山陰地方については、既に鳥取県は4年前に全市町村完了しており、島根県は松江市、出雲市、大田市、江津市及びその周辺の町村には行っているがまだ半分以上残っている。また山口県については山陰線の沿線がまだ多く残っている。今回は西から順にこれらの市町村に行くことにした。そして今回のスタート地点は北九州空港とした。北九州便を運行するスターフライヤーは全日空とコードシェアしておりマイレージの無料航空券が使えるだけでなく、東京からの早朝便もあり効率が良い。さらに空港から行橋駅に行くバスが、未訪問の福岡県苅田町役場前に停車することも知ったからである。
羽田ではJAL系主体の第一ターミナル南ウィングの一番奥に、スターフライヤー専用のチェックインカウンターやセキュリティチェック、搭乗口があった。
[北九州空港から下関へ]
羽田7時35分発の朝一便は北九州を5時30分に出発した上り便の折り返しだ。24時間開港している北九州空港のメリットを生かし、また通常運賃14,500円という低料金で早朝深夜の客を掴もうとしているようだ。しかし座席数166のエアバスA320で乗客は50人くらいだったので、どの程度定着しているのだろうか。好天で離陸後ほぼ全区間地上を見ることができ、岡山空港を右下に見て間もなく降下開始、着陸地を変えたのではと勘違いするくらい山口宇部空港を間近に見て新北九州空港に南から進入した。
この空港は2006年3月に開港し、私は翌07年12月に大分福岡からの帰路に利用しているので初めてではない。しかし前回は夜だったので、周囲の光景も含め今回初めて見るようなものだ。本土から約2キロの連絡橋で結ばれたおよそ4キロ×1キロの人工島に作られた空港は北半分が北九州市小倉区、南半分が苅田町だ。島には空港関係の施設の他は東横インが1軒あるのみで、これは早朝深夜便客をあてにしたものだろうか。
小倉市街、下関駅、折尾駅、行橋駅への4方面へ、1列に並んでいた4代のバスが同時刻に続々と発車する。行橋駅行きは連絡橋を渡るとトヨタ苅田工場前、苅田駅前、苅田町役場前に停車する。空港から約20分、町役場前で下車し今回福岡県内ただひとつの役場写真を撮り10分ほど歩いて苅田駅へ、小倉行きの電車に乗った。この時点でも朝の10時過ぎだった。
周囲は首都圏周辺の工場や住宅地の混在する、強いて言えば南武線沿線の光景に似ている。そして乗った小倉行き電車も、乗客の姿恰好や混み具合などからなんとなく南武線の雰囲気を感じた。
[山陰本線の最西端区間]
小倉からは下関行きの電車に乗り換え本州に戻り山陰本線に乗った。2連のキハ47は加速性能も低く一世代前の車両という感じでのんびりと郊外住宅地を走った。川棚温泉駅で下車、05年に下関市と合併し支所となった旧豊浦町役場は駅から2~3分だった。すぐ近くに大型ショッピングセンターがあり、フードコートでうどんを食べた。
後続のキハで1駅、小串で列車を乗り継いだ。小串までが下関の近郊区間という位置づけのようで、大半の列車は小串止まりだ。そして2~3本に1本の割で、ここを始発とする長門市方面に行く列車に接続しているがそれらはほとんどが単行だ。客も数人と少なく山陰本線の最閑散区間とも言えようか、特急などの優等列車もない。
滝部駅で下車、豊浦と同時に下関と合併した旧豊北町役場は徒歩15分くらいだった。この町には1.8キロの海上橋によって繋っている角島という離島があり、駅前からバスも出ていた。ブルーライン交通というサンデン交通の子会社でここ豊北に本社があり、山口県北西部の路線バスを手広く走らせている。
滝部駅で次の列車を待っていると、下関方面に行くやたらに彩色を施した2連のキハが来た。週末や祭日に新下関と仙崎の間に運行されている「みすゞ潮彩」という名の快速列車で、うち1両は指定席車、座席が海側を向いており、売店があり供食サービスもあるイベント車両だった。
この先は合併で長門市の一部となった旧油谷町、旧日置町へ行ったのだが、列車は2時間に1本程度と少なく、両町間は5キロほどだったので線路に沿った道を歩いた。閑散区間ではよく使う手である。路線バスも走っていたが、これも1日に3本しかなく使えなかった。
旧日置町の長門古市から乗った列車からは青海島が良えた。砂洲によって繋がっている函館山のような陸繋島だと思っていたら、250メートルの青海島大橋によって結ばれている離島であることを知った。周囲40キロもあり海上アルプスと呼ばれている絶壁などもあるという。時間があれば渡ってみたい島だ。一駅だけの支線、仙崎線の終点仙崎までは旧国鉄全線走破をしようとチャレンジしていた頃に乗っており、入場券や写真は今でも持っていると思う。全線走破の方は、95%くらいのところまで行ったが、それがブームになり誰でもやるようになったこと、鉄道路線の廃止が相次ぎ目標値がどんどん減ってしまいゲームとしての面白さが失せてしまったことなどからいつのまにかやる気をなくし、そのかわりに役場めぐりをはじめたのも動機のひとつだつた。
さらに萩へ向かうが、列車本数は少なく、途中の旧三隅町(現長門市)へはバス、そこから東萩までは列車にした。このあたりは山陰本線のなかでも超閑散区間なのだろう。キハ120型という全長16メートル両運転台の小型気動車だった。長門三隅から乗車したのは19時15分だったが、さすがに西日本のこの季節、まだ明るかった。東萩では駅舎すぐ横の、まるで駅ビルの一部のようなホテルに泊まった。
[萩から益田へ]
萩には96年12月、年末休暇に初の山口県内市町村巡りで来ている。そのときは市の中心部に泊まり12月30日のまだ明けやらぬ早朝、市役所の写真を撮っている。641番目だった。また2004年11月には家族旅行で来て市内観光をしている。だから3度目の今回は単なる行程上の宿泊地とした。翌朝は無料で出してもらえる朝食も待たずに、6時21分発のキハ210で奈古に向かった。
萩市は05年に周辺の2町4村と合併したが、奈古を中心とする阿武町だけは合併に加わらなかった。その先の須佐町や田万川町は萩市になったので、阿武町は日本海側を除き周囲はすべて萩市に囲まれることになった。合併はしていないが消防は萩に委託し、警察も萩警察署の管轄になっているという。なお阿武町は2663番目の訪問であり、合併前の萩市は641番目、この間の13年の間に2000カ所以上行っていた、ということになる。
次の須佐まではバス、そして列車で江崎、そしてまたバスと言う具合に交互に乗り継ぎながら列車本数の少なさをカバーしながら先に進んだ。奈古・須佐間を乗ったバスは萩から萩石見空港へ行く1日に3本のうちのひとつに乗った。04年の家族旅行時にはこのバスの夕方の便で萩から空港まで乗り、石見空港から東京まで帰った。今回のバスも東京便に接続するもので、2人の客が乗っていた。
[特急バス広益線]
益田に着いたのが9時38分、この間に3町まわることが出来、さらに次の六日市に向かうバスの出る10時までの間に益田市役所にも行けたので恐ろしいほど効率が良かった。高津川上流の柿木、六日市へは広島と結ぶ石見交通の特急バス広益線でしか行けない。2~3時間に1本なので柿木、六日市のいずれかで最低2時間は次のバスを待たなければならない。その覚悟で調べると、まず遠方の六日市に行き、帰りは柿木で降り2時間待つという組み合わせが時間的にベストだということがわかった。益田駅バス待合室で六日市まで1880円の切符を買い、観光バス仕様のバスに長距離旅行風の10人くらいの客と乗った。
旧匹見町への道と分岐する匹見口までの15分は明日また同じ道を走ることになる。並行する山口線とは日原で分かれ、高津川の谷を奥に進む。途中の停留場に停まったときに目にした時刻表に、このバスの30分後に六日市まで行く六日市交通というバスあった。1日に3本だけ走っているうちの1本だが、途中柿木で降りこれに乗れば2時間早くまわれるので、六日市まで買っていた切符の前途をキャンセルし柿木で下車した。山奥だが益田と岩国を結ぶ国道187号線は結構トラックなどの往来も多く、柿木村役場近くには道の駅もあった。柿木は隣の六日市と05年合併し吉賀町となったが、小さな町村同士の合併だったので人口もわずか6800人だ。
六日市交通は合併後の吉賀町のコミュニティバスのようなもので、それぞれ本数は少ないが町内の各方面への路線がある。また錦川鉄道の錦町まで行く岩国市生活交通バスというのもあり、こちらは朝夕2便のほか、月水土は昼間にさらに5便走る。六日市は近くを中国自動車道が走っておりICもあり、広益線もここから高速道路に入る。市街地を形成しており、役場近くには飲食店も何軒かあり昼食には困らなかった。
[津和野へ]
約1時間後の益田行き特急バスに乗り日原で降りた。日原町は津和野町と合併し、町名は津和野になったが町役場本庁は日原になった。しかし古くて狭い庁舎だ。この庁舎を含む市街地のあるところが高津川と支流津和野川の合流点で、柿木と六日市が本流側にあるのに対し、山口線は支流の津和野川に沿って進む。日原駅はこの支流を2キロ近く遡ったところの町はずれにあった。日原から津和野までは山口線に乗った。2駅、10分だった。
山口線も列車本数が少なく益田に戻る列車は2時間後だが、それに乗り途中の石見横田降り、バスに乗換えれば今日中に匹見町まで行けることがわかった。益田から往復すると3時間以上要するが、匹見に泊まり明朝1番のバスで益田に戻ればかなり行程が早まる。匹見で泊まれるかどうか、益田市の支所となった旧町役場に電話をすると旅館を紹介してくれた。三セクの温泉施設もあるのだが本日月曜日は休館、旅館の方も月曜はもともと休業で料理は十分出せないがそれでもいいか、安くしておくからというのでもちろんOKした。予約しておいた益田のビジネスホテルにはキャンセルの電話を入れた。
津和野駅前にあったレンタサイクル店で2時間500円で自転車を借り町役場に行きがてら観光をした。
駅から1キロくらい離れた旧町役場は現在津和野町役場津和野庁舎となっていたが武家屋敷風の建物だった。白壁に家老門があり、木造平屋建て瓦屋根の庁舎があり、観光コースのひとつにもなっているようで団体の観光客が次々と出入りしていた。ツアー客のガイドの声が聞こえ、それによると、この家老門はかつて津和野藩の家老だった大岡家の門を移築、全国の市町村役場で家老門があるのはここだけだと言っていた。私も門のあった役場はいくつか記憶にあるが家老門は初めてのような気がする。姉妹都市であるベルリン市中央区の方向を示すポールも建っていた。周辺はガイドブックなどで良く見る鯉の泳ぐ水路の続く街並みだった。
津和野は鎌倉時代からの城下町で、大内系、陶系、毛利系と何度か城主が変わったが、江戸時代になってからは鳥取県鹿野城主だった亀井氏が藩主となり4万3千石の津和野藩が幕末まで続いた。代々の藩主が改革や人材育成に熱心だったのが西周や森鴎外など明治日本を代表する賢人を輩出したのだろう。かなり郊外の、駅から4キロくらい離れたところにある森鴎外生家と記念館へも自転車だったので楽に行けた。生家には団体観光客がバスで次々と訪れていたが、記念館の方は閑散としていた。鴎外が津和野に暮らしていたのは僅か10歳までのことで、以来一度も津和野に来たことはなかったそうだが、鴎外の生涯について多くの年表や写真、展示物などがあった。
2003年11月ベルリンに行ったときにフリードリッヒ・シュトラッセ駅近くの鷗外記念館に行ったが休館で入れなかった。鷗外がドイツ留学時に下宿していた家だ。その建物は高架線のすぐ横にあり、カーブをしているガード下の風景はどことなく神田から万世橋のそれに似ていた。そのときに往きの飛行機で「舞姫」、「安部一族」、「堺事件」など鷗外の作品を初めて読んだが、随分読みやすい、解りやすいもので、鴎外の世界に触れることができた。
西周の生家も近くにあるというので途中で出会った警官に道を聞いたら「ニシアマネ? それって何ですか?」と言われた。若いお巡りさんだった。
[バスと運転手の泊所 旧匹見町]
津和野から乗った石見益田行キハを石見横田で降り、匹見口というバス停まで約1キロ歩いた。支流匹見川の合流点で益田まで10キロほど手前なので、この間を2往復しなくて済んだ。バスは1日5本のうちの最終便で、匹見川に沿う狭くて急カーブの続く道をひたすら走る。他に客はなく利用するのはほとんど小学生と高校生だけとのこと。夕方の2便は匹見に停泊し、運転手も車庫内の宿泊所に泊まる。最近はバスだけを残し運転手はマイカーで帰宅し、翌日また出勤するというのが多いが、ここではまだ泊り勤務が続いている。石見交通では5路線で行っているそうだ。
匹見口から1時間乗車し、かなり山奥に来たという感じがした。役場の近くにたいそう古い旅館があり、バスの車庫もすぐ近くにあった。翌朝6時30分発で益田に戻ったが途中のバス停で高校生と小学生をひとりふたりと拾い、小学生は11人となり匹見口のひとつ手前の小学校前で下車したが、女子ばかり5人の高校生は、私が益田駅前で降りた後もさらに乗り続けていた。他の一般客は私を含め5人だった。中学生は自転車通学が許されているが、雨が降るとバスを利用するという。途中1ヶ所、バイパスとなる長さ1キロ以上のトンネルが間もなく完成する。そうなるとバスもトンネルを通るのだが、廃止される旧道沿いに小さな集落があり2人の小学生がいる。この2人のために、バスはいったん旧道を集落まで走り、戻ってからトンネルに入るとのことだ。
[島根県西部の中心都市浜田へ]
益田に戻ってからは片道20分ほどの益田市の支所となった旧美都町役場へ往復した後、三保三隅まで列車に乗った。2両一組のキハ126系で、これは2001年米子・益田間山陰本線高速化工事完成とともに新造されたものだ。全体にシンプルな造りで、特別料金不要の快速や普通列車用として経済性を重視し豪華さを排したものだが、なかなか快適な走りだった。特に中国電力の三隅発電所建設に伴い新設されたトンネル別線を走ったときはロングレールの直線区間で快適だった。この発電所は石炭火力のタービン1台で出力100万KWという日本一の規模のものだそうだ。
三保三隅駅から三隅町の役場がある中心部までは2.7キロあり国道9号線を歩いた。一昨日は山口県三隅町、今日は島根県三隅町と今回はふたつの三隅町に行った。一昨日も長門三隅駅から2キロくらいあった。両町とも合併し山口県の方は長門市の、島根県の方は浜田市の一部になっている。列車ダイヤの関係でここからはバスで浜田に向かい、40分弱の浜田市役所前で下車した。浜田市街は駅と港の間に細長く広がり、市役所も駅から1キロ以上はなれているので、そこにバス停があることは助かった。さらに次に向かう弥栄村へのバスもここを通り、しかも20分後に来る、実に良いタイミングだった。島根県西部の拠点都市だからなのか、市役所も益田や大田に比べると一段と大きな、堂々としたものだった。
弥栄村は05年前述の三隅町、旭町、金城町とともに浜田市と合併した。旧弥栄村は浜田市街の真南20キロくらいのところにあり、バスは日に6往復ある。このうち4往復は比較的市街地の、人家の多い、よく整備された道路を走るのだが、乗った便はそれとは違うほとんど人家のない、山道ばかりを行くものだった。浜田市街の南端は小高い台地になっていて、そこからはずっと森の中、バス1台がやっと通れるだけの狭い曲がりくねった道が続く。対向車も滅多にこない。客も私だけだったのでずっと運転手と話が続いた。弥栄へは4便のバス道の方が走りやすく早く行けるので大半の車はそちらを通る。今走っている道は、途中100軒もない民家の住民のために走っているそうだが、その人たちもほとんど利用しないらしい。
終点弥栄支所前バス停は庁舎の一角だった。運転手から教わった近くの農協スーパーでパンを買い、運転手とベンチで話しをしながら40分過ごし、復路のバスに乗った。またも最後まで他の客はなかった。浜田駅前のホテルにチェックインしてリュックを置いた後、明日行く予定だった旧旭町に今日中に行って戻れることがわかり、広島行きの特急バスに乗った。浜田自動車道を通り、旭インターのバス停で降り1.5キロ歩いて庁舎前に行き、一般道を通るバスで戻った。この旧旭町は、地域活性化のために刑務所を誘致し、それにより人口減が止まったと聞いた。
翌朝は浜田と合併した残りひとつの旧金城町に往復した。行きは1日1本の広島行き急行で、金城の後は広島県の芸北町、大朝などを通る。芸北町にはまだ行っていないが、行くときはこのバスを利用することになるのだろうか。
[石見銀山へ]
浜田から出雲市までの間残っていたのは旧仁摩町だけだったので快速アクアライナーで仁万へ、昨日と同じキハ126系の快速運転だったので快適だった。当初の予定では仁万に着くのは13時50分だったのが、2日目の柿木・六日町あたりから計画を前倒ししてきたので9時18分着、4時間半も早まった。そのため今回は予定していなかった旧宍道町や旧玉湯町にも行けるのだが、せっかく石見銀山の近くまで来たのだから、ここは役場めぐりよりも銀山を優先させることにした。
仁万からのバスはしばらくなく、2千円弱で行けるとのことだったので迷わずタクシーにした。そしてその途中、駅から徒歩10分もなさそうな旧仁摩町役場、今は大田市役所仁摩支所前でタクシーを停めてもらい写真を写した。タクシーでの役場訪問は本来はルール違反だが、石見銀山に行かなければ時間的にも十分徒歩で往復できるので、この場合は可とした。
これも世界遺産効果だと運転手が話してくれた新トンネルを抜けると大森地区入口で代官所の前、ここで電動アシスト付き自転車を借りた。2時間で700円、普通車は500円だったから津和野と同じだ。
緩い勾配の古い商家や民家が続く町並地区が約800メートル、その先銀山地区が2キロ強続く。ここに間歩(まぶ)と呼ばれる坑道の跡や精錬所だった吹屋跡などが点在しており、最奥にある龍源寺間歩の273メートルは一般公開しており坑道内を歩くことができた。2007年7月ユネスコの世界遺産に正式登録されたこともあり平日ながらかなり多くの訪問客で賑わっていた。周辺は深い緑の広葉樹林に覆われていた。銀山だけでなく出雲のタタラ製鉄などでも夥しい量の薪炭が必要で、この地で古くからそれらの産業が発達したのは、単に鉱山や砂鉄があったというだけでなく、森林資源や水などそれに必要なあらゆる条件が備わっていたからだろう。一説によると石見では当時から森林管理も適切に行われていたとのことだ。
一帯はマイカー乗り入れができず、数キロ離れた大駐車場との間はシャトルバスが走っていた。そしてこの大駐車場のところに昨年10月オープンしたばかりの石見銀山世界遺産センターがあった。旧代官所を大きくしたような木造平屋の建物が何棟か軒を並べており、銀山遺跡の全体像や歴史、当時のヨーロッパとの関係などを映像や模型などで知ることができる。車で来た人などはまずこのセンターを見てから現地に行くとよりわかり易いと思う。面白かったのはエントランスにある全体の模型で、世界遺産の対象が銀山跡や鉱山町だけでなく、銀や鉱石を積み出した2つの港や、そこと銀山とを結ぶ街道まで含まれていることが良くわかった。
石見銀山は、ヨーロッパ人が最初に日本という国を知るきっかけとなった場所だそうだ。16世紀ヨーロッパで作られた地図にもこの銀山の記載がある。当時日本の銀産出量は世界全体の3分の1くらいで、その中でも石見のものは特に良質で、取引の決裁手段として世界中で流通していたそうだ。戦国時代大内氏が開発した銀山は、その後何度かの争いで尼子氏、毛利氏のものとなり、やがて関ヶ原合戦で勝利した徳川家のものとなった。
家康はこの地を幕府直轄領(天領)とし、もと武田家臣で土木事業や鉱山開発で手腕を発揮した大久保長安を初代銀山奉行に任命、この頃が産出のピークだった。そして同じ頃佐渡金山が発見される。家康は長安に佐渡奉行も兼務させたそうだが、鉄道などない時代にどうやって兼務をこなしたのだろうか。彼はその後幕府全体の財務を統括する勘定奉行にもなっているので、管理能力が極めて優れた幕閣だったのだろう。そのときに石見から大勢の鉱山技術者や、鉱山町を維持するためのスタッフが佐渡に移住している。今でも佐渡市相川町の姫津地区では約200世帯のうち3分の1は石見姓を名乗っているそうで、およそ400年前、石見から佐渡に赴いた石見人の子孫だそうだ。山陰中央新報社が出している「輝き再び 石見銀山 世界遺産への道」を買って読んだがそのようなことが出ていた。
坂が多く自転車は電動アシスト付きで助かった。銀山世界遺産センターで昼食をとり大田市駅までバスに乗った。05年10月に三江線沿線の因原からバスで来て以来である。大田市役所はその時に行っているので今回はパスした。駅横には島根県の施設である県立男女共同参画センター「あすてらす」という5階建のホテルやホールなどの入った、いわゆる箱モノのようなビルが建っていたが、前回来たときはなかったように思う。1階のカフェテリアでコーヒーを飲みながら快速アクアライナーを待った。当初予定では仁摩町役場に行った後に仁万から乗るつもりだった列車で、大田市から出雲市までノンストップ、その先米子までは各駅停車となる。この快速で出雲市の次の直江まで乗った。
[米子空港駅]
出雲市の東隣の斐川町は、8市町村が合併した松江市、6市町による出雲市、6町村による雲南市のどことも合併せず、それらの大きくなった3市に囲まれた町である。人口27千人、出雲空港もあるが、松江・出雲両都市のベッドタウンと農村の混ざる町という感じだった。町役場は直江駅と東隣の荘原駅とのほぼ中間にあり、この間6.3キロもあるのに路線バスもなく、両駅間を歩くほかなかった。
そして次駅の荘原から米子まで乗り、境線で米子空港駅まで行った。昨年6月に出来たばかりの駅で、米子空港の拡張工事に伴う線路移設で従来の大篠津駅を移転させたものだが、空港ターミナルに近くなったこともあり駅名も変えた。ホーム1面1線の駅だが駅舎と空港ターミナルへ向かう屋根つき歩道橋の新設工事を行っていた。列車を降りてからターミナルまでは5分ほどで、4年前に来たときは隣の中浜駅から10分以上暗い夜道を歩いたのに比べる楽になった。同じ列車から自分以外に4人もターミナルに向かったので空港連絡駅として定着しだしたのかも知れない。件の126系を快速列車として走らせ松江や鳥取方面に直通させたらどうだろうか。出雲や鳥取など空港の分散化もいいが、滑走路の長さや管制機能で勝っている米子空港を山陰の拠点空港として、東京便の本数を増やすというような空港統合戦略といったものはないのだろうか。
4日間で福岡、山口、島根県の3市、19町、2村の計24市町村に行くことができただけでなく、津和野や石見銀山の観光もできた。累計2679、今回で山口県の100%が達成できた。石見銀山に行かなければさらに2つ多く行けたが、世界遺産の方を優先したということは、ゲームばかりに溺れない自制心が自分にもまだあったのだろうと思い、変な安心をした。