南部地方とは、今は青森県内で津軽地方と区別するために使われている地域名で、テレビの天気予報などでは三八上北などと表示している。かつての南部氏が支配していたところだとすると、岩手県の中北部もそうである。岩手県では伊達藩に属していた県南部と混同しやすいからあえて南部地方という言い方を避けているのだろうか。それはともかく八戸を中心に、岩手県の久慈、葛巻にまたがる地域を支配していたのは盛岡藩の分家となった八戸藩である。私はこの地域が一部を除いてほとんど未訪問だった。だから早く行きたいと思っていたら、JRの大人の休日倶楽部会員限定の「岩手・三陸フリーきっぷ」が売り出された。八戸以南の新幹線を含むJR線や三陸鉄道、いわて銀河鉄道、青い森鉄道などの三セク鉄道、一部のJRバスが4日間乗り放題で16千円、この地域の役場めぐりにうってつけの切符だ。利用期間が8月下旬から9月中旬までの22日間だったので、9月に入ってから出かけた。
いわて銀河鉄道(IGR)
東北新幹線はやて1号盛岡到着時の乗車率は80%くらいだった。盛岡駅のいわて銀河鉄道(IGR)の改札口は、新幹線・在来線の2階コンコースの改札をいったん外に出て、かなり歩いて階段を下りた、駅前広場に面した1階にある。JR在来線の隣のホームなのにわざわざ遠回りをさせられ乗り換えに10分近く要する。三セク鉄道接続駅の悪い例が一向に改善されていない。そのいわて銀河鉄道で玉山村のある渋民まで乗ったが、列車は花輪線直通のキハ110だった。好摩まではJR花輪線が二種となっているのではなく、またJRとIGRの二重戸籍でもなく、車両が乗り入れている、すなわちIGRがJRの車両を借りているという形だ。だから運賃もJR時代に比べて高くなっている。
玉山村は平成の合併で盛岡市の一部となったために、役場は玉山総合支所となっている。IGRの渋民・好摩間のほぼ中間の、比較的線路に近いところにある。両駅間は4.7キロあり、周辺にニュータウンも出来つつあるので新駅の計画もあると思う。この間を歩いたが、関東の猛暑とは違い、気温も30度以下で曇っていてそれほどの汗は流れなかった。総合支所と道路を挟んだ向かい側に公園があり、石川啄木の歌碑も立っていたが、かなり古そうなもので文字も消えていて全く読めなかった。
好摩からいわて沼区内までIGR7000系2両の電車に乗った。この電車はJR東日本の交流専用701系と見たところは全く同型だが、座席の一部がクロスシートになっていた。いわて沼区内駅は新幹線停車駅であり駅舎は立派だが、在来線側は駅員はおらず、下車時はワンマンの運転手が集札するという、全くのローカル駅のスタイルだった。下車時も乗車時も私以外の乗降はなく、新幹線の利用客もどれだけいるのだろうか。駅前広場にも人がいなかったように思う。町役場は駅から遠く、歩くと片道20分くらい、それもずっと登り勾配だった。
さらに三戸まで50分弱乗車した。電化以前盛岡以北の東北本線で、最大の難所といわれた奥中山を過ぎると、北上川から馬淵川の水系に入る。かつての東北本線はこの先、八戸まではこの川と縄をなうように進む。一戸、二戸と続き、金田一温泉を過ぎると青森県に入り、最初の駅である目時からは青い森鉄道となる。厳密には、目時駅手前の県境が鉄道会社の分岐点だそうだ。この鉄道は線路などのインフラは青森県が第三種鉄道事業者として保有し、青い森鉄道は第二種鉄道事業者としてその線路上を運行するという、上下分離方式をとっている。会社は変わるが運転手の交代はなかった。
南部氏発祥の地
南から順に一、二の順で三戸に来た。「戸」についてはあらためて述べる。青森県に入ると国道4号線に沿って三戸、南部、名川の3つの町と福地村がほぼ4~5キロという等間隔で並んでいる。これに4号線からははずれるが田子町がある。並行する鉄道の駅は、なぜかこれらの役場の中間にある。役場巡りを目的にすると、こういうところは非常に行きにくい。玉山村でそうしたように、駅間に役場があるときは、通常はその両駅間を歩くことにしているが、このように連続していると2~30キロ歩かなければならなくなる。バスを調べてみると、本数は少ないが、上手く行く組み合わせが1日に1回だけあることがわかった。このパターンに乗せようと、時間調整のために使ったのが岩手県内の玉山村、岩手町でもあった。
三戸駅で下車し3分後に発車する田子行きのバスに乗った。「たっこ」と読む。この地の先住民であるアイヌ人の言葉で「小高い丘」を意味する「タプコプ」から来ているという。国道4号線から離れ馬淵川の支流、熊原川に沿って進む。車齢4~50年かと思わせる恐ろしいほど古いバスで、ニスを塗った板張りの床がなつかしい。人口7千人弱、約80%を山林が占めるという町の中心部はショッピングセンターなどもあったが歩く人は少ない。
三戸町役場へはその帰りに行った。駅からは3キロ近く離れている。周辺は商店や銀行などによって小規模な市街地を形作っていた。さらに八戸方面に直線距離4キロ少々のところに南部町役場があり、三戸駅も南部町内にある。庁舎には「南部氏発祥の地」という垂れ幕が下がっていた。
山梨県の身延線沿線、富士川中流の右岸に南部町がある。2003年に旧南部町と旧富沢町が合併し町名に南部が残った。旧南部町には94年に行っており、旧富沢町には03年の、それも合併の一週間前に行った。町名を譲った旧富沢町は役場を取った。その南部と関係あることを今回知ったのである。もともと山梨にいた一族が、平安時代末期の奥州合戦のころ、奥州に遠征しそのまま現在の青森県から岩手県にかけての地域に土着し、出身地の名前から南部氏を名乗ったそうだ。三戸に居城を構え室町時代から戦国時代になり、東北地方北部を完全に掌握した。そして秀吉から岩手県南地方の支配も認められた。三戸では領地の北になりすぎるので、盛岡に本拠地を移し盛岡藩となった。しかしその少し前、家来の大浦氏が津軽地方の反乱を鎮圧するために出征したが、そのまま津軽を占領し続け、秀吉にうまく取り入り所領を安堵され津軽氏を名乗った。
一方本家の方も、江戸時代に入り相続の関係から幕府の裁定で八戸藩が分離している。領地の境界は現在の青森岩手の県境とは一致しておらず、奥中山の峠あたりが境だった。南部氏は領地は減ったものの、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けたという、薩摩の島津氏などと並ぶめずらしい例である。
旧南部町は八戸との間にある旧名川町、旧福地村と合併しこれも南部町となり、旧福地村役場が新しい町役場になっている。どうせ南部発祥の地を誇るのならば、三戸町とも合併しても良かったと思うのだが、そうは行かずお互い張り合うところがあるのだろう。どちらの旧町役場も三戸駅からはほぼ等距離にある。まあそれはともかく山梨県と青森県で、いずれの合併でも南部の名前を残したということは、歴史上の名前はそう簡単に消すことはできないということなのだろう。
弘前から久地街道へ
初日は八戸市の中心部、市役所近くのホテルに泊った。青森県の三八地区というのは私にとっては全くの空白地域であり、JR八戸線の八戸・種市間も私にとって例外的な少ない旧国鉄路線の未乗区間である。昨夜本八戸まで乗って来たので未乗距離は少し縮まった。今回の計画では、当然のことながら役場優先でバスを使うことが多く、本八戸・階上間22キロは依然として残るはずだった。しかし最終日、長距離を頑張って歩いたことでその区間にも乗ることが出来た。それについては後述する。
八戸市役所は旧八戸城の隣にあり、公園の中にあるという感じだ。青森市に次ぐ人口24万の市だけあって、市役所の建物は大きい。江戸時代に分家として立藩した八戸藩は、はじめは城持大名ではなく陣屋を構えていたが、北方沿岸警備の功により幕府より城主格に取り立てられ城を建てた。しかし明治に廃城となり多くの建物は取り壊わされ、現在は本丸跡が三八城公園として整備されたほかは、市役所やそれに続く市街地になっている。
本八戸駅から500メートルほどのところにある市役所前というバス停から岩手県の大野村に行く南部バスに乗り、久慈街道を南下した。大野村を通る二戸と久慈とを結ぶJRバスが数年前までは走っていたが、いつのまにか廃止となり、大野村に行くには久慈からの岩手県北バスか、八戸からこの南部バスしかない。平日の本数は前者が4本、後者が3本だ。さらに言えば2002年、私が久慈に来た時にJRバスにも乗れるフリーキップを旅の途中で紛失してしまい行けなかったところでもある。
大野付近はかつて鉄鉱石が取れたそうで、八戸線建設時も当時の陸軍は海岸線ではなく内陸の大野付近を通過することを主張していたそうだ。バスは市南端の学園に行く通学生で一杯だったが、そこを過ぎると階上町と南郷村との境界の道、すなわち尾根上の道を走る。周囲は平原で雑木林が続いていた。私以外の乗客は3人ほどになり、その人たちも途中で降りてしまった。
終点の陸前大野は、かつてのJRバスの拠点駅並みの名前だけでなく、切符売場跡や売店、待合室のある駅舎風の建物で、ふるさと物産館も入っているものだった。廃止されたJRバスの代替便なのか軽米まで行くコミュニティバスも4往復走っていることがわかった。知っていればもう少し効率の良いまわり方も考えられたかも知れないが、久慈街道を走れたというのも良かった。
大野から久慈までは南部バスに乗った。これも久慈街道の続きだが、こちらは最初から10名近くの乗客があり、途中からの乗車もあり、終点近くの県立病院に着いたときは30人近くになっていた。大野村は他県の八戸よりも同じ岩手県の久慈の生活圏なのだろう。ということはいずれ八戸からの南部バスは廃止となるのだろうか。久慈に着いたときは雲ひとつない、輝くような好天だった。8年前、前線が停滞し豪雨がまだ続くという予報のなか、駅前のしけたビジネスホテルの一室で、濡れたままの服やリックを前に、切符も紛失しすっかり意気消沈し、暗いイメージをもってしまった久慈だったが、それを忘れさせるような天気だった。
三陸鉄道と田野畑村
三陸鉄道に田野畑まで乗った。2両の一般型キハにレトロタイプのイベント車をつないだ3両編成。イベント車は木目調の壁と床にシャンデリアの照明、テーブルのあるボックスシートのもので貸切専用になっていた。この専用車には貸切バスで来た団体が乗ったが、ほかにも2つか3つの団体と30人くらいの小学生のグループが2両の一般車に乗ってきたので、こちらは立ち客が出るくらいの混雑となった。団体客の半分は譜代で降り、残りも田野畑で降りたのでその後は数人が乗っていたのみだった。一般車1両とイベント車は田野畑で切り離し、宮古へは1両で走って行った。
団体はいずれも観光バスで久慈に来て、譜代か田野畑までの間を三陸鉄道に乗る、すなわちこれがコースの一部に組み込まれている。久慈で団体客を降ろしたバスは空車で走ったのち譜代か田野畑駅前で待っている。列車に乗ることが見物のひとつだから鉄道側もサービスにつとめ、見晴らしの良い安家川橋梁上などでは一時停車をする。またワゴンを押した車販のおばさんも愛嬌をふりまいていた。銚子電鉄と同じように、ローカル線の生き残るひとつの道かも知れない。団体グループはいずれも大手旅行者の主催する首都圏など遠隔地から来ていた。
田野畑村役場は駅から5キロ以上離れており、私は事前にここは公共交通機関では行けない役場だとしており、駅前から迷わずタクシーに乗った。しかしそれは間違いだったことに気がついた。村のHPを見ると村民バスというコミュニティバスが走っており、予約運行とあったのでこれは定期便ではないと思っていた。しかし良くみると、そのなかで一部の便だけは予約の有無にかかわらず定期的に運行されている。役場から駅に行くものが朝1便と夕方3便あり、そしてなぜか朝の便のみが有料で夕方は無料とあった。いずれにせよ、バスがあったのにタクシーを利用したというのはわがルールに抵触する。だからこの間は往復歩いたということにしなければならない。
帰りは役場から駅まで歩くと丁度60分要した。田野畑駅で降りてから帰りの列車に乗るまでの125分間に、理論的にはこの間歩いて往復できる。しかし帰りは下りばかりの道だったから、往きに本当に65分で歩けたかどうかはきわめて疑問だ。でもまあこの程度のことには目をつぶらないと、とても3000を越す役場めぐりなどできない、と自分に都合良く解釈することにした。台地上から海岸寄り入江にある田野畑駅周辺に下る道はつづら折りだった。この途中からの入江の風景は抜群で、三鉄の車両が随分大きく見えたが、それは防潮堤の水門の器械室を車両風に作り塗装をしたものだった。
田野畑から久慈に戻り5分の接続で発車する八戸線キハに階上まで乗車した。階上町役場も鉄道駅から離れており1時間近く歩くつもりで、それには階上駅よりもさらに一駅八戸寄りの大蛇駅の方が近いと思っていた。しかし階上駅で列車交換のために7分停車をしたときに、駅前に小型バスが停まっているのを見た。階上町のコミュニティバスで、対向列車の到着を待って間もなく役場方面に向けて発車するという。町のHPで見た時刻表には載っていないものだったが、HPがタイムリーに更新されていないことは良くあること、まあ助かった方へのミスだから良いことにしよう。それにしても列車交換による待ち時間があったからわかったようなものだ。なお久慈を出てから37.4キロの間列車交換駅はなく、随分長い閉塞区間だ。02年に来たときは途中の種市でも交換でき、タブレット装置があったことを覚えている。種市・階上間6.7キロが初乗車区間であった。
階上役場前からは南部バスで八戸市中心街に戻り、しばらく繁華街を散策し、今晩泊る五戸へ南部バスで向かった。
キリストと南部鉄道
五戸町は奥入瀬川と馬淵川の間を流れる五戸川流域の町だが、さらに上流には倉石村と新郷村がある。朝食後旅館にリックを預け、今から新郷村に行って戻ると言うと奥さんから「キリストの墓を見に行くのですか」と聞かれた。そういえば東北地方に「ヘライ」という名前の土地があり、そこにキリストの墓があるということを何かで読んだことがある。かつて新郷村の一部だった戸来村の村名はヘブライに由来するとか、十字架で処刑されたのはイエス・キリストの身代わりになった弟で、本人ははるか極東の日本に逃げてきたという話があるそうだ。義経ジンギスカンよりもはるかに荒唐無稽な話だが、その墓といわれる十字架とか、ピラミッド型の塚も残っているという。
まず新郷村役場に行くために五戸中央から南部バスの金ケ沢行きに乗った。途中にある倉石中学のためのスクールバスのようなもので、大勢の中学生が下車した後客は私1人になった。運転手に聞くと、キリストの墓公園というのがあり、そこへは終点金ケ沢から村営のコミュニティバスで行けるとのこと。しかしその村営バスはこのバスに接続しており1~2分後に発車するという。村役場は金ケ沢バス停から徒歩3~4分のところにあり、キリストへ行ったのでは役場へは行けない。わざわざその後の行程を大幅に変えるまでもないことなので、キリストの方はあっさりとあきらめ、役場に行き同じ運転手のバスで倉石に戻った。
旧倉石村は五戸町と合併し倉石支所となった。この後のバスは5時間後なので、五戸町役場まで歩くしかない。リュックを宿に預けてあったので楽だった。五戸町役場は市街地の東のはずれにあり、町の中心部を越えてさらに1キロほど先にあり、倉石支所からは5.8キロだった。市の中心部に五戸駅という名前のバス停がある。八戸駅(当時は尻内駅)と五戸を結ぶ南部鉄道がかつて走っていたが、1968年、私が会社に入社した年の5月に発生した十勝沖地震によって被害を受け、復旧しないまま廃止となった。その五戸駅跡がバスの営業所になっていた。広い敷地の中には20台以上のバスが駐車しており、うちの半数くらいは行き先表示板に学校名を冠したスクールバスとなっていた。この鉄道は02年に廃止となった南部縦貫鉄道とは全く関係がなく、路線長は12.3キロで途中に6駅あり、ディーゼル車中心で全線所要30分前後、廃止当時には日に12往復走っていたそうだ。
十和田市
旅館でリッュクを受け取り五戸中央から十和田市行きの南部バスに乗った。五戸川から奥入瀬川の水域に入る小さな峠を越え、十和田市内に入り官庁街通りというバス停で降りた。そのバスが走っていた国道4号線と直角に交差する官庁街通りは、幅36メートルで両側の歩道部分だけでも各10メートルくらいあり、歩道の両側に2列、道路全体としては4列の松と桜の並木がある。また赤いパンジーが咲く車道と区別する花壇が続き、なかなかきれいな道だった。もともとは旧陸軍の軍馬を育てていたところを、戦後官公庁用地として整備したそうで、国交省が選定した「日本の道・百選」にも選ばれている。この両側に国・県・市の官庁が並んでいる。市役所の写真を撮ってから次のバスに乗ろうと思っていたが、市役所までさらに数百メートルのところで十和田湖町方面に行くバスが来てしまったので、手前の現代美術館前から乗車した。
十和田観光電鉄バス(十鉄バス)に30分ほど乗車し、十和田湖支所前で下車した。十和田市の西隣に十和田湖岸まで広がる十和田町があったが05年に十和田市と合併した。コンビニで買ったパンとジュースを近くの道の駅で食べ昼食とし、帰りのバスに乗り市役所前で下車した。この区間は八戸から十和田湖に行くJRバスもあり、道の駅と現代美術館前に停まり、さらに六戸にも停まるのでこれを使う手もあったかも知れない。市役所も官庁街通りに面しており、並木越しに良い写真が撮れたと思っている。予定では行きの僅かな時間に市役所の写真を撮り、帰りはそのまま十和田湖市駅まで行き、六戸に行くバスに乗ることにしていたが、並木道をゆっくり散策し十和田湖市駅まで歩くことにした。
約1キロ続く並木はこの市の豊かさを感じさせ、それは周囲に広い農地や牧場が多く、北海道の十勝地方のように農業や牧畜業で成功しているのかと思った。しかし国道4号線に戻り、駅に向かって立派なアーケードの下を歩くといずこも同じで、半分以上、いや三分の二くらいはシャッターが降りたままだった。またビルを取り壊した跡が、アーケード越しに広い駐車場になっているところもあった。
十和田観光電鉄の十和田市駅は、国道4号を右折してからも500メートルくらい先にあり、結局市役所前からは2キロ近く歩いた。以前はもっと手前にあったそうだが、1985年、駅ビルの建設とともに三沢方面に後退したという。旧駅跡は家電の量販店など、郊外型の大型店舗が並んでいた。ところが駅ビルの方は、かつてダイエーのFC店だったショッピングセンターが閉店し、シャッターの降りた通路を辿って電車やバス乗り場に行くという、夜なんか薄気味悪そうな侘しいたたずまいだった。電車の改札口は2階にあり、そこから道路と小さな水路を跨ぐ連絡通路を通り、その先にある1線だけのホームに降りるようになっている。そこには元東急の2両の7700系が停車していたが、発車間際になっても客は数名だった。
駅ビルの一部、水路と道路の手前はバスのブラットホームがあり、ここが十鉄バスのターミナルになっている。南部鉄道バスの乗り場はこのバスターミナルではなく、駅ビルから少し離れた道路上にある。路線で競合する部分があるのかも知れないが、これだけ路線バスの乗客が減ってしまった時代になったのにまだこんな競争のようなことをしている。公共交通のシームレスサービスを行うことにより、少しでも利用者の利便性を高めるという努力をしなければならないし、公共交通企業同士の協調が必要な時代に来ていると思うのだが。
大規模ショッピングセンターのはしり イオンモール下田
十鉄バスの八戸線で六戸中央へ、町役場に寄りさらに同じ路線を百石中央まで乗った。途中イオンモール下田前を通った。1995年にオープンした大規模複合ショッピングセンターで、今は同様のものが全国各地にあるが、ここのものは比較的初期のもので地方にこんな大規模なものを作ったということで当時話題になったことを覚えている。かなり広範囲から客が訪れ、八戸市や十和田市周辺だけでなく、岩手県北部から来る客もあるそうだ。十和田市内のアーケード街のシャッター通り化も、駅ビルのショッピングセンター閉店も、ここの影響かも知れない。
この日の最後は百石町と下田町とが合併したおいらせ町のふたつの旧役場に行くことだった。百石中央バス停近くの旧百石役場からおいらせ町役場となった旧下田町役場までは、コミュニティバスも走っていたのだが時間帯が合わず2.8キロを歩いた。さらに下田駅までも歩こうと思っていたらちょうどそのコミバスが来たので均一料金200円を払ってそれに乗った。運行はすべて十鉄バスに委託しており車両も同社のものだった。
下田から八戸までは東北本線で2駅、12分ほどだったがフリーキップの範囲外だったので230円を支払った。12月には東北新幹線が青森まで延伸し、そうなると青森までのこの路線も青い森鉄道に変わる。定期券の切り替えなどの案内がすでに貼られていた。八戸からは新幹線で1駅12分、本日宿泊する二戸で降りた。それにしても良く歩いた1日だった。歩数計は3万1千歩を越えていた。
一戸から九戸まで
最終日、二戸市内の旅館に近い八幡下というバス停から岩手県北交通のバスで九戸に行った。これで四を除く一から九までのすべての「戸」に行った。岩手県内が一、二、九、青森県内が三、五、六、七、八だ。市が二と八、村が九、あとは町である。四だけがない。また九戸は岩手県内の九戸郡に、三戸は青森県内の三戸郡として郡名にも使われている。私は一戸と二戸には02年夏に、七戸には06年夏に行っており、今回残りすべてに行った。結局一、二、七、三、八、五、六、九の順となった。
平安時代の末期頃から、この地域は四門九戸の制というものが施かれており、東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」に分かれていのが現在に至っているそうだ。四戸については、それが訛って別名になったとか「死」につながるのでそれを使わなくなったなど様々な説があるようだが、自治体名としては残っていない。平成の合併によって、隣接自治体と合併したところもあったがいずれも名称だけは四を除く一から九までが残っている。
県境を歩く
九戸から二戸に戻り、市役所近くの福岡川俣というところで下車した。次に乗るJRバスもここを通るので駅まで戻る必要がないからだ。しかし本当は別の理由があった。02年に二戸市に来ていると前述したが、実はこのときは正確には市役所庁舎の前まで行っていないのである。車軸を流すというような豪雨で屋根のある福岡川俣バス停から一歩も外に出られず、そのうちに次の行程が迫ってきたので近くのタクシーの営業所に駆け込んで駅まで戻っている。このときバス停のすぐ横に二戸市役所入口と書かれた看板があり、これを市役所の門柱ということにして、この写真を撮って1115番目としてカウントしていたのである。このことはその後も気になっておりいつか再訪してしっかり庁舎の写真を撮ろうと思っていた。そしてやっと今回8年ぶりにそれが果たせたのである。
屋根付きのバス停も看板も当時のままだった。庁舎はそこから300メートルくらい先の、左右にカーブの続く道を登って行った小高い丘の上にあった。これでも行ったということにしていたのだから、インチキをしていたと言われても仕方がない。他にこういうところがあるのかと聞かれたら、あと2~3カ所はあります、と正直に答えるしかない。
市役所の下から軽米に行くJRバスに乗った。金田一駅前を通る。フリー切符で乗れるJRバスは盛岡・久慈間の白樺号、二戸・久慈間のスワロー号など、JRバス東北の定めている観光路線だけでこの路線は対象外だ。わかってはいたがひょっとして、と思い運転手に聞いてみたら切符を見てしばらく考えてからやはり使えないと言われた。1020円支払ったが、今回のフリーキップではJRバスの恩恵は受けられなかった。軽米町役場に行き岩手県100%を達成した。軽米からは二戸や八戸からの路線バスの他、九戸や大野へ行く委託運行バス、町内を走るコミュニティバスもあり、ほかに盛岡からの高速バスもあった。しかしいずれも日に数本と本数が少なく、しかも大半が朝夕に集中しているので、九戸、軽米、大野に行くには二戸や八戸を拠点にしないと無理だった。
この後は八戸行きの南部バスで県を越えた南郷村(現八戸市)から八戸に出て新幹線で東京に戻る。しかしバスが少なく軽米で3時間、南郷で1時間半待たなければならない。地図を見ると軽米町役場から旧南郷村役場までは直線距離で7キロくらいなので峠越えはあるが天気も良いので歩くことにした。間もなく道路標識があり南郷11キロとあったが、後日地図ソフトで測ってみたら歩いたのは10.9キロだった。陸前高田から北上山地を縦貫して八戸に至る国道340号線を歩いたのだが、この国道の前陸前高田から住田町まではつい3カ月にバスに乗っている。
いったん新井田川の谷に降り、橋を渡り県境の小さな峠に向かって登って行く。リュックを背負っていたが道が良いしそれほどきつい勾配ではないので、山岳トレッキングに比べたらはるかに楽だろう。青森県側に入ると高原の中の道になる。車も少なく歩き易かった。八戸自動車道に着かず離れず、ときどき近くに高速で走る車の走行音が聞こえるので、熊とか猪とか猿などは出てこないだろうと安心する。途中3回各5分間の立ったままの小休止を含め、138分で南郷区役所に着いた。南郷村は八戸と合併し南郷区となったので、バス停は南郷区役所前という名前だった。軽米で待ってから乗るつもりだったバスよりも50分以上早く南郷に着いたので、近くの道の駅で食事をし、そのバスを待った。予定ではさらに1時間半後のバスに乗ることにしていたので、結局その分だけ早く八戸に着いた。
帰りの新幹線の時間まで、八戸市内の散策でもしようかと思っていたが、八戸線で階上まで往復できる時間があることがわかった。そこで本八戸から久慈行きの列車に乗った。高架で市内を走り、鮫を過ぎてからは小さな岬に忠実に沿うように海岸縁をU字状に辿った。かつて陸軍はこの線が海寄り走ることに反対したそうだが、その後どんな経緯でそうなったのか。列車は常に艦砲射撃の標的になりそうな走り方をしていたが、おかげで景色は十二分に堪能することができた。
階上では八戸行きの列車がすでに待っていた。2日前に久慈からここまで乗ってきたものだ、これで八戸線の全線乗車を達成、現在営業中の旧国鉄路線で未乗なのは鶴見線の大川支線、武蔵白石・大川間1.0キロだけとなった。八戸では13分の接続で東京行きのはやて26号に乗った。ホームの反対側には、来年3月から営業運転する超ロングノーズのE5系が停っていた。
今回は4日間で青森岩手の22市町村に行くことができた。岩手県100%達成、青森県は残り12とし、全体では残りは349となった。さらに忸怩たるものがあった二戸市役所庁舎の写真も撮ることができ、スッキリとした気分になることができた。