沖縄県の宮古八重山地方に行った。なるべく船を利用したく、最も海が静かと思われるこの時期にしたのだが、船便が少なく結局飛行機を併用することになってしまった。特に沖縄本島から宮古への船は週2便しかなく、宮古から石垣へは1便のみ、今回の日程のなかではこの両方を使うことができず、後者は飛行機を利用せざるを得なかったのである。
まずは沖縄本島内で件数稼ぎ
羽田を早朝6時30分の便は那覇に9時21分に着いた。宮古行きのフェリーの出る夜までに、ほぼ1日あるので、 沖縄本島内の未訪問地をまわった。モノレール、バスを乗り継ぎうるま市となった旧具志川市、石川市、勝連町、与那城町に行った後ゴザの沖縄市に行き、これで沖縄本島内の残りは3町村とした。沖縄はバスの本数が多いから、と油断していたこともあったが、路線図をもっとよく調べていたらもう少し行けたはず。最初の具志川行きなど、もっと経由が少なく短時間で行け、しかも市役所前まで行けるものがたくさんあったことなどが後でわかった。
フェリーで宮古島へ
夕方那覇市内国際通りをぶらつき、コンビニで弁当を買い、タクシーで那覇新港埠頭に行った。船は20時の出航だが、19時までにターミナルビルまで来るように言われていた。船が停泊しているのはターミナルビルからはるか先の方で、19時になると専用バスで船のタラップの下に連れて行かれた。英仏海峡のカレーとドーバーで同じような体験をしたことがあるが、要は艀で本船に向かったようなものである。
船は「クルーズフェリー飛龍」といい16千トンで乗客定員が270人、大阪を前々日に出航し朝方那覇に着き、夜出航し宮古、石垣に寄港し台湾の基隆に行く。那覇からは100人くらいの乗船があり、うち10数人が基隆まで、残りは宮古と石垣で半々ということだった。外国人を含む一人旅が多かった。一番安い2等船室だったが、雑魚寝スタイルではなくすべて2段ベッド、カーテンでプライバシーは確保され、1泊分助かるし翌朝も早朝から行動できるから、お徳な選択であると思う。しかし安いといっても、燃料油価格調整金1200円が加算され7000円、昨年調べたときの4800円から大幅に上がっていた。
船内ロビーでコンビニ弁当を食べ、早々にベッドにもぐり込んだ。おもしろかったのはビールの自販機で、同じ銘柄の500mlのものを300円で売る機種と150円で売るものが並んで設置されている。後者は石垣・基隆間の国際航路になってから利用可能で、要するに免税用の自販機だった。
台風2号の余波なのか結構揺れたが、今朝が早かったこともあり良く眠ることができた。この船を運航しているのは有村産業という那覇に本社のある会社だが、1999年に会社更生法の適用を申請、今は更正会社である。たまたま買った琉球日報に、今後もなんとか存続させようとするさまざまな動きがあることが報じられていた。 これがなくなると沖縄本島、宮古、石垣間の旅客航路はなくなってしまうのである。
4時15分宮古平良港着。東京よりもかなり西方にあるので夜明けが遅く真っ暗だ。市民ホールに併設された豪華なターミナルビルの中で夜明けを待ち、日の出とともに宮古島市役所となった旧平良市役所に行く。そして路線バスである宮古協栄バスのターミナル(営業所)を探したがなかなかわからない。結局人に聞いたが港から1.5キロくらい離れたかなり奥地にそれがあった。そしてこのバスは市内については内陸部の方を走るのみで、市役所前や港には来ないことがわかった。協栄バスの営業所はタクシーの営業所も兼ねていた。同じ会社のバスとタクシーとで営業地域を分けているのだろう。営業所前から20分くらい乗り、旧下地町役場に行き、市内に戻り港まで歩いて多良間行きの船に乗った。
多良間島
多良間島は宮古島から南西に約70キロにある直径が約5キロの真円に近い島だ。石垣島には約35キロとさらに近いのだが、宮古列島という括りに属しているからか宮古の文化・経済圏のようだ。石垣・多良間間の航空便や航路はなく、宮古との間に1日に空が2往復、船が1往復ある。島伝いに石垣に進みたかったのだが、それは出来ず、帰りも宮古に戻るしかなかった。
多良間海運という合資会社の運行する「フェリーたらまゆう」で往復した。2007年4月就航したばかりという新品の船で船室は椅子席であっても土足厳禁、島民など利用者も含めて丁寧に使っているという姿勢が感じられた。総トン数457トン、乗用車だけなら23台積め旅客定員は通常期で150名。乗船客は車のドライバーも含め往きは5人、帰りは3人と先行きの厳しさが感じられた。日曜日は就航しないだけでなく、今月末には8日間ドッグ入りのため運休し、その間代替船は運行しないという貼紙があったから、今や絶対になければならないという航路ではないのかも知れない。毎月1回牛セリに合わせた特別ダイヤもあり、帰りの船でも牛を満載したトラックが積み込まれていたが、別に旅客フェリーでなくても良いのかも知れない。
船が着いたのは集落からは最も遠い位置にある普天間港で、村役場に行くには4キロ近くの道を歩かなければならなかった。平坦な島だったので歩くのは楽だったが、一面のサトウキビ畑のほか、葉タバコの畑や、規模は大きくないものの牧舎がいくつもあり、牧草地も多く、島中まんべんなく土地を有効活用しているといった風だった。
白のコンクリート壁にオレンジ色の瓦の三角屋根を持つ、沖縄の役場の標準スタイルのような多良間村役場が、役場めぐりの丁度2500件目となった。多良間島の北方約10キロには人口7人の水納島があり、チャーター船で15分で行けるという。役場で近くに昼食が食べられる店があるかと尋ねたら、2軒だけあるとのことで、その1軒で島ソバを食べた。沖縄の普通のソバと変わらない気がしたが。
伊良部島・下地島へ
帰りの船はかなり揺れ、船室に横になりひと眠りした。宮古島平良港に戻ってからは20分後の船で今度は伊良部島に渡った。目と鼻の先という感じの島で15分ほどで佐良浜港に着いた。予約していた宿は港のすぐ近くということだがすぐには見つけられず宿に電話をすると軽バンで迎えに来てくれた。ここも合併で宮古島市の一部となったが、旧伊良部町の町役場は島の反対側にあり宿から直線距離で4~5キロ離れている。バスがあるのだが、今日中に宿に戻れる帰りの便はこの時間にはもうない。宿に電動アシスト付自転車があり1000円で借りられたので、生まれて始めて乗った。アップダウンの多い島だったので随分楽だった。この自転車で今は支所となった旧町役場に行った。公共交通がないか、あっても時間帯が合わないときは自力で歩くということにしているが、自転車で、しかも電力でアシストされたものはルール違反ではないのかと若干悩んだが、まあ良いということにした。
支所の先にはいくつもの短い橋で渡って行ける下地島がある。橋を渡りパイロット訓練用として有名な下地島空港へも行って見た。金網越しに見ただけだが、昼間多良間に行く船から良く見えたタッチ・アンド・ゴーの訓練を何度も行っていたANAの中型機のほか、JALのものも1機ずつ駐機していた。近くに訓練生か関係者の宿泊施設があり、タクシーの送迎などがあったし、翌朝も宮古からの船で空港関係者と思われる作業服姿の一団が降りてくるのを見かけたので、この空港の経済的効果は大きいのではないだろうか。なお下地島と伊良部島との間の水路は、先日訪問した小豆島の土淵海峡よりも狭い部分があったように思う。こちらの方が、島名は別々についているし、海峡の距離も長そうなので世界一狭い海峡だと名乗り出ても良いと思ったりした。
朝の連絡船はどちらの方向もかなりの乗船客だった。高校生が多かったが、圧倒的に女子が多いのはどういうことだろうか。少子化とは言え、男女比は変わらないはずなので、女子の方が進学率が高いのか、それとも男子の方は漁業や工業などの専門系に行くのが多く、早くから島を出ることが多いのだろうか。他にも仕事に行くという感じの男女の中高年の客も多かった。宮古と伊良部の間で、一体となった文化があり経済活動が行われているようだ。多良間に行く船から両島間の架橋工事が見え、両岸からそれぞれ1キロくらい工事が進んでいるように見えた。2012年度完成を目指している伊良部大橋で、事業延長は6500メートル(本橋部3540メートル、他に海中道路部などあり)で完成すれば沖縄県内最長となるそうだ。両島間を結ぶ船は2社が競っていたが、この橋が出来たときにはどうなるのだろうか。
亜熱帯のドイツ村 宮古島
再び宮古島に戻り残りの旧1町1村に行った。いずれも協栄バスの平良営業所から行っては戻るというハブ&スポーク方式しかなかった。この営業所からは4方面への路線があるのだが、ほぼ一斉に同じ頃に発車する。特に11時は同時刻発車で横一列に並んだ4台のバスが端から順に出発する光景は見事だった。
旧上野村からの戻りのバスは2時間半後だったので、約2.5キロ先の海辺にあるドイツ村まで歩いて行ってみた。1873年にこの近くでドイツの商船が台風にあって座礁したのを当時村民が総出で救助し、手厚く看護しドイツに送り届けた史実があり、100年以上も経った1996年にこれを記念したテーマパークとしてオープンしたものだ。ライン河畔に聳え立つマルクスブルグ城の等身大のレプリカや石造りのホテルなどが広い敷地のなかに点在していた。城の中は有料の記念館になっていたがわざわざ入る気も起きず、庭園を眺めるだけにしたが、ブーゲンビリアの咲く珊瑚礁の海辺に建つ北欧ドイツの古城の、そのアンバランスぶりが面白かった。ドイツのビアホールを再現したような売店兼レストランの庭先の木陰のテーブルで、アイスクリームを食べたりしながら時間をつぶした。
平良市内に戻り、平良港のコインロッカーに預けたリュックを取り出しタクシーで空港へ向かった。宮古島のタクシーは安い。初乗りが1.2キロで390円、その後413メートル毎に60円が加算され、港から空港までは10分くらいの距離だったが1290円、首都圏の半額くらいの感覚だった。宮古空港は太平洋戦争中の1943年、当時の海軍により建設され、56年より民間航空が発着するようになったが滑走路長2000メートルは中型ジェットの離発着も可能とのこと。97年に建てられたターミナルビルは赤瓦の大きな傾斜屋根をもつ、或いは宮古島の中で最大の床面積を持つのではないかと思われるような堂々とした建物だった。航空会社の窓口部分も広く、レストランや土産屋も充実していた。
宮古から石垣島へはプロペラ機
石垣島への飛行機は立派な空港にとっては小鳥が止まっているような小型のプロペラ機、乗客定員29人のボンバルディア社DHC-8-100だった。10人ほどの客を乗せ、伊良部島、下地島を右に見て、間もなく多良間島を見ると降下を開始、いったん石垣島の南方海上に出てから珊瑚礁の海の上をUターンし、石垣空港には南から進入した。宮古より短い1500メートルの滑走路に、ターミナルビルにはボーディングブリッジがなく、すべてタラップで乗降する方式で、ビルに近いときは徒歩で、少しはなれるとバスで移動するものだった。ターミナルビルも小さく、中央の到着専用建物を挟んでJALとANAの出発専用ビルがL字型に並ぶというものだった。このような空港のインフラではB737クラスの小型機しか発着できず、しかも燃料が大量に必要な東京へのノンストップ長距離便も運行できず、宮古か那覇で給油をする。最近の八重山への観光ブームもこの空港がネックになっていると聞いた。
そのようなことから新空港の建設計画があり、当初案ではサンゴ礁の埋め立て問題で反対運動があり、曲折の末2000年に島東部の海沿いの陸地に建設が決まったそうだが、現在どの程度まで進んでいるのかはわからない。今の空港は市街地に近く、離島桟橋近くのホテルまでタクシーでも870円と至近距離だったが、新しい空港はかなり遠くなりそうだ。
ホテルのすぐ裏が竹富町の町役場で、ここから2~300メートル先に石垣市の市役所がある。もう19時近くなっているのだが日本の最西端のこの地方の日没は遅い。竹富町役場は、鹿児島県の三島、十島村役場と同じくその自治体の外に役場があることで有名だ。いずれも島嶼群からなる自治体で、航路の関係でそのような地に設置する方が行政上便利で、県など中央との結びつきも強固にできるということでそうなったのだろう。すでに三島、十島村役場へは行っており、十島村については昨年のちょうど今頃、村営船による年1回の村民のレントゲン検診用特別ダイヤによる運行に同乗し、全7つの有人島に上陸している。だからここでも少なくともひとつには上陸しようということで、明日西表島に行くことにした。三島村は島影すら見ていないが。
西表島へ
竹富町は八重山諸島のなかの8つの有人島とその他の無人島からなり面積334平方キロ、沖縄県最大で神奈川県の相模原市よりも少し広い。総人口は4153人(2007年3月31日住民基本台帳)で、沖縄本島に次ぐ広さを持ち人口も2000人以上の西表島から、数人が住んでいるだけの新城島まで、多彩である。島ごとの人口の推移なども見てみたいが、竹富町のHPの統計は準備中となっていた。有人島のうち町役場から最も遠い(と言っても直線距離で50キロに満たないが)波照間島の間に不定期の航空便があるほかは高速船が通っている。1914年に石垣島周辺の離島が一緒になってひとつの村になった時に、竹富島に村役場が置かれたことから武富村という名前になったそうで、その後38年に役場を石垣島に移転、48年に町制施行している。
石垣島離島桟橋のターミナルビルは昨年(07年)1月に使用開始されたばかりの、赤瓦の屋根を持つ、平屋で延べ床面積約5千平米という非常に大きなものだった。それでも内部は大変な混雑で、旅行社のグループツアーの人の輪があちこちに出来ており、添乗員が声を枯らして説明をしていた。石垣島へは年間100万人くらいの観光客があるのだがそのうちの90%は同港から離島に渡るそうだ。西表島の上原港へ行こうと思っていたが、本日は波が高く欠航、そのかわり大原港から連絡バスで上原まで連れて行ってくれる。ビルの海側には6基の浮き桟橋があり、すべてが屋根で覆われていた。
さて西表島である。地理的な興味から、この島にある東経123度45分6.789秒という数字がきれいに並んだ子午線の通る場所だけはどうしても行っておこうと思った。そこに近い島北部の上原港から上陸しようと思っていたのが、前述のように欠航で、石垣島に近い方の大原港からの上陸となった。高速船の片道料金は大原までは1540円、上原までは2000円、上原便欠航時は上原までの料金を払うとバスで連れて行ってくれるという仕組みになっていたので、上原まで買った。所要時間は前者が35分、後者が40分だ。100人乗くらいの高速船は満席で出港した。離島航路は3社が競合しており、それぞれが他の島への航路も含めて頻発させているので、石垣港の入出港はひっきりなしである。珊瑚礁の浅い海にそこだけ開削したような運河のようなところを通って外海に出ると猛烈な水しぶきをあげながらダッシュを開始した。それでも海は浅いようで、所々暗礁でもあるのだろうか、ブイでしっかり航行路が決められているようだった。
大原港に着く。ここもまたたくさんの大型観光バスが待っており、数分毎に着く船からの団体客が次々と吸い込まれて行った。そんななか、上原方面に行く代行のマイクロバスは10人くらいの客を乗せ発車した。東海岸を北上し、北海岸に出ると西に向かって走ること30分くらいで上原港に着いた。道路は非常に良く整備されていてバスはかなりのスピードで走っていた。見た所そんなに波が高いとも思えなかったが、外海は厳しいのかも知れない。バスはさらに西に向かい、このまま乗っていることができる。ここに来て知ったのだが、船会社間の競争が激しいせいか、送迎バスと称して通常時でも上原港からさらに西方にある集落やホテルまで乗船客を送り届ける、或いは迎えに行く無料のバスを走らせている。そして上原便欠航時にはこのバスを大原まで延長しているのだった。だから私もこのバスに乗り続け、件の子午線のところで降ろしてもらったのである。
そこにはそれを示すモニュメントが建っていたほか「子午線ふれあい館」という小さな建物があった。無人で、何枚かの写真や地図が壁に貼ってあるだけのものだったが、記名帳があったので住所氏名を書き込んでおいた。2~3日おきに誰かが記入しており、北海道や青森からの訪問者もあった。
ところでこの子午線、2002年4月の測量法改正で日本測地系から世界測地系に変わったことにより4~500メートル経線もずれているはずだ。しかしそれについての説明などが書かれたものは一切なく、正確には正しくないのだが、まあそんな細かいことには目をつぶって、「地図遊び」を楽しんだ。
このモニュメントのすぐ西側に学校があり、花壇などで美しく飾られた敷地の中に西表小学校、西表中学校が同居していた。学校のHPによると明治23年(1890年)西表簡易小学校として設立されたそうで、最盛期は1学年20~30人いた生徒も今は2~3だそうだ。そしてこのめずらしい子午線が、この学校の運動場を南北に横切る形で走っている。これは学校にとっては誇りのようで、この楽しい子午線を記念して、毎年123456789の期日、時間に「子午線マラソン大会」が催されている。すなわち、1月23日4時56分7秒89にスタートするそうだ。この学校の出身者は地理好きになることだろう。
石垣港で往復券を買っていたので、帰路もまた送迎バスに乗った。往きのバスは全員降車する場所が決まっていたので余計な寄り道などせずにひたすら走り続けていたが、復路は途中での乗車もあるかも知れないからか、上原までは集落のある旧道に入るなどして、2倍の30分くらいを要した。さらに上原港で外人を含む観光客数名を乗せ、補助椅子まで出す満員となり大原港に向かった。途中水牛車で知られている由布島が一瞬見えただけだったが、意外に近いところを渡っているようだった。
大原港に着いたのは昼前だったが、13時に仲間川クルーズの観光船が出るとのことだったので、観光案内センターの中でまたソバの昼食をとりながらそれを待った。間もなくやってきた迎えのワゴン車で300メートルくらい離れた乗船場に連れて行かれ観光船へ、他に一組の夫婦がいるだけの3名だけの客だった。すれちがう船は皆団体客でいっぱいのものばかり、なぜたった3人しか乗っていないのか、よほどのVIPなのかと、すれちがう船の客はみな怪訝な顔をしていた。仲間川は全長17.5キロと長くはないが、河口域はマングローブ林が広がっており、ジャングルの中に迷い込んだような珍しい体験ができた。初めて知ったのだか、マングローブとは特定な木などの植物の名前ではなく、熱帯や亜熱帯地域の河口の汽水域にある森林のことを言うそうだ。
西表島だけに生息しているイリオモテヤマネコは現在推定で100匹前後しかいないそうだ。1967年に新種として命名され、学会に発表されたそうだが、野生ネコの新種が発見されたのは70年ぶりだそうで20世紀最大の生物学的発見とまで言われたという。日本には、野生のネコ科動物は、他には対馬のツシマヤマネコがいるだけだそうだ。ヤマネコの保護のために、道路の随所に「ヤマネコ注意」の看板があった他、家でネコを飼うときには必ず登録をしなければならないそうだ。イエネコとの接触による感染症や、交雑による純血個体の減少を防ぐ目的からだそうだ。
最後に島の中の公共交通だが西表島交通が 1日6往復の路線バスを東南端の豊原から、県道の果てる西南の白浜まで走らせている。船会社が前述の送迎バスを走らせているので、どの程度の利用があるのかわからないが、島民の島内だけの移動には使われているのだろう。面白いのは車両で都バスと神奈中バスの中古車が、塗装も変えずに走っていた。
石垣島に戻り2泊目、夕食には沖縄料理に飽きたので、「島のイタリア料理」という洒落た店に入った。ハウスワインとキハダマグロのオープン焼きだったがなかなか旨かった。石垣市は観光客も多く、奄美大島の名瀬や宮古島の平良、淡路の洲本などに比べるとずっと賑やかな感じがし、おそらくわが国の沖縄本島を除く離島のなかでは最も賑わいのある大きな街ではないだろうか。
私が石垣島に2泊していたちょうど同じ日に、九州沖縄市長会というのがここ石垣市で行われており市長ご一行が日航八重山ホテルに泊まっていた。九州・沖縄全117市のうち105市の市長と、家族や随員を含め320人が来島していたたという。八重山毎日新聞の記事によると、全体会議では国への要望事項など18案件をすべて全会一致で採択したという。そして3日目、すなわち私が石垣島から去る日だが、午前中は島内視察で午後解散となっていた。空港に行くバスが経由した日航ホテルは大企業のコンベンション同様大勢のネームプレートをつけたスタッフと大型観光バスでごった返していた。また空港でも、同様大勢のスタッフがそこかしこに立ち、早めに帰る市長や家族のお世話をしていた。
日本最西端の島 与那国島
国境の島、与那国島へは船で行きたかったが、この日は便がなくJTA機で行った。小型のプロペラ機かと思っていたらB737-400、ほぼ満席に近かったので100人以上乗っていたようだ。25分ほどの飛行で与那国空港着、ほとんどが観光客のようで、待機していた観光バスに乗るかレンタカーを使い、路線バスに乗ろうとしているのは私だけのようだった。
予めインターネットで入手しておいた時刻表にあったバスは、飛行機が着くと同時くらいに、すなわち定刻通りに空港前を走り去ったようで、航空客などはまったく対象外のようだった。次のバスは2時間後なので町役場のある祖納集落までの約2.7キロを歩いた。途中何台かの車が乗せてあげると言って停まってくれたが、時間はたっぷりあり島の風景をゆっくり見たかったので丁重にお断りした。
この島は隆起珊瑚礁ではなく火山島であり、起伏が激しく祖納への道路の右手、すなわち海とは反対側の山側は切り立った崖が続いていた。八重山列島の中で、このような島は他に石垣島と西表島だけとのことだ。また途中にはかなり大きな製糖工場と、それに続いて沖縄電力の発電所があった。同社のHPによると、ここには重油を燃料とする内燃発電ユニットが5基、最大出力が2750KWとあった。なお西表島などには発電所はなかったので石垣島から送電しているのだろう。かなりのコストがかかっているのだろうが、これら離島のライフラインのコストは誰がどのように負担しているのだろうか。
町役場では、いつもは庁舎の写真を撮るだけだが、せっかく西の果ての役場に来たので職員に事情を話して役場入口をバックに自分の写真を撮ってもらった。アロハ風シャツの若い男性職員が快く応じてくれた。役場近くの一軒だけ開いていた食堂で食べたカジキマグロのフライ定食は実に旨かった。そこではレンタカーでまわっているらしい、何人かの客もいた。その後で小さな街の中を歩いていると、与那国民俗資料館という看板の掛った一軒の民家のような建物があった。もう何日も閉まったままのようだったのでそのまま通り過ぎたが、帰宅後2週間ほど経った頃日経の夕刊にこの資料館のことが出ていた。88歳のおばあさんが1人で運営する私設の展示館で、住宅を改造した館内には、昔島の人達が使っていた民具が所狭ましと並んでいるそうで、入館料100円と書いてあった。声をかければ開けてもらえたのかも知れない。
祖納の市街地から件のバスに最西端の久部良まで乗った。料金は無料、町営のバスの認可がまだ降りていないからだそうで、それまでは町役場の小型ワゴン(白ナンバー)に代行バスと書かれた紙を貼っている。運転は最西端観光(株)というところに委託している。認可が下りると1乗車100円になるとのことで、すでにそれらが書かれているチラシがバス内に置いてあった。民間のバス会社が撤退した後の措置であるとのことだった。
久部良はわが国最西端の漁港のある集落で、バスを降りてから1.5キロほど歩き「日本最西端之地」という石碑の立つ所まで行った。また展望台もあり、1年に数回、天気の余程良い時は台湾が見えるそうだが、それは見えなかった。
また過酷な人頭税に対して人減らしをするために妊婦を飛び越えさせた岩の割れ目、久部良バリなども見た。戦後の一時期、台湾との密貿易の中継基地となり、この集落が大変栄えたことがあったということが、石垣島の書店で手にした「新南島風土記」という本に書いてあった。
さらに久部良バリの近くに「ようこそ日本最西端の久部良中学へ」という看板を掲げた中学校があった。これも家に戻ってから読んだ日経新聞によれば、今年の卒業生は4人、この島には高校がなく全員が島外の高校に進学したとあった。
この島には他に海底遺跡の話があり、これについても興味があったので石垣の書店で「海底遺跡、超古代文明の謎」という文庫本を買い読んでみたが、ここに限らず海面が上昇したために過去の人工物が海底に残っているというのは結構多いらしい。人口物ではなく自然の形でそうなっているという説や、人工物でも超古代のものから中世のものなど諸説あるようで、他地域との関連性などロマンのある話ではある。最近の潜水技術や音波等による測定技術を使えばかなりの情報が得られるのだから、もっとたくさんそういうことを調べてからいろいろな説を発表してほしいと思う。
帰りは火、水、金、日曜日にのみ運行される琉球エアコミューター(RAC)機で那覇に直行した。ボンバルディア社のDHC8-Q100、定員は39が10か乗っておらず、おかげで景色に応じて座席を右左と往来することができた。18時に与那国を離陸し、19時15分には那覇空港に着陸したのだが、この時期の西の果ては日没が遅く、西表島、石垣島、宮古島などの上空からの景色が堪能できた。那覇から1時間後に出発した全日空機は22時42分には羽田に着陸、随分早く与那国から東京まで来ることができるものだ。
(補足)日経ビジネス2008.8.18によると有村産業は6月に更生手続きから破産手続きに移行した。負債総額は08年3月末時点で約136億円。商船三井が管財人を派遣していた。年間の燃料費を10億円程度と見ていたのが原油高騰により30億円を越えるようになり、3隻の船を所有している鉄道・運輸機構への船舶使用料(月4千万円)の支払いも滞った。6月5日以降運行を停止しているという。沖縄本島と宮古、石垣間の移動は飛行機しかなくなった。台湾・沖縄の貨物輸送はもともとかなりあったが、このルートが使えなくなり上海や釜山経由になっているそうだ。 (2008.8.23追記)