残り21のうち青森県に12残っている。JRで大人の休日倶楽部パス(東日本・北海道)という25千円で6月下旬の5日間、JR東日本と北海道の新幹線や特急を含め全線乗り放題という切符が売り出された。例年夏の行事である札幌の友人達との会合にこの切符で行くことにし、帰りに青森県の市町村をまわる計画を立てた。
しかし渡道前日に北海道江差線で貨物列車脱線事故が発生、当日になっても東北新幹線の東京発車時点で青森からの北海道方面への特急は全面運休するとの放送があった。JR北海道「又かよ!」である。自然災害や踏切事故などと違って普通に走行中の脱線事故というのは、大抵の場合線路保守の不具合であり事業者責任である。まさに今、JR北海道が指摘され、改善に向けて努力中であるという、その間の出来事であり、改善が一朝一夕に進まないことの現れだろう。結局札幌での会合をキャンセルし、青森県内をゆっくりとまわり、最終日は三陸の被災地にも行ってきた。
成功しているのか? 青森のコンパクトシティ
東北新幹線が新青森に着くと、函館方面に行くつもりだった人達が駅員からフェリー利用の説明などを受けていた。新青森から青森に出たが、まだ午前10時半だ。とりあえずメモリアルシップとして係留展示されている八甲田丸を見に行った。最下層のエンジンルームから最頂部煙突の中まで見学でき、車両デッキにはかつての特急「はつかり」キハ82や郵便車などが展示されており、なかなか見ごたえのあるものだった。特に大型船の煙突内に入ったのは初めてで、ドーム状の広い部屋の中に煙を排出するための大きなパイプが、エンジンの数だけ何本も林立する構造になっていたとは知らなかった。
駅近くのビジネスホテルに荷物を預け、県立郷土館を見てから市役所に行った。青森市役所には20年近く前の1995年に行っているが、今回は全国的に有名になっているコンパクトシティ政策について聞こうと思った。駅から市中心部にかけての人通りのあまりの少なさ、寂しさを見て、中心市街地を活性化させるというこの政策がどうなっているのか疑問になったからである。
企画課を訪ね、コンパクトシティの施策とその成果について書かれているパンフレットなどがないか聞くと、そのようなものはないが何か聞きたいことがあれば、と担当者が2名、分厚いバインダーを抱えて面談に応じてくれた。正確な数字は聞き漏らしたが、中心市街地の居住者目標数に対しここ数年未達のままだという。また中心市街地に住むためにインセンティブとなるような施策はないとのことだった。居住地の拡散を防ぐことによって除雪費用が減ったのではという質問に対し、除雪費は年々の降雪量によって異なると当たり前のことを平気で言う、そんなことを聞きたいのではない、呆れてそれ以上聞く気がなくなった。富山市と競っているはずのコンパクトシティ先進地としての気概というか、誇りのようなものが感じられない。市長が変わったりしたことも担当者の士気に影響を与えているのかも知れないが、一介の旅行者への対応とはこんなものなのだろうか。
最後に中心街が大変寂しいが市内で最も賑わっているのはどこかと聞くと、市役所から3キロくらい南に行った高速道のインター近くに大型店が集まった地域があり、そこだという。時間はいくらでもあったので、そこまで歩いていった。広い道路の両側1キロくらいに亘って広い駐車場のある全国チェーンのスーパーや家電量販店、洋服店、書店、外食店、さらにはシネコンやゲームセンター、学習塾などが並び、車が忙しく出入りしている。スーパー内にある広いフードコートは高校生や若者で活気に溢れていた。全国画一化した、都市郊外と全く同じ光景である。
そこと市中心部を結ぶ公共交通機関は1時間に1~2本のバスだけだ。こんな状況で車を持たない高齢者を市の中心部に呼び寄せることが可能なのだろうか、青森型コンパクトシティと言う全国に知られた方針が、本当に今でも続いているのだろうか。
スイスのローカル私鉄を思わせる弘南鉄道黒石線
2日目は、札幌の友人と富良野までドライブし、夜行の急行「はまなす」で本州に戻り、3日目から青森県内の市町村役場めぐりをすることにしていたが、3日目に1日でまわる予定だった8市町村を2日に分けて、ゆったりと行うことにした。
青森ではホテルで、役場めぐりでは珍しく朝食を食べてからチェックアウトし、奥羽本線の各停電車で弘前に向かった。そして弘南鉄道弘南線沿線の3つの町村に行った。この線は元東急のステンレスカー7000系の2連が30分毎に、弘前を毎時00分と30分に、黒石を20分と50分に発車する。12時、13時、14時のみは00分発は運休、この時間帯のみ1時間1本となる。朝の通勤通学時間帯も同じだが、混雑する電車のみ2連を重連にし、4両連結となる。
このような単純な運行方式なので、列車交換駅も必要最小限のものでよく、運転手のローテーションを中心とする人の配置も無駄が少なくてすむ。これはスイスの鉄道が、幹線からローカル私鉄に至るまでとっている方式と同じだ。ただし弘前の始発が6:00であるのはまあ良いとしても終発が21:30というのは少々早すぎるような気がする。コストをギリギリまで詰めた結果なのだろうか。
このダイヤは役場めぐりの上でも大変好都合だった。沿線の平賀町と尾上町が秋田との県境にある碇ヶ関村と合併し平川市となった。碇ヶ関は2006年に訪問済だったが、残りの旧町役場はいずれも最寄り駅から徒歩5分くらいのところにあり、30分の電車間隔の間に十分行って帰れた。平賀は車庫もあり、この線の中心駅であるだけでなく、弘南鉄道の本社もある。その本社と駅舎は、農協会館(JA)の大きなビルの一部を使っており、正面から見る駅は大鉄道の主要駅のそれのようであった。旧平賀町役場が平川市役所になっていた。
合併を避けたか豪華庁舎
旧尾上町の庁舎は、平川市尾上分庁舎となっているが、奇抜な形をしていた。最初に電車からキラキラ光るドーム屋根が見え、まさかと思ったらこれが庁舎だった。頭頂部がガラス張りの塔のある建物で、内部は螺旋階段で登れるようになっていた。前庭の噴水と合わせ何やら西洋の貴族の館といった感がしないでもない。
それよりももっとおかしかったのが、隣の田舎館村役場で、これは完全に日本の城を模したもので天守閣まであった。弘前から黒石行のバスでも行けるが、田舎館駅から2キロくらいなので歩いて行った。天守閣はかなり遠くから見え、これもまさかと思ったがやはり役場だった。尤も天守閣の方は、同居している文化ホールの施設の一部の展望台という位置づけで、村長室や幹部が戦略を練る場所ではないようだ。周囲は一面の水田で、稲で絵を描く「田んぼアート」で知られており、この天守閣はそれを見るための展望台にもなっていた。200円払ってエレベーターで4階に行き、さらに階段で2階分昇ったところが天守閣で、真下の田んぼに天女と富士山の大きな絵が、どのような仕組みかはわからなかったが描かれていのが見えた。
尾上町と田舎館村とが隣同士で競い合って奇抜な役場を建てたのかも知れない。尾上町は合併で平川市の一部となったが、田舎館村の方は単独で残った。こんなものを作ってしまうと城を取られたくない、単なる支所にしたくないという気持ちが強く働いたのではないかと勘繰りたくなる。
周辺でまだ行っていなかったのは五能線沿線の藤崎町と板柳町で、藤崎町役場の隣にあるイオン藤崎店の赤い大きな看板が天守閣からも見えた。約6キロ先である。一面の田園が広がり、坂の上り下りはなさそうだし、時間はタップリあったので藤崎町役場まで歩き、さらに隣町の板柳に五能線各停で行った。
五能線で弘前に戻り、泊まることにした。駅前のビジネスホテルにチェックインし、約2キロ離れた弘前城まで歩き、さらに城の外周を一周し、市役所などのある中心市街地で夕食をとった。駅と城周辺とを結ぶ歩行路はよく整備されており、市街地が分断されているという印象もない。青森市よりもコンパクトシティ化が進んでいるようにも思えた。そして観光客も多く、遅くまで人の流れもあり、こちらの方がずっと活気があるように感じられた。
合併10年、消える支所
翌朝もまたゆっくり朝食を食べ、五能線のリゾート快速「しらかみ」で約1時間、陸奥森田駅で下車し旧森田村役場へ行った。その後いったん各停列車で五所川原に戻り、弘南バスで旧稲垣村に行った。快速「しらかみ」はさらに翌日も2回、今回は合計3回も乗った。
今から10年前の2005年2月、津軽半島西寄りの木造町と森田、稲垣、柏、車力の4村とが合併し、つがる市になった。私は更にその10年前の1995年8月に木造町、柏村、車力村に来ている。十和田湖や十三湖の見物を兼ねた家族旅行の途中で、当時の列車やバスの時刻表を見て、行けるところだけに行った。だから今回は残りを埋めるような旅だったが、森田、稲垣のどちらも合併で支所になり、さらにその後、その支所自体もなくなっていた。
森田支所が閉鎖したのが11年3月末で、これは全くの支所の廃止でその機能は木造にある市役所本庁舎に移管・吸収された。距離にして3キロくらい、列車で2駅、本数は少ないとはいえバスもある。合併直前の人口が5千人ほどだったし、そもそも旧支所の周辺も集落が形成されているというほどではないので、支所を残す必要もなかったのかも知れない。建物はそのまま残っており、施錠されて中には入れないが、窓から中を覗くことができた。受付カウンターや事務デスクの上にはバインダーや数々の事務用品が乱雑に置かれたままで、必要最小限の書類や資料だけを持って行ったのだろう。
稲垣支所の方は、今年3月末で閉鎖ではなく、1キロくらい離れた公民館の中に移転した。こちらも建物は施錠されたままだった。なお森田も稲垣も旧庁舎前のバス停の名前はそれぞれ森田支所前、稲垣支所前になっていた。メモリアルとして残しておくつもりなのかも知れないが、他所から来た人が間違わないだろうか。尤もバスで役場に行こうなどという人は、私以外にいないのかも知れないが。
この2つの旧村を訪れた翌々日の東奥日報に、合併市町への交付税が減らされるという記事があり、そこにつがる市のことが載っていた。05年に1町4村で合併したつがる市は職員の新規採用を抑え、浮いた人件費を基金に積み立て、20年度以降年間24億円超と見込まれる交付税の減少に備えている。旧4村役場を使った支所を廃止、出張所に縮小するなど行財政改革にも取り組む。市議会も15年2月の時期改選時から議員定数を4減らす、とあった。私が役場めぐりを始めた92年には44千人あった現つがる市域の人口が今年3月では35千人と20%も減っている。多くの合併で、住民サービスを低下させないという理由で旧役場を支所として残すケースがほとんどだったが、いよいよそれも適わなくなったのだろう。
なお余談だがつがる市の実質的中心で市役所もある木造は「きづくり」と読む。かつて甲子園高校野球で出場した木造高校をアナウンサーが「もくぞうこうこう」と読んで話題になった記憶がある。
日本海に沈む夕日と座礁船
稲垣からの帰りはバスで木造に出て、快速「しらかみ」で本日の宿泊地深浦に向かった。ペンションの庭先から、1年で何日も見られないという日本海の水平線に沈む見事な夕日を見た。翌日はさらに五能線を南下し、秋田との県境の旧岩崎村に行った。深浦町と合併し今は支所となっており、これも高い塔屋をもつ立派なものだったが、広い事務室は職員が4人いただけで、その他のスペースは机も撤去され、体育館の中のようだった。
なぜそれを知ったかというと、ここの海岸に大型船が座礁しているのが列車からチラと見え、支所の入口に「アンファン号座礁対策本部」と書かれた大きな立て看板が掲げてあったので、近くでそれを見るのにはどこに行けば良いか聞いたからである。すると全スタッフが集まって、歩いて行くにはあそこだとかここだとか意見が交わされた。結局すぐ近くまでは行けなかったが、それでも海岸に出て、ポケットカメラの望遠で写すことができた。
深浦町の広報紙(13年4月号)によると、座礁したのはカンボジア船籍の2千トンほど、乗組員が12人の貨物船だ。秋田港で積荷をおろした後、北海道室蘭港に向かう途中だった。深浦沖は、暴風雪・波浪警報も発令されている大シケだった。乗組員は全員救助されたが、重油が流出し町長を本部長とする「アンファン号座礁対策本部」が設置された。その後県が中国人の船主に対し撤去を要請しているが、8か月後には船体が2つに割れた。そしてそのまま1年が経過し、私は2つに分かれたそれを見たのである。
深浦と陸奥岩崎間は、五能線が最も日本海に突き出て走る部分で、この途中に不老不死温泉がある。艫作(へなし)というのが最寄りの駅で、以前友人と3人で行ったことがある。雨で有名な海岸露天風呂にも入れなかったが、そのときに義父危篤の報が入り友人と別れ一足先に帰郷した。つい先日十三回忌があったので、12年前のことである。
ベルニナ線を参考にしたら 五能線
今回五能線の快速「しらかみ」には3回乗車した。1回目は弘前から陸奥森田まで、2回目は木造から深浦まで、3回目は鰺ヶ沢から青森までだった。いずれも乗車する前日に指定券を買っておいたので乗車できたが、当日にはどの列車も満席と言っていた。2回目のときなど、隣席の人は弘前から3度も席を移動させられた、と言っていた。
快速「しらかみ」は「橅」「くまげら」「青池」と3つの編成があり、このうち「青池」がハイブリッド車で、残り2つはキハ48の改造車である。いずれも4両編成で、眺望を良くした大きな窓にゆったりとした座席をもつ観光に特化した車両だ。編成の前後には展望室があり、中間にもイベントスペースがある。また編成中の1両は4~6人用のボックス室が8~9室、片側に並んでいる。
1回目に乗ったのが「くまげら」編成で2回目と3回目が「青池」編成だった。「青池」のハイブリッドには興味があったが、座席にいると停車中もずっとエンジン音が聞こえ、プリウスのように今どのモードで走っているのかがわからない。運転席を覗くとモニターがあり、それを見た限りでは、走行開始時の車輪への動力はモーターからのみだが、数秒後にエンジンからも伝わる。停車時は発電ブレーキによりバッテリーに蓄電されるのが解った。ただしエンジン音はスピードが上がっても殆ど変らないように感じたので、ディーゼルエンジンの回転はコンスタントになるようにしているのだろうか。走行中でも状況に応じてエンジンを動かしたり止めたりするプリウスのハイブリッド方式とは異なっているようだった。ガソリンとディーゼルのエンジン特性の違いからなのだろうか。
今回乗車した区間では、五所川原・鰺ヶ沢間で、「くまげら」編成では先頭車両展望室で、「青池」編成では中間車のイベントスペースで2人の津軽三味線奏者による生演奏が行われていた。また千畳敷やその他海岸沿いのビューポイントでは速度を落とし、車内アナウンスでの案内もあった。正に観光に特化した列車で、乗客はカメラを向け皆嬉しそうだ。スイスのベルニア線での光景を思い出した。山岳と海岸沿いの違いはあるが、沿線風景は決してベルニア線にひけをとるものではなく、世界遺産の白神山地を控え大当たりした列車だと思う。
ところでこのように観光を全面に押し出した五能線だが、地元客には逆に極めて不便な路線である。例えば深浦駅の場合、弘前方面の普通列車は1日に5本しかなく、9:33弘前行の次は17:12弘前行までなんと8時間近く列車がない。そしてこの間11時、13時、16時台に3本の快速「しらかみ」がある。もちろん520円の指定席を買えば乗れるのだが、当日だと売り切れということもある。これではまずい。「しらかみ」の後部に1両でいいから一般車を連結し普通客も乗れるようにしたらどうだろうか。「しらかみ」が貫通式でないので車掌の業務がむずかしいとか、通過駅があるとか、いろいろ問題はあるだろうがやってできないことではない。
ベルニナ線では観光列車は普通列車と併結して走っている。完全1時間間隔の普通列車に、サンモリッツからの観光列車だけでなく、ツェルマットからの氷河急行までを繋いだりしている。10両近くの恐ろしく長い編成の列車もあるが、基本的には各停列車が主体なのですべての駅に停車し、のんびり、ゆったりと走る。文句を言う観光客などいない。
この方式を五能線でも行ったらどうだろうか。さらにできることならば完全1時間パターンのダイヤにすべく、いくつかの駅のいったん撤去した交換施設を復活させるとか、途中に信号所を新設するなども提案したい。これこそ世界遺産を控えた観光地の鉄道復権ではないだろうか。
三八上北で青森県完了
3回目に乗った鰺ヶ沢からの「青池」編成は青森行きだったが、弘前にも寄って行くので川部・弘前間は完全に1往復する。弘前ではかなり大勢の客が降りたので、白神と弘前観光を兼ねる人が多いのだろう。すると入れ替わるように大勢が乗って来てまた満席になった。今度はビジネス風客が多い。それらを含めて半数近くが新青森で下車したので新幹線乗継客なのだろう。客が入れ替わっても常に満席という、まことにJR東日本にとっては効率よく儲けられる列車である。
いよいよ残り2つになった。青森県では、天気予報などで、津軽、下北、三八上北(さんぱちかみきた)という分け方をする。津軽というのが青森市を含むほぼかつての津軽藩のエリアを言い、下北が下北半島、その他が県東の三八上北で、三八というのは三沢、八戸から来ており、上北は上北郡から来ているのだろう。そこに2つ残っていたのである。
青い森鉄道の各停電車で上北町(かみきたちょう)駅へ。奥羽本線で走るJRの701系と同じ車両で、かつての東北本線の線路で寝台特急や重量貨物が多く走るので線路状況も良く快適に飛ばす。ちょうど1時間ぴったりで上北町駅に着いた。上北町は青森寄りの隣駅、乙供(おっとも)駅を最寄りとする旧東北町と合併し東北町となった。町役場本庁舎は上北の方である。2つが合併するときに、町の規模などで甲乙がつけがたいときには町名と役場本庁舎を分け合うという、両者痛み分けといった解決例が他にもある。山梨県の南部町などがそうだ。旧東北町の庁舎は、東北町役場東北分庁舎となっている。随分広域な名称だが、この庁舎には06年下北半島を主に回ったときに来ている。合併の1年後だった。
さらに電車で2駅、青森県最後の三沢市だ。三沢市役所には3千番目として行きたかったが、そこまでこだわる余裕はなかった。因みに1千番目は秋田県の千畑町、2千番目は福島県の二本松市だったが、3千番目は長野県南相木村で、全く数字の遊びを無視していた。三沢市役所は駅から直線距離で約2キロ離れた丘陵上にあり、駅近くのビジネスホテルに荷物を預けてから向かった。市役所に近づくと、大型店や外食店が並ぶ全国画一的な風景に出合い若者の姿を目にし、それでもここは中心市街地の一角なので、青森市に比べればコンパクトシティ化が進んでいるのではないかと思った。その一角で、回転寿司屋に入ったが、目の前のタブレットで絵を見て注文すると、リニアモーターによる新幹線が猛スピードが寿司を運んで来るという、直線寿司屋だった。
気仙沼線BRT
最終日は東京に戻るだけだったので、BRTを試乗し、かつ東北大震災の被災地に行くことにした。八戸から新幹線で一ノ関、大船渡線で気仙沼まで行った。大船渡線は気仙沼までが鉄道で残り、その先、盛まではBRT(Bus Rapid Transit、バス高速輸送システム)となった。また気仙沼と前谷地とを結ぶ気仙沼線も、気仙沼・柳津間はBRTとなった。時間の関係で、盛方面には行けず、気仙沼線を柳津方面に途中下車しながら進んだ。
気仙沼駅は駅舎側の単式ホームと島式ホームを持つ3番線まである、地方では標準的な中線のある駅だったが、1番線と2番線の線路を撤去し、その跡に盛土をしてBRT専用レーンとし、ホームから乗降できるようにした。シームレスな乗り継ぎが出来る好ましい構造だ。盛方面の大船渡線BRTは駅を出たところから先の専用道路がまだ完成していないため市内の一般道路を走る。そのためにBRT用ホームからではなく、今は駅前広場のバス乗場からの乗車となる。
一方気仙沼線の方は、1番線が乗車ホーム、2番線が降車ホームとなっているが、私が利用した日は反対になっていた。というのは、気仙沼駅からすぐの専用道路4~500メートルが工事中で、この区間バスは一般道路を走るために、盛方面にある構内から駅前広場への出口を通って、一般道を走るからである。乗ったのは観光型車両で、内外装とも沿線の里山をイメージさせるデザイン(パンフレットより)で、グループ客向けに一部ボックスシートとなっている部分もあった。
間もなく専用道路に入ると、さすがに順調に走る。一般道路との交差部分、かつて踏切だったと思われる部分は一般車が乗り入れないよう、普通の踏切とは逆に専用道路側に遮断ポールがあり、バスが来たときのみ開くのが面白い。大きな交差点では、踏切だったときは無条件に鉄道が優先だったはずなのに、通常の交差点のような信号で、バス接近で変わるような優先信号にもなっておらず、JRとしては随分譲歩したものだと思う。なおBRTの車両は、JRバス東北ではなくJR東日本の所有である。運転手は外注委託しており、宮城交通の運転手が担当していた。
専用区間はまだこれからも伸びるのだろうが、一般道路からのアプローチ部分に結構遠回りをしているように思えるところがあり、これらは要改善だろう。1時間ほど乗車して歌津で降りた。定時着であり、気仙沼市内で工事のために一部一般道路を迂回したにしては、定時着ということで、かなり余裕を見たダイヤなのだろう。1時間後のバスで志津川へ、さらに2時間後のバスで柳津まで行った。
歌津も志津川のどちらも、BRTの駅は従来のバス停とは異なる明るいスマートなもので、待合室やトイレなどきれいに整備されていた。大型モニターには、今バスがどこを走っているかが常に表示されていて利用者に対するサービスも充実している。完全なパターンダイヤになっていて、最も頻度の少ない志津川・柳津間でも1時間に1本は確保されている。さらにBRTに必要なものは時間短縮よりも定時性確保だと思う。それを確保するための専用道と一般道の最適組み合わせがあるはずであり、今後はこのような観点から専用道化を進めるのが良いと思う。このBRTはデザインだけでなく、ハード/ソフトともに最先端の公共交通のモデルではないかと思う。なかなか復興が進まない中、せめてこれだけでも未来志向として、復興の先取りとして地元の人々に希望を与えているのならば良いが、と思った。
改善点としては他線との接続利便性であるが、これはBRTというよりも既存の鉄道網の問題だ。新幹線や東北本線が日中はほぼ1時間サイクルのパターンダイヤになっているのだから、今後は大船渡線や石巻線も、2時間サイクルでも良いからパターンダイヤし、シームレスな乗継ができることを望みたい。
柳津でのバスから列車への乗継は、私が利用した時間帯は27分待ちでたまたま良い方だったが、他は良くない。それにバスは駅前広場に着くので、列車に乗るには必要のない跨線橋を渡らねばならない。今は仮の終点になっていて、いずれBRTは前谷地まで延すつもりなのだろうか。客の流れを見ているとその方が良いと思う。私は柳津から前谷地、小牛田経由で仙台に行き、新幹線で帰京したが、柳津で列車に乗り換えたのは私の他に女性が2人いただけで、2人とも前谷地では石巻行に乗り換えて行った。
気になる復旧 南三陸町
南三陸町の歌津、志津川地区の復旧が全くと言っていいほど進んでいないのが気になった。この地区には震災2年前の09年2月に来ている。前谷地から気仙沼に向って来たのだが、列車本数が少ないので、志津川では降りず歌津まで乗り、志津川に戻り本吉に行くという稲妻方式をとった。それでも歌津で2時間、志津川で43分の待時間があった。歌津駅は高い築堤上に上下の対向ホームがあり、それぞれのホームにダラダラ坂を登って行く構造で、切符売場と案内所を兼ねた小さな小屋風の待合室が坂の下にあった。そのときは冬で、営業中の食堂も見つけられなかったので、食品店でパンを買いその待合室で暖を取った。合併で支所となった旧歌津町役場は駅のまん前にあり、駅をバックに撮った木造の古い庁舎の写真が残っている。
その歌津の町は一変していた。専用道路を走ってきたBRTは駅の手前で高い築堤上から坂を下り、かつて駅舎のあった同じ場所にできたBRT駅に着いた。ここから海までにあった市街地は完全に消失しており、まるで出来たばかりの埋立地という感じだった。ガレキだけは片づけられていたが何も建っていない荒涼とした土地が広がっていた。わずかに一角、台地の下に仮設の店舗群が10棟くらい商店街風に集まっており、周辺の高台に一時避難している住民が、時たま車で買い物に来ている、といった状況だった。
続いて行った志津川も、旧市街地には新しい建物はなかった。ただしこちらは旧中心市街地の嵩上げ工事をしており、まだ部分的であるが新しい土砂が搬入されて、そのようなところは10メートルいらいの高さになっていた。志津川駅は高架上にホームが2本、3線をもつ規模のものだったが、津波はこれも簡単に乗り越えたそうで、築堤や屋根のないホーム跡が残っているだけだった。BRTの駅は、旧駅からさらに内陸に500メートルくらい行ったところの仮設の商店街の入口のようなところにあった。こちらは歌津よりは数倍の規模があり、飲食店だけでも10軒くらいはあった。
昼食に入ったそのうちの1軒で話を聞くと、この場所でも津波の高さは10メートルあったそうだ。復興計画では、旧市街の嵩上げ地には商店やオフィス等とし、原則として居住はできない。居住のためには周辺の高台に行かねばならず、商売をするには2軒持たなければならないので大変だと言っていた。今の仮設商店街のある場所も5年間の契約で借りているので、2~3年後どうするかの目途も全くたっていないとのことだった。復興が随分遅れているように見えるが、と言うと資材や人が足りないからで、予算も使い切れずに残っていると言っていた。何かを自分から責任を持って決めようとしない役所独特の体質を、震災復興と言う平時でないにも拘わらず引きずっているということがないのであれば良いと思った。
5年前町役場に行ったときに、1960年のチリ地震で2.4メートルの津波がここまで来たという標識を見て驚いたものだが、それをはるかに越えた津波が庁舎をはじめすべてを流してしまった。同じ場所に残っていたのは防災対策庁舎の鉄骨の骨組みだけだった。震災当日、この庁舎に残って最後まで放送で避難を呼び続けていた女性職員が犠牲になったところだ。これを震災遺構として残すかどうかについて議論がなされているとのことだが、まだ決まっていないそうだ。なお新しい町役場は、志津川の手前、高台上にあるベイサイドアリーナという大きな体育館に隣接して仮設のものが建っていた。周辺には病院や銀行の支店、さらには量販店などもあり、これからの南三陸町の中心になるのかなと思わせる一帯だった。
青森県の市町村をめぐる旅だったが、BRTにも乗れ、宮城県の被災地を見ることもできた。またいわゆるコンパクトシティ政策というものの実態の一部を知ることもできた。また、たまたまだと思うが、青森県の鉄道とスイスの鉄道とで共通点があるように思うこともあった。
今回はこれで累計3250となり、残りは9、いよいよ一桁を残すのみとなった。東京以北は完全に終わったが、残りの中には6島7町村という訪問困難地がある。完了は来年になると思うが、被災地がその後どう変わって行くのか、特に南三陸町については数年後に再訪し、その推移を見守りたい。
2014年6月23日(月) | |||
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東京 | 6:32 → 9:50 新青森 | はやぶさ1号 | |
新青森 | 10:19 → 10:24 青森 | S白鳥1号 | |
八甲田丸見学 | |||
県立郷土館見学 | |||
市役所訪問 | |||
市南部郊外訪問 | |||
2014年6月24日(火) | |||
青森 | 7:55 → 8:39 弘前 | 奥羽本線644M | |
弘前 | 9:30 → 9:43 平賀 | 弘南鉄道弘南線 | 3239平賀町(平川市) |
平賀 | 10:13 → 10:19 津軽尾上 | 弘南鉄道弘南線 | 3240尾上町(平川市) |
津軽尾上 | 10:49 → 10:55 田舎館 | 弘南鉄道弘南線 | |
田舎館 | 10:58 → 11:20 田舎館村役場 | 徒歩2.1Km | 3241田舎館村 |
田舎館村役場 | 11:40 → 12:25 川部駅前 | 徒歩4.1Km | |
川部駅前 | 12:30 → 12:53 藤崎 | 徒歩2.0Km | 3242藤崎町(藤崎町) |
藤崎 | 13:25 → 13:33 板柳 | 五能線2830D | 3243板柳町 |
板柳 | 16:32 → 17:01 弘前 | 五能線831D | |
弘前城外周一周 | |||
2014年6月25日(水) | |||
弘前 | 8:49 → 9:44 陸奥森田 | (快)Rしらかみ2号 | 3244森田村(つがる市) |
陸奥森田 | 11:03 → 11:18 五所川原 | 五能線2525D | |
五所川原 | 13:00 → 13:22 稲垣支所前 | 弘南バス | 3245稲垣村(つがる市) |
公民館前 | 14:15 → 14:40 木造駅通り | 弘南バス | |
木造 | 15:22 → 16:34 深浦 | (快)Rしらかみ4号 | 3246深浦町 |
2014年6月26日(木) | |||
深浦 | 7:35 → 8:00 陸奥岩崎 | 五能線522D | 3247岩崎村(深浦町) |
陸奥岩崎 | 9:02 → 10:34 鰺ヶ沢 | 五能線2525D | 3248鰺ヶ沢町 |
鰺ヶ沢 | 11:47 → 13:35 青森 | (快)Rしらかみ1号 | |
青森 | 13:58 → 14:58 上北町 | 青い森鉄道574M | 3249上北町(東北町) |
上北町 | 15:41 → 15:50 三沢 | 青い森鉄道576M | 3250三沢市 |
2014年6月27日(金) | |||
三沢 | 6:45 → 7:06 八戸 | 青い森鉄道560M | |
八戸 | 7:17 → 8:27 一関 | はやぶさ8号 | |
一関 | 9:12 → 10:35 気仙沼 | 気仙沼線329D | |
気仙沼 | 10:56 → 11:59 歌津 | BRT | |
歌津 | 12:59 → 13:23 志津川 | BRT | |
志津川 | 15:23 → 15:52 柳津 | BRT | |
柳津 | 16:19 → 16:40 前谷地 | 気仙沼線932D | |
前谷地 | 16:46 → 17:02 小牛田 | 石巻線1640D | |
小牛田 | 17:10 → 17:57 仙台 | 東北本線2560D | |
仙台 | 18:33 → 20:28 東京 | やまびこ192号 |