小笠原村に行き公共交通機関による全国3259市町村役所・役場への訪問を100%達成した。台風のために2度延期し、やっと3度目に行くことができた。船の運航スケジュールから往復6日も要した。たった1カ所のためにこれだけ日数をかけたのは初めてだったが、おかげでかなり詳細に小笠原を知ることができた。そしてここがわが国で最も特異な場所であることを知った。
おがさわら丸
小笠原の父島までは、東京港から約1000キロ、小笠原海運の「おがさわら丸」で25時間半だ。船は1日目午前10時に東京港竹芝桟橋を出港、翌日昼前に二見港に着く。3晩停泊し5日目午後出航し6日目に東京港に戻る。これが基本パターンであり、飛行機などはないので小笠原に行くには丸6日間家を空けなければならない。島民もこのパターンに合わせた生活をしている。ただし多客時などは臨時便が出ることがある。
「おがさわら丸」は6700トン、定員は707人だが往復とも500人くらいが乗船していた。フェリーでないので客室はAからEまで5層あり、最下の客室は船底という感じだ。しかしかつては普通だった隙間を見つけてザコ寝をするスタイルから、今は沖縄航路などと同様1人用のマットレスが敷かれている。100人近く入れそうなレストランの他、スナックや子供室、ビデオ鑑賞室、さらにはシャワー室があるなど長時間航海へ向けた仕様になっている。1997年就航だが内装は最近リニューアルしたのか快適さを感じる。それでも来年には1万トンクラスの新造船に変わるそうだ。2つの台風が近づいているせいか、風浪はたいしたことないが、周期も波長も長い大きなうねりがあった。しかし揺れ防止装置(フィンスタビライザー)があるためか、それほどの揺れは感じなかった。右手かすかに伊豆大島、三宅島の島影を見た後、八丈島沖を18時頃通過、ここで日没となり青ヶ島はもう見えない。船内レストランでハンバーク定食を食べ早めに船室で横になる。今回は最後なので思いきって奮発し特2、すなわち2段寝台の上段にした。ときどき揺れを感じたものの朝までほとんど目が覚めなかった。9時半頃、今度は左手に無人島の聟島列島を見て、そのうちに互いに橋を架けられそうな間隔に弟島、兄島、父島と続く。父島の大きな湾の奥にある二見港に着岸したのは定刻10分遅れの11時40分だった。伊豆諸島を何度か船で渡った経験からすると、二見湾は実に船が碇泊し易いところである。18世紀になってこの島が捕鯨の基地になったほか、遠洋航海の寄港地として重要視されるようになったのは、単に位置的なことだけでなく、この絶妙な湾という地形によるものだということを改めて実感した。
100%達成
埠頭には島中の観光関係者全員が来たのではないかというくらい大勢の出迎えがあり、予約していた宿の主人も看板を掲げて待っていた。他の男性客3人と歩いて2~3分の宿でチェックインした後、300メートルくらい離れた村役場に行った。付近は東京都の小笠原支庁、国の出先機関が入っている総合事務所、警察署などが集まる官庁街で、村営バスの営業所もあった。村役場庁舎の写真を撮り、これで29年3カ月かけた全国3259の公共交通機関による全国市町村役場めぐりを完了させた。
昼休み後、庁舎をバックにした記念写真のシャッターを押してほしいと窓口で頼むと快く応じてくれた。小笠原村役場という表示は入口の扉の上に小さく書かれていただけだったので、国旗と村旗と庁舎が入る構図にし、このために準備した「祝100%達成」の旗を頭上に掲げて撮ってもらった。今迄役場の職員に撮ってもらったのは、2000番目に行った福島県二本松市役所と、日本の最西端の与那国町役場だけである。
しかし30年近くを掛けて達成したことなのに、達成感とか感激とかいったものが湧いてこない。良く考えてみれば当然のことで、これは金と暇さえあれば自分のペースでできることである。バトルを繰り返し何度も窮地に陥りながら達成したような仕事でのプロジェクトなどの達成感とは異なる。これまで日帰りも含めて200回以上の旅をしたが、計画作成の段階から旅の最中を含め楽しい思い出ばかりで、苦労をしたという記憶がないからだと思う。
小笠原の歴史
小笠原村は父島、母島、硫黄島の3つの有人島を含め大小30余りの島々から成り立つ。人口2529人(平成24年3月31日住民基本台帳)で父島に約2千人、母島に450人の他、硫黄島には自衛隊員や気象庁の職員等が住んでいるが一般人は住むことも上陸することもできない。実は年に1回、7月におがさわら丸が硫黄島の周囲を航海するクルーズツアーがあり、当初それに合わせて小笠原行きを計画し申し込みをしていたのだが、台風で中止になった。
父島では2日目に「歴史ツアー」に参加した。太平洋戦争中に、それまで7千人もいた島民の大半が本土に強制疎開させられ日本軍だけの島となった。敗戦後は米軍の占領下におかれ、欧米系島民のみが帰島が許されたが、1968年の返還で全員の帰島が実現し今に至っている。平成元年頃の村の人口は2000人少々であり、その後25%以上増加しているのは、全国の離島市町村の人口が減少しているのが大半なのに対してめずらしい。
長らく無人島だった小笠原諸島に最初に人が移住したのは江戸時代後期の1830年、5人の欧米人と20数名のハワイ島民だった。その後江戸幕府や明治政府の調査、開拓により1876年(明治9年)には国際的に日本領土として認められた。これらの島が信州深志の小笠原貞頼により戦国末期に発見されていて、発見者の名前をとって小笠原諸島と呼んでいた、というのが日本領となった理由だそうだ。わが国の領海と排他的経済水域(EEZ)を足した面積は世界で6位だそうだが、EEZの三分の一は小笠原村によるものだそうだ。幕末から明治にかけての混乱時において、よくここを日本の領土にしたものだと思う。
その後多くの人が小笠原に移住したが、八丈島出身者が多かったそうだ。沖縄の南北大東島に行った時も八丈出身者が多いと聞いた。年に1度だけ、小笠原の返還記念日(4月5日)の前後におがさわら丸が八丈島に寄港するそうだ。大正から昭和の初期には、亜熱帯気候を活かした果樹や冬野菜の栽培が盛んになり、カツオ、マグロ漁のほか、捕鯨やサンゴ漁などが盛んになり、人口も7000人を超えていたという。
島の生活
おがさわら丸が碇泊する二見港桟橋の目の前には丘陵が迫っていて、その左手が大村地区、ここに官庁、小中学校、飲食店やホテルが集中している。その丘陵の右側が清瀬地区、さらにその先が奥村地区である。大村地区と清瀬地区との間は、急な崖にそって車の通る道があるのだが、このふたつの地区を直線で短絡するトンネルがある。2本のトンネルからなり、合わせて300メートルほどの歩行専用のものだが、断面は大型トラックが走れるくらい大きなもので、かつての軍用道路の跡らしい。
最も湾奥にある奥村地区が、欧米系の人が最初に住んだところだそうで、路地の奥まで歩いてみたが、それらしい家屋もなく、それらしい顔つきの人に出会うことはなかった。戦後最初に帰島した欧米系の代表になったのがセーボレーさんという人で、この人が奥村地区に畑や牧場を作ったそうだが、そんなスペースもなさそうだ。セーボレーさんの子孫は、今では50人くらいいるそうだが、なかには日本式に瀬掘さんと姓を変えた家族もあるそうだ。
奥村地区も含め平地部分というのは少なく、かなりの人が丘の中腹にある4~5階建ての集合住宅に住んでいる。他の離島や過疎地では、これらの集合住宅の半分以上は空き家というのが多い中で、この島ではどこも洗濯物が干してあり人の気配がある。市街地のほとんどすべての道を歩いたと思うが、ざっと見たところ、これ以上家を建てるスペースもなさそうだ。7千人もいた時代は、どんな生活をしていたのだろうか。ガイドの話によると、小笠原では家を建てる費用が本土の2倍くらいするそうだ。運搬費が上乗せとなるので資材が高いことと、建築のための技術者が少なく、本土から呼ぶことが多いからとのことだった。
どの集落にも食品スーパーのような店はあるが、衣料品などの買回り品の店がない。小笠原の人は衣類や耐久消費財は殆ど通販で買うそうだ。本土との間には海底光ケーブルが敷設してあり、インターネットだけでなくテレビや電話に使われている。
テレビは地デジ、BS、CSが都内と同じように見え、NHKのニュースでは首都高の渋滞情報を伝えている。比較的最近泊まった式根島や御蔵島のテレビは、チャネル数がかなり少なかったような気がする。 診療所にも行ってみた。建物は中規模な病因並みの立派なものだが、入院患者用のベッド数が20以下なので病院ではない。医師は常勤3人、歯科医が1名だそうだ。お産は本土に行かないとできず、また急患に対しては、海上自衛隊の救難飛行艇(水陸両用)が出動する。なお母島では飛行艇も使えないため硫黄島の自衛隊のヘリでいったん硫黄島に搬送し、さらに飛行機で本土に送るという。
離島に行くと発電所が見たくなる。奥村の市街地の最もはずれたところにあり、今回が離島訪問の最後だと思い、できれば見学させてもらおうと思った。ところが入口の門が固く閉ざされ、インターホンの類もない。敷地を一周してみたが、高い塀や金網が続き他に出入口はないし、中も人の気配がしない。仕方なく市街地に戻り、東京電力の営業所に行き、この島の発電事情について教えてもらえないかと言うと、担当者が後程携帯に連絡してくれることになった。
一隅を照らす
1時間くらい後に約束通り現場の方から電話があった。最終日で船の出る時間が迫り、電話のみでの応対になったが、こちらの知りたいことを誠実に丁寧に答えてくれた。父島の発電所にはA重油で動かす内燃機関による発電機が4台ありそれぞれが1500KW、1200KW、1000KW、600KW、4台すべてが稼働するのは年に1回あるかどうかである。500トン積みタンカーが月に1回程度来るが、900Kリットルと書かれたタンクが5基立っていたので、かなりの備蓄がありそうだ。なお旅客船にはA重油を積むことができないので、専用タンカーを使うという話だが、沖縄の北大東島では乗って来た船から何十本というドラム缶を降ろしていたように記憶している。
発電所には通常勤務が1人の他、2人ずつが3交代で詰めている。そのために4チームを編成しているが、これは東電社員ではなく小笠原グリーン(株)からの派遣だ。同社は、本社を東京港区に置き、発電所の他、水道の管理、ゴミの収集など島のライフラインの維持管理の他、ホテル経営や観光業など小笠原の生活や観光に関し手広く行っている会社だそうだ。
なお母島の発電所には、240KWのものが4台、常勤者1人の他、1人ずつが3交代で働いているという。24時間365日電気を供給するためには、このように常に誰かが見守っている必要がある。他の離島も皆同じなのだろうか。福島の原発事故以来東京電力というと、その体質を含めさまざまな非難を受け、バッシングも浴びている。しかしこのような絶海の孤島で一時も電気を止めないように、文字通り一隅を照らす人たちが頑張っていることも忘れてはならない。
コーヒーと海亀
大正から昭和の初期には、亜熱帯気候を生かした果樹や冬季野菜の栽培が盛んだったが、今でも続いているもののひとつがコーヒーである。日本で初めてコーヒーが栽培されたのが小笠原だったが戦争で中断した。しかし荒れ放題となった農地の中でコーヒーの木が、ひっそりとたくましく生き続けていて、これを今は小笠原コーヒーとして栽培している。摘み取られたコーヒー豆からコーヒーとして飲めるようになるまでどのような工程があるのかは知らないが、その間ほとんどを今でも手作業で行っているという。カフェで1杯1000円もするが飲んでみた。あっさりとした、軽い感じで美味しかった。マングローブの樹の下の安楽チェアーでゆったりと飲むコーヒーもなかなかオツなものだと思った。
もうひとつは海亀だ。かつて小笠原では貴重なタンパク源として食されていた。低カロリー、高タンパクで栄養に富んでいるそうだ。捕鯨の時代にも船員が好んで食べていたらしい。今わが国で海亀を食べていいのは小笠原だけだそうだ。産卵のために浜に来る亀は捕ってはならず、海に泳いでいるものだけで、それも年間350頭までと決められている。 亀は生け捕りにして水槽で生かしておくものだったそうだが、その水槽も壊れてしまい、今はひっくり返して置いておく、するとどこへも行かず3日くらいは生きているので、その後解体するそうだ。食べ方は二通りあり、ひとつは肉の上等な部分だけをとって刺身にする、もうひとつは贓物などすべてを一緒に煮込むもので、これは匂いを消すためにさまざまな香辛料を入れるという。亀の大きいものは100キロくらいあるそうで、刺身にできるのは30%くらいだそうだ。煮込みの方はちょっと自信がなく、刺身を食してみた。亀の肉は白いのでは、と勝手に想像していたら出て来たのは赤い、馬刺のような感じのものだった。こちらも1皿1000円で、確か5切れくらいあったと思う。口の中でトロリと解け筋のようなものは残らない。私にとっては特段美味しいというものではなく、またいつかチャンスがあっても千円も払ってまでは食べないと思うが、他人には勧めたい。
コミュニティバス
父島には村営バスが走っている。2路線あり、ひとつは集落地区を循環する生活路線で平日5本、もうひとつは南部の小港海岸まで行く、どちらかというと観光路線で、役場前発7:00から18:00まで、平日は概ね1時間から1時間半に1本、10往復走る。 小港海岸まで乗ってみた。20分ほどで着く終点は、都内最南端のバス停ということでちょっとした撮影スポットになっている。きれいな海岸だが、周囲には全く人家はなく、レストランの類や飲物の自販機もない。ただしトイレやベンチなどがきれいに整備されていたので、何もすることなく1時間ほど次のバスを待った。
車輛は日野リエッセ、定員30人弱のマイクロバス、車体はブルー地に黄色を基調とし、カラフルなデザインのクジラや亀などが描かれている。往復とも客は2~3人だったが、アロハシャツ姿の運転手は、丁寧にユーモラスに案内をしながら運転していた。全線均一200円、700円の一日券もある。
このバスに乗る前に、バスも担当している村役場産業観光課の課長補佐から話を聞いた。現在の年間運賃収入は400万円ほどだが、コストは2千数百万円なので大赤字である。客数は観光客の動向に依存しており乗り切れないほどになることがたまにある反面、オフシーズンでかつ学校が休みのときなどは1日の利用者が1名ということもあったという。車両は同車種による2台体制だったが、最近閑散期用にトヨタハイエース・コミューターを購入した。いずれも村の所有で白ナンバーだ。運行や保守は3年間契約で外部委託している。運転手は平日2人体制、多分車両の償却費も含めているのだろうが、わが川崎のコミュニティバスに比べるとコストが高い。
コミュニティバスというと一般にはコストを精査するよりも如何に赤字を埋めるかという議論が主のようだ。それは雇用確保など地域の事情からそこにはあまり手をつけないとか、或は安くすると安全が損なわれるなどと言われ、バス運行者から出されたコストを誰も精査していないのではないかと思う。これからは赤字補助の方策よりも、コスト削減について、関係者全員で知恵を絞るべきではないか。尤も東京都という裕福な県だから、いつまでもこのようなことが続けられるのかも知れない。
母島
父島からさらに50キロほど南にあるのが母島で、東京都の有人島としては最南端である。490トン、定員143人のははじま丸に2時間10分ほど揺られ日帰りで往復した。伊豆諸島開発(株)という船会社が運行しており、同社は八丈島・青ヶ島間のあおがしま丸も運行している。父島二見港を7時30分に出港、近くにいる台風の影響か、風浪はあまりないがうねりが5~10メートルあり、次々と押し寄せる山脈のような波を乗り越えながら進み、なかなかスリルがあった。
湾は父島の二見湾にくらべるとかなり小さく、沖港という港の埠頭に着岸した。私自身は、これで硫黄島を除く東京都のすべての有人島に上陸したことになる。母島は南北10キロくらいの細長い島で、人口は450人ほどだ。小型車(トヨタハイエースコミューター)で2時間半、島内を案内してくれるガイドがいたのでそのツアーに参加した。客は私を含めて8人だった。
集落や宿泊施設などは沖港周辺しかないのに、島の南北を縦断する立派な都道が走っている。まず南の終点、南崎ロータリーに行くと、当然ながら都道最南端の標識があった。なお日本の最南端の有人島で、かつ一般人でも行けるのは沖縄県の波照間島で、竹富町に属する。都道は何カ所かで工事をしており、片側通行用のための工事用信号機が設置され、対向車などほとんどないのに途中で1~2分待たされることが何度かあった。公共工事が盛んである。なお島内には常設の信号機はない。
また北の入り江である北港にも行った。かつてここには450人ほどが住む北村という村があり、漁業や鰹節などの加工が行われていた。独立した村だったので役場や警察、学校などがあったのだが、本土疎開後は帰る人もなく廃村となり無人の地となった。北村小学校の跡地は、ガジュマルに覆われ、道路からの石段と門柱がわずかに残っていた。小笠原には、このほかに兄島などかつて人が住んでいて廃墟になったところがあり、70年もたつと、かつてここに人が住んでいたと想像できないくらい変わり果ててしまう。今のわが国の人口減少のテンポでは、今後2~30年で無人となる市町村がかなりありそうで、このような光景が全国どこででも見られるようになるのかと思うと恐ろしくなってきた。
洒落た都会風レストランの都会風メニューからパスタを選び昼食とし、ロース記念館と言う小さな郷土資料館に寄り、学校や村役場支所、駐在所、郵便局などの集まるメインの通りから港に出てははじま丸に乗った。帰りも小山のようなうねりの中の航海だった。
自然保護
小笠原諸島は2011年6月に、知床、白神山地、屋久島に続いて世界自然遺産に登録された。ところが入植に伴い様々な外来動植物が侵入し、海洋島として独自の進化を遂げた多くの固有種やその生態系が脅かされているという。父島の尾根を南北に走る道路をガイドに連れられて走っていたとき、道路に並行する金網のフェンスが延々と続いているのを見た。島の東半分を保護区とし、野ヤギや野生の猫を入れないためだそうだ。
母島でも同じようなフェンスがあり、グリーンアノールという北米原産イグアナ科のトカゲから在来種を守るためだ。戦後ペットとして持ち込まれたものが野生化し、大変な勢いで増え、固有種を多く含む昆虫類に壊滅的被 害を与えており、保護地域にこれを進入させないためと聞いた。またネズミ捕りを大きくしたようなネコ捕りケースを設置して歩いている環境庁関係のNPOの人にも会ったが、母島内に100コくらいのネコ捕機を設置していると言っていた。捕獲したネコは殺さずに、父島経由で本土に連れて行き、飼い主を見つけるのだと言っていたが、野生のネコを飼う人などいるのだろうか、俄かには信じられない話だった。 また森林については、父島も母島も緑豊かな森林におおわれているように見えるが、アカギという、25メートルもの高さになる外来植物が固有植物に取って代わっているという。小笠原本来の姿を取り戻すためにアカギを除去し植生回復を行うとしているが、なかなか有効な手段が見つからないらしい。戦後空襲で荒れ果てた山岳地帯に樹林を復活させるために米軍が飛行機から捲いたのがアカギの種だった、以上が母島のガイドから聞いた話である。何も手を加えないのが自然保護だと思っていたが、プロアクティブに施策を講じて行かねばならないものであるということを知った。
旧軍の跡
今迄行ったなかで、例外的に旧軍の跡が残っているのが小笠原だ。沖縄でも見なかったものがここには残っている。父島、母島は硫黄島と同じように本土を守る要塞の島として、軍関連の施設が多く造られた。各所に見られる地下トンネルや放置されたままのすっかりサビついた高角砲などがそれである。小笠原では、米軍の空襲はあったが、艦砲射撃や上陸がなかったからだ。
父島にある飛行場跡にも行ってみた。野羊山という小さな岬の付け根の部分に600メートルほどの滑走路を持つ軍の飛行場があった。着陸をしようとしたゼロ戦がオーバーランし、今でも機体が海に沈んでいるという。数人の人が測量のようなことをしていたので、将来の飛行場建設のための調査なのかも知れない。しかし海上に滑走路を伸ばさなければならないはずなので、埋め立てか、羽田のD滑走路のような桟橋方式にしなければならないだろう。
とにかくここではかつて「戦争に勝つため」という一言で、それまでの生活秩序も、自然破壊も一切考慮することなく大勢を動員し突貫工事を行ったことがよくわかる。一党独裁のもと猛烈な勢いで新幹線や高速道路を建設している今の某国のようだったのだろう。交渉がなかなか進まず河川や道路の改修が遅々として進まない今の日本を見ていると、公共の利益のために個人の権利を多少は犠牲にしても良いのでは、と思いたくなることがたびたびあるが、某国の現状だけでなく、わが国もかつては同じような時代があったのだと思うと、それも考え直した方が良いのかとも思ってしまう。小笠原はそういうことを考えさせてしまうところでもある。
おがさわら丸が帰途につくときの港は見送りで大変な混雑だった。そして離岸すると人を満載したたくさんの小船が見送りに付いて来る。そうやって2~30分も付いて来るだろうか、やがて1隻ずつ停船し、操舵士を 残して全員が海に飛び込み別れの挨拶をする。6日毎の、この島の儀式のようだ。
小笠原は我国のEEZの確保のため、また我国の国境を守るための非常に重要な島だ。このような島には、もっと多くの人に進んで住んでもらうことが必要である。そのためには、お産もできないようではだめだし、飛行場も必要だろう。もっと社会インフラを充実させるとともに、この島に住みたくなるようなインセンティブ、例えば住民税や固定資産税をゼロにするような特区にすることもひとつだろう。自然保護も必要だが、国を守ることも必要だ。空港を作ることによって自然が破壊される心配に対しては、便数制限などいくらでも手は打てるはずだ。 急激に人口減が進むなか、わが国にとって本当に必要な島にはこれからますます重点的な施策が必要だ。そして「住んでもらいたい島」と「住んでもらわなくても良い島」とに分け、後者はやがて無人島に持って行くような施策を取ることも必要だ。そのようにして国全体の資源の最適配分を行わなければならないと思う。市町村役場めぐりを通じて思っていた国としての「戦略的凝縮」の必要性を、最後となった小笠原でやはりその通りではないかと改めて思った次第である。