく線を乗り継げば3時間20分くらいだから良い勝負だ。越後湯沢での乗り換えを同一ホームでできるようにしたり、ほくほく線内を一部複線化し退避停車を減らすなどすれば3時間以内にすることも可能だと思うので、鉄道側がもう少し頑張れば航空客を呼び戻すことができるかも知れない。北陸新幹線がいつ、どんな形で実現するのかわからないのだから、そのくらいの投資はしても良いのではないだろうか。
ほとんど雲に覆われていたので正確にはわからなかったが、離陸後沈み行く太陽の方向から察するとかなりの時間新潟方面に向かって飛んでいたようだ。そして最終的には北海道からの便と同じように北から羽田に降りたので、どうやら長岡か越後湯沢経由の鉄道と同じような航路を辿ったのではないだろうか。北アルプスなどの高い山や、東京上空を飛行できないという理由などがあるのだろう。
能登、富山と2つの空港の初利用で離島以外の38空港を利用したことになり6割を越えた。特に能登空港では搭乗率デリバティブや乗合タクシーなど今後の公共交通のあり方にとって十分示唆するものがあったと思う。また長年感じていた日本の農業のあり方についてもヒントとなるようなものが得られた。4日間で予定28ヶ所に対し27としたのは、梅雨のこの時期としてはまあまあの成果だと思っている。