JR東日本の「大人の休日倶楽部会員パス」で北陸地方に行くことにした。JR東日本路線のほか直江津・福井間の北陸本線及びその支線まで乗れて、3日間で12000円、特急の指定席にも4回まで乗れる。今回は石川県を完了させることと、さらに新規開業した富山のライトレールに乗ることを主目的とした。
[ほくほく線と北陸新幹線]
今首都圏から金沢方面に行くには、上越新幹線で越後湯沢に行き、そこから北越急行・北陸本線直通の特急「はくたか」に乗換える方法が最も速い。出発の前日に「はくたか」の指定券を買おうとしたら、乗りたかった列車の前後を含め満席だったので、自由席で行くことにした。それも混雑が予想されるので越後湯沢で1時間待ってからその後の「はくたか」に乗ることにした。この間に未訪問だった新潟県湯沢町役場へ歩いて30分ほどで往復できたので、湯沢町には悪いが行きがけの駄賃のようなものだった。今回ただひとつの新潟県の市町村である。
そのようにして正解だった。1時間も前から、3両しかない次の「はくたか」の自由席に並ぶ人が多く、発車20分前に扉が開くと座席の7割方は埋まってしまった。発車直前になって、指定席客にはちょうど良い新幹線の列車が到着すると大勢の客がどっと乗り込んできた。そして1車両に3~40人の立ち客を乗せ発車した。立ったままパソコン操作をしている客もいる。大半がビジネス客と見られ首都圏から富山、金沢へ行くメインのルートになっていることをあらためて実感した。
北越急行ほくほく線は1997年開業以来毎年数億円の黒字を計上していると聞く。長大トンネルや直線区間が多く、大半の駅も1線スルーの高速運転に適した路線で、特急は在来線最速の時速160キロを出すそうだが、それはトンネルの中なので実感はない。それよりもトンネル内の信号所で特急同士が交換するための両列車の信号停車があったのはいただけない。十日町交換にすれば良いと思うのだが、接続する新幹線のダイヤや北陸本線内の他の特急との接続などを考慮した、さんざん検討をした上での結果なのだろう。
十日町で下車する客は殆どなく、再び長いトンネルを走る。2005年に上越市の浦川原区総合事務所(旧浦川原村役場)をはじめとする近隣の役場に行ったときに、乗り降りしたいくつかのホームの短い小駅を一瞬の間に通過し、旧頸城村役場から旧大潟町役場へ歩いた田中の道もいつ超えたのか良くわからないうちに、高架線をひた走りながら直江津に着いた。ここでも降車は少なかった。
前を走る普通電車が名立・能生間のトンネル内で走行中異常音を感知したので線路を調べるために発車待ちをするというアナウンスがあり、直江津を20分遅れで発車した。その後は何事もなかったように順調に走ったが、もともと高速運転ダイヤで余裕がないのか遅れを挽回することができず、富山、高岡とも20分遅れのままだった。富山でかなりの下車があり、その後は半分くらいだった。そして金沢までこのままの遅れで行くのかと思っていたら、津幡を通過したあたりから徐行運転となり、結局金沢到着は30分遅れとなった。
北陸新幹線は金沢駅近くの高架工事は終わっているようだったが、それ以外は車窓から見える範囲では、土地収用のようなことや、基礎工事程度が大半で、あまり進んでいるという印象は受けなかった。5年前、長野から上越市にかけて見たものと、場所は同じではないが、たいして変わっていない。新幹線の長野・金沢間は2014年開業予定だそうだが、最近新潟県が増額された工事費の負担について異議を唱えて発注が一部ストップしていると聞く。本当に予定通り進むのだろうか。
ほくほく線の利用状況を見ていると、北陸新幹線もかなりの利用があると思う。東京から富山までが2時間少々、金沢までが2時間半程度というから日帰りのビジネス客が増えるだろう。富山や金沢のビジネスホテルや飲食店はかなりの打撃を被るのではないか、また羽田からの航空便も富山はおそらく廃止、小松も大幅減便が余儀なくされるだろう。そして北越急行が大幅な打撃どころか企業存続の危機に晒されることになるのではないか。これだけの長大トンネルを含む高規格路線だから保守費用だけでも大変だろうし、本当に全区間を残しておく必要があるのだろうか。一方で大宮以南の線路容量や東京駅のホームが今のままで大丈夫なのかも心配になるが。
私は北陸新幹線については、ここまで進めた以上早く米原まで延伸するべきだと思う。地図上ではかなり大回りにはなるが、東海道新幹線に何かあったときの迂回路として、少なくとも東海道在来線よりは有効だと思うからだ。予想される駿河湾沖地震や東海地震では在来線も被害を受ける可能性大だから、そういうときのためにも代替路を早く用意しておくべきだし、国家の基本戦略として進めるべきプロジェクトだと思う。
それにしてもこれも随分迷走があったようだ。金沢・石動間をスーパー特急として着工したのは80年代の終わりころで、90年代には線路や架線を残して工事は終わっていた。今でもまだ4~5年、あるいはそれ以上使われることはなさそうなので、結果論ではあるが北陸本線の隘路解消のバイパスとして優等列車を走らせるなどしておけば良かったのではないのか。金沢・高岡間で10分くらいの短縮効果はあったと思う。
合併が進んだ石川県
金沢以西は平常ダイヤになっており各停電車は時間どおり発車していた。到着後3分の間に隣ホームに駆け上がり金沢始発の小松行き電車に乗った。美川で降り、さらに寺井に行った。しかし寺井駅は寺井町にはなく根上町にあり、駅近くにある役場も根上町のものである。寺井町役場に行くには、松任か小松からバスで行くしかない。根上町はプロ野球の松井選手の出身地で駅前はホームラン通りという名前がついており、街路灯は背番号である55番と書かれた札が掲げてあった。
石川県内の市町村合併はかなり進んでおり、金沢市と小松市に挟まれた旧能美郡の根上、寺井、辰口と石川郡にあった美川町が能美市となり、旧石川郡だった6町村と松任市がひとつになって白山市になっている。石川郡の野々市町と能美郡の川北町が単独で残った。金沢市と小松市は変わっていない。
寺井駅から松任駅に戻り辰口行きのバスに乗った。松任の市街地をはずれたところに白山市の新しい市役所があった。車窓から見ただけだが、広いアトリウムをもつ豪華なもので、合併前は松任市役所のはずだ。私はすでに10年以上前に松任市役所には来ているはずなのだが全く記憶にない建物だ。もしや来ていなかったのでは、と思い心配になったが、帰宅後確認したところ96年8月に間違いなく来ており、そのときはもっと駅に近いところにあった別の建物だったことがわかった。
バスを川北町役場に近い川北温泉で下車、一面の田畑のなかに温泉施設と町役場だけがあるところだった。後続のバスは2時間後なので隣の辰口町役場まで歩いた。手取川を渡る辰口橋は長さが4~500メートルはあったと思う。能美市役所の辰口庁舎は99年に建てられたばかりの巨大でスマートなもの、本庁舎は市長室のある寺井の方だが、市議会はこちらにあるそうだ。市街地からはずれた大きな公園の中にあり、温泉旅館などがある市街地までさらに歩き、そこから寺井庁舎まで行くバスに乗った。さらにバスで小松に行きビジネスホテルに泊まった。
金沢に一極集中か、寂しい世界の小松市中心街
小松駅は02年に高架化され駅前広場も整備されたが、駅のすぐ裏手は広大な小松製作所の敷地であり、鉄道が市街地を分断していたという状況でもない。これも公共工事による地域経済促進策のひとつだったのだろうか。駅前のすぐ横には小松大和(こまつだいわ)という地元資本のデパートがあった。エスカレーターで7階のレストラン街に行ってみたがファミレスと蕎麦屋があるだけだった。96年に撤退した小松西武を引き継いだそうだが、来年(2010年)には閉店になることが決まっているという。それも当然というくらい閑散としており、もう閉鎖に向けての準備を着々と進めているという感じのデパートだった。夕食は結局高架下の居酒屋のような店で済ませた。
市役所までは長いアーケードを歩いて行ったが、18時を過ぎたばかりというのに照明が明るいだけでほとんどの店は閉まり、人通りが全くと言っていいくらいなかった。県内の2番手都市も金沢に比べてこんなにも差がついてしまったのだろうか。金沢に近すぎていることが災いしているのだろうか。
市役所周辺は真っ暗で写真が撮れなかったので翌朝もう一度行った。ロビーには大きな世界地図あり、姉妹都市や交流都市が表示されていた。コマツの製品は世界中に行き渡り、「コマツ」の名前を知らない人は少ないと思う。それだけに、中心市街地の衰退ぶりが意外に思えた。
特急停車駅誘致合戦でいちばん得をした駅、旧作見駅
小松市役所に行ってから各停電車に乗り大聖寺で降り、加賀市役所に行った。そして1駅戻り加賀温泉駅で下車した。山中温泉行きのバスに乗るためである。加賀温泉駅というのはなかなか面白い駅だ。1970年、それまでは作見という普通しか停まらない小駅だったのが、島式ホーム2本4線をもつ特急停車駅になった。当時の時刻表を見ると、北陸本線の急行は小松、粟津、動橋と連続停車し、作見を通過し大聖寺に停まっていた。当時の優等列車にしては珍しく続けて停まるものだと思っていたが、それらの駅はすべて温泉に行くための電車(北陸鉄道)の始発駅だった。当時の国鉄にとって温泉客は重要な客だったのだろう。それが特急時代となり、さすがにすべてに停めるわけに行かず、また一方で北陸鉄道の各線が次々と廃止になり、停車駅の争奪戦が激しくなった。そこで喧嘩両成敗というか、皆のメンツを保つというか、今まで優等列車などには全く縁がなかった作見に特急列車を集約して停車させることにした。そして駅名も加賀温泉とした。そういう名前の温泉はないのでこれも公平となったわけだ。
駅周辺は田圃ばかりで集落はほとんどないが、駅前にはバスやタクシー、温泉旅館の送迎バスが何台来てもいいような広いロータリーがあり、屋根つきの乗場と合わせて、交通の一大ターミナルという雰囲気がある。また中規模なショッピング・センターもあり、加賀市の新しい中心地になりつつあるのかも知れない。
バスは山城温泉経由で山中温泉に行くものだったが、どちらの温泉にも以前泊ったことがあるので、今回は山中町役場、現在は加賀市山中温泉支所の写真を撮るだけにした。北陸鉄道山中線の終点山中駅跡も小規模なバスターミナルになっていたが、用地の多分半分以上はスーパーマーケットになっており、当時の姿を想像すめることは難しかった。
金沢に戻る途中本線上でかつての寝台特急電車の改造車が今も現役で走っているのを見た。小編成化のために中間車の先頭車化改造などが行われ、その形状が食パンのようでなかなか面白い電車だったが、かなり古くなったようで鋼材の腐食がはっきりとわかるほどだった。九州や東北本線の黒磯以北で走っていたものは既に廃車となったのに北陸だけはまだ現役というのは、新幹線との関連があるのかも知れない。すなわち2014年と言われている新幹線開業後の並行在来線の運行形態がまだ定まらず、従ってどの程度の車両が必要となるのか今の時点ではわからないので、とりあえず今のものを使える限り使おうとしているのではないだろうか。
検討してほしい北鉄浅野川線のLRT化
金沢に戻り、能登半島で3つ残っていた未訪問地町に行くために七尾線に乗った。高松町(現かほく市)はそうでもなかったが、鳥屋町(現中能登町)と志雄町(現宝達志水町)の役場はどちらも駅から遠く、両方あわせて10キロ近く歩くことになった。飛び飛びに残った役場を訪ねるという、これからはこのような落ち穂拾い的な訪問が増えそうだ。
金沢駅は新幹線ホームを除いてはすべて完成しており、駅前地下もかなり広いものだった。そしてその地下広場の一角が北陸鉄道浅野川線の北鉄金沢駅になっており、同一レベルでホームに停車する電車の姿が地下広場から見えるのはわかり易くて大変良い。金沢に泊まった翌朝、この浅野川線を終点内灘まで乗り、さらにバスで内灘町役場へ行った。浅野川線は全長6.8キロの間に起終点駅を含め12駅、駅区間平均が600メートル少々という、限りなくトラムに近い電車線だ。戦後の一時期、金沢市内線との直通運転が行われていたこともあるそうだから、その当時は市電型車両が走っていたのだろうか。
北鉄金沢駅が地下駅になったのが2001年だそうで、このときに車両不燃化が必要になり、元京王井の頭線の3000系を導入した。全線を首都圏郊外電車風に近代化しようとしたのだろうが、逆に富山のライトレールのようなLRT化、あるいはベルギーのプレメトロ化のような方向を選んでも良かったのではないか。地下広場に「金沢・LRTと暮らしを考える会」という団体の出展ブースがあり、人はいなかったが数枚のパネルのほかパンフレットが置いてあった。金沢はLRTなどには手ごろな規模の都市であり、観光客も多いので成功するのではないかと思うのだが、なかなか難しいようである。そんなときに、一部でもプレメトロ化が実現していれば、全くの新規の建設というのではなく、既存路線の部分延伸というような形で進め易かったのではないか。
浅野川線の電車は土曜日の朝だったが乗客は多く、復路などは北鉄金沢駅に近づくにつれかなり立ち客が増えていた。沿線も住宅街が密集していた。昼間時間帯は概ね30分に1本だが、LRTにしていれば10~15分に1本くらいは運行できるはずで、より利便性を高めることができたと思う。運転手が足りなければ、半数の電車は途中折り返しでも良い。現車両の寿命が尽きる頃には是非検討してほしい。ホーム高を削ったりする工事が必要だと思うが、やれないことはない。そして金沢駅前の地下広場内を横断し、駅前の道路に上がり、とりあえず武蔵辻ぐらいまで伸ばしてみたらどうだろうか。富山市くらいの実行力とスピードがほしいところだ。
終点の内灘からは金沢医科大学へ行くバスが接続しており、大学病院手前にある町役場に行き。これで石川県の100%を達成した。内灘砂丘という小高い丘の、尾根状のところにある立派な道をバスは走り、西側は日本海で、東側は河北潟の先に津幡方面が遠望できる。戦後の一時期、米軍の砲弾試射場があったところだそうで、返還後に計画的に作られたニュータウンとも言えるようなところだ。ここでも浅野川線をLRT化すれば医大前までの数キロを延伸することも容易だと思う。
LRT先進都市 富山市内ループ線開業
この後は北陸本線を呉羽で降りて射水市のコミュニティ・バスで旧下村に行った。05年新湊市、小杉町、大門町、大島町と合併し射水市の一部となったが、面積5.8K㎡は青ヶ島よりも狭く、人口も2千人ほどだった。同じ富山県の舟橋村ともども平成の合併ではなく昭和の合併に取り残された村だったようだ。しかしここよりもさらに狭い舟橋村の方は今も単独のままで、平成の合併後は日本一狭い自治体となった。私が舟橋村に行ったのは96年8月のことであり576番目だった。帰りは丁度良いバスがなく、呉羽駅まで4キロ弱を歩いた。
富山からは高山本線の軽快キハで12分、早星まで乗り婦中町役場(現富山市婦中総合行政センター)に行くと、そこから富山市内へ行くバスがすぐに来た。バスは渋滞などない道を快適に走り、市の中心部総曲輪に近づくと前方でトラムの新設工事をしているのが見えた。国内でトラムの新設工事など見るのはこの歳になって多分初めてのことだろう。何かとても嬉しくなった。
12月23日開業の「セントラム」とう上下分離方式の市内路面電車環状線化事業だった。市が整備・所有するのは設備だけでなく車両まで含み、富山地方鉄道が運行する。新規開業区間は既存地鉄路線の丸の内交差点・西町交差点間のわずか940mでしかも単線だ。しかし富山駅前を起点に反時計まわりに1周約20分、日中は10分間隔でループ運転が行われる。車両はポートラム(富山港線)と同型の新潟トランシス社製のLRV2車体連接のものが3編成導入されたそうだ。
この文を書いている12月末時点ではすでに開業済みで、23日の開業日には全国各地から大勢のファンも集まり大変な活況だったと新聞が報じていた。富山市では人口減少や高齢化による中心市街地の衰退化に対し、コンパクト・シティ化を目指すために公共交通の活性化に力を注いでいると聞く。07年には「富山市公共交通戦略」と題した100ページを超す冊子を出しており、この中でも市のマスタープランから当路線の位置付を明確に述べている。
総曲輪には地元デパートである富山大和をキーテナントとするショッピング・センターがありその部分は人出があったが、営業を止めたのか無人となって放置されたままのビルもあった。この路線が本当に中心市街地の再活性化につながるのかどうかは正直なところ今はわからないが、何もしないよりは良い。実際の事業費がどのくらいで、誰がどのように負担したのかなどについてさらに調べてみたいが、都市計画というと地下鉄や大規模な地下街などの建設が思い浮かぶがそれよりはずっと少ない額だったと思う。それに実現までのスピードの速さも高く評価したい。
新規開業区間をすべて歩き見してから、さらに富山駅まで歩き、地下道を通り北口へ行き、富山港線の富山ライトレール富山港線に乗った。06年JR西日本から移管して以来早く乗ってみたかったものである。開業直後よりは減ったと言われているが、それでも立ち客も多く活況を呈していた。駅数や運行本数の増加により利便性が向上し、ライトレールの成功例として全国に知られた路線ということも頷けた。
ただ気になったことがひとつ、座席の少なさだ。専門家が集まり数々の制約条件の中で知恵を絞った結果だとは思うが、やはり2連節という制約からかも知れない。多連節にして、さらに車輪径を小さくするなど今後考えられないものか。また終点をループ式にして、片運、片扉方式にはできなかったのか。セントラムは最初からループ運転なので片運、片扉方式にしても良かったと思うが、将来の直通運転を考慮したのかそうなっておらず、富山港線と同一型式のものにした。それにしても日本の路面電車にはループ式ターミナルがない。富山では是非それを考えてほしかったと思う。
岩瀬浜のバスとの乗換ホームも良かった。乗り継ぎシームレス化のお手本のようなものであり、スイスなどでは良く見るが、国内の他で見た記憶はない。また富山駅北口前に富山市芸術文化ホールがありその一角にライトレールをPRするコーナーがあった。北陸新幹線開業後の富山駅付近の立体模型があり、富山ライトレールと市内線路が複線で繋がっていた。市内ループの次は、地鉄上滝線に南富山からLRT車両乗り入れを行うという。楽しみの多い富山である。
最後は入善町に行き、富山県を残り5とした。そして入善に停車する特急「はくたか」で越後湯沢に出て上越新幹線で帰京した。土曜日だったせいか満席ではなかったが、それでも越後湯沢での新幹線への乗り換えは「はくたか」が3分遅れたため6分しかなく、途中改札は素通りできるようになっていたが全員大騒ぎでMAXにやっと乗れたという状態だった。毎日こんな状態なのだろうか、今となっては全く手遅れだが同一ホーム乗換がやはり必要だったのではと思うのである。
石川県は100%達成した。47都道府県中11県目である。