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北海道宗谷・網走・上川支庁|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その30)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会

北海道宗谷・網走・上川支庁|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その30)

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
(その1)総集編|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2020年1月31日
(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その5)新島と御蔵島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年7月1日
(その6)奄美諸島と座間味島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年4月1日
(その7)中国山地の山奥に行きいよいよ残りひとつに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年5月1日
(その8)小笠原で100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年9月16日
(その9)合併レースに追つけ追い越せ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その10)格安切符の上手な使い方 三重県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年3月20日
(その11)四国誕生月紀行|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年1月26日
(その12)歴史の宝庫は地理の宝庫(岡山県備中・美作地方)|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年5月31日
(その13)青春18きっぷで合併の進む上越地方へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年8月20日
(その14)公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年10月15日
(その15)熊本県の合併前後の市町村へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年11月7日
(その16)悪天候で予定通りには行かなかった大分県の市町村役場めぐり|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年12月19日
(その17)2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年3月8日
(その18)2006年青ヶ島訪問記|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年5月8日
(その19)2006年6月14日 一日でまわった東京23区|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月14日
(その20)2006年 道南から津軽・下北へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月26日
(その21)2006年11月西彼杵半島と島原半島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年11月20日
(その22)和歌山・三重|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年4月6日
(その23)トカラ列島と奄美群島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年5月10日
(その24)北海道東部の旅 |公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年6月12日
(その25)「大人の休日倶楽部会員パス」による秋田県北部の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年6月27日
(その26)能登・砺波の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年7月9日
(その27)路線バスを乗り継いだ大分県と福岡県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年12月5日
(その28)JR四国誕生日切符を使っての四国3県の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年1月19日
(その29)沖縄県宮古八重山地方|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年5月16日
(その30)北海道宗谷・網走・上川支庁|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年7月12日
(その31)広島県・愛媛県境の瀬戸内海の島々|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年8月6日
(その32)北九州から山陰本線に沿って石見銀山へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年5月13日
(その33)北海道渡島半島から後志にかけて|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年6月27日
(その34)佐賀県100達成・長崎県は残り1つに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年10月9日
(その35)石川県の100%を達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年11月7日
(その36)徳島・高知県に行き四国100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年1月28日
(その37)三重県の伊勢湾岸から奈良県の山岳地帯へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年4月2日
(その38)沖縄県久米島と渡名喜島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年4月24日
(その39)会津へ 思い込みと勘違い|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年5月20日
(その40)岩手県大船渡線と北上線|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年6月17日
(その41)北海道十勝から日高へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年7月6日
(その42)東京の3つの離島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年8月17日
(その43)2010年9月南部地方を行く|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年9月10日
(その44)隠岐からたたらの道へ 島根県100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年11月20日
(その45)岡山県を100%達成し兵庫県へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2011年4月15日
(その46)宗谷岬から南下 名寄で行政の神髄を知る|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 未公開

 北海道の道北へ行った。大学4年のときに北海道全部の鉄道路線を走破しようと3週間通用の国鉄周遊券で行ってから40年ぶりで、多くの鉄道路線が廃止になっており、ほぼその跡を代替バスで回った。また初めて利尻・礼文に渡った、そして札幌に行き、ここ数年恒例になったかつての仕事仲間との会食と、ドライブも行った。あまり天候には恵まれなかったが、今回は長距離歩くこともなく、予定の市町村に行くことができた。飛行機で稚内から入り、千歳から帰るという形をとった。

寂しい最北の市 稚内

 稚内までの飛行はずっと雲の上で、下界が見えたのは着陸寸前だった。機は西から東に向かって、すなわち稚内市街地から稚内湾上を降下し、海岸近くの原野の中の空港に着陸した。稚内空港は1960年に滑走路長1200メートルで開港し、88年からは2000メートルとなったそうだ。現在通年運航は東京、千歳、札幌丘珠の各1往復だけだが夏季のみは関空、中部各1便のほか東京がさらに1便増える。以前は利尻・礼文への運行もあったそうだが今はない。ターミナルビルにはボーディング・ブリッジはあったもののかなり古そうなものだった。167席のB737-800はほぼ満席だった。

 降りた客は迎えの観光バス、レンタカー、路線バスでそれぞれ目的地に向かう。路線バスは稚内駅前を通りフェリーターミナルへ行くものが1台待っていたが、今どき地方では珍しいオール・ロングシートのもの、吊革が一杯になるくらいの大勢の客を乗せ発車した。殆どが利尻・礼文へ向かう客のようで、毎年来ているとか2回目とか3回目だとか言う話を客同士でしていた。運転手の話では2~3日前のフェリーは満席で乗船を断られた客もあったという、今日は大丈夫だろうかと心配になってきた。

 雲が低く垂れ、雨が断続的に降り薄暗い。いかにも最北の地に来たという感じにさせる天気の中を、バスはJR稚内駅横の宗谷バスターミナルに寄った後フェリーターミナルに着いた。円柱が連なる半アーチ型の回廊で知られている北防波堤ドームがターミナルかと思っていたら、その対岸の内湾に埋め立てて造られた埠頭でターミナルビルは今年5月に新築オープンしたばかりのピカピカなものだった。

 出港までに2時間半あったので、10分くらい歩き市内中心部に行き、まず市役所の写真を撮った。日本最北端の市役所であり、町村役場を含めても最北端である。最西端の与那国町役場に行ったのは僅か2か月前のことだった。近くに地銀の支店などがあり、この近辺が最も市の中心部だと思うが、あたりは静かというよりは寂しいという感じで、アーケード街も開いている店舗は四分の一くらい、人通りも全くと言っていいくらい無く、空港やフェリーターミナルの混雑とは大違いだった。駅から歩いて30分くらいの丘陵上にある北方記念館にも行ってみたかったがこの雨では無理、やっと開いていたラーメン屋で昼食を取りフェリーターミナルに戻った。

利尻島へ、日本人は南方系を再認識

 乗船予定の15時30分発利尻島への便の20分前に礼文行きが出る。こちらは大変な列で、それに対して利尻行きは半分もいなかった。後でわかったのだが、大半のツアーコースはなぜか礼文から利尻という順に回っており、また礼文だけの観光客も多いとのことだった。そんなことは知らず私はその逆のコースをとったので結果的にどの船もすいていた。東日本海フェリーは今年1月からハートランドフェリー(株)と社名変更していた。同社は他にサハリン航路、瀬棚航路を運航しているが、利尻礼文航路については4隻の3500トンクラスのフェリーをフル回転させ、稚内から利尻、礼文にそれぞれ4便運航している。

 利尻までは1時間40分ほどだったが海上は寒くずっと船室にいた。島に近づいても相変わらず雲が低く、利尻富士と呼ばれる利尻岳も見えていたのは多分下部四分の一くらいだったと思う。利尻島鴛泊港には観光バスや民宿などの迎えの車が多数待っており、ほとんどの客はそれらに乗ったようで、路線バスに乗ったのは私1人だった。島の北側を四分の一周するように走り利尻町役場のある沓形まで行った。

 利尻島は日本の離島の中で18番目に大きいほぼ円形の島で礼文島の2.2倍の面積をもつ。人口は6千人弱で1992年の約1万人から15年で4割も減っている。東側が利尻富士町、西側が利尻町と2分されており人口は前者の方が300人くらい多い。町役場があるのは前者が鴛泊、後者が沓形だが、市街地としては沓形の方が狭いところに人家が密集していた。

 合併については03年に両町で任意協議会を設置し、その後礼文町も加入した。しかし新町役場の設置位置などを巡り協議が難航し04年合併を断念し協議会を解散、それぞれが単独町制を継続することになった。島北部の、両町役場の中間くらいに利尻空港があり、千歳との間に1往復の便がある。以前は稚内との間の便もあったそうだが近すぎてフェリーとの勝負にはならなかったのだろう。

 沓形では民宿を予約しておいた。利尻岳登山をする中高年のグループ客も泊まっており、翌朝は4時に出発すると言っていた。利尻岳は標高1721メートル、有史以来火山活動の記録は無いそうだが、素人が登るにはかなりきついらしい。ツアーで来るような大半の団体客は途中に多く分布している高山植物だけを見て帰るそうだ。観光に力を入れており、ホテルや旅館、民宿が多い。そのためか稚内から学校の工事のために3か月くらいこの島に出張しているという客は、このシーズンは宿泊場所確保に苦労すると言っていた。観光以外にもこの島で採れる利尻昆布やそれを食べて育つウニなどは高級海産物として全国に知られている。商品価値の高い漁業も大いに続けるべきだろう。

 翌朝のバスで鴛泊に戻った。雨は止み、昨日よりは多少雲が薄く、わずか10数キロ離れた礼文島も昨日よりはっきりと見えた。鴛泊港よりも2キロくらい手前の町役場近くで下車し、港まで歩いた。時間が十分あったので港の防波堤の役割をしているようなペシ岬という、小さな半島と言うか、こんもりとした丘に登ってみた。標高93メートルだそうだが急坂を、笹をかき分けるようにして登らなければならず、20分くらい要した。頂上は展望台になっていて礼文島は見えたものの、稚内までは見えなかった。また利尻岳も相変らず半分より上は見えなかった。

 その代わり眼下の鴛泊港は良く見え、8時40分発の稚内行きフェリーへの車の積み込みや乗船客の長蛇の列が手に取るように見えた。観光バスも10台近く乗り込んでおり、札幌や旭川のバスを積んでいるようだった。島内の観光バスだけでは押し寄せる観光客を捌ききれないのだろうか。8時半になるとウニ漁の終了時間を知らせる有線放送があり、2~30隻はあろうかという小型船が一斉に港に戻ってきた。ぎりぎりまで漁をしてセリに急いでいるのかモーターボートのレースのようなスピードで舟跡を残して集まる様は、上から見ていると水すましの大軍のようでもあった。

 このペシ岬に登る途中に会津藩士の墓、というのがあった。江戸時代後期の文化5年(1808年)、ロシアの南下政策に対する蝦夷地防備の命を受けた会津藩の兵士がここにやってきたが、今まで体験したことのない寒さや野菜の欠乏による水腫病で大勢が死亡、その兵士達の墓だった。水腫病というのは身体の組織の間にリンパ液などが多量にたまるもので、寒さに弱い日本人特有の病気だったようで、アイヌ人にはほとんど見られなかったそうだ。

 なお水腫病の予防にはコーヒーが利くということを何かで読んだことがある。1854(安政元)年の日米和親条約締結後、樺太をめぐる日露の争いが激しくなり、再び北海道に藩士が派遣されることになったが、それがわかったとしても当時はまだコーヒーの輸入など簡単にできなかっただろうから、最前線の兵士たちに行き渡らせることはむずかしかったのだろう。

 私は小中学生のころ、ロシアが本格的にシベリアに進出して来たのは江戸時代の後期なのだから、日本が樺太や千島列島、更にはカムチャッカから沿海州を含むシベリアなどを占領するチャンスがいくらでもあったのになぜそれをしなかったのか、それをしておけば日本はずっと大きな国になっていたのに、と悔しい思いをしていた。しかしもともと日本人は体質的に北方の極寒冷地で暮らすことは無理でそれは不可能なことだったのだ。尤もそのことに気がついたのは今回ではなく、10年近く前札幌に仕事で来るようになり冬の寒さに辟易したときに納得していたことではあるが。

礼文島を一瞥

 礼文島の香深港までは40分ほどの航海だった。この島は人口も利尻島の約半分の3千人強、宗谷支庁礼文郡礼文町が一島一郡一町をなしている。町役場は港から徒歩5分もしないところにあったので、今回上陸したと言ってもわずかに港から数百メートルを歩いただけだった。入港間近の船からはこの町役場の他6~7階建くらいのいくつかのホテルの建物が見えた。夏には約300種の高山植物が咲き、利尻のような本格的な登山ではないトレッキングコースなどがあり利尻よりも観光客が多いらしい。家内といつか行くという約束をしているので、景色を鑑賞するのはその時にする。

 役場と港との間には教育委員会の建物があり一部が郷土資料館になっていたので300円を払って入ってみた。今年5月にオープンしたばかりのもので、巨大なトドの剥製は迫力があった。その他遺跡から出土した埋蔵文化財から昭和の家庭で使われていたミシンやテレビなど、最近の地方資料館のどこでも目にするような物品が展示されていた。その向かい側には港資料館がありこちらは無料、学校の教室ひとつ分もないくらいのところに香深港の変遷を示す写真などが展示されていたが、礼文島だけで15の港があり、いずれも立派な防波堤を持つ良く整備されたものだということを知らされた。北海道開発局稚内開発建設部の出張所のような建物の一部だったが、港湾には莫大な金が投入されていることの一端を見せられたような気がした。

 稚内への帰りのフェリーは2時間ほどの乗船だったがずっと後部甲板にいた。稚内に近づくと船はノシャップ岬の先端を中心に半円を描くようにして湾内に向かう。自衛隊のレーダーなどが見え国境であることを改めて思い知らされる。稚内港に着くと、その少し前にサハリンからの定期船が着いたようで、利尻礼文ターミナルの道を挟んだ対面にあるこれも真新しい国際ターミナルは到着客や出迎え人などで賑わっていた。10分ほど歩いてJR稚内駅のすぐ横のバスターミナルに行くと、ここにも10人近いロシア人が札幌に行く長距離バスを待っていた。

 今回の旅に先立ち吉村昭の「間宮林蔵」を読んだ。江戸時代末期、幕府により樺太探検訪を命じられた間宮は江戸に住む伊能忠敬がもっていたいくつかの測量具、なかでも精巧な羅針盤のひとつを是非欲しいと、人を介し貯えておいた5両で譲ってもらえるものがないか伊能に依頼した。それに対し伊能は2つ間宮に送った。当時普通の羅針盤は正確さに劣るものだったが、伊能のそれは真北を指すように調整されており、支点にメノウを埋め込み針が自由に動くだけでなく水平を保つという、非常に精巧なものだそうだ。いかに伊能が間宮の探検に期待をかけていたのかがわかる話だ。このくだりを読み感激し、なんとか宗谷岬に行き、間宮林蔵の像を見たかったのだが、それは叶わなかった。バスでは45分も要し、しかも4往復しかない。北方記念館にも行けなかったし、やはり北海道では公共交通と徒歩だけで主要な観光地を巡るのは無理があるようだ。次回家族で利尻礼文に来るときは観光バスでのツアーかレンタカーを借りることにしようと思う。

天北線代替バス

 旧国鉄天北線の代替バスで鬼志別まで行き、そこに泊まった。1967年夏天北線に乗って以来41年ぶりだ。同線は平成元年(1989年)に廃止されたが、今回は翌日にわたって音威子府まで、猿払村、浜頓別町、中頓別町の役場に寄るための途中下車をしながら旧線148.9キロに沿って乗り歩いた。バスはかなりの区間一目でそれとわかる廃線跡のすぐ横を走るが、道路はどこも大変よく整備されており、数キロ続く直線区間もあった。対向車もめったになく、そんなところをバスは時速50~60キロくらいでトロトロと走るので、運転手もガムを噛んだり水を飲んだりしながら眠気を抑えているという風だった。

 鬼志別、浜頓別、中頓別の駅跡はいずれもバスターミナルになり瀟洒な建物が建っていた。どこも内部には旧線の写真や模型、時刻表や運賃表などが展示してあった。これだけの長距離路線となると、全線通しのバスは現在1日3往復だけで、他は区間運転だが、例えば鬼志別では稚内方面に7本、廃止直前の列車と同数あった。稚内・音威子府間の通しのバスの所要時間は4時間10分前後、列車時代の急行「天北」は2時間40分、各停は3時間30分前後だった。他のローカルバス同様乗客は少なく、網走市郊外を走る最も多い区間でも10人も乗っていただろうか。私1人という区間も何度かあった。大半は地元の短区間利用で、札幌や旭川などに行くと思われる客はほとんどいなかったようで、長距離客は1日1往復の札幌への長距離バスを利用しているのかも知れない。

 なお鉄道時代、途中の小石・曲淵間の駅間距離17.7キロは当時の国鉄では最長といわれていたが、バス転換後もこの区間には途中バス停はなく、23分間無停車で570円、高速バスを除く通常の路線バスでは今でも全国一だと思う。尤も自由乗降区間なので途中どこでも乗り降りできるが、少なくとも途中に人が住んでいるような気配はなかった。自由乗降区間というのは途中、例えば1キロしか乗らなくても570円取られるのかなと思ったが、意地悪になるので運転手にはそんな質問はしなかった。新潮社の「日本鉄道旅行地図帳(今尾恵介監修)」は廃線の地図やデータが完備しており、これを見ながらの乗り歩きはなかなか楽しかった。

 41年前の写真を整理していたら、鬼志別駅で乗ってきた下り列車と上りの急行「天北」とが交換している写真が出てきた。その鬼志別駅跡のバスターミナル前の旅館に投宿、同じような駅前旅館風のものがかつては他にも2~3軒あったようだが、閉まっていたり朽ち果てていたりして営業しているのは1軒だけだった。

 ここ猿払村はホタテ貝の水揚げが日本一だそうだが、ここのものは籠に入れて海中に沈めるのではなく、海底に捲いて育てるそうで高級なものらしい。フランスなどにも輸出していると聞いた。2食つき6800円の旅館の夕食で出されたほたてのさしみとステーキもなかなか美味だった。海岸沿いには「ほたて御殿」と呼ばれている豪邸が並んでいるそうだが、翌日通ったバスからは目にすることはできなかった。村役場も新しく豪華なもので、「ほたて宮殿」とでも呼んだらいいのだろうか。

 浜頓別、中頓別も旧駅跡はバスターミナルとなっていた。浜頓別の方は同じ頃できたと思われる町役場とターミナルビルが並んでいてどちらも人口規模には不適切と思われる大きなものだった。中頓別もバスターミナルの建物は瀟洒で、駅前は小奇麗なロータリーがあり、道路はカラー舗装となっていたが、町の衰退ぶりには目を覆いたくなった。

 この町は明治末期に砂金が多く採れゴールドラッシュとなり、最盛時は1万6千人を超える採取人がいたそうで、人口も浜頓別町よりもずっと多かった。それが今では浜頓別町の半分以下の2500人を下回る。随分前に営業を止めた旅館や飲食店が無人のまま朽ち果てていて、道路だけがきれいなゴーストタウンという様相を呈していた。

 それでも、というかそのことを十分悟ったからなのか、つい最近新築されたと思われる町役場は平屋建ての、非常にこじんまりとしたもので、町長室も独立した部屋でなくオフィスの一角を書類棚か何かで囲ったコーナーのようなものだった。また専用の議会室などもなく、入口横の研修室のような多目的会議室を共用しているようで好感が持てた。この町では次のバスまで4時間近く待たなければならず、ここでも郷土資料館で時間をつぶしたりした。

完成しなかった工事線 美幸線と興浜線

 1967年当時は、美幸線と興部浜線が建設工事中だった。美幸線については宗谷本線の美深から仁宇布間までが部分開業したばかりで、この区間には乗車した。当時から営業係数が3千台という、赤字路線として全国的に有名で国鉄の中で1~2位を競っていた。それなのにさらに歌登から北見枝幸までを延長工事中で路盤はほぼ完成していた。80年施行の国鉄再建法により同線は特定地方交通線に指定され、85年には全線廃止されるともに工事も凍結された。また天北線の小頓別駅から歌登に通じていたナローの簡易軌道である歌登町営軌道も同線の建設に備えて70年に廃止されていた。

 その歌登へ行くのに音威子府から枝幸に行く都市間バスに乗った。音威子府には1999年912番目の訪問地として来ているので今回はバスの乗り継ぎのために立ち寄っただけだが、稚内で見て以来の鉄道駅で宗谷本線に再会した。都市間バスは旭川から2本、札幌から1本出ているがいずれも午後の便しかなく、現在宗谷本線沿線から歌登に行く方法はこれしかない。音威子府駅舎内にあるバス案内所で切符を買おうとしたら予約が必要だったそうで、係員がどこかに電話をして空席を確認した上で発券してくれた。しかしやって来たバスは10名も乗っておらず、予約など意味がないと思った。

 都市間バスは車両も観光バス仕様の豪華なもので代替バスよりはスピードを出して走っていた。小頓別までは同じ道を引き返したがそこから歌登に向かった。町営軌道の廃線跡を走っているのかも知れない。歌登町は06年3月に枝幸町と合併した。バスターミナルは旧役場に近く、かつての簡易軌道の駅跡ではないかと思うが確認する術がなかった。夏祭りの最中で、山車や子供神輿が繰り出しており、それを見ていたら紅白の餅が貰えた。平日だったが学校も今日だけは休みだそうで、町の全部の子供たちが出ていたのだと思うが、人口2千人少々で高齢化も進んでいると思われる町にしては意外に子供の数が多いように思えた。

 歌登と枝幸の間は、都市間バスの他にこの間だけを結ぶ路線バスが日に4.5往復あり、昔からこの両町の結びつきは強かったのだろう。未完となった美幸線の築堤やトンネルなどを見ながら枝幸に向かった。41年前、枝幸には興部から鉄道未成区間を走るバスで来た。茫洋としたオホーツク海岸を北上しながら走り、やっと枝幸の町が遠望できるところまで来たときに、大きな寺の屋根が見えた記憶が今でも残っている。そして今回も町に入る直前で、興部からの国道238号に合流したが、同じ大きな寺の屋根が見えた。枝幸町は合併前単独でも人口8千人近くあり、大型ショッピングセンターなどもある久々に大きな町に来たという感じがした。

 枝幸のバスターミナルもかつての興浜北線の北見枝幸駅跡でそれを示す石碑もあった。そしてここから41年前とは逆にオホーツク海岸を南下するバスで雄武に向かった。夕闇迫る中52キロ、1時間7分の乗車で、はじめのうちは下校生などで賑わっていたが10キロくらいで全員が下車してしまい、ここでも客は私1人になってしまった。雄武に着いたときはすっかり暗くなっていた。この間で宗谷支庁から網走支庁に変わり、多分生活圏は全く別でありこの区間を日常的に乗るような客などいない、たまに来る旅行客だけが乗るような路線なのかも知れない。

 雄武町のHPで探した旅館は町役場のすぐ隣だった。雄武のバスターミナルもこの役場の斜め向かい側で、道の駅にもなっており、ここも85年に廃止となった興浜南線雄武駅跡地だった。41年前の写真によると駅名は「おむ」となっている。道の駅は「おうむ」と書いてあったし正式な町名も「おうむ」である。他にもこんな例はたくさんあると思うが。

 翌日は朝からかなり激しい雨で、リュックには雨除カバーをつけた。興浜南線廃線跡をたどる紋別に本社のある北紋バスで興部に出る。ここもバスターミナルは旧駅跡で、名寄本線との分岐駅だったため貨物などのための広いヤードがあったのだろう、今は道の駅を兼ねた広い公園になっていた。駅舎跡に建てられたターミナルの横には2両のキハが留置してあり中に人がいる。一両はクロスシートにテーブルを置いた簡易休憩所になっており、もう一両はお座敷列車のようになっていてライダー風の男性が何人か寝泊している風だった。無料の簡易宿泊施設で観光協会に申し込むだけで使えるそうだが、寒冷な過疎地だからホームレスもおらず、だからこんな施設を作って運営しても問題にはならないのだろう。町役場へは歩いて片道10分以上あり、靴も水を含んで来た。

雨中の名寄本線廃線跡、そして札幌へ

 天北線と同時に、89年に廃止された名寄本線の廃線を辿り名寄まで行く。名寄に本社のある名士バスだった。なお興浜北線と南線の廃止はこれよりも4年早い85年だった。バスは国道239号線を西に向かって走るが、途中2~3度跨線橋で旧線を乗り越えることがあり、そのたびに線路跡が右になったり左になったりした。西興部で下車しバスターミナルのすぐ近くの町役場に行ったが雨が激しく、次のバスまでの2時間半あまりを待合室の中でじっと待つ以外になかった。

 天北峠という小さな峠を越え、オホーツク海に注ぐ興部川の流域から、日本海に注ぐ天塩川の支流、名寄川の流域になるとともに、上川支庁に入った。途中の下川町でも降りて役場に行きたかったが、それをすると夕方の札幌での飲み会に遅れてしまうのでここはスキップした。

 名寄に着いてから快速「なよろ」に乗るまでの30分の間に市役所に行った。旭川以北の中心都市であり市街地も広く、宗谷本線の中間拠点駅として駅舎も風格があった。ラッセル車も置いてあり、冬は雪も多いのだろう。旭川で特急「スーパーかむい」に乗換え札幌に向かった。旭川以北の未訪問地は下川の他風連、豊富、幌延の4のみとなり、数年後にまた来なければならないが、そのときは多分1で回れるだろう。止の後、札幌でのかつての仕事仲間との飲み会に向かった。

 最終日は札幌のかつての仕事仲間3人と、車で小樽から積丹半島に行った。小樽市や余市、古平、積丹の各町には以前バスで行っているので、今回は全くの観光だったが以前は行けなかった神威岬の先端まで歩いたり、ニッカのウイスキー工場の見学と試飲をしたり、鉄道の旧車両や歴史資料の多い小樽市の総合博物館鉄道博物館にも行けた。やはり北海道は車でないと観光を楽しむことはできない。

 札幌市内の大谷地まで送ってもらいバスで千歳空港へ、空港は観光客で大混雑の上、東京行きの便はほとんどが満席だった。中国や韓国の観光客も多く、今や北海道はアジアを代表する観光地と言っても良いだろう。今回は正味4日間で15市町村、公共交通の密度の低い広大な過疎地の役場めぐりだとこのくらいは仕方ないのかも知れない。あいにく天気に恵まれず、北海道ならではの風景は見えず、廃線跡を歩くようなことも出来なかったが、一応役場だけは予定通り行けたので「良し」とた。

 今年は諸々の事情で7月になってしまったが、やはり北海道は6月の方が良さそうだ。これで累計2541(78.0%)、残りは718となった。

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
(その1)総集編|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2020年1月31日
(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その5)新島と御蔵島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年7月1日
(その6)奄美諸島と座間味島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年4月1日
(その7)中国山地の山奥に行きいよいよ残りひとつに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年5月1日
(その8)小笠原で100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年9月16日
(その9)合併レースに追つけ追い越せ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その10)格安切符の上手な使い方 三重県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年3月20日
(その11)四国誕生月紀行|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年1月26日
(その12)歴史の宝庫は地理の宝庫(岡山県備中・美作地方)|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年5月31日
(その13)青春18きっぷで合併の進む上越地方へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年8月20日
(その14)公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年10月15日
(その15)熊本県の合併前後の市町村へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年11月7日
(その16)悪天候で予定通りには行かなかった大分県の市町村役場めぐり|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年12月19日
(その17)2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年3月8日
(その18)2006年青ヶ島訪問記|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年5月8日
(その19)2006年6月14日 一日でまわった東京23区|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月14日
(その20)2006年 道南から津軽・下北へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月26日
(その21)2006年11月西彼杵半島と島原半島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年11月20日
(その22)和歌山・三重|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年4月6日
(その23)トカラ列島と奄美群島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年5月10日
(その24)北海道東部の旅 |公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年6月12日
(その25)「大人の休日倶楽部会員パス」による秋田県北部の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年6月27日
(その26)能登・砺波の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年7月9日
(その27)路線バスを乗り継いだ大分県と福岡県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年12月5日
(その28)JR四国誕生日切符を使っての四国3県の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年1月19日
(その29)沖縄県宮古八重山地方|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年5月16日
(その30)北海道宗谷・網走・上川支庁|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年7月12日
(その31)広島県・愛媛県境の瀬戸内海の島々|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2008年8月6日
(その32)北九州から山陰本線に沿って石見銀山へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年5月13日
(その33)北海道渡島半島から後志にかけて|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年6月27日
(その34)佐賀県100達成・長崎県は残り1つに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年10月9日
(その35)石川県の100%を達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2009年11月7日
(その36)徳島・高知県に行き四国100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年1月28日
(その37)三重県の伊勢湾岸から奈良県の山岳地帯へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年4月2日
(その38)沖縄県久米島と渡名喜島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年4月24日
(その39)会津へ 思い込みと勘違い|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年5月20日
(その40)岩手県大船渡線と北上線|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年6月17日
(その41)北海道十勝から日高へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年7月6日
(その42)東京の3つの離島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年8月17日
(その43)2010年9月南部地方を行く|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年9月10日
(その44)隠岐からたたらの道へ 島根県100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2010年11月20日
(その45)岡山県を100%達成し兵庫県へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2011年4月15日
(その46)宗谷岬から南下 名寄で行政の神髄を知る|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 未公開