幕間劇(13)「ブルー・スエード・シューズ」
梅雨の合間に、やっと晴れ間が覗いた。それでも降り続いた豪雨は、溢れんばかりに筑ッ後川に降り落ち、悠々たるさまで、有明の海へと突き進んでいる。堤防の際にある沖底の宮は、瑞々しい新緑に覆われて、公孫樹の大木が天を突きあげている。それはまるで、子供達を水難から守ろうとしているような逞しさである。
そして、荒ぶる川面では、幾本もの大木が、その勢いを見せつけるかのように押し流されて行く。空は穏やかな晴天だが、この水量では、エツ舟は出せない。公孫樹木の下では、子供達が久しぶりに訪れた仙人さんを囲んでいる。仙人さんの膝には、六歳に成った神童香那嬢が、ちょこんと座っている。
香那嬢と同じ歳の寝小便小僧芳幸は、狛犬に跨り稲藁の縄を振り回している。どうやら、西部劇のカウボーイに成ったつもりらしい。近頃は、芳幸の敷き布団も大洪水に襲われることはなくなった。だから今はカウボーイ芳幸である。カウボーイ芳幸の兄ちゃんは、竜ちゃんである。
竜ちゃんと、英ちゃんと、ジョーの三人は、この春、地元の中学校に入学した。そして、世の中は、安保闘争で慌ただしかった。中学校への通学路は、渡し船に乗った方が近いのだけど、学校からは、六五郎橋を渡るように訓達されている。そして、未だ軍国教育の香りが漂う学校では、この訓令を守る子供達が多い。赤旗を振りまわしている先生ですら反旗を翻そうとはしない。何故ならそれは子供達の身を守る命令であるから当然なのである。
六五郎橋の上流の橋は、天建寺橋という。電車に乗るために大善寺の駅に行くには、この橋を渡る。でも十数年ほど前までは、ここに橋は架かっていなかった。橋がなかった時代、筑ッ後川には、有明海の河口福岡県大川市から、上流域の大分県日田市までの間に、六十二もの渡し舟があった。昔の木造橋は、洪水で良く流されたのである。無理もない、筑ッ後川のような大河に架けられた橋は長いのだ。だから、木の橋脚が、何本も立っている。そして、大水の時には、上流から数多の大木が押し流されてくる。その流木が、この橋脚にぶつかれば、木造の橋脚は、また元の丸太に戻るわけである。
だから、昭和二十八年の大水害でも、幾つもの橋が流された。小森野橋では、流された橋の上に十二人が取り残された。そして、木造の橋だから、流木と一緒に下流に流れていくのである。つまり、取り残された十二人は、元は橋だった筏に乗っているようなものである。普段なら、久留米市内を流れるこの辺りは、のんびりとした流れである。しかし、この時は激流だ。だから橋の筏は、国鉄の鉄橋にぶつかり三つに砕けた。幸いにも、十一人は岸にたどり着き助かったが、幼い子供が一人亡くなった。
大水の度に流される橋は、通行量がよほど多くなければ金喰い虫である。だから、経済的な面でも、渡し舟の方が良い。下流域の川幅が広い渡し場では、徐々に手漕ぎの小舟からエンジン付きの大きな船に変わっていった。中には、小型トラックも運ぶ渡し船もあった。ただしフェリーと呼ぶほどには立派ではない。
上流域や、人の流れが少ない渡し場では、昔ながらに、小さな川舟も多く残されていた。ディーゼルエンジン付きの大きな渡し船は、車を積める程の船幅がある。だから、台風の日ですら転覆することはない。その点、今でも、川下りや、水郷めぐりで使われている川舟は、横転に弱い。
大きな渡し船では、皆、自転車を持ったまま立って乗っている。しかし、水郷めぐりの川舟に乗った客が、皆、一斉に立ち上がったら、転覆の危険を、ぐっと身近に感じることになるだろう。
昭和二十五年二月十三日の極寒の日、天建寺村の渡し場は、災難に襲われた。折柄の強風で、渡し舟が転覆したのである。そして、冬の冷たい川に流され、六名の小学生が亡くなった。
渡し舟がある村は、ほぼ僻地である。僻地の寒村だから子供の数も少ない、だから、六名もの子供を奪われた村は、天地が切り裂かれたに等しい思いに包まれたのである。これを機に、地元の強い要望で天建寺橋は架けられた。
渡し船での遭難事故は、天建寺村だけの話ではないと古老は語る。もし、橋のたもとに、お地蔵様や、小さな神社があったら、川で亡くなった子供達が祀られていると思って間違いないようである。
日本が高度経済成長で金持ちの国になると、橋も鉄橋に変わり、丈夫な橋脚は、大きな流木にも耐えるようになってきた。だから、大水でも橋は流されなくなった。そうして、それぞれの渡し場には、徐々に大きな橋が架かり、渡し船は姿を消した。だが、僻地の村人は懐かしみ悲しんではいない。渡し船がなくなる淋しさよりも、安全で便利になったことの方に、大きな喜びを感じたのである。
ジョーと、英ちゃんと、竜ちゃんの三人が中学校に入学した時、川には、まだ橋が架かっていなかった。渡し船は、ディーゼルエンジン付きの大きな船だったが、そういう過去の事例もあり、先生達は、渡し船での通学を戒めていたのである。
しかし、吹きさらしの堤防を、自転車で走るのは辛いのである。特に北風が吹き始めると、手の甲と、耳は、霜焼けで「真っ赤っかのピィリピリ」である。そこで、ジョーと、英ちゃんと、竜ちゃんの三人は「安保反対、安保反対、安保反対」と、直向きに自転車のペダルを漕いでいる。
安保が何かは、知らない。知らないものに反対する気もない。しかし、何か掛け声を出さないと、辛いのだ。そして今、大学生のお兄さんお姉さんの間で流行っているのが「安保反対、安保反対、安保反対」である。だから、ただそれだけのことである。辛さを乗り越えるには「安保反対」が一番である。「向かい風反対」や「北風反対」では、気合いが入らないのだ。やっぱり、気合いを入れるには「安保反対」が良いのである。それに、あれだけ勉強している大学生のお兄さんや、お姉さんがそういうのだから、きっと「反対した方が良いに決まっている」と中学生達は、素直に考え「安保反対、安保反対、安保反対」と、今日も自転車のペダルを漕ぎながら通学している。
今日の音楽の時間は眠かった。授業は、音楽鑑賞だったが、兎にも角にも、竜ちゃんにとっては、眠たくなる曲なのだ。竜ちゃんは、小学五年生の時からエルヴィス・プレスリーにはまっている。
近所の兄ちゃんに、使わなく成った古いガットギターを貰ったのだが、毎日そのギターをかき鳴らして腰を振っている。歌ってもいるのだが何を歌っているのかは分からない。時々、ブルー・ブルー・ブルー・スエード・シューズという単語が出るので、どうやら英語の歌詞らしい。でも、英語が母国語のジョーにも、竜ちゃんの英語の歌詞は、聞き取れない。英ちゃんも、祖母ちゃんに英語を習っているが、やっぱり分からないらしい。
ある日、ジョーが「リュウちゃん。何ちゅうて歌いよっと? (どういう意味の歌詞で歌っているの?)」と聞いたが、竜ちゃんは一言「分からん」と言ったそうだ。竜ちゃんに取っては、歌詞はどうでも良いのである。ただ、ただ、ひたすらギターをかき鳴らし、腰を振って、ブルー・ブルー・ブルー・スエード・シューズと、やっているのが楽しいのである。まさしく音を存分に楽しんでいるのだから、誰にも異議は唱えられない。
音楽鑑賞は、ボレロという曲だった。スラブ舞踊がベースになった曲だ。モーリス・ラヴェルというフランスの作曲家が書いた曲である。単調なリズムに乗り、二つのメロディーが微妙に交差しながら高まっていく曲なのだが、ブルー・ブルー・ブルー・スエード・シューズと、勢い良く腰を振るような曲ではない。だから、ついつい眠り込んだのである。それに気付いたマドンナの民ちゃんが、「リュウちゃん。リュウちゃん」と、小声を出し、肩を揺すった。竜ちゃんが、大あくびで目覚めると中田先生がそばに立っていた。“あ~あっ 叱られる…”と、思っていたら、先生は「良か。良か」と、竜ちゃんの頭を、机にそっと押し戻した。そして、皆に小声で「良い音楽を聴いて眠たくなるのはいけないことではない。曲に耳を傾け気持ち良くなったら寝てしまうことも良くある。逆に言えば眠たくなるのは良く曲を聴いている証拠でもある。だから、眠たくなった人は寝ても良い」と、語りかけていた。その中田先生の話に、竜ちゃんはすっかり目が覚めてしまった。そして、ブラスバンド部に入部することに決めた。もちろん顧問は中田先生である。
担当した楽器は、トランペットだった。どうにか音階が吹けるようになると、ロックンロールばかり吹いていた。流石に、中田先生も呆れて笑いながら「たまには他の音楽も吹いてくれ」と、JAZZのレコードを貸してくれた。家に帰って練習する時は「夜霧のブルース」を吹いた。この曲なら日頃「うるさい!! 小さな音で吹け」と、怒鳴る父ちゃんも文句を言わないのである。
父ちゃんの辰ちゃんは、村田英雄のファンであるが、デック・ミネも好きである。村田英雄と、デック・ミネとでは、歌う曲調が違うのだが、共に男らしいので好きなのだそうである。そして、夜霧のブルースは、十八番である。辰ちゃんは「音楽に好き嫌いは持つな」と、日頃竜ちゃんには言っていたのであるが、さすがにロックンロールは、受け入れがたいようだった。
辰ちゃんは、陸軍工兵隊だったが、美夏ちゃんの父ちゃんの重人さんや、武吉の父ちゃんの守人さんのように戦闘の経験はない。南方の島で、ひたすら飛行場の滑走路を造っていたそうである。もちろん、爆撃には何度も会っているが、重人さんや、守人さんのように、敵と撃ち合ってはいない。だから、辰ちゃんに取っての戦争は、民間人と同じように、逃げまどい。ひたすらやられるだけだった。
しかし、ただ、ただ爆撃から逃げ惑った民間人と違うのは、重機の操作に長けたことだ。トラックはもちろん、ブルドーザや、ローラーなど、機械なら何でもこなせた。だから、今でも重人さんの焼玉エンジンがぐずると、二人で夜遅くまで直している。辰ちゃんもまた戦争の話はしたがらない。自分が作った滑走路から飛び立った若き荒鷲達の面影を忘れたいようでもある。
少し前から、三人は、守人さんの川船に小型のガソリンエンジンを積もうかと相談しているようだ。エンジンは古い単車のモノを貰ってきた。スクリューは、元海軍の重人さんが造るらしい。そもそも、船外機の話を持ち出したのは、元海軍の重人さんである。
それは、飛行艇の基地で、飛行艇へ向かうゴムボートに使っていたそうだ。ちなみに、海軍では舷外機(げんがいき)、陸軍では操舟機(そうしゅうき)と呼んでいたらしい。少し前に、国内メーカーから空冷単気筒125㏄の船外機が売り出されていたが、とても、守人さんの川漁師の収入では買えない。そこで、辰ちゃんと、重人さんの機械屋が自作を思い立ったのだ。三人は今この遊びに没頭しているようである。その後ろ姿を見ながら、竜ちゃんは、密かにエレキギターを自作することを考えはじめていた。ギターマイクさえ手に入れれば難しくはない筈だ。アンプはラジオを改造すれば良い。
夜も更け、芳江さんが「刺身を引いたけん。そろそろ晩御飯にせんね」と、遊びに没頭している三人の男供に声をかけた。「晩飯まで御馳走になるちゃぁ、厚かましゅうなかろうか。のう守人」と、美夏ちゃんの父ちゃん重人さんが、親友の守人さんに同意を求めた。もちろん「御呼ばれしようかのう」という無言の誘いを含めてである。「珍しいことばいうじゃないか。とても重人の言葉とは思えんばい。なぁ守人」と、辰ちゃんが武吉の父ちゃん守人さんの顔を見上げて笑った。「何んば言よるとや。俺だっちゃ、遠慮ちゅう字ぐらいは知っとるばい」と、早速、重人さんは炊事場で手を洗いだした。
酒の肴を運びながら「飲み物なぁ父ちゃんの焼酎で良かねぇ」と、芳江さんが重人さんと守人さんに聞いた。「おう、おう例の粕取り焼酎かい。本に辰ちゃんなぁ粕取りが好きやなぁ。臭さかばってん病みつきになる味やもんねぇ(臭いけど好きになる)」と、守人さんも手を洗い座敷に上がってきた。
ここは数十軒の酒蔵が町並みを作る日本酒の町である。だから、酒粕もたくさん出来る。その酒粕を蒸留し焼酎を造るのだが、そのまま酒粕汁を煮ると蒸留器の中で酒粕が焦げてしまう。だから、焦げないように、やはり沢山採れる籾殻を加えるのである。その為に得も言われぬ独特の匂いを放つのである。それを筑ッ後川の水で薄めて飲むのが辰ちゃんは大好きなのである。
「今日はエツが上がらんけん。クジラにしたばってん。良かったやろうか」と、芳江さんがいうと「いやぁ~オイ(俺)は、このまだ少し凍っとるクジラん刺身がいっちゃん(一番)好いとうとよ」と、重人さんが目を細めた。「ありゃ、この前芳江さんが鯖ん刺身を出した時は『刺身は鯖にかぎる。オイ(俺)は、鯖ん刺身がいっちゃん(一番)好いとう』ちぃ言よったやなかか。お前は本に調子ん良か奴やねえ」と、守人さんがからかった。
守人さんのコップに焼酎を注ぎながら「まぁ良か良か。そこが重人ん良か所やけん」と、辰ちゃんが言った。奥の部屋から竜ちゃんのトランペットの音が聞こえてきた。「おい。リュウ『夜霧のブルース』ば吹け」と、辰ちゃんが奥に大声を投げた。すると、カウボーイ芳幸が、ブル~ブル~ブル~と尻を振って、踊りながら登場した。「おう、おう、良か腰つきたい」と、重人さんが手を叩いて笑った。今夜もまた賑やかな宴会になりそうである。
折々の 風に吹かれて 渡し船
ゆるり掉さし 日長暮れゆく
~ 琴海さんの婿選び ~
年が明けて春三月。シュマリ(狐)女将が、ジンハン(辰韓)国へ旅立った。旅立つに当たっては、美曽野女王が、沫裸(まつら)党の船と、船頭衆を出してくれた。しかし、船はピョンハン(弁韓)国ではなく、マハン(馬韓)国の南西海上に浮かぶ、チュホ(州胡)へ向かった。そこで、まずガオ(高)一族という者を、訪ねるそうだ。その後でマハン国へ上陸し、陸路でジンハン国に渡るらしい。「???……何で、そんな遠回りをするの?」と、私が訝しがっていると「倭国人の匂いを消すのさ」と、アチャ爺が言った。「へぇ~???……」と、ますます私が呆けた顔をすると、テル(照)お婆が「シュマリ女将はウリチ族と呼ばれる北方の民で、ツングース族じゃ。じゃで、姿形はウェイムォに近い。じゃって、姿形だけならジンハン国に渡っても、ウェイムォの毛皮商人だと言えば、不審がられることはないじゃろ。だが、匂いは、倭国人に染まっちょる。長く倭国で暮らしているでなぁ。この匂いとは、鼻で嗅ぐものではない。目や、耳で、嗅ぎわける匂いさ。ちょっとした仕草や、言葉の使い方で「あれ~? こいつには、倭国人の匂いがするなぁ」と、思うわけたい。そうなると、不審がられ警戒される。だけん、マハン国育ちのウェイムォとして、ジンハン国に潜入するのじゃ。マハン国にも、ツングース族は多い。マハン王自身が、ツングースの出じゃからのう。ツングース系のマハン人は、不思議な存在ではないのさね。そうして、倭国の匂いを消し、マハン人として潜入する。それから、マハン国と通じるジンハン人を探す。そして、その人間から探りを入れて行き、核心に近づく。という戦法じゃろうよ」と、教えてくれた。
沫裸党の船は、志賀(しか)沫裸党が出してくれることになっていた。チュホ(州胡)は、値賀嶋(ちかのしま)の西の海上にあるそうだ。だから、値賀嶋から、沫裸党の船を出すのである。値賀嶋は、ククウォル(朴菊月)姉様が育った島でもある。ククウォル姉様の育ての親である多理耳(たりみみ)族長が率いていた志賀沫裸党の本拠地だ。そして、値賀嶋は、倭人の原郷でもある。
シャー(中華)の南岸から船出をした倭人は、値賀嶋を拠点にして、各地に移り住んだのだ。コジョソン(古朝鮮)の地まで至った倭人達には、シャーの東岸沿いに北上した者達と、値賀嶋から、チュホに渡り、ジンハン国の西岸を北上した者達がいるそうだ。そして、チュホのガオ(高)一族も、そういう一族のひとつであり、始祖のコヘ(高海)は、志賀沫裸党の出らしい。
そのガオ一族が、偽装商人団を作り、シュマリ女将の手下に成るそうだ。この策を考えたのは、アチャ爺だけど、ガオ一族に、話を持ちかけ了承させるのは、志賀沫裸党の族長である。そして、現在の志賀沫裸党の族長は、於保耳(おぼみみ)という。多理耳族長と、美曽野女王のひとり息子である。
値賀嶋までは、天之玲来(あまのれら)船で、シュマリ女将を送ることにした。そこで、天之玲来船には、美曽野女王と、ククウォル姉様も乗船している。だから、私の可愛いスヂュン(子洵)も一緒である。まだ四ヶ月足らずの赤子だけれど、スヂュンにも半分志賀沫裸党の血が流れている。だから、海風に吹かれてスヂュンは、ずっと上機嫌だ。そして、スヂュンに取っては、これが初の里帰りなのだ。
スヂュンと、離れたくない臼王も付いて来たそうだったが倭国の国務の中心である伊都国王にはそんな自由はないのである。可哀そうだが仕方がない。気ままに海風に吹かれているスロ(首露)王の方が、珍しい王様なのだ。
父様だって、王になって一度も、私達に会いに来たことはない。私は、薄情な父親だと思い続けていたが、仕方なかったのかも知れない。でも、臼王が、スヂュンを思うほどに、父様が私達姉弟のことを思っているかについては、やっぱり、私はまだ疑問を持っている。何しろ、未だに、父様は夏羽のことも知らないのだ。やっぱり父様は、薄情者なのかも知れない。
玉輝叔母さんは、スヂュンが誕生日を迎えるまで、ククウォル姉様の母親代理を続けることになった。亀爺のククウォル姉様への心づかいである。その為、玉輝叔母さんも同船してくれている。だから、私も心強い。やっぱり、血縁者が傍にいてくれると心休まるのだ。
旅立つシュマリ女将の様子に、私達は皆驚いた。クド(狗奴)国の船宿で最初に女将にあった時は、とても高齢に見えた。女将は、五十路(いそじ)過ぎである。でも、還暦をとうに過ぎているように見えたのだ。
モユク爺さんは、還暦を過ぎており年齢にふさわしい老けようだったが、女将は、モユク爺さんより一回り以上も若いのだ。しかし、稜威母(いずも)から帰った後、シュマリ女将は、歳相応に見え出した。何やら心の澱が取れたのだろうか。その沈澱が、女将を、必要以上に老いさせていたのかもしれない。
それにしても、今私達の前に立つ、シュマリ女将は、四十路(よそじ)前後の女盛りにしか見えなかった。やはり、遁甲の技は恐ろしいものである。それは、化生(けしょう)という技のようだ。化生の技は巷では化粧となる。白粉(おしろい)や紅を施し日常の自身から変身するのである。しかし、シュマリ女将の肌には白粉や紅はない。気の力が身体を変えたのだ。まさに秘術である。
亀爺は、「十四代目ホゴン(瓠公)のキリャン(箕亮)と、その後継者キドン(箕敦)を探れ」と、進言した。しかし、キリャンは、六十八歳だという。それに、キドンは、私より七歳年上らしい。だから、この二人には、美人計を用いることはない。でもチョン(鄭)氏当主ウェキョ(倭僑)なら、父様より一歳年上で丁度五十路だから美人計を用いるのかも知れない。
斯海(しまぁ)国の口之津から、琴海さんと、彼杵沫(そのぎ)裸党の外海(そとみ)族長が乗船してきた。一緒に値賀嶋(ちかのしま)に行くそうである。値賀嶋の志賀沫裸党と、彼杵沫裸党は、死闘を繰り広げた間柄である。だから、本当に沫裸党の関係修復は進んでいるようだ。琴海さんと、美曽野女王は共に夫の敵どうしである。私は、その二人が穏やかに潮風に吹かれている姿に、戦の虚しさと、和平の尊さを感じさせられた。
口之津を出港して間もなく、私は美曽野女王から意外な頼まれごとを受けた。それは「コトミと、息子のオボミミの祝言の儀を、ヒミコ様にお願いしたい」というものだった。もちろん、こんなめでたい話を断ることは出来ないので「喜んでお引受け致します」と答えた。
私は、あまりにも嬉しかったので、香美妻に、天之玲来船に載せている早舟で文を送った。香美妻は、可哀そうなことに、今回も女王代理である。でも、きっとこの木簡には、ひっつめ頭を振りかぶって喜ぶことだろう。その様子を思い浮かべながら、私は“値賀嶋で、何か香美妻が喜ぶお土産を買わなくちゃぁ”と、西海に心躍らせた。
値賀嶋への航海は、退屈な位に「無事、これ名馬なり」という旅だった。不謹慎だとは思うが、私は、琴海さんと出会った時の『多島海の海戦』の話が懐かしく思い出された。須佐人は、今回も曲刀を腹帯に差して乗船しているけど、その美剣を鞘から抜くことはないようである。
須佐人は、近頃すっかり元気が無くなっていた。儒理(ゆり)のことが、心配であることと、自分が何も出来ないのが、悔しいのだろう。だから、私はこの旅に、須佐人を強引に伴わせた。須佐人が塞ぎ込んでいると、私まで心が萎えそうになるのだ。須佐人は、私の従兄妹だけど、優奈(ゆな)と同じように双子の兄妹のような気がするのだ。
でも、海に乗り出し、やっと須佐人の表情にも活気が戻ってきた。きっと、秦鞍耳の生き生きとした船乗り姿に、感化されたのかも知れない。鞍耳は、既に表麻呂(おまろ)船長から航海士を任される程に成長している。
口之津の造船所では、ダウ船の風之楓良船(ふうのふらふね)が、順調に建造中である。そして、この旅で表麻呂と、鞍耳がいなくなったので、夏羽(なつは)は、造船所を離れられなくなった。ずいぶんと同行したい様子の夏羽であったが、私はうるさい兄貴が来られなくて、ほっとしているのである。
今、口之津の造船所には、翁之多田羅も居る。私が赤目の頭領にお願いして、稜威母(いずも)から山師達といっしょに呼び寄せたのだ。何故なら、風之楓良船の建造には、優れた製鉄技術集団が欠かせないからである。だから、夏羽が淋しい思いをすることはない。
そして、口之津の港町では、久しぶりに須佐人を加えて、無敵の三兄弟を復活させていたようである。でも、私は、夏希義母ぁ様と早々に床に就いたので馬鹿騒ぎに巻き込まれずに済んだ。
表麻呂船長の話では、来春には、ダウ船風之楓良船も進水式を迎えられるそうだ。風之楓良船の初代船長は、表麻呂船長以外考えられないので、そうなれば、天之玲来船の船長には、鞍耳を就任させる。
値賀嶋は、大小合わせると、百数十の島から成る海の王国らしい。だから、海人にとっては楽園である。そして、その海人集団である沫裸党の源郷でもある。ここで沫裸党は生まれ、鯨海を北上して行ったのだ。その母なる諸島の中心域には、大きな群島が二塊あり、私達はその南の大きな島に上陸するそうだ。寄港地は、美弥良久(みみらく)の津というらしい。
その美弥良久に、志賀沫裸党の族長於保耳の館があるようだ。この南の大きな島は、大値賀(おおちか)と呼ばれている。美弥良久の津は、その北西に位置しているようである。今、天之玲来船は、多島海の中を西に航行している。そして、春の陽光に煌めく緑の海が、私達を包み込んでくれている。表麻呂船長の話では、もう少し早ければ、緑の山肌を赤いヤブツバキの花が飾ってくれているそうだ。そう言われて岩壁の山肌に目を凝らすと、遅咲きの深紅の椿が、まだちらほらと残っている。
更に、心地よい波音を立てながら天之玲来船は、美弥良久の津に近づいた。すると、入り江の奥に翡翠のような色をしたきれいな砂浜が見えてきた。その奥の高台に、族長於保耳(おぼみみ)の館と、一族の家々が見える。琴海さんの話では、今はこんなに穏やかな海も、大嵐になれば天之玲来船の帆柱より高い大波が押し寄せるらしい。だから、やっぱり私達の村と同じように、住居は高台に造られている。
翡翠色の浜には、たくさんの漁舟が乗り上げている。各地の沫裸党の村長が集まって来ているのである。もちろん、シュマリ女将の見送りに集まったわけではない。今夜、琴海さんと、於保耳様の仮祝言があるのだ。でも琴海さんがいうには、「本当は皆、ヒミコ様を拝みたくて集まって来たのさ」ということだった。「えっ!緊張させないでよ。コトミさん」と、私が真顔でいうと「ホホホ……コトミがいうのは本当ですよ」と美曽野女王も笑って私の手を取った。私は美曽野女王の手のぬくもりに「嗚呼、本当に沫裸党の春が来たのだ」と確信した。
天之玲来船は、入り江の中ほどに錨を降ろした。しかし、天之玲来船の早舟は、私が香美妻への伝令に使ったので私達の艀(はしけ)がない。いっそ、私は春の海に飛び込み、泳いで浜に上がろうかと思ったが、浜から十艘程の漁舟が漕ぎ寄せてきた。そして、見張りの船員数名を残して皆上陸した。
浜に降り立つと外海(そとみ)族長が、精悍な若い男を抱き寄せ、親交を確かめ合っていた。だから、あれが志賀沫裸党の族長於保耳だと、察しが付いた。於保耳族長は、何となく、高志(たかし)組頭を彷彿とさせる男だった。もし、香美妻に「オボミミ様は、どんな方でしたか?」と聞かれたら「タカシ大頭領に、ホオミ大将の入れ墨を刺したら、オボミミ族長になる」と、教えてやろう。そうすれば、香美妻も、容易に、於保耳族長を思い描けるだろう。
そして姿形ばかりだけでなく、於保耳族長からは、高志大頭領や、火尾蛇(ほおみ)大将にも負けない、強い気が発せられていた。私は、その器量の大きさに、今は沫裸党の伝説となった比羅夫大統領を思い描いた。
於保耳族長は、比羅夫大統領の孫である。比羅夫大統領の死が、沫裸党の内乱を招き、そして今、於保耳族長の存在が、再び沫裸党をまとめ始めたようである。沫裸族の六党が結束すれば、約七万二千人の海人集団である。だから、それは、斯海(しまぁ)国の項家軍属をも上回る勢力になるのだ。その為、倭国の平安にも大きな影響を及ぼすのである。
琴海さんと、於保耳族長の祝言は、秋に行われるように成っていた。その秋の祝言は、末盧国の国府である佐志で行われる。そして、沫裸六党は元より鯨海から東海までの全ての海人族の族長が集まる。この祝言は、ひと組の男女の祝言だけではなく海人族の祝言でもある。それは、於保耳が、沫裸党の大統領に就任する日でもある。海人族は、比羅夫大統領の再来を待っていたのだ。だから、東海の海賊王ジェン・チーロン(鄭赤龍)を筆頭に、全ての海賊王達も集まるのである。もちろん、鯨海の海賊王首露船長もである。チーロン様は、チュヨン(朱燕)さんの父親である。だから、首露船長と、チーロン様は、久しぶりに義親子の対面をすることにもなる。それに、安曇様や、蛇目(かがめ)様達鰐族も集まってくる。安曇磯良(あずみのしら)の安曇様が見えられれば、当然、高良磯良(こうらのしら)の亀爺も参列する。とにかく、盛大な祝言になるのだ。その祝言の儀を、私が行うのだから緊張せずにはいられない。南海の海人の大統領でもある火尾蛇大将も駆けつける筈だから、“ヒムカを連れてきてくれないかしら。ヒムカがいれば私も心強いのになぁ”と淡い期待を抱いた。
今日の、美弥良久の館での仮祝言は、身内だけの祝言である。とは言っても身内とは、沫裸六党なので、やっぱり大祝言である。でも、祝言の儀はないので、私は気が楽なのだ。そして、驚いたことに、外海族長は、こっそり、佐瀬布沫裸党の速来津媛(はやきつひめ)を娶っていたのだ。
速来津媛は、先の佐瀬布沫裸党の党首、熊丸の妻であった。その熊丸を殺めたのは、親友の外海族長だ。内乱による死闘だったとは言え、親友を殺めた外海族長は、一時は廃人同様に成ったようだ。しかし、時が悲しみを癒し、更には美曽野女王の後押しもあり、寡婦になった速来津媛を、外海族長が妻としたのだ。
速来津媛は、まだ二十六歳らしい。そして、熊丸の忘れ形見で、佐瀬布沫裸党の現党首狭瀬(させ)は、まだ七歳である。健(たける)や、儒理(ゆり)よりも幼いのだ。だから、外海族長が後見人となり、狭瀬を支えるのである。沫裸党内乱の傷は、そうしながら癒されているようである。少し可笑しかったのは、外海族長は、もう三十二歳に成るのだけど初婚だった。両親を亡くした後、妹の琴海さんを育てるのに大変だったのかも知れないけど、元来身持ちが固いのかも知れない。私の愚兄夏羽には、外海族長の爪の垢を煎じて飲ませないといけない。
この船旅の間、私は外海族長に、沫裸党の現状を講義してもらった。きっと、沫裸六党の党首達は、私に挨拶に来る筈である。だから、事前に情報を得ておこうと思ったのである。そして、会見の際に、少しだけ相手の情報を先に話すのだ。そうすると“私は貴方のことを良く知っていますよ”と、相手には伝わるのである。そう伝わると、「相手の私への印象は、とても良くなり、関係が円滑になるのである」と、伊都国の臼王に教わったのだ。だから、早速試してみようと思ったのである。私だって、そろそろ女王らしく振舞わなくてはいけないと、近頃やっと、自覚し始めたのである。
沫裸六党の筆頭、佐志沫裸党の党首は、美曽野女王である。佐志沫裸党の西隣を領域とする志佐沫裸党は、以前美曽野様が党首だったが、美曽野様が、末盧国の女王美留橿媛(みるかしひめ)を継いだので、必然的に沫裸六党の筆頭である佐志沫裸党の党首に成られた。そこで、志佐沫裸党の党首は、美曽野女王の娘である知訶媛(ちかひめ)に任された。
知訶媛は於保耳族長の妹である。美曽野女王の長男於保耳族長は、父の跡を継ぎ、志賀沫裸党の党首と成ったので、長女の知訶媛が、志佐沫裸党の党首に成ったのだ。
知訶媛は、私より一つ年上のお姉さんだ。だから、知訶媛との対談では、同世代の娘話をしよう。それに、知訶媛も私と同じで海女だから、海女漁の話が盛り上がるかも知れない。
知訶媛の志佐沫裸党の西隣を領域とするのは、志々伎沫裸党だ。父様の弟分で、琴海さんの夫だった香我美様が率いた沫裸党だ。あの平戸の瀬戸がある領域である。最初に、私達が伊都国へ向った時には、まだ平戸の瀬戸は、戦さの臭いが漂っていた。そして、首露船長にとっては、愛するチュヨン(朱燕)さんを亡くした悲しみの海峡でもある。
香我美様が亡くなった後は、従兄弟の田平(たびら)様が党首に成られている。香我美様は、美曽野女王の兄なので、田平様と、美曽野女王も従姉弟である。そして、田平様と美曽野女王は、同じ歳の従姉弟である。田平様の母様は、田里美(たりみ)という名で、香我美様と、美曽野女王の母様於保美(おぼみ)の妹らしい。於保美と、田里美姉妹は、志々伎沫裸党の族長の娘だったので、田平様は、生粋の志々伎沫裸党だ。だから、田平様との対談では、志都伎(しずき)島の話をしよう。志都伎島は、蛇目(かがめ)様に、初めてお会いした島だ。志都伎島の入り江の奥に暮らす蛇目様の一族は、志賀沫裸党だ。そして志都伎島には、田平様と同じ、志々伎沫裸党の民が暮らしている。末盧国内乱の際には、この二つの海人達も血を流しあった。でも、今の志都伎島は、穏やかさを取り戻している。
田平様には、志都伎島の志々伎沫裸党と、宇津女(うずめ)さんと、アチャ爺の演芸団との大宴会の話をしてやろう。もし田平様が陽気な方なら、腹をかかえて笑われる筈だ。
平戸の瀬戸の南には、佐瀬布沫裸党の領域が広がる。その南に、私にも懐かしい琴の海が広がっている。だから、外海族長の彼杵沫裸党と、佐瀬布沫裸党は隣接しているのだ。佐瀬布沫裸党の若き党首狭瀬との対談では、健や、儒理そして熊人に、隼人の話をしよう。もし、狭瀬が腕白小僧ならきっと熊人に会いたがる筈だ。狭瀬は、一足早く母様の速来津媛と値賀嶋に着いている筈である。私は、早く狭瀬に会いたくなってきた。
この仮祝言では、外海族長と、速来津媛の婚姻もお披露目される。外海族長は、嫌がっていたらしいが、美曽野女王の女王命が発せられたので照れながら、お披露目されることになったのだ。
仮祝言は、アチャ爺や、夏羽がいないので、上品な宴になった。やっぱり夏羽を置いてきて良かった。沫裸党の荒くれ男衆も、美曽野女王が同席しているので、皆礼儀正しい振る舞いだった。私は、狭瀬を抱っこして、美味しい海の幸を沢山食べた。特に、於保耳族長が自ら捕ってくれた磯蝦は格別の味だった。その磯蝦は、狭瀬と二人で食べても、十分満足出来る大きさだった。
狭瀬は、思った通りの腕白小僧だった。私は、熊人や、隼人に会えない寂しさの分まで狭瀬を抱きしめた。そして、私の真珠の首飾りを、狭瀬の首に懸けてあげた。これでもう狭瀬は、私の五番目の弟だ。そして、狭瀬は、須佐人のことをもう「スサト兄ちゃん」と呼んで懐いている。須佐人は、狭瀬に党首としての威厳を持たせる為に、自慢の曲刀を腰に刺してやった。その美剣に狭瀬は大喜びである。義父の外海族長が「こんな高価な刀を狭瀬に頂くなど、まだ勿体なさすぎる」と、辞退しようとしたが、須佐人は、いつものように「大丈夫です。私もまた曲刀が欲しくなれば、西域まで買い求めに行きます」と、さらりと答えた。だから外海族長も「それでは、このご恩はいつの日かお返しします」と、有り難く頂くことにした。
それにしても須佐人は、物欲のない男である。アチャ爺は「スサトの欲は大きい。だから手に持てる宝などでは、あいつの欲は収まらんのじゃ。その欲を満たすのを『大志を抱く』というてな。スサトには、スサ王と同じ大志があるのじゃ」と言っていた。私も、須佐人なら、須佐能王の生まれ変わりでも可笑しくないと思っている。
そして知訶媛とも、すっかり仲良くなれた。だから近い内に、知訶媛をヤマァタイ(八海森)国に招き、香美妻に引き合わせる約束をした。田平様も、思い描いた通りの方だった。田平様は、是非アチャ爺の演芸団に加わりたいとおっしゃっていた。だから、琴海さんから始まった私と沫裸党との縁は、これからも、益々深まっていきそうだと確信した。
美弥良久の津から、シュマリ女将が旅立つのを見送った後、私達は、磯遊びに出かけた。天之玲来船の出航は、明日の朝になったのだ。だから、今日はお休みの日である。それに、ククウォル(朴菊月)姉様にとっては、久しぶりの里帰りなのでゆっくり過ごさせたかったのだ。スヂュン(子洵)も、すっかり値賀嶋が気に入ったようで、ずっと上機嫌なのだ。帰路は、平戸の瀬戸を渡り、伊都国に向かうことにしている。だから、美曽野女王を始め、皆も途中まで天之玲来船で送ることにした。佐瀬布沫裸党の若き党首狭瀬も、大きな天之玲来船に乗れるのを楽しみにしている。私は、伊都国に遠回りすることで、女王代理を、もうしばらく香美妻に押し付けておくことが出来る。つまり、気楽な旅が楽しめるのである。香美妻には、天之玲来船に積みきれない位の土産を買って帰ろう。だから、香美妻お姉ちゃま、もうしばらく頑張っていてね。
まだ、肌寒い風も吹いているけど、磯遊びは心が躍った。それにククウォル姉様も、美曽野女王も、そして私も、元々は海女である。でも今日は、私達の海女漁ではなく、於保耳族長の磯蝦漁を見せてもらうのだ。まず、於保耳族長は、タコを素手で捕まえた。そして、そのタコに縄を付け竹竿の先に結わえると、岩場の海底へと潜っていった。私達も後を追い潜り様子を見ていると、於保耳族長は、竹竿を岩の隙間に差し込んでいる。すると、竹竿の先に結わえられたタコに驚き、磯蝦が、岩の隙間から逃げ出して来た。そこを、於保耳族長は、すかさず網で絡め捕った。見事な技である。そして、今日獲った磯蝦は、私達へのお土産にしてくれるそうだ。頑張れ於保耳族長!!
私達が磯に潜る前に、浜では、外海族長が、志賀の海人達と、鮫狩りを行ってくれた。そして、それは、鰐族の鮫狩りとは違っていた。銛を打つのでは無く、釣り揚げるのだ。もちろん、竿では釣りあげられないので、釣り針の先に結んだシュロ縄を、浜から引いて、砂浜に引き揚げるのである。
今日狙っている鮫は、夏羽ほどの大きさがあるそうだ。数日前から沖に寄って来たらしい。そんな夏羽ほどの大きさがある鮫に襲われては、逃げようがない。だから、海女漁を行うためにも、夏羽鮫を仕留めることになったのだ。
まず、志賀の舟団が、鯨漁と同じように船縁を叩いたり、海面を竹で打ったりしながら鮫を入り江に追い込んでいく。そして、一艘の漁舟が特製の延縄を入り江に刺し流した。釣り針には丸々と太った鯖が刺してある。夏羽鮫の餌にするには、もったいない位に美味しそうな鯖だ。鮫の夏羽は、もちろん喰い付く筈である。
程無くグイグイと、特製の延縄は曳かれ始めた。その端を漁舟は浜にいる曳き手達に手渡した。それから、屈強な五人の曳き手達は、沖に引きずり込もうとする夏羽鮫を何するものと砂浜に引き揚げた。しかし、夏羽鮫は、まだ砂浜で暴れている。その濘猛な夏羽鮫の頭を、外海族長が、棍棒で殴りつけた。一発では、夏羽鮫は仕留められず、三発目でどうにか伸び挙がった。その棍棒を、私は外海族長に譲ってもらうことにした。もちろん、いざとなったら本物の夏羽のスイカ頭をぶん殴る為である。でも私の力では、百発位はぶん殴らないと夏羽は、伸び挙がりそうにはない。
夕餉には、キビナゴの料理が並んだ。このキビナゴは、阿多国の浜を北上して来たそうだ。そう聞いて、私は、故郷の料理を食べているような気がして来た。もうひとつ珍しい料理が並んだ。馬肉の料理である。値賀嶋には、牧場があるそうだ。そして、ヨンオ(朴延烏)様が飼っている馬も、巨健(いたける)叔父さんや、須佐人が乗り回す馬も、皆、この値賀嶋の牧場で産まれた馬らしい。
美弥良久の西には、大きな高台が広がっている。その高台の中心域には草原が広がっていて牧場はそこにあるらしい。須佐人は、とても行ってみたい様子をしていたが、今回は時間がない。でも須佐人なら後日自分で行くだろう。もし、その時までに風之楓良船が出来上がっていれば、表麻呂船長に、風之楓良船で須佐人を値賀嶋に送らせよう。
そうやって、シュマリ女将の船出を口実に、私は十日程の旅を楽しんだ。そして今、可愛いスジュンや、狭瀬とも別れて、女王の仕事に復帰している。でも嬉しいことに、木簡の山は無かった。香美妻が頑張ってくれていたのだ。玉輝叔母さんは、スジュンと、伊都国で下船したので、巨健叔父さんや、亀爺への報告は私が行った。特に、田平様が、アチャ爺の演芸団に加わりたいとおっしゃった話には、アチャ爺も膝を打って喜んでいた。テルお婆は、顔をしかめていたが、その傍らでリーシャンは、アチャ爺と目くばせしあいながら微笑んでいた。加太が居ないので、今は、リーシャンが、アチャ爺の踊り連の相方らしい。心の奥には皆大きな不安を抱えながらも、どうにかヤマァタイ国には、平穏な春が訪れていた。そして、田植えも終わり皆がひと段落ついた初夏に不幸の便りが届いた。
~ 狗奴国の悲劇 ~
やぶ蚊が元気に飛び回り、蚊帳を張って寝るのが、楽しみな季節に成ってきた。意外にも、蚊は、きれいな水が好みらしい。びっちりと藻が覆い濁った池は、あまり好みではない。それに、小魚等がいると食べられてしまう。だから、この時期、田圃に張られた水中は、絶好の住み家なのだ。それに、暑い季節なので、餌も皆薄着である。特に大酒を飲み、大鼾で寝ている親父は、絶好の餌のようである。また、そういう輩は「さぁ、好きなだけ刺してくれ」と、言わんばかりに、大概その大きなお腹をさらけ出しているものである。更に「蚊帳の中など、息苦しくて寝ていられるものか」等という横着な輩も沢山夜風に吹かれて寝ている。ので、蚊にとってみれば、餌には困らない季節なのである。だから、蚊も、まるまると肥って元気が良い。
私は、蚊の餌になど成りたくはないので、毎夜、香美妻と、ニヌファ(丹濡花)の三人で蚊帳の中である。ところが、今朝は、その蚊帳が大きく揺れて、天井ごと落ちてきそうだった。だから、私達は慌てて外に飛び出した。そして、広い庭の真ん中に立ち、三人で震えていた。お陽様はすっかり上がっており、天気は上天気。だから、広い庭の真ん中に立ち震えている私達は、何だか間が抜けた様子なのだ。
兎に角怖かったのだ。嵐の海の波に揺られるのは平気なんだけど、地震の揺れは気持ちが悪い。“まるでこの世の底が抜けるのじゃないかしら”と、思わせるような恐怖で“次の揺れはいつ来るのだ”と、震えながら身構えていた。
すると「ピミファや怪我はないか。カミツとニヌファも大事ないか」と、蚊に刺された腕や足を、掻き毟りながらアチャ爺が駆けつけてきた。ほどなく、辺りの様子を確かめてきたテルお婆が「館はどこにも異常はないようじゃ。まぁ料理場の甕は随分と割れてしもうたが、けが人は無さそうじゃ。今、サヤマが、メタバルの中を隈なく確かめに回っている」と教えてくれた。
それから、有り合せの材料で、リーシャンが急いで朝餉を作ってくれた。朝餉を済ますと、ヤマァタイ(八海森)国の各地から、今朝の地震の様子が届き始めた。古い家屋が何軒か崩壊し、古い櫓もいくつか傾いたようだが、死傷者の報告は、幸いにも上がって来なかった。
昼餉を過ぎ、やっと散らばった木簡の束を片付け終わったと思ったら、二度目の揺れが襲ってきた。そして、二度目の揺れの方が大きく感じた。なので、木簡の束は、再び棚から落ち、先程よりも酷い位に散らばった。
ニヌファが、小さなため息をついて、再び木簡の束を片付け始めたが、香美妻が「止めときましょう。襲ってくる揺れが、小さくなってから片付けた方が良さそうですよ」と言った。ニヌファと一緒に片付け始めようとしていた私も、両手を揚げて「カミツの意見に賛成。そうしましょう。ニヌファも止めて良いわよ」と、言うと座り込んだ。それから、香美妻と、ニヌファも、私と同じように座り込み、三人で大きなため息をついた。
それから数日、幾度か弱い揺れが襲ってきたが、大変な事態にはならなかった。けれど、私は、数日の間、掴みようのない不安に苛まれていた。巫女頭の香美妻は、巫津摩(みつま)、巫谷鬼(みやき)、巫浮耳(みふじ)の三つの外宮に平安の祈りを命じた。私も、巫依覩(みいと)に入り、ヤマァタイ国に忍び寄る不幸の気を静めた。
そして、十日程が経ち、皆が微かな揺れを感じることにも慣れてきた頃、沙羅隈親方から心凍らす不幸の便りが届いた。
ラビア姉様は、未だ鬼国に帰って居ない。だから、ハイムル(吠武琉)もこの事態を知らない。ラビア姉様のキャラバン隊は、今頃カルガン(張家口)の門を抜けて、ウーハン(烏桓)の国を旅していることだろう。もしかすると、ラクシュミーさんや、アルジュナ少年を、もう天竺に送り届けたかも知れない。でも、ラビア姉様が帰国するのは、もっと先のことだ。だから、便りは沙羅隈親方から届いたのだ。
心凍らす不幸の内容は詳しくは分からない。ただ木簡には「狗奴国で災害発生。大勢の死傷者が出た。俺は先に救援物資を持って狗奴国に向う。日巫女様の援軍もお願いしたい」と書かれてあった。だから、亀爺は、急ぎ天之玲来船に積めるだけの救援物資を載せた。
それから、私はニヌファを呼び寄せ、急いで旅支度をさせた。天海親方や、花南様、ハリユン(晴熊)若頭と、チヌー(知奴烏)小母さんの安否も分からない。ヒムカ(日向)の気は強く感じる。でもその気力は徐々に弱まっている。ヒムカは、孤軍奮闘しているようだ。私にも、メラ爺の俊足があったらどんなに良かっただろう。そうすれば、すぐにヒムカの許に駆けつけ助けてあげられるのに…… そう思いながら、天之玲来船の甲板の上で苛立ち地団駄を踏み続けていた。
この支援部隊には、香美妻も同伴させた。もちろん、太布様も、背中を押してくれた。そして、女王代理の代理は、今回も太布様にお願いした。狭山大将軍も自ら兵を率いて、亀爺の河童衆の舟で駆けつけてくれることになった。天之玲来船は、物資を満載している。だから、船乗り以外の男衆は、項家二十四人衆だけで、いっぱいなのだ。
表麻呂船長は、風之楓良船の建造を急がせるように、鞍耳を斯海(しまぁ)国に向かわせた。もし、狗奴国の災害が大きければ、風之楓良船も必要になる筈だ。須佐人は、伊都国の臼王の元に走ってくれた。そうすれば、臼王は美曽野女王の名で、倭国中に援助の命を発してくれることだろう。私にはこんな時に加太がいないことが悔まれた。でも、臼王が、首露王にこの事態を知らせてくれたら王が、加太を呼び戻してくれるかも知れないと、微かな期待を抱いた。それから、逸る心を抑えながら南の空を睨み続けた。香美妻は、やさしくニヌファを抱き寄せていた。肉親の安否が分からないニヌファは、生気を無くして塞ぎ込んでいる。
阿多国の沖で、一旦、天之玲来船を停泊させると、私は急ぎ家に帰った。浜には、熊人や、隼人が迎えに来てくれた。村の皆の無事を確かめると、お祖母様に「一刻も早くクド国に着きたいの。だから、私はこのまま出港するね」と告げた。するとお祖母様は「ヒムカの困り事なら、この村の皆は力を惜しまない。頼み事が出来たら、真っ先に私等に頼るのじゃぞ」と、言って送り出してくれた。本当は、阿多照叔父さんが、一緒に来てくれると助かるのだけど、実は、私の村の被害も酷いようなのだ。巨健(いたける)伯父さんが居ない今、村の再建に阿多照叔父さんは欠かせない。
枚聞(ひらきき)山を回り込むと、事態が徐々に分かり始めて来た。枚聞山の麓の漁民の話では「ヒラキキ山が噴火したごつある揺れやっで、生きた心地が萎えもした」という程の恐ろしい地震が襲ったようだ。だから、余震が来る度に不安になり、人々は、数日の間は眠れなかったらしい。だから、倒壊した家屋は、ヤマァタイ国より数段多かった。その為、かすり傷を負った者は多数いた。けれど、やはり幸せなことに死者は出ていない。
長老の話では、地震の後で、枚聞山の南の海が大きくうねったそうだ。だから、どうやら狗奴国は、大きな津波に襲われたのではないかと、漁民達は心配していた。狗奴国を津波が襲っても、盆地にある狗奴国の国府ハイグスク(南城)には、津波の被害は及ばないだろう。でも、シラス台地の上に立つ村々は、地震の被害が出ているに違いない。私は、紅いテンシャンファ(天上華)に覆われたあの棚田を思い浮べた。ウネ(雨音)と初めて会った稲の民が暮らす村である。あの稲の民は、無事だろうか。私は、奇妙な天空の山畑を案内してくれた老夫婦の顔を思い浮かべた。
そして、ヒムカのナカングスク(中城)は、更に大変な事態に曝されているかも知れない。高台にある斎殿(さいと)や、山門(やまと)は、津波からの難は逃れられたとしても、商都である都萬(つま)は、壊滅しているかも知れない。私は、その不安を表に現さないように気苦労した。ニヌファの屋敷は、都萬にあるのだ。そして、都萬はメラ爺の息子イツキ(猪月)と、 マンノ(万呼)さん夫婦が暮らす街でもある。
玲来(れら)、楓良(ふら)、冴良(さら)の三姉妹とは離れていてもヒムカと同じように強い気を感じる。だから無事なようである。でも、まさか、チヌー(知奴烏)小母さんは、海女漁に出てなかっただろうか? もしかすると、私を苛み続けている不安は……。
狗奴国の皆の顔が浮かぶ度に、大きな震えに襲われた。そんな私の様子に、香美妻がそっと背を撫でてくれた。だからニヌファと同じように少し安らいだ。表麻呂船長の話では、天之玲来船が美々津に到着するのは、明日の明け方だそうだ。私は、香美妻に促されて、ニヌファと手を結び眠りについた。
明け方、美々津の沖に着くと、ニヌファは泣き崩れた。都萬の街が見えないのだ。大火事の痕の焦げ臭い風が陸から吹いてきた。でも、都萬の街跡には、焼け落ちた廃屋の影すら見えない。打ち寄せた流木だけが、寒々と街跡を覆い尽くしている。
天之玲来船の帆柱が見えたのか、岸から数隻の艀が漕ぎ寄せてきた。そして、その舳先にヒムカの姿が見えた。天之玲来船に乗り込んできたヒムカは、何事もなかったかのように穏やかな表情である。それからニヌファを抱き寄せると「お祖父様も、お祖母様も、そしてお父様も無事よ」と言った。
ニヌファは、とっさに何かを感じ「母様は?」と聞いた。すると「海に呑まれた」と、怒鳴るような声を響かせ、ハリユン(晴熊)若頭が甲板に姿を現した。その声を聞くとニヌファは「あっ」と息を呑み込んだ。そして、そのまま気を失いヒムカの腕の中に崩れた。「チヌーさんと一緒に、トヨミ姉様も海に呑まれたの」とヒムカが私を見つめて教えてくれた。私は思わず「ウガヤは?」と聞いた。「ウガヤは、無事にホオリ王の許にいるわ」と、ヒムカが答えた。
狗奴国の初夏は、既に猛暑である。だから、暑気払いを兼ねて、チヌー(知奴烏)小母さんと、豊海王妃は、海女に戻って海に出ていたらしい。大蛸の夢を陽気に語って聞かせてくれたあの海女の小母さんも一緒だった。そして大勢の海女達が、亡くなった。豊海王妃と、チヌー小母さんを海に呑み込んだ引き波は、沖の先まで引いた後、今度は、巨大な押し波と成って、商都を呑み込んだ。幸い大半の人々は、地震の揺れが収まった後で、斎殿(さいと)や、山門(やまと)に避難していて無事だったようだ。でも、不幸にも倒壊した家屋に閉じ込められていた人達は、都萬(つま)の街と共に海に引き込まれていったそうだ。
気を失っているニヌファは、ハリユン若頭に介抱させ船に残した。私は香美妻と一緒に、物資を積んだ艀に乗り、斎殿に上陸した。斎殿には、大勢のけが人が横たわっていた。
私は、天之玲来船の救援物資を全て降ろしたら、このけが人を、阿多国の私達の村に運ぶことにしようとヒムカに相談した。この惨状では、けが人の手当てどころではないだろう。加太は居ないけど、尹家の巫女達なら、薬草に長じた者が幾人もいる。更に、大巫女様であるお祖母様の加護を受ければ、皆治りも早かろう。ヒムカは、この提案を喜んで受けてくれた。
アマミ(天海)親方や、マンノ(万呼)さん一家は無事らしいが、皆、各地の復旧に奔走しているらしく会えなかった。斎殿の様子を一通り見て回り、私達は政都の山門に向かった。やはり、山門も、避難民と、けが人でいっぱいだった。唯一嬉しかったのは、ウネ(雨音)に会えたことだ。地震発生の時、ウネは、以前訪れたあの棚田の村に居たらしい。晩稲の田植えの準備をしていたのだ。
私が心配していたあの老夫婦も、村人も皆無事だった。しかし、棚田は、半分近く崩壊した。棚田の民は、今その復旧に負われている。己の住み家も潰れ、火事で焼け落ちた民も多い。しかし、皆己の住み家より、まずは棚田の復旧を優先させている。女子供は、辛うじて被災が少なかった家屋や、貯蔵小屋で寝起きをさせている。そして男衆は、畦道に筵を引いて寝ているそうだ。
そこまでしても、棚田の復旧を急いでいるのは、晩稲(おくて)の田植えを行うためである。秋の収穫が断たれるのは、民の命が絶たれるのと同じことなのだ。ホオリ(山幸)王は、王都ハイグスク(南城)の倉をすべて開け放ち、被災民の飢えを押さえているそうだ。しかし、王都の倉だけでは、冬は越せない。地震の後の火事で、焼け落ちた倉も多く、更に、商都の都萬が海の藻屑と成ったのだ。このままでは、食糧難は避けられない。だから、何としても、晩稲の田植えを行わないといけないのだ。
私が、ウネとそんな話をしていると、背後で香美妻が「あっ!!」と悲鳴を上げた。何事かと振り返ると、香美妻の腕の中に、ヒムカが倒れこんでいる。ところがウネは「良かった。やっと、お眠りに成りましたか。きっと、ヒミコ様のお顔を拝見され安堵されたのでしょう」と言った。ウネの話では、ヒムカは、もう十日余りもまともに寝ていないようだ。ヤマトの館に、ヒムカを運び込むと、私は、香美妻に、ヒムカの介抱を頼み、一度、天之玲来船に戻った。そして、表麻呂船長に、けが人輸送の任を伝え、お祖母様への文を託した。それから、ウネと、沙羅隈親方を探した。その道中で、ウネから被災の全容を聞いた。
地震の被害は、予想通りシラス台地の方が大きい。各地で土砂災害が起きていた。しかし、幸いにも死傷者は少ないそうだ。死傷者を多く出したのは、大津波の方だった。津波の被害は、健(たける)が住むニシグスク(北城)や、トウマァ(投馬)国の南域にまで及んでいるようだ。だから、健と、火尾蛇(ほおみ)大将は、被災民の救出や、村々の復旧の陣頭指揮に負われているそうである。
ウネの姉のマンノさんは、夫のイツキ親方や、姑のセブリ婆さんと一緒に、美仁に居るそうだ。メラ爺は、何故だか、まだ宇沙都(うさつ)に居るようである。だから、レラ、フラ、サラの三姉妹も、宇沙都だろう。三人の気は遠くに感じる。美仁を遡るミジンガン(美津川)沿いには、マハン(馬韓)人の水田が広がっていたらしいが、それも壊滅的な被害を受けているそうだ。また、美仁は、沙羅隈親方の狗奴国での逗留先なので、どうやら、沙羅隈親方も、また美仁に居そうである。
私は、明日の朝、ウネと共に、美仁に向かうことにした。ヒムカの気力が戻ると、私は、けが人運びに奔走している項家二十四人衆の中から、項権の輿を呼び寄せヒムカを、斎殿に送らせた。それから、「しばらく、カミツに頼って養生しなさい。今の弱ったヒムカの力では民を救えないわ。いいわね」と念を押した。ヒムカは力なく微笑むとゆっくり頷いた。
私は、香美妻の手をしっかりと握りしめ「頼んだわよ。カミツ女王代理!!」と言った。すると「いえ、ヒムカ様代行と呼んでください」と言い返した。だから、私は、もう一度ヒムカを見て、「聞いたでしょう。ヒムカの仕事は、しばらくの間、カミツが手伝うからね。遠慮なく、カミツを頼るのよ。無理をしちゃ駄目だからね」と、念には念を入れた念押しをした。今度も、ヒムカは、力なく微笑みそっと香美妻の手を握った。
やっぱり、香美妻を連れてきたのは大正解だった。香美妻は、幾度もヤマァタイ国の女王代理を務めているのだ。だから、狗奴国の女王代理だってへっちゃらである。ヒムカは、これから狗奴国の再建に負われるだろう。だから、香美妻の存在は大いにヒムカを助ける筈である。
翌朝、私は、ウネと、項権を伴って、美仁に向かった。残りの二十三人衆は、表麻呂船長の手伝いである。今や、天之玲来船は、病院船である。二十三人衆の働きで、表麻呂病院船は、昼前には第一陣のけが人を乗せ出航できそうだ。もちろん、けが人を阿多国の浜に降ろす時にも、二十三人衆の腕力は欠かせないのである。だから、今回の旅行きの護衛は、剣の項権だけにしたのだ。
項権がいれば、夏羽虎や、夏羽鮫位の猛獣でも襲ってこない限り大丈夫である。そこいらの山賊なら、十人以上いても項権の敵ではない。
項権の師匠、剣の項荘は、先ごろ夏希義母ぁ様の許に帰し、既に斯海(しまぁ)国の組頭の任に就いている。それに、資材調達を担う組の組頭だから、近い内に、狗奴国で、再開しそうな気がする。
道行は早舟を調達してもらった。陸路では、まだ通れない所があるそうだ。早舟なので、昼過ぎには美仁に着くようである。ただ、ミジンガン(美津川)の様子が分からないので、ミジンガンを舟で溯上出来るかは、不安が残るそうだ。ウネも、美仁に戻るのは、地震と大津波の後、これが最初なのだ。
美仁が近づくと、大きな岩がいくつも転る砂浜が見えてきた。その珍しい砂浜をウネは、ポカ~ンと眺めている。そして「あの岩は何ですかねぇ?」と聞いた。そんなこと、私に聞かれても困ったものである。
すると項権が「あれは津波石や、津波岩と呼ばれる物でしょう」と答えた。津波石???……と、私と、ウネが訝しい顔をすると、「津波が、石や岩を動かしたんですよ。だから、あの岩は、あの高台の岩場から津波が浜まで運んだんでしょう」と、崖の上を指差した。
「え~~~っ?! あの崖の上までは、天之玲来船の帆柱二本分位の高さがあるのよ。そんな大きな波なんか立つの?」と、私が怪訝な声で項権に尋ねると「外洋での嵐では、それ位の波が立ちます。それに私の祖父さんが、『そんな大波が陸地に押し寄せることがある。それが津に入り川を遡ると、山より高い波が起きる。それが津波じゃ』と教えてくれました」と答えた。
項権のお祖父さんのご先祖様は、伊予島の海人(うみんちゅ)だった。だから、お祖父さんは、アマミ親方や、 火尾蛇大将と同じ、南洋の海の民だったのだ。項権のお祖父さんの、またお祖父さんの時代に、伊予島の南岸を、そんな大津波が襲ったそうだ。そして、大勢の海人が亡くなった。村は壊滅し、生き残った海人は、各地の沿岸に移住した。そして、項権のお祖父さんの、またお祖父さん達は、斯海(しまぁ)国に定住した。だとしたら、伊予島の大津波の話は、百年程昔の話である。狗奴国を襲った今度の大津波は、また、伊予島を襲ったのだろうか? もしそうであれば、筑紫島の全ての海浜の村々が壊滅したに等しい大災害である。私は事の重大さに身が震えた。
美仁の浜に、鬼国の河童衆の舟が並んでいた。やはり、沙羅隈親方は、美仁にいるようだ。美仁も、都萬と同じように、壊滅状態だった。辛うじて生き延びた人々は、疲弊しきっていた。それを、マンノさんや鬼国の河童衆が、懸命に介抱している。
イツキ親方は、物資を求めて投馬(とうまぁ)国に向かった。だから、メラ爺は、宇沙都から動けなかったのだ。しかし、沙羅隈親方の姿も美仁には見えなかった。沙羅隈親方はやはり、ミジンガン(美津川)を遡り、 マハン(馬韓)人の村々を回っているようだ。私は、何としても、沙羅隈親方に会いたかったので、ミジンガンを遡ることにした。川の両岸は、上陸できそうもない位に、上流からの流木に覆い尽くされていた。それに、水も山土の赤い色で染まっていた。
沙羅隈親方は最初の村で見つかった。そして、その村の被害も大きかった。まるで、山肌を削るように波が押し寄せ、そして村々を海まで流し込んだ。どうにか、難を逃れた村長の高台の屋敷には、やはり、命だけは助かったが、大けがをした人が、大勢寝かされていた。私は、沙羅隈親方を見つけると、夜遅くまで、今後の救援策を話し合った。
沙羅隈親方の経験では、こんな大災害の後に必要なのは、まずは、食料と、水の確保。次に、薬と、医療体制。それから、治安体制。それらが整ったら、住居の確保に取り掛かる。ということだった。「治安体制」というのが、未熟な私には理解できなかったが、修羅場を、潜り抜けながら生きてきた沙羅隈親方の話では、こんな大災害の後には、必ず悪党供がはびこるそうだ。従来の山賊供だけではなく、絶望のあまり、悪党の仲間入りをする地元民も出てくるらしい。食料品を盗む位なら、まだ同情も出来るが、女を犯し、更に、子供や娘をかどわかし、売りさばく人浚いの類は決して許せない。そこで、自警団を含めた治安部隊が必要に成る。それは、程なく、狭山大将軍がヤマァタイ国の部隊を引き連れ到着するので、それからなら目処が立ちそうだ。だから、やっぱり、医食の確保が急務である。
ヒムカの話では、天乃磐船は、カゴンマ(火神島)の始羅の港に停泊していたので、大津波の被害を免れたようだ。そして、今は火尾蛇(ほおみ)大将が、健が暮らす、ニシグスク(北城)に至る五瀬川の河口の吾田之津に停泊させている。だから、私はこの後、吾田之津に向い、火尾蛇大将に「アマノイワ船を、サラクマ親方に使わせて欲しい」と頼むつもりだ。
狗奴国の民を、救える程の医食の物資を集められるのは、亀爺の秦家商人団と、沙羅隈親方の商人団しか居ない。天海(あまみ)親方の南洋の商人団は、大半が被災し壊滅状態なのだ。亀爺には、私の天之玲来船を使わせ、沙羅隈親方には、ヒムカの天乃磐船を使わせて物資輸送をすれば、復興を早められるだろう。資金は、美曽野女王と、臼王にお願いしている。これは、倭国の総力を挙げて掛からないと叶わない事業である。そのことは、私以上に、美曽野女王と、臼王がご存知の筈である。
翌朝、私はウネと項権を伴って、吾田之津に向かった。それに、沙羅隈親方が、鬼国の河童衆を三人付けてくれたので、早舟の船足は、更に早まった。吾田之津に着くと、幸運なことに、まだ、火尾蛇(ほおみ)大将は、天乃磐船の船上にいた。タケルとの打ち合わせが終わり、ヒムカの待つ斎殿に戻る処だったらしい。早速、火尾蛇大将に、物資輸送船の話をすると、大将は、とても喜んでくれた。そして、天乃磐船には、イツキ親方が集めた投馬国の物資が積まれていた。しかし、その後の手だてが付かず困っていたそうだ。だから、沙羅隈親方の力を借りられるのは、とても助かったのだ。
早速、美仁で、沙羅隈親方を乗せると、斎殿(さいと)を目指した。私は今度もタケルに会えずに、後ろ髪を引かれる思いがしたが、しかたがない。天乃磐船は、一旦斎殿に寄り物資を降ろした。そして、天乃磐船は、沙羅隈親方を乗せて、鬼国に向かった。
私は、火尾蛇大将と、山門(やまと)に入った。それから、天之玲来船が斎殿のけが人を、皆、阿多国に移したことを確認した。だから、私は、表麻呂船長に物資運搬船の任を与え、亀爺への文を手渡した。そして、表麻呂船長から嬉しい話を聞いた。口之津で建造中のダウ船 風之楓良船が、秋には完成するそうだ。そうすれば、冬を迎える前には、暖かい衣類を確保し、住居の建設も更に早まることだろう。これには、夏希義母ぁ様の項家軍属の力を借りるしかない。
でも、斎殿に到着すると気が重い話もあった。実は、吾田之津の船宿に居たモユク爺さんが、アマミ親方の船宿と一緒に、海に呑まれていたのだ。五瀬川の上流に押し上げられて、どうにか命拾いした船頭衆の話では「大地震の後で、一旦は皆で津波の心配をしたが、大津波の前兆の引き潮がないので、大丈夫だろう」と、地震の後片づけをしていたそうである。すると突然、押し波が舟宿を飲み込んだそうだ。宿の中で後片づけをしていた船頭衆や、モユク爺さんは、逃げる暇も無かったようだ。
話をしてくれた船頭衆数名は、もし津波が来て舟が流されると困るので、舟を上流に引き上げていたそうだ。すると、「突然、山のような大きな津波が押し寄せた」と証言した。別の船頭衆は「いや山より大きかったばい」とも言った。いずれにしても、一瞬の出来事だったようだ。
愛しい母を亡くしたニヌファ(丹濡花)に、重ねてモユク爺さんの死を告げるのは、不安だった。母の死を聞いて気を失ったニヌファが、今度は、愛しいモユク爺さんの死を知り、戻らぬほどに気を無くしてしまうのではないかと、心配だったのだ。しかし、その危惧は訪れなかった。
ニヌファは、モユク爺さんの死を聞かされ「そう」と、言うとふっ~とため息をひとつ吐いただけだった。もう、ニヌファは、悲しみを受け入れる心に蓋をしたようである。そのニヌファの様子に、香美妻と、ヒムカも新たな不安を抱いた。そして、ジンハン(辰韓)国に旅立ったシュマリ女将も、モユク爺さんの死を知らない。連絡を取ろうにも、シュマリ女将の行方は分からないのだ。私は、シュマリ女将に遁甲の役を頼んだことを詫びなければいけなくなった。
三日後、狭山大将軍と、ヤマァタイ(八海森)国の一隊九百人程が到着した。狭山大将軍は、隊を三つに分けると、一隊を、ニシグスク(北城)へ、もう一隊を、ハイグスク(南城)へ向かわるよう布陣させた。そして、狭山大将軍は、政都の山門に待機することにした。私と、火尾蛇大将は、一番被害が少なかった山門の館を、復興に向けた本陣にしようと相談していたのだ。
翌朝、私は、項権を供にハイグスクへの一隊に加わった。救援軍の道案内は、ウネが行うのだが、私は、ホオリ(山幸)王に会いたかったのだ。それに、ウガヤ(卯伽耶)の無事な顔も見ておきたかった。
ニシグスクへの救援軍は、火尾蛇大将が率いて北上した。狭山大将軍には、ヒムカが被害の状況を教え、早速、サイトの復興に動いてもらうことにした。
そして、狭山大将軍は、新たに三千人規模の部隊要請を、ヤマァタイ国に向け発した。ヒムカからの被害状況を聞いた狭山大将軍は、咄嗟にそう判断したのだ。ヤマァタイ国の国軍は、平時は六千人程である。だから、その半数を出動させるのだ。その判断に女王の私の許可はいらない。それに、もしその判断を私に求められても、私には分からない。香美妻にだって、淀女房頭にだって、分からないだろう。きっと、その判断が分かるのは、高志大頭領だけだ。だから、狭山大将軍からの部隊要請を、高志大頭領が承認すれば、援軍はやってくる。そして、高志大頭領は、狭山大将軍からの要請を受けるはずだ。だから、三千人規模の復興支援部隊がヤマァタイ国から送られるのは間違いない。それでも、人手が足りなければ、国難の際に発せられる退役兵の召集令を発することになる。召集令は、国難の状況により三段階で発せられる。そして、最大の国難時には、五万人の国軍となる。ヤマァタイ国四十二万余の民の中から五万人を招集すれば、働き盛りの男はすべて兵に採られる。だから、田畑を耕すのは女子供と年寄りだけになる。そんな事態だけは避けたいものである。そして、その召集令は女王の私が発するのだ。そんな事態を迎えぬように、私はホオリ王と、しっかり相談し指示を仰ぎたいのだ。
王にお会いして、私は驚いた。王は、髭も剃らず、髪も梳かないで、更に、めっきり白髪に成って居られた。復興の目処がつくまで、髭も剃らず、髪も梳かないと、お決めに成っていたのだ。人は大変な思いをすると、一晩で白髪に成るという。王の髪は、真白では無かったが、先年お会いした時よりも、随分と白髪が増えているのだ。それが、ホオリ王の心労と、悲しみの深さを醸し出していた。
ハイグスクの街は、地割れと火災により、半数近くの家屋が失われていた。王の館は、崩壊を免れ建物の多くは軽微な破損で持ちこたえていた。だがそこには被災した人々が溢れていた。そして、王は家屋で寝泊まりすることなく、庭に張られた天幕で過ごされていた。食は、王宮の倉を解放したので、餓え喘ぐ民の姿はなかった。しかし、医薬品は、まったく足りていなかった。
医食が断たれると、生存が危ぶまれる。今は、医が断たれ始めているので、些細な病で亡くなる人も出始めていた。特に赤子の病は急変する。館の奥の間には、そんな赤子達が横たわっている。そして、気が遠のいている赤子が多い。私は、早速、庭に祭り場を作ってもらい、無事だった巫女達を集めて貰った。そして、その赤子達の彷徨い始めている魂を、体の中に納めた。赤子達の気が整い、精気が戻ると、赤子達は、力強い泣き声を取り戻した。
それから、支援部隊が持ってきてくれた医薬品を、巫女達に渡し、護衛兵と共に、各村に向かわせた。今でも絶え間なく余震が襲っている。その為、幾人もの人が、恐怖で心を蝕まれ始めた。中には投げやりになり、犯罪に走る者も出ているようだ。沙羅隈親方が言っていた治安維持が課題になり始めているのだ。巫女達は、神の嫁だとは言え、その生身は女人である。善からぬ輩に襲われる危険も出始めているのだ。
夜になり、私は、篝火の下で王と、復興に向けた話し合いを行った。その間にも、余震に怯えた老婆が家屋から飛び出してきて「嗚呼、私ゃぁ恐ろしくて気がどうにかなりそうだ」と庭で悶えた。私は、老婆の気を静め家屋に取れ戻すと、人々を集め平安の儀式を行った。それから、夜が更けるまで王から今後の指示をうかがった。
ホオリ(山幸)王の心労は激しく、途中で、何度も言葉を詰まらせながら話をされた。私は、快活だった王を思い浮かべては、その痛ましさに涙がこぼれそうに成った。王の魂魄(こんぱく)は、とても弱まっている。話し合いが終わると、私は、王を深い眠りにつかせた。それから気がかりだったウガヤの無事を確かめ、この夜はウガヤを抱きしめて寝た。
翌朝、王は、健在な兵を集め、三百人のヤマァタイ(八海森)国軍と、混成部隊を再編し、各地の復興に向わした。もちろん治安維持だけではなく、田畑の復旧から、家屋の補修まで、民と共に力を尽くすのだ。驚いたのは、王は、牢屋を開け放たれ、悪党供を復興の手足に使われていた。王の話では、悪党供から願い出たことらしい。大半は山賊である。山賊は、貧しい家に生まれたものが多い。貧しさゆえに、人生に悲観し荒ぶる心を養ってしまった。しかし、その荒ぶる心を、この悲壮な状況が打ち破ったようだ。山賊供にとっても、ここが故郷なのだ。この故郷の荒廃を見過ごせなかったらしい。山賊の頭は「復興が成ったら、また牢に戻されても良い」とまで言ったそうだ。そこで王は、けが人の介抱や、治安を任された。悲しいことに、王を支えるべき重臣の中には、自分達だけ他国に避難した者も多い。いざとなれば、己の身と、一族は自分で守るしかない。それも摂理なのだ。だから、多くの重臣達が、持てるだけの財産と、食料を持ち出し、我と一族の保身を図ったのである。
この現実もまた、誰かに非難出来る話ではない。その点、山賊供には、持てる財産も無ければ、受け入れてもらえる他国もない。彼らにとっては狗奴国こそが、生きる地なのである。だから、この惨状から逃げ出せないのだ。
意外にも、山賊の介抱は評判が良いらしい。山賊の中には、孤児だった者も多い。親を知らない山賊は、年寄りを大事にした。餓えて幼い妹や弟を亡くした山賊は、子供達に優しかった。気鬱に陥った男供の中には、周囲に当たり散らす厄介者も出ていた。特にその被害は子供達に及びやすい。そんな様子を見つけると、山賊は、体を張って子供達を守るのだ。心の絆は、血縁よりも、悲しみを分かち合える者達の方に、強く結ばれるのかも知れない。
十日後、天之玲来船が、支援物資を積んで、始羅の港に着いたと、知らせが入った。そして、その荷を運んできたのは、須佐人だった。天之玲来船は、積み荷を降ろすと、再び、 シマァ(斯海)国に向けて旅立った。
今回、須佐人が運んできた荷は、衣食が大半だ。家屋の補修に必要な資材は、斯海国で、夏希義母ぁ様が集めてくれている。須佐人は、衣食の荷を、王に託すと、ナカングスク(中城)のヒムカに会いに行くと言った。姉の無事な姿を、確かめたかったのだ。だから、私も、ホオリ王からの伝言を持って、ナカングスクに戻ることにした。
道中の筏の舟旅の合間に、私は、須佐人から臼王からの伝言と、倭国各地での支援の動きについて教えてもらった。そして、気がかりだった伊予島の南岸の惨状も知った。どうにか生き延びた黒潮の海人達が、斯海国や、投馬国に、大勢避難して来たようだ。その者達からの話では、伊予島の南岸の村々は、すべて壊滅した。今、伊予島の南岸には、年寄りだけが少数だけ残っているそうだ。今でも村々の浜には、遺体が打ち寄せられている。その死者の弔いに、少数の年寄達が残ったのだ。そうして、年寄達は、自らの体を、その地に埋める覚悟のようである。その話を聞きながら、私は、豊海姉様と、チヌー(知奴烏)小母さんの温もりを思い出し、涙が止まらなくなった。
ナカングスクの山門(やまと)に戻ると、沙羅隈親方が、天乃磐船に支援物資を積んで入港していた。須佐人は、ヒムカの無事を確かめると、安堵の為か、うっすらと目を潤ましていた。ヒムカは、弟を抱きよせ、荷を届けてくれた礼を言った。でも、その礼の言葉も、須佐人には聞こえていないようであった。須佐人は男の子である。アチャ爺は「男は両親か、妻が亡くなった時以外は泣いちゃいかん!!」と、常日頃から教えていた。だから、須佐人は、涙を堪えるのに必死だったのだ。
天乃磐船は、荷を下ろすと、天之玲来船と同じように資材を求めて斯海国に向かった。私は、その船に乗り、須佐人と共に、一旦ヤマァタイ(八海森)国に戻ることにした。
ナカングスクの周辺には、どこからか盗賊団がやってくるようになり始めていた。火事場泥棒という輩だ。だから、狭山大将軍は、元気な若者を集め自警団を作らせた。そして、ヤマァタイ国軍と、夜警を行い始めた。また、元気を持て余している子供達を集め、不審者を見かけたらすぐに知らせるように頼んだ。それから、各所に急ごしらえの狼煙台を作り、情報網を強化した。同じことは、ニシグスク(北城)周辺でも発生しそうだったので、火尾蛇大将は、同じ体制を整えた。
ニヌファ(丹濡花)は、天海(あまみ)親方の許で少し気力を取り戻していた。でも、もう少し元気になるまで、斎殿(さいと)に留めることにした。もちろん、香美妻も同意見だった。だから、少なくとも、香美妻が狗奴国に留まっている間は、ニヌファも、狗奴国に残すことにした。今回も、私は、健(たける)やサラ、フラ、レラには会えなかった。健は、ニシグスク周辺の民を良くまとめ、人々からの信頼を高めているようだ。きっと、ますます現つ神(あきつかみ)の様相を帯びているかも知れない。私は、現つ神様のお顔を見てみたくて堪らないのだが、今回も諦めることにした。
天乃磐船が出港する直前に、ウネが、山門(やまと)に戻ってきた。私は、私の見送りにわざわざ来てくれたのかと思ったら違っていた。ウネは、地震の定点観測と云うことを始めたらしい。各地で感じた揺れの度合いを記録しているのだ。それも、余震を含めて細かくである。もちろん、ウネ一人で、各地の余震を感じることは出来ないので、ウネに協力する若い農民達に頼んで回っているのである。農民達は、文字が書けない者も多いので、五本の指で揺れを記録させているそうだ。「揺れたかな? と思った揺れ」は、小指揺れである。「明らかに感じた揺れ」と、感じたら薬指揺れである。「物が倒れる位の揺れ」は、中指揺れだ。「立っていられない位の揺れ」なら人差し指揺れで「命の危険を感じた揺れ」が、親指揺れである。ウネは、協力してくれる若い農民達に、筋の入った升目板を渡していた。その最初の升には、最初の大地震の揺れが、ウネの朱の親指で記録されている。その後に、若者達の拇印を押すように作られている。
その五段階の揺れを、ウネは、日毎に数値化して記録しようとしているのだ。ウネが古老に聞いた話では「クド(狗奴)国は、百年か、二百年措きに大きな地震が起きている」らしいのだ。だから、その地震と、大津波の関連性を調べようということである。それから、各地で起こった地割れも、絵地図にして記録していた。ウネのこの努力は、すべて農学の為である。この研究の成果を基に、棚田や、水田の手直しを行うのだ。やっぱり、偉大なる変人ウネはすごい!! 私は、ウネに負けないよう復興への努力を胸に刻んだ。
~ チュホ(州胡)の海賊王会議 ~
茹だるような夏の暑さに襲われて、私は、女王の政務に負われている。頼りの香美妻は、狗奴国で奮戦している。だから、泣き言は言えない。私は、淀女房頭に甘えながら、やっと人心地が着くところまで、政務の総理を終わらせた。だから、これからの女王代理は、また太布様におすがりして、私は、数日後に、チュホ(州胡)に向けて旅立つことにしている。もちろん、避暑に出かけるわけではない。そこで、海賊王会議を開いてもらえることになったのだ。
狗奴国の復興と、更には、伊予島南岸への支援を考えると、倭国で集めるだけの物資では、不足する。その為に、木材や、鉱物など倭国の物資を売り、医食類を、買い集めるのだ。衣服は、事足りているが、薬が不足している。狗奴国の衛生状態は、劣化しており、いつ大きな流行病に襲われても不思議ではない。医食同源と云うように、薬と、滋養の高い食品が、まだまだ必要なのである。
項家軍属は、まだ資材調達に負われている。亀爺と、沙羅隈親方も、現状で手がいっぱいだ。だから、私は、アチャ爺と一緒に、海賊王達を頼ることにした。その私の心積もりを、スロ(首露)王が汲んでくれ、チュホ(州胡)に、海賊王達を集めてくれた。彼らは、皆、大きな力を持った貿易商人である。彼等なら、東海や南海や、黄海の各地から、十分な医食類を買い集めてくれる筈である。もちろん、その前に、父様は「倭国の資源を言い値でジンハン(辰韓)国が買う」と、周辺国に宣言してくれた。だから、財貨の心配はない。
チュホ(州胡)への水先案内は、沫裸党の於保耳(おぼみみ)族長が行ってくれる。だから、私は、アチャ爺と、須佐人、それに、項家二十四人衆と伴に、値賀嶋(ちかのしま)に、向かっている。狗奴国へは、狭山大将軍が要請していた援軍が到着したので、項家二十四人衆は、再び私の近衛兵に戻ったのだ。
船団は、今回も美曽野女王が、末盧国から出してくれた。アチャ爺は、久しぶりに本業に戻ったので生き生きとしている。テルお婆は、香美妻を手伝うため狗奴国に渡った。玉輝叔母さんは、スヂュン(子洵)の成長に不安がない時期になったので、阿多国に戻り、お祖母様に変わり、被災した重病人の手当に精を出している。ヒムカは、ナカングスク(中城)の復興がひと段落したら、伊予島南岸へ渡ろうと考えているようだ。伊予島南岸には、ヒムカと同じ、黒潮の南洋民が残されている。それも、老いた海人(うみんちゅ)ばかりだ。冬を迎える前に衣食を届けないと、命を亡くす者が出そうである。
値賀嶋の、美弥良久(みみらく)の津には、既に、外洋船が、三艘準備されていた。この真新しい外洋船は、東海の船の中でも、最も船足が速いそうだ。櫂が、四十八本もあり、艪も八本備えている。二本の帆柱には、三角帆が張られており、風上にも進めるように作られている。更に、ミヨシ(水押し=船首)と、船尾は、反り上がり、高波にも耐えられる構造だ。天之玲来船に比べると、ひとまわり小さいのだが、十分頼りがいのある外洋船である。この外洋船は、沫裸党の船大工だけで作った。やはり、沫裸党には、表麻呂を生み出すだけの、素地があったのだ。ダウ船の風之楓良船にも、この三角帆が使われるらしい。
外洋船には天之玲来船のような、立派な船楼はないが、於保耳族長が、私の為に小さな天蓋を備えてくれていた。私は、海女だから波に濡れることは、平気なのだが、美曽野女王への配慮である。船足は、天之玲来船よりも速く、潮目や風向きが変わっても、四十八本の櫂と、八丁艪に、三角帆を使い分けながら進むそうだ。だから、夜明け前の早朝に出航し、日暮前には、チュホ(州胡)に着くそうである。
距離は、私の村から、ヤマァタイ(八海森)国の港まで位らしいが、沿岸や、内海を航行するのとは違い、外洋を渡るのだ。だから、河川や、沿岸で暮らす河童衆では、乗り切れない航海である。やはり、沫裸党は、海賊にも勝る恐るべき水軍なのだ。
沖に漕ぎ出し、しばらくは艪櫂で航行していた。しかし、競い合いの舟競争のような早さだ。私が陸を走るよりも、早いかもしれない。しかし、一時ほど経つと、少し白波が砕け始め、うねりも出て来た。だから、於保耳族長は、艪櫂を引き上げ、帆走に切り替えるように指示を出した。そして、船足は一段と速くなった。
片側だけで、二十八本もの艪櫂を備えたこの船は、長い船体を持っている。長さだけなら、天之玲来船にも劣らない。幅も、大人八人が、並んで座れるほど広いので、安定性は高い。三角帆いっぱいに風を孕んだこの船は、先ほどから白波を打ち砕くように突き進んでいる。だから、小声では話せない位の波打ち音である。
於保耳族長に、この船は、何という名だと聞いたら、特に名などないという。だから、私は「浪切丸」と呼ぶことにした。その名で良いかと、於保耳族長に了解を得ると、於保耳族長は、日焼けしたワニの顔を、綻ばせ「良いですが、何で舟に名を付けるんですか?」と、聞いてきた。沫裸党には、舟に名をつける習慣などないらしい。私は、一瞬え~~っ?!と思ったが、良く考えると、舟は、沫裸党に取って道具である。百姓に取っての鍬や、荷馬車のように、仕事に欠かせない物なので、大事にはしている。しかし、鍬や、荷馬車に名を付けて呼んでいる百姓は、確かにヤマァタイ国にも居ない。「おい、俺の芦切丸を知らないか」と、自分の鎌を探している百姓がいたら、変人扱いをされているだろう。更に、良く考えると、お祖父様も、オウ(横)爺も、舟に名をつけて呼んでいたことはない。オウ爺の「てんぷく丸」も、私が勝手につけた名だ。どうしても舟を、個別に指す必要がある場合は、船大工の名で呼んでいた。
例えば、ユイマル(結丸)親方が造った舟なら「ユイ一番」「ユイ二番」「ユイ三番」或いは「ユイ東」「ユイ中」「ユイ西」など、作った順番や、置いてある場所を付けて呼ぶのである。だから、「てんぷく丸」や「浪切丸」のような愛称ではない。
それに、固定的な名でもない。あくまでも、実務的に呼ぶのだ。「おい、今日ユイ一番はどこの漁場にいるか?」というようにである。でも、受け手が「ユイ一番ってどの舟です?」と聞けば「ほら、舟縁を赤く塗ったやつだ」と、見た目で示すのである。すると「ああ~ぁ。あの赤丸なら、今日は笠沙の沖で漁をしよるば~い」と、答えるのである。そして、「ユイ一番か赤丸か、どっちの名が正しいのか!!」と、揉めることはない。お互いが、同じ舟を指していると確認できれば良いのである。
でも、私の愛犬チャピ(茶肥)を、人が別の名で呼ぶのは許さない。何故なら、チャピは、道具ではなく愛犬だからだ。ようは、識別するためのモノか、愛情を注ぐためのモノかで、違ってくるのである。だから、私にとってこの船は、ず~っと「浪切丸」である。
だけど、沫裸党の海人が、同じようにず~っと「浪切丸」と、呼んでくれるかは確証がない。もしかしたら、私が、下船すれば「チカ一番」か「チカ西」に、成っているかも知れない。でも、良いのだ。私にとってこの船は「浪切丸」に、決まっているのだ。
それから、あとの二艘にも名がない筈だから、何という名にしようと考え始めた。そして「快風丸」と「天海丸」にすることにした。どっちを「快風丸」にしようかと悩んでいると「船殻が赤黒いあの船を快風丸にしたらどうですか」と、於保耳族長が、提案してくれた。あの船の外板は、マハン(馬韓)国の黒松を使っているそうだ。だから、樹脂が多く、水はじきが良いらしい。それに、もともと濃い緋色だったので、潮風に打たれて力強さを感じさせる赤黒い船殻に変わっている。私は、於保耳族長の意見を汲んで、あの船を「快風丸」にすることにした。
だから最後の一艘が「天海丸」に成った。せっかく「天海丸」にしたのだから「帰りの航海では、帆を空色に出来ないか」と、無茶な注文を、於保耳族長にしてみた。すると、やはり笑顔を浮かべたワニ顔で「では、チュホに着いたら早速手配してみましょう」と言ってくれた。私のどうでも良い名付け遊びや、無茶な要求にも笑顔で答えてくれる於保耳族長は、本当にやさしい。私のお兄さんも、あの助べえ夏羽じゃなく於保耳族長だったら、どんなに良かっただろう。私は、琴海さんの幸せを確信した。
帆走でしばらく進むと、遠くに島影が見えてきた。あれがチュホ(州胡)のようだ。島の中央に高い山が見える。チュホは、値賀嶋に比べると、随分大きな島だ。私の村から、笠沙の岬を回り、枚聞(ひらきき)山から、更にカゴンマ(火神島)に回り込み、始羅の港までの広さほどあるそうだ。だから、私の阿多国よりも少し広い大きな島のようである。
この島には、「三つの氏族が分かれて住んでいる」と、事前に聞かされている。その三つの氏族の名は「ガオ(高)一族」「リャン(梁)一族」「フー(夫)一族」というそうだ。ガオ一族は、島の北岸に住み、ピョンハン(弁韓)国や、マハン(馬韓)国との関係が強い。リャン一族は、島の東岸に住み、ドイマァ(対海)国から、ジンハン(辰韓)国に至る航路で、交易をしている。フー一族は、島の南西岸に住み、夷洲国(台湾)から、高志(こし)まで北の黒潮に乗って交易をしている。「ガオ一族」の始祖は、コヘ(高海)という人で、志賀沫裸党の出だと教えてもらった。そして、於保耳族長はガオ一族の都を目指している。
始祖コヘは、もう十五年程前に亡くなっている。今は、ガオ・ユェ(高月)という女族長が一族をまとめているらしい。遠くに島影が見えてはいるが、到着するには、まだまだ時間があるようだ。そこで、私は、須佐人といっしょに、於保耳族長から、チュホ(州胡)の一族の話を講義してもらうことにした。アチャ爺は、今夜の宴会に備えて、私の為の天蓋で大鼾をかいて寝ている。それにどうやら、アチャ爺には、この講義は必要ないらしい。なにしろアチャ爺は、東海一の暴れ者と噂された男である。きっと東海中の海人のことなら全て知り尽くしているのであろう。アチャ爺の大鼾にも負けない大きな波打ち音にかき消されないように、私と、須佐人は、於保耳族長の講義に耳をそばだてた。
《 於保耳族長が語るチュホ(州胡)の一族 》その1
巫女様は、ピョンハン(弁韓)国や、マハン(馬韓)国の歴史はご存知ですか? そうですか、そこまで亀頭領や、首露王に聞かされているのだったら、話は早いですね。亀頭領は、高良磯良様だから、海人でもある倭人の話は、一番良くご存じですからね。では、早速、ガオ一族の話から始めましょう。始祖コヘが、我が志賀沫裸党の出だということも、ご存じのようですから、まず、系図的に説明しましょう。
私の曾祖母は、美留橿媛(みるかしひめ)と、呼ばれた大巫女様でしたが、ガオ一族の始祖コヘは、その美留橿媛の弟です。だから、私の祖父比羅夫の叔父にあたります。母の美曽野に取っては大叔父です。美留橿媛と、コヘ姉弟の父は、コミ(高弥)と言います。本来なら、弁韓国に属するコジャ(古自)小国の世継でした。
その小国は、首露王の母君ヘジン(恵珍)様が治めていた領域です。位置は、首露王の拠点であるクヤ(狗邪)小国の西にあります。それから、もう少し西に行くと、キム・ミョンス(金明朱)様の父君アミョン(阿明)様が島流しになっていたヌクド(勒島)があります。島流しと聞くと、陰湿な島のように聞こえますが、実際は暖かくてとても綺麗な島です。
キム・ダヘ(金多海)様と、ミョンス様の母君ジョンウォン(貞媛)様は、チュホ(州胡)に流され、そこでミョンス様が生まれるのですが、そのジョンウォン様を助けお守りしていたのは、ガオ一族の始祖コヘ様です。ジョンウォン様は、ヒルス(金蛭子)王を裏切り、兄と密通していた為、酷い女人だとされていますが、実は心優しい方でもあったようです。
ヒルス王は、倭国から戻ると、コジャ小国のコルポ(骨浦)村に、鍛冶場を開きました。どうしても、直接、クヤ小国に戻る気にはならなかったのでしょう。一度は自分を捨てた国ですからね。そして、父の二代目首露王キム・チョンプ(金千富)様に呼ばれた時にだけ、クヤ小国に戻っていたようです。だから、ジョンウォン様が、ヒルス王と、新婚生活を始められたのも、コジャ小国のコルポ村の鍛冶場です。そして、ジョンウォン様は、ヒルス王に心から尽くされていたのです。
後世の人がいうように、醜い夫を嫌って、兄の許に走ったのではありません。むしろ、冷たく接したのはヒルス王の方です。母に捨てられたヒルス王は、女人を信じられなかったのです。もし、ジョンウォン様が、醜いヒルス王を心から嫌っていたのであれば、ダヘ様は、お生まれにならなかったでしょう。ヒルス王が、心を開かれないので、ジョンウォン様は、兄アミョン様の許に帰られたのです。コヘ様が、コジャ小国のコルポ村の新居を訪れる度に、ジョンウォン様は、父や兄に接するように、心からコヘ様を、もてなしていたそうです。コヘ様は、そんな、ジョンウォン様の優しい一面を知っていたのです。
コヘ様に見守られ、ジョンウォン様と、ミョンス母子は、チュホ(州胡)で静かに十年を過ごしたようです。その後、アミョン様が、九干の盟主、テチョンガン(大天干)になられ、お二人をパンパ(伴跛)小国に呼び寄せられました。アミョン様は、七年前にお亡くなりになり、今はミョンス様が、テチョンガンに成っておられます。ジョンウォン(貞媛)様は、今年七十歳に成られましたが、まだご健在で、巫女としてパンパ小国では、国母と慕われています。アミョン様は、異母妹と恋に落ちたり、倭国の娘に子を産ませたりと、その自由気ままさから評判は良くありませんが、商才や、政務能力には、素晴らしい力を発揮されたのです。また、武人としても優れた方でした。その血は、ミョンス様が、強く受け継がれています。
ミョンス様は、自らの出自と、父の奔放さを恥じてか、長い間独り身を通されていました。きっと、自分の代でその血を断つお考えだったのでしょう。でも、四十歳になられた年に、キム・チョンヨン(金青龍)様が、パク・ネロ(朴奈老)大将の遺児で、チョンヨン様の養女であったパク・ギュリ(朴奎利)様を、強引に娶らせたのです。ギュリ様は、まだ二十一歳でした。その上、血のつながりは薄いとは言え、異父姉の娘なので姪です。だから、ミョンス様は、固辞されました。しかし「ミョンス兄貴は、ネロ大将の遺児達を守る気はないのか。俺の許には今、ヨンオと、ククウォルが居る。それに、ナリェと、マナ姉さんに娘のセオも引き取った。そして、ネロの血筋を断とうと狙っている魔物達は、皆、健在だ。だから、俺一人では守れんのだよ。そこで、ギュリは、兄貴が妻にして守ってくれ。パンパ小国の妃を殺めようとする腹の据わった魔物は、ジンハン国にはおらんだろう。ナリェも、ククウォルも、いずれは一国の王の妃にするつもりだ。王の妃を殺めるのは容易ではないからな。どうだ。断ることなど出来ん話なんだぞ」と、チョンヨン様は譲りません。それに「ネロ大将の遺児達を守る気はないのか」と、迫られると断れませんでした。
チョンヨン様と、ミョンス様は、共に高木の神のおひとりである大伽耶山の巫女女王の末裔です。でも、チョンヨン様の父系は、ヒョウ(瓢)様。すなわち辰韓国の四代王ソクタレ(昔脱解)ですが、ミョンス様の父系は、クヤ小国族長スナム(首南)の弟アナム(阿南)です。チョンヨン様すなわち首露王からも聞かれているように、アナム様も、商才に長けた方でした。そして、実務捌きの上手さは、兄スナム様を凌いでいたとも言われています。だから、首露王は、アナムの血も絶やしたくはなかったようです。
ガオ(高)一族の始祖コヘ(高海)様は、コジャ(古自)小国の世継だったと先ほど言いましたが、コジャ小国は、首露王のクヤ小国。ミョンス様のパンパ(伴跛)小国と、並び立つピョンハン(弁韓)国の中核国です。それ以外に、コニョン(古寧)小国、ソンサン(星山)小国、アンヤ(安邪)小国という有力国があり、この六国が弁韓六連合小国と呼ばれています。その他にも、小さな国が多数あり、弁韓十二国とも言います。
コヘ様は、沫裸党でもありますが、ピョンハン人でもあります。だから、首露王や、ミョンス様との関係も深いのです。二人にとって、コヘ様は、永遠に頭の上がらない大伯父だったようです。だから、何が起きても、弁韓国が分裂しないのは、コヘ様の存在が大きかったのです。それに、ジェン・チュヨン(鄭朱燕)姫を、首露王に引き合わせたのも、コヘ様でした。初代の首露王を立て、弁韓国を建国した時の族長は、クヤ小国がスナム(首南)。パンパ小国が加耶姫でした。首露王の母上ですね。初代の首露王キム・チョンマン(金田萬)の兄上阿具仁(アグジン)は、政争に敗れ倭国に落ち延びていたからです。
チョンマンと、アグジンの異父弟アコクム(阿鼓今)が成長すると、父のアナム(阿南)に支えられパンパ小国の族長になります。
一方、当時のコジャ(古自)小国の族長は、コヤ(高耶)という人でした。コジャ小国は、私達と同じ倭人の国です。だから、コヤ族長の妻は、沫裸党の海女でミミ(美米)という人でした。ところが、ミミは、長男のコミ(高弥)が十歳に成った頃に、海で無くなります。その為に、母を亡くした幼いコミは荒れて、父のコヤも困り果てていました。そんなコヤ族長を見かねて、アグジン様が妹の奴那珂姫を、後妻に嫁がせました。実は、コヤ族長と、アグジン様は無二の親友だったのです。アグジンが、ピョンハン(弁韓)国を追われた後も何かとコヤ族長が気遣ってくれていたそうです。奴那珂姫は、伊佐美王に嫁ぎ息子の宗潟(むなかた)を儲けていましたが、伊佐美王は、筑紫島に戻り、奴那珂姫と、宗潟の許に戻る可能性は無くなっていました。いわゆる生き別れです。生き別れて未亡人状態に成っていた奴那珂姫は、まだ三十路(みそじ)の女盛りでした。だから、アグジンは、伊佐美王の了解を得てコヤ族長に嫁がせたのです。高志(こし)の族長になる宗潟は、兄のアグジンに託すしかありません。その寂しさを埋めてくれたのは、宗潟と歳が近いコミでした。母を無くして寂しかったコミも、実の母のように奴那珂姫を慕いました。翌年、奴那珂姫は、コヤ族長の次男コカ(高珂)を産みます。ひとりぼっちだったコミは大喜びし、異母弟を溺愛したそうです。その次男コカが、ヘジン(恵珍)様の父上です。だから、首露王ことチョンヨン(金青龍)様の祖父様にあたります。コジャ(古自)小国の次期族長であるコミは、十九歳の時にソリャン(雪香)という娘を娶ります。ソリャンは、コジャ小国の南西の島、ソルサン(雪屹山)の麓で生まれ育っていました。そこは、ソリャンの母の島だったのです。しかし、実は、ソリャンは、志賀沫裸党の族長の娘だったのです。コミ(高弥)の実母である沫裸党の海女ミミが息子を気遣い、神様の国から呼んだのかも知れません。そして、コミとソリャンの娘が、私の曾祖母美留橿媛です。コヘ(高海)様は、その弟ですから、美留橿媛と、コヘ様に取ってヘジン(恵珍)様は、歳の離れた従妹です。しかし、親子ほど歳の離れたヘジン様は、コヘ様に取って、愛娘のような存在だったようです。ですから奇しくも、首露王と、キム・ミョンス(金明朱)様の二人の母は、コヘ様に愛でられて育ったのです。だから、首露王も、ミョンス様も、コヘ様だけには頭が上がらなかったのです。コヘ様にしてみれば、二人ともやんちゃ坊子の可愛い孫なのです。
そのコヘ様は、十九歳の時に、二代目首露王キム・チョンプ(金千富)に仕えました。そして、チョンプ王に、交易の術を習いめきめき頭角を現していきます。二十一歳に成った時チョンプ王に、その才を認められ夷洲に渡り造船の技術を学んだそうです。そして、二十三歳の時に、夷洲の族長の娘サヨン(莎英)と、最初の結婚をしました。ところが、翌年、コジャ(古自)小国の二代目族長になっていた父のコミが没します。しかし、商売や造船が面白くなっていたコヘ様には、コジャ小国の三代目族長になる気はありませんでした。その気持ちは、父の二代目族長コミ(高弥)も良く分かっていました。だから、コミ様は、三代目族長を、異母弟コカ(高珂)が継ぐようにと遺言していました。それを知ったコヘ様は大喜びし、夷洲で造船を学び終えると、チュホ(州胡)で、自由貿易商人団のガオ(高)一族を立ち上げたのです。
しかし、実際にガオ一族を名乗り始めたのは、娘のガオ・ユエ(高月)様からです。当初は、コ・ウォル(高月)と名乗られていましたが、兄のコ・ム(高武)が、その息子達と、ネロ(奈老)大将の反乱で皆戦死すると、兄の死を悼んだコ・ウォル(高月)様は、ガオ・ユエ(高月)と、母の国の夷洲読みに変えたのです。そして、日巫女様がお会いになる、ガオ一族の当主は、このユエ様です。ユエ様は、五十八歳に成られたので、丁度首露王とは一回り歳上です。だから、鯨海の海賊王と呼ばれた首露王も、コヘ様と同様に、ユエ様にも頭が上がりません。しかし、姉のように頼りにもされており、今回の海賊王会議も、首露王が、大姉貴のユエ様に頼まれて、開かれることになったのです。だから、ユエ様が今回の海賊王会議の主催者です。
ずいぶん、多くの人の名が出てきたので飲み込むのが大変ではありませんか。今回の話は、ガオ一族の話だけで終わりましょう。取り敢えずは、主催者のユエ様のことが分かっていれば良いでしょう。このまま、リャン(梁)一族と、フー(夫)一族の話を続けても、消化不良になって、ますます飲み込めないでしょう。話をしている私だって、沫裸党の大統領を継ぐことになり、母の美曽野から、東海一円の海人集団の歴史と、関係性を叩き込まれたばかりなのです。だから、話をしているだけで、一戦交えたかのように疲れ果てました。ですから、今回はここでお許しください。最後にチュホ(州胡)では、マハン(馬韓)の言葉でも、シャー(中華)の言葉でも、倭人の言葉でも通じます。島の中では、この三つの言葉が入り混じって話されていますから、馬韓の言葉の言葉が分からなくても、日巫女様は中華の言葉も話せるから大丈夫です。
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と、於保耳族長の講義は終わった。「今回はここでお許しください。」と言われて私は、ほっとしたのだ。それから、大きく息を吐き、須佐人を見ると、須佐人は、すべて呑み込めた顔をして平然としている。やっぱり、須佐人は、須佐能王の生まれ変わりに違いない。私の頭の中は、やっぱり、夏羽と同じスイカ頭の類である。しかし、首露船長の話が詳しく聴けたのは楽しかった。海賊王の首露船長にも、頭が上がらない人がいるなんて愉快でたまらない。私は、早くユエ様にお会いしたくてたまらなくなってきた。
~ 三海の海賊王 ~
日が落ちる前に、「浪切丸」と「快風丸」「天海丸」の三艘の高速船は、チュホ(州胡)の北の港に着いた。一日の三分の二以上を、船椅子に座っていたので、多少、お尻が痛くはなったが、大丈夫である。途中、島の西岸から北上してきたが、島の南西に点在していた村々が、フー(夫)一族が暮らす領域だったようだ。あの領域は、フーイー(夫邑)と呼ばれているようである。イー(邑)とは、 シャー(中華)では、小国家のことであり、領土とも言えるが、チュホの三氏族は、皆海洋民なので、領土権に対する執着はないそうである。
ガオ(高)一族が暮らす領域は、北岸のガオイー(高邑)と呼ばれる処らしいが、冬になると、とても強い北風が吹くそうだ。そんな時期は、海も時化が多く漁が困難に成る。だから、時化の時期が長いと食糧難になる。そんな時には、ガオ一族も、南岸のフーイーに避難して来るらしい。
逆に、夏の台風の季節は、フーイーが、被害に曝され易い。その被害が酷く、生活が困難になった時は、フー一族が、ガオイーに避難してくる。でも、高族と、夫一族が争うことはない。ヤマァタイ(八海森)国のように、領地争いはしないようなのだ
海女の私には、その理由が良くわかる。私達のような海の民は、貧しくて、戦をする余裕などはないのだ。皆で助け合わないと、生きていけないのである。私の村も、躬臣(くし)国の布留奇魂(ふるくたま)村から何度救われたことだろう。入り江に囲い込んだ、あの丸々と太った海豚を、隼人の一族が、近隣の村々に配らなければ、きっと、大勢の子供達が、餓えて息絶えたに違いない。
北岸の港は、チェポ(済浦)と言った。ここに、ガオ・ユエ(高月)様の館があるそうだ。大勢の人が入れる大きな館だと聞いていたが、沿岸からは屋敷らしいものは見えなかった。チェポの入り江には、既に多くの船が停泊していた。首露船長の新型船の船影も、もちろんあった。他の船は「浪切丸」や「快風丸」「天海丸」に良く似た外洋船だ。首露船長の船程は大きくないが、船楼を備えた船も多い。ホアンハイ(黄海)を北上すれば雪が舞う海原を航海する日も多いそうだ。更に、その北の海ポーハイ(渤海)は、冬になると氷が浮かぶ海になるらしい。シュマリ女将なら、そんな氷の海でもへっちゃらだろうけど、私は、想像しただけでも冷たい石に成ってしまいそうだ。だから、船楼無しの船なら、私は堪えられないだろう。でも、そんな氷の海にも行ってみたい。もちろんシュマリ女将の後ろを恐る恐る付いて行きながらになるだろうけれど……夢よ叶っておくれ!!
上陸すると、村は石垣に囲まれていた。でも戦さの為の防塁ではない。そして更に、石垣を麓に巻いたような小山がいくつもある。なだらかな小山は、一面緑の夏草で覆われている。小さい物は、小屋程の大きさだが、大きいものは、米多原(めたばる)の館よりも大きい。
その緑の小山の上を、子供達が元気に駆け回っている。熊人や、隼人に似た悪ガキばかりのようだ。それを見止めた年寄りが「こら~っ。また屋根の上を走りまわりよって! この悪ガキ供め。降りてこんかぁ~」と叱っている。
「嗚呼、あの小山は家なのかぁ」とぽか~んと眺めていると「良~く来たなぁ。ピミファよ。あまりの船足の速さに目を回したのではないか」と陽気な声で首露船長が木戸を開けて出てきた。そして、ヒョイと、私を両腕に抱きかかえると「おうおう、随分重くなってきたなぁ。俺は、また政務に疲れ果てて、痩せこけておるのではないかと心配しておったぞ。それに幾分娘らしくも成ってきたようじゃわい」と、言いながらそのまま小山の館の中に入って行った。
既に小山の館の中は、灯りが灯され沢山の人と料理が並んでいた。そして、威厳に満ちた老婆の前で私を下ろすと「ウォル(高月)姉貴よ。この天女がヒミコ様だ。どうだ、俺の言ったとおり美人だろう」と、私を紹介した。ガオ・ユェ(高月)様は「相変わらず乱暴者だねぇ。チョンヨンは、いくつになっても悪童の性質が治らないね。困ったもんだよ。お許しくださいヒミコ様。近頃、チョンヨンは、自分の娘が相手してくれなくなったもので寂しいんですよ。だから、ヒミコ様を、我が娘のように可愛がりたいのでしょう」と、おっしゃった。それから「おう、もう一人チョンヨンの上手を行く乱暴者がいたねぇ。相変わらず元気そうだね。アチャ兄よ」と、満面の笑みでアチャ爺の肩を抱かれた。
アチャ爺は、少し照れて「おうおう」と言っている。すると入れ替わるように、立派な黒髭の大男が「会いたかったぞアチャ兄」と、アチャ爺に抱きついた。「おうおうシェンハイめ。老いて益々元気じゃのう」と、アチャ爺が強く抱き返した。更に「お元気そうで何よりですアチャ兄」と、長い白髪を後ろに結んだ上品な年寄りが、アチャ爺と握手を交わした。「おうバイ・チュウか。久しいのう。白髪に成ったら一層男振りが上がったのう」と、アチャ爺が、バイ・チュウ(白秋)様の肩を親しげに叩いた。
首露船長は「まぁまぁ、入口で立ち話でもあるまい。さぁ中へ中へ」と、勝手知ったる他人の我が家であるように、私達を屋敷の中に導いた。そして、「さぁさぁ、ピミファとスサッチは、そこに座れ、アチャ殿は、ウォル(高月)姉貴の前にお座りください」と、皆の着座を促した。それから「皆の衆。会議は、明日の昼から行うことにした。ので、今夜はヒミコ様と、アチャ様の歓迎会だ。まず、議長のウォル姉貴に挨拶をしてもらおう。さぁウォル姉貴よ」と、いうとガオ・ユェ(高月)様を抱き上げ長い大きな机の上に立たせた。
薄暗くて良くは分からないが、この小山の館の中には百人ほどの人が居るようである。だから、ユエ様は、良く通る声で、しかも神妙な面持ちで挨拶を始められた。「皆の衆よ。まずは、亡くなった方々の冥福を祈ろう。それから、被災した人々の早い平安の時を祈ろう。では黙とう……直れ。皆あり難う。それから、明日からの会議を宜しく頼みます」と、皆に低頭し挨拶を終わられた。
一同の返礼が終わると「良し。後は無礼講じゃ。酔いは昼までに醒めれば良い。心おきなく飲んでくれ。それから自己紹介は各自後から各々でやってくれ」と、首露船長が宴会の開会宣言を発した。が、「あっ、いやいや待て待て、この美人の紹介だけは、俺がやっておこう。この色香たつ美人は、項家軍属の頭領夏希殿だ。名前だけは聞いた者も多かろう。加えて言えば独り身である。婿の名乗りを上げたい奴は、俺に言ってくれ。ただし、熊や鮫より獰猛な大男の一人息子が付いてくるがな。明日の会議では、この夏希が、被災の状況と皆に頼みたい物資の数々を話してくれることになっている。では、宴会を始めよう」と、改めて盃を高く上げた。
それから、夏希義母ぁ様は「皆様、よろしくお頼み申し上げます」と、深く頭を下げた。だから、私と、須佐人も慌てて「よろしくお頼み申し上げます」と、夏希義母ぁ様の横で、深々と頭を下げた。すると、奥の方から「オイラがってん。承知の介でございま~す」と、陽気な声が返ってきた。その剽軽(ひょうきん)者の声に、場は一気に和み一斉に笑い声が上がった。
その後は、アチャ爺の独り舞台である。私は、アチャ爺の踊り連に巻き込まれないように、用心しながら、皆からの挨拶を代わる代わる受けた。須佐人は、いつの間にかどこかへ消えた。どこかで早速、外交を始めているのかも知れない。
挨拶も途切れだしたので、一息ついてお腹を満たしていると、白髪のバイ・チュウ(白秋)様が、上品な面持ちの若者を伴い、挨拶に来られた。その若者は、ウネ(雨音)と同じ年頃のようである。そして「長男のバイフーです」と紹介された。もうすぐ二十五歳になるそうだ。夏羽より少し若いけど、話すにつれて随分賢い方だと分かった。
バイ・チュウ様は『黄海の海賊王』と、呼ばれているようだが、大海商と呼ぶ方が合っている風貌の方だ。それに比べて、シェンハイ(玄海)様は、見るからに海賊王の風貌である。既に、私は、心の中で『渤海の海賊王黒髭』と、あだ名を付けた。
海賊黒髭王は、バイ(白)親子の後で挨拶に来られた。黒髭様は、美曽野女王や、琴海さんと同年代と思われる男の人と、女の人を伴っていた。そして、女の人は、ジンレイ(静蕾)様といわれシェンハイ様の長女だった。歳は美曽野女王より二つ若いようだ。雰囲気は、夏希義母ぁ様とまったく同じである。「ポーハイの女海賊ジンレイ」というあだ名がぴったり似合いそうだ。
男の人は、ウーハイ(武海)様といい海賊黒髭王の長男である。でも、お父様とは違い、商人のように柔らかい物腰だ。黒髭様の話ではウーハイ様は、お祖母さん子で溺愛されて育ったらしい。だから「こ奴はひ弱で軟弱ものだ!!」だったそうである。そこで、黒髭様は、武術の達人でもあるバイ・チュウ様の許に修行に出し、鍛えたらしい。「他人の釜の飯を食って強くなれ」という教育方針だったらしい。
実は、黒髭シェンハイ様も若い時に、バイ・チュウ様のお父様の許で修業したらしいのだ。シェンハイ様は、貧しい漁師の家に生まれたそうだ。そして幼くして、父を海で亡くすと、母を助け、幼い兄弟を養うために、実入りの良い海賊の下働きをしたらしい。そこで頭角を現し、いっぱしの海賊の頭になった頃、秦家の商船団を襲った。
しかし、不幸にも、その商船団には、東海一の暴れ者アチャ爺が乗っていたのだ。然しもの海賊黒髭も、若きアチャ爺には散々にやられてしまい、海賊仲間の大半が海に叩き込まれてしまった。
そこで、黒髭は「こいつにゃ敵わない」と、潔く降伏し獄につながれる覚悟をしたそうだ。ところがアチャ爺は「お前、家族はいるか?」と聞いてきた。そこで、若き黒髭が「嫁を貰ったばかりだ」と、言うとアチャ爺は「美人か?」と、聞いた。だから「ポーハイで一番の美人だ」と、言い返すと「ホッホッホ… そりゃ良いのう。近いうちに会わせてくれ」と、言いながら後ろ手を振って海賊船から降りて行ったらしい。
黒髭玄海様が「お~うぃ。俺を役所に引き出すと大金がでるぞ」と、言うと「俺は役人ではない。お前を捕まえるのは、漢の役人の仕事だ。金なら唸るほどある。それに美人を泣かすのは、俺の性分が許さんのさ。だから、二度と俺の船団を襲うなよ」と、見逃がしてくれたそうである。
それで、渤海の海賊玄海は、秦家商人団の旗印をしっかりと目に焼き付け、海賊仲間達や、傭兵仲間にも、秦家商人団の旗印の絵図を配り「この旗印の船団を襲うな。命を無くすぞ」と、警告した。それから、アチャ爺の後姿を思い出しては「交易商人もおもしろそうだなぁ」と、商売にも心を動かしたそうである。
そこで、それまでは、目障りな奴らだと思っていた、黄海一の海商バイ・ジー(白鶏)様に頭を下げ、弟子入りを許してもらった。その時、海商バイ・ジー様の跡取りであるバイ・チュウ様は、十五歳だった。シェンハイ様によると「青白いぼ~っとした幽霊のような少年」だったらしい。
そんなひ弱なバイ・チュウ様は「悪童を絵にかいたような海賊黒髭」に強く憧れた。そこで、バイ・ジー様に商売を教えてもらうお礼にと、ひ弱なチュウ様を鍛え上げたそうだ。そして、今では、黄海沿岸で、チュウ様に勝てる男はいない。だから、今度は、自分のひ弱な息子を、チュウ様に託したのである。
今では、ウーハイ(武海)様の武術の腕も上がり、立派な男振りに成ったのである。でも、ウーハイ様は、武術より商売の方がお好きだったようだ。そこで、チュウ様は、ウーハイ様に、大陸での交易を教えたようである。そして、ラビア姉様のキャラバン隊を組織してくれたのはウーハイ様だった。だから、やっぱり、ウーハイ様は、荒くれ海賊には見えない。どうみても、海賊王は、ジンレイ(静蕾)様の方がお似合いなのだ。また、ウーハイ様と、八歳年下のバイ・フー(白狐)様とは、同じ屋根の下で育ったので兄弟のように仲が良いようだ。
三人目の海賊王、東海のジェン・センハイ(鄭森海)様は、まだ到着されていない。到着は、明日の昼前位になるそうだ。だから、海賊王会議も明日の昼から開かれるようになった。その為、チュホ(州胡)のリャン(梁)一族と、フー(夫)一族の族長達も、明日の昼前に到着するようである。
チュホは、陸路を一巡りすると、私の故郷阿多国から、ヤマァタイ国までの陸路と同じ位の長さがあるようだ。だから、値賀嶋の島からの航路と、同じ位の距離である。阿多国から、ヤマァタイ国までの陸路は、途中に難所がいくつもあり、大変な旅になる。でもチュホ(州胡)の海岸沿いはぐるりと平坦に近いらしいので、梁一族と、夫一族の族長達は、陸路で来るのかも知れない。
それに、チュホの中央にそびえるカマオルム(釜岳)の麓では、牛や、山羊や、馬などをたくさん飼っているようだ。だから、馬で来る可能性も高い。カマオルムは、高来之峰や、層々岐岳よりも更に高い。私は、夏希義母様に貰った、革のサンダルを持ってこなかったことを悔んだ。でも、山登りを楽しんで遊んでいた。と、知れたら狗奴国で奮戦している香美妻に、怒られそうなので我慢するしかない。狗奴国の復興が成りひと段落したら志茂妻も誘って、またチュホに来よう。その時まで、カマオルムに登る楽しみは取っておくしかない。
そろそろ宴も酣(たけなわ)となり、アチャ爺の踊り連が活躍しそうである。お酒も一番甘くなり酒飲み供は、元気いっぱいだ。私は巻き込まれたくないので、於保耳(おぼみみ) 族長を誘って、館の屋根に登った。この星空の下で夏草に覆われた草原に座り込み、族長から、チュホの一族の続きを講義してもらうのだ。今回須佐人は欠席である。何故なら、須佐人は、もう立派なアチャ爺の踊り連の一員である。嗚呼、嘆かわしい~~~ことになったものである。
《 於保耳族長が語るチュホ(州胡)の一族 》その2
先回は、ガオ(高)一族の話をしたので、今回は、フー(夫)一族の話から始めましょう。よろしいですか? では、まずフー一族の出自からお話しましょう。フー一族は本来、シャー(中華)のジェン(鄭)一族です。始祖はジェン・ハイフー(鄭海夫)と言います。父親はジェン・バイロン(鄭白龍)という中華の豪商です。そして、母親は、一支(いし)国の斐亀 (いき)姫です。バイロンには、幾人もの妻がいましたが、斐亀姫もその一人です。だから、ハイフーの故郷は、一支国です。フージャ(芙嘉)という名のチュホ(州胡)の海女と恋におち、チュホに渡って来たそうです。また、バイロンには、ヂュヤー(朱崖)という南海の島に、チーミャオ(赤苗)という妻もいました。そのチーミャオとの間に生まれたのが、ハイフーの異母弟ジェン・チーロン(鄭赤龍)です。その彼が、東海の海賊王に成りました。私の祖父比羅夫の妹美夏が、チーロンの妻になり生まれたのが、日巫女様も良くご存じのチョン・チュヨン(鄭朱燕)姫です。本来は、ジェン・ヂュイェン(鄭朱燕)と言います。チュヨンというのは、 ピョンハン(弁韓)国の言葉に読み替えた呼び方です。だから、首露王は、チュヨンと呼びますが、チーロン様は、ヂュイェンと呼ばれていたようです。チーロン様は、三年前にお亡くなりになり今の当主は、チュヨン(朱燕)姫の兄ジェン・センハイ(鄭森海)様です。だから、明日の会議には、センハイ様が出席される筈です。センハイ様は、首露王より二つ歳上なので、名実ともに首露王の義兄に成ります。東海の海賊王チーロン様の異母兄ハイフー(海夫)の跡継ぎが、フーミン(夫明)様でした。このフーミン様から、鄭の一字を取り、ハイフー様の一字から、フー(夫)一族と名乗り始めました。今はお二人ともお亡くなりに成りましたので、明日の会議に出られるのは、ハイフー様の孫であるフーシュン(夫勲)様です。フーシュン様は、確かジンレイ(静蕾)様より、二つ歳上だった筈なので、三十八歳に成られたと思います。
どうしますか? ここで一旦話を終えますか? それとも続けてリャン(梁)一族の話を続けますか? わかりました。では、リャン一族の話をしましょう。リャン一族は、日巫女様の兄上夏羽様の項家に繋がる一族です。遠祖が同じシャン・ファイ(項淮)という方なのです。ファイ(淮)様の一族は、シャー(中華)のフゥイジーシャン(会稽山)の麓を拠点とする軍属でした。フゥイジーシャンは、古くはマオシャン(茅山)とも呼ばれていたそうです。そして、シャー(中華)の聖地のひとつでもあります。また、倭人の多くが、ここを源流としているようです。
フゥイジーシャンの麓には、ヤンヅージャン(揚子江)と云う大河が流れています。シャー(中華)には、二つの大河がありますが、その一つです。とても大きな川なので、幾つもの名があります。源流域では、トト川等とも呼ばれているようです。トト川があるあたりは、もう西域の入り口の方が近いそうです。だから、とても長い川なのです。
その長い川の流れにそって、多くの種族が暮らしています。ファイ(淮)様の妻は、アラン(亜南)という人だったようですが、アラン様は、中央部の山の民だったそうです。だから、ファイ(淮)様の妻になるまでは、海など見たことがなかったのです。そして、この大河に暮らす種族の大半が、稲の民です。ですから、我が沫裸党の先祖をず~っと遡っていけば、きっと、その大河を遡る旅になるでしょうね。
シャー(中華)の軍属の一族であったファイ(淮)様は、伊佐美王が筑紫島を統一した噂を聞いて、倭国の項家一族を頼り、倭国に渡ってきたようです。軍属としての大きな仕事が、倭国にはあると予感したのでしょうね。しかし、渡来したのは、妻のアランと、少数の同族だけでした。きっと、ファイ(淮)様は、項家軍属の末子だったのかも知れません。だから、一旗揚げようと親族を頼り、出稼ぎに出たと云う経緯だったのでしょう。
そして、最初に上陸したのは、日巫女様の故郷である阿多国でした。阿多国は、伊佐美王の妹伊阿多様が治める国ですから、ファイ(淮)様は、直ぐに伊佐美王のお気に入りの軍属に成ったようです。それから、三人の息子が阿多国で生まれた。ですから、きっと、ファイ(淮)様と、アラン様は、若くして異郷の地を踏まれたのでしょうね。若い気力と、野心に満ちたファイ(淮)様は、伊佐美王の命令で、秦家商人団との関係を調整(すみ分け)しながら倭国の各地を北上したようです。
このシャン・ファイ(項淮)様の三人の息子から、三つの項家が生まれました。長男は、シャン・イェン(項燕)と言います。このイェン(燕)様から、対海(どいまぁ)国の項家が生まれます。イェン(燕)様は、対海国の女族長であった玉亀の夫となり、対海国に移り住みます。そして、対海国を拠点にしたのです。
イェン(燕)様と、玉亀様には、二人の息子がおり、兄はシャン・ユー(項玉)と言います。この方が対海国の項家の当主を継ぎます。弟は、シャン・ジー(項鶏)という名で、リャン(梁)一族の遠祖になる方です。弟のジー(鶏)様は、ウオン・アーメイ(翁阿美)と云う沫裸党の娘を妻にします。アーメイは、私の曾祖父ウオン・リー(翁鯉)の姉です。
リー(鯉)の父ウオン・ユェ(翁越)はシャー(中華)の人です。そして、ファイ(淮)様とは同郷人です。倭国に渡ってきたユェ(越)は、佐志沫裸党の族長の娘魅耶美(みやび)を妻にします。そして、曾祖父リー(鯉)が生まれ、佐志沫裸党の族長を継いだのです。その為、ジー(鶏)様と、沫裸党の娘阿美との間に生まれたシャン・リャン(項梁)は、私の祖父比羅夫とは従兄弟になります。リャン(梁)様が生まれて間もなく、項鶏家は、対海(どいまぁ)国から、チュホ(州胡)の東岸に移り住みます。どうやら、沫裸党が導いたようです。
リャン(梁)様が成人すると、ジンハン(辰韓)国のソムナ(蘇武那)という娘を妻に迎え、対海国の項家から独立して、リャン(梁)一族と成りました。ソムナ様は、蘇氏の娘のようなので、秦家が、縁組をしたようです。
ご存知のように、須佐能王や、秦家の始祖磯猛(いそたける)は、蘇氏の出ですからね。ですから、項家軍属と、秦家商人団の縁組だったともいえるようです。その為、チュホ(州胡)の東岸のリャン(梁)一族は、今でも、項家や、秦家、それに我、沫裸党との縁が深いのです。リャン一族の始祖シャン・リャン(項梁)様は、もう十二年程前にお亡くなりになりました。
二代目の当主は、シャン・ナ(梁那)様ですが、老いが早く進んだのか、今は臥せって居られるようです。ですから、明日の会期には、三代目のシャン・チュル(梁乙)様がお出になられます。チュル(乙)様は、三十七歳の男盛りで、私より十四歳年上ですから、私も何かと頼りにしています。チュホ(州胡)のリャン一族の話はここまでですが、斯海(しまぁ)国の項家と、阿多国の項家についてもお話ししておきましょう。
シャン・ファイ(項淮)様の二人目の息子は、シャン・シュン(項熊)と言います。この方が斯海国項家の始祖です。シュン(熊)様は、伊佐美王の信頼が厚く、異母妹でもある須佐能王の末娘伊多木様を妻に迎えられました。そして、伊佐美王より筑紫島の西の海上防衛線を担う為に斯海国を託されます。そこで、口之津に館を建て斯海国の項家軍属を起こしました。
斯海国の国母に成られた伊多木様は、高木の神の巫女でした。だから、高来之峰の女神様は、伊多木様です。ファイ(淮)様と、伊多木様は、四人の姉妹を授かりましたが、軍属を引き継ぐ者が居りませんでした。まぁ女子でも、夏希様や、琴海のような、気丈夫なら軍属を率いることも出来ますが、四人姉妹は、皆やさしい方ばかりだったようです。そこで、末娘のシャン・チーリン(項志玲)様に婿を迎え、斯海国の項家を任せました。そして、生まれたのが、夏希様の父上の項夏様です。そして弟が、日巫女様が、ハク爺と呼ばれている項伯様です。
シャン・ファイ(項淮)様の三人目の息子は、日巫女様のご先祖でもあります。シャン・マオ(項茅)という名に、御記憶はありませんか? 項茅様は、阿多国尹家の始祖伊阿多様の娘、羽志麻様の婿に成った方です。だから、日巫女様のお祖母様、磐戸姫様の、お祖父様です。つまり、日巫女様の四代前のご先祖ですね。項茅様と、羽志麻様の間には、シャン・グゥイ(項亀)という息子がいました。倭国ではコオエ(項亀)と呼びます。その方が、先ほどお話したチーリン(志玲)様の婿に成り、斯海国項家を継がれた方です。そして、兄の項夏様を斯海国の、弟の項伯様を阿多国の、それぞれの項家の当主にしたのです。たくさんの人の名が出てきましたが、私の話はこれまでです。ハク爺と日巫女様の御関係だけでも楽しんで聞かれたら幸いです。
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と、にこやかな笑顔で、於保耳(おぼみみ)族長の話は締めくくられた。族長は、二十三歳である。人の長い人生の内でも一番頭の回転が良い時期である。そうだとしても、於保耳様の記憶力の良さには頭が下がってしまう。私のスイカ頭は、当分上げられそうもない。嗚呼、アルジュナ少年の貝多羅葉(ばいたらよう)を沢山貰っておくべきだった。貝葉の束を手に入れるのが難しいなら、アチャ爺にエカキシバの葉を、沢山取ってきてもらおう。その葉っぱにでも書きとめないと、私の頭の中には収まりそうもない。でも絶対に覚えよう。覚えたら、スイカ頭の夏羽の耳元で、項家軍属の歴史を囁いてやるのだ。斯海国の項家軍属の当主になる夏羽なら、厭でも聞かざるえまい。そして、私と、同じように眩暈を起こさせてやるのだ。でも、熊人には、優しく掻い摘んで聞かせよう。その楽しみを糧に、もう一度於保耳族長の話を、心の中で反芻しよう。え~っと、最初がシャン・ファイ(項淮)様で……。
~ 首露王の春 ~
踊り疲れ、飲み疲れたアチャ爺は、昼前まで寝ていた。私は、夏希義母ぁ様に起こされて、須佐人と、朝餉を取った。それから、須佐人に夕べ、於保耳(おぼみみ)族長に教わったばかりの、秦家商人団と、項家軍属の関係を講義してやった。でも、何となく須佐人は知っているような話の聞き方だった。私が、身を乗り出し、於保耳族長の話に聴き入っていたのとは、態度が違うのである。でも、良いのだ。自分が、何かを完璧に身につけるには、人に講義する方が確かなのだ。そう加太は言っていた。確かに、人に話そうと思えば、間違ってないか、何度も、自分の胸と、頭の中に、問い返すものである。だから、厭でも、須佐人は、私につき合うしかないのだ。そして、やや不安なところは、夏希義母ぁ様の手を借りた。もちろん、夏希義母ぁ様は、斯海国項家軍属の今の当主だから、完璧な知識を持っているのである。
昼前には、東海の海賊王(海商) ジェン・センハイ(鄭森海)様と、フー一族のフーシュン(夫勲)様、リャン一族のリャン・チュル(梁乙)様も到着された。そこで、皆で昼餉を楽しみ、いよいよ、海賊王会議が始まった。でも、私と、須佐人は、特に何か発言することもない。こちらからの要件は、すべて夏希義母ぁ様が切り出し、海賊王達からの質問や、意見にはアチャ爺が応対しているのである。だから、私と、須佐人の役割は、ただ、頷いているだけである。
会議の終盤になり、黒髭シェンハイ(玄海)様が「それで、夏希様が求められている品々を集めた礼金のことじゃが」と、発言された。「おうおう、シェンハイめ。ふっかけるでないぞ」と、アチャ爺がおどけると「アチャ兄からなら、取れるだけふんだくるが、夏希様からならそうもいくまい。どうじゃね。夏希様、商品の代金は、シマァ国の造船所で作る大型船一艘で、と、いうわけにはいかんかね」と、提案された。
「ほうほう。随分と、夏希に都合の良い取引に成りよるわい。シェンハイめ。随分と、美人には弱いのう」と、再びアチャ爺がおどけながらシェンハイ様をからかった。「そりゃそうさ。美人に弱いのは、アチャ兄譲りだからのう。アハハハ…」と、シェンハイ様は、りっぱな黒髭をなでながら豪快に笑われた。それから「実は、この頼りないない我が倅、ウーハイへの遺産分けにしようと思いましてのう。どうですか、夏希様。大型商船を、一艘お願いできませんかのう」と、言われた。
夏希義母ぁ様は、驚きながらも、喜びに満ちた顔で「ありがとうございます。」と、深くシェンハイ様に頭を下げた。ので、慌てて、私と、須佐人も頭を下げた。アチャ爺は笑いながら、シェンハイ様の肩を叩いている。シェンハイ様は、小声で「アチャ兄よ。これで少しは昔の借りが返せたかのう」と、アチャ爺に囁かれたようだ。アチャ爺は「おうおう。十分じゃ」と、尚も笑いながらシェンハイ様の肩を叩いた。
すると、バイ・フー(白狐)様が手を挙げられた。そして、「我が家も、その条件に乗せて貰えませんか」と、言われた。皆がほうと、バイ・チュウ(白秋)様を見ると「この商談は、倅の初仕事なので、よろしくお願いします」と、頭を下げられた。「アハハハハ。もう一人美人に弱い海賊王がいたようじゃのう。チュウよ。すまんのう恩にきるぞ」と、アチャ爺が、チュウ様の肩も叩いた。
と、今度は「私は、ヒミコ様が乗ってこられた、あの外洋船が欲しいのですが。お願いできますか」と、東海の海賊王(海商)ジェン・センハイ(鄭森海)様が発言された。すると、「では、我々チュホの三氏族も、外洋船をお願いしましょうか」と、ガオ・ユェ(高月)様が、フー一族のフー・シュン(夫勲)様、リャン一族のリャン・チュル(梁乙)様を、見ながら言われた。そして、お二人も、ユエ様に同意の会釈を返された。
これで、復興の為の物資の代金は、すべて斯海国での造船で返すことに決まった。私は、あっけに取られ、この成り行きを聞いていたが「この商談の内容は、これでよろしいですか? ヒミコ様」と、ユエ様に声をかけられ、ハッと我に返った。そして、首露王を見ると、笑顔で頷いている。私は、その笑顔に安堵の吐息をつきそして立ち上がると「皆様ありがとうございました。これで倭国の復興への道が大きく開かれました」と、深く頭を下げた。その私の様子に、須佐人も立ち上がり、私と一緒に深く頭を下げた。
無事会議も終わりほっとした。そこで、今夜の宴会が始まる間までの時間を、ぶらぶらと散歩することにした。私が一人になりたい様子を察して、項家二十四人衆は遠くから私を警護してくれている。
少し陽が傾き始めた磯からは、漁を終えた海女達が上がって来た。そして、良く見ると磯着が濡れている。どうやらチュホ(州胡)の海女は、磯着のまま海に潜るようだ。私達南洋の海女は、海に潜る時には、セイジ以外何も身につけない。裸の方が、海中では動きやすいからだ。でも、チュホの海は冷たいのだろう。今の季節はまだ良いが、もうしばらくすると、裸では長く潜って居られなくなるのかも知れない。
私が軽く会釈をすると、海女達は顔を赤らめてうつむき、そわそわと村内に消えた。そして石垣の向こうから「キャ~ッ ヒミコ様に声を掛けられた~」と、はしゃぐ若い海女達の奇声が響いてきた。すると「なかなか、チュホの海女は、恥ずかしがり屋のようですなぁ」と、声がかかった。振り返ると、東海の海賊王センハイ(森海)様である。
「夷洲国(台湾)の海女は、積極派が多いのですか?」と、私が微笑ながら問い返すと「ヂュイェン(鄭朱燕)、いやチュヨンと呼んだがヒミコ様には分かり易いでしょうね。夷洲にも、我が妹チュヨンや、沫裸党の琴海のような強か者(したたか者)が揃っていますよ。流石に美曽野は、お転婆娘ではありませんでしたが、女王を務める位ですから、肝っ玉が大きいのは、間違いありません。兎に角南方の女は、強いのです。嗚呼いかんいかん、ヒミコ様も南方の女でしたね」と、センハイ様は、頭を掻きながら謝れた。
「良いですよ。本当のことですから。特に、私は強か者で評判です。小さい頃は、良く近隣の悪童供を泣かしていました。そして、その旅にアチャ爺が、謝りに行ってくれていましたから」と、笑って返した。「アハハハ。小さい頃のチュヨンと同じですなぁ。まぁ誤って回っていたのは、親父でしたがね」とセンハイ様も、懐かしそうに笑われた。
「嗚呼~チーロン様は、お亡くなりに成ったそうですね」と、私が改めていうと「ええ、チュヨンが亡くなって間もなくでした。あの鬼より怖かった親父が、チュヨンの死を聞いて、すっかり弱りましてね。母が亡くなった時は、私達兄妹を育てなきゃ成らないと思い、気が張っていたようですが、チュヨンを亡くすと、悲嘆にくれ憔悴し、まるでチュヨンの後を追うように逝きました」と、悲しげに話された。
でも、それからすぐ笑顔に戻り「しかし、琴海の幸せは、我が一族の者もみな喜んでいます。長く多くの不幸が続いていましたからね。香我美も、きっとあの世で喜んでいるでしょう。まぁチュヨンも、あの世で、チョンヨンの再婚を喜んでいるでしょうけれどね」えっ?! えっえっえっ???……首露王は、結婚したの? 誰と???……「あっヒミコ様は、ご存じなかったのですか? チョンヨンもひどい奴だなぁ。ヒミコ様のお導きで、ラクシュミー様と、お会い出来たのに」えっ?! えっえっえっ???……首露船長のお嫁さんは、ラクシュミー様なの。えっえっえっ???……ラクシュミー様が、ピョンハン国の王妃様なの???……じゃぁアルと、ラビア姉様はどうなったの???……と、その後のことは覚えていない。
⇒ ⇒ ⇒ 『第10部 ~ 春の娘 ~』へ続く
卑弥呼 奇想伝 | 公開日 |
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(その1)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 | 2020年9月30日 |
(その2)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 | 2020年11月12日 |
(その3)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 | 2021年3月31日 |
(その4)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第4部 ~棚田の哲学少年~ | 2021年11月30日 |
(その5)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第5部 ~瑞穂の国の夢~ | 2022年3月31日 |
(その6)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第6部 ~イズモ(稜威母)へ~ | 2022年6月30日 |
(その7)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第7部 ~海ゆかば~ | 2022年10月31日 |
(その8)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第8部 ~蛇神と龍神~ | 2023年1月31日 |
(その9)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第9部 ~龍の涙~ | 2023年4月28日 |
(その10)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第10部 ~三海の海賊王~ | 2023年6月30日 |
(その11)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》 第11部 ~春の娘~ | 2023年8月31日 |
(その12)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第12部 ~初夏の海~ | 2023年10月31日 |
(その13)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第13部 ~夏の嵐~ | 2023年12月28日 |
(その14)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第14部 ~中ノ海の秋映え~ | 2024年2月29日 |
(その15)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第15部 ~女王国の黄昏~ | 2024年4月30日 |
(その16)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第16部 ~火球落ちる~ | 2024年9月30日 |