1カ月前の会津行きのときよりも1時間早く、東京駅6時4分発の「やまびこ41号」に一ノ関まで乗った。市名は「一関」だが駅名は「一ノ関」と書く。本文では市を指すときと駅を指すときで書き方を違えることにする。乗ったのはE2系の10連で6両が自由席、早朝だったこともあり大宮を過ぎても三分の一くらいの乗車だった。それでも郡山、福島から混み始め仙台到着時で三分の二程度、大半の客が仙台で入れ替わり、古川で三分の一が下車した。仙台8時1分発、古川14分着というのは古川周辺の工場やオフィスなどに通勤するのにちょうど良い時間帯なのだろう。
合併で一関市になった5町村に行く 藤沢町のみは合併に加わらず
今回は大船渡線沿線の市町村を塗りつぶすのが目的だ。気仙沼市、大船渡市以外はまだ行っていない。鉄道だけを利用していたのでは本数が少なく効率も悪いので、並行して走るバスを併用した。東北新幹線を一ノ関で降り、岩手県交通の盛行き特急バスに乗った。東隣の旧川崎村に行くためだ。平成の合併で一関市川崎支所となった旧村役場は、大船渡線の陸中門崎駅から2キロくらいあり、しかも一ノ関駅で1時間20分待たなければならない。バスならば25分後に出るし、役場の近くに停まる。観光バス仕様の車両で新幹線から乗り継ぐビジネス風の客が数名いた。
特急バスは大船渡線に沿う国道284号線を走るが、気仙沼駅前まで1時間12分、大船渡駅前までが2時間12分で、JRが最速の快速でそれぞれが1時間12分、2時間24分と所要時間はほぼ互角。しかしバスの8本に対しJRの快速は2本のみ、その他ほぼ同数の各停列車だとさらに10~15分増える。さらにバスの方はほぼ等時隔で仙台方面からの新幹線に接続しているのに対し列車の方は接続がほとんど考慮されていない、なぜなのだろうか。
一ノ関駅前から20分ほどで北上川を渡る。2003年に架け替えられたばかりというアーチ型のスマートな橋を渡り、バイパス上の薄衣というバス停で下車、今は一関市川崎支所なっている旧川崎村役場に行った。そして次に行く藤沢町へのバスを待った。川崎から藤沢へ、名前だけは東海道本線のようだ。平成の合併で6市町村が合併した新しい一関市は気仙沼市に接するようになり、気仙沼駅の一駅手前までが一関市になったが、この地域で藤沢町だけがなぜか合併に加わらなかった。
その藤沢町の役場近くの中心市街地から花泉から来たバスに乗り、千厩支所前で下車した。庁舎の裏庭には公用車の車庫があり、そこが一関市営バスの乗り場になっていた。このバスの大半は旧千厩町域の集落を結ぶものだが、隣町の旧大東町役場前まで行くものも日に2本ある。ちょうどうまい具合にそのうちの1本に乗れた。市営バスと言っても、いまだに旧町村のものがそれぞれ別個に運行し管理されているようで、その中で旧大東町のものはかなり規模の大きいものだった。
旧大東町の町役場だけが大船渡線の駅から離れているからなのか、その町役場前に広いスペースをもったバスセンターがあり、7台もの中型から小型のバスが駐車していた。いずれも白ナンバーで、役所の自家用車を使うコミュニティバスであり80条バス(道路運送法改正後は78条バス)と言われるものである。それにしてもかなり余分とも思える車両を抱え、行政の持ち出しは大変なものがあるだろう。
大東から大船渡線摺沢駅にバスで戻り、一ノ関方面に戻るような形で列車に乗り、猊鼻渓駅で降りた。猊鼻渓には15年近く前高校時代の友人2名と一ノ関駅からタクシーで来て遊覧船に乗ったことがあったが、今回は駅から徒歩15分ほどの東山支所に行っただけだった。今も大型観光バスが数台来ており、平泉とのセットされたコースの団体客で賑わっていた。JRは、渓谷近くに駅を作ったのだが、利用する客は数名いただけだった。猊鼻渓駅は築堤上の単線にホーム1面を有するだけの、それもホームに待合所があるだけで駅舎もない。開業は1986年、旧国鉄最後のダイヤ改正で開業した。このころから国鉄も観光需要を意識した施策を取り始めたのだろう。この駅ができるまでは旧東山町役場へは、鉄道が近くを走りながらバスでしか行くことができなかったはずだ。
大船渡線は一ノ関を発車すると東へ向かい、陸中門崎から北に向かい猊鼻渓で東へ、そして摺沢から南に下り千厩でまた東に向かうという正方形の3辺を走る。その形状から「鍋つる線」と呼ばれ、また現在は盛までの全体の線形から「ドラゴンレール」という愛称がついている。こういう形状になったのは建設当時の政治情勢、すなわち政友会と憲政会の力関係によるものだったという。大正9年(1920年)の総選挙で、政友会は原敬総理の地元岩手県で全県独占を狙い摺沢で擁立した候補者を当選させるために、陸中門崎から真直ぐ東へ向かう予定だった同線を北に曲げ、そのまま陸前高田へ直行させようとした。しかしその後政権が憲政会に移り、大正14年に擦沢まで開通した後、憲政会は政友会に報復するかの如く、現在の形にしたという。小沢一郎の政治手法は、岩手県の伝統なのだろうか。
猊鼻渓駅から40分近く乗り折壁駅で下車、超豪華な一関市役所室根支所に行った後、夕闇迫る気仙沼まで乗った。
いったん宮城県に入り最後の1町に行き宮城県100%を達成
気仙沼駅前のビジネスホテルに泊まった。気仙沼市とその左隣の唐桑町は宮城県である。気仙沼市役所へは前述の高校時代の友達との旅で来ているので、後は唐桑へ行くだけで良い。ここも合併で、町役場は気仙沼市唐桑総合支所となっている。ここへは宮城交通バスでしか行けないのだが、なぜかバスは気仙沼駅前に来ず、駅から歩いて20分くらいの港近くの魚町というところから発車する。
翌朝そのバスに乗ろうとしたが、激しい雨で20分も歩くことが困難だったので、列車で大船渡方面に1駅行った鹿折唐桑駅で降り、駅前からこのバスに乗った。バスは仙台から青森まで太平洋岸を走る国道45号線を10分くらい走り、只越というところから唐桑半島を縦断する県道に入ると10分ほどで唐桑役場前に着いた。豪雨のなか100メートルくらい歩き庁舎の写真を撮り、これで宮城県の100%を達成した。14県目である。帰りは只越で陸前高田方面に行くバスを待つ予定にしていたが雨を凌ぐようなところではなく、再び鹿折唐桑駅まで戻った。
再び岩手県に 陸前高田から釜石へ
列車は約4時間後までないので、一ノ関発の特急バスを駅舎の中で待った。前日一ノ関駅前から薄衣まで乗った、まさにその便に鹿折唐桑駅前から高田駅口まで乗ったのである。
陸前高田市は岩手県の東南部に位置し、太平洋岸の県内では最も南部にあることから県内では最も温暖な気候だという。人口は年々減り25千人を割っているが、それでもさすがに市だからなのか、駅付近にはアーケードつきの商店街があり、午前中でも営業している喫茶店風レストランもあった。早めの昼食を取って広田湾に注ぐ気仙川を遡るように、住田町へ行くバスに乗った。
住田町の中心地は世田米というところでバスセンターは世田米駅と称していた。今でも陸前高田からのバスのほかに、大船渡からの便もあり、盛岡と大船渡を3時間15分かけて結ぶ急行バスが日に5往復ある。これは遠野、大迫を通り盛岡に向かうものである。またかつては国鉄バス遠野本線が走っていたこともあり、世田米駅というのはその頃からの名前である。そういえばかつての国鉄バスの駅風の建物があり、待合室もそのまま残っていた。
住田町は気仙郡にある。平成の合併の前も後も1郡1町である。しかし律令時代の陸奥国気仙郡は、現在の宮城県北東部から岩手県南東部にまたがる広大なものだった。奥州藤原氏の滅亡後、支配者は何度か入れ替ったが、関ヶ原後は伊達氏の領地となった。廃藩置県後明治10年までの短い期間に、気仙郡はかなり面積を縮小した上に江刺県、水沢県、磐井県、さらには宮城県の一部となったのち、現在のような岩手県の一部になったという目まぐるしい変化をして来ている。
そこを流れているのが気仙川で、水源は釜石市と遠野市との境界近くにあり、住田町の町域もそこまで広がっている。釜石で太平洋に注ぐ甲子川と、遠野盆地を潤す北上川支流の猿ケ石川のさらに支流早瀬川との分水界になっているのは仙人峠だが、JR釜石線はここを越えるときに、いったん住田町を通る。釜石方面から来ると陸中大橋からオメガカーブで山登りをし、延長3キロほどの土倉トンネルを抜け、いったん気仙川の水域に入る。そして信号所のような上有住(かみありす)駅を過ぎると、すぐにまた3キロ近くの足ケ瀬トンネルとなり、遠野市に入る。上有住駅は広い住田町のなかではかなり辺境の地なのだが、ここまで来る町営コミュニティバスも日に数本走っている。
盛岡から大船渡まで行くバスに世田米駅から盛まで乗った。大勢の高校生が乗っており、大半は盛まで乗車していたのでかなり広域の通学である。大船渡市役所も高校時代の友人との旅行時に訪問済だった。
盛から第三セクターである三陸鉄道に乗った。ここも別の駅舎があり、今となってはかえって不便にしてしまったように思うが、三セク移行当時の経済状況では箱物をどんどん作ろうとしたのだろう。無駄で、余計なことをしたものだと思う。トンネルの方が多い区間を走り、20分ほどの三陸駅で下車した。2001年11月に大船渡市がこの三陸町を編入した。いわゆる平成の大合併よりも一足早い合併で、私のデータベース上の人口推移では1992年では独立した町としているが、12年後の2004年では大船渡市として合算されているので、この旧三陸町単独での人口推移はわからない。さらにトンネルの続く区間をおよそ20分、釜石まで乗車した。
かつてのミスを取り戻しのために陸中山田へ
釜石から山田線に乗り換え陸中山田まで行った。町役場に着いたのは19時だったが夏至を数日後に控えたこの時期だったので、十分写真が撮れた。実は山田町役場の写真を撮ったのは2度目である。1度目は、正確な日時を記録していないのだが、1987年、旧国鉄がJRに変わった年か、あるいはその翌年だと思う。JR発足記念のプローモーション活動のひとつだったと思うが、JR東日本が1万円で2日間乗り放題という格安の週末フリー切符を発売した。これで新花巻から釜石、宮古、盛岡、さらに秋田へ行った。このときに途中でフラリと降りたのが山田で、次の列車待ちの間、将来役場めぐりをするかも知れないと写真を撮っておいた。しかしそのカメラを秋田市内のバスの中に置き忘れてしまったのである。カメラは出てこなかった。だから今回が初の正式訪問だ。2階部分が大きくせり出したその特徴のある建物はなんとなく記憶に残っていた。
山田町は人口2万人弱、市ではないが漁港としてもそれなりの規模があり、飲食店も何軒か営業していた。そのうちの1軒で夕食を取り、釜石に戻った。山田に泊るつもりだったが、町のHPに載っていた数軒の旅館や民宿に電話をしたが、不在だったり、満室だったりしたので、釜石に泊ることにしたのだ。駅のすぐ裏手にあったビジネスホテルは、製鉄所があった時代には多くの出張客で賑わっていたのだと思うが、かなり古そうで、いまどき珍しい洋室なのにバスもトイレもないものだった。釜石には何度か来ているが、来るたびに寂しくなる一方という感じがした。
釜石から湯田へ
翌朝は釜石線の快速「はまゆり2号」に乗った。ダイヤ上は釜石始発だが、宮古から各停でやってきたものが釜石駅で5分停車し、そのまま快速に変わるものだった。大勢の高校生が乗っており、釜石で皆降りるのかと思ったら誰も降りない。前後が逆になって花巻に向かって発車した。回転リクライニングシート特急仕様のキハ111+112型0番台に、セミクロスシートの110型100番台を1両花巻寄りに連結した3両編成だ。釜石発車後小佐野、松倉と釜石市街地の2駅に続けて停車、2駅目の松倉で高校生がどっと降り、30%くらいの乗車率になった。松倉までは通学列車だったのだ。ただし後部1両は座席指定席車だったが、ここにも高校生が乗っていたかどうかまでは確認できなかった。
この後新幹線に接続する新花巻までは遠野、宮守、土沢の3駅以外は通過し、なかなか快適な走りをする。この3駅はいずれも役場のあるところで遠野には1998年、残りの2つは2002年に行っている。陸中大橋を過ぎると峠越えになり、いったん住田町に入ってから遠野盆地に下るのは前述した通りである。遠野でも少なからぬ乗車があり自由席は50%を少し超えるくらいになった。新花巻でかなりの下車があり、再び30%くらいになった。新花巻と花巻の中間の似内駅で、下り快速との交換待ちで6分間の停車をしたが、これはいただけない。そして次の花巻駅でも再び方向転換があるとはいうものの5分の停車をした。快速なのに、新幹線との接続さえ済ませばもう用済みとばかり、後はのんびりと走らせている感じがする。釜石や遠野から県都盛岡に行く流れだってあるはずだ。急行料金不要というのは魅力的だ。なんとかダイヤを工夫して、最後の盛岡まで快速らしく走ってほしいものだ。
花巻で東北本線の電車に乗り換え北上で下車、ほっとゆだ駅まで北上線に乗った。かつては仙台・秋田間を結ぶ特急も走ったことのある路線で 、秋田新幹線もこの線を改軌した方が距離的にも短く済んだのではないかと思う。北上川の支流和賀川に沿って走るのが北上線で、途中に湯田ダムがある。1965年に完成したダムで、そのためにこの線もかなりの区間付け替えがあったという。この線に初めて乗ったのはいつのことか覚えていないが、出来たての新線を走ったような記憶があるので会社に入ってから数年後のことかも知れない。北上線に沿って流れていた和賀川はほっとゆだ駅手前から北に向きを変える。この先が旧沢内村になる。旧湯田町とで2005年に合併し西和賀町になった。ほっとゆだ駅からバスで30分ほどの旧役場まで行った。
途中に湯田温泉があり、旅館数や町の風景からはかなりの規模の温泉であるように思えた。そのためかここへは盛岡からの直通バスも3往復走っている。盛岡から約2時間でほっとゆだ駅まで来る。また温泉街のはずれに西和賀高校があり、それまで数人しか乗っていなかった帰りのバスはここから下校の高校生で超満員になった。さらに続行する「スクールバス」にも大勢の生徒が乗っていた。彼らは大半がほっとゆだ駅から北上行きの列車に乗り、途中で少しずつ下車があったものの半分くらいは北上まで乗っていた。途中で「西和賀高校廃校反対」と書かれた看板を見たが、2台のバスが満員になるほどの生徒数でも、維持は難しいのだろうか。
岩手県は北海道を除くと日本一面積の広い県で、そのほぼ長方形の中心に県都盛岡市がある。そして県内の主要都市と盛岡とを直接結ぶバス路線が結構あることがわかった。もっと前から知っていれば、もう少し効率良く、県内の役場めぐりが出来ていたかも知れない。
北上から新幹線で東京に戻った。今回は高校生の通学にいろいろなところで出会った。ひところに比べ全体に大人しくなったような、あるいは元気がなくなったような気もする。今回は3日間で1市9町3村の合計13、累計2865、残394とした。JR東日本の「大人の休日クラブ」の期間に行きたかったが叶わず、ジパングクラブの30%引きを使った。それでも「休日クラブ」より高くついてしまった。
(補記)この旅の9か月後に東日本大震災が起きた。大災害で鉄道や道路、町並が大きく破壊された。しかし本文にはあえて震災のことにはふれていない。震災前の情報や風景をその時点での印象で描写することにした。