瀬戸内海には700以上の有人島があり、その中に市町村役場があるものも多い。今回は尾道から今治までの「しまなみ海道」周辺の島々に行くことにした。広島県と愛媛県との県境が複雑に絡み合うところだが、今回は陸上の市町村はすべて広島県、島のそれは愛媛県という面白い結果になった。また海外鉄道研究会での友人2人と魚島に泊まることになった。といっても同行したのは魚島だけで、その前後はいつもの通りの単独行動だった。
新幹線といい勝負 広島空港
マイレッジ航空券で初めての広島空港に降り立った。飛行中はずっと雲の上で、着陸寸前にやっと見えたのは谷底を走る山陽本線の貨物列車だった。まだかなり高度があると思っていたらすぐにテーブル状の台地が足下に現れ、それこそアッという間に着陸した。広島空港は8番まで搭乗ゲートがあり、4番は欠番だったので実際は7本だがターミナルビルもそれに見合う大型のもので、さすがに中四国の中心都市の空港だ。国際線も、たまたま多い時間帯だったようだが、9時から12時の間に上海、バンコク、台北、グァム、ソウルへの出発便が続いていた。すべてが外国のエアラインだった。
広島空港は山陽本線のすぐ南の台地上にあるので、トンネル別線を作りターミナルビル直下に駅を作る考えもあったようだが、かなりの高低差があり長大なエレベーターを作らなければならずペイしそうにない。また在来線の白市駅から分岐する新線建設構想もあったようだが、これも急勾配が必要で採算性から凍結になっているという。帰路は広島市内バスセンターからリムジンバスに乗ったが50分を要した。それほどアクセスの良い空港とは言えず、だから東京までは新幹線といい勝負なのだろう。
今回は山陽本線沿いの本郷町(2005年3月の合併で三原市の一部となった)から始めた。空港から本郷支所前を通り三原へ行くバスに乗った。バスは滑走路の下をトンネルでくぐり、かなりの急坂を下り沼田川沿いの道に出て、旧本郷町役場、現在は三原市本郷支所の裏手に停まった。
そしてJRで三原に向かった。駅にはICOCAというICカードの装置があったが、JR東日本のSUICAでも使用できた。本郷駅はローカルな駅だったが橋上駅舎をもつ大都市近郊型の駅にするための工事中で、このあたりは三原から福山にかけての都市群のベッドタウンになっているようだ。
海と山と戦の神の総本社 大山祇神社
三原港から高速船で大三島の井口港へ。途中生口島の瀬戸田に寄港、ここには5年前に来ている。50人近く乗っていた船客も大半がここで下船し、そのあと井口港まで行ったのは私を含めてわずか4人だった。狭い水道を挟んで広島県から愛媛県になり、井口港近くの今治市の一部となった旧上浦町役場(05年1月の合併で今治市の一部となり今は上浦支所)に行き、そしてバスで島を横断し宮浦港へ、島の西半分の旧大三島町に行った。
ここも今治市となり庁舎は宮浦港に接するように建っており、その手前1キロほどのところには大山祇(おおやまづみ)神社がある。そして港から神社正面まではバス道に並行して参道が続いていた。また港の桟橋は朱塗りの柱に宮殿状の屋根がついたもので大型船の着岸もできそうだ。かつてはここがメインの入口だったのだろうが、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)ができてからは車やバスの方がずっと便利になり、船便は今治からの高速船とフェリーが1日に5往復あるのみだ。
その参道を歩いて正面大鳥居の前の食堂で昼食をとり、境内を歩いた。鳥居の横には「大日本総鎮守府大山祇神社」と書かれた石碑や、「伊予国一宮」と書かれたものもあった。鬱蒼としたクスノキなど木立のなかの神殿は古くて大きなものではないが、昔は船でなければ来ることができなかったと思うとそれだけでも由緒があるように思えた。全国の山祇神社、三島神社の総本社、すなわち日本中の海と山を守る大神を祭っているそうだ。時間がなくて入らなかったが立派な海事博物館があり、昭和天皇の研究も展示されているという。海や山の守りとともに戦さの神として朝廷や武将から広く崇められていたようで、後述する村上水軍も戦勝祈願でこの社に参詣し、連歌の儀式なども行ったそうで、現在でも海上自衛隊の幹部などの参詣が続いているそうだ。
広くなった今治市 大三島、伯方島、大島
神社前のバス停から松山行きの特急バスに乗った。芸予諸島のなかの愛媛県側の島、大三島、伯方島、大島から今治に渡り松山市駅まで行くもので所要2時間22分、せとうちバスの運行するもので1日に3往復ある。この他に今治までの急行バスが約1時間に1本あり、こちらはここ宮浦に本社のある瀬戸内海交通の運行するもので今治駅前まで1時間少々で行く。バスは先ほど船で着いた井口を過ぎると間もなく大三島ICから西瀬戸自動車道に入った。有料道路ではあるが、いわゆる高速道路ではない高規格幹線道路で一部には歩道もある。川のような狭い海峡(鼻栗瀬戸)を伯方島に渡ると間もなく伯方島IC、バスはいったん自動車道から外に出て、伯方島バスセンターに停まりまた入る。そして今度はもう少し幅広の海峡を越え大島に渡った。
大島北ICから一般道路を走り後吉海庁舎前で下車した。今はここも今治市の支所だ。特急バスはこの先大島南ICから自動車道に入り来島海峡大橋を渡り四国に入るのだが、瀬戸内海交通の島内バスで逆戻りしてこの島のもう一つの庁舎、旧宮窪町役場に向かった。ここにある村上水軍博物館が、本日月曜日が休館であることに旅の直前に気が付いた。だから今日は先に岩城島に行き、旅館を予約している伯方島に泊まり、明日もう一度ここの博物館に来ることにした。旅程をゼロから組み直せばもっと良い行程ができたのかも知れないが、その余裕もなく小さな手直しで済ませた。
それには宮窪町役場から3キロくらい離れた友浦というところから高速船に乗らなければならないのだが、友浦に行くバスは2~3時間に1本と本数が少ない。バス営業所で聞くと相互に接続はしておらず、バスが遅れても船は定時に出港するとのこと。時間は十分あったので、友浦まで、明日行く博物館の前を通りながら急がずに歩いたが、猛暑で滝のような汗をかいた。
船は芸予観光フェリーという今治市の関わる三セクのもので、今治から大島、伯方島、岩城島などの上島諸島の島々に寄港しながら因島の土生へ行く。社名にあるフェリーの方は西瀬戸自動車道の全通や燃費高騰などによりほんの2か月前、今年の6月に廃止となり、今は高速船のみとなった。それでも1~2時間に1本程度は運行されている。49トン、定員80人ほどの船には30人近く乗っていて意外に多いなと思った。
友浦から伯方島の中心港木浦まで所定では15分、更に岩城まで12分となっていたが燃費を節約しようとしているのかエンジン音が心持低いように感じられ、所要時間もそれぞれ1~2分延びていた。岩城島は属島の赤穂根島、津波島を含め人口2200人ほどの岩城村を構成していたが、04年10月に上島諸島などの1町3村による合併で上島町の一部となった。面積約9キロ㎡、周囲30キロと東京12区中最小の台東区よりも狭く、全体がひとつの山のような島だが、船の着いた岩城地区が島一番の集落で旧役場、上島町岩城総合支所は港のすぐ近くにあった。レモン栽培が盛んなようである。
島には半時間ほどいただけで伯方島の木浦港に戻った。因島か本土方面からの通学や通勤客などでかなり船は混んでいた。木浦港の狭い湾内に入ると船着場をとり囲むように造船所が連なり、進水式を控えて紅白の幕を張り巡らせた数千トンはあろうかと思われる大型船などがところ狭ましと並んでいた。面積19.5平方キロは新宿区より少し広い程度で人口は約7300人、ここも一島で伯方町だったが05年1月に芸予諸島の他の島々と一緒に今治市と合併している。旧町役場は港から5~600メートル入ったところにあったが、「閉町記念碑」という立派な石碑が建っていた。予約しておいた旅館は庁舎のすぐ近くだった。
村上水軍の本城 能島
翌朝は高速船で大島の友浦港に戻り、10分少々とうまい具合に接続していたバスに乗り村上水軍博物館の前で降りた。大汗をかきながら歩いた道も5分もしない乗車だった。博物館は2004年10月にオープンしたばかりのまだ新しいもので、周防大島に住む能島村上家に代々伝わった資料や品々が多く展示してあった。また地図や年表などなかなか充実しており、私には特に安宅船、関船、小早船の同一縮尺模型が並んでいたのに興味があった。
ここに来る前に城山三郎の「秀吉と武吉」、白石一郎の「海狼伝」を読み直して来た。後者は架空の海洋冒険小説だが、村上武吉など実在の人物も出ている。両小説とも能島村上氏が本城とした能島及びその周辺の海域の風景が生き生きと描かれていた。その能島は博物館の屋上展望台からすぐ近くに見えが、島のすぐ近くまで行く潮流体験船もあった。
博物館前の船着場から出る50人乗りくらいの屋形船のような船がそれで、潮が一番良いと言われた10時半前に乗った。私の他は車で来たらしい10人前後の客がいたが、全員ライフジャケットを着けさせられた。北大東島の梯(はしけ)以来である。船は能島に接岸するくらいすぐ近くまで来た。能島と隣の有人島である鵜島との間の100メートルもない水道の潮の流れが特に早く、1メートルくらいの段差があった。水道を挟んだ両側の海面は潮の干満差により高さが異なるため、高い方から低い方へすさまじい勢いで海水が流れ込み潮流が発生するのだ。これでは小さな船など簡単に転覆しそうで、だからこれを越さなければ行けない能島城は正に天然の要害だ。それにしても、ここを根拠とする村上水軍は余程操船技術に長けていたのだろう。
能島は周囲800メートルほどで全島が城だったそうで、今は建物など何も残っておらずその面影はない。かつて船を係留した木杭の穴の跡などが残っているそうだが、400年も間に潮流に洗われてなかなか判別もむずかしいらしい。それでも最近になって発掘や保存のための活動も行われているそうだ。地図を見ると、芸予諸島は瀬戸内海の流れを止める堰のようにつらなりいくつかの狭いボトルネックがある。そこは複雑な潮の流れがあり他国の船はここを越えるのに難渋する。それらを相手に最初は海賊として、後には水軍となって、安全航行を保障するとして帆別銭(ほべちせん)、要は通行料を取っていた。それは積荷の1割だったというから大変な額である。尤もこのような地形と潮流の起きる場所に生まれて育ったならば、力のあるものは誰でも同じことを考えるのだろう。
潮流体験船は伯方島と大島の間に架かる伯方大島大橋の下をくぐるなどいろいろとサービスもしてくれ、1周40分ほどで博物館前に戻った。能島・来島・因島の三島村上氏の中で能島村上氏の村上武吉が最盛期の親分格で、三島の中では最も独立志向が高かった。毛利氏、なかでも三原に城を築いた元就三男の小早川隆景とは比較的近かったが、豊臣秀吉からの臣下になれとの再三の誘いには乗らなかった。だから晩年は秀吉に追われるように、能島から西日本各地を渡り歩き、最後は周防大島の東部、山口県の旧東和町和田の屋敷で79年の生涯を閉じた。1604年、江戸に幕府ができた翌年のことである。周防大島には私は昨年11月に行き、和田近くの旧東和町役場に行ったのだが、そのときは武吉のことなど何も知らなかったし気もつかなかった。
船乗場に面した「能島水軍」という名前の、これも三セクのレストランで食べた鯛の唐揚定食は1000円でなかなか旨かった。なお潮流体験船も1000円だったが博物館200円の入場券を持っていたので100円引きだった。
村上水軍が使用した船
- 阿武船(あたけぶね)
- 船首から船尾まで総矢倉として、厚い板で装甲された船。装甲には、矢や鉄砲を撃つための隙間がある。指揮官が乗った船。
- 関船(せきぶね)
- 早船ともいう。とがった船首とスマートな船体をした船。板などで装甲するのと同時に軽量化も図られていて、軽快な動きができる。
- 小早(こはやぶね)
- 小型の早船(関船)のこと。ほとんど装甲していないので、関船よりさらに軽快な動きができる。
広島県と愛媛県との不思議な県境 上島諸島
ふたたび友浦港へ、やはり適当なバスがなく又大汗をかきながらの歩きとなった。友浦からは例の高速船で弓削島を過ぎ先に生名島に行き、弓削島に戻るという、ここでも稲妻方式を採った。狭い海域に因島、弓削島、生名島、佐島がひしめき合い、これらは上島諸島と呼ばれているのだが、特に因島と生名島の間の最狭部は300メートルくらいと川のようだ。このあたりは日立造船を中心とした大小の造船所があり、島間の業務や通勤での交流が多くフェリーや高速船が頻繁に行き交っている。しかし広島県に属する因島以外の島々は、愛媛県に属する。
地図で見た本土との距離や島々の連なり具合からすると、上島諸島だけでなく芸予諸島もすべて広島県に入っている方が自然のように思えるが、なぜ愛媛県なのか不思議な気がする。かつての備後や安芸、伊予との境が決まったのは遠く律令時代のことだろうが、なぜそうなったのか、或いはその後変遷があったのかなかったのか、いつか調べてみたい。同じ愛媛県内だからなのか、弓削島と佐島の間は架橋され、さらに佐島と生名島間は工事が進んでいたが、県を跨る因島との橋はまだ着工されていないようだった。
生名島には15分いただけで、埠頭から5分くらいの旧生名村役場、現在は上島町生名総合支所の写真を撮っただけで弓削島に戻った。わずか5分の乗船で弓削港、新しい上島町の町役場となった旧弓削町役場が港に向かって堂々と建っていた。「上島架橋の早期実現を」という垂れ幕の掛ったこの庁舎の、正面中央の入口に対し左端には町民プラザという誰でも入れる休憩所のような一角があった。面白いのはその町民プラザと正面入口との間に「ととや」という名前の寿司居酒屋があった。食堂が併設された例はあるが、居酒屋の同居というのは初めて見た。昼間なので「準備中」の札が掛っていたが、町営か三セクの居酒屋なのだろうか。
弓削は上島町の中心で港の待合室も広く各方面への乗船客が大勢待っている。すぐ前にはショッピングセンターもあり、食料品や生活物資を買って他の島に帰る人もいたし、伯方島から弓削商船高専の見学に来た男女の中学生約20人が先生に引率されていた。
この商船高専は全国に5校ある国立の商船高専の1つで練習船も係留されていた。同校のHPによると総合教育科、商船学科、電子機械工学科、情報工学科などがあり学生数は5年制で各学年110人程度、近隣からだけでなく全国から集まっているので寮もある。日経ビジネスの今年8月18日号は大学工学部の地盤沈下を特集していたが、その中で英才教育の成功例として当高専が紹介されていた。マイコン研究部のレベルが非常に高く、全国の高専プログラミングコンテストでは毎年のように優勝者を出しており、マイクロソフトも注目しソフト教育の支援に乗り出したとのことである。
離島にこのような学校があるということは地域力として大変望ましいことだ。なお商船高専はこの他周防大島、大崎上島、鳥羽、富山にあるそうで、大崎上島のものは5年前に現地で正門前を歩いたことがある。
魚島へ
いよいよ魚島へ行く。T氏、Y氏とは弓削の桟橋で待ち合わせることになっていた。魚島へ行く船は、因島の土生港から来るので、これに乗っているはずだ。遠くの方からやって来る小さな船の上甲板を忙しそうに動き回わる人影がその2人だった。船は弓削で7分間停船、その間に今治からの高速船が埠頭の反対側に着き10人くらいがこの魚島行きに乗り換えてきた。お盆の帰省客らしい。この船はフェリーではなく貨客船だ。しかし沖縄の南北大東島に行くようなクレーンを持った本格的なものではなく、エンジン室を挟んで前方が客室、後方が荷物室という、かつて半室荷物室という客車や電車があったが、それを思いださせるような船だった。
弓削出港後20分ほどで豊島、さらに15分少々で高井神島、さらに15分で魚島に着いた。合併で上島町の一部となった旧魚島村は3つの有人島と2つの無人島からなる。新しい上島町の他の2村が旧弓削町とともに、まるでパズルのピースを集めたように密集しているのに比べ、これらの島々はそれらから置き忘れられたように離れて点在している。まず豊島の港に近づいたが埠頭には1人の男性が居り何やら船と合図を交わしていたが、船は着岸せずにパスした。魚島の総合支所で聞いた話ではこの島の定住者は1人とのこと。しかし自然を楽しむためか鉄筋コンクリート建ての学校のような宿泊施設や別荘風の住宅が数戸建っていた。
次の高井神島は人口49人、数名の客が下船、弓削のスーパーで買物をしていた老人も降りて行った。入江の狭い斜面に家が密集しており、まだ新しそうな集合住宅も見える。戸数からみれば2~300人は住んでいてもおかしくないので、ここも相当な過疎と言える。集落の最上段には赤い屋根の木造平屋風の学校と思しき建物が見えたが、この島の学校は現在は生徒がいなくて休校中とのことだった。自動車というものがなく、埠頭から降ろしたいくつかの段ボール箱の荷物は、島の老人達がオフィスにある台車のような手押し車でいずこかへ運んで行った。
なお豊島と高井神島の間は瀬戸内海の本船航路で大型タンカーなどがひっきりなしに航行していた。魚島行きの船も、その間を横切るのだが、まるで東京湾入口の久里浜・金谷間フェリーのようだった。同一町内に国際航路が横切っているというのは、全国的に珍しいことだそうだ。
さて魚島である。船上から見た感じでは高層ビルが立ち並び都会風だ。総合支所の同居する5階建の開発センターや漁協の建物の他、4~5階建のマンションのような共同住宅も数棟あり、地方ではどこでも目にする老人ホームの洒落た建物もあった。総合支所の隣が郵便局で、その隣がYさんに予約をお願いした魚島観光センターだ。3階建のビルで1階は食堂兼居酒屋、2~3階が会議室や宿泊部屋で我々の部屋は3階の一番広い、12畳くらいの和室だった。
離島にある日本の先端技術
食事までの間町中を歩いてみた。港に面した通り以外は人がやっと1人が通れるような路地裏の道といった風で、食料品を中心にしていた島唯一の商店もこの狭い路地に向かって店を開いていた。集落のはずれに海水淡水化プラントがあった。丁度メインテナンスか何かで敷地の入口が開いており中に人がいたので断って中を見せてもらった。逆浸透圧方式というもので説明パネルがあった。1日に55トンの水を産出するもので、総合支所の説明では150人ほどの島民の飲料水及び生活用水のほとんどをこれで賄っており、夏季など不足したときは三原市から買水をしているとのことだった。このために取水する原水(海水)は146トンとあったから3倍弱の海水から淡水を作るらしい。施工は新日本製鉄とあった。
海水の淡水化には海水を蒸留する方法と逆浸透法があり、前者は熱効率が大変悪く多量のエネルギーが必要で精油所や火力発電所に併設される場合くらいしか日本にはないそうだが、中東のオイル産出国には大規模なものが多いという。これに対してここで使用している逆浸透法はエネルギー効率に優れているが、浸透膜の保守整備にコストがかかるそうだ。
逆浸透法というのは、非常に簡単に言ってしまえば、水の分子は通すがナトリウムなどその他の分子やイオンは通さない逆浸透膜を使い、海水の方に圧力をかけて水だけを膜から通す方法だ。なぜ逆浸透というのかは、通常時はこの膜で塩類濃度の高い水と通常の水を仕切ると、浸透圧の差で濃度の低い方から高い方へ水が抜け、それを浸透と言うのだが、逆に濃度の高い側に外から浸透圧以上の圧力をかけると、水分子だけが濃度低い方に移る、だから逆と呼ぶそうだ。この圧力を加えるためには電気モーターを使うが、そのエネルギーは蒸留方に比べればはるかに少ない。この逆浸透膜とプラント建設については日本の技術が世界をリードしているそうだ。
現在国内で最大のものは福岡市水道局の5万トン/日で、これは学校の25メートルプール200個分とのこと、また海外にはイスラエルに日産33万トンというのがあるそうだ。海水には約3.5%塩分が含まれており、飲用水とするためには少なくとも0.01%以下に落す必要があるそうで、たったこれだけのために大型のプラントやエネルギーが必要となる。今後世界的な人口増加を控えて、これはわが国にとって大きなビジネスチャンスに違いない。だからこの島の子供達には、地理も理科もしっかり勉強して、このことを誇ってほしい。
そう思ったので学校にも行ってみた。かなり急な石段を登った先にあり、小中学校併設のもので鉄筋2~3階建の校舎とバスケットボールも2面くらいできそうな大きな体育館があった。住民の話では今は中学生が全校で1名、小学生が4名ということだ。夏休中だが玄関が開いておりロビーに入ると歴代の中学校卒業式の写真が貼ってあった。昭和30年前後は2~30人の生徒が写っていたが最近のものは生徒1人を先生8~9人が囲んでいるものばかり、ひとつひとつに詳細な説明があり校長、教頭先生の他必ず外人の先生も写っていた。平成19年、17年、16年とあったが、18年は卒業生はいなかったのだろう。子供達にこの島にある海水淡水化プラントが世界に通用するわが国の先端技術であることを教えているだろうか。
東広島から広島へ
3人で囲んだ夕食に出た名物の鯛ソーメンは実に美味で、酒もおおいに進んだ。翌朝は二人には失礼して朝一番の7時の船で因島の土生港に向かった。全国離島郵便局めぐりを行っているYさんは郵便局の開く9時過ぎまでいなければならないからだ。
土生港まで50分、高速船に乗換え40分で尾道に着く。尾道港は道路を挟んだJR駅の対面にあり、港関連施設の入ったウオーターフロントビルの階からは歩道橋で駅まで行けた。三原駅と港の関係よりも近かった。そして山陽本線の電車で広島方面に、途中糸崎で乗換え河内駅まで乗った。ここからバスで05年の合併で東広島市の一部となった旧河内町の町役場、更にバスを乗り継いで沼田川の上流にある、これも東広島市となった福富、豊栄に行き、東広島市役所のある西条に出た。いずれの庁舎も最近建った大きくてデザインの凝ったものばかりだった。もちろん合併など思っていなかったのだろう、広い議会場や議長室などは今後何に転用するのだろうか。
旧福富町の手前ではかなり大規模なダムがあり付け替えられた快適な道路を走った。水がないのでバス運転手に聞くと完成は来年とのこと。福富庁舎もダム工事のために移転したのだろう、完成後の新しい湖を望めそうな高台にあるスマートな建物だった。
西条にある東広島市役所に行った後はJRバスでその南隣にある、これも合併で東広島市になった旧黒瀬町役場まで往復し、西条から広島まで山陽本線の電車に乗った。座席が埋まるくらいの乗車だったので、運転席の後ろに立ち鉄道ファンの間では「セノハチ」と呼ばれる景色を見た。連続22.6パーミルの勾配ですれ違ったコンテナ列車をピンクに塗った補機が押していた。
今日は8月6日、原爆記念日である。原爆ドームまで広島電鉄の低床車グリーンムーバに乗った。停車毎に大勢の乗降があり、この都市ではトラムがすっかり定着していることがわかった。5連車体に車掌が乗務していたが、そろそろ信用乗車方式に切り替えられないだろうか、或いは香港のトラムのような全面ICカード方式はどうだろうか、そうすればすべての扉から乗降できる、それが必要と思われるくらいの盛況だった。
夕方だったが原爆記念日に広島に来たのははじめてだった。原爆ドーム近くは夜の灯篭流しに向けて大勢の人が集まり、原爆死没者慰霊碑も参拝の長い列があった。そして外人の姿が多いのにも驚いた。世界のヒロシマである。慰霊碑の周囲には各国の大使館をはじめとするたくさんの花束があった。『安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬ』という碑文は何度見てもこみ上げて来るものがある。原子力発電など平和利用は大いに進めてほしいと思うが、核兵器は絶対に許せない。いつか衛星か何かで、世界中の核兵器を見つけることができ、それを無能力化するという技術が開発されないものかと思うのである。わが国の先端技術として。
近くの広島市民球場は新しい球場ができるため今年が最後とか。球場に隣接するバスセンターからリムジンバスで空港へ行き最終便で羽田に戻った。今回は広島、愛媛県の15市町村をまわり累計2556とした。瀬戸内海島嶼部の市町村は今治市となった関前村と香川県の直島を残すのみとなった。