このところ年中行事となった初夏の北海道行きであるが、今回は元名寄市長のS氏に連れられて2つの町の首長と会談をし、かつ元市長宅に泊めていただくという、市町村役場めぐりではもちろん初の、大変貴重な体験をした。また本年3月11日の東日本大震災以来議論のかまびすしい原子力発電の、今まではあまり知られることのなかった放射性廃棄物最終処分について、思いもよらず学習をさせてもらった。
今回は旭川以北に残っていた4つの町に行くために、稚内から南下し、名寄でS氏と会い、さらに途中残っていた1町に寄り、札幌で現役時代の仕事仲間に会うという計画を立てた。
宗谷岬と実証実験バス
稚内空港に降り立つのは08年以来2度目だ。前回は稚内市役所のほか利尻島、礼文島に行ったが、役場ではないが是非とも行きたかった宗谷岬を時間がなく断念していた。そこで今回、いろいろと調べていたら稚内市のHPで、6月から9月までの4ヶ月間、実証実験と称して東京から便に接続し空港から宗谷岬に行き稚内市内に戻る臨時バスを走らせていることを知った。そしてその便がマイレージの無料航空券が使える便であることもわかった。料金も2000円で、通常の路線バスで往復するよりも安い。稚内市地域公共交通活性化協議会というところと宗谷バスとの共同事業だと知った。
飛行機は台風6号の影響による機材繰りの関係で稚内に30分遅れで到着したがバスは待っていてくれた。1人でも客がいれば運行するそうで、私の他は松山から来たという老夫婦だけが乗った。宗谷岬は稚内駅から30キロほど東北方にあるが、その中間にある稚内空港からは20キロくらいだ。バスは海岸線を走り、やがてなだらかな丘陵に上り、数十本の風力発電のプロペラ塔や、「宗谷黒牛」の放牧などを見ているうちに宗谷岬に着いた。風力発電は1000Kwのものが57基、いずれも三菱重工業製のものだったが、稚内市内にはこのほかにも20基近くあり、それらはいずれもデンマーク製だそうだ。
宗谷岬は北緯45度31分14秒、「日本最北端の地」という三角形の碑が建っていた。しかし本当のわが国の最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。ここにこんな碑を建てているということは、わが国が北方領土を放棄しているという誤ったメッセージを与えることにならないのか、複雑な気持ちだ。私自身は2004年5月に与那国島の「日本最西端之地」という石碑を見ており、これは正真正銘最西端だと思う。しかし私がここに来たかったのは、最北端に立つことではなく、間宮林蔵像を見たかったからだ。
江戸時代末期、幕府により樺太探検訪を命じられた間宮は、江戸に住む伊能忠敬がもっていたいくつかの測量具、なかでも精巧な羅針盤のひとつを、貯えておいた5両で譲ってほしいと人を介し伊能に依頼した。伊能は2個間宮に送った。それらは当時の羅針盤としては最上級のもので、真北を指すように調整されており、支点にメノウを埋め込み針が自由に動くだけでなく水平を保つという、非常に精巧なものだった。吉村昭の「間宮林蔵」を読んで知ったことであるが、いかに伊能が間宮の探検に期待をかけていたのかがわかる。このくだりを読み感動し、宗谷岬の林蔵像を絶対に見ようと思っていたが、それがやっと実現した。極寒に弱い日本人では例外的に頑強で、類い稀なる精神力が想像される、力強い印象を与える像だった。高知桂浜の竜馬像や鹿児島市内の西郷像が、仰ぎ見なければならないほど巨大で、それはそれで良いのだが、間宮のものは等身大であったことから、わが身と比して余計にその偉大さを感じた。
晴れてはいたが43キロ先の樺太は見えなかった。周辺は「最北の民宿」だとか「最北のラーメン屋」などロシア人には見せたくない「最北のなんとか」という看板がやたらに目立つ。そしてとにかく寒い。観光案内所の温度計は14℃を示していたが風が強く体感温度はもっと低かったのだろう。所定ではバスはここで60分停車し、その間客が周囲を散策できるようにしているのだが、この寒さでは外に居続けることは出来ず、どこかの店にでも入るしかない。松山からの夫婦と相談し早めに発車するように頼んだ。実直そうな運転手は携帯で運転指令の許可を得て、30分で発車してくれた。稚内駅には45分で着いた。バスはさらに利尻礼文へのフェリーターミナルまで行くのだが、客が3人とも降りてしまいここで運転打ち切りとなった。
稚内駅は大改造されており、片側ホーム1本、線路1本だけの駅になっていた。構造的には鹿児島県の志布志駅と同じだ。しかし周辺は市街地再開発の工事が進行中で、バスターミナルなどと一体となった大きな複合ビルを建てていた。中には3スクリーンをもつシネコンも入るそうで、稚内市内ではなんと22年ぶりの映画館の復活だという。
実証実験バスについてだが、もう1往復午前中に、利尻礼文から来る船が着くフェリーターミナルを起点とし、宗谷岬に行き、東京行きの便に間に合うように空港へ戻るものがある。いずれも低床式ハイブリッドの短距離路線用の車両で、観光バスタイプではない。実証実験用に市が購入補助をしたものだそうだ。省エネや環境保全のための実験ならば、このような毎日運行するかどうかわからない観光路線に使うのではなく、もっと市街地で客の多い運行頻度の高い路線に使わせた方が良い。社会実験というと、行政もバス会社も、何かやたらに縛りをつけたがるようだが、観光客にとってはハイブリッドかどうかなどはどうでも良い、快適で景色の見やすい車両かどうかの方が重要だ。もっと自由な発想で実験を行ったらどうだろうか。
稚内駅で札幌までの切符をジパングクラブ30%%割引で買った。そして1駅、南稚内で下車し駅前の海員会館に泊った。風呂やトイレは共用だが4000円と安い。海員はもっと安くなるそうだ。南稚内駅周辺の方が町の賑わいがあり、飲食店も数多く開いていた。初日役場めぐりの成果はゼロだったが、宗谷岬で間宮林蔵に会うという永年の念願を果たせ満足だった。
高レベル放射性廃棄物最終処理の実験場 幌延町
南稚内から豊富まで、宗谷本線最北部は背の低い笹が茂るだけの丘陵地の上を右に左にカーブをしながら単行キハが走る。海上の利尻富士も遠望できた。豊富で下車し町役場に行き、南隣りの幌延町へはバスを利用した。次の各停列車まで4時間半待たなければならないからだ。その間に特急があったが、特急料金を払って乗るよりもバスの方が変化があって面白いと思ったからだ。それが的中した。低い丘陵を越え幌延町に入ると間もなく高い展望塔を持つ数棟のビル群が現れた。(独)日本原子力研究開発機構(JAEA)の施設のひとつである幌延深地層研究センターだ。「ゆめ地創館」というPR施設もあり、展望塔はその一部だった。そのままバスに乗り続け幌延町役場近くで下車した。町役場は駅から徒歩5分くらいのところにあるが、町の規模からすると巨大で、大学か結婚式場のようなデザインに凝ったもので平成3年竣工とあった。周辺は広い公園になっていて随分リッチな感じがした。
駅まで歩くと、無料の貸自転車があることを知ったので、早速それを借り、気になっていた件のJAEA施設へ行った。駅から約4キロで半分ほどは登り坂だったので、自転車を押して歩いた。
このセンターは、高レベル放射性廃棄物を地下に埋めるための研究をしているところで、すでに地下250メートルまで掘り進んだ立坑と水平坑道が掘られている。最終的には地下500メートルまで掘るそうだ。そのまま最終処分場なるのかと思ったら、幌延町との間で将来の処分場にはしないという協定を結んでいるとのこと、それだけであんなに立派な庁舎が建つのだろうか。同じような研究は、岐阜県土岐市にある東濃地科学センターというところでも行われているそうだが、97年に撮った土岐市役所の写真を見た限りでは特段のものではなく普通の庁舎だった。
PR施設でもある「ゆめ地創館」は入場無料、かなり規模の大きいもので、地下の展示室には原子力発電に関する核サイクルなどをわかり易く説明した模型などがたくさんあり、今まさにホットな話題に満ちたところで、もっと便利な場所にあれば見学者で賑わったことだろう。地下の一角に、まだ建設途中だったが「地層処分実規模試験施設」というのがあり、最終的に地下に埋める形にしたモックアップなどが展示されており、初老の品の良い男性が丁寧に説明をしてくれた。
人工バリアという、放射性物質を溶け込ませたガラス固化体、オーバーパックという最低でも1000年間は地下水がガラス固化体と接触することを防ぐ包装材、さらに外側には特殊な粘土による緩衝材で囲んだ、直径2メートル、高さ3メートルくらいの円柱のものを地下に埋めるのだという。現在わが国の年間発生する放射性廃棄物を最終処理するには、このような人工バリアが1900個必要とのことで、現在は国内に処分場がないためにフランスやイギリスに持っていっている。地中に埋める以外に海底に沈める、ロケットで宇宙の彼方に飛ばす、南極の氷山の中に埋めることなども考えられるが、今のところ地中が最も安全で確実だということだった。
原子力発電を行うということは、日本国内で最終処理まで行うことで初めて自己完結する。最終処分地はどこも決まっていないし、どこも受け入れようとはしない。現下の最大イシューである国の原発政策が、政局がらみで歪曲されているきらいがあるが、原発を維持するということがここまでしなければならないということまで含めて真剣に議論されているのだろうか。
私自身原発の是非について、今は正直なところわからない。原発は最先端のテクノロジーであり、他の技術分野を牽引するに違いない。また持続的な経済成長が、人類という種の維持にとって必要なものであり、それには安定的なエネルギー供給が不可欠、そのためにはやはり電気が本命だろう。そして100年とか200年のスパンで見た場合、早晩化石燃料は枯渇するだろうから、今から手を打っておく必要がある。最終的には放射性廃棄物を出さない核融合が本命だと想像するが、それは今の原発の技術の延長上にある。だから軽々に原発をやめるなどと言うべきではないと思っている。しかしやる以上はここまで必要だということをきちんと周知させなければならない。その上で、どちらを選ぶかであると思う。
このセンターの隣には「となかい牧場」があったがそこはパスした。帰りは来た時に苦労した分だけ楽に坂を下り、先憂後楽で駅に着いた。幌延町は東京23区とほぼ同じ面積で、南北50キロにわたり宗谷本線が縦断しており、町内には駅が8つもある。町の基幹産業は牛乳生産を主体とする酪農業で、雪印の工場には大型のタンクローリーが出入りしていた。1992年には5890人だった人口も2010年には4511人と25%も減っている。原子力関連施設にはかなりの人が働いているように見えた。これがなければもっと人口減が激しかったのだろう。
町役場応接室 下川町
幌延から名寄まで、各停列車に2時間10分乗った。各停といっても小さな駅は通過する。この区間は、1日に特急が3往復ある他各停は5本しかなく、しかもうち3本はこのような途中通過列車だ。だから中間の小さな駅には朝夕各1本しか停まらない。単行のキハ54だったが、2人掛け転換式クロスシートで新幹線のお古の座席を使っているようだ。しかし窓と座席配置が合わず景色が良く見える席が少ない。早朝に南稚内から乗った列車に比べ、旅行者や鉄道ファンと思われる客が多く、彼らは良い席を占めているので、途中からの乗客には景色を楽しむことがままならなかった。それでもさすがは2エンジン、北の原野の走りぶりはなかなか軽快だった。
名寄の駅ではS氏が待っていた。初対面だったが、元市長というので恰幅の良い油ぎった人を想像していたが、スリムで精悍な感じで、私より3歳年上とはとても思えなかった。当初予定はここから名士バスで東隣の下川町に往復することにしていたが、S氏が下川町の町長を紹介してくれるとのことで、氏の車に乗せてもらった。公共交通機関で行かなければならないのだが、本日中に名寄に戻れるバスがあることからそれに乗る代わりに車に乗せてもらったという扱いである。博物館などに寄りたいときに、所定のバスでは時間がないので、先にタクシーで行ったりしたことがあるが、それと同じことであると、自分に言い聞かせた。
3年前2008年に廃線となった名寄本線の代替バスで興部から西興部に寄り名寄まで来たが、このときに下川で途中下車すると札幌での飲み会に遅刻するので、ここをスキップしていた。名寄・興部間のバスは日に7本しかないが、名寄・下川間は14本と倍増するので、また来る時には来やすいと思ったからだ。下川町役場庁舎はかなり古そうだったが、内部は名産の木材をふんだんに使ったなかなかきれいで心地よいものだった。そしてこれも初めてだが、応接室に通された。町長は他用ができ名刺交換をしただけだったが、副町長が対応してくれた。
08年にバスで国道沿いの市街地を見たときに、明るく活気のある町に見えたところだ。現在の人口は3717人(2009年3月末住民基本台帳)と多くはないが、木材産業が活発である。応接室にスキー選手の写真が掲げられており、スキージャンプやノルディック複合でオリンピックやワールドカップ大会の日本代表がこの町から多く輩出しているという。立派な施設があるのかと聞いたら、町では持っておらず隣の名寄市のものを使っているとのこと、だから余程すぐれた指導者がいるのだろう。町興しに必要なのは箱ものというハードではなく、人材というソフトではないかと改めて思った次第だ。
小中学校は各1校でスクールバスによる送迎も行っている。中学の野球チームは単独では構成できないので隣の風連町(現在は合併し名寄市の一部)の学校との合同チームを造っている。20キロくらい離れているが父兄が車で送迎しているとのこと。S氏の話では、学校の統廃合というものは、かつては最大の政治問題だったが、最近は父兄の方が統合を望むケースが多いという、子供たちが大勢の友達とともに成長することを、親は望むのだろう。
またかつては下川鉱山があり、最盛期の1970年代には鉱山関係者は家族を含め2千人おり、名寄の飲み屋街は鉱山労働者で賑わっていたそうだ。バスターミナルは名寄本線下川駅跡で、商工会や観光協会、ホールの入った建物があり、その一部がバス待合室になっており、鉄道資料なども一部展示されていた。ここも興部と同じように2両のキハが留置してあった。簡易休憩所にもなっており、ライダーなどが寝泊するそうで、これも興部と同じである。
風連から名寄へ
副町長と30分くらい話し、バスセンターに行き、今からならば風連の責任者である副市長に会えるとのことで、直接車で風連庁舎に向かった。この間を結ぶバスなどはもちろんなく、公共交通だといったん名寄を経由することになる。車を使ったことの理由づけを云々するよりも、こんなチャンスはまたとない。S氏の提案に躊躇することなく向かった。名寄市と風連町が合併したのは06年3月で、合併前の人口はそれぞれ27千人と5千人、編入合併ではなく新設合併である。S氏の著作によると、合併が編入か新設かでもめることが多いとあったが、ここでは名寄が大人の対応をしたようだ。
副市長は気さくな方で、S氏のことを尊敬していることが、言葉の端々から伺われた。案内されたのは市長室で、これももちろん初めての体験である。庁舎は結構大きく、町役場でなくなってからは不要になったスペースもかなり生じたと思う。それらをどのように使っているのか聞いてみたかったが、なんとなく聞き損ねてしまった。ここに限ったことではなく、合併で人はだいぶスリム化したが、スペースの方は余剰感が拭えない。何か会合を開くときに場所取りで苦労している首都圏の我々からすると、随分羨ましいと思っているからである。
この後はS氏の車で名寄市内を回った。現在の名寄市全体の人口は30,608人(2009年3月末住民基本台帳)、うち約千人が自衛隊名寄駐屯地の隊員だそうだ。かつては宗谷本線から名寄本線と深名線が分岐する鉄道の要衝で、国鉄職員だけで千人以上、家族を含めると5千人近くいたという。日本最北の公立大学である名寄市立大学や市立の天文台、自衛隊の名寄駐屯地などを見てから、市東方にあるピヤシリスキー場に行った。国際大会にも使われる公認のジャンプ台の高さに目を奪われた。スキー場の一角にあるホテルの温泉で汗を流した後、S氏の家に招かれた。夕食後奥さんと三人で氏の友人のスナックへ、芸達者なマスターのサキソホーンの演奏や、地元の混声合唱団のメンバーいう奥さんの美声を聞かせてもらった。
元名寄市長S氏
S氏は1942年まれで札幌の短大卒業後名寄市役所に勤務、名寄市職員労働組合書記長などを経て、71年日本社会党より名寄市議会議員に立候補し初当選した。15年にわたって議会で活躍し、副議長などを務めた。86年日本社会党を離党し、革新系無所属として名寄市長に当選、以後連続3期市長を務めた。96年、2000年と、村山内閣で内閣官房長官だった五十嵐広三代議士の後継者として民主党から衆議院議員選挙に立候補したが僅差で落選、いつの選挙も推していた他の人が出られなくなり自分が出るはめになったとのこと。ただし今年11年4月、このままでは無投票になりそうだった道議会議員選挙で、無投票だけは避けなければならないという信念のもと、だれからも推されることなく公示1週間前に自ら急遽立候補した。当然のように落選したが、それを含め今まで10回の選挙を戦ったそうだ。
最初の衆院選落選後、全国市町村めぐりを行い、それを「消えたマチ生まれたマチ」上下2巻として出版した。前文で、選挙活動を通じて日本一広い選挙区(当時の北海道7区)の42市町村が中央政治に翻弄される自治体運営の状況と、ひたむきに生きている住民生活を「自分の目で確かめたい」との思いが募り、この実行が地方自治体行政、政治に携わった者としての決算であり、遍路旅であると決意したとあった。私とは比べることすら失礼な高い志である。できるだけ市区町村長と直接懇談できるよう訪問の1カ月以上前に首長宛てに「訪問要請文書」を出し、綿密な行程表を作成した。訪問時には首長または代行者の署名と公印を得て、それが立派な記録鑑として綴られていた。
1997年沖縄県からスタートしたが、途中で平成の合併の動きが激しくなり、訪問目的も当初のコミュニティ活動の調査、聞き取りから、合併問題に対する自治体の動き、首長の考え方の聞き取りへと変わっていった。当初東京23区を含め市区町村は3257あったが、活動中に109の自治体が消滅し、実訪問数は3125だった。また当書の出版時は1727になった。
訪問活動は、中断期間も含めると8年6カ月、回数にして50回、ただし公共交通機関ではなくほとんどがレンタカーだったので、私よりは効率が良い。訪問日数はトータル618日だった。著作は、市町村役場をただ写真に撮るだけの私にとっても、行ったところの役場の中の様子が手に取るようにわかるようで読んでいて大変面白かった。元市長のような人に対しても、その対応の仕方は役場によってそれこそ上から下まであり、特に対応の悪い役場や職員の態度の記述などは、読んでいて思わず噴き出してしまうこともあった。親しみを感じ、メールで氏と連絡をとっているうちに、北海道に来るならば是非名寄にも寄るよう、そして氏の家に泊まるようお奨めがあり、迷うことなく実行したのである。
元市長と対話ができることですっかり舞い上がってしまった私は、後になって冷静になって振り返ってみると随分失礼なことを聞いたと思う。しかし氏は、行政や議会に無知な私の野次馬的な質問のひとつひとつに実に丁寧に答えてくれた。自ら51%市長であると公言し、出来ないことは出来ないと明確にしながらも、多分多くの市民に対して、主義主張を越えこのように誠実に対応していたのだろうと想像できた。行く先々で会う多くの市民が、氏のことを慕っていることも、ほんの短い期間だったが良くわかった。
市長で大変なのは議会対策であるが、自身は議員出身なので比較的うまく行った方で、市職員経験だけでは難しかっただろうと語っていた。だから外部から来た学者やタレントなど、もってのほかということなのだろうか。革新系市長として立候補したときも、もともと他の人を推していたのが直前に断られ、消去法で自分が出るはめになってしまったが、自身の政治活動の延長として、自らの政治信念を変えることなく続けた、だからブレがなかったと思うと語っていた。言葉の端々にその通りだったに違いないということが感じられた。
自宅は駅から2キロくらいの、普通の住宅が並ぶなかの一軒でどう見ても豪邸ではなく庶民の家という感じだった。居間の片隅にデスクがあり、接客にもその居間を使っていた。食事もその居間で、床に座ってテーブルでごちそうになった。奥さんが札幌に住む息子さん一家と電話で話している声が聞こえたが、その様子からも温かい家族であることがわかった。質実な生活を続け、天下を治めるには、まず自分の行いを正し、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきであるとする「礼記」の「修身斉家治国平天下」、まさにそれをS家で見た思いがした。
以下は会話の中で特に印象に残ったことである。市の職員数は大学教職員も含め600人くらい、大学は保健福祉が中心で全国から学生が集まる。先生が他からスカウトされたりすることがあるが、欠員が生じると市議会で追及される。北海道は食糧自給率が200%なのだから、もっと本州と対等意識をもつべきである。道民は本土を向き、道庁職員も東京べったりである。人口だけは今も北海道各地から札幌へとなびいているが、北海道の中での首都としての札幌の求心力は弱い。仮に北海道が独立国だとしたらどのようにしたら良いのかということを、道民がもっと自ら考えるべきである。
北海道のメリットは歴史が浅いことだ。古いしがらみがないのだから、自由に新しいものを描くことができるはずだ。では歴史が浅いことのディメリットは何かと問うと、独自の文化がない、北海道の文化はすべてがどこかのイミテーションだという。農業については、昨年十勝の農村を見てこれこそ理想的な農業の姿だと思うがという質問に対し、北海道といっても場所によって随分違う。十勝は畑作だが、名寄など道央は米作中心で農民のマインドが全く異なる。米作農民は政府が顧客で政府しか見ていないとのことだった。そのほかにもたくさんの話題に事欠かなかった。
札幌以北を完了
翌朝は名寄7時49分発の快速に風連まで乗り、風連支所に寄ってから1時間後の快速で旭川へ向かう予定だったが、風連には昨日車で行ったので、S氏宅でゆっくり朝食をごちそうになり、風連から乗るつもりだった快速に名寄から乗った。公共交通機関利用に関しては、時間的には辻褄があうので良いとした。
宗谷本線名寄以南の高規格化は、名寄本線廃止の条件だったとの話だが、軌道強化や交換駅での1線スルー化などで、特急は時速130キロ走行も可能になったようだ。快速キハも軽快に走っていたが、惜しいことにロングレールになっていない。カタンコトン音が好きな人もいるが、やはりここは自動車との競合を意識して、少しでも快適になるよう、ヨーロッパではかなりのローカル線まで普及しているロングレール化を行うべきだろう。
旭川駅の高架化は完成しており、今は最後の仕上げか駅前広場を整備中だった。乗継時間が3分しかなく、コンコースなどを十分見ることができなかったが、4本のホーム全体が大屋根で覆われ、ヨーロッパのターミナルを思わせ、日本にもやっとこのような駅ができたことを嬉しく思った。また左右の外壁もガラスカーテンウォールとなっており、大雪山などの山並みも見通せ、北の大地の鉄道駅として、遠来の客にも喜んでもらえそうな大変立派なものである。
だがしかし、高架にまでする必要はあったのだろうか。何しろ駅の裏側は忠別川の広い河川敷で、市街地など皆無だ。大雪山などが多少見えにくくなるかもしれないが、そのために高架にする必要はない。地平でドーム屋根の駅というのも格好良い。どうも箱ものに金をかけるという、バブルが華やかな頃に決めたことを粛々と実行したのかも知れない。鉄道駅の高架化に数値目標があったのかも知れないが、住民からの反対もなく、敷地も十分で工事がしやすい、そんなところを率先して高架化したのだろう。開かずの踏切に苦労している首都圏の住民からみると、釈然としないものがある
深川から空知中央バスで北竜町役場へ往復し、これで北海道札幌以北の市町村を完了し、残りは胆振と道南の4町村だけとなった。札幌まで乗った特急「スーパーかむい」は実に快適だった。07年から運用に就いた789系1000番台で、最後尾はクハだったせいか大変静かだった。軌道も良く、もちろんロングレールでモーター音も全くなく、時速130キロでなめらかに走る、フランスのTGVに乗っているような気分だった。
1年ぶりの札幌は、駅前通りが駅から大通りまで、地下遊歩道が完成していた。
現役時代の札幌在住の仕事仲間と会食をし、翌日はそのうちの3人と恒例のドライブをした。いつも私に合わせて「鉄道」の見所を入れてもらうのだが、今回は室蘭方面へ行き、地球岬から母恋駅に行き列車を見て、さらに明治30年に作られたと言う旧室蘭駅舎を見た。その後白老のアイヌコタンの公園に寄り、千歳空港に送ってもらった。新しい国際線ターミナルと従来からのターミナルとを結ぶ長いビルには温浴施設やシネコンなどもでき、ほんの一週間前にオープンしたばかりで大変なにぎわいだった。広さといい、そのなかでの多様性といい、空港施設としては現在のところ日本一かも知れない。
北竜町が2998番目で、いよいよ残りが261となった。私の市町村めぐりもいよいよ最終コースに入って来た。旅行回数も日帰りを含め200回を超え記憶が定かでないものが多くなってきたが、今回だけは決して忘れないものになると思う。