今回の計画は長崎県を100%達成し、佐賀県も2~3ヶ所を残すというものだったが、大型台風18号の接近で離島航路が欠航となり、長崎県の1村を残してしまった。その代わりに佐賀県を100%にした。残した1村は的山大島(あづちおおしま)にある大島村だ。これから行かなければならない、というか今迄に行き損なった市町村は全国に散らばっているが、なかでもここは文字通りの離れ小島だ。効率の悪い、とんでもない所を残してしまった。
3泊4日の旅で、2日目から九州の路線バス3日間乗り放題という「SUNQパス北部九州版」を利用した。行きは佐賀空港に降り、帰りは遅くまで便がある福岡空港から乗ることにしようと思ったところ、福岡からの夕方以降の便がマイレージの無料航空券では全くとれず、往復とも佐賀空港にした。
佐賀には8年前の2001年の年末に来ており、2泊3日で27市町村に行っている。この時にオープン直後の佐賀空港を利用した。今回もその時と全く同じ早朝に羽田を出る全日空451便、機材も同じ座席数166のエアバス320だった。前回は60人ほどの乗客でしかも半数以上は旅行社の団体客だったが、今回は個人客ばかりで100人近く乗っていた。前回は小型だった空港から市内に向かう市営バスは、大型の普通のバスになっていた。利用客も前回の2倍近く10人も乗っていた。
いろいろある鉄道の技術革新 九州新幹線西九州ルート
佐賀から有田へは計画通り電車、バス、徒歩の組み合わせで順調に進んだ。大町町役場から北方町役場(現武雄市北方支所)までの4.8Kmも50分で歩いた。
武雄温泉駅は高架工事がほぼ完成し、外装の仕上げを行っていた。駅全体が高い屋根で覆われ、島式ホーム1面2線、その外側にも側線がある。長崎新幹線の先行工事のようだ。新幹線については何も知らなかったので、帰宅してから佐賀県のHPなどで調べると、正式には九州新幹線西九州ルートといい、昨年(2008年)4月に武雄温泉・諫早間の建設工事が始まっているという。この間は45キロで、途中に嬉野温泉駅、新大村駅ができるそうだ。江戸時代オランダ人が江戸参府に、そしてシーボルトや娘のいねも通った長崎街道に沿うようだ。
西九州ルートとは博多から新鳥栖までは2011年開業予定の九州新幹線、新鳥栖から武雄温泉間は現在の長崎本線・佐世保線をそのまま使い、武雄温泉間からは新規着工線で諫早へ、そして長崎までは現行ルートを使う。山形や秋田の新幹線とは異なり新鳥栖から先は狭軌のままなので、フリーゲージトレインを走らせるという。新規着工区間がいわゆるスーパー特急区間で、最高速度がどのくらいになるのかはわからないが、在来線区間は最高時速130キロで走らせる。完成すると博多・長崎間は現行最速105分が79分に26分短縮され、博多・佐賀間については32分が27分に5分短縮されるそうだ。
この程度の時間短縮ならば、有明海に沿って走る現行長崎本線肥前山口・諫早間の曲線改良や軌道強化、部分複線化などでもかなりそれに近づけられると思う。武雄温泉から嬉野まで往復したJRバスの車窓からは少なくとも工事をしているような個所は見えなかったので、まだそれほど建設が進んでいないのかも知れない。政権が変わったのだから見直しをしても良いのではないだろうか。
帰宅して数日後、2020年のオリンピックに広島長崎が共催の名乗りを上げたという。私は予てから次に日本でオリンピック行うならば広島が良いと思っていたのでこのニュースは嬉しかった。本当に開催となれば、期間中広島・長崎間の臨時特急が必要になるだろう。スペインのタルゴとは違い動力車のフリーゲージトレインは日本の鉄道固有の技術であり、是非これを成功させてほしいと思う。今後海外での鉄道ビジネスで日本固有のバリューになるに違いない。しかし短区間の専用新線までは不要だ。在来線の改良でどこまで高速化、速達化が可能なのか、これを徹底的に追及することも価値ある鉄道分野でのイノベーションに違いないと思うのだが。
経営努力の賜物 佐世保の賑わい
有田では有名陶器店の立ち並ぶ前を半ば走るようにして町役場写真を撮るなど、役場めぐりに徹しながら、初日は佐世保に泊まった。順調に来たので18時前に駅前のビジネスホテルにチェックインして街に出る、なかなか賑やかだ。3年前に大島造船のある大島から朝1番の船で佐世保港に着いたときにも、市役所へ行くのに1キロ以上続くアーケードの商店街を歩いたが、朝の9時台というのに人通りが多く、商店や飲食店などが営業前の準備で活気があった。そして今回、駅付近にもさらに新しいビルができており、活気がさらに駅まで伸びたように思った。
藻谷浩介さんの「実測ニッポンの地域力」に佐世保の賑わいは環境ではなく努力によるものだ、ということが述べられている。平地がせまく軍都であり自衛隊の金が落ちるから、と言う地理的な理由だけだと呉や横須賀も同じはずだがそうでもない、佐世保では市街地の地権者と商業者の一部有志がスクラムを組んで、全国でも稀に見る経営努力を続けてきたからだそうだ。中心市街地活性化を目ざした町づくりなどが地権者の協力がなかなか得られず思うように進まない、という話は良く聞く。なぜ佐世保の地権者がそれほど協力的なのだろうか。
今回も佐世保バーガーは遠慮した。分厚くて食べにくそうだし、そもそも1人旅の時はどうも食い物に興味がわかない。無難なところと思って回転寿司屋に入った。若者で賑わっており、1人で黙々と食べている大柄な外国人もいた。彼らは1人で20皿くらい積み上げていたのが壮観だった。そんなものを見ていると地域の所得総額というものも基本的にはそこに住む、あるいはそこにやってくる人の胃袋容量のシグマに比例する、だから日本人外国人を問わず若い元気な人の多いところほど活気があるというのも当然だと思った。もちろん基地の町にはその要素があると言えるのだろう。
佐世保市は平成の合併で周辺の吉井、世知原、小佐々町を編入した。また五島列島の北に浮かぶ宇久島の宇久町も編入した。離島の宇久には2003年に行っている。2日目はこれらの佐世保市の一部となった町や、合併に加わらなかった佐々、鹿町、江迎町に寄りながら平戸に行った。1時間に1~2本と松浦鉄道の本数も多いが、それ以上にバスの本数も多く、ここでも効率よくまわることができた。これらの町はいずれもかつての炭鉱町で、松浦鉄道の前身である旧国鉄松浦線と支線で結ばれていた。左石からの柚木線(3.9Km)、佐々からの臼ノ浦線(3.8Km)、吉井からの世知原線(6.7Km)はいずれも石炭輸送を主とするものだったが、1960年代から70年代にかけて、私が当時チャレンジしていた国鉄全線走破が終わらないうちに次々に廃止になってしまった。
佐世保から世知原までは山越えの最短ルートを行くバスに乗った。知見寺越え(ちけんじごえ)という道で、急勾配、急カーブを登り、佐世保市中心街から佐世保湾までが一望できるところを走った。そして谷間の世知原に下った。吉井までの世知原線廃線跡は良く整備されたサイクリングロードになっていて、バスの走る県道の歩道かと思うくらいずっと並走していた。
頑張る公共交通 北松浦半島から平戸へ
6つの旧北松炭田炭鉱町めぐりはバスの便が良くほぼ午前中に終わり、締めくくりなった江迎町から平戸までの特急バスに乗ったのは12時台だった。佐世保・平戸間は83分で結ぶ特急バスが1時間に1本のほか、89分要する「半急」というめずらしい表示のバスも毎時1本走っている。前者は観光バス仕様のデラックス車で後者は一般型だが料金は同じだ。このほかに平戸の対岸までしか行かないが松浦鉄道もほぼ1時間ごとに走っているので、北松浦半島の公共交通事情はかなり良い。
大型台風の強風圏からははずれていたが、それでもかなり風が強く、バスは平戸大橋を徐行しながら渡った。二輪車は通行止めだった。平戸からは北に12~3キロの的山大島に行って戻る予定だったがもちろん欠航だ。代わりに明日予定していた生月島に行くことにした。91年に生月大橋が開通し、平戸市内から生月バスが、こちらもほぼ1時間毎に走っている。このバスは、生月島に本社がある生月自動車有限会社の運行するもので、「SUNQパス」は使えない。生月の庁舎近くの生月バスターミナルまでは片道850円だった。
40分ほどの乗車だったがそのうち30分近くは平戸島内を走り、それから生月大橋を渡った。平戸大橋の665メートルよりも長い960メートルの橋で、平戸大橋が吊橋であるのに対して、こちらは3径間のトラス橋だ。相変わらず風が強く、バスは同じように最徐行で渡った。こちらの海上の方がより荒れているように見え、一面に白い三角波が立っていた。風もさらに強いように思われたが、トラス橋なので、バスが吹き飛ばされても両側の鉄骨が支えてくれるので海には落ちないだろうなどと勝手に想像した。
隠れキリシタンの島、沿岸捕鯨の島として見どころも多いと思ったのだが、帽子が吹き飛ばされそうな強い風が吹き続き、雨も降ってきたので、平戸市役所生月支所となった旧町役場に行っただけですぐに平戸に戻った。ここも3階建の豪華庁舎で、2階以上は大きな議会場も含めほとんどすべてが会議室と表示されていたが、何にも使わなくとも維持費だけで大変だろうなと思った。
三浦按針の勇気と苦労に平伏 平戸
平戸に戻ったのが15時40分、時間がたっぷりあったので桟橋前の旅館にリュックを預け、近くの松浦資料博物館をのぞいた。1700年オランダ製という地球儀があり、北海道が大陸の半島のようになっていた。博物館のカフェテリアで観光案内図などを見ていたら、三浦按針の墓が近くにあることがわかった。崎方公園という小高い丘陵地を石段で登るとフランシスコ・サビエル記念碑まで100メートル、三浦按針の墓まで220メートルという表示があり、その下に猪に注意と書かれていた。辺りには誰もいないし、もともと犬でさえ苦手なので、引き返えそうかとも思ったがせっかくここまできたので、足もとにあった小枝を手に持って、もしもの場合はこれで追い払おうと勇気を奮い立たせた。墓石は高さ2メートルくらいあり木の葉のような形をしており、十字架の下に「三浦按針之墓」と刻まれており、その横にもひらがなで「うゐりあむあだむす」と刻まれていた。
1年ほど前に白石一郎の「航海者」という三浦按針を主人公とする小説を読んだ。壱岐出身で04年に亡くなった海洋歴史小説家として知られている氏の作品を私はいくつか読んでおり、どの作品にも共通する躍動感にあふれた筆致が好きだったが、「航海者」も一気に読ませてしまう魅力ある作品で、按針の数奇な生涯に引き込まれた。
イギリス人だったウィリアム・アダムスはオランダ東洋探検隊の航海長となり5隻の船団を率いオランダを出てからマゼラン海峡を通り、2年にも及ぶ惨憺たる航海の末1隻になって1600年豊後の臼杵に漂着した。そして曲折を経て徳川家康の外交顧問ともいうべき地位を得、三浦半島の逸見村に領地を持つ旗本三浦按針となった。京浜急行に逸見駅があり、横浜寄りのひとつ隣には按針塚という駅もある。日本にやってきた最初のイギリス人で、家康に貿易、測量、造船、軍の装備等などの情報や知識を授けた。平戸には1609年オランダが、13年にはイギリスが商館を置いたが、按針は何度も平戸に来ており、彼が住んでいたという商家が「按針の館」として残っていた。
1620年、彼は平戸で57歳の生涯を閉じたが、本当の墓はどこにあるのかはわからないらしく、崎方公園のものはずっと後の昭和29年に建立したものだそうだ。それでもここを詣でたことは自分にとっては大満足だったが、横須賀の安針塚にはまだ行っていないことに気がついた。近いうちに行かなければ、と思う。
なおイギリスは期待したほど商売にならなかったらしく、彼の死後間もない23年に撤退した。オランダ商館は、按針の墓の近くにその跡があったが、1641年に長崎の出島に移転しそれ以後平戸と西欧との関係は全く途絶えてしまった。今年はオランダ商館が設置され通商関係が始まってから400年に当たり、「平戸オランダ年」としての数々の催し物などがあり、いたるところにそのポスターが貼ってあった。松浦史料博物館で観た「松浦家とオランダ展」は常設のものではなく、それらのイベントのひとつだったようだ。
相変わらず風波は強かったが、按針の時代は今のフェリーなどよりずっと小さな帆船でこの程度の風波は何度もくぐり抜けてきているに違いない。今は十数キロ先の島へすら欠航で、私もそれを当然だと思っている。さらに猪まで恐れるなど彼の勇気や苦労に比べれば取るに足らないもので、お恥ずかしい限りである。
プルサーマルと風力 東松浦半島
翌朝も風が強く的山大島への船は欠航していた。尤も運航していたとしても午前中半日で往復できる便はなく、昨夜の時点でギブアップしていた。しかしこのリカバリーは高く着く。なにしろここだけのためにもう一度平戸に来なければならないからだ。その代り佐賀県を100%達成しようと、旅館で計画を練り直した。バスダイヤがわからないところは出たところ勝負と心得た。
平戸桟橋6時42分発の松浦BC行のバスに乗り、松浦市役所に寄ってから伊万里行に乗り、さらに唐津行に北波多村で途中下車し、唐津の大手口BCに着いた。全くラッキーなことに、ここから福岡県境の七山村に行くバスが12後にあり、案内所でもらった路線時刻表によると帰りの便も1時間半後にあることがわかった。さらに帰路JR筑肥線の浜崎駅近くで降り、浜玉町に寄り、筑肥線の電車で唐津に戻ってもその後の行程に大きな支障がないことがわかった。七山、浜玉ともどちらも今は唐津市の支所になっているがこれで予定外にプラス2となり、佐賀県100%達成が俄然浮上してきた。的山大島の高価なマイナス1との相殺である。
唐津に戻ってから東松浦半島を横断するバスで西岸の高台にある入野というところへ行った。目の前に、これも唐津市の支所になったが旧肥前町の豪華な町役場が聳えている。天井の高いホテルのようなロビーからは大きなガラス越しに、内海に陸地が複雑に入り組み、そこに浮かぶ小島群が織り成す絶景を眺めることができた。近くに原子力発電所があるが、風力発電のプロペラも数多く林立していた。
ここは半島西部の路線バスの集まるターミナルになっており、ここから半年前の鷹島肥前大橋開通時より長崎県の鷹島町役場前まで行くバスが運行されるようになった。10分後にそのバスが出るはずだと思っていたら、わずか8日前のダイヤ改正で1日9往復あったそのバスが5往復に半減していた。結局入野で1時間半近く待ち、鷹島に渡り、15分後のバスで戻ってきた。そして玄海町役場前を経由するバスで唐津に戻った。玄海町だけは合併に加わらず単独で残ったが原発で財政豊かなのだろう、町役場も独立した議会棟まで持つ、これも豪華なものだった。九州電力玄海原子力発電所は日本初のプルサーマル発電を間もなく行うそうだ。プルサーマルとは原子力発電所から出た使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムと新たなウランを混ぜた混合燃料を再度利用するもので、ウランの節約にはなるが、まだ課題もあるのか、反対運動もあるようだ。
唐津で夕食を食べてからホテルを予約していた伊万里に戻った。「SUNQパス」だと同じ区間でも何度でも乗れるので、行ったり来たり、フレキシブルな行程が組めてありがたい。
中心市街地の新しい実験か 伊万里
伊万里に来たのは20年ぶりくらいだが、駅周辺が大きく変わっていた。まず駅そのものがJRと松浦鉄道とに完全に二分され、それぞれが終端型駅となり広い道路を挟んで互いに背を向け合う、すなわち道路を挟んで駅舎の入口同士が向かい合っていた。海外にはあるのかも知れないが、日本でこのような駅はほかには知らない。二つの駅舎は2階建で、階上部分は幅広のペデストリアンデッキで結ばれている。また旧駅の裏手にあたる、以前は貨物線などがあったと思われる部分は、郊外のバイパスなどでみるようなロードサイト店とでも言えるような大型スーパーや書店、外食レストランやホテルが集まっていた。
そのためか着いたのが夜9時頃だったが結構人通りがあり、照明も明るく賑わいが感じられ、1時間前に夕食を食べた唐津の寂しさとはかなり違っていた。唐津ではアーケード街は殆どシャッターが降り人出は皆無といっても良く、何軒か営業していた飲食店はどこも閑古鳥という風だった。これでは気分も乗らず、ひときわ照明の明るいラーメン店で酒も飲まず焼飯を食べただけだったが、空腹を我慢してでも伊万里まで来れば良かったと思った。
伊万里駅のかつての正面側、いわゆる駅前通りの方は、空地が駐車場になったりしていて他所でもよく見かける地方都市の中心市街地の様相に近かったが、それでも唐津ほどの寂しさはない。高架化などせずに、駅を両側に押し広げるようにして街並を一体化したことが良かったのかも知れない。新しい道路を含め付近一帯の地権者がかつての国鉄だけだったのかも知れず、それで区画整理を進め易かったのかも知れない。
駅、旧駅前商店街、郊外型店舗群、これらがお互いに隣接しているのが良いと思う。というのは先日訪れた四国徳島県三好市、その中心である阿波池田では、駅からわずか4~500メートル離れたJT工場跡地に出現した郊外型ショッピングセンターの影響か駅前商店街がすっかり廃れ、アーケードがまるで廃坑のように暗くて薄気味悪いという印象を受けたからだ。
現在の消費者の好みは大型店やロードサイド型の店に向いているのだろう。それならばいっそのこと、積極的に中心市街地にそれらを誘致しお互いに相乗効果を狙う、これが今後の地方都市のひとつの行き方かも知れない。それには佐世保のように市街地の地権者と商業者がスクラムを組み経営努力を続けることが必要だろう。そのような行き方の実験を伊万里が行っている、と言っても良いのかも知れない。
佐賀県と陸続きの長崎県の2つの島 鷹島と福島
最終日はホテルでの朝食前に伊万里駅前からバスで、橋で渡れる福島に行った。ここでも滞在わずか14分で伊万里に戻り、その後はJR、バス、徒歩を組み合わせ佐賀県の残りの旧6市町をまわり100%を達成した。
福島と昨日行った鷹島はいずれも長崎県に属し、いずれも06年1月に松浦市と合併し、松浦市の一部になった。そして九州本土と橋で結ばれているが、いずれの橋も佐賀県に繋がっている。それでも松浦側からは鷹島へは2航路、福島へは1航路ある。福島は島というよりは半島であり、それも伊万里市の一部という感じがする。橋といっても長さはわずか225メートルで川を渡るようなものだし、架橋後40年も経っているので、車での往来が定着しているようだ。バスは5人の通勤風の客が終点の福島港まで乗っていたし、折り返しの便では10名近くが乗っていた。福島港でたまたま松浦に近い崎ノ浦港からの旅客船が到着するところに出会ったが、下船客はゼロだった。
逆に昨日の鷹島の方は半年前の架橋後モンゴル村などへ行く観光客の車が増えたというが、やはり長崎県の離島という色彩が強いと思った。入野から乗ったバスは、行きは私以外に1名、帰りはゼロだった。運転手の話では越県で通学する高校生が2名いるほか常連客はほとんどなく、フェリーを廃止し代替としてバスを走らせたのだが、もともとフェリーでも車以外の客は非常に少なかったそうだ。4月に9往復でスタートしたバスが半年後に5往復に半減されたということは、さらに半年か1年後にはどうなるのだろうか、私自身はたまたま良いタイミングで訪れたのかも知れない。
なお鷹島内には松浦市営バスというコミュニティバスが走っていた。合併前の鷹島町営バスであり、運転手は市の職員だそうだ。福島の方は西肥バスによる島内を一周する路線もある。架橋した40年前というと、おそらく島内路線も収益があったのだろう。その後廃止したくともなかなかできない、という状態なのかも知れないが、こちらは「SUNQパス」でも乗れた。
佐賀県と長崎県は一体のはず
JRの唐津線沿線の町村をバスと列車の乗り継ぎにより効率よくまわり、小城町(三日月町と合併し小城市)で100%を達成し、佐賀市中心部に15時前に着いた。帰りの飛行機までの時間を県庁舎の裏にある県立博物館で過ごした。自然史や考古学、歴史などの展示物が充実しており説明もわかり易く、特に幕末から明治にかけて輩出した偉人などの紹介も見ていて楽しかった。また廃藩置県を経て現在の佐賀県に至った経緯も結構複雑であることがわかった。
しかし全体的には、かつての肥前国全体の流れの中から無理に佐賀県のエリアだけに焦点を当てているように思えた。佐賀県の博物館だから当然だということになるのだろうが、このあたり県としての独立性を必要以上に強調しているようにも思えてならない。離島はすべて長崎県下に置くとしたので、鷹島と福島が佐賀県でなく長崎県なのだろう。壱岐や対馬も佐賀県の方が近い。佐賀県の人口は86万人で政令都市ひとつ分にも満たず、長崎県の147万と足してやっと1県分といっても良い。廃藩置県のときに、いろいろと変遷はあったものの結局は旧佐賀藩を温存するような形で独立した県になったようだが、その後の産業構造や社会の変化により日本の中心からも九州の中心からも取り残されてしまったとも言える。
それでも平成の合併では49あった市町村を20とした。長崎は79から23になった。これだけ市町村の合併に力を入れた両県だから、次は県合併の第1号になってはどうか。隣り合った小さな県どうしが、夫々か同じようなことをしているのは市町村合併のときに指摘されたように無駄が多い。いや警察以外に現業を持たない、管理機能を主とする県の行政だから市町村乱立以上に無駄が多いのでは、と思うのである。道州制はまだまだ時間がかかる。その前に下からの合理化、すなわち県の合併を進めるべきだと思うのだが。