今回の旅はもともと1月に予定していたのだが、思わぬ腰痛に見舞われ、4月になってようやく実現した。厳冬の上雪も多かったので、もし当初通り行っていたら交通機関に遅れや運休があったかも知れず、正解だったと思う。ただし新宿から津山までの夜行高速バスは、1月中ならば2割引という特別料金だったものが今回は通常料金で、その差1900円が余計にかかってしまった。
4日目に雨に会った以外は好天が続き、どこも桜が満開で、日本にはこんなにも桜が多かったのかということを改めて知った。最終日、福知山線の時刻が3月に改正されていたのを知らず、予定していた2カ所には行けなくなってしまったが、その代わりに本州一標高の低い中央分水界として地理ファンには良く知られている石生の水分けを見ることができたことは収穫だったと思う。
夜行高速バスで津山へ
両備バスと関東バスとの共同運行による新宿・倉敷間の「マスカット号」は、津山までは高速道路を走り、その先はJR津山線に沿う国道53号線を、主要バス停に停まりながら岡山に出て、さらに倉敷まで行く。3列独立型の座席で、比較的ゆったりしており、窓側の席はカーテンを閉めると完全にプライバシーが保てる。いままで体験した夜行バスの中で、設備面ではベストだったかも知れない。乗客は15人くらいだった。
海老名SAでの休憩時間は車外に出ることができたが、他では運転手が交代するだけで車外には出られない。交代運転手は、階下トランクルーム横の仮眠室に車両の外側から出入りする。深夜3時、どこだかわからないがSAで30分近く停車した。また津山インターから出る直前、多分勝央SAだと思うが、15分くらい停車した。その他にもどこかで停車したのだろうが、眠っていて気がつかなかった。
津山には定刻5分前の6時30分に到着、3人が下車した。津山バスセンターは、駅前広場と道路を挟んだ対面にあり、ここも一度にバスが20台くらいは入ると思われる広さだ。だから津山駅前というのは広場ばかりの殺風景なところで、城跡や中心市街地は吉井川を渡った対岸にある。というよりも駅が川向こうの町はずれにあるという方が正しいのだろう。
18年目の雪辱 美作市
津山には1993年5月の連休に来て以来18年ぶりだ。役場めぐりの189番目に来たのだから、始めて間もないころで、奈良県に次いで2番目の役場巡りだけを目的にした地方遠征だった。そのときJR姫新線沿線の、今は美作市となった勝央、美作、作東などの町にも行くつもりだったが、勝間田駅近くの勝央町役場にしか行けなかった。事前調査の不足もあったが、当時は行きあたりばったりの出たところ勝負で、今考えると随分ずさんな回り方だった。
今回はそれらのリカバリーであるが、そのときに乗降したはずの林野駅や美作江見駅の記憶が残っていない。当時こんなチャレンジをいつまで続けるか半信半疑だったし、本当にまた来るだろうかと思っていたような気がする。しかし結局、18年間に2800近くも回ってからまた来たので、我ながら凄い事だなあと思った。
旧作東町役場は美作江見駅から2.5キロ離れた小高い丘の上にあり、町全体を見降ろす、まるで山城か宮殿のような庁舎だった。駅から坂を登り往復1時間近く要したが、この丘の下に中国自動車道が走っており、バス停も近くにあった。津山・大阪間の高速バスが日中1時間に1本走っており、他にも勝間田、美作インター、津山インターにも停まる。各所で1~2名の乗降客があったので、地元の人はJR姫新線と上手く使い分けているのかも知れない。今回は全く考えていなかったが、高速バスを併用すればより効率よく、楽に回れたかも知れない。
公共交通では行けなかった旧富村 その代わりベンツで往復
津山に戻り、駅前食堂で昼食を取ってから津山市西隣の鏡野町に向かった。05年3月に旧鏡野町、奥津町、上斎原村、富村の4町村が合併し、町名も町役場本庁舎も鏡野が取った。合併後の人口が15千人少々だが、うち旧鏡野町が11千人強、他の3町村を合わせても4千人弱なので当然なのだろうか。旧鏡野町は津山の市街地とつながっており、津山の郊外という感もあるが、他の3町村は山奥の過疎地そのものだった。
このうち富村については、公共交通で行けない村と判断せざるを得なかった。津山駅と久世駅からそれぞれ1日1往復のバスがあるのだが、いずれも朝富村を出て夕方戻るもののみ、だから日帰りができず現地に泊る以外にない。しかし泊るところがないのだ。宿泊施設を探そうと事前に富振興センターに電話したが、近くには全くなく20キロくらい離れた奥津温泉に行けとのことだった。
まず津山駅前から奥津温泉の4~5キロ手前、旧奥津町役場である鏡野町奥津振興センター前まで50分ほどバスに乗った。超デラックスだが職員がまばらで閑散としていた庁舎の写真を撮ってから、富村に行くためにあらかじめ調べておいた近くのタクシー会社に電話をした。車はすぐに来た。こんな山奥だから大都会で走っていた中古車でも来るのかと思っていたらなんと新車の小型ベンツだった。それも左ハンドルで、扉は運転手が降りて開閉するというハイヤー気分のもの。もちろんメーターはついていたが運転台が左にあるタクシーというのは生まれて初めてで、最後まで違和感が拭えなかった。
鏡野、奥津、上斎原は吉井川流域だが、富村だけは旭川の水系なので途中峠を越える。吉井川に沿う国道179号線の分岐点からは9キロほどで旧富村役場に着いた。ひっそりと山間に佇む小さな集落にあり、合併直前の人口も800人台、庁舎も古くて小さなものだった。タクシーを待たせ写真を数枚撮ってすぐに引き返した。国道に戻り近くのバス停で降してもらったがここまで通して5020円だった。歩いての往復はもちろん無理だが、自転車でも峠越えは結構きつかっただろう。公共交通としてのバスは一応あるが役場めぐりには全く使えない、そういう富村だった。
1時間ほどバスを待って最奥の上斎原に行った。旧上斎原村も合併直前の人口が900人前後だが、こちらは国道沿いなので振興センター周辺にはドライブインや商店があり、富村のような物音ひとつ聞こえない静寂はない。この先はウラン鉱床で知られている人形峠をトンネルで抜けると鳥取県三朝町となりさらに倉吉市に続く。人形峠のウランは一時国産燃料として期待されたが品質が低く採算に合わず、今は採掘していない。日本交通の倉吉・大阪間の高速バスが1日に6往復、ここを走っている。鏡野町から津山市に入ったところの院庄インターから中国自動車道に入るもので、上斎原から3時間半ほどで大阪なんばに着く。うち2本は奥津温泉のバイバス上にも停まるが、その他はノンストップなので役場めぐりには使えない。
最終の津山行きに乗り奥津温泉に戻った。美作三湯のひとつとして、また江戸時代には津山藩の湯治場として歴史のある由緒ある温泉だそうだ。大小10軒くらいの旅館やホテルがあり、バイパスからはずれた温泉街もそれなりの雰囲気を残していた。その中の民宿に泊まったが、他に客はなく、広い湯船にゆったりと浸かることができた。
3つのコミュニティバスを乗り継ぐ 旧阿波村
2日目は朝食抜きで6時台のバスで旧鏡野町へ、町役場本庁舎に行き30分後のバスで津山に戻った。昨日中に鏡野まで来て泊りたかったが、ここにも富村と同様宿泊施設がなく、泊りたければ奥津温泉か津山に行ってほしいとのことのようだった。合併による新町内でのさまざまな機能を統廃合するひとつなのか、旅館やホテルは奥津温泉だけに一本化し、温泉街の繁栄を呼び戻そうとする戦略なのかも知れないが、これはこれで合併による総体的効果のひとつと言って良いのかも知れない。
朝一番のバスはガラガラだったが、30分後のものは津山市内複数の高校に通う通学生で一杯で、津山まで座席に着けなかった。次に行くのは05年に津山市の一部になった旧阿波村だ。津山から鳥取に向かう因美線に沿って、津山の北隣に旧加茂町があり、阿波村はさらにその先にある。旧加茂町へは前述した93年に来ている。今考えてみると、このときは駅から歩いて行ける、行き易いところにばかり行っていた。旧阿波村役場は県内最後の駅である美作河井駅からさらに4.5キロほど山奥に入ったところにある。因美線も当時よりもさらに本数が減り、2~4時間に1本と使い勝手が悪い。津山市のコミュニティバスがあるが、途中2度の乗換が必要で、本数も日に5本と少ない。しかし日帰りのできる良いタイミングのものを見つけることができた。
津山市では、いわゆるコミュニティバスを「公共バス」と称して多くの路線を運行しているが、合併前の体制をそのまま残しているのか路線が細切れになっている。旧加茂町に向かうのが「ごんご加茂線」で、これは津山東郊のイオン前を起点に、津山中央病院を経由して加茂支所に向かう。そして加茂支所から旧阿波村に行くのが「市営阿波バス」である。「ごんご」というのは「津山地方の方言で「かっぱ」のことだ。
まず津山駅前から「東循環ごんご線」でイオン前まで行った。どこの都市にもあるような広い駐車場をもつ大型ショッピングセンターだが、なぜかバス乗場が店舗の入口から最も遠い駐車場のはずれにあった。外食全国チェーンのガストが開いていたので、加茂線の発車までに朝食を取った。「ごんご」と名前のつくバスはいずれも1乗車200円で、さらに乗継の割引もあったようだが気がつかなかった。東循環線、加茂線とも乗客定員25人前後の日野リエッセだったが、どちらも数人の客がいた。
加茂支所までは35分ほどだったが、これで200円は安い。93年に歩いた加茂駅から支所までの約1キロの道と、庁舎の姿はなんとなく覚えていた。そして20分ほどの接続で「市営阿波バス」に乗った。今度は乗客は往復とも自分1人だった。こちらは均一料金ではなく距離制で阿波庁舎までは片道250円だった。運転手の話だと、1台の車両を1人の運転手で終日運行しており、勤務時間は14時間に及び、昼食の時間も満足に取れないとのことだ。朝夕は津山に通う高校生が乗るが、その便はJRの美作河井駅発着になるという。旧阿波村は合併直前の人口が700人を切っている。この先は行き止まりだから車の通行も少なく、静かな、山奥にひっそりとたたずむ村という感じだ。かつては林業で栄え高所得者が多かったという。上下水道も完全整備されており、県内では早い方だったそうだ。
帰路も同じように加茂で乗り換え、「ごんご加茂線」の途中、草加部というところで下車し、少し歩いて奈義町に向かう中鉄北部バスの走る国道53号線に出た。53号線は岡山と鳥取を結ぶ主要国道だけあって車の通行量が多く、営業中のドライブインも多い。先に遠方の奈義町に行き、津山に戻る途中旧勝北町に寄った。勝北も05年津山市と合併しその一部になったが、奈義だけは単独の町として残った。町域のかなりの部分を自衛隊日本原駐屯地が占めているので財政豊かなのかも知れない。
桜満開の津山城
次に乗る列車まで2時間ほど時間があったので、駅の手前で降り、旧出雲街道の古い街並みを歩き津山城に行った。初代藩主の森忠政が1616年に完成させたもので、日本三大平山城の一つに数えられるという。明治の廃城で建物はすべて取り壊され、城跡は鶴山公園となっているが、ちょうど数千本の桜が一斉に開花しており実に見事だった。「津山さくらまつり」の期間でもあり、平日だったが多くの客で賑わっていた。05年に「備中櫓」という城内最大規模の櫓が復元されたので、見る角度によっては城全体が復元されているようにも見える。特に駅方面からはそのように見えた。
津山を中心とする岡山県北部はかつて美作という一国だった。内陸の山間地ではあるが、特に津山市から現在の美作市にかけては吉井川とその支流吉野川の盆地が広がり、人口も少なくはない。山陰地方と同様昔から製鉄の盛んな土地で、たたら製鉄も行われていたそうだ。ただし美作国は古代から安定勢力が出ず、江戸時代も小藩に分割されていたという。
津山は出雲と大和を結ぶ出雲街道の中間拠点でもあり、江戸時代には参勤交代でも賑わっていたそうだ。現在も残されている出雲街道は、城防備のために途中屈折しながら東西に延びており、古い街並みの狭い道を、コミュニティバス(東循環ごんご線)の小型バスが走っていた。
ここも日帰りできないが、温泉へ行くバスがあり助かる 旧加茂川町
岡山県もいよいよ残り二つになったが、行きにくいところしか残ってない。合併で吉備中央町となった旧加茂川町は、ここも富村と同じパターンの朝夕だけのバスしかなく日帰りができない。ただし旧役場周辺には宿泊施設はないものの、さらに10キロくらい先の湯の瀬温泉に宿がある。そしてそこへ行くバスが役場めぐりには大変都合良く出来ている。旧役場のある下加茂というところで、そこを始発とするその温泉方面に向かうバスに乗り換えるようになっているからだ。
合併相手の旧賀陽町には05年5月に行っている。定年退職後の1年目で、この年は精力的に月1のペースで全国に出かけていた。このときは岡山県の主として西半分を回り、旧賀陽町へは高梁からバスで往復した。2つの旧町間を結ぶバスはなく、旧加茂川町へは津山線の金川駅からのバスがあるのみだが、これが前述のように朝夕だけなのだ。
津山からJR津山線の岡山行きの快速「ことぶき」に乗った。2~3年前に廃止された急行「つやま」の代替列車なので急行型キハを期待していたが、普通に走っているキハ47系の2連だった。ほぼ座席一杯の客は、ほとんどは岡山まで行く様子で、津山発18時2分ということもあり、この区間を通勤している人達かも知れない。45分ほど乗り金川駅で下車、ここは旧御津町だが今は岡山市の一部だ。金川駅前からのバスは16時台と19時台の2便しかない。後者に乗ったのだが、旧役場のある下加茂まで行ったのは私の他は女子高校生が1人だけだった。バス停は旧役場の直前だったが、真っ暗で写真は翌朝撮ることにした。10分ほど待ってそこを始発とする温泉方面へのバスに乗ったが、客は私1人だけだった。15分ほどの乗車で湯の瀬温泉に着いた。温泉宿が一軒あるだけの、山間の鄙びたところだった。
老夫婦がやっている旅館は他に停まり客はおらず、もう桜の時期なのに宿帳に名前を書いたのは今年の2行目だった。日帰入浴や料理だけの客もいるとのことだったが、なんといっても学校がなくなったのが響いたと言っていた。先生の歓送迎会やPTAの会などの宴会や学校関係者の宿泊がなくなり、子供の声が聞けなくなり、周辺が死んだように静かになったという。
翌朝、帰りも同様下加茂で乗り換え、このときに庁舎の写真を撮ったが、金川に行くバスは朝は1便しかないので最初から高校生で座席が一杯になった。富村と同じように、公共交通機関では行きにくい甚だ不便な役場だが、富村との違いは下加茂を国道429号が通過していることだ。この国道は倉敷から県中央部の山間を縫い津山市に至り、さらに東に向かい兵庫県中北部の山間を縫い京都府の福知山まで行く。だから車の往来も多く、付近にコンビニやドライブインなどもあり、上斎原のような雰囲気だった。国道というものが、地域活性化にそれなりに貢献しているということがわかった。
岡山県100%達成を祝ってくれた満開の桜 旧旭町
さていよいよ岡山県最後の旧旭町である。金川から各駅停車で津山方面に戻ること45分、亀甲で下車し美咲町役場前からコミュニティバスに乗った。美咲町というのは05年3月に中央、柵原、旭の3町合併による町で旧中央町役場が美咲町役場になっている。旧中央町には前述した93年に来た。旧柵原町には07年1月に来て廃線となった同和鉱業片上鉄道の駅跡なども見ている。このときには県東部から兵庫県西部に行っており、智頭急行沿線の現在は美作市となった旧大原町などに行っている。
乗ったのは「かめっちバス旭線・柵原線」という支所間連絡バスで本庁舎から両支所へ各3往復ずつ走るものだ。定員14人のハイエースコミューターで運賃は無料。庁舎間の文書類を搬送するのが主目的で、ついでに住民も乗せてあげようというものだが、住民に限らず誰でも無料で乗れる。途中の町民会館など主な施設にも寄って行く。この町では他にも有料のコミュニティバスを走らせているので、厳密な意味で公共交通と言えるかどうかわからないが、役場めぐりには助かるバスだ。徳島県の吉野川市で同じような庁舎間を結ぶ無料バスに乗ったことがあるが、他には利用した記憶はない。
旧旭町は旭川ダム湖畔にあり、桜のトンネルやソメイヨシノにおおわれた小山があり、ちょうどそれらが満開で、まさに1年中でベストな時期に来た。そしてここも前述の国道429号が通過している。実は今朝まで泊っていた湯の瀬温泉からこの旧旭町庁舎までは、この国道で8.5キロくらいしか離れてないことがわかった。随分大回りしてきたが、その気になれば歩いても来ることができた。これで岡山県100%を達成したことになり、満開の桜がそれを祝ってくれた。
中国自動車道を高速バスで美作から但馬へ
同じバスで美咲町役場に戻り、列車で津山に戻り、大阪行きの高速バスに乗った。1時間18分乗り福崎インターで下車、道路がすいていたのでダイヤ通りの、実に正確な走りだった。このバスには前述の柵原などに行った07年1月、兵庫県の夢前から乗って同じ福崎インターで下車している。そのときはインター近くの福崎町役場に寄ってからJR播但線の福崎駅まで歩いたが、今回は町役場を横目で見て直接駅まで歩いた。2.4キロだった。
JR播但線の福崎駅から10分少々の新野まで行き、バスで神崎庁舎と神河町役場前に行った。05年に隣接する神崎町と大河内町とが合併し神河町となったが、旧大河内町役場が本庁舎になった。JR寺前駅のすぐ近くだ。
姫路からここ寺前までが電化しており、ここから先へはディーゼルカーに乗換えなければならない。駅構造は2面3線のホームのほか列車留置用の側線もあった。駅舎は新しくみどりの窓口もあった。近くのスーパーで夕食用にワンカップと弁当を買い、始発のキハに乗った。生野などを通り和田山で乗換え、豊岡で降りた。駅近くのビジネスホテルに泊った。20時近くの市内は静かだった。
かつての但馬の都 出石
旧但馬国に当たる兵庫県北部には03年に来ているが、このなかでまだ行っていなかったのは出石、但東の2町のみだった。両町とも05年4月の合併で豊岡市の一部になった。豊岡駅前から全但バスで27分の出石バスターミナルへ、さらに豊岡市但東支所となった旧但東町役場に行くために出石発のバスに乗り換えた。このバスは途中から大勢の小学生が乗りスクールバスに変身した。学校前では大勢の先生やお巡りさんが見守る中子供たちが降りて行った。愛想の悪そうな印象の運転手だったが、子供たちの「ありがとうございました」という元気な声に「行ってらっしゃい」と快活に応え、全員が下車した後は忘れ物がないか車内を見回り、先生に合図を送って発車した。毎朝くり返される光景なのだろうが、見ていて涙が出そうになった。地域やバス会社が一体となって子供たちの安全を守り、子供たちも社会性を身につける、こういう形のスクールバスがあるのならば学校の統廃合も悪いものではないなと思った。
出石に戻り、市街地を散策した。古くは但馬の国衙が置かれていたところだ。室町時代には山名氏がここに城を築いたものの戦国時代には羽柴秀吉に攻められて落城、江戸時代に播州竜野から小出氏が5万3千石の領主として封ぜられ、山麓に平山城を築き城下町が形成された。小出氏の直系が絶えてからは武蔵国岩槻から松平氏、さらには信州上田から仙石氏が移封された。明治の廃藩置県では出石藩は出石県となり、さらに豊岡県に編入、さらに兵庫県に編入され現在に至っている。現在中心区域は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、豊岡市の条例により、建造物等の現状を変更するときなどは市の許可が必要になるとともに、建物工事に対して補助金を交付するなど保存のための必要な措置が行われているそうだ。
1706年、信州上田から仙石氏が国替えで出石に来た時に、そば職人を連れてきたことから出石そばが名物になったそうだ。出石焼の小皿にそばを盛って出す「出石皿そば」の店が軒を連ねていたが、時間的に食するタイミングではなかった。豊岡市出石支所となった旧町役場は、旧三の丸内にあり、公民館や図書館、子育てセンターなどを併設した比較的最近建てられたようだが、町の風景によく調和していた。すぐ横には辰鼓楼という時計台も建っていた。山裾の城跡も全体が桜に覆われていた。
初歩的なミス ダイヤ改正を知らず
出石からはバスで八鹿に出て、山陰本線で福知山に向かった。2連用に改造された115系でなかなか快適に走るが、単線のため対向列車待ちが多く、特急ならば40分ほどのところを70分も要した。どうも予定に比べて時間がかかると思ったら、JR西日本では3月にダイヤ改正があったことがわかった。特に北近畿エリアの特急の運行体系が大きく変わり、その影響でローカル列車も大幅な変更になった。この情報を知らなかったという初歩的なミスで、最終日の予定が狂ってしまった。
福知山線では先に黒井に行って市島に戻り、さらに石生に行くという稲妻方式を使おうと思っていた。しかしダイヤ改正で各停同士の接続が悪くなり、稲妻方式もできなくなり、結局3町にしか行けなかった。このJRの改正に伴い、石生からの神姫バスのダイヤも変わっていた。
04年11月に山南、柏原、氷上、青垣、春日、市島の6町が合併し丹波市となった。このうち柏原だけは03年に行っており、今回は残りの5町に行けるはずだったが、旧市島町と旧山南町を残してしまった。この地域の昔からの中心は柏原で、織田家の子孫による柏原藩の城下町として、また明治の廃藩置県では柏原県の県庁も置かれていた。だから新市の市役所は柏原になるのが当然だと思っていたら、なぜか氷上町役場がなった。03年に行ったときに見た柏原の町役場は、昭和の初めに建った木造洋館2階建のもので、前庭にある大きな欅の木とともに印象に残っているが、市役所にするにはとても小さすぎて向かなかったのだろう。
旧氷上町役場へは石生からバスで旧青垣町に行った帰りに途中下車して行った。石生の駅からは4.8キロも離れていて帰りのバスは2時間くらい待たないとこない。駅まで歩こうと思っていたら雨が降ってきた。すぐに止みそうにないのでタクシーを呼んだ。10分、1620円だったので結構な距離だ。市役所が本当ならば柏原になるはずなのに、タクシー代がこんなにかかるところになってしまって申し訳ないと、タクシー運転手が盛んに謝っていた。別に運転手さんのせいじゃないよ、と言っておいた。
日本一の低い中央分水界 石生の水分かれ
しかしそのおかげで時間が余り、「石生の水分かれ(いそうのみわかれ)」に行くことができた。石生駅から線路に沿って4~500メールのところに高谷川という小さな川が流れている。この川の両側の土手が分水界になっている。この川は近くの山から流れ出る天井川だ。ここに降った雨は、石生ではわずかな場所の違いで日本海に注ぐか、瀬戸内海に注ぐかが変わる。日本列島の中央分水界は北海道、本州、四国、九州と続くが、石生の分水界は最も低いところで海抜約95m、日本一低いそうだ。少し上流に歩くと高谷川は2つに分かれる部分があり、直進が加古川経由で瀬戸内海へ、上流から見て右が円山川経由で日本海へ注ぐという札が立っていた。またそこには水分かれ資料館があった。
閉館寸前だったが200円払って入ると日本各地の中央分水界の写真が展示されており、この付近のジオラマもあった。海面が今よりも100m上昇すると、ここに海峡ができ本州が東西に分かれるそうで、ボタンを押すと水が増し、実際にそれがわかるようになっていた。17時に閉館となり、館長が駅まで軽トラで送ってくれた。
タクシーで石生駅についたときに、実は1本前の電車に乗ることができ、そうすれば谷川で下車して旧山南町に行き1件稼ぐこともできた。しかしこれはルールに反する。タクシーを利用することによってのみ先行の電車に乗ることができるからだ。列車とかバスとかあらかじめダイヤが決められているものを利用するか、さもなければ徒歩という、その時間範囲での行動でなければならないからだ。そのかわり役場以外のところへ、タクシーで時間を節約して行くことは構わない。この方式で、淡路では高田屋嘉平の記念館に行ったし、秋田城や越後国分寺跡などに行っている。今回もそれと同じことである。
今回の旅は3日目までは抜けるような青天のもと、どこも桜が満開で東日本大震災も一瞬忘れてしまいそうな、まさにわが世の春を満喫した。そして3日目まではすべてが予定通り順調に進んだ。4日目に、ダイヤ改正をうっかりチェックしていなかったことと、雨が降ってきたことから予定通りに行かなくなってしまった。岡山県は100%達成した。兵庫県は尼崎市だけを残す予定だったのが、旧市島町と旧山南町も残してしまった。